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無力-9 [「無力」の本文]

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 空腹に苦しむ毎日が続いていた。ここに押し込められて二週間が過ぎたが、救援が来る気配もなかった。当初は、すぐにでも助けがくるという期待もあったが、今ではその事を口にする人もいない。経験したことのない不自由な生活と空腹で、部屋の中は静まり返っていた。加代の腕の出血は数日で止まり、痒みも少し治まったが、包帯は取らなかった。その傷は自分でも見たくなかった。食事は一日に三回出されるが、具の見えない雑炊がプラスチックのどんぶりに半分もなく、気のせいか、次第に水分の方が多くなったように思う。逃亡する体力が無くなってきたのか、銃声を聞くこともなくなったが、病死や不審死で校庭にある死体埋葬の小山は毎日増えていた。誰もが空腹で動きたがらないなかで、村上健一は3A教室の代表として交渉にあたっていた。食事の量と質を筆頭に、衣類、医薬品、日常雑貨と足りないものばかりだったが、改善されたものはなかった。トイレットペーパーがなくなり、特に女性は生理の始末に苦労していた。豊富にあるものは水だけだったので、下着を水洗いすることでしのいでいたが、二週間も風呂に入っていないので部屋の中は異臭がしていた。電気、ガス、水道というインフラに関する業務は継続されていて、その仕事についていた人は、それぞれの仕事場に通わされていた。それらのインフラ業務に従事する人の家族は一部屋に集められていて、食事の量も多いという噂があった。学校の外に出ることのできるそれらの人の話では、自分たちの住んでいた家には共和国の人たちが住みついているということだった。インフラの維持は人質のためではなく、新しい住人のために行われているらしい。
「本を借りたい人はいますか」
税務所の所長と言っていた榊原秀男は、経緯はわからないが、図書係を名乗って動きまわっていた。その横柄な態度と、他人を見下した話し方は変わっていない。取り巻きをやっている人たちが、苦手な読書に苦しんでいる様子を苦々しく思うだけで、本を借りようとする人はいなかった。
狭い居住スペースと暑さが、体力の消耗を加速させている。小さな病気が命取りになることもあるのに、学校内に風邪が流行っていた。加代のいる教室でも、二歳の男の子が熱を出して苦しんでいた。ところが、風邪がうつると榊原が騒ぎ出して、親子は人通りの多い廊下に追い出されていた。
村上健一がその子供の熱を抑えようと、タオルを冷やすためにトイレとの間を往復していて、敬子と加代も交代で協力していた。子供は泣く元気もなく、母親の腕の中で粗い呼吸をしていた。人質の中に村上の知り合いの医者がいたが、薬がなければどうにもならないと言われた。医薬品要求交渉はうまくいかず、村上はそのことを自分の責任だと感じていた。
「村上さんは、すごいと思います」
加代と敬子は廊下の窓から外を見ていた。
「倒れなきゃいいけどね。歳なんやから」
「そうですね」
「東京では、私たちがここにいることを知ってるんやろか」
「知っている、と思います」
「助けに来いへんのは、なんで。日本にも自衛隊がおるのに」
「わかりません」
「やっぱり。ますます悪くなるんやろね」
加代は返事に困った。ここでの生活が始まった頃に、食事の量があまりにも少ないので、自分の食事を敬子の二人の孫に分けてあげようとしたら、敬子に断られたことがあった。誰かの情けで生き延びることはできない。状況はもっと悪くなると思うから、孫たちにはこの現実に慣れてもらいたいのだ、と敬子が言ったことを思い出していた。二人はまた無言で外を見た。
この二週間に日本政府がどんな動きをしているのかは、全く知ることができない。多少の知識があった加代にも、自衛隊の出動がないという現実は受け入れられなかった。政府が国民を見殺しにするかもしれないという危惧があったから、叔父と町村はリークしようとしたのはわかっていたが、現実はあまりにも子供じみていた。評論家が後講釈で言う様に、民主党政権を選んだ国民が自分で自分の首を絞めたということなのだろうか。
