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無力-15 [「無力」の本文]

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 危機管理室には、不自然な沈黙が流れた。政府首脳席にいる多勢の人に不安を与える流れになっている。保身本能が全機能を動員して働いていたが、出口が見つからない不安で一杯だった。
根岸の席へメモが届けられた。
「皆さん。各テレビ局は独自の世論調査を、この放送と並行して実施しております。それによりますと、このクーデターを支持する意見が圧倒的多数を占めています。調査の手法や設問に違いはありますが、支持すると答えた方が、少ない局で88パーセント、多い局は96パーセントになっています。とても信じられない数字ですが、菅野総理はどう思いますか」
「私は、世論調査を信じておりません。この放送を見ての回答だと思いますが、ただただ感情的になっているだけだと思いますよ。感情と武力が一緒になった時は、決して良い結果にはなりません。どうして、わからないのです。我々は、もっとあの戦争に学ばなければなりません。どんな結果になりましたか。日本に壊滅的な崩壊をまねきました。それだけではありません。他の国にも大きな犠牲を強いたのです。自衛隊が敵だと言っている共和国を例に取ってみましょう。先の大戦で、何十万人という共和国の人が犠牲になりましたよね。この事件で犠牲になっている日本人は、人質を含めても数万人にすぎません。当然と言えば当然なのかもしれません。過去に犯した日本人の罪を、償っているのです」
「ちょっと待ってください、総理。総理はこの戦争が正当なものだと言われるのですか」
「正当だとは言っていません。ですが、相手の立場に立てば、致し方の無いことだと思います」
「先の戦争とこの戦争を同じ土俵で論じる訳にはいかないと思いますが、総理は日本人の犠牲はやむを得ないことだと」
「我々日本人は、この苦難を乗り越えなければなりません」
加代が立ち上がり、ふらつきながら壁際に立っている自衛隊員に近寄って行った。厳しい表情だった隊員の顔が戸惑いの表情に変わった。
「銃を」
加代は両手を出しながら、さらに近寄って行く。隊員は銃を自分の胸元に抱き寄せて、威圧感に押されるように後ろへさがった。
「銃を」
加代は隊員の抱える自動小銃に両手をかけた。隊員は日頃の厳しい訓練を忘れてしまったのか、ただ体を強張らせ、安藤一佐と稲本幕僚長へ視線を走らせた。稲本幕僚長が小さく頷くのを見て、隊員は自分の銃から手を離した。
「皆さんには、私たちを救出するつもりはなかったのですね」
銃を両手で抱えた加代が、菅野総理の方へ向き直って静かに言った。右手の人差し指はトリガーにかかっている。
「菅野さん。あなたは、日本人の犠牲者は致し方がない、と言いました。それほどの信念がおありなら、どうしてご自分が人質になって犠牲者にならないのです。公開処刑の柱に縛られることは、あなたにとっては望むところでしょう。それとも、口先だけですか」
無音になった室内に自動小銃の連続音が響き、加代は銃の反動で転倒し、銃弾は天井にめり込んでいった。全弾を撃ちつくして、音が止まった。
「弾を」
壁に背中を預けて立ち上がった加代は、隊員に弾倉の交換を要求した。隊員は銃を受け取ってマガジンの交換をすると、初弾を送り込んで加代に渡した。
「ここを、公開処刑の場とし、そちらの席にいる人は全員処刑します。一人ずつ、あちらのドアの前に立ってください。総理大臣は最後にします。総理大臣の次に偉い人は誰です」
政府首脳席の視線が、津田官房長官へ集まった。
「あなたですね。お名前を聞いておきます」
「ばかもん。こんなことが許されるか」
「舞鶴では、皆、そう思っていましたよ。お隣のお二人に連行係をお願いします。お二人は処刑しません。ドアまで引きずってでも連れて行ってください」
加代から連行係に指名されたのは、副官房長官と総務大臣だった。三人の格闘が始まったが、津田官房長官は引きずられて、泣きわめいていた。死にたくないと叫んでいた。副官房長官と総務大臣は自分が生き残れるチャンスを逃すまいと必死である。津田官房長官のズボンは失禁で濡れていた。
「菅野さん。あなたが皆さんの命乞いをされるのなら、あなただけを処刑するだけにしますが、どうされます」
