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無力-1 [「無力」の本文]


長梅雨の予測が出されていたのに、日中は初夏のような日差しが続き、その暑さはまだおさまっていなかった。お茶の水駅のホームで、加代は上着を脱いで腕にかけた。丸みのある顔に、いつものような柔らかい表情はなく、目は遠くを見つめている。上着を脱いだほうが、その均整のとれたスタイルが強調され、男達の視線が注がれていたが、気がついていないようだった。電車がホームに入ってきた音に反応して、中央線の車内に乗り込んだ。
加代は人事異動の内示のことで、まだ悩んでいた。叔父の北山健一郎は、自衛隊統合参謀本部の本部長職にあり、多忙をきわめている。そんな叔父が加代と食事をする時間だけは苦労して作っていることを知っているので、中止にはできなかった。三年前に叔母が亡くなり、気落ちしていた叔父を元気づけようと、一緒に食事をしたのがきっかけで、この三年間はほぼ定期的な行事になっていた。子供に恵まれなかった叔父夫婦は、加代が生まれた時から自分達の子供のように接してくれていたので、一人残された叔父を放っておくことはできなかった。加代の人事異動は、その叔父に関係したものだった。
レストラン・ミルは、上智大学の横から少し入り込んだところにあり、年配のオーナーシェフが家族だけで営業している目立たないレストランだった。常連客の溜まり場になっているような店だったが、料理は加代の口にあっていた。
「いらっしゃいませ。お待ちですよ」
一番奥の席で叔父は本を読んでいた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
「元気、無いな」
「ええ」
料理はいつもシェフのお勧めと決まっているので、オーダーの必要はなかった。
「今日は、初めて加代の難問を聞かされそうだな」
加代は元気のない笑顔を返した。
「食事の前に話を聞くよ。そんな顔で食べたら美味しくないだろう」
「怖い顔、してる」
「悲しい顔かな」
「かも」
「町村君と何かあったか」
「うんん。私、社を辞めなきゃかも」
「おい。穏やかじゃないな」
加代は、昨日あった人事異動の内示の話を切りだした。日日新聞社の総務部に勤めて六年になるが、企画部五課への配置替えだった。
「で」
「企画部は三課までしかないの」
「それで、五課」
「柳原さんに聞いてみた」
柳原は叔父の友人で、正式の役職は持っていないのに発言力はあるらしく、見えない権力者とも言われている。
「安全保障研究チーム」
「ほう」
「私が叔父さんの姪だということを誰かが見つけたそうなの」
「柳原は言わないだろう」
「名前は言えないと。でも追認はせざるをえなかったと」
「そりゃあ、あいつにも立場があるもんな」
「ひどいでしょう。私にスパイになれってことでしょう」
「まあ、短く言えばそういうことだな。でも当然といえば当然かな」
「たしかに、私は記者になりたかった。でも」
「で、社を辞めると」
「うん」
「暗い顔にもなるな」
「うん」
「でも、記者になりたかったんだろ」
「うん」
「俺はいいよ」
「でも」
「ただ、町村君とのことは二人でよく話をすることだ。それに俺が本当のことを言うとはかぎらない。結果的に加代が逆スパイになるかもしれない」
「逆スパイ」
「だろう」
「そうね」
「お互い様ってことよ。加代は自分のために動けばいい。」
「そういうことよね。叔父さまが機密漏洩なんてありえないのよね。私、なに考えていたんだろ」
「よほど、偽情報を見つける自信があるんだろう」
「つまり、私がなにかを判断するような事ではない」
「そういうことさ。美味しく食事にしよう」
「こんな忙しい時にごめんなさい」
「とんでもない。こんな時間もなければ、やってられないよ。それより、町村君を呼びだしてやってくれ。ほとんど、寝てないんじゃないかな」
