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告発 [超短編]



 ふっと部屋の中が暗くなったような気がして、片岡正明は窓を見た。陽が差していた窓の外が暗くなり、遠くで雷鳴までが聞こえている。秋から冬へと季節が移っていくらしい。毎週のように雨がやって来た。
この片岡法律事務所の所長である正明の父親は、朝から裁判所に行っている。事務所の中には、昔から事務を一手に引き受けてくれている坂本女史と正明の二人だけだった。
「また、一雨、来そうね」
「ええ」
村上勇一が来たのは、まだ雨が降る前だった。
弱気なノックの音の後に、事務所のドアが軋んだ音を出し、その音が止まった。ある程度開けると、最後に微かな手ごたえがして軋んだ音は消えるのだが、訪問者は音に気圧されてドアを開けることを断念したらしい。
坂本女史が、「うん」と一声かけて立ち上がった。以前に、立ち上がる時に「よいしょ」と言って立ち上がるようになった女史に、所長が怒ったことがある。それ以降、女史は小さな「うん」にしたらしい。所長も「うん」は認めた。
「どうぞ」
坂本女史の声に続いて、ドアの軋む音がした。
正明の席からは入口が見えないが、どうやら来訪者は部屋に入ったらしい。
「若先生」
「うん」
正明も一声かけて腰を上げた。
会議テーブルには、鼻息を吹きかけただけで飛んでしまいそうな若い男が座っている。真面目そうな、どこにでもいる若者に見えるが、ともかく存在感がない。勿論、法律事務所にはあらゆる種類の人達が来るのだから、誰が来てもいいのだが、その若者は法律事務所に来るにはまだ早い学生のような印象だった。
「片岡です」
正明は名刺を男の前に滑らせた。
男は、まだ正明の目を見ていない。名刺にも手を出さずに、少し斜めになった名刺を、顔を斜めにして見ている。一瞬だが、人でも殺してきたのかと思った。
「どんな、ご相談ですか」
男が、一瞬だけ正明の顔を確認して、小さく頭を下げた。
「ご無沙汰してます」
ご無沙汰と言うからには、以前にどこかで面識があった筈だが、見覚えはない。
「以前、どこかで、お会いしましたっけ」
「あの」
「はい」
沈黙が流れた。そこへ、坂本女史がお茶を持ってきた。所長の方針で、来客には必ずお茶を出すことになっている。セールスマンが来ても、それは変わらない。弁護士は相手をしないが、坂本女史がセールスマンの話を聞いて「御苦労さま」と言って、帰ってもらう。商店街の人達が酒やつまみを持ってやって来ることもあるが、そんな時は来訪者の方から「お茶はいりません」と坂本女史に声をかける。勿論、弁護士は相手をしない。会議テーブルで勝手に盛り上がり、酒盛りが終わればテーブルを綺麗に片付けて、ゴミは持って帰る。町内の集会所みたいな役割を、なぜ法律事務所がやらなければならないのか、最初は不思議だったが、もう気にならなくなっている。
「お名前は」
「村上です。村上勇一」
名前を聞いても、何も浮かんでこない。でも、男の言い方は「ほれ、あの時の村上ですよ」という意味が込められているように聞こえる。でも、思い出せない。
「村上さん。どこでお会いしましたっけ」
「楽々亭」
楽々亭は町内にある中華料理の店だから、知っている。
「いつごろ、でした」
「一年前です」
一年前と言えば、楽々亭の大将が客と喧嘩をして、客の鞄を踏みつぶし、相手を殴り倒した事件があった。器物損壊と傷害で訴えられた。その弁護を正明が引き受け、何とか示談で済ましたことがある。あの時、殴れた男は望月という名前だった。村上ではない。
「あの喧嘩騒ぎの時」
村上という男は、小さな笑みを送ってくれた。「気が付いてくれましたか」という笑みだろうが、思い出せない。
「えええと、僕と話をしました」
「はい」
「あのお店の関係者」
「バイトしてました」
そう言えば、影の薄い店員がいて、話をした記憶はある。だが、顔は思い出せない。全く違う人間が村上だと名乗って会いに来てもわからないだろう。
「あの時、困ったことがあったら相談に来なさいと言ってくれました」
「そうですか」