「あれ。今日は調理場じゃなかったのかね」
敬子が同年輩の女性に声をかけた。
「ああ、おばんは、お払い箱や。どんどん若いのに替えられてるんや」
「なんで」
「ここだけの話やけどな」
その女性の話によると、別メニューを食べさせてもらうために、自分の肉体を提供しているらしい、ということだった。
「まさか」
「なにいうてんねん。こんなおばばでも尻触られたんやで。見えへんけどな、そこの林の向こうにプレハブがあってな。豪勢な食事が置いてあるらしいのや。食べ放題らしいわ。そこに行った人の話やから間違いない。そこで、何したんかは言わへんやったけどな。そんなもん、みえみえや。ほんま、あほらしい」
女性は、頭を振りながらトイレの方へ歩いて行った。
「やっぱり、ますます酷いことになるんや。私ね、ここで死ぬような気がしてんのや。初めてここに連れてこられた時に、そう感じたんよ。しゃぁないけど。あの子らが可哀相で」
「そんなこと、言わないでください」
「かんにんな。あんたに話かけたんも、あんたなら、あの子ら、守ってくれそうに思えたんよ。ずるい思われるかもな」
「もう、この話はやめましょう」
「ごめん。だれか、ほんまに、助けに来て欲しいな」
次の日の朝、廊下で二歳の男の子が息をひきとったが、その死に顔は優しかった。空腹や発熱の苦しみから逃れられたからだと、村上はその子を抱きしめていた。放心状態の母親を連れて村上は校庭へ出て行った。また、小さな土の山が増えることになった。しばらくして、叫び声とも泣き声ともわからない悲鳴が校庭から聞こえてきて、学校中が静まりかえった。その時は、蝉の声もなかった。
その日から村上が誰とも口をきかなくなった。

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 舞鶴への共和国軍の上陸から、十六日が過ぎ、危機管理室には当初の緊張感はなかった。そこにあるのは安全保障会議ではなく、連絡事務所の事務的な空気だけだった。毎日送られてくるファックスに書かれた物資の手配をすることが、その主要業務と勘違いしている人もいるのかもしれない。食料、医薬品、雑貨が、毎日山のように送り続けられている。米だけでも三十万トンを越えていた。常駐する出席者の数も減り続け、最高責任者である総理大臣の姿も今はない。政治家と官僚の資質で一番大切なもの、それは保身能力であり、彼らは保身術のプロであった。常駐せざるをえなくなった外務省の中田審議官は、「やられた」という気持ちを強くもっていたので、身内に対しては強い態度で臨んだが、そのことを咎める人はなかった。この二週間で危機管理室の皇帝に登りつめた中田は、もともと共和国ファミリーと呼ばれたグループの中心人物であり、その思考が共和国寄りになることは当然の結果であった。
「李宣昌です」
「中田です」
「実は、難問を抱えてましてね」
「李さんほどの方がどうしたのです」
「気が重いのですが、また、中田さんに助けていただきたいのです」
「遠慮せずにおっしゃってください」
「すみませんね。中田さんには何からかにまでお世話になって。実は、本国政府から、船を返せと言われているのです。我々は了解してもらっていたものと思っていたのですが、勝手に持ち出したと非難されてましてね。困ったことです」
共和国の公式見解は、一部反動勢力による暴挙とされているので、李宣昌の発言は筋が通っているように聞こえる。
「李さんは、どうしろと」
「お願いしたいことは、自由航行権です。わが国の船舶が日本海を航行する安全を保証していただきたい。もちろん、日本の領海内もです。別に条約にする必要はありませんが、総理大臣の許可と声明がいただければと。難しいでしょうか。この件がうまくいかないと、私の立場もうまくいきません。なんとか、お願いしたいのです」
