SSブログ

無力-6 [「無力」の本文]

22
 「金氏から連絡がありました。李宣昌という人物が窓口になるそうです。連絡はその李氏から入ります」
外務省の中田参事官が菅野総理に新しい事態を告げた。
「どういうことかね。我々は金氏からの連絡を待っていたんじゃないのかね。外務省は話し合いが可能だと判断したから、ここまで待ったんでしょう。今となっては、これは明らかにに侵略ですよ。警察官はじめ市民が犠牲になっている。それをいまさら。そもそも、その李何某というのは誰なんですか。君達には責任感というものがあるのか」
津田官房長官が詰め寄った。
「官房長官。一寸お待ちください。確かにこの事態に対する方法として、外務省は一つの選択肢を提示しました。金氏からも話し合いによる解決という言葉はもらっていましたので、我々は責任ある選択肢の一つとして提案をしたのです」
中田審議官が言いたいことは、決めたのは外務省ではないということだった。津田官房長官と中田審議官の責任のなすり合いが続いた。決定権を持っているのは総理大臣なのだから、外務省の言い逃れは通用することとなる。だが、明らかにミスリードをした外務省には大きな責任があると誰もが思っていた。
「私に、責任とって辞めろということですか」
中田審議官が開き直って辞任したところで、この事態の責任がとれるものではない。責任を取る取らないということでは、たとえ総理大臣が辞職したところで同じことであった。日本という国での「話し合い」という言葉の魔術を知っていた敵のほうが、外交戦術でも一枚上だったということになる。今は、国の意志を決めることができるのがこの危機管理室以外に無いという現実を直視しなければならない時であった。すでに夏の陽も落ち、現地からの映像にも不明確なものが多くなっていた。
中田審議官の胸に吊られていた携帯電話が振動した。李宣昌と名乗る男からの電話で、危機管理室につながる固定電話の番号の問い合わせだった。どこにも知らされていない予備回線の電話番号が李宣昌に伝えられた。
指定した電話器にかかってきた電話には津田官房長官が出たが、李宣昌はスピーカーとマイクを使うようにと指示した。そして、間違いが起きないように録音をするように言った。
「私は、李宣昌と言います。皆さんとの話し合いの窓口は全て私がやらせてもらいます。連絡は、都合で私の方からの電話だけとします。最初にお伝えしたい事は、我々が貴国の市民を捕虜にしているという事実です。捕虜の人数はおよそ、二万人です。わかっていただけますか。このことをお知らせするのは、貴国が間違った行動を起こして欲しくないからです。我々も殺傷は好みません。話し合いを望んでいるからです。またのちほど電話します」
李宣昌の電話は一方的に切断され、危機管理室は静寂に包まれた。
佐々木海上幕僚長が井上防衛庁長官をうながして部屋を出た。井上長官も素直に幕僚長の後に従ってきた。二人は誰もいない小さな会議室に入った。
「長官。あの電話をどう思われますか」
「どうって。大変なことになったと思っていますが」
「大変なことと言われるのは」
「だって、二万人もの人命がかかっているのですよ」
「総理は、軍事力は不要という方針ですが、当然、長官もそのようにお考えですよね。我々は自衛官で、国の方針の是非を云々するつもりはありません。ですから、今はその問題については棚上げにするということでお話できればと思いますが。よろしいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます。現状にかんして、残念ながら長官と我々の間には若干の認識のズレのようなものがありますので、その修正をさせていただいて、有効な対策を講じていきたいというのが自衛隊の希望でありますが」
「はい」
「われわれは、今の状況を北の共和国による軍事作戦であるという認識を持っていますが、長官のご認識は同じだと考えてよろしいでしょうか」
「そのようですね」