格闘している三人の動きが鈍くなった時に、加代が菅野総理を冷酷な目でみつめながら言った。三人の動きが止まり、全員が総理大臣を見つめた。「総理」「総理」という叫びが沸きあがり、室内が騒然となった。
「私の体を支えて」
加代は小さな声で横にいる隊員に言った。
「わかりました。引き金はすぐに離してください」
背中を隊員に支えてもらっていたのに、銃口は天井に向いてしまったが、銃声で室内は静かになった。
「菅野さん」
加代は総理大臣に回答を督促した。
「断る。そもそも、なぜ、急に処刑なんだね。武器で脅かされて、はいそうですかと言える訳がない。なぜ、私が殺されなければならない。絶対に断る」
「そうですか。では、順番にしましょう」
落胆のため息が聴こえ、津田官房長官が暴れ始めた。
「どなたか、紐を持っていませんか」
テレビクルーの一人が、予備の電線を手にして振って見せた。
「あの二人に渡してください」
電線を受け取った副官房長官と総務大臣が、無我夢中で縛り、津田官房長官の動きが止まった。二人の男が、加代の方を見て、これでいいかと言う仕草をした。加代は銃口を上に向けて、ドアの上にある金具を指した。
「助けてくれ。死にたくない。頼む。私は総理の言う通りにしただけだ。いやだぁぁぁ」
津田官房長官の泣きじゃくる声は、子供のようだった。
「頭の上を撃たせて」
加代は小声で後ろの隊員に頼んだ。背中から隊員の両手が伸びてきて銃身を掴む。加代はトリガーにかけた指に力を入れた。銃弾は津田官房長官の頭上を横一線に薙いで、甲高い悲鳴が聴こえ、津田官房長官が気を失ったようだった。
「目を覚まさせて」
加代が大声を出して、二人の連行係の男に命じた。二人の男が駆け寄り、大声で名前を叫びながら、ありったけの力で津田官房長官を起こしにかかった。
「あの人は、津田官房長官ですね」
加代は、背中を支えている隊員に尋ねた。
「そうです」
「津田さん。失敗しました」
目を覚ました津田官房長官は、意味不明のうめき声を出した。
「あなたの順番は最後にします。次の順番はあなたが指名してください」
「わかりますか。あなたの順番は最後になりました。次の人を指名してください」
津田官房長官は安堵のあまり、大声で泣きだしてしまった。
加代は天井に向けてトリガーを引いた。銃声で津田官房長官の泣き声が止む。
「津田さん。次の人を」
「総理。菅野総理大臣を」
「わかりました」
菅野総理は自分の前にある机によじ登り、逃げ場を求めた。出口のない危機管理室の中を、菅野総理が逃げ、副官房長官と総務大臣が追った。次第に追う人間が増え、菅野総理は部屋の片隅に追い詰められた。
菅野総理は床に伏せて、嫌々をしながら「やめてくれ」と泣いていた。
加代は銃を隊員に返し、自分の椅子に這うようにしてたどり着いた。余りにも疲れていて、目を開けていることも辛かったが、未だに舞鶴で苦しんでいる人たちのことを思えば、決着をつけるまでは意識を失う訳にはいかなかった。

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部屋の中が落ち着くには時間が必要だった。稲本幕僚長にとっても、思いもよらない展開だったが、証言者として北山加代をこの場に連れ出すことに執着した甲斐があったと思った。このような展開は、北山加代以外には実現しなかったであろう。ほぼ、流れは決まった。政権の交代は実現する。だが、一番難しい問題が残っていた。
根岸アナウンサーも騒ぎが治まるのを待っていた。至近距離で自動小銃の発射音を聴くことになるとは思ってもいなかった。自分がどうしていたのかを憶えていない部分もあるが、事態の推移は冷静に見ることができた。特に、北山加代の真剣な表情は強い印象で残っている。本当に射殺するだろうと信じるに足る迫力があった。政権を担当する男たちの無様な様子がテレビを通して全国に放送され、本物の信念を持ち合わせていない口先だけの詐欺師だったことが証明された。政治家なのだから仕方がないのかもしれない。
処刑執行人の加代が銃を手放して席に戻ったのを見た政府首脳は、呆然としていた。頭脳明晰な高級官僚たちは、この処刑騒ぎが脅しにすぎないことに気づいたが、その失点を回復する方法が無いことにも気づいた。フル回転した彼らの頭脳は、死を回避できたことを「良」とし、責任は全て政治家にあるという流れを変えてはいけないと瞬時に判断した。あとは、嵐が過ぎ去るのを待てばいい。それなら一番の得意技であり、失敗することなどありえなかった。各省庁から参加している官僚が自分を取り戻し、室内は徐々に落ち着きを取り戻していった。
