SSブログ

算術 [超短編]

算術


秋元平蔵は、用心深く木々の間に入り込んだ。秋口とはいえ、まだ暑さが残る城下と違い山の中は空気が冷えている。道を外れた樹木の中はさらに涼しさが際立つようだった。
まだ元服前の平蔵は、髪の乱れを気にしながら森の奥に進んだ。道場の友人も先輩も山辺池に行ったことがあるという人間はいなかったので、確固たる場所はわかっていなかった。
暫く進むと、椎の木の根元には木の実も落ちている。あけびの蔓には実がなっていた。あけびを持って帰れば喜ばれることはわかっていたが、次の機会にすることにした。
更に進むと、小さな草原に出て、少し暑さが戻ってきた。だが、空気には木々の臭いだけではなく草の匂いも混ざり、山に包まれているように感じる。思い切って来た自分に満足感があった。伝説は人を寄せ付けない、どこか恐ろしさを秘めたものだったので、数年間は無関心を装っていたが、好奇心には蓋ができなかった。嘉太郎を誘ったが、嘉太郎は首を縦には振らなかった。
だが、どこを見ても池があるようには見えない。水の臭いもしなかった。
平蔵は草原を横切り、木々の間に分け行った。道がある訳ではないので、真っすぐ進んでいるつもりでも、そうではなかったのかもしれない。草原を背にして歩いたつもりだったが、高台に上がって振り返ると、先ほどの草原が右手に見える。少しだけ帰り道が心配になったが、そこから引き返す気持ちはなかった。
高台を下ると、木々が途切れた場所に微かに人が通った跡があった。そこが、本来の山道なのかもしれない。平蔵は左に折れて足跡を追った。
だが、平蔵の足はすぐに止まった。少し開けた場所に、剣を構えたままの男が立っている。横顔しか見えないが、まだ若い男のようだ。横に薙いだ刀が上段から真下に空気を切り裂いた。見たこともない太刀捌きは、沢村道場のものではない。
息を整え、静かに刀を収めた男が平蔵の方を向いた。無精髭はあるが、まだ二十代の男に見える。男の目にも体にも殺気はないが、空気は押してくる。
男は無造作に平蔵の方へやってきた。平蔵は左手を刀に当てた。
「坊主。何するつもりだ」
平蔵は左手で刀を握った。平蔵が一番嫌っているのが、子供扱いにされることだった。子供には違いはないが、童顔のせいで友人たちより年下に見えるのが気に入らない。
「待て」
男は足を止めた。
「子供相手に、無茶はせん」
平蔵は、両足を開き、右手で柄を握った。
「おい、おい」
刀を抜くつもりは全くなかったのに、手が勝手に動いて、平蔵は正眼に構えていた。
「ほう」
男は近くに落ちていた木を拾い上げて前に突き出した。
「沢村道場か。打ち込んできても、いいぞ」
真剣を抜いている相手に、木で対する姿勢は許せない。侮られたという気持ちが、平蔵の顔を上気させた。だが、足が前に出ない。上段に振りかぶろうにも手が動かない。体中から汗が噴き出してきた。
男が、手にした木を横に捨てた。
「もう、いいだろう。刀をしまえ。なかなかのもんだ。子供扱いして、悪かった」
平蔵は自分の手とは思えない手で、刀を鞘に収めた。
「俺は、糸井作十郎だ。お前は」
「秋元平蔵」
「こんな所で、何をしてる」
「山辺池に」
「山辺池か、珍しい男だな」
平蔵は、糸井作十郎が男と言った言い方に納得した。だが、まだ、大きな息遣いのままなのが悔しかった。
「俺の名前を知ってるようだな」
平蔵は頷いた。秋篠藩で一番の使い手だと聞いている。ただし、素行の悪さでも藩随一だという噂もある。具体的にどう悪いのかはわからないが、悪いらしい。
「どうして、池へ行く」
「どうしても」
「そうか。場所はわかっているのか」
「いえ」
「ついてこい」
