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無力-13 [「無力」の本文]

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 防衛庁の地下三階で、限られた人数による秘密の作戦会議が開かれた。防衛庁の建物の中で、クーデターの作戦会議が行われるいることを想像する人はいないだろう。二日間で作りあげた作戦は町村のノートにしか書かれていない。武田がよく動いてくれた。出席者は、陸上と航空の両幕僚長、統合参謀本部の北山本部長、陸自の安藤一佐、そして町村の五人だった。
「あの世に行く顔ぶれとしては、申し分ないな」
真田航空幕僚長が言った。A級戦犯は少なくしたいという稲本陸上幕僚長の意見で、参加者は限られることになった。安藤一佐がふてぶてしい笑顔を見せた。今まで作戦会議が行われる度に衝突してきた町村と、同じ部屋にいることを笑ったのかもしれない。
町村は順を追って話を進めた。危機管理室と防衛庁の参謀本部は情報共有のために、通信回線で直結されている。危機管理室の機器を動かしているのは自衛隊の技官であり、日常的に補修が行われていたので、武器と爆薬の搬入は補修機材として持ち込む。参謀本部からのデータを操作して、通信回線の故障と思われる事故を発生させ、その補修と偽って爆薬をセットする。「爆破する」と言っても信じない場合は、被害の少ない場所をダミーとして爆破しなければならないので車庫にも爆薬をセットする。危機管理室の出席者を拘束するために、両幕僚長は武器を携帯するが、迫力を増すために武器は自動小銃とする。危機管理室の状況を公開して、テレビ中継をする。そのためのテレビクルーを選んでおく。舞鶴の現状を伝え、死者の推定数も発表。なぜ事態がここまで悪化したか、段階を追って追及する。そして、事態収拾案を出して、政府決定とさせる。
あくまでも、政府首脳が従わない場合は全員を拘束し、新しい総理大臣を選任する。選挙の時間は無いので、民主党の中でこの案に賛同してもらえる人を捜し、賛同者がいない場合は、自民党と交渉する。国会での決議を得ることを求め、極力軍事政権を避ける。町村は防衛庁長官の委託を受けて、舞鶴で共和国軍の司令官と交渉をする。共和国軍には、党の人間と日本人協力者を制圧してもらう事と、各収容施設に敷設したと思われる爆破物を無力化してもらう。日本政府は、党の人間以外の全ての共和国人の希望者に、日本国籍を与え、永住可能とする。日本政府の決定があり次第、共和国側は武装解除を実施する。党の人間と日本人協力者は収監し、党の人間は強制送還、日本人は裁判にかける。今回の戦争で犠牲になった日本人の補償は日本政府が行う。この和平交渉が成立しない場合は、武力による鎮圧を実施する。町村の作成したクーデターの骨子はこのようなものであったが、B級戦犯となるであろう実行部隊の編成が必要であったし、細部の作戦をこの一両日で作成しなければならなかった。
「町村一佐。わしの言う事を怒らずにきいてもらいたい」
黙って聞いていた稲本幕僚長が発言した。
「はい」
「骨子は、この作戦に異存はない。だが、このクーデターは国民の同意をもらうことが、何としても必要だと思っとる。例え、国民の理解があったからと言って、ここにいる五人の罪が消えることはないが、クーデターが成功した後に問題が残る。二万人と言われている共和国の人間をどうやって受け入れる。無人島にでも移住してもらうのか。そんな島は無いぞ。この狭い国土に受け入れるには、国と自治体、そして住民の協力が不可欠だと思う。情報公開が必須であることには賛成する。しかし、全てが明るみに出て、彼等のやった蛮行を国民が知った時、国民感情として問題は起きないだろうか。喜んで受け入れてくれるだろうか。総論賛成、各論反対にはならないだろうか。うちに来て働かないか、と彼等に言ってくれる人がどれぐらいいるのだろうか。クーデターは一時的なもんだが、彼等の生活は永続しなくちゃならんのだ」
「はい」