床に倒れている菅野総理と津田官房長官の二人を除いた者は、政府首脳席に大人しく座っている。
「すみません。どなたか、お二人を席の方へ」
根岸アナウンサーの要請に応じたのは、開き直った副官房長官と総務大臣だった。菅野総理と津田官房長官の政治生命は終わったという判断だったのだろう。国のためにと明言して職についている政治家と官僚が、他の誰よりも自分の立場を守ることを最優先事項としている。人間である以上、自己保身本能が最強の本能であることには違いないが、建前と本音が違いすぎるのも好ましいものではなかった。
「皆さん。ここでの話し合いは終わったわけではありません。北山さんは、舞鶴で人質になっている方の現実を再現していただいた、と理解させてもらいます。犠牲者が出なかったことに感謝します。政府の、余りにも現実から遊離した考え方と、その幼稚な本質が全国の視聴者の皆さんに見ていただけたものと思います。従いまして、自衛隊の要求であります現政府の退陣と新政府の樹立について、世論調査の時間を持ちたいと思いますが、異存のある方はご発言ください」
根岸は、単なるインタビュアとしての立場を放棄して、議長役をやるつもりだった。中立公平を保つ積もりではあったが、人間である以上、多少の個人的見解が入ることは仕方がないと、腹を括っていた。自衛隊の武田という士官と事前打ち合わせをした時に、武田から要求されたのは、国民の声の収集だった。各局は、電話会社を巻き込んで様々な方法で国民の意見収集に力を入れている。感情が優先しているので公平とは言いがたいが、数字を出すことに意味がある。根岸は、感情を表に出さない自衛隊の稲本幕僚長の表情をうかがった。この男は政治家に負けない策士なのかもしれないが、この難局はこの男に託すしかないのではないかと思う。
各テレビ局の放送を写し出しているモニターには、リアルタイムで意見集約の数字が出ていたが、圧倒的な賛成意見の勝利だった。
「幕僚長。国民はこのクーデターを支持しています。自衛隊の見解を話していだだけますでしょうか」
「本来、我々が政権に口を出すことはいいことではありませんが、緊急時ということでお許しください。我々は、中原誠司議員が引き受けてくれることを希望しています。ただし、我々の提案を採用してもらうことが条件になりますが」
「自民党ではないのですか」
「民主党が変わらなければ、日本は再生しないと思っております」
「中原議員に連絡させてもらってもいいですか」
「お願いします」
スタッフの一人が、急ぎ部屋を出て行った。
「我々の提案を聞いてください。実は、全国の皆さんにはこの提案を、ぜひ、聞いていただきたいのです。総論賛成、各論反対では困るのです」
「お伺いします」
「先程もお話しましたが、これは新しい犠牲を出さないためのものです。ですから、他人事と思わないで欲しいのです。口先だけの賛成では困ります。中原議員の賛同も必要ですが、国民の皆さんのご協力がなければ成り立ちません」
「国民の協力ですか」
「舞鶴には、四種類の人たちがいます。共和国軍の軍人、共和国の民間人、党の政治局員、そして日本人協力者です。指揮を執っているのは、政治局員と日本人協力者です。軍人は、共和国内で不穏分子という疑いのある人たちで、民間人は口減らし政策の犠牲者です。民間人と言っても軍事訓練は受けていますので、日本の民間人と同じではありません。現時点で人質救出作戦を実行した場合の被害想定をしますと、人質になっている日本人の半数、共和国側の半数、そして自衛隊にも多数の死者が出るでしょう。北山加代さんの話でもわかるとおり、死者だけが犠牲者ではありません。人質の方は生き地獄にいるのです。この事態を放置して、あらたな犠牲者が五万人になり、十万人に増え、百万人になることもありうるのです。犠牲者が増えることを阻止するための作戦ではありますが、双方を合わせて二万人以上の死者を出すのは耐え難いことです。そこで、我々の独断ではありますが、和平交渉をしました。相手は共和国軍の指揮官です。我々が提案した和平条件は、共和国の軍人と民間人に日本国籍を与え、日本での永住権を獲得してもらうというものです」