糸井作十郎の後ろを歩きながら、最初はその背中に隙を見つけようとしたが叶わなかった。たとえ、後ろから切りつけても自分の刀が相手の体に届く前に自分が切られる様子が想像できた。もっとも、平蔵も武士である以上、背後から騙し打ちをかけるようなことはしないだけの誇りは持っている。次第に糸井作十郎の背中が信頼できる大人の背中に見えてきた。
「あれだ」
四半刻ほど歩いて登った高台から、不思議な池が見えていた。周囲の草木よりも鮮やかな草色をしている池は、窪地にある草の群生のように見える。
「近くには行けん」
「どうして、ですか」
「あの池の周りは、瘴気が満ちている。大勢の者がその瘴気で死んだ。伝説は、近よるなという戒めだ」
「はい」
美しい景色だが、そこに毒があるという言い伝えは素直に受け入れられた。糸井作十郎に出逢わずに一人で山辺池に辿りついていたら、二度と帰ることはできなかっただろう。
糸井作十郎が腰から刀を外して腰を下ろしたので、平蔵も並んで腰を下ろした。高名な剣士と二人で並んで座っていることが誇らしい気持ちだった。
「お前は、どんなことでも、突き止めたいと思う男だ」
「はい」
「そういう男は、命を落とす」
「・・・」
「兄弟はいるか」
「はい。兄が二人、います」
「そうか、お前も部屋住みか」
「はい」
「剣術が、役に立つと思うか」
「・・・」
「剣術が、婿入りの道具になると、思っているのか」
「そんなことは、まだ、考えません」
平蔵は、考えていないと答えたが、将来を考えない人間などいない。必死で修業しているのも、婿入りの道具だと腹の底ではわかっている。ただ、認めたくない。
「学問をしろ」
「学問は苦手です」
「本の素読だけが学問じゃない。実際に役に立つ学問もある。算術だ」
「算術、ですか」
「俺はもう手遅れだが、お前なら、まだ間に合う。それに、お前はこの池の正体を見たいと思った。算術を習い、その正体を突き止めれば学問になる。算術では命を落とすこともない」
「命を落とすことが、怖いのですか」
「ああ。怖い。武士なら怖くないと思うのは偽りに過ぎん。人間なら誰でも怖いと思ってる。俺達は怖くないと思いたいだけだ」
「・・・」
「まあ、いい。算術の話だ。相模屋を知っているな」
「はい」
「番頭の友哉という男が算術に詳しい。最初は友哉に教えてもらえ」
「・・・」
「町人ごときに、と思ったか」
「いえ」
「勘定奉行が誰か知っているな。俺でも、お前でも、いや、お前の父親でも大槻様と膝詰めで話をしたことはなかろう。だが、友哉にはそれができる。何故かわかるか。友哉にはそれだけの力があるということだ。武士だ、剣術だと大声を出してみても、何の役にも立たん。力のあるものが世の中を動かす。俺も、お前ぐらいの歳に、そのことがわかっていれば、もう少しましな男になっていたかもしれん」
平蔵の頭の中は混乱していた。こんな話をする大人とは出逢ったことがない。
「お前なら、習った算術の奥を突き止め、算術を学問にすることができるかもしれん。それが力になる。勘定方でも、作事方でもその力は必要とされる。一生、部屋住みで終わるよりは、多少ましな一生になるかもしれん」
「どうして、私にそんな話をしてくれるのですか」
「俺は、あの池で死にかけた。わからぬことをわからぬままにしておけなかった。今のお前と同じだ。俺は剣の道を極めれば、道は開けると信じていた。確かに、まだ極めてはいないが、たとえ極めても、道が開けることはないということが今ではわかる。なぜか、わかるか」
「いえ」
「今、求められているのは武力ではない。どの藩も、怖くて戦などせん。求められているのは金だ。金を生むための仕組みが求められている。その仕組みを作った商人はどんどん大きくなって行くが、その商人から金を借りて生活をしている藩は衰退していくことしかできない。俺たちは目を背けているが、これが現実だ」
「はい」