「お困りのようですね。ところで、その自由航行権というのは、今回限りということでしょうか」
「いえ。人のやりくりもあって、一度に全部返すのは無理なんです。ですから、一年という期限付きでお願いできませんか」
「そうですか。総理に相談してみましょう」
「ありがとうございます。本当に助かります。この借りは必ず返しますから、なんとか、よろしくお願いします」
「明日、お電話ください」
「ありがとう。失礼します」
危機管理室が動き始めた時から構成員となっている、防衛庁長官と陸空の両幕僚長は信じられないという顔で聞いていたが、中田審議官は三人の方へ視線すら送らなかった。事務官に総理の出席を要請するようにと命じて、中田は書き物を始めた。同室していた人は、メモでも整理しているのだろうと思っていたが、それは総理の声明文下書きだった。
菅野総理はじめ、官房長官、外務大臣などの閣僚が次々に入室してきた。安全保障会議で定められた構成員が全員揃った訳ではないが、中田審議官が李宣昌の要求した内容の説明を始めた。
「条約を結べと言っている訳ではなく、あくまでも期限付きの暫定処置ですので、国会承認は不要と考えます。総理が声明を出して、防衛庁に下命していただくだけで充分でしょう。そのかわりに、両国政府の事務レベル協議を始めることを、こちらの条件とすればいいのではないでしょうか」
話し合いを始めるという条件は、総理大臣の最も希望する事項であることを中田審議官は知っていた。
「皆さんのご意見を伺いましょう」
菅野総理は、愁眉を開いたような表情で言った。やはり、事務レベル協議の開始ということが大変気に入った様子だった。
「事務レベル協議というのは、確かなのか」
津田官房長官が発言した。
「いいえ。まだ先方には言っていません。この条件が受け入れられなければ、総理の声明もないと突っぱねます」
「現状を打開するためには、動く必要があると思います」
芳賀外務大臣が言った。何人かの閣僚が同意を示すように、黙って首を縦に振っていた。
「私も、発言してよろしいでしょうか」
総理と衝突してから、全くと言っていいほど発言をしなかった井上防衛庁長官が手を挙げた。
「どうぞ。井上長官」
菅野総理は鷹揚に手を振って見せた。
「ありがとうございます。わが国と共和国は、現在戦争中ですが、このことは共通認識だと考えてもよろしいですね」
誰一人、同意も反対も表明せず、無言で井上長官を見ていた。
「戦争中の当時国が、敵に自分の国の領海を自由に航行させるなどということは聞いたことがありません。それと、条約ではないとしても、国会に計ることもなく、この場で決めるようなことではないと思われます」
「国会に上程したとしても、可決するでしょう。それとも、井上長官は反対票を投ずるということですか」
さすがに、総理の表情は硬かった。
「反対したいと思います」
「党から除名されても、ですか」
「はい。これはやってはいけないことです」
「君ね」
津田官房長官が、菅野総理と井上長官の間に割って入ってきた
「誰のおかげで、当選したと思っているのかね。そして、誰が長官に指名してくれた。本当に選挙民が選んでくれたなどと思っている訳じゃないだろうね」
「そのことを前提にしても、これはいけません」
「だったら、今、ここで、離党届を出したらどうかね」
「まあまあ。官房長官。そこまで言ったら実もふたも無いでしょう。井上長官もわかってくれますよ。我々は前に進まなければならないのです。どうしても、話し合いのテーブルにつかなければなりません。そうですね、皆さん」
総理のその発言で自由航行は決まった。中田審議官が声明文の下書きを読み上げて、それも了承された。

