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逃亡者 [超短編]



「来るな」
健太は大声で脅したが、チビは尻尾を振って目を輝かせていた。
近くにあったブロックの欠片を拾って投げつけた。チビは石が自分に向かって飛んで来るなどとは全く考えてもいないようで、警戒の様子もない。転がって来た石に近よって臭いを嗅いで、「なんだ、石か」という顔をした。
健太は勢いよく背を向けて、急ぎ足で歩き始めた。生まれて初めての大仕事を始めた健太にはチビを相手にしている時間はないし、チビを連れていくような余裕もない。
大沢健太は二条小学校の三年生で、三年間辛抱をし、一カ月かけて用意をした家出の一歩目だった。ここで失敗したのでは苦労して不登校を勝ち取った意味がなくなる。
確かに二歳年上の大沢雄太は、成績もいいし、親に反抗することもない。顔立ちも男前だし、話し方も優しい。だから、何なんだ。何から何まで兄と比べられて、邪魔者扱いされて、罵倒されて。母親は、健太を見る目に憎しみが込められているのを隠そうともしない。出来は悪いが、憎まれる謂れはないと思う。生んでくれと頼んだ覚えもない。一番応えたのが体罰よりも食事だった。暫くは大人しく振る舞う健太を見て、母親は夕食抜きが最強の武器だと思ったらしい。
「家出する」と言って泣きじゃくる健太に、「しなさいよ」と冷たく言い放つ母親。自分が邪魔者だと信じ始めたのは一年生の時だった。一学期の成績表を貰って帰った時から地獄が始まった。
父親は、ほとんど声を出さない人で、母親の味方になる訳ではないが、健太を庇ってくれるわけでもない。晩酌のお酒を飲みながら、家族の方を優しい目で見ているだけの人だった。健太は父親を父親だと思ったことは一度もない。歳の離れた兄で、母親の圧政の下で生き延びようとしている兄弟にしか思えない。
もう三年間我慢してきた。限界だった。
目的地があるわけではなく、一歩でも家から遠く離れたいと思った。全財産の1250円と棚の奥にあった地震対策で買った乾パンと小さいほうのミネラルウォーター、ついでに冷蔵庫にあったソーセージを持ちだした。リュックの中には、寒さに備えるジャンパーと着替え、祖父から貰った拡大鏡、そして兄の携帯ゲーム機が入っている。ゲーム機がなくなっていることを知った時の兄の顔が見れないのは残念だが、それぐらいは我慢すべきだと思った。
不安はある。三年生になったのだから、家出の先に夢のような世界が待っているとは思ってはいない。今は、あの母親から逃れることが最大の希望で、他の事は辛抱するしかない。そういう決断をしたのだから、心配などしていないと自分に言い聞かせた。
健太は、できるだけ人の少ない、そして車の少ない場所を選んで歩いた。自分は逃亡者なのだから人目につくのは危険すぎる。そう思って、ただ、ひたすら歩き続けた。
距離をおいてチビがついてきているのは知っていたが、追い返す時間がもったいなかった。
農道のような道から車の通る道を横切って、再び細い道に入る。だが、二時間も歩き続けると、疲れが出て来た。
「焦るな」と自分に言い聞かせ、稲の収穫が終わった広い農地が見渡せる場所で休憩をとった。リュックから水を取り出し、思い切り飲んだ。飲みながら喉が渇いていたのを思い出していた。飲み終わるとペットボトルの水は半分に減っていた。水分補給をしたことで緊張が解けたのか、疲れは感じていたが立ちあがった。少し離れた場所に腰を下ろしていたチビも立ち上がって健太を見ている。
「チビ」
犬を連れた逃亡者など聞いたことはないが、チビの気持ちは固いと感じた。走り寄ってきたチビは健太の足に纏いつき、健太の足に手をかけて親愛の情を目一杯伝えてくれた。
「やめろ」
振り払う健太の手をチビの舌が舐めまわす。
「いくぞ」
歩き出した健太の前を走ったり、横に来たり、そして時々臭いを嗅いで遅れたり。だが、チビが納得しているのは健太にもわかった。
