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国力衰退と貧困化と児童虐待の相関 [評論]



児童虐待件数が、2020年度に、200000件を越えたそうです。
参考までに、30年前は、1100件でした。
なぜ、こんなにも、児童虐待が増えてしまったのでしょう。
このデータは厚労省が発表したもので、児童相談所に相談があったものだけの件数です。
ですから、実際に虐待されている児童が何人いるのかは不明です。
随分前にも書きましたが、子供の悲鳴は、この国の悲鳴です。「地獄のような社会がやって来るぞ」と子供達が教えてくれているのです。
「法」の前に、「人としての心」って何でしょう。「人としての罪」って何でしょう。
子供達の悲鳴を、見て見ぬふりをしている私達には、心があるのでしょうか、罪はないのでしょうか。たとえ、罰せられたとしても、文句は言えないのではないでしょうか。
ほんとに、「俺達には関係ねぇ」でいいのでしょうか。
そうではないと思います。20万人もの子供達です。厚労省のデータが氷山の一角だとすると、悲鳴を上げている子供は、100万人かもしれませんし、200万人かもしれません。私達は、そんな子供達を「見て見ぬふり」しているのです。人として、いかがなものかと思います。

「十人十色」という言葉があります。
同じ人は、一人として存在していません。ですから、児童虐待を趣味にしている人が1人もいないとは断言できません。でも、それは、無視してみましょう。
子供を守る責務は、誰にあるのでしょう。
親です。
しかし、児童虐待の加害者は、その親です。
親が自分の子供を虐待するには、それなりの理由が、言い訳が、あると思います。
その理由も千差万別だと思います。
児童虐待を根絶することは可能なのでしょうか。
いいえ、残念ですが、児童虐待を根絶することは不可能です。
それは、私達が人間だからです。
性善説は理想であって、現実ではありません。人間は、誰でも、児童虐待をする資質を持っています。それが人間の本性です。どんな人でも、例外なく、「悪」を持っています。人間は、自分が神や仏になれないことを知っていたから、神や仏を創り出したのです。
人類史には児童虐待のことは書かれていませんが、人類の歴史で、児童虐待がゼロになった時代はなかったと思います。児童虐待を容認するつもりはありませんが、人間が人間である限り、児童虐待を根絶するのは不可能だということです。可能な限り、虐待数を減らすことが、私達にできることだと思います。
では、生活にゆとりのある家庭での虐待件数と、生活が苦しい家庭の虐待件数は、どちらが多いのでしょう。データはありませんが、生活が苦しい家庭の虐待件数のほうが、圧倒的に多いのではないかと推測できます。
児童虐待件数の増加は、貧困層の増加と相関関係があると思っています。
貧困層の増加は、間違いなく、国力の衰退と相関関係にあります。
現状。
国力の衰退は続いています。
だから、貧困層の増加も続いています。
それに比例して、児童虐待の増加も続いています。
将来。
国力の衰退は、今後も、続きます。何もしてませんから。
当然の帰結として、貧困層は、更に増加します。
それに伴い、児童虐待も増加します。
これは、将来予測ですが、否定する根拠がありません。
児童虐待を減らすためには、貧困層を減らさねばなりません。
貧困層を減らすためには、国力衰退を止めなければなりません。
相関関係がある以上、根っ子を解決しなければならないことは自明の理だと思います。
もちろん、児童虐待を「是」とするなら、この論理は成り立ちません。
では、国民の皆さんは、児童虐待を「是」とするのでしょうか。
それとも、「俺には関係ねぇ」と言うのでしょうか。
実際には、ほとんどの国民が、見て見ぬふりをしているのですから、「俺には関係ねぇ」と言っていることになりますが、それでいいのでしょうか。
「見て見ぬふりをしているのは、俺だけじゃない」と言うでしょう。
その通りです。
皆で無視しているのです。
では、皆で無視していれば、何でも、許されるのでしょうか。
実際に、そういう空気があることは否定できませんが、それでいいとは思えません。
皆さんは、自分の首を絞めているのですが、そのことに気付いているのですか。そこが、わかりません。
子供達の悲鳴は、将来の皆さんの悲鳴です。
国力衰退と貧困は、皆さんのところへもやって来ます。
「俺には関係ねぇ」と言える人は、一人もいません。
たとえ、どんなに「いい人」であっても、「貧すれば鈍する」のです。
皆さんは、例外なく、児童虐待の加害者予備軍なのです。
この流れは、国力衰退、貧困化、児童虐待という流れは、そろそろ、止めなければならないのではないでしょうか。
皆さんが不幸になり、子供達も不幸になる。
そんな社会の、どこが、いいのですか。
元凶になっている「国力衰退」を阻止しなければならないと思います。
もちろん、個人だけで、何とかできるような問題ではありません。
トレンドという潮流を変えるためには、巨大な力が必要になります。
国民の持っている力は「数」です。いえ、「数」しかありません。
多くの国民の皆さんが、「何とかしたい」と思い、「何とかしよう」と言葉に出し、国家運営者に「何とかしろ」と強要するしかないと思います。国家運営者が応じない場合は、国民の要求を受け入れてくれる国家運営者を作り出さなくてはなりません。
今の国家運営者は、禄でなし集団ですが、国家運営者が不必要だということではありません。それは、国民全員で、仕事を放り出して、国家運営をするなんてことが出来ないからです。
もちろん、「何とかしろ」と言ってみたところで、何も変わりません。
何を、どうすればいいのか、誰にも見えていません。
いや、見ようとしていません。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民の皆さんにとって、国力衰退も貧困化も児童虐待も他人事です。既に、貧困層の仲間入りをしてしまった人達でさえも、国力衰退や貧困化や児童虐待は他人事だと思っています。だから、見ようとしていないのです。
何故なのでしょう。
国民に責務があるということを知らないからです。
「だって、誰も、教えてくれないから」と思っていませんか。
それ、勘違いです。
国民に責務がある、ということを知ることも、国民の責務なのです。
国にも、国民にも、責務があります。
今は、曖昧な空気に溶けていて、見えていないだけです。
ここを変えなければ、何も変わりません。
皆さんが変わらなければ、解決策を見つけなければ、たとえ、「俺には関係ねぇ」と言っている人でもドツボに嵌るのです。
国民自身が、「何とかしろ」の「何とか」を見つけるしかないのです。
そんなに難しいことなのでしょうか。
国にも、国民にも、責務があることに気付くだけでいいのです。
原点に戻り、「国とは」「国民とは」を定義するだけでいいのです。
誰にでもできることです。
日本の国民の皆さんであれば、雑作もなく、出来ることです。
言葉の定義をして、国の目的を、国民の目的を、国の責務を、国民の責務を、明確にすれば、国力衰退も貧困化も児童虐待も変えることができます。いや、国民の皆さんの意識を変えなければ、この国は変わりません。
先ず、国民の皆さんが変わってください。
なぜなら、今の延長線上にあるのは破滅だからです。
既に、壊れ始めています。
それが、児童虐待の数字になって現れているのです。

皆さんは、未だに、自分が「下々」だと信じていませんか。
「下々」が「お上」に逆らうようなことはできないと思っていませんか。
確かに、「下々」には無理かもしれません。
でも、皆さんは、「下々」なんですか。
この国は、看板だけですが、それでも、民主国家なのです。民主国家に「下々」や「奴隷」は存在していません。
では、皆さんは、一体、何者なんですか。
幽霊ですか。
そうではありません。
皆さんは、国民なのです。
国民であれば、果たさねばならない責務があります。
そうです。悲鳴を上げている子供達を助ける責務は、皆さんにあります。
この児童虐待の数字は、皆さんが、国民の皆さん全員が、一人の例外もなく、責務を果たしていないという証の数字なのです。もちろん、児童虐待をしている親が一番悪いと思います。しかし、それを「見て見ぬふり」をしている皆さんも、同罪です。
児童虐待が行われている家に殴り込め、と言っているのではありません。児童虐待と相関関係のある貧困化を止めることです。貧困化を止めるために、国力衰退を止めてくださいと言っているのです。そのために、目的と責務を見つけてください、とお願いしているのです。
今、皆さんがやっている「俺には関係ねぇ」は、確かに、楽ではありますが、最悪の方法だと思います。皆さんは、自分の墓穴を掘っているのです。最終的に、辻褄を合わせるのは、国民の皆さんです。児童虐待を放置した責任を取るのは、国民の皆さんなのです。飢えに苦しむのは、皆さん自身です。
自分の身は自分で守る。自分の家族は自分が守る。自分の国は自分で守る。それだけではありません。人間の子供は、他の生き物に比べて極端に脆弱です。ですから、人間は集団で子供を守る運命を持っているのです。他所様の子供でも、子供達を守ることは、国民の責務だと思います。
当たり前のことだと思いますが、違うのでしょうか。

