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無力-8 [「無力」の本文]

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 舞鶴若狭自動車道の西舞鶴インターチェンジは、多数の自動車の残骸で通行不能になっていた。大型コンテナ車の後部扉が全開にされ、そこから重機関銃らしき銃口が見える。道路は血痕と思われる黒い色で汚れていたが、死体は見当たらなかった。車両の通行は全く無い。聞こえるのは、蝉の鳴き声と風の音だった。
遠くから聞こえる音が次第に近づいてくる。甲高い笛の音が響き、放置された車の陰から小銃の銃口がいくつも現れた。音は近づいてくる車群のものだった。しばらくすると、一列になってやってくるトラックの車列が視界に入ってきた。道路封鎖をしている部隊に出されている命令は、撃退せよというものであった。
先頭車両が減速しながら近づいてくる。既に小銃の射程距離に入っているのに、停まる気配はなかった。それだけで、車群が自衛隊の偽装でないことは明らかだったので、射撃開始の命令は出ていない。引き付けるだけ引き付けてから発砲するつもりらしい。
車群の先頭が百メートルを切った時に、一斉射の命令が出た。

この一斉射の命令が出る二分前に、危機管理室の電話が鳴った。
「李宣昌です。約束の時間は過ぎました。これ以降に近づく車両は、お国の軍隊とみなして撃退します」
「待ってください。もうすぐ食料を載せた車が到着します。撃退など、とんでもないことですよ。強く抗議します。やめてください」
「申し訳ないが、時間は過ぎてます。約束を破ったのはあなたでしょう。強く抗議するのは我々のほうです。不測の事態が発生しても、それはすべて、あなた、津田官房長官の責任ですから。失礼する」
菅野総理の顔から血の気が引き、三山知事へ電話しろと叫んだ。
「菅野です。すぐに車を停めてください。向こうは発砲してきます」
「はあ。約束の時間は、まだでしょう。つい先程連絡があって、もう到着しますよ」
「それが。手違いで。とにかく、すぐに引き返してください」
「てちがい」
「お願いします。すぐに止めてください」
「ちょっと、待ってください」
京都府庁の知事室が騒ぎになっている。入り乱れる怒号が総理の受話器からも、よく聞こえた。共和国側の発砲で死者が出ているという報告が入った。
「菅野さん。どうなってるんだ。これは」
「申し訳ありません。こちらに、今、時間切れだから、近づくと発砲すると電話が入りました」
「申し訳ない、ではすみませんよ」
「本当に申し訳ないことだと思っています。我々も、つい二分前に聞いたばかりで。どうしようもなかったんです。こんなことになるなんて」
「時間切れと、言いましたね」
「そうです。知事から言われた六時間という期限で交渉しました。こちらは極力努力して、一分でも早く届けると言ったんですが、向こうは四時間という約束だったと言い張るもので」
「それじゃあ、交渉になってませんよ。確認を取っていなかったんですか。持ち込めば、なんとか受け取ってくれると、高をくくってたんでしょう。そんないいかげんな交渉で、人命を、なんだと思ってるんです。人命最優先と言っていたのは、誰です。ほんとに、もう、アホかおまえら」
「アホ呼ばわりは無いでしょう」
三山知事が誰かと話している様子で、しばらく会話が途切れた。
「四十五人の人間が行って、生存が確認されているのは、たったの六人ですよ。テレビ局の人たちにも犠牲者が出てます」
「テレビを連れて行ったんですか」
「なにか、不都合でもありますか」
「常識でしょう」
「常識ですと。私が非常識だと言うんですか」
「そうです。こんな時に情報がザルになって、どう処理するつもりですか。信じられません」
「あんたには、失望したよ。人が死んだことの責任は、きっちり取ってもらいますよ」
「人命と言っても、松葉会でしょう。それに許可もしていないテレビです。あなたの判断も甘かったんじゃありませんか」
「ちょっと待て。やくざもんは、人命のうちに入らないのか」
「いや。そうは言ってないでしょう。不幸中の幸いだと言ってるんです」
「菅野さん。あんたは、市民派という看板を出しているだけの偽者だ」
三山知事が受話器を叩き付けた音は、危機管理室まで届いた。
「どうして、もっと冷静になれないんだ」
菅野総理は一人、呟いた。
「テレビが一緒に行ってたんですか」