「軍事作戦を実行するには、その目的があると思います。私は、彼らの目的は日本の占領確保だと思っています。彼の国は政治的にも経済的にも瀕死の状態が続いています。ここまで持ちこたえるとは誰も予測していませんでした。自立反転して回復していくことが難しいということを共和国の指導者もわかっているのです。何としても起死回生の一手が必要だったのです。日本を占領しても、世界中から文句はつかないということも知っています。非難声明ぐらいは出るでしょうが、実害とはなりません。そして、政府も認めている「過去の歴史」があります。自分たちには日本を占領確保する権利があると考えています。軍事的に言えば、今回の作戦は奇策と言えます。日本の軍事力は減少したとはいえ、共和国の海軍力での正面作戦では日本の領土に一歩も踏み込めません。共和国にとっての最強の軍事力であるミサイル攻撃を使用しなかったのも、目的が日本の占領確保だからです。ミサイルで日本を破壊しても、何も得るものはありません。国と国が戦争をして相手国を占領する場合、最終的には地上戦が必要になりますが、海があるために陸上部隊を送り込む手段に困ります。たとえ、戦闘部隊を送り込んだとしても補給線を確保しなければなりません。ですが仮に、地上戦にも勝てたとします。敗戦国である日本には、確保する価値が残っていません。彼らにとっての占領確保の目的は富の移行なのです。日本を生かしておいて、必要に応じて富を移行できるシステムが一番望ましいものなのです。彼らにとって必要なものは、日本人の人質なのです。それも多ければ多いい方が、価値があるのです。立案した作戦参謀は日本という国を熟知しているようです。この作戦は日本以外には通用しないでしょう。そしてこのことが、我国の対応の重要なキーになります。緊急時に長い話になって申し訳ありません。ですが、我々の提案はこれらの前提がないとご理解いただけないと思ったのです」
「反論はありますが、幕僚長のおっしゃる提案というのを聞きましょう」
「ありがとうございます。敵の当面の目的は人質の確保です。彼らには、日本全土を占領する必要はありませんが、更なる人質の確保はしたいでしょう。この二万人の人質は、十万にも百万にもなる危険があります。敵も不安で一杯なのです。人質の数は多い方が安心できるのは、だれしも思うことです。そして、人質の数が富の移行の対価になると思うでしょう。これまでのところ、日本はこの危機を回避する機会を逃しました。日本的な発想で対応するなら、今後も負け続ける可能性が非常に高いと言わざるをえません。李宣昌という男が、なぜ二万人の人質のことだけを言ったのか。裏返せば、人質の確保が完了していないということなのでしょう。彼らには時間が必要なのです。つまり、今が最後のチャンスだということです。日本的な案ではありませんが、強行救出作戦の実施をお勧めしたいのです」
「強行」
「そうです。空挺部隊と航空自衛隊による救出および攻撃作戦です」
「そうなったら、市民はどうなります」
「人質を含めて、かなりの犠牲がでることを覚悟しなければなりません」
「かなりとは」
「少なければ、三割」
「六千人ですか」
「はい。でも、最悪の場合は八割の一万六千人が犠牲になることを覚悟しておかなければなりません」
「それを総理が認めると思いますか」
「ですから、長官にお話しています。敵は総理の思考傾向を十分に検討しています」
「私に、あなたたちと同じ立場に立てと」
「はい。この危機を回避できるのは長官しかいないと信じています」
「まさか」
「個人としての井上和美さんには、ご自分の信念からも、ご納得いただけないでしょうが、井上防衛庁長官としては、苦渋の決断をお願いしたいのです」
井上長官が頭を抱えた。
「無理でしょう」
しばらくして、井上長官が元気のない声で言った。
「私は、総理のことをよく知っています。無理です」
「長官はどう思われますか」
「幕僚長の話にも、一理はあると思いますが、市民の犠牲を前提にした案では受け入れていただけないでしょう」
「人質が増えても、ですか」
「それは、先の話でしょう」
「長官は、北の収容所のことをご存知ですか」
「話は、きいています」
「彼らは、収容所経営については熟知しています。しかも、人権どころか人間としての尊厳を奪うことが運営技術だと思っています。日本人の人質が優遇されるとは思えません。危険を冒してでも救出に来て欲しいと思うようになるでしょうが、敵が人質確保の体制を作り上げた後であれば、救出作戦には多大な犠牲が生じます」
「多大とは」
「救出できるのは、運がよくて一割未満でしょうか」
「無理でしょうが、進言だけはしてみます」