今の日本で、悪しき事象をグラフにすると、右肩上がりのグラフになります。
児童虐待件数のグラフも、右肩上がりです。
これは、国が、悪しき方向へ向かっているということです。
ニュースでも児童虐待のことは、度々、出てきます。
「見て見ぬふり」をしていて、心は痛みませんか。
それとも、皆さんは、もう、人間やめたんですか。
これは、理想論とか人道主義の問題ではありません。
もっと原始的な「人の心」の問題だと思います。
縄文時代に児童虐待があったのかどうかは知りません。ただ、あったとしても、非常に少なかったと思います。縄文人は、自分達が、いつ滅んでも仕方がないと思っていたのではないでしょうか。彼等の最大の望みは、未来に向けて、生き延びることだったと思います。その未来の象徴である子供達は大切にされていたと思います。
日本は、どうして、こんな国になってしまったのですか。
それは、皆さんが「見て見ぬふり」をしているからです。
それでも。
多分、多くの皆さんが、本音では、心苦しく思っているはずです。
好き好んで「見て見ぬふり」をしているのではないと思います。
でも、皆さんは、「どうすればいいのか」がわかりません。
学者という名のお偉い先生方も、何一つ、解決策を提示できていないのですから、皆さんだけが悪いわけではありません。私達は、全員、解決策を持っていないのです。
その通りですが。
成功するという保障はありませんが、「言葉の定義」をしてみませんか。
一本の藁に過ぎないかもしれませんが、他に選択肢がないのですから、「駄目で元々」と思って「言葉の定義」をしてみませんか。
もちろん、「言葉の定義」に費用はかかりません。
ただし、時間はかかります。
日頃使い慣れていない脳の一部も使わねばなりません。
それなりに、調べ物もしなければなりません。
でも、国民の皆さんが「言葉の定義」に挑戦すれば、何かが変わります。
そのくらいは、「人として」やってもいいのではないでしょうか。
そして、皆さんが手にした「言葉の定義」をできるだけ多くの方に知らせてください。
国民の皆さん一人一人には、力はありません。しかし、数が集まれば力になります。
それが国民の力です。
時間はかかりますが、いつの日か、児童虐待を減らすことができるかもしれません。
「俺には関係ねぇ」は、いつか、必ず、ブーメランとなって、皆さんを襲います。
私も、皆さんも、当事者なのです。
皆さんは、ほんとに、このままでいいと思っているのでしょうか。


2021-10-06



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救いようのない愚か者集団 [評論]



ごめんなさい。今日も暗い話です。
昔から暗い話ばかりでしたが、最近は、更に、暗くなっていると思います。
それは、多分、この国の「国力衰退病」が、コロナに背中を押されて、更に悪化するだろうと私の直感が言っているからです。もちろん、私の妄想です。

8月末に、コロナ関連倒産件数が2000件になったというニュースがありました。
これは、東日本大震災時の倒産件数(10年間分)に匹敵するそうです。東日本大震災は地域限定で、コロナは全国規模ですから、多くなるのは自然だと思います。
仮に、1年8カ月で2000件だとすると、月平均では100件になります。
この100件が多いのか少ないのかは見方によって違ってくるのでしょうが、倒産は倒産ですから、何の影響もないというわけにはいきません。

一方。
この1年間、企業の倒産件数の総数が減少しました。
変な話ですが、これも現実です。
コロナ以前は、月に、600件から800件だった倒産件数が、コロナになってから、400件から600件になりました。
この変化の原因は、コロナ以外に考えられません。
単純計算ですが、毎月200件減少したのです。
この数字は何を意味しているのでしょう。
コロナに関係なく倒産していたはずの企業が、この1年8カ月で4000社以上生き延びていることになります。当然、この400件から600件の倒産にコロナ由来の倒産の100件が含まれています。だとすると、生き延びている企業が6000社あるということです。延命措置は、どこかで、必ず、死を迎えます。
もちろん、この倒産予備軍が、時間をかけて平均的に倒産してくれるのであれば、それほど問題にはならないのかもしれません。しかし、ある時期に集中すると、少し厄介なことになります。
これは。
対コロナの特別融資と雇用調整助成金の威力がどれほど大きかったかの証です。
裏返せば、多くの企業が借金漬けになっているということだと思います。
皆さんは、どうやって、借金を返済するつもりなのでしょう。
衆議院選挙が終わり、ワクチンが行きわたれば、或いは、来年の参議院選挙が終われば、特別融資と雇用調整助成金は縮小又は廃止されるものと思います。
それだけでも、倒産は増加します。
倒産が増加するということは、金融機関が不良債権を増やすということです。
特別融資を実施したのは政府系金融機関だけではありません。
コロナ前でも、民間金融機関は青息吐息だったのです。
大丈夫なのでしょうか。

また、雇用調整助成金で失業率は低く抑えられました。
失業率が低いということは、消費者に購買力があるということです。
雇用調整助成金制度が廃止されれば、そのことだけで倒産する企業もあるでしょうが、購買力が減少し、国内経済が失速すれば、人員削減が表面化することになります。
コロナの影響だけではなく、もう忘れているかもしれませんが、政府が70歳定年を推進したことで、この先、中高年サラリーマンの人員削減は加速します。企業は、国の指示に従い、定年の延長をしていたら、会社は潰れます。70歳定年は、労働環境の変化を導く契機になったと思います。これも、国家運営の失敗です。企業は、生き残るために、開き直って、本気で、リストラを推進することになります。
どこの企業でも、中高年サラリーマンは必要とされていません。給料だけの問題ではなく、スキルの問題であり、柔軟性の問題なのです。生産性の低い中高年サラリーマンを抱えていたのでは競争に勝てません。企業は、特に大企業は、あの手この手を駆使し、社員の若返りを進める必要があります。コロナとは関係なく、労働市場には、近い将来、いや、既に始まっていますが、中高年失業者が溢れる現象が出てきます。企業側の本音は、40歳以上の社員は不要なのです。誰もが、40歳から70歳のどこかの時点でリストラされる時代になると思います。年功序列、定年制という国力発展期のシステムを、国力衰退期に使っているのですから、当然、無理が生じます。もう、30年も国力衰退は続いています。これまで、得意の「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、やり過ごしてきました。そろそろ、限界です。労働環境だけではありません。「国力衰退」に向き合わなかった、いや、今も、向き合っていないことが、更なる「国力衰退」の背中を押します。「45歳定年」を言い出してバッシングを受けた経営者の方がいますが、彼は、現実を語っただけだと思います。
もう、既に、衰退という悪循環のスパイラルは始まっています。
失業者が増加すれば、消費者の購買力が落ちます。
特に、購買力が大きかった中高年就業者が、失職すれば、購買力は更に落ちます。子供の教育費が払えない人が続出します。将来に備えて、知識を得ようとした子供達は、将来を犠牲にして、生活費を優先させなくてはなりません。そんな大学生も増えました。日本の将来は明るい、なんて思っている人はいません。
購買力が低下し、商品が売れなければ、企業収益が悪化します。
では、この国は、一時的なコロナ有事が終われば、元の成長軌道に戻るのでしょうか。
違います。
日本が戻る先は、成長軌道ではなく、衰退軌道です。
コロナが終われば、薔薇色の未来が待っているわけではないのです。
巨額の財政出動で、衰退が一時的に弱まっただけです。
単純に考えれば、コロナ以上の窮地が待っているのです。
少し、コロナ前の環境を振り返ってみましょう。
数十万社の中小企業が廃業すると言われていました。
政府の政策でも、中小企業の淘汰が計画されていました。
コロナで、一時的に堰き止められていた中小企業の環境が動き出し、大きな流れになる危険はないのでしょうか。
もしも、私が、廃業や倒産という可能性を知っている中小企業の経営者であれば、コロナ終息後を見据えて準備すると思います。特別融資は借りれるだけ借りて、それ以外の補助金を利用するだけして、廃業又は倒産の準備をします。
どんな方法があるかは、具体的にはわかりませんが、きっと、同じようなことを、多くの方が考えると思います。コロナ終息後をターゲットにした、廃業・倒産プロジェクトが多くの中小企業で始まっているのではないかと思います。
日本が「衰退国家」でなければ、こんなプロジェクトは始まらなかったでしょうし、一部の企業が、そんな計画をしていても、日本経済全体に大きな影響は与えなかったと思います。
でも、現実は、「衰退国家」なのです。
先送りされた倒産と計画された倒産と経済縮小による倒産が増えれば、中小企業の倒産であったとしても、大きな負の力になる可能性があります。
これまで、日本の中小企業は手厚く保護されてきました。
コロナ後、政府の中小企業政策は大きく変更されます。
「カネの切れ目は縁の切れ目」と言われますが、コロナで大盤振る舞いをしたために、政府の財源は、コロナ以前よりも更に厳しい環境になります。それは、これまでのように、中小企業の寿命を延命させる政策が打てなくなるということです。
廃業・倒産に最適の時期がコロナ後にやって来るのです。
新陳代謝という意味では、こんな時期があってもいいのかもしれません。
ただ、新陳代謝とは、古いものと新しいものが入れ替わることを意味します。
では、廃業・倒産した企業は、新分野で、新規事業を、立ち上げられるのでしょうか。
そんな新分野・新事業が存在しているのでしょうか。
そこで問題になるが、「衰退国家」であるという現実です。
新分野・新規事業が育たなかったから、この国は衰退したのです。
では、コロナの後であれば、突如として、そんな可能性が生まれるのでしょうか。
それは、無理な相談だと思います。
政府のお偉い先生方は、「中小企業が、新分野に挑戦してくれれば、政府も応援します。そうなれば、日本は、再び、成長できます」と言います。いやいや、それが出来なかったから、日本は衰退したのです。「れば、たら、もし」では結果は出ません。補助金を出せば、成功すると思っている先生方へ「それは違う」と言いたいです。この国を変えるのは、国民の意識であり、国と国民が目的を持てるかどうかだと思います。
中小企業の廃業・倒産が、「衰退国家」の背中を押すことになるほうが、実現性が高いと思います。いわゆる、不幸が不幸を呼ぶという風が吹くのです。
日本の中小企業の大半は、大企業の下請け・孫請けの仕事をしています。
国内の下請け企業が倒産すれば、大企業は、部品を海外から調達することになります。その部品代金は国外へ支払われることになり、日本国内にカネは落ちなくなるのです。それは、日本国内の購買力が減少するということです。
輸出で稼いでいる企業は別にして、企業規模の大小に拘わらず、日本国内の購買力に支えられている企業は、売り上げが減少することになります。当然、身の丈に合った会社にするしかありません。人員削減は必須になります。国力衰退は、次から次へと連鎖します。
国内で部品が調達できなくなって、海外から調達できる企業だけではありません。
中小の金融機関の顧客は国内の中小企業です。融資する国内企業が減少すれば、海外の企業に融資すれば済むという問題ではありません。日本国内の中小企業は、全てとは言いませんが、良識のある会社がほとんどです。海外では、そうはいきません。
「たかが中小企業」なんてことで済む問題ではないと思います。
中小企業の廃業・倒産、中小企業の淘汰の副作用は、一筋縄ではいきません。
多分、日本経済をボロボロにしてしまう可能性だってあると思います。
それが、コロナ後に、津波のように押し寄せてきたらどうするのでしょう。
まさか、こんなことが引き金になるとは思わなかったということが、引き金になる可能性だってあるのです。
この世は、何が起きても不思議ではないのです。
一時的に倒産が増えることもあれば、経済成長がマイナスになるような事態だってあり得ます。しかし、国が衰退している時には、ほんの些細な事でも命取りになる可能性があるのです。逆に、日本の高度経済成長期には、色々なことがあっても、前に進めました。この環境の違いを無視すれば、痛い目に遭います。現実から目を逸らしていて、いいことなど一つもありません。
どうして「国力衰退」を無視するのか、理解に苦しみます。
政府だけではありません。与党も野党も学者もメディアも国民も、皆で無視しています。
つい、「お前ら、皆、馬鹿なのか」と思ってしまいます。私達が、今、最優先でやらねばならないのは、この「国力衰退」を止めることです。
「国力衰退」は他人事ではありません。皆さんの自分事なのです。
皆さんの目の前に出血している人がいます。皆さんは、厄介事に巻き込まれないように、「見て見ぬふり」をしています。でも、その出血している人は、鏡に映っている、あなた自身なのです。これは、妄想ですが、同じことが起きていると思います。

