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世襲政治家問題 [評論]



加谷珪一さん、という経済評論家の方がいます。テレビ出演もしている有名な方です。
今日は、加谷さんに有識者の代表になってもらい、有識者と呼ばれているお偉い先生方が、責務を果たしていないことを指摘したいと思います。これは、明治時代から続いているもので、加谷さんだけに問題があるのではありません。
テレビで、何度か、彼の意見を聞きましたが、可もなく不可もなく中庸の意見を言う方だと思っていました。私の中では「なあ、なあ」「まあ、まあ」評論家という印象でした。
しかし、その加谷さんが歴史について書いている文章を読んで、「へぇー、こんな分析もしてるんだ」と思いましたので、その事について書きます。
ただ、歴史を承知の上で、テレビで稼いでいるのですから、「自分さえよければ」の確信犯のように見えてなりません。もちろん、確信犯は加谷さんだけではありませんが、有識者と呼ばれる皆さんには、それなりの責務があると思うので、とても、残念です。
加谷さんは、経済の専門家です。日本経済の衰退は百も承知だと思います。その原因が、日本社会を腐らせている歴史と伝統にあることも知っているようです。ですから、日本崩壊は避けられないと思っていると推察します。しかし、彼は、自分の収入を守るために、可もなく不可もない意見を言って稼いでいます。もちろん、加谷さんには、そうする権利はありますので、彼を責めることはできないのかもしれません。ただ、彼は、もう、海外移住するだけのものは稼いだと思いますので、できれば、一般庶民のために、多くの子供達のために、一肌脱いでくれたらいいのにな、と思います。
でも、ここは、彼の意見を聞いてみましょう。

「なぜ日本人は世襲を批判しながら、世襲議員に票を入れるというちぐはぐな行動をとっているのだろうか」という表題です。
彼の答は「お互いが自分に甘くして欲しいと考える、日本人特有の思考回路がある」と書いています。
その通りです。
いわゆる、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の社会です。
もちろん、テレビで「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっている加谷さんも、代表的な一人です。これは、曖昧文化から生まれる利点です。
では、「なぜ、このような思考回路を持っているのか」という問いには。
「日本は、まだ、江戸時代の延長線上にある」と答えています。
これも、その通り、だと思います。
「世襲という、ある種の弱点を持つ人物をリーダーにしておきたいという国民の深層心理には、リーダーを甘やかすことで自分も甘やかして欲しいという願望がある」
「一方、世襲によって選ばれた人物は世襲に対する負い目があるものの、自分は特別な人間であると勘違いしがちであり、多少のことなら許容されると、やはり世間に対して甘えの感覚を抱く」
と分析しています。
その上で、加谷さんの結論は。
福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人の意見を披露しつつ、「日本社会の構造は典型的な前近代的共同体だ」と結論しています。「先人達も、みんな、言ってるもん」という言い方は、姑息なやり方だと思いますが、結論が正しいので、目をつぶります。

この「前近代的共同体」を私流に言えば、「民主主義風王政並立封建制度」です。
日本は、「前近代的共同体」なのだから、仕方ない。「私には、どうすることも出来ない」で終わります。そこで終わってしまうことが問題なのですが、そのことには、気付きません。多くの先人達も、問題点を指摘してきましたが、明治維新から150年経ったのに、その本質は何も変わっていません。誰一人、そこから先へ行った人がいないからです。
「前近代的共同体」という原因を見つけているのに、そこから脱皮する方法がわからないのです。「前近代的共同体」は、特定の誰かが維持しているのではありません。それを維持しているのは、文化です。これまで、そのことに気付く人がいなかったのが不思議でなりません。先人の皆さんも、加谷さんも、皆さん、聡明な方ばかりなのに、「文化」に気付かない。そのくらい「文化」の力は凄いのです。