「仮に、彼等を強制送還するとしたら、どうなる。地獄が待っていることを知っとる筈だ。つまり交渉は成立しないことになる。我々に残された選択肢は、さきほど言った国民の同意というものしか無いのだろう。諸手を挙げて賛成し、どんなことでもやります、と言うような方法が無いことは確かだ。だが、自分の身に置き換えて、この事態を受け取ってくれる人を一人でも多くすることはやるべきだと思う。それは、徹底的な情報公開しか無いと思う。なぜ、我々が生命を捨ててもいいと思ったか。それは、この悲惨な現実の、生の情報を持っているからだと思う。情報を共有すれば、本気で同意してくれる人が増える可能性がないだろうか」
稲本幕僚長は町村を見つめた。
「そこで相談だが、北山加代さんにテレビ出演を承諾してもらう訳にいかんだろうか。彼女は、ただ一人の体験者なのだから、その言葉には視聴者の心を動かす力があると思う。政治家のような言葉遊びでは、納得してもらえないんじゃないだろうか」
町村は即答できなかった。
「彼女の体調がひどく悪いということは聞いているが、この作戦の成功の鍵は彼女ではないかと思う。多分、彼女を説得できるのは、町村一佐、君しかいないのだろう。個人的なことで申し訳ないが、君の意見が聞きたい」
稲本幕僚長の話は説得力があったが、加代の体調では難しいのではないだろうか。町村は躊躇した。
「幕僚長のおっしゃるとおりだと思いますが、彼女はまだ一言もしゃべりません。体力の衰弱にも厳しいものがありますが、それよりも精神的なダメージが大き過ぎて言葉が出なくなったのではないかと思っています。子供たちの死を知るまでは、不安定でも話すことができました。言い方が変ですが、彼女の目は違う世界を見ています。今は、自分と同じ世界にいないのでしょう」
「北山本部長から、状況は聞いている。それでも、お願いしたい。勿論、彼女が断るなら無理にとは言わない。だがな、彼女もこの事件を一生背負わなければならない。だから、このことで彼女にも生きる価値を見つけてもらいたい。苦しみだけを背負っては生きていけない」
幕僚長の意見というのは、これからの加代の人生も考えての発言であった。つい最近まで人生の伴侶と決めていた女を置き去りにして、自分は大罪を犯そうとしているのだ。加代に何かを残していくのは、人としての務めなのだろう。
「わかりました。やります」
「わしの友人の息子が優秀な精神科医らしい。必要なら相談できるようにしておこう」
町村は、安藤一佐に後事を託して福知山へ戻ることになった。

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 福知山の市民病院の特別室で、加代は点滴だけで生きていた。
「どうですか」
町村の問いかけに、加代の母親は力なく首を横に振った。母親の名前は真理子だったが、丸子で通っている。体つきが丸々としているだけではなく、明るい笑顔は大勢の人に愛され、周囲を丸く収める天性を持っていた。そんな真里子が、元気を無くして暗い表情をしているのを見るのは初めてだった。
「お母さん。少し休んでください。自分がここにいますから」
「そうね。この子がこんなにやつれて。私、何もしてやれなくて。いけないと思うんだけど、こっちが落ち込んじゃうの。勇一さんが来てくれたから、少し休ませてもらいましょうか」
「そうしてください」
元気のない母親が部屋を出て行った。加代が目を覚ますのは、ほんのいっときで、ほとんどの時間を眠ってすごしている状態であった。母親の真理子は、まだ娘の声を聞いていない。栄養失調だった加代の体内へ送り込まれている栄養分も、表面化するには時間が必要なのかもしれない。腕の傷も初期治療が充分ではなかったので、傷跡が醜く残っている。市民病院の医師は、元気になったら手術しましょうと言っていた。傷跡を見るだけでも母親の気持ちは辛いのだろうと想像した。