健太は、一心不乱に歩いた。住宅街を抜け、電車の線路の下を抜け、着実に家から遠ざかって行く。遠足に行った時でも、これほど歩いたことはない。
誰もいない公園で休憩をして、乾パンを3個ずつとウインナを半分ずつ分けて食べた。チビはこぼした乾パンの屑も食べた。時計は2時を過ぎていた。残り少なくなった水を公園の小さな噴水で補充して、健太は再び歩き始めた。少し雲が出てきて、傘を持ってこなかったことが気になったが、心配を振り切った。
日が暮れて、健太とチビは古びた公民館のような建物の軒下に座って乾パンとウインナを食べた。疲れていた。足全体が痛かった。
目の前の山と雲が赤く染まり始め、暫く目が離せなかった。
「すごい」
夕焼けを初めて見たわけではないが、山も空も雲も地上もこれほど赤く染める夕焼けを見たのは初めてだった。きっと、自分の勇気を褒めてくれているのだと思うことにした。横に座っているチビを見ると、チビも夕焼けを見て喜んでいるように見えた。明日はもっと遠くまで行こう。母親の顔と声がまだ近くにある。どれだけ離れれば届かなくなるのだろう。母親の顔は見たくないし、声は聞きたくない。
暗くなってきたし疲れていたので、公民館の横手にある棚の上で寝ることにした。しかし、暗闇は怖かった。健太は、うるさいほどの虫の声を聞きながらチビを抱いて眠りに落ちた。
次の日も、痛い足を引きずりながら歩いた。コンビニで380円もする弁当を買い、チビと分け合って食べた。もう、チビはかけ替えのない同志になっていた。
三日目は雨だった。
それでも、健太は歩いた。まだ、母親の声が聞こえる。その声が聞こえなくなるまでは、歩き続けなければならない。
だが、四日目になって、健太は動けなくなった。焼き肉屋の横にある路地で健太は座り込み、座っていても辛くて横になった。チビが悲しそうに泣いていたが、時々チビのことも忘れかけていた。
健太が目を覚ました時に、最初に見えたのは白い天井と白いカーテンだった。右手に窓があり、窓の外は暗闇だった。健太は体を起こした。左手に注射針が刺さっている。どう考えても、そこは病院のベッドの上に思えた。入院した友達を見舞いに行った時に、その友達が特別のベッドで寝ているように見えて、羨ましかった事を思い出した。
体がとてもだるい。健太は横になった。どこかのお店の横で、疲れて横になったのは憶えているが、健太の記憶はそこで終わっていた。チビの姿が見えない。健太は注射針に注意しながら体を起こして、ベッドの下を見た。チビがいるとすればベッドの下に決まっていると思ったが、チビの姿はなかった。チビを捜さなくては。
先ずは、この注射針を外さなければならない。健太は用心深くテープを外した。痛くなかったことで少し安心したが、針を取る時は痛いかもしれない。ゆっくりと針を抜くと、針の跡から血が出て来た。それでも、痛くはなかった。
体がふわふわとして、思うように動けなかったが、頑張ってベッドから降りた。だが、変なパジャマを着ている。健太は自分のジーパンとズックを捜した。棚の上にリュックがあるのだから、ジーパンもズックもある筈だ。
「あった」
棚の下に見慣れたズックがある。身を屈めると、急に床が寄って来た。
カーテンを引く音がして、女の人の声が聞こえた。
「君、何やってるの」
あっと言う間に体が浮き上がり、柔らかい物の上に着地した。頑張って目を開けた。体格のいい、白い服を着た看護士が健太の体を押さえているようだ。
「チビ」
「なに」
「チビは」
「犬の事」
「・・・」
「大丈夫、警察で預かってくれてる」
健太は、起きあがろうとした。警察に捕まったのなら助けに行かなければ。
「大丈夫だから」
その時、別の女の人が来た。
「どうしたの」
「犬を捜すつもりみたいですよ。点滴も自分で外して」
「そう」
「ちょっと、体、押さえておいて。今、点滴外されちゃ困るのよね」
「わかった」
健太の腕に、また注射針が戻ってきた。
「犬は、私が預かってる。元気にしてるわよ」
「チビという名前みたいですよ」