23
 痛みを感じている自分は、どこか別の場所にいる。自分の勝手な行動で八木を死なせてしまったことが、どうにも受け止めようのない重荷になって加代を押しつぶしていた。加代の緊張を和らげようとしてずっと話しかけてくれた八木の声が、まだ耳から離れていない。家族のこと、娘さんの学校のこと、きっと頼りになる父親だったのだろう。そんな家族を壊してしまった。ヘリが墜落し、生き残っている自分がいることを知っている自分。二十八年間の自分の人生が、ビルの壁を削りながら落ちていったヘリと一緒に崩れ落ち、今の加代には何も残っていなかった。知らない女性が加代の腕を消毒し包帯を巻いている。痛みに体が勝手に反応しているのが不思議に思える。それでも、八木の死は受け入れられない。現実に起きたことは全てわかっているのに、それが受け入れられない。ヘリが銃撃され、その銃弾を受けた八木が死に、ヘリは墜落した。ヘリから放り出された自分は助かり武装集団と一緒にトラックに乗ってこの部屋までやって来た。今、目の前で手当てをしている女性も武装集団の一人であった。頭の中ではそれらの現実を正確に理解している筈なのに、そんな自分の現状をうつろな目で見ている自分がいる。さきほどから、得体の知れない激情が喉につまって、息苦しさを感じていたが、それが自分の体に起きているものだという認識はなかった。大きな叫び声が聴こえて、体が震えて、静かになり、何も考えられなくなった。
加代は誰かが言い争う声で目を覚ました。時間の感覚はないが、八木の声が耳に戻ってきた。蛍光灯の明かりが見える。傷の手当てをしてもらった部屋の長椅子に寝かされているようだった。言い争いの声は日本語ではなかった。
突然、部屋に数人の男が入ってきて、加代に銃を向けて「たて」と言った。加代はその言葉が日本語だとは思えなかったが、男の手が立てと言っていた。
立ち上がると痛みが戻ってきたが、気にならなかった。加代は男たちの指示に従った。部屋の戸口に傷の手当てをしてくれた女性が立っていて、加代を見ていたが、銃で押されるようにして建物の外へ出た。男の一人が加代の履いていた靴を投げてよこし、無意識に靴を履いたが、自分の右手が三角巾のようなもので首に吊られていることに気がついた。暗い道路を男の後から歩いていく。周囲の暗さが少しだけ加代を落ち着かせた。男に連れられていった所は学校の建物だった。
二階の奥の教室の中に文字通り放り込まれた加代は、腕の痛みに顔を歪めたが、痛みは痛みに過ぎないと感じていた。部屋の中は熱気と喧騒が渦まいていた。床が見えないほどの人たちがいた。
「ここに座り」
行き場のない加代の手を年配の女性が引き寄せてくれた。加代は言われるままにその女性の横に腰を下ろした。
「怪我してんのか」
加代は頷いただけで、顔を伏せて目を閉じた。気持ちが、重く重く沈んでいく。その重さに逆らう力は無かった。
腕の痛みで目が覚めた。時間の感覚もなく、自分の居る場所もわからなかったが、腕をかばうようにして身を起こした。どこかの学校の教室に連れてこられたことと、見知らぬ女性の横に座ったことを思い出した。その女性は目の前で壁に背を預けて眠っている。小学生か幼稚園児か、幼い二人の子供が女性の膝を枕にして寝ていた。部屋に充満していた子供たちの泣き声は静かになって、いびきと寝息が部屋に満ちていた。最後に見た八木の横顔を思い出し、その重みから逃げるように、加代の意識が宙に浮いていた。肩の痛みは時間とともに増していたが、崩れるように、床に戻った。
体を揺さぶられて目を覚ますと、横にいた年配の女性の顔が目の前にあった。
「傷、いたいのか」
痛みはあったが、意識は濁っていた。
「すごい、うなされてた。だいじょうぶなんか」
加代は起き上がって、壁に背中を預けたが、痛みに顔を歪めた。自分の姿を鏡で見ていないので、自分がどんな状態なのかわかっていない。窓の外は明るくなっていた。
「どこや、いたいの」
加代は自分の左手で右の肩口を触って、また顔をしかめた。顔の右半分は、まだ血で汚れていて、髪の毛も血で固まっている。右の肩から腕にかけても血に染まった包帯がむき出しになっているし、上着は汚れていて、右袖はなく、オープンシャツも肩から破れて下がっていた。このような非常時でなければ、誰もが驚くだろうが、今はその女性以外に関心を示すような人はいなかった。