おぼろげながら、輪郭は見えてきた。なんだか、長い道のりだったような気がする。
「で、今日は」
「あの。弁護士さんにお願いしたら、どのくらいの費用が」
「説明し難いんだけど、依頼の内容によって違うから、価格表のようなものはないと思ってくれた方がいいですね。標準報酬というものは、あくまでも標準で、いくらでも報酬額は変わります。どんな、依頼なんですか」
「テレビとか新聞と、弁護士さんは、どんな関係なんですか」
「関係はありませんね。何か、内部告発のようなことですか」
「いえ」
「村上さん。何をしたいのか、それを教えてもらえないと、具体的な返事は何もできないんですよ。場合によってはテレビや新聞にも働きかけることはあるでしょうし、行政に働きかけることもあります。全部、その依頼内容によるんです。勿論、依頼人に、おやめなさい、と言うこともあります」
「そうですか」
男は、よろよろと立ち上がった。
「今日は、おいくら、払えばいいですか」
「えっ」
一寸、強く言いすぎたかもしれない。普通の人は弁護士なんて縁のない存在だから、それなりに現実的な事を言わなければならないと思っているが、言いすぎたかなと思った。男は、古びた財布を取り出している。
「今日は、費用はいりません。一年前、僕は君に話を聞いた。でも、僕は費用を払っていませんよね。今日の話は、その程度のものだと思ってください。依頼内容がはっきりしたら、どのくらいの費用がかかるか計算しますから」
男は、しばらく財布をポケットに戻そうかどうしようかと迷っていたが、財布を手にしたまま、頭を下げて部屋を出ていった。男が出ていったドアを見ていた正明は、「ううん」と掛け声をかけて立ち上がった。妙に疲れている。
「なんだったんでしょう」
「わかりませんね」
「ですよね」
年が変わり、村上勇一のことなど全く思い出したこともなかったが、村上勇一から封書が届いた。
「若先生。これ、去年来た人ですよね」
坂本女史が渡してくれた封書には、住所はなく名前だけが書かれていた。
封書の中には、ディスクが一枚と封筒が三枚入っていた。封筒の中身は二通の手紙と、現金が18万円。手紙の一通は村上から。もう一通の封筒の裏には沢田はるかという名前が書かれていた。知らない名前だ。
面識のある村上の手紙を読んだ。そこには、沢田はるかの希望を叶えてやって欲しいという依頼と、沢田はるかが三日前に自殺したことが書かれていた。追伸として、同封したお金は沢田はるかから預かったもので、交通費にしかならないけどお願いしますとあった。
「自殺」
沢田はるかの手紙は、多分、遺書なのだろうと思える内容だが、知らない人間に遺書を送るのは、どうなのだろう。意味がわからない。DVDを観てくれと書いてあった。
「若先生、どうしたんですか」
「いや。なんか、訳わからなくて」
正明は手紙を坂本女史に渡した。
「あらあら」
手紙を読んだ坂本女史も、訳わからないという声を出した。
「どうした」
今日は、所長も見習い弁護士の清水京子も調査を担当している真野竜彦も揃っている。全員が二通の手紙を回し読みした。全員が、訳わからないという顔をしている。
「取りあえず、DVDを観てみようじゃないか」
所長に言われて、坂本女史が自分のパソコンにDVDを入れた。
DVDは、沢田はるかと思える女性のビデオレターというか、死のメッセージというか、自殺する理由が録画されていた。それほど長い映像ではなかったが、終わっても、誰一人声を出さなかった。出演者本人が宣言した通り、自殺しているのだから、まるで自殺に立ち会ったような重い空気が流れている。
正明は、村上勇一が来た時のことを話した。
「これって、国を告発するってこと」
「たぶん、この人は、そのつもり、なんだろうな」
「正明、どうする」
「どうするって」
「一応、裏を取って、やれるところまで、やってみれば」
「やるって言ったって」
「依頼されてるし、交通費だけとは言っても費用も入ってる。できるところまで、やる義務はあるんじゃないか」
「まあ」
「真野君、このDVDから写真を取り出して、警察に本人確認してくれないか。いたずらかもしれんが、18万円も同封するいたずらはしないだろう」