「そう、チビ、お腹すいてたみたい」
健太は体の力を抜いた。何か食べさせてくれたのなら、殺されたりはしないのだろう。そこで健太の意識はとぎれた。
次に健太が目を覚ました時は、窓の外に光があった。少しずつ記憶が戻る。白い服じゃない人がチビを預かっていると言ってた。それよりも、小便が今にも溢れだしそうだ。間に合うかな。トイレはどこ。健太は、また注射針を外しにかかった。昨日、経験済みなので簡単に外すことが出来た。
カーテンが引かれて、白い服の看護士が来た。昨日の人とは違うが、顔が恐そうだった。
「なに、してるの」
「トイレ」
「トイレ。ちょっと、待ってなさい」
待てないから、注射針を外したのに、無茶をいう看護士さんだと思った。
ふらつく体を支えて、ベッドに座った時に看護士がガラス瓶を持って帰って来た。
「だめ、だめ。寝なさい」
「トイレ」
「だから、寝て」
無理矢理、横にされた。少し漏れたかもしれない。
「ちょっと、待ってね」
パンツを脱がされて、冷たいものが股間に触れた。
「いいわよ」
いいわよ、と言われても。でも、我慢できずに放尿が始まってしまった。寝小便をした時の嫌な感覚を思い出した。
「もう、いい」
「・・・」
「いっぱい、出たね。我慢してたんだ。偉いぞ」
「・・・」
「君は、注射外しの名人なんだってね、ちょっと、待っててね」
ガラス瓶に入っているのは健太の小便らしい。人のパンツを勝手に下ろして、あのビンの中に放出させたのだ。健太に残ったのは屈辱感だった。戻ってきた看護士が注射針を元に戻しても、声をかけられても、健太は目を開けなかった。女なんて最低だ。
次に目が覚めた時は、窓の外が暗かった。白い服ではない女の人が椅子に座って何か書いている。確か、チビを預かってると言ってくれた人だ。
「どう」
「チビは」
「うん。署の裏にいるんだけど、散歩に連れていくのが遅れて失敗しちゃった。大の方。チビも反省してるみたいだし、私も反省してるから、もう大丈夫」
「すみません」
「ところで、まだ、君の名前聞いてないんだけど」
健太の右斜め上に、突然母親の顔が出てきた。やばい。名前を言えば、あの家に返される。それだけは阻止しなければならない。以前に漫画で見た、記憶喪失症になることを即決した。詳しいことはわからないが、「わかりません」「忘れた」「思い出せない」と言えばいい。
「名前」
健太は、少しだけ頭を振って「わかりません」と小さな声で言った。
「わからないって」
「ごめんなさい。思い出せません」
「住所は」
健太は首を横に振った。
「学校の名前」「電話番号」「友達の名前」「憶えてる場所」と矢継ぎ早に質問されたが、全部、首を横に振った。
「そう。まだ無理か」
女の人は健太に紙切れを渡した。
「私の名刺。何か思い出したら、看護士さんに頼んで、その番号に電話してもらって」
生まれて初めての名刺に少し感動したが、さりげなく振る舞った。
「チビのことは、大丈夫だから」
そう言い残して、女の人は出て行った。
名刺には竹原千秋という名前が書かれていた。同じクラスの竹原千秋と同じ名前だ。同じ名前の人間がいることに気付いた驚きがあった。今日は、記憶喪失、うまくいったかもしれない。

N署刑事課少年係。竹原千秋は刑事課二年目のまだ駆け出しだったが、周囲との折り合いも良く、仕事に不満はなかった。
「まだか」
「はい」
直属の上司である高山警部補は温厚な中年で、署内の信望も厚い男だった。
行き倒れで発見された少年の身元がわからない状態が三日も続いている。簡単に終わる案件だと思っていただけに、高山警部補も心配していた。県内の捜索願には該当する家出少年はいない。近隣の警察本部に依頼した調査でも、該当者はいなかった。そして、本人も自分の名前を憶えていないと言う。
「本当に、記憶喪失なのか」
「いえ、わかりません。何か事件がらみなんでしょうか」
「そうは、思えんがな」