「肩がいたいんか」
加代は小さく頷いた。
「ケンさん」
女性は窓側にいる人に声をかけた。まだ六十歳までには少し間のある年配の男性が人垣を分けて近づいてきた。
「この人、怪我してるらしいわ。あんたにわかるか」
「痛いのは、どこ」
「肩や」
「ん。お嬢ちゃん、触ってもええか」
男性は加代の前にしゃがみこんで、肩に手をやった。
「脱臼しとるらしいの。腕が上がらんやろ」
男性は痛がる加代を気遣いながらも、肩や腕を動かしたり押したりした。
「骨は折れてはおらんな。そやけど、腕はまだ出血してるわ。脱臼だけは直しとこか」
「そうしたって」
「タオルかなんか、ないか。ちょっと痛いと思うわ」
「そんなもんないわ、着の身着のままやもん」
「そやな。汚れとるけど、このお嬢ちゃんの上着でいこか」
男性は加代の上着を用心しながら脱がせた。
「お嬢ちゃん。これ、しっかり噛んどき。痛いけど、すぐようなるからな」
加代は言われたままに自分の上着を口に入れた。男性は腕を吊っていた三角巾をそっと外して、加代の腕を伸ばして、回転するように押し込んだ。一瞬だったが、激痛に声が出た。口の中の上着を外すと、どっと汗が出てきた。
「いけたか」
「もう、だいじょうぶや。しばらく、これで吊っといたほうが楽やろ」
「世話かけたな。おおきに」
「あんたの知り合いか」
「ぜんぜん知らん人やけど、あんまり痛そうやったから」
「そうか。それより、どないなんのやろ」
「わからんわ」
肩の痛みは取れなかったが、加代は目を閉じた。どうしようもなく気が重い。そこは出入口のすぐ横なので人通りは絶えないが、そんな喧騒も気にはならなかった。
窓の外で連続した炸裂音がして、部屋の空気が一変した。加代も何かに殴られたような感覚で目を開けた。窓際に人が動き、一様に驚きの声が上がった。
「撃たれた」
「五人や」
「なんちゅうことを」
ケンさんと呼ばれていた男性が、窓際から戻ってきた。
「ケイちゃん。えらいこっちゃ。撃たれたで。ほんまもんや。あいつら死んどるやろ」
「知ってる人か」
「わからん」
「逃げようとしたんかな」
「せやろな」
「可哀そうに」
「あいつらの目は本気や。まだまだ死人は出るで」
「ケンさんも、むちゃしたらあかんで」
「わしら、もうそんな元気はない。ところで、ケイちゃんとこ嫁さんは」
「東京に出張や」
「タカシは、まだ大阪か」
「そや」
「たいへんや。この子らも」
二人の話を聞きながら、加代は子供たちを見た。二人の子供は下を向いたままだが、大人たちの話は聞いているのだろう。この子供たちを誰が守るのか。自分は、八木の死という重圧から自分だけを守ろうとしているだけなのではないだろうか。子供たちを見ながら、加代の意識は外界に向けられた。あのヘリの中で八木と一緒に自分も死んだと思えばいいのだ。大したことは出来ないだろうが、子供たちを守るために、まだ自分にも生きていく価値はあるのかもしれない。腹の底から、幼い命を守りたいという衝動が沸いてきて、何故か涙が流れていた。
「どうしたの。あんた」
「大丈夫です」

24
 各報道機関は異常事態と認識しているが、難民受け入れのために舞鶴を閉鎖しているという政府発表をくつがえす材料が見当たらなかった。舞鶴へ通じるあらゆる道路が、全国から集められた警察官によって封鎖され、舞鶴上空は広い範囲にわたって飛行禁止になっていた。取材の記者やレポーターで成功した者はなく、行方不明になっている記者がいるという噂が流れていた。ほとんど具体的な内容のない政府発表に国民は苛立っている。危機管理室で推定される死傷者の数は三百人を超えているとされたが、「鋭意調査中」ということで発表はされなかった。犠牲者の数を発表して何になる。国民の不安を増すだけであるとして、緘口令が敷かれていた。外務省は中国に対して事態の収拾を依頼していたが、中国外務省は調査中という回答を返してくるだけで、外交ルートでの有効な対策はうたれていない。外務省は、いつものように「強く申し入れている」と責任回避の動きさえみせていた。
官邸の危機管理室には疲労感が満ちている。井上防衛庁長官と菅野総理が、コーヒーを持って立ち話をしていた。
「井上君。力では何も解決しない。それぐらいわかってるだろう。話せば道は開ける」