「はい」
村上の手紙には、担当した警察署の名前が書いてあった。
「この、村上君の連絡先は」
「聞いてません」
「ここに、来たんだろ」
「仕事の依頼という感じじゃなかったですよね、坂本さん」
「まあ、そんな感じでしたね」
「それにしても」
「楽々亭に聞いてみましょうか」
「そうしてくれるか」
「はい」
楽々亭で教えてくれた電話番号は「現在、使われていません」のメッセージが流れてくるし、住所が近かったのでアパートまで訪ねたが、転居先は不明だった。
沢田はるかと村上勇一の関係も不明。これで、自殺が確認できなければ、気味の悪いいたずらということになる。
しかし、沢田はるかの自殺は確認が取れ、身寄りがないということで、無縁仏になる予定だと聞きだしてきた。
正明は、須藤祐樹に電話を入れて、時間を取ってもらった。須藤祐樹は同じ大学で、同じ年に司法試験に合格し、同じように実家の事務所に入所している。正明との違いは、祐樹は男前だし、仕事にも成功しているし、テレビ出演もしている売れっ子の弁護士だという些細な部分だけだった。確かに着ているものも、一桁は違うと誰かに言われたし、祐樹には妻も子供もいる。でも、そんな些細な事は正明も祐樹も気にしていなかった。
須藤法律事務所を訪ねた。受付の女の子は若いし、当然のように難しい敬語も使う。事務所も立派だし、所員も30人以上いるらしい。だが、正明は気にしていなかった。
「おう、久しぶり。元気か」
「ああ」
「珍しいな、お前が来るなんて」
「ああ」
「難しい話か」
「まあ」
「場所は、ここでいいのか」
正明は応接室を見渡した。パソコンはある。
「ん。問題ない」
「で」
正明は鞄からDVDを取り出した。
「これを、観てくれ」
「おう」
DVDを観おわった祐樹が、無言で正明の顔を見ていた。
「これが、手紙だ。交通費として18万円が同封されていた」
「で、この娘は、ほんとに自殺を」
「確認した」
「で、どこか、テレビ局を紹介しろ、と」
「ああ」
「紹介はするけど、テレビは流さないだろう」
「駄目なら、週刊誌に持っていく。小中高と同期だった奴が週刊潮流にいる」
「そうか。週刊誌なら取り上げるかもしれんな」
「さあ、無理かもしれん。でも、やるだけのことは、やってあげたい」
「わかった。今日、夕方の5時に局の人と会う予定がある。その前に30分ほど時間を取ってもらおう」
「すまん」
「予定が決まったら連絡する。待ち合わせ場所はテレビ局でもいいか」
「ああ。なんとか、行く」
テレビ局の入口付近に来たが、どこで待っていればいいのかわからない。警備の人が、正明を不審者を見る目つきで見ている。自然と、人目につかない場所に移動していた。待ち合わせなのだから、わかり易い場所にいるべきだと理性は言うが、現実は居心地が悪いのだから仕方がない。ポケットの携帯電話が振動して、正明は飛び上がった。これでは、正真正銘、不審者と思われても否定できない。
祐樹には会えたが、弁護士に付き添われてテレビ出演をする犯罪者に見えたかもしれない。
一応、小さな会議室に入って、少し落ち着いた。
10分ほど遅れて、40前後に見える巨漢の男が部屋に来た。
「申し訳ない。遅れました」
祐樹に紹介されて、名刺交換をした。大きい。小杉という名前のディレクターだが、このまま、頭にちょん髷を乗せていたら、力士だと紹介されても信じるしかないだろう。
話は、祐樹に任せた。
DVDを観た小杉は、「ううん」と溜息をついた。
「この人の気持ちも理解できるし、社会に問題があるのも確かです。でも、この映像を流せるか、ということになると難しいものがあります。須藤先生が、どうしても、やれと言われるのでしたら、上にかけあってもいいですが」
「いえ、そこまで、無理を言うつもりはありません」
「すみません。こういう貴重な映像は、流すべきだと思うのですがね」
正明は、祐樹と別れて、テレビ局を出た。街中に戻ると、ほっと一息ついた。正明には、テレビ局という場所は異世界に見えた。
一日をおいて、週刊潮流の町村将太に連絡を入れて、相談したが、難しいだろうという返事だった。