千秋は、少年が三年生か四年生だと思っている。そんな子供が行方不明になって捜索願を出さない親がいるのだろうかと思う。たとえ、虐待をしている親でも自分の立場を守るために捜索願は出す。何らかの事情で親も行方不明になっているか死亡しているとすれば、捜索願が出ないこともあるだろう。その場合は、親の事件がらみになる。だが、県内にはそんな案件は起きていない。
「記憶喪失の検査はやってくれるんだろ」
「はい。肺炎が治まったら、と言ってくれていますが、本人が喋らなければ同じことかもしれません」
「市の福祉課に連絡しといた方がいいかもしれん」
「はい」
病院の費用も払わなくてはならないし、退院したとしても放置しておくことはできない。犬の事以外には何の悩みもない少年に見えるが、子供でも外見だけで判断できないことは少年係になって充分見てきた。

病院に来て何日過ぎたのかはよくわからないが、憶えているだけでも二週間は過ぎていた。病室にはベッドが4台あり、隣のベッドの男子とも話をするようになった。話をすると言っても、話をするのはその男子で、健太は相槌を打って聞き役をした。今のところ、記憶喪失はうまくいっている。余計な事を喋って、何かわかってしまっては努力が無駄になる。分別をわきまえた大人の気分だった。
質問にも慣れた。頭に変なものをつけられて検査をされたが、無事に通過しているらしい。だが、チビに会えない事が寂しかった。竹原千秋という警察の人は毎日来て、チビの様子を知らせてくれるし、最初は嫌な奴だと思っていた看護士のお姉さんも、本当は優しいお姉さんだった。何よりも一日三回の食事ができることは有難かった。このまま、ずっと病院にいてもいいくらいだった。
「思い出さない」
「ごめんなさい」
竹原千秋と健太の会話の定番だった。
「退院してもいいんだって」
「はい」
「明日、迎えに来るから」
「・・・」
「君には、養護施設に行ってもらうことになるの」
「養護施設」
「親のいない子や、親と一緒に住めない子がいる場所」
「あの」
「うん」
「チビは」
「ああ、チビも置いてくれるって」
「よかった」
病院を出たら、健太は逃亡を続けるつもりだったが、お金のないことが心配だった。もう、280円しか残っていないので、弁当も買えないかもしれない。数日間の逃亡だったが、生きていくことがどれだけ大変かということは、わかったつもりだ。世界には優しい人の方が圧倒的に多いこともわかった。どうして、自分の母親だけがあんなにも自分の事を憎むのか、そのことはわからない。ひょっとして、自分は本当の子供ではないのか。でも、それはない。健太は自分の顔が母親によく似ている事を知っていた。




健太の荷物はリュック一つだった。
同室の友達がくれた雑誌やキーホルダーが増えていたが、リュックに入っていたジャンパーを着たので、家を出た時より小さなふくらみしかない。健太はベッドの上にリュックを置き、小さな椅子に座って、警察官の竹原千秋を待っていた。どんよりとした曇り空をカラスが飛んでいる。体の中がざわざわとしている。疲れているような感じもするし、体に力が入らないような不安感があった。健太は自分の足元を見て、床を踏みつけてみた。ズックが床を踏む音は聞こえるが、足には余り衝撃を感じない。
「瀬田君。退院おめでとう」
竹原千秋と二人の看護士が部屋に入って来た。病院では瀬田一郎と呼ばれている。瀬田町の路地で収容された男子児童という意味しかないが、病院で呼び名がないのは不便だという理由でつけられた名前だった。
「用意、できた」
健太は頷いて、リュックを背中に担いだ。
「一週間後に、外来に来たら、3階にも来てね」
し瓶に放尿させられた時の大友さんという看護士で、健太に一番優しくしてくれた人だ。
「うん」
部屋の入り口で、同室の3人に手を挙げた。3人とも無言で手を挙げたが、退院していく友達にはあまり関心がないような態度だった。
「行こうか」
竹原千秋に促されて、健太は病室を後にした。






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