津田官房長官は、自分に降りかかってくる災難を恐れている。記者会見で叩かれるのは、いつまでたっても我慢のできないことだった。
「そうらしい。まったく、何考えて」
津田官房長官は、テレビクルーも全員死んでくれたらと思ったが、口には出さなかった。
「食料が届かないということですよね」
井上防衛庁長官が菅野総理を見据えて言った。
「そういうことだ」
「では、人質になっている市民はどうなります」
「どうなると言っても、君もここにいればわかるだろう」
「では、このままでいいと」
「いいとは、言っていない」
「向こうの電話を待つだけで、何もできないのが現状だと」
「そうではない」
「では。何かをするんですか」
「だから。懸命に外交ルートで働きかけているじゃないか」
「その外交ルートが、何の進展もなく膠着状態ですよね。相手に期限を切っているのですか」
「そう簡単にいかないものでしょう」
「打開の道が見つかるまで、人質になっている人たちは食事ができないということですか」
「どうしろと言うんだ。また、武力を使えと」
「もう、それは手遅れです。陸上自衛隊の斥候の報告では、人質が収容されている学校には爆薬が仕掛けられたということです。ここで武力を使えば人質は全員爆死します。敵はやるべき事を着実に実行しているのです。その時間を我々が与えているのです」
「誰が斥候を出せと言いました」
「私が命令しました」
「長官にそんな権限は無い」
「でも。私が命令しました。私は、まだ人質救出の希望を捨てていません。情報なしでは何もできません」
「敵と遭遇したら、発砲してもいいと、言ったのですか」
「いいえ。銃器は持っていません。敵に見つかれば死ぬしかないでしょう。それでも、兵たちは行くと言ってくれました。人質の救出を諦めていないからです」
「今こそ、冷静な対応が必要な時なのに、何ということをしてくれたんです」
「総理。冷静な対応と、問題の先送りとは、似て非なるものです。私たちは、もう、何度も、国民の生命と財産を守るチャンスを逃してしまったのです。これ以上の判断ミスは許されません」
「いいですか、我々は情で判断するようなことがあってはならない。自分たちだけのことを考えてはいけないのです。昔、そうやって、どれだけ多くの人たちに危害を加えたか、知らないわけではないでしょう。何度でも言いますが、私は武力行使の命令を出すつもりはありません」
「それは、全ての国民が殺されても、と言うことですか」
「極論を言ってどうなるのです」
「では、総理の許容できる、限界は、何人ですか。国民の命がどれだけ失われれば、武力の行使もやむを得ないとお考えですか」
「井上長官。休憩してきてください。あなた、疲れているのです」
菅野総理は、井上長官を無視して、斥候部隊を引き上げるようにと陸上幕僚長に言った。

30
 陸上自衛隊の斥候部隊への撤退命令は、海上自衛隊にも非公式に伝わったが、幕僚長不在という特殊事情により、現場には伝えられなかった。危機管理室に佐々木海上幕僚長がいなかったために、海上自衛隊は拝命していないことになる。参謀本部は統合機能を持っているが、命令系統はあくまで独立したもので、拝命していない命令を実施することができないというのが北山本部長の見解だった。
一方、現地に向かった町村は、国道27号線が封鎖されていることを確認し、林道から舞鶴市街へ侵入しようとしていた。腰に付けているのは水筒だけで、拳銃等はザックに入っている。敵に遭遇すれば、持ち物検査で窮地に陥ることになるので、それを回避するためには、先に相手を見つけなければならない。単独行になってからは、思うように前進できなかった。林道から外れた岩陰に入り込んだ頃には、五時を過ぎていた。眼下に寺の屋根が見え、その向こうには舞鶴の市街が見えた。もう、何時間も人の声を聞いていないが、どこかで人声がしたような気がして息をつめていると、寺の境内に人影が見えた。三人の男が話をしながら寺を出て行く。全員が小銃を手にしているが、軍人には見えなかった。町村が大きく息を吐き、安心しかけた時に、さらに近くで人声がした。地面に身を伏せて、草木の間から林道をみつめていると、両手で小銃を持った男たちが間隔をあけて近づいてくるのが見えた。胸元に小銃を抱えている様子からも、その身のこなしは軍人のものだった。周囲を警戒しながら、五人の男たちがゆっくりと遠ざかっていった。彼等の守備地域がどこまでなのかは不明だが、すぐにも戻ってくる可能性が高い。町村は音をたてないように移動を開始した。斜面に沿って林道から遠ざかる方向へ向かうが、敵地の中での移動のでは思うような距離は稼げない。