「所長。テレビ局も週刊誌も、引き受けてくれませんでしたよ」
「そうか」
期待していたわけではないが、断られると、やはり落ち込む。依頼者が死んでいるのだから弁明することもできない。DVDが成仏できずに宙に浮いているような、中途半端な気分だった。村上勇一を捜してみようかと思ったが、手掛かりはないし、見つけたとしても、それで何かが変わる訳でもないだろう。それに、片岡法律事務所は暇ではない。小さな案件ばかりであっても、それなりに忙しい。沢田はるかには悪いと思ったが、仕方がないと思うことにした。
翌日、ふっきれない気持ちのまま、土地の境界線をめぐる話し合いのために、正明は外出していた。耳の遠い老夫人との話は、予想以上の時間が必要だったが、適当に手が抜けないのが正明の性分で、これも仕方がない。「俺の人生は、仕方がない、の連続なのかな」と祐樹に愚痴を言ったことがある。「いや。それが、お前のいいとこだよ」と慰められた。つまらないことで愚痴を言う自分も情けないが、「いいとこだよ」と慰める祐樹には、もう少し実のあることを言ってもらいたいものだと思う。
昼を過ぎて、老婦人の家を出た。食事をしていけと何度も言われたが、正明は少し疲れていた。お年寄りの相手は、それなりに疲れるものだと知っているが、相手の耳が遠いと疲れも倍増することを知った。携帯電話の電源を入れると、不在着信と留守録が4件ずつあった。事務所と須藤祐樹からのもので、事務所の留守録は須藤祐樹に電話しろという用件で、須藤祐樹の留守録は電話をしてくれという伝言だった。それぞれ2回も電話してきたということは急ぎの用件に違いない。須藤祐樹に電話を入れた。
「この前のDVD。まだ手元にあるのか」
「DVD」
「女の子が自殺した」
「ああ。あるよ」
「日東テレビの小杉さんが、使いたいと言ってきた」
「どうして、使えないと言ってただろう」
「事情が変わった。いじめ自殺をした子供の父親が、3人殺した件は」
「いや、知らない」
「今、テレビで大騒ぎをしてる」
「まだ、見ていない」
「小杉さんに、オーケー出していいか」
「ああ」
「何時頃に事務所に戻る」
「30分くらいかな」
「多分、お前の事務所に取りに行くと思う」
「わかった。小杉さんとは、話しできるのかな」
「話」
「余り、好き勝手には使って欲しくない。あの娘の気持ちが間違って伝わるのは、よくないと思う」
「わかった。小杉さんには、伝える。一度話をしてくれ」
「わかった」
事務所に戻ると、殺人事件の話で空気が緊張していた。
いじめ自殺をした子供の父親が、加害少年2人と中学の校長をナイフで刺し殺し、警察へ自首してきたらしい。事務所の中の反応は「ついに来たか」というものだった。日本人の心のどこかには、まだ仇討の選択肢は残っている。日本人なら、それほど違和感がなく受け取れる。これまでに、仇討事件が起きなかったことの方が不思議だと言う人もいる。それでも、現実になると、それは重い現実だった。大人達は、一度も、いじめ問題に正面から向き合おうとしなかった。それは、社会が壊れているということを意味している、とテレビ局も判断したのかもしれない。だから、あのDVDを使う気になったのだろう。
「若先生、日東テレビの小杉さんという方から」
正明は受話器を取った。
「片岡です」
「あっ、どうも。工藤さんから聞いていただいたと思いますが、この前見せていただいたDVDを使わせてもらいたいと思っています。よろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます。一つだけ、お願いがあります」
「はい」
「できれば、全部、あのまま使っていただきたいと思っています。編集加工する場合には、彼女の伝えたいことが間違って伝わらないような配慮をお願いしたい。これは、文書にするのも違うと思いますし、そんな時間もないと思いますので、あなたに全てを委ねたいと思いますが、是非、配慮してやってくれませんか」
「わかっています。私の全力でやります」
「よろしく、お願いします」
「山口という男が、伺います。渡してやってもらえますか」