加代にいつもの柔らかい表情が戻ってきた。いつまでも子供なんだなと思う。仕事が変われば、また結婚は先の話になるのかもしれない。町村勇一と初めて会ったのは、勇一が叔母の葬儀の手伝いにきていた三年前だった。その後、叔父の家で何度か姿を見たことはあったが話をするほどの間柄ではなく、一年ほど前に叔父と三人で食事をする機会があり、二人は急速に親しい関係になった。学生時代の恋愛がひどい結果となって、二度と恋愛などするものかと堅い決心をしていたが、勇一の人柄に接してその決心は遠い想い出になった。叔父は勇一のことを「うちのエースだ」と言うが、その茫洋とした人柄からは想像もできない。統合参謀本部の参謀をするぐらいなのだから優秀な才能を持っているのだろうけど、加代はまだその片鱗も見たことがなかった。言葉に出したことはないが、二人とも結婚の時期かなと思っていたが、ふんぎりがついていないのは加代のほうだった。


事務の引き継ぎは三日で終わり、加代は私物をまとめて三崎町にある別館に移ることになった。
「北山加代さんですね」
「はい」
奥行きのあるビルらしく、思ったより長い廊下を歩いて部屋に入った。部屋は会議室で、テーブルに十人ほどの人がいた。
「北山さんが、来られました」
「ごくろうさん。ありがとう」
責任者とおもわれる年輩の男性が立ち上がった。
「北山です」
「どうぞ。座って下さい。根岸さん、コーヒーをお願いします」
加代は私物の入ったダンボールを床に置いて、そっと椅子に腰をおろした。
「少し違和感があるでしょう」
「はい」
「慣れてください。私は太田です。ここの責任者です」
全員を紹介してくれたが、誰の名前も覚えられなかった。自分でもだんだんと声が小さくなるのがわかった。
「今日は以上。北山さんへのブリーフィングは僕がやります」
全員が退席したあとに、太田が近くの席に座り直した。髪の様子からは五十代後半に見えるが、それ以外のエネルギーは五十前を感じさせる。眼鏡の奥の光にも強さがあった。
「五課へようこそ。事情は承知しています。貴女が統合参謀本部長の北山さんの姪御さんで、柳原さんの紹介で入社されたこともです。でも、不安ですよね」
「はい」
「すぐに慣れますよ。我々の仕事は安全保障に関するあらゆる情報の収集と分析ですが、場合によっては身の危険に遭遇することもあるかもしれません。もっとも、この十年間にそのようなことは一度も起きてはいませんが、覚悟だけは持っています。脅しているつもりはないんですが、中途半端は貴女にとっても我々にとっても、決していい結果にはなりません。貴女が総務部へ戻りたいのだったら、そのようにすることもできますが」
太田が言葉をきって、目で同意を求めていた。
「やらせていただきます」
まだ不安はあったが、大田の話し方と視線に反発を感じた。子ども扱いされている。加代は覚悟を決めた。
「よかった。事情が事情なので、少し心配はしていたんです。仕事部屋へ案内しましょう」
案内された仕事部屋というのは、言葉どおりの部屋であった。頑丈なドアの中は広い作業机があり、カーテンの奥にはベッドと洗面所があった。
「びっくりですか」
「はい」
「出勤も自由、泊まり込みも自由です。仕事の中身しか求めません。この部屋は鍵もかかりますし、防音も完璧ですから、プライバシーは守られています。マスターキーはありますが、まだ一度も使ったことがありません。ただ、必要なものは揃えて下さい。布団とか洗面用品は全て自己負担になります。座りましょうか」
太田と加代は並んで座った。
「最初にIDの取得、そしてパスワードとメールアドレスの登録をやっておいて下さい。貴女には統合参謀本部を担当してもらいますが、まずは安全保障全般の資料を読破してもらいます。かなりの量になりますので、十日間ぐらいはかかるでしょう。読まなければいけない項目は、後でメールします」
五分ほどの説明で太田が部屋を出ていった。もう戻る場所がないことを認めざるをえないようだ。