次第に袋小路に自分を追い込むことになり、ザックの中から倉持に持っていくように言われたロープを取り出した。町村が張り付いている斜面の下方向に何があるのかは見えなかったが、下に向かう以外に選択肢はなかった。木の根元に慎重にロープを巻きつけ、ロープに身をまかせた。細いロープは特殊素材で出来ていて、強度はワイヤーロープに匹敵すると倉持が説明してくれたが、体重をかける時には背中に汗が流れるような緊張感を味わった。手袋状になった保持用の金具で体重を支えながら、町村は降下を開始した。三メートルほどで藪から抜け出し、足元に大きな岩が見え、さらに三メートルほどで、岩の上に着地することができた。そこは、いくつもの岩が斜面から露出した場所で広さもあったが、視界はきかなかった。町村がロープを放し、岩を回り込むと、別の大きな岩との間に平坦な場所があり、その先に空が見えた。岩と岩の間にある畳一畳ほどの場所を這い進んで先端に行くと、市街地の全貌が見えた。最初に避難した場所から見えた寺の屋根が左の方に見える。高さはまだ充分あるようだった。偶然ではあったが監視場所としては最適の場所であった。ただ、食料も水も二日分しかないので、帰路の確保が必要だったが、状況確認のため、そこに落ち着くことにした。市街地がよく見えるということは、市街地からもよく見えるということなので、先程ロープで降りてきた場所に戻り、夜を待つことにした。携行食糧を取り出し、口に運ぶ。「何とかなる」と高をくくっていた訳ではないが、簡単に潜入と救出ができるような状況にないことは認めざるをえない。町村は腹をくくって横になった。
本気で眠ってしまったらしく、九時を過ぎて目を覚ました。月明かりの中を監視場所に選んだ所まで進んだ。舞鶴の町は月明かりで明るく、各家には灯りがあり、道路には時折車両の通行もある。それは、普通の市街地の夜景だった。町村は腹這いのまま後へさがり、倒木を運び始めた。海上自衛隊に入隊して、山腹で監視小屋の設営をするとは思ってもいなかったが、子供の頃に基地の設営ごっこをしたことを思い出していた。倒木を運び、その枯れ木の枝を剪定して、遮蔽と視界を両立させなければならない。二時間の間に何度も手を傷めて、小声で悪態をつきながら、なんとか想像通りの遮蔽物が完成した。仕上げは明るくなってからすることにして、町村はフード付の双眼鏡を取り出した。特に明るい場所を探して双眼鏡を向ける。左前方にある学校の建物が明るかった。廊下を歩く人影が見え、別棟との間にある渡り廊下には、小銃を手にした人影が見えた。人質の収容施設に間違いないだろう。加代がどこにいるのかはわからない。生存しているという確証は何もなかったが、生きていることを前提にしなければ何も始まらない。学校の校舎や体育館に無理やり人を詰め込んだとしても、三千人が限度とすれば、この学校と同じ規模の収容施設は十箇所以上あるはずで、加代がこの施設にいる可能性は決して多くはなかった。ここは一歩ずつ前に進むしかなかった。先ずは、敵の防衛体制を調査し、潜入経路を見つけることだが、人質全員の救出ということでは、個人や少人数でできるものではない。現場に来て、人質収容施設を目の前にして、自分がしようとしていることは自衛官の任務としては正しくないことが明白であった。町村が目的としたのは加代の救出だけだった。電話連絡ができる場所に戻った時に、町村は退官する決意をした。
爆発音が聞こえたのは、五時を過ぎていた。眠ったのが二時頃だったので、しばらくは混乱していたが、双眼鏡で見るまでもなく目の前に硝煙があった。爆発は次々と起こった。学校の周辺の建物が爆破されている。人質収容施設を陸の孤島にするつもりのようだった。人質の逃亡阻止だけでなく、敵の攻撃にそなえて視界を確保する目的があるものと思われる。敵は着実にやるべきことをやっているのに、我々は何をやっているのだという自責の思いが強くなる。

31
「李宣昌です」
「津田です」
「津田さん。あなたとは話し合えません。申し上げたと思いますが。それとも、あなたが窓口でなければ、話し合いはしないというのが日本政府の方針ですか」
「いえ。そう言う訳では」
「調整してください。のちほど、もう一度だけ、電話します。あなた方に話し合いをする気が無いのであれば、それはそれで結構です」
危機管理室の全員の視線が菅野総理に向けられた。
「残念です。私は官房長官にお願いしたいのですが、話し合いができなければ前に進めません。どなたかお願いできませんか」