「承知しました」
一週間後に、その番組は放送された。「いじめ問題を考える国民会議」という大上段に振りかぶった番組名と、夜の7時から10時までのテレビ局にとってはドル箱と呼ばれる時間帯に持ってきたことで、テレビ局の意気込みが感じられた。
殺人犯になった父親は、留置場にいるので出席できないが、母親が音声だけで番組に参加すると宣伝されている。有識者と呼ばれる人達が、会場に集められたが、中には、参加資格が不明な人達もいた。
片岡法律事務所の所員は、全員、事務所でテレビを観ることになり、コンビニのおにぎりとカップラーメンが支給された。せめて、出前の寿司くらい取りませんかという正明の提案は坂本女史に却下された。
沢田はるかのビデオが流されたのは、9時10分を過ぎてからになった。
「私は、沢田はるか、と言います」
「緊張していますので、うまく喋れるかどうかわかりませんが、できれば、最後まで見て下さると嬉しいです。頭、真っ白になって、話ができなくて、5回目の挑戦です。今度は頑張ります」
「年齢は、27歳です。住所はK市に住んでいます。身寄りはいませんので、こんなことして、迷惑をかける人がいないことは安心です」
「ええと。私は、これが終わり、DVDにして、友人に渡した後、死にます」
「たぶん。死にます」
しばらく、言葉が途切れた。
「私は、小学校、中学校、高校と、ずっといじめに遭ってきました。学生の頃に思っていたことは、学校を卒業すれば、いじめから解放されるという想像でした。でも、社会へ出てからも、いじめはなくなりませんでした。それは、自分の性格が原因なんだと思うようになりました。弱気で、引っ込み思案で、口下手で、陰気な性格です。職場を転々としました。今日は、27年分の強気をかき集めて、このビデオを撮影しています」
「小学校2年生の時に、父親が死にました。父親の暴力がなくなって、ほっとしたことを憶えています。母は、私を育てるために、必死で働いてくれました。そのことを知ったのは5年生の時です。そんな母に、いじめのことは言えません。先生に相談しましたが、いじめがひどくなる事を知り、先生にも言わなくなりました。学校には行きたくなかったけど、母の悲しい顔を見るのが怖くて、無理してでも行きました。不思議なもので、いじめにも慣れることを知りました。多分、逃げ場がなかったからだと思います」
「母は病院の食堂で働いていました。調理師ではなく雑用係です。母は仕事のことを話してくれませんでした。私も学校のことを話しませんでした。いつのまにか、それが二人のルールになっていました。今、考えると、母は職場で辛いおもいをしていたのではないかと思っています。そんな母の口癖が、世間のせいにしない、自分が頑張ればいい、というものでした。私も、勉強を頑張りました。中学を卒業したら働きたいと言いましたが、認めてくれませんでした。母は、私が生活のために働きたいと言っていると思ったようです。私は、いじめから逃れられると思っていただけですが、諦めて高校に進学しました。高校では、いじめの回数が減りました。社会に出れば、いじめがなくなるという想像は、その体験があったからかもしれません。今、考えると、受験勉強が忙しくて、いじめをしている暇がない人が多かったからではないかと思います。母は、私が高校を卒業するのを待っていたかのように、心臓病で急死しました。学校の成績はいい方でしたから、大きな会社の事務に就職しました。2年間働きました。最初の会社が一番長く続きましたが、セクハラと先輩のいじめで、会社を辞めました。社会に出ても、いじめはあったのです。それからは、職場を転々としました。どこの職場でも、いじめられました。今は、もう辞めましたが、3カ月前までソープで働いていました。いじめはありましたが、他の職場よりはましでしたので、2年働きました。でも、もう、疲れてしまいました」