加谷さんは、世襲問題だけではなく、衰退を続けるこの国の元凶は「前近代的共同体」にあると結論しているのですから、岸田政権がやっていることに意味がない事を知っていると思います。しかし、テレビ出演では、そんな指摘はしません。それは、原因が分かっていても、解決法がわからないからだと思います。テレビでは、評論家として、目先の解決法を語りますが、彼自身、そんなことで解決するとは思っていないでしょう。
確かに、評論家の仕事は分析することであり、解決策を示すことではないと言われれば、その通りですが、どこかすっきりしません。
有識者と呼ばれる人達は、加谷さんもその一人だと思いますが、勉強はしています。
だから、知識を有する者と呼ばれているのでしょう。
ただ、知識は知識でしかありません。もちろん、無いよりは、あったほうがいいです。
加谷さんも有識者会議等で活躍されているものと思いますが、知識を披露し、「ああでもない、こうでもない」と言いながら、皆で「ふむ、ふむ」と頷き、最終的には「なあ、なあ」「まあ、まあ」で締めくくる。これが、まさに、日本の文化です。
今の有識者の皆さんは、福沢諭吉、土居健郎、丸山眞男、大塚久雄、山本七平、夏目漱石、渋沢栄一という先人達を越えられるとは思っていないのでしょう。ですから、現在の有識者の皆さんの思考も、ここで行き止まりになります。それを150年間続けています。
未だに、封建制度から抜け出せていないということは、そういうことだと思います。
どんなに正しいことを言っても、原因の原因の原因に辿り着かなければ、行動しなければ、何も変わりません。
30年前までは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」はそれなりに機能していたと思います。しかし、その方式も、ついに、限界にきています。それを、国力衰退が証明しています。それなのに、誰もが「見て見ぬふり」をしています。
有識者の皆さんの分析は何も生み出していません。彼等は、分析というネタで、ただ、ただ、稼ぐだけです。
今、この国に必要な人材は、知識人でも政治家でもないのだと思います。
今、この国が求めているのは、革命家なのだと思います。
確かに、「無いものねだり」ですから、実現は難しいと思いますが、国民が自ら「言葉の定義」に挑戦することを煽る革命家が求められているのだと思います。
有識者の皆さんが得意とする分析は、分析のための分析に過ぎず、その原因の原因の原因に辿り着こうという意欲は見られません。しかし、私は、有識者の皆さんには、原因の原因の原因を見つける責務があると思っています。
加谷さんも、原因が「前近代的共同体」にあるとわかっています。あと一歩前に進めば、文化に辿り着きますが、足を前に出そうとはしません。もしかすると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」社会で稼ぐために自己規制をしているのかもしれません。
原因の原因の原因は不明、行動もしない、革命家もいない、という「無いもの尽くし」なのですから、何かが変わるという希望はありません。
「だったら、お前が、やれよ」
その通りです。
申し訳ないと思います。
私も他力本願なのですから、大きな口は叩けません。
ですから、皆さんと共に地獄へ行くことは承知しています。
ただ、もしかしたら、「この国が地獄になる前に死ねるかもしれない」とか、「地獄へ行っても、この歳だから、そんなに長くは苦しまなくても済むのではないだろうか」という助平根性はあります。
でも、私より若い皆さんは、そうはいきません。
どっぷりと、地獄の味を噛みしめてもらうことになります。
皆さん、大丈夫ですか。
皆さんは、加谷さんのように、海外移住を可能にする資力を持っているわけではないと思います。皆さんは、自分のために、何かをする必要はないのでしょうか。
地獄へ行けば、残念ながら「俺には関係ねぇ」は通用しません。
一人の例外もなく、地獄で七転八倒することになります。