総理の発言に答える人はいなかった。津田官房長官が貧乏くじを引いたことは、誰もが承知している。日本国を代表して交渉に当たるこの仕事は、決してやりがいの無い仕事ではない筈だが、現状では窓口として成功する確率が極めて低いのに、自分の将来を危うくするようなリスクを背負うことに価値を見つけることができないと思っているようだった。
「中田審議官。お願いできませんか」
菅野総理は外務省の中田審議官の顔色を伺った。
「申し訳ありません。私は現在中国政府との交渉に専念しておりまして、とても余力がありません。ここは、やはり閣僚の方にお願いするのが筋ではないでしょうか」
「中国との交渉といっても、返事を待っているだけですよね。総理のおっしゃるように、ここは共和国にお詳しい中田審議官が最適ではありませんか」
総理大臣が発言したからには、二転三転させてはいけないという思いがあったのか、官房長官の発言には強さが出ていた。
「中国との窓口は、私がやりましょう。この仕事は中田審議官にやってもらうのが一番でしょう」
話の流れからは、自分に厄災が降りかかるかもしれない芳賀外務大臣が官房長官の意見に賛同を示した。他の閣僚も安堵の表情で首を縦に振る。井上防衛庁長官だけが、机上の一点を睨み付けたまま賛同を表さなかった。危機管理室でひらかれているこの会議は国の安全保障に関するものであるにもかかわらず、防衛庁長官が無視されていることが不自然と思われないことが大きな問題点でもあった。
「仕方ありません。ご命令とあればやらせていただきますが、責任を取れとおっしゃるのであれば、私はこの場で辞任させていただきます。それで、よろしいでしょうか」
「ぜひ、お願いします。勿論、あなたに責任を取れなどと言うことはありません」
この菅野総理の発言で、誰にも傷がつかない結論が出されることになった。
人選会議が一段落したときに、中国の江大使の来訪が告げられ、芳賀外務大臣が気負った顔で部屋を出て行った。部屋の中に一件落着のざわめきが起きた時に、井上長官は稲本陸上幕僚長を別室に連れ出した。
「私は、佐々木幕僚長の辞表を受け取ったときに辞めるべきでした。これは茶番劇です。誰も国民のことを気にかけていません。今、この時点でも、犠牲者が出ているかもしれませんし、災難に苦しんでいる人がいるのです。それなのに、この会議です。これが日本という国の最高意思決定会議でしょう。自分の保身にしか関心のない人たちに運命を委ねてしまった国民はどうすればいいのです。私は、ご存知のとおり武力政策には反対の立場です。それは、いまでも変わりません。武力の行使は最後の手段だと思っています。最後の手段というのは、それを行使してはじめて意味があるのです。皆さんにどのように伝わっているのかは知りませんが、菅野総理の軍備縮小計画に最後まで抵抗した私に、総理は究極の手段は武力だと言ってくれたのです。私はその言葉を信じて今日まできたのです。私の周囲の人たちは、あなたたち自衛隊を好戦論者の集まりだと言いました。総理からも徹底的に押さえつけろと言われました。手綱を緩めれば、前轍を踏むことになるのだと。私は女ですから、ロマンチストではありません。武力でしか守れないものがあることを十分に承知しているつもりです。ですから、総理には、究極の手段を行使しましょうと言ったのですが、そんなことを言った憶えはないと言われました。私も政治家です。自分の信条くらいは持っています。小娘の夢物語よばわりされたんです。あの時点で辞めるべきでした。あの男たちには、これから先も、何も出来ませんよ。ですから、私は辞任して、外で活動したいと思うのです」
「そうでしたか。あなたが、あの計画に反対をしておられたんですか。初めて知りました。でも、辞任には賛成できません。佐々木が辞めたとき、長官を頼むと念を押されてます。井上長官だから言うことをきかない訳ではありません。誰が防衛庁長官になっても、総理は最後の手段を使わないでしょう。それでも、私が長官の辞任に反対する理由を聞いていただけませんか。初期段階で、つまり海上で対応していれば、警察官や自衛官の命は無駄にせずにすみました。次に敵が防御を固める前であれば、多くの人命を助けることができたかもしれません。ことごとくチャンスを逃してきましたが、これから先、チャンスがゼロだとは思いません。時間がたてば犠牲者の数は増えるでしょう。犠牲者が出てもいいとか、増えても仕方ないと言っているのではありません。でも、敵の思うがままにやらせれば、犠牲者は増え続けるでしょう。それを阻止するチャンスはまだあると思うのです。そのときに頼りにできるのが井上長官なのだと佐々木に言われました。自分もそう思います。たとえ、最後の一人を救うためだけであっても、我々には任務を果たす義務があります。ここで、辞めてもらっては困るのです。今からも、その局面で最適とおもわれる作戦を具申し続けます。長官にも主張し続けて欲しいのです」