もちろん、これは、悪い方に、悪い方に、予測した時の将来図です。
ですから、この通りになるとは断言しません。
しかし、可能性はあるのです。
なぜ、こんなことになるのでしょう。
それは、目的を失い、国力が衰退しているからです。
衰退国家でなければ、こんな想定は、一笑に付すことができるかもしれません。
日本の課題は、この「国力衰退」なのです。
コロナでも中小企業でもありません。
私達は、この「国力衰退」を正面から議論しなければなりません。
どこかに、そんな議論はあるのでしょうか。
私には見えていません。
この「国力衰退」は、オセロのようにひっくり返すことができません。
緻密な計画を立てて、それを強力に推し進める実行力が求められます。
そのためには、先ず、「国力衰退」を見て見ぬふりをするのではなく、現実として認めることです。
その上で、原因を見つけることです。
そうして、初めて、計画が作れるのです。
地道な作業になりますが、やるしかありません。
ただ、「国力衰退」は結果です。「国力衰退」にも、原因があるのです。いつものように、結果を捻じ曲げるようなやり方では成功しません。
とことん、原因を追究することです。
しかし、問題提起されることもなく、現状認識をすることもなく、まるで、コロナ以外には何の問題もないかのような国家運営が行われているのです。
私には、1億総催眠状態に見えます。皆さんは、そのことにも気付いていません。
きっと、ドン詰まりに押し込まれても、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、皆で仲良く催眠状態を続けることになるのでしょう。
ほんと、救いようのない愚か者集団、いや、「いい人」集団だと思います。
最初に、東日本大震災時の倒産件数(10年間分)に匹敵すると書きましたが、では、コロナ災害の2020年から2030年の10年間で、倒産件数がどれほどの数になるのでしょう。想像もできません。多分、ビックリするような倒産が生まれると思います。ただ、コロナの影響に見えるかもしれませんが、ほぼ、国力衰退倒産だと思います。


2021-10-05



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従順・忍耐という責務 [評論]



この文章を書いている時点では、衆議院選挙の投票日は決まっていませんが、衆議院選挙が間近に迫ってきました。ポストに政党のチラシが入るようになりましたが、これは、選挙という儀式が始まる触れ太鼓のつもりなのでしょうか。
政党支持率を見ると、自民党支持は30~40%ですが、「どうしても、自民党」という人は10%以下だと思います。昔、民主党政権が誕生した時のことを見れば、世論調査と実際の投票行動が違うことは明らかです。立憲と共産を合わせても10%です。それ以外の政党を支持する方が10%だとしても、70%もの人が無党派なのです。この70%の国民は、投票先がないために、風で投票するのです。風さえ吹けば、立憲・共産政権は夢ではありません。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界で生きている私達には、「これこそは」という根拠がないために、風に頼ることしかできません。いや、「お上」も「下々」も、皆で「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっているのですから、国家運営を任せたいと思える政党は存在しようがありません。
国民の皆さんは、なぜ、新しい選択肢を作ろうとしないのでしょう。
皆さんには、与えられたものしか、選択肢はないのですか。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」でいいんですか。
最終責任を取るのは、皆さんなんですよ。
しかし、国民の皆さんは、動こうとしません。
それは、国民の皆さんに、自分が主権者だという自覚がなく、自分達は「下々」に過ぎないと思っているからなのではありませんか。
この国は、近い将来、必ず、ドツボに到達します。これは、「預言」でも「妄言」でもありません。トレンドが、そうなっているのです。しかし、「他の」「誰か」のせいではありません。主権者である国民の皆さんの自業自得です。

さて、皆さんは、投票所へ足を運びますか。
無党派の皆さんは、確信を持った票を投ずることができるのでしょうか。
私は、今度の選挙では、投票所へ行かないと思います。
年寄りの私には、投票所のある小学校までの階段が負担になるという理由もありますが、投票用紙に書く名前が見当たらないことも、理由の一つです。
以前にも書きましたが、白票が有効票になるのであれば、老体に鞭打って階段を登ってもいいと思います。
今回の選挙では、多くの国民の皆さんが苦慮することになると思います。
60点の候補者と70点の候補者から選ぶのではなく、6点の候補者と3点の候補者から、どこかの選挙区では、1点の候補者と1点の候補者から、選ばなくてはならないのです。これは、苦しい選択です。
私は、国民が言葉の定義をすることで、新しい政治集団を作りましょう、という提案をしていますが、このブログ以外には、そんな気配は微塵もありません。ほんとに、不思議です。
ですから、既存の、禄でもない候補者の名前を書くしか選択肢がないのです。

せめて、白票を有効票にした選挙制度に変えて欲しいと思います。
以前に書いた選挙制度改革案を、再度、書きたいと思います。
もちろん、実現する可能性は、ゼロです。それでも、問題提起にはなると思います。
先ず、議員定数という枠を、最大議員数に解釈変更します。
現在は、票数にかかわらず、最大得票数を得た候補者が当選します。
改革案では、白票を有効票として数え、有効投票数の一定割合の票数を得た候補者を当選とします。当選する人が一人もいない選挙区が誕生します。
同時に、一定の投票率がない選挙区では、何票獲得しても、当選にはなりません。
政治不信が強ければ、白票が多くなりますし、投票率も低くなります。
白票が多くなれば、投票率が低くければ、当選者が少なくなります。
国会議員数が減れば、国家運営はできないのでしょうか。
そんなことはないと思います。
政治全体で、白票を減らそうとするインセンティブが働きます。選挙が儀式ではなく、政治家と国民の闘いになり、緊張感が生まれます。

同時に、衆議院と参議院の役割を変えなければなりません。
衆議院と参議院が、同じようなことをする必要はないと思います。
衆議院は、国政に専念し、参議院は、地域の代弁をする場所にすればいいと思います。
国政と地域の利益獲得を、同じ国会議員がやれば、どうしても、自分の利益、地域の利益に引っ張られて、全国民のための政治ができなくなります。
この程度の選挙制度改革をすれば、少しは、国家運営が改善される可能性はあります。
もちろん、改善ですから、それほどの効果は期待できません。
それでも、やらないよりは、やったほうがいいと思います。

もちろん、実現の可能性はゼロです。
説明するまでもなく、実現はしませんが、実現しない理由を知っておくことは意味があると思いますので、その理由をみてみましょう。
法律を変える権限を持っているのは、国会議員です。
法律を変えたら、国会議員の数は、減少する可能性があるのです。いや、間違いなく、国会議員数は減少すると思います。普段、投票をしない若者も、白票なら投票します。
国会議員が、そんな法案を出すことはありません。
誰も気付いていませんが、議員定数は、国会議員の既得権益です。
また、衆議院議員が、国政に専念することになれば、地域とのつながりは薄れ、貢物が減ってしまいます。衆議院議員は美味しい職業ではなくなるのです。
今の選挙制度は、国会議員による、国会議員のための、制度なのです。
国会議員が既得権益を捨てることはありません。
国会議員にとっては、自分の利益のために、国会議員であり続けることが、最大の目的です。有権者は、二の次三の次でもいいのです。これが現実です。
ですから、白票を有効票とする選挙制度改革案は、法案として提出されることもなく、国民の不信感は制度的に無視されることになります。
白票が大議論になったという話も聞きません。
国民の皆さんは、「ま、こんなもんだろう」と納得しています。
ほんとに、「いい人」です。
「下々」は、貧しくなっても、無視されても、慣れていますので、反発しません。
その上、「お上」は「自己責任でお願いします」と言ってきます。「下々」は「ふむ、ふむ、自己責任なんだ」と納得してしまいます。涙が出るほど「いい人」です。
非正規労働者は、総数で見れば、メジャー団体のはずですが、非正規労働者が立ち上がったというニュースはありません。皆さん、耐えることが自分の責務だと思っているのです。