さて、ここで、世襲政治家が、なぜ、力を持っているのか、について考えてみます。
力の源泉は、加谷さんが指摘しているように、「前近代的共同体」にあります。
実際に世襲政治家が総理大臣になるケースは多々あります。
中でも、日本社会で、究極の世襲を実現しているのが、天皇家です。
私達の国は、民主国家だと標榜しているのに、憲法の第一条で、国民ではなく、天皇のステータスを宣言するような国です。
私達の国は、憲法で、架空の、「国民の総意」という虚構を作り、あたかも暗黙の了解があるかのような手法を用いて、世襲をステータスだと認めているのです。
世襲政治家が、未だに、この国を天皇制に戻したいと願っているのは、そのためです。
今の私達は封建制度時代の百姓と同じなのですから、ステータスには逆らいません。土下座という風習はなくなりましたが、精神的には、ずっと、土下座をしています。
ですから、封建制度のこの国では、世襲はステータスであり、それなりの力があるということです。

風味として付け加えられた日本の選挙では、「おらが町の利益を引っ張って来る政治家」が、選ばれます。これも、封建制度下の定番です。
徳川家か、島津家か、毛利家か、山内家か、松平家か、安倍家か。天下を取った地域は経済的な利益を得られるという構図があるから、「お殿様」は必要なのです。
日本人にとっては、日本という国よりも、「おらが町」のほうが大事です。
総理大臣を輩出した地域では、盛大な祝賀会が開かれ、地域の人達も「よかった、よかった、誇らしい」「これで、俺達の生活も、少しは良くなるだろう」と喜びます。
そこに、「国」とか「国民」という概念は存在していません。
日本は、民主国家ではないので、「国民」は二の次でいいのです。
「お殿様一族」は、代々積み上げてきた政治的な資産もあり、永田町でも発言力があり、地元に利益を持ってきてくれる確率が高いのです。
今の選挙は、「おらが町」の利益のためのものです。
ですから、この国は、民主国家にならない限り、国や国民という概念を国民が理解しない限り、世襲政治家はなくなりません。
世襲政治家を批判する人は、それなりにいます。苦々しく思っている人もいるでしょう。
でも、批判だけでは社会は変わりません。必要なのは、解決策です。
しかし、誰一人、解決策に辿り着きません。
時々、思い出したように批判して、終わります。立憲や共産が、解決策も持たずに、批判に専念している姿は、私達の社会を鏡に映しているようなものです。
でも、仕方ありません。
何を、どう、変えたらいいのか、誰も知りません。それは、あらゆることが曖昧で、境界線がないからです。そんな環境の中にいれば、とりあえず、歴史と伝統から得た経験則に頼るしかありません。皆さんの場合の経験則は、封建制度下の百姓としての経験則のことです。百姓にとって、大事なのは自分であり、国がどうなっても、国民がどうなっても、「俺には関係ねぇ」のです。百姓にとっては、地元の利益のために働いてくれる世襲議員に一票を投じるのは、当たり前のことなのです。
国が壊れたら、国民生活が壊れたら、自分の利益も壊れるのに、「皆一緒に壊れるなら、仕方ない」と思ってしまう。そんな「いい人」の集まりです。
国民の皆さんには、国全体を守り、国民生活全体を守ることが、自分の利益を守ることになるという構図は見えていません。
なぜなのでしょう。
それは、誰一人、民主主義の定義も国の定義も国民の定義もせず、自分の責務を知らないからです。
歴史や伝統や文化を否定している私は、謀叛者として獄門打ち首の刑になるのかもしれませんが、日本国民の皆さんは、今でも、封建時代の従順な百姓のままです。褒めているわけではありません。いずれ、百姓の現実に直面することを気の毒だと思っているのです。
どうか、土下座を続けてください。過酷な現実に直面した時、手遅れではありますが、皆さんにも「お気の毒」の意味がわかります。
今なら、まだ、皆さんには、別の選択肢もあります。
加谷さんや岸田さんを見ていると、有識者にも、政治家にも、この国を救う力はありません。
そんなこと、皆さんにもわかっていると思います。
この国を救えるのは、国民の皆さんだけです。
その第一歩は、国民の皆さんが、自ら、言葉の定義に挑戦することです。
自分を、家族を、多くの子供達を、守りたいのであれば、行動するしかありません。


2023-07-02



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