「少し、お尋ねしていいですか」
「どうぞ」
「日本人協力者と言うのは、在日と呼ばれている人たちですか」
「いいえ、違います。この作戦には在日の人は一人も参加していません。純粋な日本人です」
「もう一つ。政府が出来なかった和平交渉が、何故自衛隊に出来たのですか」
「それは、大きな幸運に恵まれたおかげですが、命がけで現地に張り付いていなければ出会うことの出来ないものでした。この危機管理室で議論をしているだけでは、何も生まれません」
「で。その和平交渉は成立したのですか」
「いいえ。まだ成立したとは言えません。日本が正式に和平条件を保証しなければなりません。そのために新政権が必要なのです」
「共和国の人たちを受け入れるということですね」
「そうです。文字通り、受け入れるのです。政府が日本国籍を与えただけでは駄目なのです。彼らが、この土地で未来永劫生活ができなければならないのです。そのためには国民の皆さんが彼らを受け入れる必要があるのです。このことを是非、理解して欲しいのです」
「でも、既に千五百人の日本人が犠牲になっていますが」
「その通りです。そのことを含めて受け入れる必要があるのです。感情としては受け入れ難いことではありますが、それを飲み込む度量が求められています。これは、大事業です。被害者になるのは嫌だが、自分の権利を奪われるのも嫌だと言う風潮が強く、日本人は誰もが官僚化しています。このような精神基盤では、この大事業は成り立ちません。あなたの町で、あなたの村で、彼らが生活できる基盤を提供して欲しいのです。共和国で漁業に従事していた人に対して、あなたの漁協で受け入れてください。国と自治体と住民が彼らの生活を軌道に乗せる責任を共有するのです。国民の一人一人に身銭を切って欲しいのです。今の日本は、総理大臣を筆頭に、自分さえよければ、という貧しい精神構造の上に立っています。世界が日本をどのように見ているかを、知っている人は多くありませんが、日本はいずれ自己崩壊するだろうという予測をしています。その根拠は何だと思いますか。人心の荒廃だそうです。日本で一週間、市民生活をすれば、それがよくわかるそうです。この戦争が、日本の崩壊を回避するきっかけになれば、犠牲者の死も無駄にはならないのではないでしょか。我々が、国民に理解を求めているのは、言葉での理解ではないのです。あなたの家に、共和国人の家族を受け入れてくれるかどうかを聞きたいのです。寝る場所も、食べるものも分け合って欲しいのです。受け入れるということは、そういうことなんです。世論調査にこの項目を加えていただきたい」
「わかりました。自分の家に共和国の家族を受け入れるかどうか、ですね」
各テレビ局は、設問の変更作業に全精力を注ぎ込んだ。他局に負けるな、が共通の意識のようである。危機管理室の視線もモニターに集中した。調査の方法は大きく分けて、投票方式と電話による調査方法の二つに集約されるが、それまでの設問では回線の許容量を超える反響があった投票方式の調査に異変が起きていた。全く数字が伸びない状態が続いている。「YES」も「NO」も同数程度だが、意思表示をしない圧倒的多数から見れば、それは誤差範囲程度の投票でしかなかった。ジリジリとした時間が過ぎ、電話調査の暫定結果が出始めたが、「わからない」という回答が九十五パーセントを超える結果となった。どの局の数字も大差は無く、九十五パーセント台の小数点の差があるだけだった。
中原誠司議員が官邸に到着したという知らせがあったが、別室で待機してもらうことになった。
「幕僚長。結果は、ほぼ見えましたが」
「そのようですね。残念ですが、このクーデターは失敗に終わりました。我々は縛に付き、菅野総理に施政権を返上しなければなりません」
「待ってください。全てが元に戻るということですか」
「そうです。国民の支持を得られないクーデターは軍事独裁政権になるしかありませんが、自衛隊にその力はありません」
「舞鶴の人質はそのままで、新しく占拠される地域が出ることも阻止できないのですか」
「仕方ありません。それが、国民の総意ですから」
「そんな」
「大勢の隊員を巻き込み、民間人の北山さんまで巻き込んでしまったことを、深くお詫びしたいと思います。ここからは、警察庁にお願いするしかないでしょう」

62
 危機管理室のドアに、携帯テレビを手にした中原誠司議員が現れた。