この国に、国民が何かを能動的に行動するシステムは存在していないのです。「お上」の御慈悲で、「下々」でも、選挙という儀式に参加させてもらっていることに感謝しなければいけないのかもしれません。
これは、主権者としては、いかがなものかと思いますが、「言葉の定義」が存在していませんので、そんな議論はありません。
現行システムで、国民が国政に参加できる権利は、選挙権だけです。
この選挙権が、国家運営に反映しているのでしょうか。
いいえ、立候補者と、当選した国会議員は、選挙を境に別人格になります。誰に一票を投じても、同じことなのです。見事なほど例外はありません。
もちろん、国が真逆なことをやっているとは思いませんが、国民が閉塞感や不安感や不信感を持っているのは、紛れのない事実です。それは、民意が国家運営に反映していないことを示しているのではないでしょうか。
今の国家運営システムを見ていると、国民の出る幕はありません。
「デモがあるじゃないか」と思っている方は、もう、いないのではないかと思います。
1960年代に、日本最大のデモがありました。
今では、安保デモという呼び名を憶えている方も少ないと思います。
当時の若者は、かなり、盛り上がりましたが、各地の大学は、それなりに混乱しましたが、あのデモで、何かが変わったのでしょうか。
政府は、あさま山荘の攻防で、学生運動を制圧することに成功し、デモの原因になった日米安保条約は、今では日本の基軸と言われる時代になっています。
その後、左翼の方の努力により、小規模なデモは行われましたが、次第に少なくなりました。まだ、労働組合に力があった時代は、管理職以外は組合員ですから、私も、強制的にデモに参加させられ、国会議事堂前で、機動隊の前を歩いた経験があります。しかし、残ったのは、無力感だけだったように思います。
今は、デモで何かを変えられるなんて信じているのは、左翼の、それも、ごく一部の人達だけだと思います。
では、デモ以外に、私達に何か手段があるのでしょうか。
ありません。
今では、選挙が唯一の意思表示のチャンスですが、国民のための選挙ではなく国会議員のための選挙をやっているのですから、国民は何もしていないのです。儀式へ参列しているだけです。
それでも、そんな国家運営でも、国民は「ふむ、ふむ」「まあ、仕方ないか」と頷いています。「下々」の鏡のような国民ばかりで、政治家の先生方は、我が世の春を謳歌しているのです。2000年間、「お上」による「お上」のための国家統治という日本の構図は、何一つ変わっていないということです。
国民の皆さんは、現状に満足しているのですか。
今の日本社会は、夢の楽園なのですか。
非正規労働者の皆さんは、「非正規になれて、嬉しいです」と言っているのですか。
貧困家庭の皆さんは、「神の与えられた試練に感謝します」と言っているのですか。
虐待されている子供達は、喜んで、笑っているのですか。
収入の増えない皆さんは、「もう、充分、給料貰ってますから」と言っていますか。
違いますよね。皆さん、我慢しているだけです。
国民の利益を代弁してくれる政治集団が存在していないから、選挙権を行使しても、何も変わりません。「我慢」を通り越して、既に、諦めているのではありませんか。
与党も野党も、既存の政治集団には、何の希望も持てない国なのです。
だから、国が衰退しているのです。
国力は、どんどん衰退しているのに、国民は、拗ねた子供のように、「俺には関係ねぇ」と言っています。逆の側面から見ると、偽物の民主主義を作ることに成功した「お上」の努力が素晴らしかったという見方もできます。その大きな力になったのが歴史と伝統だと思います。多くの方が、歴史と伝統こそが、この国の守護神だと考えてきたと思いますが、今、歴史と伝統は、この国を壊そうとしています。
ただ、国民の皆さんが、それでいい、と思っているのですから、どうすることもできません。

国民の皆さんは、閉塞感も不安感も不信感も持っています。
「ヤバイかも」「どうなるのだろう」と思っている国民は多いと思います。
しかし、不思議なことに、「こうしよう」とか「何とかしなきゃ」とは思いません。
私達は、これまで、2000年間、そんなことをしたことがないのです。
これが、歴史と伝統の重みなのだと思います。
日本の皆さんは、2000年間、そして、今も、同じことをやっています。
このままだと、将来、食えなくなる日が来るから、「何とかしよう」という行動はとって来ませんでした。
それは、私達の歴史を見れば、歴然としています。江戸時代の百姓の行動を見てください。実際に、食えなくなり、餓死者が出るまで我慢して、次々と餓死者が出ることが見えた時に、初めて、一揆を起こしたという歴史があります。
多分、今度も同じことをするのでしょう。
一にも我慢、二にも我慢、を優先させるのが、自分の使命だと刷り込まれて2000年経ったのです。これは、DNAに組み込まれるほどの時間だと思います。
昔の百姓と、今の国民は、同じDNAを持っています。
ですから、私が、「皆さん、立ち上がってください。このままだとヤバイですよ」なんて言っても、聞く耳を持ってくれません。
焦燥感と不安感を持っているということは、国民の皆さんにも、「ヤバイ」ということはわかっているのだと思います。
それでも、歴史と伝統には勝てません。
私は、この国には目的と責務が必要だと主張しています。
では、今、国民には責務が全く無いのでしょうか。
私は、今でも、国民の責務あると思っています。
皆さんは、国民の責務があるとしたら、それは何だと思いますか。
明示されていませんので、国民に責務はないように見えますが、国民には2000年間不変の責務があり、皆さんはそれを守っています。
それは、大昔から継承されている責務であり、時間をかけて作られ、余りにも日常に溶け込んでいるために気が付きませんが、責務はあります。
しかも、昔は、刀や銃で強制されていましたから、目に見える責務でしたが、今は、空気が強制していますので見え難くなっています。
その責務とは、「お上」に対する「従順」であり、現実に対する「忍耐」です。2000年間、ずっと、です。
「お上」にとっては、こんな美味しい責務はありません。本来、この「従順」と「忍耐」は、人間が持っている宝物であり、自分のために使うものであり、お殿様や独裁者に強要されるものではありません。
空気は、土下座を強要することはありませんが、無礼討ちや問答無用の投獄はありませんが、「お上」に対する反抗は許しません。誰が了解したのかは不明ですが、2000年という空気が生み出した暗黙の了解があり、国民は勝手に自己規制しているのです。それを、国民は、忠実に守っています。今も、そうです。封建時代の「お上」と「下々」の関係は、刀や銃が空気に変わっただけで、何も変わっていないのです。
国民の皆さんは、本当に、感心するほど、辛抱強い。それは、2000年かけて刷り込まれた責務が、未だに、生きているからです。外国人から見れば、「アンビリーバブル」なのです。日本の皆さんは、この「アンビリーバブル」や「ストイック」を賞賛と受け止めているようですが、そうではありません。彼等は、実際に驚いているのです。
私達は、一見すると、人間に見えますが、実は、「お上」に飼われている家畜なのかもしれません。いや、忠犬ハチ公なのかもしれません。
皆さんは、ほんとに、「いい人」です。「お上」にとって、掛け値なしに「いい人」です。
皆さんは、無意識だと思いますが、「従順」「忍耐」という責務を守るために、想像力を封印しているのです。
多分、皆さんが良民で、私が不良国民、なのでしょう。皆さんが、私を変人だと言うのは、私が「従順」「忍耐」を否定しているからかもしれません。
皆さんが、このブログを読んで不快になるのは、「お上」に対する「従順」や「忍耐」という責務を忘れた不良国民に、言われたくない、と思っているのかもしれません。
皆さんの気持ちも理解できます。
でも、ドツボにはまるのは、皆さんなのです。
その上、良民の皆さんは、太っ腹なのだと思います。いや、歴史と伝統は、太っ腹も推奨していますので、歴史と伝統に忠実だということなのかもしれません。「下々」が太っ腹であれば、とことん我慢してくれるのですから、「お上」は喜んでくれます。
でも、日本国民の背負っている責務は、全て、「お上」の利益のための責務です。
私は、小心者ですから、ドツボにはまるのは嫌です。
まさに、私は「非国民」と呼ばれてもいいような不逞の輩なのでしょう。
でも、皆さん、ほんとに、それでいいのですか。
それとも、皆さんは、マゾヒストなのですか。苦しいことが快感なのですか。
そうであれば、私のやっていることは、余計なお世話です。
でも、1億2000万人全員が「エム」だとは思えません。
だとすると、やはり、歴史と伝統の力なのだと思います。
私は、2000年という時間の重みに闘いを挑んでいるようです。
勝ち目はありません。
その通りなのですが、私は変人ですから、たらたら文句を言いながらも、続けることになるのでしょう。ほんと、身の程知らずの、馬鹿な奴です。


2021-10-04



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奥ゆかしさに問題があるのでは [評論]