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海上自衛隊の斥候部隊の陣容は八十人を超えていたが、指揮は第一中継基地にいる倉持がとっていた。倉持より上位の士官は派遣されず、町村は倉持とだけ接触していた。倉持には、舞鶴に来た理由と退官した理由を話してある。退官して一市民となった町村に対して、得られた情報は全て開示してくれていたので、町村は三日に一度は基地に戻っていた。陸自の斥候部隊は全員撤退したが、福知山の第七普通化連隊にある情報センターは機能し続けている。陸自の別府一尉の要望で設置した監視カメラはおよそ五十台になり、その映像は福知山の情報センターに集約されていた。自衛隊は、舞鶴のほぼ全域を監視できる体制を作り上げていたので、どのような作戦の立案も可能だったが、まだ一度も実現していない。
「政府の方は変わらず、ですか」
「そのようです」
疲れた声で倉持が答えた。
「人質の人たちは、体力的にも追いつめられているように見えます。自分に見えている範囲では、充分な食事は取れていないと思います」
「そのようです。昨日、別の収容施設ですが、中まで潜入してきたのがいますが、その報告によるとドンブリに半分くらいの雑炊しか食べていないようです」
「毎日、宴会ができるぐらいの食料を渡しているのに、人質に渡っていないことを、政府は知ってますよね」
「もちろんです。これはサギですよ。国民の税金で我々は食べていて、国民は満足に食べていない訳ですから」
倉持が批判的なことを言うのは珍しかった。いつも冷静に見える倉持にもかなりのストレスが溜まっているのだろう。
「この前の自由航行の件は」
「また、やられたようです。敵は船積みで忙しくしています。昨日潜入できたのも、警備が手薄になったからだと思います。食料、車両、その他もろもろ。あらゆる物を船に積み込んでいます。これも、きっと予定通りなんでしょう」
「国民の生命と財産、何でもどうぞ、か」
「たまりませんね」
「船積みは、まだかかりそうかな」
「まだまだ、かかるでしょう」
町村も、警備が手薄になっていると感じていた。学校に潜入するチャンスかもしれない。
町村は自分の持ち場へと戻った。敵の哨戒ルートも時間帯も把握し、安全な経路を開拓していたので、誰とも遭遇することもなく岩場にたどり着いた。町村も何度か市街地に行ったが、寺の裏手に出るぐらいが限界だった。倍率の高い双眼鏡を手に入れてもらって監視しているので、双眼鏡の中だけの顔なじみがたくさんできていた。
寺の裏手から市街地の方へ続く道があるが、その道を利用しているのは双眼鏡で見慣れた母と娘の二人だけだった。二十歳前後の娘は上品な顔立ちの美人で、その母親と思われる女性はひ弱な感じの美しい人だった。何日かに一度だが、夕方になると二人で寺まで登ってきて、境内に座って、黙って夕日を見ている。あまり話しをしているところを見たことはないが、二人はつながっていた。あの国にも同じような寺があるのかもしれない。その望郷の思いが二人を動かしているのだろうか。二人だけを見ていると敵にはみえなかった。あの母娘が来ないようであれば、警備が少なくなっているという情報もあったので、寺からの裏道で市街地に侵入してみようと考えていた。
軍人による哨戒行動に変わりはないが、市街地に防御線を作っていた民兵の多くが海岸の作業に振り向けられているものと思われた。それでも、陸の孤島になっている学校の建物への潜入は難しいだろう。もっとも、目の前にある学校に加代がいるという確証はないままであったが、ここにいるという自分の勘を信じるしかなかった。
夕日が落ちても母娘の姿はなかったので、町村は山を下りた。寺の裏手で潜み、三十分は周囲の様子を窺い続ける。夏の残光でまだまだ明るい。三十メートル進んでは、十分間様子を見る。人声も人の気配も全くなかった。その道に分かれ道はなく、一方向にだけ続いていた。雑木林を抜けて、緩やかな勾配の道をさらに下って行くと、教会らしい尖塔が見えてきて、道はその教会の裏庭に直接つながっていた。町村は木立の中に身を潜めた。教会の裏に建物があり、その窓から灯りが見え、周囲が暗くなっていることに気がついた。なぜ、寺と教会を直接結ぶ道があるのかはわからなかったが、あの母娘以外に利用者がいない理由はわかった。二人はこの建物にいるのだろう。町村は教会の塀に沿って表に向かった。通行する人はいなかったが、教会は普通の一般道に面していた。