「待ってください」
「あなたは」
根岸は混乱した頭を振って、ドアのところに立っている男性に声をかけた。
「中原です。私にも参加させてください。その権利はあると思いますが」
孤立無援になっている状態の根岸には、どんな援軍でも欲しかった。
「幕僚長。中原議員の話を聞く必要があるのではありませんか」
「わかりました。どうぞ」
稲本幕僚長は、北山加代の横の席を手で示した。
「ありがとうございます」
席についた中原は、頭を下げた。
「どうぞ」
「実は、民主党内でも、菅野総理のやり方に批判が続出しております。国の責任は、国民の生命と財産を守ることだと、誰もが理解していますが、菅野内閣はその最重要の責任を果たしていないという批判です。民主党が分裂寸前だと言っても過言ではありません。ここで、政党内部の事情について言及する必要はありませんが、実情を知っておいていただきたいと思います。ところで、世論調査の件ですが、ノーの回答が多かったわけではありません。答えられないという回答が圧倒的な多数意見でした。このことは、致し方のないことでもあります。考えている時間が無い状態ですから、正直な意見だととらえるべきでしょう。イエスやノーが多数でなかったことが正常な意見の反映だと思います。そこで、私に一つ提案があります。我々国会議員は立法府にいます。住民立ち退き法案を成立させて、特定の地域から日本人を強制退去させます。それは、東京都でもいいですし、伊豆半島でも、四国でも、九州でもいいのです。そして、その土地で共和国の人たちに生活を始めてもらいます。自発的に判断できないのなら、強制的に命令されても仕方がないでしょう。そのような無謀な方法を採用してでも、現在の状況は変えなければなりません。これ以上国民を見殺しにしてはいけません。強制退去と言っても、殺したり収容施設に拘束したりする訳ではありません。退去を命じられた住民が不利益を蒙ることにはなりますが、それは国民が自分で選択した結果ではないでしょうか。一つの不利益を避けるために、十の不利益に遭遇してしまうことは、世の中ではありうることなのです。国民の意識にこの難局を乗り切る気概がないのであれば、使ってはならない国家権力も使わねばなりません。殺されたり、人質として拘束されるより、はるかに望ましいことだと思います。ですから、和平交渉は成立させていただきたい」
「そのような法案が国会を通過するのですか」
「これは、政党の問題ではありません。議員の資質が問われる問題です。記名式投票で全員の氏名を公表します。反対票を投じるのは、退去地域に指定された議員と日本を売り渡してもいいと考えている議員でしょう。必ず成立します」
「私は、賛成票を入れます」
井上防衛庁長官が、右手を高く挙げた。井上長官に続いて、右手を挙げる人が続出し、政治家の本能が、中原議員を勝ち組と認める結果になった。菅野総理と津田官房長官の二人を除き、全閣僚が賛成の意思表示をしたことになる。
「稲本幕僚長にお願いしたい。是非とも和平交渉を成功させていただきたい。この機会を逃せば、もう二度と和平は期待できません。共和国は、領土も財産も欲しい時に欲しいだけ手に入れることが出来るのです。こんな美味しい話は世界中どこを捜してもありません。日本という国が没落していくことを、世界はただ見ているだけでしょう。いえ、喜ぶ国さえあるでしょう。自分の国は自分で守らなければならないのです」
この頃から、投票方式の世論調査が活気づいた。
「中原議員。ありがとうございます。政治家の方の協力があれば、この和平交渉も意味のあるものになり、多くの生命が助かります」
「とんでもありません。自衛隊の働きが無ければ、日本はまだ泥沼の中です。引き続き和平交渉に全力をお願いいたします」

63
 加代が証言者の席から解放されて、病院に戻ったのは深夜だった。警護をしてくれた隊員に体を支えてもらって、ベッドに倒れこむようにして横になり、服のまま眠ってしまった。
目を覚ますと、母が加代のベッドにもたれて眠っていた。自分も大変だったが、母にも苦労をかけてしまった。母が加代に付きっきりになっているので、父は不自由しているのだろう。
頭の中の霧が晴れたような、不思議な感覚がする。昔の自分に戻ったのか、新しい自分になったのか。昨日、危機管理室で手にした銃を撃った時、それまで空ろに見えていた現実がはっきりと見えてきた感じがした。自分の足が地面をしっかりと踏みしめている感触がある。