自民党総裁選挙は盛り上がりましたが、何かが、変わったのでしょうか。
政治家が、心を入れ替えたのでしょうか。
あり得ないことです。
欲望丸出しの詐欺劇団の茶番劇を見ているようで、とても、気分悪いです。
これは、私が変人だから思うことであって、国民の皆さんは、そうは思っていないかもしれません。皆さん、「いい人」ですから、「頑張れよ」と応援している人もいると思います。実際に、自民党支持率は大きく上昇しました。皆さん、ほんと、「いい人」です。ただ、「いい人」も度が過ぎると、「馬鹿」の領域へ行ってしまいます。自民党総裁選で自民党の支持率が上昇したという結果を聞いて、私は絶望しました。今、この国は壊れ始めているのです。それなのに、こんな茶番で、支持率が上昇するのです。「いい人」が国を壊しているのか、それとも、「馬鹿」が国を壊すのかと考えると、後者のほうが、辻褄が合うのではないかと思います。それは、「いい人」が、度を越えているのだと思います。
個々の政治家の中には、志の高い人もいると思いますが、個々の政党の土台にあるのは、どの党でも「我欲(権力欲)」ですから、志の高い政治家がいたとしても、役に立ちません。
「この政党に、国の運営を託したい」という政党が存在しません。
これは、無いものねだり、なのでしょうか。
「世界に、そんな国、あるのか」「無理だろ」と言う方もいると思います。でも、私達の国は、最悪という世界一をいくつも持っている国です。他国の真似をしていていいとは思えません。どこの国でも、問題山積みです。理想的なシステムが存在しているわけではありません。どこの国も、何とか、やり繰りしているのです。他国の真似をして、何とかなる時代ではありません。世界最悪の課題を抱えている日本には、独自のシステムが必要なのだと思います。
政党は人間が運営するのですから、「欲」に支配されるのは止むを得ません。ただ、政党の「我欲」が国民の利益に近い政党であれば、今よりは、ましになると思います。そんな政党を誕生させるのも、「言葉の定義」の目的なのかもしれません。この世に完璧なんてものはありません。何を重視するのかが問われます。民主国家であれば、政治家の「我欲」ではなく、国民生活が重視されなければならないのではないでしょうか。
衆議院選挙を控えています。
コロナで被害者意識を強く持っている国民が、狼狽えることが一番怖いです。7割の国民の皆さんは、風の影響を受けて投票します。しかし、選択肢は既存政党しかないのです。
この時期に、既存政党による政権交代は危険です。
私は、自民党政権がいいとは言いません。いや、最悪だと思います。
私達は、戦後約80年、小さな変化はありましたが、自民党政権が当たり前の生活をしてきました。でも、「国力衰退」の時代を迎え、自民党政権は賞味期限ではなく、消費期限を越えていると思います。ですから、今の私達にとって、自民党政権は最悪の選択なのですが、他党の政権だと、最悪に輪をかけて最悪なのです。これでは、国民は救われません。
ただし、これ、政治家のせいではありません。国民の皆さんが、自分の生活を守ろうとしていないのです。だから、皆さん自身がドツボの前に立っているのです。
もしも、「言葉の定義」から新しい政党が誕生していれば、こんな最悪の状況は回避できたのかもしれません。
自民党の評価が6点だとすると、野党は一纏めにしても3点です。もちろん、100点満点での評価です。与党も野党も、せめて、60点か70点は欲しいです。
自民党政権が最悪だとすると、立憲・共産政権は超最悪なのです。どちらも歓迎できませんが、国民へのダメージという意味では、立憲・共産政権を選んだ時のほうが痛みは大きくなると思います。
国民が救われないという点では、どちらも同じです。国民は、なぜ、痛みの大小を選択するしかないのでしょう。それは、既存の政党という選択肢しかないからです。未だに、経済発展時代を引き摺っている政党には、「国力衰退」が進む今の国は運営できません。
この国は、誰の国なのですか、と問いたいです。
国は、国民のためのシステムなのです。
その原則(認められていませんが)を理解している方が見当たりません。
誰が悪いか、ではありません。
どんな立場にある人も、国力が衰退している現状には責任があります。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」で楽をしている、国民の皆さんも悪いのです。
ま、あらゆる立場の方が責務を果たしていませんので、平等であることには違いがありませんので、これでいいと言えばいいのかもしれません。
誰のせいでもなく、何となく、ごく、自然に崩壊へ向かっているのは、皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっているからだと思います。
政治だけが悪いわけではありません。官僚だけでも、企業経営者だけでも、メディアだけでもありません。もちろん、国民だけが悪いわけではありません。ただ、一番重い責務を持っているのは国民です。最終責任を取るのも国民です。人数でも最多です。比重という視点から見れば、国民の責任が一番重いと思います。その国民が「俺には関係ねぇ」と言っているのですから、手の打ちようがありません。

確かに、色々な場所で議論が行われていることは、いいことだと思います。
ただ、誰もが、「自分は当事者ではない」と思っているために、議論の中身は、いつも、抽象論で始まり、そのまま、抽象論で終わります。確かに、議論をした、という気分には浸れますが、何の役にも立ちません。
これを、「〇〇ごっこ」と呼ぶのだと思います。
それでも、政党は、どの政党も、選挙のために、無理矢理、具体論を出そうとします。
しかし、原因を究明していませんから、出てくるのは、結果を捻じ曲げる政策ばかりです。与党も野党も、「分配、分配」と連呼します。「格差是正」だと言います。それで、何をするかと言うと、「カネをばら撒きます」「税制を変えます」です。国力が衰退しているのに、バラマキ政策や税制で、目先を変えても、日本の将来は変わりません。「国力衰退」の原因を見つけ、それを克服するしか方法はないのです。何度も書きますが、「国力衰退」の原因は、この国に、目的と責務がないからです。「なあ、なあ」「まあ、まあ」で自分を誤魔化して、言葉の定義をしないからです。
どうして、結果を捻じ曲げても何も変わらないことに気付かないのでしょう。
日本人って、そんなに馬鹿なんですか。不思議でなりません。
誰にも危機感はなく、誰もが他人事だと思っています。
色々な分野の識者と呼ばれる人達が議論に参加していますが、自分がオピニオンリーダーになる覚悟を持っている方は見当たりません。誰も表立って認めてはいませんが、日本は、今、「国力衰退」という、歴史上最大級の有事にあります。こういう時こそ、識者の皆さんや学者の皆さんには、オピニオンリーダーになる責務があると思うのですが、そんな自覚はないようです。
識者の皆さんは、さすがに、口だけは立派なことを言います。
「国家像が必要なのだ」
「国民を豊かにする方策が必要だ」
その通りなのですが、そのためには何が必要で、具体的に何をしなければならないのか、については、誰も提案しないのです。とりあえず、結果を捻じ曲げてみませんかという、何の役にも立たない提案はあります。
この靴の上から足を掻くような行動は、どうして、生まれるのでしょう。
日本人の長所だと言われている「奥ゆかしさ」に問題があると思います。
この「奥ゆかしさ」を生み出したのも「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
日本人の長所を否定するつもりはありません。
「奥ゆかしさ」は素晴らしいと思います。
しかし、何事にも両面があります。いい方向へ働いた場合は、素晴らしいと思いますが、逆の場合もあるのです。
いろいろな立場の人に配慮し、悪しき言葉は極力避ける。常に配慮する。それが、大人の対応だと信じているのです。これは、国が順風満帆の時は、とても良き風習になりますが、そうではない時には、取り返しのつかない手遅れの原因になります。
この国の最大の課題は「国力衰退」なのですが、識者の皆さんは、百も承知なのですが、「国力衰退」という言葉を使いません。
彼等は、口には出しませんが、「国力衰退」を前提に話をしています。
強い言葉で波風を立てるのではなく、曖昧にすることで、他者を傷つけない配慮がされているのです。ただ、他者に優しくは、自分にも優しく、という助平根性につながっています。貴方の傷には触りませんから、私の傷にも触らないでくださいね。その時に便利に使えるのが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なのです。
「国力衰退」が最大の課題であることは、専門家だけではなく、ほんの少しでも、データを見るチャンスがあれば、誰でも気付くことです。
知っていながら、「国力衰退」というネガティブな言葉は封印してしまうのです。
皆で、一致団結して、阿吽の呼吸で、封印するのです。見事です。
でも。
曖昧のベールで覆い隠しても、「国力衰退」という現実が消滅するわけではありません。
国と「国力衰退」の関係は、人間と人間の影の関係と同じです。逃げても、逃げても、追いかけてくるのです。
「国力衰退」という言葉に正面から向き合わなければ、抽象論になってしまいます。
言葉は言葉にすぎませんが、言葉には言葉自体の持つ力があります。
言葉は、自然と方向性を示します。言葉がないと、言葉の定義をしないと、あらゆるものが曖昧のままです。
「国力衰退」という言葉と向き合えば、「どうして、衰退したのか」と疑問を持つことができます。疑問を持てば、問題点を探すことができます。原因が見つかれば、対策を考えることができます。対策が見えてくれば、どうすれば実行できるかを考えます。
これ、社会人であれば、普通に、誰もがやっていることです。
どうして、そうしないのでしょう。
抽象論では、どなたも正しいことを言います。
でも、抽象論は、どこまで話し合っても抽象論でしかないのです。いや、抽象論の度が過ぎると、どんどん、重箱の隅に進んでしまうのです。出口はありません。
どなたも、いい人ですし、奥ゆかしい人ですが、皆さん矢面には立ちたくないと思っているように見えます。
確かに、具体論を出せば、四の五の言う人は大勢います。
いや、寄って多寡って、具体論を潰しにかかります。「言葉の定義」なんてことをして、自分の責務が表面化されたら、今の楽な生き方は出来なくなります。誰もが、本能的にそのことを知っているのです。でも、そんなこと言っている場合ではないと思います。
識者や学者は、それを承知の上で、具体論を提示する必要があります。
識者や学者は、それを受けて立つのが仕事なのではないでしょうか。
皆さん、自分が一番大事なのです。
やんちゃな、馬鹿な奴は、いなくなってしまったのでしょうか。
皆さん、「いい人」に徹しようとしています。
誰もが守りに徹する風潮も、国力衰退の現象の一つなのかもしれません。
「これは、自分ではない、誰かの、守備範囲だ」
「他人の守備範囲には、踏み込めない」
「誰かが、何とか、してくれ」
「少なくとも、俺には、関係ない」
皆さんが、こんなことを考えていて、「国力衰退」を克服できるとは思えません。
敢えて、火中の栗を拾い、批判の矢面に立ち、それでも、目指すべき方向を示す専門家や識者の方の覚悟が必要な時なのだと思います。私のような庶民が、マイナーブログで何を言っても、社会は動きません。それは、私が証明していますので、よく知っています。識者とか学者というステータスは、このような非常時の時に必要だから存在しているのだと思います。もちろん、私だけは正しいなんてことは言いません。私も、同じ穴の狢です。結果が出せていないということは、そういうことだと思います。庶民だから許されるという問題ではないと思います。
もちろん、国民の皆さんも同罪です。
どうすることも出来ないのでしょうか。
多分、そういうことだと思います。