位置関係から、その道は学校に通じている筈である。町村は道路に誰もいないことを確認して、道路を横切り教会の向かい側にある家の塀に背をつけた。普通の住宅街に、その教会はあった。家々からは灯りがもれ、市民生活が継続している空気が流れている。さらに、先へ進みたい気持ちもあったが、用心して教会の裏庭へ戻った。家々から灯りが消えるのを待ってからでも遅くはない。家の様子と道路の状況がわかる場所にある茂みに腰を落とした。道路に車が走っていないからか、住人が静かに生活をしているのか、虫の音しか聞こえない静寂の中にいた。そこに、かすかにバツハが聞こえてくる。町村は家の中を覗き見たい欲求を感じたが自制した。
午前一時を過ぎて、神経を張り詰めた状態で学校までの道をたどった。家々の灯りはなく、人通りもない。外に対する警備は厳重であったが、内に対しては、無防備とも言える。いつも反対側から学校を見ていて、見えなかった警備体制を見ることができた。学校への侵入も不可能ではないという確信を持った。

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 体力の衰えは日増しに進行している。加代は自分でも一回り以上痩せたと感じていた。だが、もともと体力の無い老人と幼児の衰弱は激しく、毎日病死者が後を断たない。無気力、無関心と苛立ち、そして怒りが並存し、自分のことしか考えない人が大半で、部屋の空気は澱んでいた。部屋の代表として、精神的な支えになっていた村上が口をきかなくなったことも、大きな影を落としていた。村上は敬子の励ましにも、力なく頷くだけで、立ち直る気配はなかったが、敬子は毎日村上に声をかけ続けている。
「こんな、ひどいことは、初めてやな」
動ける人が減り、人通りの少なくなった廊下の窓から山を見ていた村上が、珍しく口を開いた。
「そうね。いろいろあったけど、ほんとに最悪やわ」
「俺、頭、悪いから、わからへんけど、このままで、なんとかなるんやろか」
「うちにも、わからん」
「せやな。どうにもならん」
村上の全てを知っているわけではないが、これほど打ちのめされている村上を見たことがない。物心がついた頃からの付き合いなので、もう五十年になるだろう。村上が舞鶴から姿を消さなかったら、二人は結婚していたかもしれない。違う人生を歩いてしまったが、二人の間にある感情は、幼馴染というだけのものではなかった。敬子は村上を抱きしめてあげたいと思った。
「ケンさん」
「ん」
「あんた、なんか、変なこと考えとるんと違うか」
「変なことか」
「やめといてよ。うちは、あんたを頼りにしてるんやで」
「ん。ケイちゃんのことは、俺が守ったる」
そう答えながら、村上の頭の中では、何か別のものが動いている気配を感じて、敬子は身の竦むおもいがした。
その夜、村上が部屋を出て行ったことに敬子は気がつかなかった。村上はトイレの窓から雨樋を登って屋上に出ると、屋上の東端から欅の大木をつたって地上に降りた。自分が三年間過ごした学校で、優等生でなかった村上は、過去にも同じルートで学校を抜け出した経験があった。村上の出した結論は、自分一人の力では敬子一人でさえ助けることは難しいというものだった。この町で生まれ、この町で育った村上は、どこに何があるかがわかっているので、一人で逃げるのはそれほど難しいことではないと思っていた。今は、誰かの助けがいる時で、その上で敬子と二人の孫を救い出そうと思った。特に計画や目算があった訳ではないが、悩んでいる自分に愛想が尽きたというのが本心だった。山へ逃げ込む予定の村上は、学校の塀を乗り越えて、逆方向の市街地へ向かった。学校の南側は見通しがよく、危険だと判断した。真夜中の道路には人の気配もなく、西舞鶴教会にたどり着くことができた。教会の裏庭を抜けた囲碁道に入って、村上は地面にへたりこんだ。三週間もまともな食事をしていない。自分の体力の衰えが、人質になっている敬子たちの、特に子供の未来を暗くしていた。村上は気力で立ち上がった。もう何十年も来た事がなかった囲碁道だが、まだ道はのこっていた。子供の頃は、山に入る道としてよく利用した。教会の牧師と寺の和尚が囲碁仲間で、教会と寺を直結する道を、二人の宗教者が許可もないのに作ってしまったと聞いた。そこの林は市有地だったが、当時は誰にも咎められなかったらしい。地図にも無いし、多くの大人たちも知らなかったが、子供の間では有名な場所だった。囲碁道という呼び名も子供たちの間で使われていた名前だった。学校を抜け出すのに、エネルギーの大半を消費してしまったらしく、村上は這うようにして寺を目指した。