眠っている加代を見ているだけの時間が過ぎていく。町村が病院に戻ってきてから、五日目になっていた。病院の生活は決まった時間に決められたことが起きるので、次第にそのリズムにも慣れてきて、焦る気持ちも随分治まっていたが、心が壊れてしまった加代を、この世に戻すにはどうしたらいいのか、何の目算もないことが不安であった。いつものように清掃係の気の弱そうな中年の女性が、恐る恐るドアを開けて入ってきた。部屋の清掃は引き戸を開けて行われるが、五階にある加代の部屋は廊下の突き当たりにあって人通りはない。それでも、人声や物音が聞こえて、少しは気が楽になる。日曜日のせいかいつもより見舞い客が多いようで騒音が大きかったが、元気な声を聞くのは病人にはいい薬になると聞いたことがある。加代が動いたような気がして覗き込んだが、加代は静かに眠っていた。静かに入ってきて静かに清掃を済ませた担当の女性は、出て行く時も静かだった。町村はドアを開けて廊下に出ると、突き当りの窓から市街地を見た。舞鶴の至近距離にあるこの福知山で多くの人が普通の生活を送っている。この落差をどのように理解したらいいのかわからなかった。ナースステーションの近くで子供たちが走り回っているのが見える。子供たちは、楽しそうだ。村上の話によれば、舞鶴の子供たちは楽しみを奪われ、死の意味も解ることもなく、死んでいく子供たちがいる。舞鶴から離れて日常生活圏内いると、その不条理が心を締め付ける。こんな悲しみを、総理大臣はどう受け止めているのだろう。町村は入り口のドアを開けたまま椅子に戻り、点滴をしていない方の加代の手を握った。
「メグ。やめなさい」
二人の子供が廊下を走っていくのが見え、母親が声を抑えて叱責している。若い母親がドアの外を通り過ぎ、子供たちの向かった窓際の方へ行くのが見えた。しばらく、子供たちに言い聞かせている母親の声が聞こえていたが、子供たちは突然歓声を上げて走り出したようだった。
「メグ」
我慢が切れたのか、母親が大声で子供の名前を呼んだ。
町村の両手の中にある加代の手が動いた。目を戻すと、加代が大きく目を開けていた。
「加代」
町村は立ち上がり、加代の目を覗き込んだ。
「勇一さん」
「ん」
「どうして」
加代の目は周囲を確かめた。
「ここは」
「福知山の病院だよ。もう大丈夫だから」
加代は入り口のドアの方へ目をやり、何かを待つような表情になった。短い時間が流れて、加代はベッドの上に上半身を起こした。
「修と恵が」
加代の体が小刻みに震えている。
「イヤァァァ」
病院中に聴こえるような大きな悲鳴だった。加代が町村にしがみついてきて、点滴のポールが床に倒れる。町村には加代が現実の世界に戻ってきたことがわかった。体を震わせて泣いた。息苦しくなるほどの力で、町村にしがみついている。看護婦が部屋に飛び込んできたが、町村は手で看護婦を制した。看護婦の目が点滴の針を捜して、床から拾い上げた。町村は目で「大丈夫」と告げた。看護婦は点滴のポールを立て、薬液の袋と針を持って部屋を出て行った。号泣という言葉は知っていたが、まさしく号泣だった。この時に、自分がここにいたことに感謝した。どこまでも受け止めよう。泣いて、泣いて、泣いて、そして戻ってきてくれ。作戦に必要だからではない。この女と一緒に生きていきたい。傍にいて欲しい。そしてお前の傍にいてやる。町村はあらゆる幸運に頭を下げた。
泣き疲れた加代は、町村の腕の中で眠ってしまった。町村は起こさないように加代をベッドに横たえた。涙で顔中が濡れている。静かな寝息で、寝顔に表情があった。がんばれ。
買い物に出ていた母親の真理子が部屋に戻ってきた。部屋の中の様子に違和感を感じた真理子は、町村の顔を見つめた。
「気がついたようです」
町村は起きたことを話して聞かせた。途中で主治医の大山医師が来たので、初めから話をした。
「少し、時間をかけてやってください」
大山医師は女医らしく、優しい笑顔で町村に注文をつけて部屋を出て行った。

54
 病室はカーテンを開けるようになって、夜でも暗さが減ったように感じると真理子が言っていたが、町村もそう感じていた。空が見えるということが人間には必要なのだろう。加代は自力で食事を摂れるようになり、ベッドの上で起き上がることもできるようになった。口数は極端に少ないが、町村や真理子の話はよく聞いたし、表情も落ち着いていた。ただし、記憶の暗い奈落に落ちることがあり、目の光を失うことがある。そんな時は黙って見守ることにしていた。加代にとっては辛い記憶に違いないが、町村は根気よくその背景の説明をしていた。加代の再生には、新しい光が必要であり、その光は過去の延長線上にある。酷なようだが、それを乗り越えて欲しかった。自衛隊は第二の舞鶴、第三の舞鶴が近々現実化するものと考えている。それでも、政府は嵐が通り過ぎるのを待っているのである。