「ほぼ20年間、一番身近にあったのが、いじめです。ある日、気が付いたんです。いじめている人達は、気晴らしでいじめをしているのではない、ということに気が付いたのです。いじめる人は、いじめる前より、いじめをした後の方がイライラしているのです。追いつめられていたのは、いじめをする人達だったのです。母の言葉を思い出しました。世間のせいにしてはいけないという言葉です。でも、それは、世間が悪いことを認めてしまえば、行き場を失ってしまうから、自分が頑張る方を選ぶということだったんだと知りました。まだ、27年間しか生きていないのに生意気言うな、と言われるかもしれませんが、私達の社会はどんどん悪くなっていると思います。社会に追いつめられる人達が増え、少しでも逃れたいと思って、人間が悪あがきをしているのです。そこに、いじめ易い私のような人間がいると、自然と、標的になるんです」
「ソープに来るお客さんは、いろいろです。やくざと呼ばれる人も来ます。背中一面に刺青をしている人もいます。痛かったですか、と聞くと、痛いと言っていました。最近では、背中一面に刺青をする人が少なくなったと聞きました。あの時は、まだ、自分が頑張ることの方を選んでいたんだと思います。刺青の痛さを我慢できれば、この先のいじめにも耐えられるのではないかと思ったのです。でも、違いました。刺青の我慢は、刺青が完成するまで我慢すれば終わるのです。いじめは、いつまでも終わりません。終わらない苦痛には、耐えられないということを、刺青をして、知りました」
沢田はるかは、立ち上がって、後ろ向きになり、着ていたシャツを脱いだ。背中には、真っ赤な大輪の薔薇が咲いていた。
シャツを着た沢田はるかが正面を向き、髪の毛を直した。
「いじめ事件が起きても、社会が悪いとは言いません。加害者が悪い。いじめられる方にも問題がある。学校が悪い。校長が悪い。家庭に問題がある。ほんとに、そうなんでしょうか。いじめは、昔からある。いじめは、なくならない。これって、逃げているだけなんじゃないですか。社会が悪いと認めると、ドン詰まりにいる自分達を認めることになるから、認めたくないだけではないのですか。私には、社会が悪いとしか思えません。自殺をすると、何か方法はあっただろう。逃げているだけだろうと言う声も聞きます。逃げているのは、自殺する人間だけではありません。皆さんも、逃げているのです」
「でも、20年間もいじめられ、この先も永遠にいじめられると思うと、もう、そろそろ、逃げ出してもいいんじゃないかと思うんです」
「誰も、言いませんので、言うことにしました」
「悪いのは、社会です」
「私は、この社会を、告発します」
沢田はるかが、カメラの方に近づいてきて、映像が切れた。
映像は、司会者とアシスタントのアナウンサーに切り替わった。二人とも、悲痛な顔をしている。殺人者になった父親と、メッセージを残して自殺した女性。笑顔で司会する状況ではないとわかっているようだ。アナウンサーが口を開いた。
「沢田さんは、このビデオを作った沢田さんは、撮影の二日後に亡くなられました。自殺だったそうです」
「皆さんに、感想を伺っていきたいと思います」
正明は、リモコンを手にとって電源を切った。
「若先生」
「どうせ、下らないことしか言わないでしょう。時間の無駄ですよ」
「それは、言えてる」
「ああ」
「片付けて、帰りましょう」
「そうしよう」
おにぎりとラーメンの残骸を片付けて、片岡法律事務所の業務は終わった。
正明は、体が重くて、また椅子に座った。
着替えをした坂本女史が、黙って正明を見ている。
「どうしました」
「なんか、これで、よかったんですかね」
「若先生は、できることをやりましたよ。沢田さんは、もう、なにも言ってくれませんけど、片岡法律事務所に頼んでよかったと思っている。私には、そう思えるんです。他の事務所だったら、こうならなかったんじゃないですか」
「そう、ですよね」
「そうです。明日から、また、頑張ってもらいますよ。他のクライアントに迷惑かけたら、沢田さんも肩身が狭いでしょう」
「はい」
坂本女史は、軽く手を挙げて、事務所を出ていった。正明だけではなく、坂本女史も、事務所の皆もどこか割り切れないものを感じているのかもしれない。
電話が鳴った。
もう、時間も遅いから出るのはやめようかと思ったが、手が受話器を持ちあげた。