加代はパソコンの電源を入れて必要事項を入力し、IDコード、パスワードとメールアドレスを書き出した。登録が終わると、パソコンはリブートを開始したので、加代はダンボールに入っていた私物の整理をすることにした。私物といっても、ごく少ない。自分用の筆記具、メモ帳、カーディガンとスニーカーで、それを片づけるとダンボールの中はティッシュが残っているだけだった。
パソコンが立ち上がると、既に太田からのメールがあった。読まなければならない項目が書き出されている。加代はそのメールをプリントアウトした。総務部に在籍していたとはいえ、新聞社の一員なので社会情報にはそれほど疎いほうではないと思っている。とりあえず、最初の項目から挑戦することにした。目を通していくと、一般的な政治情勢の解説で、それほど目新しいものではない。だが、その量は半端ではないようだった。ドアをノックする音で反射的に時計を見ると、十二時を四十分も過ぎている。
「はい」
「食事にしてください」
太田と、最初に加代を案内してくれた根岸と呼ばれていた女性が立っていた。
「部屋の鍵は引き出しに入ってますから」
加代がセカンドバックと鍵を持って部屋を出た時には、根岸だけが待っていてくれた。
「このビルには食堂は無いんです。もっとも、社員食堂で美味しいという所はあまり知りませんので、これでいいのかも」
根岸の後を歩いて行き、ドアを通るとエレベーターホールになっていた。
「社員用のエレベーターです。裏が通用口になっていますので、次からはこれを使ってください」
裏通りには違いないが、交通量も人通りも多かった。根岸が連れて行ってくれたところは、すぐ近くの丸福食堂という古びた看板の店で、昔ながらの定食屋だった。
「若い人は嫌かもしれませんね」
「いえ、こういうお店、好きです」
「味とお値段では、私の一押しです」
満席の店内の隅に席を見つけて、根岸がすばやく座った。座ると同時にメニューを加代に渡して、手を挙げる。
「何か嫌いなものは」
「いえ。何でも食べます」
「ブリ定食がおすすめ」
「はい」
根岸がすすめるままに、ブリ定食二つが注文された。「母親みたい」と加代は思った。
「あなた、本社の総務部にいたんでしょ」
「はい」
「転職したんだと、思ったほうがいいわね。自分の家に帰ることのほうが少ない人もいるぐらいだから、かなりきつい職場だと思う。だって、個人用の仮眠場所がある職場なんて聞いたことないもの」
「ええ」
根岸は、食事の間、いろいろな情報を教えてくれて、少しだけ周囲が見えてきたように感じた。なによりも、おすすめと言っていた通り、ブリ定食が美味しかった。
次の日から、加代のハードスケジュールが始まった。泊り込みこそしなかったが、十二時前に帰ることはなく、土日も休めなかった。新しいファイルを開けるたびにあらわれる膨大な量の資料に、目の前が暗くなる思いだった。それでも、十日でなんとか読破することができた。それらの資料を読み始めたのが、何年も前のような気がする。日本の防衛の最前線に立っているようにも思う。
まだ、自民党政権のほうがよかったのかもしれない。突然の解散総選挙になったのは二年前で、あっけなく政権交代になってしまった。民主党にも、山のように問題があり、代表がめまぐるしく変わった。総選挙で勝利した時の代表が菅野直太で、そのまま総理大臣に就任したが、今でも民主党の中はまとまっているとは言えない。総理大臣になってからの菅野直太は、昔よりさらに市民派に傾き、問題山積の状態であった。就任三ヶ月後に、選挙公約でもあったイラクからの自衛隊撤兵を、米国の反対を押し切って実行して、日米関係が危険になってしまった。さらに、六ヶ月後には世論の圧倒的な反対があったにもかかわらず、日中安全保障条約を締結して中国に膝を折った。まだ、日米安全保障条約こそ破棄されてはいないものの、日本政府の要望により、昨年の暮には在日米軍の完全撤退がおこなわれ、条約破棄も時間の問題だとみられている。経済面でも日本の破綻を予測する論調が世界の主流となっているが、対応はすべて後手後手となり、経済界のいらだちは限界にきていた。