「村上さんが言っていたが、もう誰も救出部隊など待っていないと言っていた。国は実質的に二万人の国民を切り捨てたことになる」
「私は、待ってた」
「えっ」
「毎日、待ってた」
過酷な状況を生き抜いてきた加代の言葉は重かった。
「すまない」
加代の言っていることが本当の気持ちだろう。村上が言っていたのは、男の強がりや見栄に過ぎないのかもしれない。一週間、加代の様子を観ていて、この話を始めて三日になる。会話ができたのは初めてだった。
「私は、何もできなかった。今でも、苦しんでいる人が、いっぱいいるの」
また、加代の目から涙がこぼれ落ち、町村は話をやめて加代の手を握り締めた。加代は窓の外に広がる空を見上げて、声を出すことなく泣いていた。窓も空も涙で歪んでいる筈だが、本人に泣いているという実感はあるのだろうか。それとも、舞鶴の収容施設の風景を見ているのだろうか。
「勇一さん」
「ん」
「話して。あなたの声を聴いていたい」
「ああ。他の話をしようか」
これ以上の話は重すぎるだろうと思ったが、他の話は無かった。どんな話題であっても、この事件に結びついてしまうのを知っていた。
「すまん。他の話はなかった」
「いいの。続きを」
町村は、村上の死を見届けたときに、一人でクーデターを実行する決心をしたことを話した。北山本部長からクーデターは厳禁されていたが、この病院でその決心を告げると、意外にも賛成してくれたことも話した。
「ここに来たの」
「加代の顔を見て帰ったよ」
「そう」
「金美姫という人を覚えているか」
加代は首を横に振った。
「君を救ってくれた、共和国の女性」
「ああ。お母さんと二人。はっきりとは思い出せないけど」
「あの二人は、司令官の奥さんとお嬢さんだったんだ」
交渉次第では和平が成功する可能性があることを話した。
「で。どうだったの」
「まだ、始めていない」
「どうして」
町村は稲本幕僚長の話を持ち出し、国民の支持が必須の条件であることを話した。
「唯一の体験者である君の話だけが、説得力を持つと言われた。自分もそう思う」
「八木さん、敬子さん、しゅう君とめぐちゃん、そしてケンさん。ほかにも大勢の人が死んでしまった。それなのに、私は生きている。許されるとは思えない。でも、学校にいる人が救われるのなら、何をやってもいい」
「でも、君にとってはつらいことだろう」
「ええ。でも、何もできないよりは。今なら総理大臣を殺せと言われても出来る」
「そんなことは、しなくていい。必要であれば、稲本幕僚長が殺すだろう。君はテレビのインタピューに答えてくれればいい」
「わかったわ」
「自分は東京には付いて行けない。舞鶴で金美姫のお父さんと会う」
「そう」
「断ってもいいんだぞ」
「勇一さんの話で、もう少し生きてみようかと思ってる」
加代の目には、今までに無かった光があった。町村は真理子の部屋に行って事情を話した。真理子は黙って聞いてくれて、あの子には必要かもしれないと了解してくれた。東京の北山本部長に連絡をして、クーデター作戦は開始された。

55
 勇一の熱い気持ちと、包み込んでくれる優しい心遣いが勇気をくれたようだった。勇一の前では、できるだけ平静を保ったつもりだったが、寺での出来事からは記憶が断片的に途切れていた。ただ、あの学校に閉じ込められている人たちを救うためならどんなことでもしたいという気持ちは本気だった。あまりにも多くの人の死に直面して、生きる意味を失っていた。やらなければならないことをやれなかった自分には、罪を犯したという意識が強い。神でもないお前に、何が出来ると言うのだ。わかっている。でも、贖罪の意識が強く、生きる価値が欲しかった。本当は、死んでいった人から「許してやろう」と声をかけて欲しかった。空耳でもいいから、その言葉が聴きたかった。傲慢なのかもしれないが、自分自身を許せていない。自分の意識のすぐ傍に死がある。その死を受け入れるとしても、自分にできることはしておきたかった。死んでしまいたいという気持ちと、生きたいという気持ちが同じところにあることを、漠然とではあったが知っている自分がいた。生き残っている自分が、この先も生き残りたいと願っている。加代の気持ちは右に左に揺れていた。