「だからと言って、俺達が商人になれるわけではない。武士である事と、刀を持っていることで、俺たちは頭を下げることが出来ずに、棒のように立っているだけだ。頭でわかっていても体は動かん。特に、歳を取れば取るほどできなくなる。俺自身、自分がこうなるとは思いもしなかった。お前ぐらいの歳で、このことがわかっていれば、変われていたかもしれん。商人にならずとも、商人の知恵を学び、それを生かせば道が開けるかもしれんが、簡単にできることではない。素直な気持ちと、極めたいという欲と、時間が必要になるが、俺には、もう、どれもない。一言で言えば、手遅れだ。多分、お前の若さが羨ましいのだろう。それに、お前の未来にあるのは部屋住みの一生かもしれん。俺みたいな男になることが楽しいことではないことを知っておいて欲しいのかもしれん。あの池を突き止めようとした、いわば同志だと思ったからかもしれん。あんなに美しい池なのに、あれは死の池だ。そんなことが、多すぎる」
糸井作十郎は、突然立ち上がって歩きだした。平蔵も慌てて後を追った。池の方には視線を送ることもなかった。平蔵の中では山辺池の探検は終わっていた。
糸井作十郎の歩行速度に付いていくために、平蔵は小走りになっていた。
「この道を行けば柴田村に出る。俺は寄らねばならんところがあるから、ここで別れよう」
「はい」
「それと、俺と会ったことは黙っていろ」
「どうしてですか」
「俺の噂は剣術だけではあるまい。無頼漢と付き合いのある人間も、同類と思われる。お前にとって得るものは何もない」
「あの」
「何だ」
「あの時、何を切っていたのですか」
「ん」
「刀を抜いておられました」
「ああ、自分だ」
「自分ですか」
「何度試しても切れん」
平蔵の返事を待たずに、背を向けた糸井作十郎が遠ざかって行く。
平蔵の頭の中の混乱は、少しも治まっていなかった。

父親の喜左衛門は御蔵番で、武器庫の警護に当たっている。何代にもわたって武器庫の武器が使用された事はないが、武器の手入れと警護は何代も続けられている。禄高は五十石だが、実際の碌はその半分もないそうだ。それでも、他家よりも恵まれているのは、祖父と三人の息子が熱心に畑仕事をし、母親の内職が家計を助けていたからだった。母親のいとが縫った着物は評判がいい。平蔵にはわからないが、針仕事にも上手下手があるらしい。
日が傾き、次第に明るさが消える道を平蔵は急ぎ足で歩いた。食事の時間に遅れれば、家族が心配する。特に母親には心配をかけたくなかった。田舎道に人影はない。次第に小走りになった。目に入る汗だけを拳で拭きながら、家に近づくと全力疾走になっていた。
「ただいま、戻りました」
「平さん」
母親は平蔵の事だけは「平さん」と呼ぶ。母親の声には安堵の響きがあった。
「遅いぞ」
秋元の家では、何故か長兄の甚蔵が一番威張った口をきく。祖父も父も口数の少ない人だが、長兄はそうではなかった。父は、母親に似たのだと言うが、母は確かに口数は多いが威張った物言いはしない。
「あらあら、先ず、汗を流してきなさい」
「はい」
部屋に戻ると、母と平蔵の二人分の膳が残っていた。
「すみません」
「お腹、減ったでしょう。食べなさい」
「はい」
食事が終わり、膳を片付けたところへ長兄が来た。
「こんな遅くまで、どこに行っておった」
「山で、道に迷いました」
「山。何をしに参ったのじゃ」
「あけびをとりに」
「あけびなど、ないではないか」
「見つかりませんでした」
「いいかげんなことを申すな」
「いいかげんではございません。次は、山ほど持って帰ってきます。兄上はあけびがお嫌いですか」
「そういうことではない」
「無事に戻ってきたのですから」
部屋に戻って来た母が平蔵をかばった。
「母上は、平蔵に甘すぎます」
「はい。でも、惜しい事をしました。久しぶりにあけびを食べとうございました」