このブログでは、いろいろな「氷山の一角」を書いてきました。
好意的に読んでくださった人は、そんな方は少ないと思いますが、「言葉の定義」と「国力衰退」と「皆さんの不安」がリンクしていることは見えたかもしれませんが、「お前の言ってること、わけ、わかんねぇし」という方もいると思います。
確かに、「言葉の定義」と「国力衰退」と「皆さんの不安」がリンクしているのは、見え難いかもしれません。
でも。
それでも。
ご自分で、「言葉の定義」をして、その定義から、目的と責務を見つけてください。
「国とは」を定義すれば、国の目的と国の責務が見えるはずです。
「国民とは」を定義すれば、国民の目的と国民の責務が見えると思います。
目的と責務が明確になれば、現在行われている諸々のことが、その目的と責務から外れていることが見えると思います。
定義をするのは、それなりに、手間がかかると思います。
それでも、是非、やって欲しいと思います。
もちろん、「言葉の定義」で全てが解決するわけではありません。
でも、糸口は見つかると思います。
確かに、どこの馬の骨なのかわからない老人の言うことです。信用できないかもしれません。ですから、ご自分でやってみて欲しいのです。

誰が新総理になっても、日本は変わりませんので、あまり意味はありませんが、自民党総裁選挙の結果について、書いておきます。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」が得意な岸田さんが選ばれたということは、この国は、今後も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやっていく、ということだと思います。
当たり前のことですが、「誰かが、何とか」という奇跡は、今回も起きませんでした。
国民の皆さん、ご愁傷様です。
皆さんは、いつまで、「いい人」を演じ続けるのですか。


2021-10-03



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頑なに変わろうとしない国民 [評論]



9月は自民党総裁選挙一色になりました。
これほど盛り上がった自民党総裁選挙は久しぶりです。
たとえ、茶番劇だとしても、ストレスを抱えている国民の皆さんにとっては、面白いワイドショーの一つになったのではないかと思います。
色々な方が、色々なことを言います。
次の日本の総理に、自民党の総裁に、色々な注文を出します。
中には、候補者を名指しで、「あいつは、ここが駄目だ」「こいつは、何、考えているのだ」とダメ出しもします。
ま、いつものことだと思えば、それでいいのでしょうが、茶番にしか見えません。
中でも、心配なのは、野党です。
格段に意識の低い人達、それが野党の皆さんです。野党の皆さんの意識の低さは、群を抜いています。「欲」が絡むと、ここまで意識低下をおこす人間を見るのは、決して、楽しくありません。確かに、他党の権力闘争なのですから、「俺には関係ねぇ」と言うことはできます。そこが、意識の低さなのです。なぜ、他党の権力闘争をチャンスに変えないのでしょう。ほんとに、不思議です。
国民の耳目は、自民党に集まっています。
禄でもない議論しか出来ていないのに、国民の関心は自民党総裁選挙なのです。
野党の中に、「おい、チャンスだぞ」と捉える人はいないのでしょうか。
自民党総裁選に埋没することを恐れた野党は、矢継ぎ早に政権構想なるものを発表していますが、国民の関心は、その政権構想に向かいません。
多分、チラリとは見るのでしょうが、視線は、すぐに自民党総裁選に戻ります。
立憲民主党の政権構想を見ると、自民党の過去の失政を追求することとバラマキが、大きな柱になっています。自分達が反対票を投じたことを正当化したいという、器の小さな政党に見えます。過去ではなく、将来の国民生活をどうするのかを、野党の主要テーマにしないで、国民の共感が得られるのでしょうか。これでは、国民のための政党ではなく、自分達の権力を優先した、第2自民党にすぎません。
政党支持率では、自民党の支持が増えただけです。毎日のように自民党総裁選がテレビで流れているのですから、野党にとっては不利です。野党には、自民党総裁選を捻じ伏せるほどの戦略が求められているのです。簡単ではありませんが、本気になれば、できるはずです。
なぜ、自分達の政権構想が政権構想になっていないことに気付かないのでしょうか。
私達が政権を取れば、国民の皆さんの未来はこうなります、という構想を出さなければ、政権構想の意味がありません。バラマキ政策も政策の一つだと、いや、唯一の政策だと思っているようですが、バラマキは一時的なカンフル剤でしかありません。
「自民党だって、そんな構想出していないだろ」と言うかもしれませんが、だから、チャンスなのです。
野党の目的は政権交代だそうです。
双六であれば、政権を取れば「上がり」です。もう、やることはありません。
政権交代は、手段であって、国民生活を守ることを、子供達の未来を守ることを、目的にしなければなりません。だったら、その構想を示して欲しいです。ところが、野党は、バラマキ政策しか持っていません。バラマキ政策では、国民は救えません。そんなことも、理解していないのでしょうか。
野党は、自民党総裁選で総理大臣の顔を変えても自民党政治は変わらない、と言います。
では、与党という顔を、野党という顔に変えれば、何が変わるのでしょう。
何も変わらないと思います。
国民にとっては「お上」の顔が変わるだけです。
「これに反対します」「この責任を追及します」という政権構想で、どうやって国を運営していくのでしょう。安倍の首を取ったら、国民生活は守れるのですか。
これでは、反対する対象である自民党が存在しなければ成り立たない構想です。立憲民主党の幹部の方は、「政権批判が私達の仕事だ」と胸を張って言います。私には、野党の皆さんは、コバンザメにしか見えません。
皆さんの政権構想には、国民の未来や、子供達の未来はないのですか。
自民党が提示できていないのは、皆さんのチャンスなのですよ。
与党も野党も、仲良く、重箱の隅に安住しているから、国民という存在そのものが見えなくなっているものと思います。国は、国民のためにあるのであって、政治家のためにあるのではありません。

言葉の定義の欠如は、あらゆる場所で影響しています。
何らかのシステムを構築する時に、必要不可欠なものが、その目的と各要素の定義だと思います。目的のないシステムは存在しませんし、そのシステムに影響する諸々の要素が定義されていなければ、システムは使い物になりません。これは、専門知識などではなく、一般常識だと思います。
しかし、日本の国家運営システムには、その目的と定義がありません。ですから、そもそも、日本には、国家運営システムそのものがないのです。いや、システムらしきものはありますが、それは、どのようにでも解釈できる「なあ、なあ」「まあ、まあ」という不思議なものです。私は、それを民主主義風王政並立封建制度と呼んでいます。この国は、古来より、「お上」による、「お上」のためのシステムで運営されてきました。少しずつ形は変えてきましたが、その根っ子は変わっていません。それでも、なんとか、運営できてきました。
その点では、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優れものです。
しかし、それも、ここまで国力が衰退すると、限界だと思います。

この文章を書いている時点では、自民党総裁選挙の勝者は決まっていません。ただ、誰が勝者になっても、自民党は変われないと思います。
自民党の総裁候補として立候補した四氏の主張を見てください。
これまでの自民党の足らざる部分を、無視してきたことを、列挙しています。
どの候補も、「国民のための政治」「国民政党の自民党」「国民に寄り添う自民党政治」を強調します。これは、これまでの自民党と違いますよ、と言いたいのでしょうが、裏返せば、彼等は、自分達が国民を無視してきたことを知っているのです。選挙の時にだけ出現する現象であり、常套手段でもあります。
「国民」という言葉を強調しますが、定義はしません。
彼等の言う「国民」って、誰の事ですか。民間の利権団体に属する人達も国民ですし、献金をしてくれる富裕層も国民です。「国民の声を聞く」という意味は、これら特定の国民の声を聞いても、国民の声を聞いたことになるということです。それが、自民党政治です。
一般庶民が、「俺達の声も聞いてくれるんだ」なんて思うと、また、失望するだけです。
もちろん、野党も同じ考え方をしています。彼等にとっては、左翼おたくの市民が市民であり、私達は市民とは思われていません。応援してくれ人も、そうではない人も、等しく国民だという意識は持っていません。一般庶民は、どちらからも無視されています。この国は、誰のための国なのでしょう。全ての国民のための国ではないのですか。政党の利益にならない国民は、国民ではないのでしょうか。これも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義がないためだと思います。
自民党政治は、これまでも、国民を誤解させ(国民が勝手に誤解したと言っていますが)、それを利用するというやり方をやってきました。非常に上手です。今回も、国民という言葉が頻繁に使われますが、自民党が定義する国民と、一般国民が考える国民という定義は同じではありません。自民党議員が言う国民とは、自分の利益に貢献してくれる国民が、国民なのです。私達、一般庶民は、彼等が定義する国民の中には含まれていません。私達は、そもそも、国民ですらないのです。何度も騙されますが、それでも、私達は騙されるのです。それは、一般庶民が「いい人」の集まりだからです。
「国民」とか「子供」とか「弱者」という言葉も多発されます。これも、これまで、いかに「国民」とか「子供」とか「弱者」を無視してきたのかということの裏返しです。
彼等は、選挙の時だけは夢を語るのです。言葉にしたからと言って、実現するとは限りません。いや、そもそも、実現する気は、ないと思います。あくまでも、夢ですから。夢は、語ることに意味があるのであり、実現するかどうかは、どうでもいいのです。
彼等にとっての現実は、自分の利益です。
もちろん、夢を語ることは必要です。でも、これまでの自民党も、同じことをやって来ました。自民党が語る夢で、庶民が幸せになっているのですか。そうではありませんよね。自民党にとって、夢は夢であり、現実は現実なのです。衆議院選挙に向けて、国民向けの夢を語りますが、新政権が発足すれば、直ちに、現実路線に、自分達の利益の最大化という現実路線に舞い戻ります。これが、彼等が考えている選挙なのです。