「はい。片岡法律事務所です」
「あ」
電話が通じたことを意外に思ったのか。相手の言葉は続かなかった。この空気は知っている。
「村上さん」
「はい」
「どこにいるんです」
「はあ」
「あなたのこと、捜していたんですよ」
「はい」
村上を捜していると口に出して気がついたが、村上を捜し出して、どうするつもりだったのか、自分の中に答えがないことを知った。
「一度、会って、話をしませんか」
「はぁ」
押せば押すほど、引いてしまう男に、かける言葉が見つからなかった。
「あのぅ」
「はい」
「一言、お礼が、言いたい、と思って」
「そう。沢田さんは、どう思うだろう」
「喜んでいると思います」
「そう思いますか」
「はい」
「これで、よかったのか、僕は確信が持てなかった。僕は沢田さんに会ったこともないし、それよりも、彼女を助けてあげることもできなかった。だから、あなたに会いたいと思っていたんだと思います。あなたと沢田さんは、どんな関係だったんですか」
「友達です」
「友達」
「はい。小学校と中学校で、同級生でしたが、その時は友達ではありませんでした。沢田さんも、僕もいじめられる側で一緒でしたが、特に話をしたことはありません。高校を出た後、ああ、僕は中退しましたので、沢田さんが高校を出た後です。偶然、出会って話をしました。共通の話題は、いじめですけど。それからも、何回か会って話をしました。話はいつも、いじめの話です。沢田さんは、悩んでいました。僕は、もう、慣れっこになっていて、いじめられるのが普通だと思っていましたが、沢田さんは悩んでいました。沢田さんから計画を打ち明けられた時、僕は、一応、とめたんです。でも、多分、儀礼的にとめただけだと思います。僕には、沢田さんを助けてあげることはできませんでしたから、強くはとめませんでした。僕に、今回のことを頼んだということは、沢田さんも僕のことを友達だと思っていたんだろうと思ったから、先生の所へ行ったんです。僕にできることは、それしか、ありませんでしたし」
「そうですか。友達の関係を先に進めることは出来なかったんですか」
「は」
「二人で生活すれば、乗り越えられたかもしれない、と思って」
「ああ、それは、無理です。僕は、一人でもかつかつの生活をしています。とても、誰かの生活に責任の持てるような人間ではありません」
「二人で働けば」
「多分、先生には、わからないと思います。いじめられ人間が二人になったら、普通の生活があると思いますか。二人で、死ぬことしか道はないと思います。僕は、沢田さんみたいな度胸はありません。しがみついてでも、生きていくしかないんです」
「ごめん。何か、君を責めるような言い方になってしまった。そういうつもりじゃ、ありませんから」
「わかってます」
「でも、村上さんから、沢田さんが喜んでいるだろうと言われただけで、少し救われました。それと、村上さんは、しがみついてでも生きていくと言ってくれたので、安心しました。もう、DVDを受け取るのは最後にしたい、と強く思っています」
「はい」
「それでも、行き詰ったら、もう、どうしようもなくなったら、ここに来てください。僕に何ができるか、わかりませんが、一緒に何か考えられるかもしれない」
「ありがとうございます。僕は大丈夫です」
「そうですか。また、気が向いたら、電話してくれますか」
「はい」
正明は、電話を切って、大きな溜息をついた。重たい空気がなくなった訳ではない。自分が世界の救世主になれる訳でもない。これが、現実だということはわかっている。でも、どうしても、沢田はるかが言う「社会が悪い」という言葉に同調したくなる。
沢田はるかや村上勇一から見れば、自分も「糞のような社会を作っている糞のような人間」の一員に見えるのかもしれない。いや、見えるのではなく、きっと、糞なのだろう。
いかん、いかん。自分までが沢田はるかになってしまいそうな気分だ。
「よいしょ」
正明は、大きな掛け声を出して立ち上がった。




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