「母上」

山辺池の瘴気に冒された訳ではなく、ただの風邪ではあったが、平蔵は三日間熱にうなされた。苦い煎じ薬を飲みたくないという理由で、母親にも風邪をひいたと言わなかったこともあったが、今度ばかりは体が動かなかった。食事の替わりに煎じ薬だけを飲んでいたようなものなので、病人らしく痩せることができたし、それほど煎じ薬が苦いとも思わなくなった。熱にうなされながらも、平蔵の頭の中は糸井作十郎に言われた算術と婿入りのことで一杯だった。
「平さん、少し食べてみませんか」
母がおかゆを持ってきてくれた。白米の香ばしい臭いがする。
かなり激しい雨の降っている庭を見ながら、平蔵はおかゆを食べた。父は城に行き、二人の兄は学問所に行っている。雨で畑仕事ができない祖父は、自分の狭い部屋で釣り道具の手入れに熱中しているだろう。
「おいしゅうございました」
「熱は下がったようですね」
「はい」
母親の優しい笑顔はいつも平蔵を幸せな気持ちにさせてくれる。
「母上」
「なんです」
「剣の修業は、婿入りのためになるのでしょうか」
「・・・」
「私も、部屋住みになるのでしょうか」
「どうしたのですか」
「先日、山に行った時に会った方に言われました。剣の修行などしても婿入りの道具にはならないと」
「どなたです」
「お名前は聞きませんでした」
「平さんは、どう思いますか」
「道場にも部屋住みの方がおられますし、道場に来なくなった方にもおられます。剣の腕がいいから養子の口が来るようには思えません」
「そうですね」
「兄上に叱られながら、一生過ごすのも、辛いことに思えます」
「ええ」
「その方は学問をしろと言いましたが、私は、論語は苦手です」
「・・・」
「算術をやれと言われました」
「算術」
「勘定方や作事方では算術が役に立つそうです」
「変わった方ですね」
「はい。その方も部屋住みだそうです。でも、今からでは手遅れだと言っていました」
「そうですか」
「算術を学び、それを学問にすることができれば、どんなことでもできると言われました」
「私には、その算術のことがよくわかりませんが、どこで学ぶのですか」
「相模屋の友哉という番頭が算術に詳しいそうです」
「友哉殿が」
「知っているのですか」
「ええ、まあ。平さんが会った方は、糸井作十郎という方」
「えっ」
「このことは父上しか知りませんが、友哉殿の奥様の仕立は私がやっています。一番有難い内職ですが、大きな声では言えませんから他言無用ですよ」
「はい」
「友哉殿のお宅で、何度か糸井様のお顔は見ています」
「そうでしたか。その友哉殿とはお話になったのですか」
「いえ。ご挨拶はしたことがありますが」
「どんな方です」
「そうですね。物静かな、奥の深そうなご立派な方だと思いました」
「町人ですよね」
「どうなんでしょう。私達が接する町人とは少し違うような気がします」
「・・・」
「どうして、糸井様の名前を伏せたのです」
「悪い噂もあるから、言わない方がいいと言われました」
「ご本人が」
「はい」
「面白い方ですね」
「でも、剣は凄いです」
「まさか、立ち会ったりしてないでしょうね」
「いえ。木の棒であしらわれました」
「で、平さんは、どう思うのですか」
「私にできるかどうかわかりませんが、一度学んでみたいと思います。でも、相手が町人ですから、兄上は首を縦に振らないかもしれません」
「そうですね。母が一度考えてみます。もう少しお待ちなさい」
「はい」
「平さんが、こんなこと考えているとは、驚きましたよ。私の可愛い平さんはどこへ行ってしまったのでしょう」
「母上」
「はい。はい」






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0