寺の裏側から雑木林を登り、大岩を目指す。昔はそこにも道があったが、最近では利用する人もいないのか、道らしきものは無くなっていた。木々に遮られて月の光も届かない暗闇を登った。山中であっても、音を出すことは死につながる。今まで銃はテレビの中のものでしかなかったが、校庭で日本人が射殺された現場を見て、銃の威力は半端でないことを知った。それでも、自分でもびっくりするぐらいの音に蹲る。大岩に出た時には全身から汗が噴出していた。粗い息をしながらも、睡魔に襲われる。体がエネルギー蓄積の時間が必要だと言い張っていた。人の気配を感じて目を開けたときには、背後から押さえつけられ、首には刃物の冷たい感触があった。
「くそっ」
体力の限界を超えて、やっとここまで逃げてきたのに。村上は自分に悪態をついた。
「日本人か」
顔は見えないが、背後の男が言った。
「日本人なら、どうした」
「名前は」
「村上だ。くそったれ」
「わかった。自分も日本人だ。手を放すけど、暴れるなよ。いいな」
刃物と男の体重が離れた。
「自分の名前は町村という。あの学校から逃げてきたんですか」
「そうだ。あんたはなにもんや」
「あの学校に大切な人が閉じ込められている。その人を助けたい」
「そうか」
危険な人物ではなさそうだと思ったら、村上の体から力が抜け、意識が遠ざかっていく。
「おい」
男に体を揺さぶられて、村上は目を開いた。
「あかん。少しだけ眠らせてくれ」

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 村上と名乗った男は、岩の上で固まったように眠っていた。ともかく、臭かった。警察犬でなくとも後を追うのは容易いに違いない。本当にあの学校から逃亡してきたのなら、情報が欲しかった。共和国軍が追跡犬を連れてきた様子はなかったが、用心のためにここを離脱する必要がある。伸び放題の髭を見れば、村上の憔悴は理解できたが、町村は一時間で村上を起こした。
「疲れているとは思うが、急いでここを離れたい。見つかれば、確実に殺される。わかりますか、すぐに出発しないと」
「わかった。その前に、なんか食うもんないか。力、でえへん」
町村が、いそいで携行食糧の「ピラフ」を容器に出すと、村上は噛みもせずに一気に飲み込んだ。それを見て、町村は自分の水筒を渡した。
「うまい」
携行食糧がうまいと感じるほどの食生活だったのだろう、と町村は悲しい思いだった。
「いきますよ」
「よっしゃ」
まだふらつく村上を抱えるようにして、山道を用心しながら基地に向かった。途中で何度も休憩をはさんだために、基地に着いたときには朝日が昇り始めていた。第二中継基地は岡の麓に隠れるようにして建っている農機具などを入れていた小さな小屋だった。その小屋に着くなり、村上は倒れこみ、そのまま眠ってしまった。町村は床板を外して、その中に村上の体を引きずりこみ、床板を元に戻して村上の横に腰を下ろした。床下は藁が敷いてあり、ベッド代わりになる。臭いは強烈だが、隠しておいた拳銃を手にして、柱を背にして目を閉じた。眠るわけにはいかないが、目を閉じているだけでも、体は休まる。
 三時間待って、町村は村上を起こした。
「ここは」
「大丈夫だ。まだあの連中もここまでは来ない。舞鶴と綾部の中間にある小屋です」
「そうか」
「疲れてると思うが、話してくれませんか」
村上は素直に経緯を話してくれた。それは、町村が想像していた状況を超えていた。町村はポケットから写真を出して村上に渡した。