この現状を見れば、誰が総理大臣になろうが、どの党が政権党になろうが、国民は、特に一般庶民は、救われないということだと思います。
国民には、「第一駄目党」と「第二駄目党」しか選択肢がないのです。
政党支持率を見てください。無党派層が最大です。自民党支持層は、数字は大きく見えますが、風次第でどちらへでも動く浮遊層です。野党の支持者は、どの野党も、全て一桁の支持しかありません。国民の皆さんは、意識しているか意識していないかは別にして、選択肢がないことを知っているのです。
でも、日本の皆さんは、与えられたものしか選択肢はないと信じています。
自分で選択肢を作ろうという発想がありません。
この2000年間、私達は、「自分で何とかする」という実績を持っていません。
じっと「我慢」することが、国民の責務だと信じているのです。
ほんとに、健気で、いい人達ばかりです。
私は、国民が変わらなければ、この国は変われないと何度も書きました。
しかし、国民の皆さんは、頑なに、変わろうとしません。
自分の生活が壊れようとしているのに、既に壊れているのに、どうして、我慢という選択肢しかないと思うのでしょうか、不思議でなりません。
この国を壊そうとしているのは、政治家だけではありません。いや、政治家が壊しているのは5%で、国民が壊しているのが95%かもしれません。
国は、ただのシステムです。国民次第で、どのような国にでもなれるのです。
国民自身が、能動的に、選択肢を作れば、国は変わるのです。
そんな体験も習慣もないと思いますが、それをしないとドツボへ行きます。
今は、そういう時代です。
皆さんは、非正規労働者になりたいのですか。年収100万円の生活がしたいのですか。そんなこと、望んでいませんよね。まだ、自分の生活は壊れていないと思っている皆さんの生活も、必ず、壊れます。「国力衰退」の時代とは、全ての国民が貧しくなるという時代のことです。そんな時代が目の前にあることは、皆さんの周りを見れば明らかです。
「誰か、何とかしてくれ」と思っているのでしょうが、皆で、「誰か、何とかしてくれ」と言っているのです。
「誰か」って、誰。
「何とか」って、何。
「誰も」「何も」してくれません。
皆さん自身がするしかないのです。
新しい選択肢を作るのは、皆さんの責務です。
こんな単純なことに、どうして気付かないのでしょう。
「不安」ありますよね。「ヤバイ」と思っていますよね。
皆さんの直感は間違っていません。

なぜ、こんなことになっているのでしょう。
こんな国になってしまった原因を見つける必要はないのですか。
このまま、皆で、仲良く、ドツボにはまる日を待ちますか。
それとも、未だに、「誰かが、何とかしてくれる」と信じているのですか。
どこまでも逃げますか。いや、逃げ切れると思っているのですか。
助平根性も、限界だと思います。
自分の生活のことです。
皆さんが、何とかするしかないのです。
私のような高齢者は、数年、辛抱すれば、あの世へ行けます。でも、若い方や子供達は、この先も、ずっと、この国で生きていかなければならないのです。
自分のために、今のシステムを変えてください。
それが、誰かのために役立ちます。

ふわふわっとした、得体のしれない、何かの上に、この国はあります。
この「得体のしれない、何か」とは、曖昧模糊とした、歴史と伝統だと思います。
では。
この国の目的って、何ですか。
国の責務って、何ですか。
国民の目的って、何ですか。
国民の責務って、何ですか。
多分、国も、国民も、目的も、責務も、個別に意識したことはないと思います。
何となく、ふわふわっとしたままなのです。
私達は、全国民共通の目的も責務も持っていません。これでは、国民として、判断のしようがありません。歴史と伝統という曖昧で動いているこの国には、そもそも、言葉の定義は必要ではありませんでした。だから、言葉の定義をするという習慣がないのです。
もちろん、全体主義になることを推奨しているのではありません。
共通の価値判断が出来るだけの、最低限の、言葉の定義が必要だと思いますが、やはり、「なあ、なあ」「まあ、まあ」のほうがいいですか。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は捨てがたい魅力があります。
何と言っても、楽です。
皆さんが楽だと思うことは、「お上」だって楽なのです。
それは、「お上」が好き勝手をやっても許すということです。
現実は、その通りなのですが、それでいいのですか。
国力衰退は、目的と責務がないことによる副作用です。
曖昧システムでは、国を運営する皆さんも、国民の皆さんも、好き勝手が認められているのですから、何をやっても良く、何をやらなくてもいいのです。確かに、楽です。でも、全員で、「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっていれば、全体として衰退するのは目に見えています。それが、「国力衰退」という副作用です。結局、回り回って、自分で自分の首を絞めることになるのです。


2021-10-02



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重箱の隅の権力闘争 [評論]



私には、この国が、ボロボロに見えます。至る所で、壊れています。毎月、そのボロボロの現象を書いていますが、一般市民が、知ることが出来る範囲は限定的なものだと思います。私が知らない場所でも崩壊は起きているものと思います。ほんとに、ヤバイ状態です。
今日も、「言葉の定義」の欠如が招いている、一事が万事の事例を書きます。

9月3日に、菅総理大臣が退陣を表明しました。
「おい、おい」
いろいろな立場の人が、一様に、驚きの表情でした。
菅さんは、なぜ、退陣表明をしたのでしょう。
自民党衆議院議員の、選挙に不慣れな約100名の若手議員と選挙で落選が予測されていた(自民党の調査では、かなり厳しい状況だったそうです)議員の反発が強かったと言われています。276人の議員の半数以上の議員が、自分の選挙に不安を持っていたということです。そして、彼等は、「スガが人気ないからや」と思っていたようです。自己中にしか見えませんが、「俺のせいやない。スガのせいや」と言いながら、自分さえも騙しているのです。こんな最低な奴が、「俺は、国会議員のお偉い先生様なのだぞ」とふんぞり返っているのです。世も末だと思います。
若手議員が、その若手議員の代表になった小泉進次郎議員が、菅さんでは選挙に勝てないと主張し、菅さんを退陣に追い込んだと言われています。
でも、ちょっと、待ってください。
菅さんは、建前だとしても、日本国民、1億2000万人、を代表する人です。
その去就を、100人が決めてしまったのです。
「いつもの事、じゃないか」と言われればその通りなのですが。
どうやら、総理大臣は、1億2000万人の代表ではないということのようです。
「我が国は議院内閣制だから当然だ」と言う方がいると思いますが、議院内閣制であれば、100人で決めても許されるということになります。では、国民は、そんな権限を国会議員に付託したのでしょうか。定義がありませんので、不明です。
衆議院議員の得票率が、仮に、有権者の3割の票だとします。有権者数が1億人だとすると、3000万人が現職の議員に投票したことになります。衆議院議員は465人ですから、1人当たり65000票です。その100人分だとすると、650万票です。これは、有権者数に対して、6.5%です。仮に、6.5%に当たる有権者が、全権を議員に移譲していたとしても、総理大臣の首をすげ変える権利はないと思います。
しかも、国民は、議員に全権を委譲したわけではありません。もちろん、何の定義もありませんので、議員は何をやってもいいことになっていますが。
国会議員は、選挙で当選すれば、何をしても許されると決めたのは誰なのでしょう。
いや、誰も、決めていません。ここでも、曖昧による自由裁量権が行使されています。国会議員の先生方は、「俺は、国民の代表だ」と勝手に言っていますが、その行動は、自分の利益のために、全力を注いているようにしかみえません。それは、「国会議員とは」という定義がないからです。議員にとって、この曖昧と自由裁量権は、蜜の味なのです。
今回の騒動は、100人の国会議員が、自分が選挙で落選するかもしれないという恐怖心から行動したのです。これは、どう見ても、「有権者の付託」を盾にできるような理由ではありません。まさに「自分さえよければ」の見本になるような行動です。
要は、国会議員になれば、何をやっても許されるという暗黙の基準が存在するということが、今回も表面化したのだと思います。もちろん、そんなことで四の五の言う国民はいませんので、国民の理解を得ていると言っても筋は通ります。逆に、国民が、四の五の言わないから、国会議員は、自分の権利だと勘違いしてしまうのです。これも、「国民とは」という定義があれば、国会議員の勝手は許されなかったと思います。ですから、言葉の定義をしない国民の皆さんの責任だと思います。「国会議員とは」という言葉の定義があれば、国民も黙っていないでしょうし、国会議員も、こんな無茶はしないと思います。責務が曖昧だから、何もかもが曖昧だから、無茶が通っているのです。
「権力闘争は、どんな組織でも存在する。仕方がない」という見方が、一般的に認知され、私達は、100人が国政を動かしたことを、「ふむ、ふむ」と受け取ったのです。まるで、他人事のように受け入れたのです。「しゃあないやん。こんなもんやで」と。
もちろん、国会議員だけが悪いのではありません。一番、悪いのは、言葉の定義をしない国民なのだと思います。好きにやらせれば、誰だって、国会議員だって、私だって、自分の利益を最優先にします。それを許しているのは、国民の皆さんなのです。
国会議員は「俺の勝手だろ」と言い、国民は「俺には関係ねぇ」と言っているのです。
こんな国が繁栄するのでしょうか。
国力が衰退しているのは、必然なのではありませんか。