「このままだと犠牲者が増え続けるという佐々木幕僚長の意見も、私には現実味があるように思えるんです。舞鶴に空挺部隊を降ろせば、現地の状況もはっきりします」
「発砲許可を出せ、というのですか。長官は」
「致し方ないかと」
「長官。はっきり言っておきます。私は、発砲を許可するつもりもありませんし、命令すこともしません。そんなことをして、私たちの存在価値はどこにあるのです。二度と戦争をしてはいけません。このことだけは、守ります」
「総理。これは戦争ではありません。防衛です。市民の生命財産を守るための武力行使です」
「我々が武力を使えば、どうなります。近隣諸国から日本帝国の復活だと言われますよ。あの戦争で我々は武力放棄をしたんです。日本は一切の武力を持ってはいけないのです。いままでやってきた自衛隊の縮小計画は、そのためでしょう」
「もう、かなりの犠牲者が出ています。これ以上国民を死なせてはいけません」
「でも、長官の言う武力行使をしたら、犠牲者は出るのでしょう」
「はい。でも、それ以上の犠牲者はでません。犠牲者がどこまで増えるのかわからない状況は回避できます。数万人、数十万人の犠牲が出ても、総理は武力行使をされないのですか」
「その通りです。武力行使はしません。ですから、犠牲者を増やさないために話し合いをするのです。話し合いで解決しないことなど、この世に存在しません。必ず、道は開けますよ」
「そうであれば、いいのですが」
井上長官には、それ以上総理を説得するための言葉はなかったが、総理と同じ側にいた時には感じなかった違和感があった。そう思って危機管理室の中を見回すと、小学校の頃のホームルームに似ているような空気がある。男子生徒にまかせておいてはいけないという思いが、今日の井上長官の原点だったが、今の危機管理室も現実から遊離しているように見えた。
「申し訳ありません。私の力不足です」
井上長官は佐々木幕僚長に対して本気で謝った。
「残念です。でも長官は頑張ってくれたと思います。自衛隊の出る幕は無いということなんですね」
「そういうことです」
「でも、国民は苦しい状況になりました。人質の中には大勢の女性と子供がいるでしょう。こんな時には弱いものが貧乏くじを引かされる。そういう人たちに言うべき言葉を、私は持っていません。この部屋の環境で、コーヒーを飲みながら、ああでもない、こうでもないと言っているのを知ったら、どう思うのでしょうか」
佐々木幕僚長は、上着の内ポケットから辞表を出して、井上長官に渡した。
「幕僚長」
「正式の手続きは、市ケ谷に戻ってからいたしますが、これはここでのけじめだと思っています。私は私の立場で国民を守るという誓いをたてて自衛官になりました。その誓いを果たせない自分には自衛官の価値がありません。無責任と言われるでしょうが、他に取るべき方法を知りません。まことに申し訳ないと思っております」
危機管理室の中が急に静かになった。誰の目にも海上幕僚長が辞表を提出したことは明らかだった。佐々木は直立し、井上長官に敬礼し、少し離れた菅野総理の方向へ向き、同じように敬礼をすると部屋を後にした。
津田官房長官の前にある電話が着信を知らせた。その音は静かな部屋の中で、普段より大きな音に聞こえた。その電話機は、李宣昌との連絡用に指定したものだった。
「官房長官。遺体の引取りを」
「ん。わかってます」
警察庁長官の叫び声に、津田官房長官は大きく頷いてみせたが、その表情からは遺体のことが念頭になかったといううろたえが出ていた。
「はい。危機管理室の津田です」
「李宣昌です。早速ですが、御国の人たちに出す食事がありません。申し訳ないことですが昨夜から何も食べていないのです。大至急、二万人分の食事を届けていただきたい。皆さん、空腹を訴えていますので、四時間位あれば用意できると伝えてあります。場所は、舞鶴自動車道の舞鶴西インターチェンジにお願いします。現在、舞鶴西インターチェンジと舞鶴東インターチェンジの間は、我々が封鎖していますが、この件は指示しておきます。三十分後にもう一度連絡しますので、時間の確認をしておいてください。お願いします」
「わかりました。私の方からもお願いが・・・・」
電話の切られた音がスピーカーから流れた。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0