「かあさん」
「加代」
目を覚ました母に、加代は笑顔を見せた。
「あら。眠っちゃったみたい」
「ごめんね。心配かけて」
「加代」
母の真理子は、ほんとに久しぶりに、加代の笑顔を見た。目にも力がある。どこかに行ってしまいそうだった我が子が帰ってきてくれた。目の前が涙で揺れている。
「私、お腹減っちゃった。何か美味しいものが食べたい」
「そう。何か買ってくるわ」
「うんん。どこか、食べに行こう」
「外に」
「この辺に、美味しいレストラン無いのかしら」
「わかったわ」
「シャワーしてから」
母は元気に部屋を出て行った。加代はベッドから降りて立ち上がったが、体がふらつく。そういえば、昨日は何も食べていない。食事の量が少ないことには舞鶴で慣れたが、絶食はさすがにこたえるみたいだった。ゆっくりとバスルームへ行き、服を脱いだ。病室なのに、ホテル並みのバスルームで、大きな鏡に自分の姿が映っている。ここまでダイエットをしたのは、生まれて初めてだった。「別人みたい」と思った。加代は、ゆっくりとシャワーを楽しんだ。
母は警護の自衛隊にも話したようで、私服に着替えた二人の隊員が車椅子を押して警護についてくれた。病院は官庁街の中にあり、暑いビル街をビジネススーツの男たちが忙しそうに行き交っている。近くのビルの地下にあるレストランが美味しいフランス料理を食べさせてくれるらしい。四時という時間から、レストランは空いているだろうと思ったが、ほぼ満席に近い状態だった。病院からの依頼があったようで、奥まったテーブルに案内される。仕事がらみの客が多いのか、女性客は少なかった。警護の二人にも横のテーブルで食事をしてもらう。コース料理の肉で四人分をオーダーした。レストランに食事に来るのは何年ぶりだろうという感じがする。視線を感じて周囲を見ると、スーツ姿の男たちが、加代の噂をしているように見えた。昨日の放送で有名人になってしまったらしい。化粧は苦手だったが、外に出る時は化ける必要があると思った。
料理はどれも美味しかったが、小食に慣れてしまった胃は途中で受け付けなくなってしまった。
「無理しちゃだめよ」
久しぶりに娘と食事ができると言って、母はおいしそうに完食しょうとしている。はやく体力を取り戻したかったが、加代は途中でフォークを置いた。
黒服に蝶ネクタイの店員と口論しながら、ジーパンにTシャツの若者が歩いてくる。
「とまりなさい」
警護の女性隊員が、片膝立ちで銃を向けた。若者はポケットからナイフを取り出し、無表情でさらに近づいてくる。銃声が鳴り、若者の膝から血が飛び散り、膝を撃ちぬかれた体は前のめりに倒れた。隊員は素早く動いて、若者を制圧した。
「誰も動かないでください」
凛とした隊員の声が響く。別の隊員が携帯電話で上官への報告と警察への通報をした。加代は席を立って、恐怖で震えている母の体を抱き寄せた。
警察と自衛隊が同時に雪崩れ込んできた。レストラン内は騒然とし、自衛隊員の群れに囲まれて、加代と母はビルの外へ逃れた。
一時避難として防衛庁敷地内に、加代を乗せた一団の車列が入っていった。警護を担当していた陸上自衛隊特殊作戦群には動揺があった。証言者である加代の動向が敵に漏れていて、襲撃者を近づけてしまった。警護の隊員の冷静な対処で事なきを得たが、警護体勢に不備があった事実は重大である。安全確保のために市谷に駆け込んだものの、警護隊は臍を噛む思いだった。
長官用応接室に入った加代と母の真里子のところへ、北山本部長が来てくれた。
「叔父さま」
「大丈夫か」
「私は大丈夫。母が」
「真里子さん。申し訳ない」
「大丈夫よ、健一郎さん。びっくりしただけだから」
「残念だが、しばらく避難生活をしてもらわなければ」
「わかってるわ」
「叔父さま。私、舞鶴に行きたい」
「・・・」
「この目で確かめたいの」
「でも、大丈夫なのか。まだ、体力も無さそうだし」
「しっかり、食べますから」
「ん。まあ。向こうには町村君がいるし、陸自も展開している。かえって、安全かもしれん」
「私はもう大丈夫だから、母には家に帰ってもらおうと思ってるの。私のせいで、一度も帰っていないから、父が可哀相。出来れば、母の方の警護を」
「加代」
「大丈夫よ、お母さん」

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