少し、話はそれます。
野党は「自民党には国家運営の資格がない」と言っていますが、本音では、自民党の暴挙を阻止する手段を持っていないと思い込んでいるのです。そうなんでしょうか。
もしも、国民のために働きたいと本気で願っているのであれば、本気になれば、道は見えてくるはずです。何も出来ないと思っているのは、彼等が本気になっていないということだと思います。「言葉の定義・国民会議」を作り、全国の幅広い市民から言葉の定義を集め、市民と議論し、集約し、目的と責務を明確にすれば、自民党の暴挙を止めることは可能だと思います。ただし、念のために言っておきますが、先ず、「市民」の定義をしてください。野党の皆さんが市民連合と呼んでいる人達が、左翼おたくの皆さんが、傷を嘗め合う仲間が、市民ではありません。普通の市民と議論してください。市民との議論には、多くの時間と労力が必要になりますが、本気になれば出来ないことではないと思います。
野党の皆さんは気付いていないと思いますが、皆さんの意識は歪んでいます。定義をしたとしても、権利の主張ばかりを取り上げ、責務は無視することになると思いますので、ほとんど期待は出来ませんが、国民会議を開催すれば、「やったふり」はできます。
野党の皆さんは、自民党ばかり見るのではなく、国民を見れば、戦略は作れるはずです。遠くで、自民党に向かってキャンキャンと吠えるだけで、しかも、自分の利益を優先していたのでは、何も出来ません。「自民党には国家運営の資格がない」と言いますが、野党の皆さんには、もっと、ありません。自民党政治には終止符を打たねばなりません。しかし、その後に自民党政治を上回る最悪の政権が誕生したのでは、国民は堪りません。
なぜ、自分達が政権を担えば、かくかくしかじかのシステムで、今回のような暴挙は防止しますと言わないのでしょう。これでは、同じ穴の狢になる気、満々です。
9月初旬に、立憲民主党が政権公約の第一号というものを発表しました。政権取ったら「これ、すぐ、やります」という公約だそうです。
部外者の私でも、恥ずかしくて、ここに掲載できません。
興味ある方は、立憲のホームページで見てください。
国としての構想も描けない、政策も作れない、何の展望もない政党の政治家が、「俺は、野党だけど、国会議員の先生様だぞ」と上から目線で国民を見下ろしているのです。
立憲民主党に一票を投じる人がいるのが、不思議です。
もちろん、立憲民主党以外の政党に投票することを勧めているのではありません。納得できる政党は、1つも存在しません。だからと言って、立憲民主党は、いくら何でも、いかがかと思います。これが、野党第一党です。ほんと、もったいないです。
菅総理退陣の一報を受けて、東京株式市場は上昇しました。投資家は、潮目が変わったと判断したのです。自民党が政権を維持する、と確信したのです。投資家は、「欲」を源泉にして行動しますので、それなりに当たります。
野党の皆さん、政権交代という目標を捨ててください。
それと、スキャンダルや上げ足取りをしても、国民は喜びません。ワイドショーで盛り上がれば、国民の関心はスキャンダルにあると思うかもしれませんが、そうではありません。国民は、憂さ晴らしをしているだけです。国民を馬鹿にしてはいけません。
どんな理念で、どんなシステムを構築し、どうやって国民生活を守るのかを示してください。また、バラマキ政策では、一部の国民しか喜びませんし、そもそも、継続不能です。この国の国力衰退を止めるシステムを国民に示してください。そうすれば、自民党を倒す必要はありません。自民党は、勝手に倒れてくれます。現状認識、原因究明、対策立案という基本ができていないのです。政権交代という目的は、結果を捻じ曲げようとするものです。これでは、デフレ脱却と言う自民党の二番煎じです。なぜ、自分達は野党なのか、を知り、その原因を克服することが先だと思います。
野党は、自民党に釘付けになっている視線を外し、国民を見ることです。
実は、この国で、一番非難されなければならないのは、「俺には関係ねぇ」と言っている国民です。その事に気付いていますか。国民に向かって「お前等、しっかりしろ」と非難すべきです。もちろん、大反撃を受けます。しかし、国民と切磋琢磨することでしか、展望は開けません。そんな度胸、ありませんか。昔ながらの自民党批難作戦に固執するのは、余りにも芸がないと思います。自民党が禄でもない政党だということは、誰でも知っています。でも、「禄でもない政党」で競い合うのはいかがなものでしょう。
何度も書きますが、既存の政党に、この国を、国民を、救う力量はないということです。与党も野党も、この国が「ヤバイ」ことになっていることを無視して、国家運営ができると勘違いしているのは、国民にとって大きな不幸だと思います。
新しい政治集団を誕生させなければ、国民はドツボにはまります。
そのために、ぜひ、言葉の定義をしてほしいと思います。
30年前から、日本の危機は、その度合いを深めているのです。野党の方は、口を開くと、政府のコロナ対策を批判するだけです。モリ・カケ・サクラがコロナに変わっただけです。モリ・カケ・サクラやコロナが課題ではないと言いませんが、日本の最重要課題は、30年前から国力の衰退です。どうして、この現実を無視するのでしょう。野党の皆さんは、国民に、新しいシステムを提示し、国力の衰退を止め、反転させ、国を、国民を、守る責務があるのです。今、皆さんがやっている、風が吹いて政権が転がり込んでくる日を待っている姿勢は、国民には何の役にも立たない、ただの助平根性集団の醜態にすぎません。現状認識、原因究明、対策立案という基本をやってください。仮に、風が吹いて政権交代が起きれば、こんな政党に国政を委ねれば、国民は、更なる不幸に直面するだけです。

ごめんなさい。悪いのは自民党です。
そもそも、この権力闘争の原点は、100人の国会議員が、選挙区の市民の生活のためではなく、自分が選挙で落選するから、という個人的な理由で強行突破をしてしまったことにあります。
この国は、自民党の100人の国会議員のためにあるのでしょうか。
「そんな、馬鹿な」と思いますが、これが現実です。
今回の騒動も、この国が、国民のためではなく、「お上」の一部の人達の利益のために運営されているという証です。
私は、戦前の若手将校が反乱を起こした226事件を思い出しました。226事件の若手将校は、国民のためではなく、軍のために反乱を起こし、今回も、国民のためではなく、自民党の若手政治家のために反乱を起こしました。私には、とても危険な兆候に見えます。
226事件が敗戦へ直結しいるわけではありませんが、226事件の延長線上に敗戦があることは否定できません。だとすると、私達は、いま、日本崩壊へ向かっている、そのプロセスの上に立っている、のかもしれません。

政治評論家やコメンテーターと呼ばれる人達が、テレビやネットで、連日、この問題について発信しています。
でも、やっているのは、権力闘争の内輪話です。
国会議員の越権行為を話題にしている人はいません。
こういう国家運営が、ずっと、続いているのです。
皆さん、慣れていますので、違和感を持つ人はいません。
では、これが、民主主義なのでしょうか。
国民の存在感は、どこにあるのですか。
多分、国会議員のお偉い先生方は、自分は一国一城の主だと思っているのでしよう。
私には、封建制度にしか見えません。
もしも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義があっても、同じようなことが許されるのでしょうか。
もしも、仮に、今回の自民党内紛劇の結果、当落線上にいた国会議員が当選したとしたら、それは、立派な利権だと言えると思います。「お上」集団の中の個人の利権がまかり通る国家運営システムが堂々と運営されているのです。
今回の自民党内権力闘争に対する批判は、いろいろな方がしていますが、皆さん、本質を見ていません。「民主主義とは、何ですか」と問いたいです。
政治評論家の皆さんが、稼ぎ時だとばかりに、言いたい放題のことを言っています。
権力闘争の構図を解説してくれますが、構図がそれほど大事なのでしょうか。国民を無視していることのほうが、遥かに大きな問題だと思いますが、そんな解説はありません。「これが日本政治の現実なのだ」とシレッと言い放ちます。
もちろん、左翼の一部の方は、国民軽視だと批判しますが、いつものように批判のための批判という場所から離れられません。どうして、原因を究明し、対策を提示しないのでしょう。選挙が近いのですから、野党にとっては、願ってもないチャンスが来ているのです。野党の皆さんも、この国の課題がどこにあるのかが分かっていないから、行動できないのです。国民生活を守る確かな提案をすれば、政権のほうからやって来ます。野党の皆さんの目的は、間違っています。
与党も野党も、視野狭窄病に罹患し、国民の存在が見えていません。皆さん、「これでもか」とばかりに「自分さえよければ」に専念しています。
それなのに。
相変わらず、国民の皆さんは、素知らぬ顔です。
「いつものことだ。こんなもんだろう」という認識が一番多いと思います。
国家運営を他人事だと思っている国が繁栄するとは思えません。
国民は、自分達がコケにされていることに気付いていません。いや、ずっと、コケにされ続けていますので、コケにされることが日常だと思っています。
メディアのニュースも、メディア主導の議論も、重箱の隅に限定されています。これでは、国民の皆さんも、重箱の隅が好きだなのだと思われます。
でも、最終的に実害を受けるのは国民の皆さんなのです。

この国に、重箱の隅で権力闘争をやっている余裕なんてないはずです。
重箱の隅の権力闘争は、落ち目の国でよく出てくる現象です。
私達は、その現象を目の当たりにしているのです。
ここは、危機感を持つところだと思いますが、皆さん、平気な顔です。
でも、最終責任を取るのは、皆さんなんですよ。
どうして、平気な顔でいられるのか、理解に苦しみます。私は、いつも、皆さんを「いい人」だと言いますが、そんなはずありませんよね。もしも、100%「いい人」だったら、皆さんは、オバケです。ありえません。それでも、皆さんは「いい人」を演じます。自分だけはドツボにはまらないと信じているのですか。それ、無理ですから。


2021-10-01



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