「この人を見かけませんでしたか」
「これは、北山さん、だろ」
「いたんですか、あの学校に」
「ああ、同じ部屋に。さっき話した敬子が一番親しくしてた人や。ヘリが墜落して、腕に怪我をしてたな。でも、いい人や。この人が救いたい言うてた人か」
「そうです」
「そうか。これで、仲間ができたな。ところで、あんた、なにもんや」
村上は、町村のベルトにある拳銃に目をやりながら訊いた。
「これは、借り物です。自分は一週間前までは、海上自衛隊におりました。辞めました。この人がヘリに乗ったのは自分のせいなんです。どうしても助け出さなきゃなりません」
「そうか。せやけど、日本の自衛隊はどないなってんねん。なんで、救出に行かへんのや」
「はあ」
「どないしたんや」
「ほんとは、守秘義務があって言えないのですが、話します。できれば、あなたの胸の中にしまっておいてください」
「わかった。約束しよう。でも、俺に話をすれば、その守秘義務には違反なんやろ」
「それは、腹くくってます。あなたは、その三人を助けたい。自分はこの人を救出したい。自分にはあなたの協力がどうしても必要だということです」
「すまんな。実は、俺も一人で三人を連れ出す力がなかった。誰かの助けが必要やった。あんたが仲間になってくれたら、ありがたい」
町村は、要点だけだったが、その日までの日本政府と自衛隊の動きについて話をした。加代がヘリに乗って墜落する原因を作ったことも話した。
「今起きているこの事態が戦争なのか。この基本的なことを日本政府は、あえてわかろうとしていないように思えるのです。戦争はいけない。武力は悪だ。だが、自国民が犠牲になることは構わない。怖いのは、そのことを本気で信じている人がいるということです。共和国の人たちは、同胞が何百万人も殺された過去があるから、日本人を何人殺しても正義なのだと教え込まれています。日本政府にも、その論理を容認している人たちが大勢いるのです。あなたは、自衛隊はどうした、と言いましたよね。自衛隊は自分では動けません。総理大臣の命令がなければ、一人の兵士たりとも動けないのです。大半の自衛隊員は申し訳ないと感じています。自衛隊員の仕事は、国民の生命を守ることだからです。あなたの話からも、すでに全体の死者は千人を超えているのではないかと思えます。それでも、自衛隊には何もできません。本当に申し訳ないと思っています」
「まだまだ、犠牲者は増えると」
「増えます。多くのチャンスを逃がしてしまいました。時間が経てば経つほど、犠牲者は増えます。すでに、あの校舎にも爆弾が仕掛けられています。救出作戦が実行されたとしても、何人の人を救うことが出来るのかわかりません。さらに共和国軍は、舞鶴の防衛体制を確立したら、次の行動に移るでしょう。それを防ぐ手段は、現状ではありません。あなたたちと同じ境遇に立たされる人が増え続けるということです」
「それであんたは、国に頼るのをやめた」
「他に選択肢がありませんでした。彼女に死なれたら、自分の人生は成り立ちません」
「総理大臣の奥さんとか娘さんが人質になっていても、何もしなかったんやろか」
「わかりません」
「ところで、あんたに仲間はおらんのか」
「いません。海上自衛隊の部隊が協力してくれていますが、彼らに死んでくれとは言えません。自分の力だけです。あなたが一緒にやってくれるなら、二人で四人を救出することになります」
「俺はやる。けど二人じゃ無理やろ」
「誰か、心当たりでも」
「二人の子供の両親や。あの二人なら、やるやろ」
「連絡が取れるのですか」
「父親は単身赴任で、母親も仕事をしとる。二人ともまともな奴や。会社の名前からたどれば、なんとかなると思うんや」
「村上さんは、お仕事は何を」
「俺か。あの町で小さな道場をやっとる。空手と合気道の」
「そうですか」
「あの子らの父親も、俺の弟子やった。根性はある思うわ」


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