「わかりました。こんな私に、そのような声をかけていただいて。ありがとうございます」
井上長官と稲本幕僚長が危機管理室へ戻ったときに、芳賀外務大臣が上気した顔で戻ってきた。
「どうでした」
津田官房長官が声をかけた。
「回答文書はありません。共和国側は、一部反動分子が勝手なことをしでかして、共和国政府としても大変困っているのだという返事だそうです。人民と財産を勝手に持ち出して、大きな被害をうけている。船舶が無くなり、漁業が壊滅的な状況であり、人民の生活に重大な懸念がある。日本政府には、人民と財産の返還を要求したいということでした」
「そんな」
「中国政府は、三者で話し合いのできる場を作るべく、鋭意努力中だと言っておりました」
「まだ、中国政府の働きかけは続いているということですね」
「そうです」
その時、指定電話が作動した。
「李宣昌です」
「外務省の中田といいます」
「中田さんですね。よろしく」
「こちらこそ」
「さっそくですが、ファクシミリの回線を確保してください。津田さんの約束違反で食料が確保できず、お預かりしている皆さんはとても空腹だと言っています。必要な食料をリストアップしましたので、それを送らせてください」
「わかりました」
中田審議官は、すぐに電話番号を伝えた。
「それと、先日、高速道路での事故で犠牲者がでていますが、その犠牲者を引き取らせていただきたい」
「もちろんです。引取りに来るのが自衛隊でなければかまいません。明日の朝、九時でいかがです」
「わかりました。明日の九時ですね。今度は発砲をしないように厳重に徹底しておいていただきたい」
「そのようにしましょう」

32
 携帯電話が振動した。メールには「至急 戻られたし」のメッセージがあった。緊急以外は使わないと言っていたので、町村は荷物をまとめて出発した。眼下の市街地では生活が始まっていて、人の動きがよく見えた。敵の哨戒行動は始まっていると考えるべきで、慎重に帰路をたどった。そして、誰とも遭遇することもなく、第二中継基地に到着したが、二時間以上かかっていた。
「第一まで戻ります」
一人で待っていてくれた倉持が言った。
「どうしました」
「総理大臣命令で、陸自の斥候部隊が撤退しました」
「うちもか」
「いえ。我々には撤退命令は出てません。確認しました」
「で」
「陸自は我々に情報を渡したいそうです。後を頼むつもりのようです」
「わかった」
二人は、三時間かけて第一中継基地に着いたが、町村も倉持も全く口を開かなかった。倉持も敵地での危険を十分に承知している。寡黙な男の表情は最後まで緊張していた。第一基地には、海自の四人と陸自の二人が待っていた。
「別府一尉です。そして、庄司曹長です」
立ち上がった陸自の二人が敬礼した。階級では町村が上であることを聞いているらしい。
「倉持一尉です。こちらは町村一佐です。他のものは」
「紹介いただきました」
「座りましょう。先ず、経緯をお話しいただけませんか。よくわかりません」
「この任務は、我々から下命要請をしたものです。幕僚長は御自分が詰め腹を切るつもりで了解したと聞いています。ところが、危機管理室では長官が自分の判断で命令をしたと、総理に言い切ったそうです」
「あの井上長官が」
倉持が驚いた声を出した。
「そうです。あの長官がそう言ったそうです。ですが、総理が撤退命令を出しました。長官には独自に自衛隊を動かす権限はないそうです。つまり、長官が一人で泥を被ってくれたのです。我々は撤退するしか方法はありませんでした。残念です」
「そうですか」
「危機管理室には、航空幕僚長と陸上幕僚長しかおられませんでしたし、総理は陸上幕僚長に撤退を命令し、陸上幕僚長だけが返事をされました。幕僚長不在のために、海上自衛隊は総理の命令を拝命できなかったことになります。海上幕僚長の辞任は総理も了解事項ですので、海上自衛隊に非はないことになります。多分、海自が斥候を出しているということに、総理が気づいていないということなのでしょう。宙に浮いているとはいえ、少なくとも現場に命令違反はありません。ですから、海上自衛隊にお願いするしか、ないのです」
「そうですか。この件は横須賀の司令部も了解ですか」