陸上自衛隊の制服を着た人たちが病室にストレッチャーを押して入ってきた。主治医の先生に頼んで打ってもらった睡眠薬が効き始めている。まだ、ヘリに乗る自信はなかった。母がすぐ横にいる。子供の頃、高熱を出して、父の運転する車で病院に行く時に、母がずっと手を握ってくれていたことを思い出していた。病院の裏口のような所で自衛隊の救急車に乗せられたところまでは覚えていた。
寝入った加代を乗せたヘリは東京へ向かった。
加代を乗せた車両は厚木基地から虎ノ門にある病院に向かった。サイレンもなく、遅い時間に病院に入り、出会う人もなく病室に運び込まれた。航空幕僚長の親族が病院の理事をしている関係で、病院の協力体制は整っていた。
一夜明けた病室に叔父の健一郎が、武田二尉を連れてやってきた。
「お前には、苦労をかけて済まない」
「叔父さま。福知山にも来てくれたのね」
「ん」
「私なら、大丈夫」
「武田は知ってるな」
「ええ」
「インタビューの準備をしておいて欲しいが、大丈夫か」
「はい」
「よろしくお願いします」
武田が加代に声をかけた。

56
 倉持の部隊にいる小山曹長と二人で舞鶴に潜入した町村は、岩場にある監視所で周囲の様子を確かめた。街が静まるのを待って、教会の裏手にある家に忍び込んだ。見慣れた居間に、美姫と母親がいた。建物の中に二人以外の気配がないことを確認して、町村は居間に入っていった。
「驚かせてすみません」
町村は驚いて身構えた二人に謝った。
「あなたでしたか。来てくれたのですね」
「遅くなって申し訳ありません」
「よかった」
「いろいろと準備がありました」
「そうでしたか。母の言っていた通りで、とても安心しました」
「お母さんが」
「あなたは、将来国を背負う人だと」
「それは、多分、お母さんの勘違いでしょう」
美姫は笑顔だけで、町村に答えた。町村も美姫の母親には不思議な力を感じていたが、超能力の類の話は信用していなかった。
「お父さんと会うことはできますか」
「もちろんです。父の了解は取ってあります。母の力ですけど」
「ありがたいことです」
「明日の朝には、時間をご連絡できると思います。ここに泊まりますか」
「いえ。出直してきます」
「そうですか。もっと、あなたとはお話がしたかったのに」
「いつか、その時間は来ますよ。きっと」
「そうですよね。あの方は」
「東京の病院に入院しました。だいぶ、元気にはなりましたが、まだまだです。本人はあの時のことを全部覚えている訳ではないようで、あなた方への伝言はありませんでしたが、自分は心から感謝しています。あなた方に救っていただいたことが、全ての始まりになりました。本当にありがとうございました。ぜひ、多くの人を救う道になって欲しいものです」
「母も私も、そう願っています」
町村は、来た時と同じように静かにその家を離れた。いつもより神経がピリピリしている自分に苦笑いするしかなかった。
美姫の父、金明進との会談は夜の八時と決まった。町村との一対一の話し合いになるという。小山曹長は監視所において行くことにした。非常時発信機だけを持ち、武器は一切身につけない。無事に交渉が成功することを祈るだけだった。町村は昼過ぎに監視所を出て、教会の見える場所に潜伏した。母親が一度だけ外出したが、他には何の動きもなかった。七時半を過ぎた頃に、年配の男性が一人でやってきた。司令官であれば従卒がいる筈だが、全くの単身のようだった。町村は八時五分前まで様子をみて、正面ドアを開けた。
「どうぞ」
玄関には美姫が待っていた。
「ありがとう」
美姫の後ろから居間に入ると、テーブルに先程見た年配の軍人が座っていた。母親は台所で何かをしている。男性は椅子から立ち上がったが、表情は硬かった。美姫が父親の正面の椅子を引いて町村に勧め、自分は中間の席についた。
「父の金明進、共和国軍少将です」
美姫が通訳として父親を紹介した。