アメリカ市場も中国市場もそれぞれ脆弱な部分を持っているが、多くの経済危機を乗り越えてきているアメリカと違い、中国の危機は世界を震撼させるだろうと言うのが常識であり、最大の影響を受けるのが日本だと言われている。社会面では、個人の人権が極度に主張され、いたるところで摩擦が表面化し始め、司法の硬直化をまねき、「話し合い」という標語がまるで人格を持ったように一人歩きをしていた。軍事面では、アジアにはもう危機はないと言う政府が、次々と防衛予算を削減し始めていて、自衛隊員の再就職先を見つける政府プロジエクトも発足するという。「話し合い」で問題解決を図る国に、軍事力は不要だと決め付け、中国などからは大きな拍手で歓迎された。軍事費の削減がその効果を発揮する五年後には、国の財政も立ち直る予測が政府から発表されていたが、税収の減少が予測値に反映されていないと批判されているのも事実であった。
さほど危機感を持っていなかった加代も、この十日間で明日にも起こるかもしれない日本崩壊を感じざるをえなかった。確かに、加代のいる新聞社は右よりだと言われていたが、読んだ資料が偏向資料とは感じない。包括的に判断をすると、危機が目の前にあるように感じてしまう。レポートを書く前に、加代は叔父に話を聞きたいと思った。


 レストラン・ミルで、加代は叔父の健一郎と向き合っていた。
「このままだと、近い将来に日本は壊れてしまうような気がするの。私の勘違いなの」
「いや。それが常識的な見通しだろう」
「常識的と言うのは、間違っていると言うことなの」
「ん。間違ってもいるし、間違ってもいない。日本が壊滅的な状態になるだろうと言うことは、たぶん合っているのだろう。だが、壊れてしまうことが悪いことなのかと言うと、俺は違うと思う。日本という国は、壊れないと再生できないと言う困った習性を持っている。民主党政権になってから、破壊への道を走り出したと言う人がいるが、自民党政権でも、いずれ同じことになっていたと思う。自民党なら二十年、民主党なら五年。壊れるなら早く壊れたほうが、ダメージが少ないとも言える。これからだって、何が起きても不思議じゃないだろう。思い悩んでも始まらない。棺桶に片足を突っ込んだ時に、まっ、いいかと思えるかどうかだと思っている」
「自衛隊は大変なんでしょう」
「ものすごくね」
「どうするの」
「どうもしないさ。与えられた条件の中で最善を尽くすのが軍人なんだよ」
「自衛隊が無くなるの」
「五年もすれば、実質的にそういうことになるだろうな。戦えない軍隊はもう、軍隊とは言えないだろう。それまでは頑張らなきゃいかんと言うことだ」
「どこかが攻めてきたら」
「難しい質問だな。まあ、一般的な答にしかならんが、二年以内なら、なんとか防衛できるだろう。ただし、戦ったとして、だ」
「戦ったとしてって」
「交戦命令が出ないと、自衛隊は戦闘をしない」
「どうなるの」
「つらい状況になるだろうな」
「自衛隊は、そうなっても、何もできないと」
「我々が勝手に動けば、軍事クーデターということになる」
「クーデターは起こさない」
「自衛隊の中にはクーデターでも、という人間がいることは否定できない。でも、軍事クーデターの先に何か展望はあるかね。俺は、残念ながら展望は無いと思っている」
「難しいのね」
「あまり町村君をいじめるなよ。あいつはまだ若い。加代を守るために戦うと言い出したら、止まらないだろう。戦争で一番ひどい目にあうのは、いつも、女と子供なんだ。男は、守るべき者のために死ぬことを、どこかで納得してる。DNAがそうなってるんだろう」
「どんどん、自信が無くなっていくわ」
「加代のように素直な娘には、きついかもしれんな」
「よく、考えてみる」
 叔父と別れた加代は、社に戻ってレポートを書き上げてしまうことにした。一度踏み出してしまったのだから、しばらくはこのまま進むしかないと思っていた。


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