「了解いただいてます。人数を増やすとも聞いています」
「わかりました。他に選択肢はないようですね」
別府一尉はザックから書類の束を取り出して机の上に広げた。それは地図と写真だった。人質の収容施設は十一ケ所で推定人員は二万五千人。道路の封鎖箇所。防衛線。司令部と思われる建物。敵の推定人員。確認された武器。陸自が設置した監視カメラの場所。人質救出作戦を実行する時に必要と思われる情報は全て含まれていた。
「潜入経路はありますか」
「ありますが、毎日変わると思います」
「収容施設の警備は」
「一番問題なのは、爆発物です。これが、ここの施設に爆薬敷設作業をしている写真ですが、他の施設も同じと考えています。次は、もうご存知でしょうが、半数以上が一般人と思われる人たちです。老人も女も子供もいます。あの国では、全員が民兵だと思わなければいけませんが、どうも我々の感覚では困りもんです。重火器は少なく、主要装備は小銃ですが、その数が一番の装備なのでしょう」
「驚きました。これだけの情報があるのに、救出作戦をしない訳は」
「それは、町村参謀殿がよくご存知でしょうが、総理には自衛隊を出動させる意思がないためでしょう。そうですよね」
「そうなんですか」
「ん」
「人質をこのまま放置するのですか。時間が経てば、更に厳しいことになりますよ」
「菅野総理は、話し合いが問題解決の唯一の方法だと信じておられる。市民派で人権派の総理に武力はふさわしくないと思っておられるようです。そうですね」
「ん」
「そんな。市民の犠牲を前提にしても、ですか」
「総理は政治家ですから」
「下々の出る幕ではない」
「の、ようです。町村一佐といえば、海自のトッブ参謀でしょう。その一佐が、ここにおられること自体が真相なんでしょう」
「わかりました。この件は一佐によくうかがいます。これだけの情報を出して、別府一尉は我々に何をしろと」
「交換条件で出したつもりはありません。確かに、陸自の中にはこの件に批判的な人もいます。いつまでも、陸だ、海だという人たちです。国民を誰が守るのか。相手の武力から国民を守るのは、やはり軍人でしょう。自分も軍人ですが、皆さんも軍人です。それで十分でしょう」
「ありがたい。あなたがここに来ていただいたことに感謝します」
倉持の表情が変わった。別府一尉を見る目に、友人に向ける信頼感のようなものがあった。
「正直言って、我々はまだまだ力量不足です。海自が陸上の斥候をしていることに無理があるのかもしれません。別府一尉が窓口をやっていただけるなら、非公式にですが、あなたの指示で動いても構いません。現場の責任は自分がとります」
「そうですか。実は、高橋一尉にあなたの話を聞いてきました」
「高橋真史ですか」
「ええ。同期ですよね」
「今でも、あいつとは付き合いがありますよ」
「国を守るということは人を守ることだというのが、あなたの持論だと聞きまして、倉持一尉が相手なら、と思いました。うちの指令もこの全資料を持っていくことに賛成でしたし、何とか結果につなげたいと思っています。お願いします」
「町村一佐殿。陸自も捨てたもんじゃありませんね。自分は、別府一尉の指示で動きます」
「ここの指揮官は君だ。問題はない」
町村は席を外して外に出た。部屋に残った六人は、活発な検討に入った。町村は携帯電話に市ケ谷の北山本部長の番号を打ち込んだ。
「北山」
「町村です」
「おお。どうだ」
「本部長。やはり、市ケ谷で想像してたのとは違います。収容施設も見ましたが、我々の任務は、どう考えても、あそこにいる人たちの救出です。特定の個人を救出することは間違いです。自分が甘かったと思います」
「そうか」
「申し訳ありません。やはり、正式に退官させてください」
「そうか」
「お願いします」
「わかった。お前がそこまで言うのなら、それでいい。手続きはこちらでやっておく」
「助かります」
「だがな、必要があれば、何でもいい、言ってくれ。わかってるとは思うが、本当は俺が行きたいんだ」
「わかっております」
「町村」
「はい」
「加代を、たのむ」
「はい」
電話を畳んで部屋に戻った町村は、そのまま二階へ向かった。一階では、窓際に見張りを一人だけ置いて、五人が資料に見入っている。町村は二階で仮眠を取るつもりだった。自分の軽率な提案が、自分にとって一番大切な人を、生死もわからない状況に追いやってしまった。自分の感情を納得させる理屈は、何一つ見つからなかった。


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