「町村さんの階級は」
「一佐です。大佐と伝えてください」
美姫が自国語で町村を紹介した。金明進が手で座るように勧め、三人は席についた。金明進が美姫に話しかけた。
「先ず、日本の話を聞きたいと言っています」
「わかっています。その前に当たり前のことを確認させてください。少将がこの席についておられることで、共通の前提に立っているものと理解していますが、お互いの言葉で確認をしておきたいのです。我々は、この戦争を犠牲者の少ない形で終わらせたいと望んでいます。我々の希望が少将の希望と同じものなのかをお聞かせいただきたい」
美姫がメモを見ながら慎重に通訳している。少将はじっと耳を傾けて聴いていたが、大きく頷いて美姫に返事をした。
「和平交渉だと思っているそうです。ただし、本国の了解は無く、司令官としての範囲で交渉に応じて欲しいと言っています。両国の人民に犠牲者が出ることは望んでいません」
「ありがとうございます。自分も軍人なので、駆け引きはできません。単刀直入に申し上げます。各収容施設に敷設したと思われる爆破物を無力化してもらいます。党の人間と日本人協力者を制圧拘束していただきたい。それ以外の方には、本人の希望があれば、日本国籍を与え、日本での永住も可能にします。本国へ戻りたい方には、その手段を提供します。党の人間は我々の手で強制送還とします。日本人協力者の身柄は引き渡していただき、日本の法律で裁かれることになります。日本政府の決定があり次第、共和国側は武装解除を実施していただきたい。これが和平条件の全てです」
町村は美姫がメモを取りやすくするために、ゆっくりと話した。美姫は自分の仕事が重大な役割を担っていることを知っている。真剣な表情で町村の話を通訳していた。
「本当に我々を受け入れることが出来るのか、と聞いています」
「とても、難しいことですが、乗り越えなければなりません。そのための最大限の努力をすることはお約束します」
通訳をした美姫に、考えこんでいた金明進少将が何事か話し、美姫が驚いた表情になった。
「共和国軍の責任を自分一人で負うことはできるか、と言っています」
「その言葉は重く受け止めさせていただきます」
「兵は命令で動いただけで、命令を出したのは司令官である自分だと伝えるようにと」
金明進少将は、自分の生命で責任を取ろうとしている。今からの時間の流れの中で、現実にそのような事態が起きないとは断言できなかった。
「よく、わかっています。と伝えてください」
「自分の生命を含めて、全てを町村大佐にお任せしたいそうです」
「ありがとうございます」
金明進少将の顔は疲れていた。そして静かに話を始めた。共和国へ帰りたいと言う者は少ないだろうが、希望者にはぜひとも便宜を図って欲しい。クーデターを画策しているという密告のために、金明進少将自身は政治犯収容所へ投獄される寸前だったと言った。金明進少将は第八軍に所属していたが、兵は各部隊で不審者と噂されていた者たちばかりで、共和国にとっては不要な者だったこと。だから、共和国にとっては、全員死亡でもいい作戦だったと言った。一般の人民も口減らしの意味合いがあり、日本に来て、毎日食事ができることを喜んでいるので、帰還希望は無いだろう。難民に見せかけるには、女子供も老人も必要だったので、派遣部隊が家族ぐるみになっていたこと。普通は家族を人質に取ることが通例だったが、この作戦はあらゆる面で違例なことばかりだった。だから、成功したのだろう。今、このような状況になってみると、家族ぐるみで来ていたことが町村の提案を受け入れる大きな要因になっているのだと言った。
「さきほどお願いした制圧拘束には、どのくらいの時間が必要でしょうか」
「二十四時間、と言っています」
「わかりました。作戦発動は、自分が伝えに来ます」
母親が出してくれたお茶を飲んで、町村は教会を後にした。玄関を出る時には、自然な動作で町村を抱きしめてくれたが、不思議な感覚だった。如意棒を持った町村がこの女性の手の平の上で走り回っている様子を想像した。

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