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奥ゆかしさに問題があるのでは [評論]



自民党総裁選挙は盛り上がりましたが、何かが、変わったのでしょうか。
政治家が、心を入れ替えたのでしょうか。
あり得ないことです。
欲望丸出しの詐欺劇団の茶番劇を見ているようで、とても、気分悪いです。
これは、私が変人だから思うことであって、国民の皆さんは、そうは思っていないかもしれません。皆さん、「いい人」ですから、「頑張れよ」と応援している人もいると思います。実際に、自民党支持率は大きく上昇しました。皆さん、ほんと、「いい人」です。ただ、「いい人」も度が過ぎると、「馬鹿」の領域へ行ってしまいます。自民党総裁選で自民党の支持率が上昇したという結果を聞いて、私は絶望しました。今、この国は壊れ始めているのです。それなのに、こんな茶番で、支持率が上昇するのです。「いい人」が国を壊しているのか、それとも、「馬鹿」が国を壊すのかと考えると、後者のほうが、辻褄が合うのではないかと思います。それは、「いい人」が、度を越えているのだと思います。
個々の政治家の中には、志の高い人もいると思いますが、個々の政党の土台にあるのは、どの党でも「我欲(権力欲)」ですから、志の高い政治家がいたとしても、役に立ちません。
「この政党に、国の運営を託したい」という政党が存在しません。
これは、無いものねだり、なのでしょうか。
「世界に、そんな国、あるのか」「無理だろ」と言う方もいると思います。でも、私達の国は、最悪という世界一をいくつも持っている国です。他国の真似をしていていいとは思えません。どこの国でも、問題山積みです。理想的なシステムが存在しているわけではありません。どこの国も、何とか、やり繰りしているのです。他国の真似をして、何とかなる時代ではありません。世界最悪の課題を抱えている日本には、独自のシステムが必要なのだと思います。
政党は人間が運営するのですから、「欲」に支配されるのは止むを得ません。ただ、政党の「我欲」が国民の利益に近い政党であれば、今よりは、ましになると思います。そんな政党を誕生させるのも、「言葉の定義」の目的なのかもしれません。この世に完璧なんてものはありません。何を重視するのかが問われます。民主国家であれば、政治家の「我欲」ではなく、国民生活が重視されなければならないのではないでしょうか。
衆議院選挙を控えています。
コロナで被害者意識を強く持っている国民が、狼狽えることが一番怖いです。7割の国民の皆さんは、風の影響を受けて投票します。しかし、選択肢は既存政党しかないのです。
この時期に、既存政党による政権交代は危険です。
私は、自民党政権がいいとは言いません。いや、最悪だと思います。
私達は、戦後約80年、小さな変化はありましたが、自民党政権が当たり前の生活をしてきました。でも、「国力衰退」の時代を迎え、自民党政権は賞味期限ではなく、消費期限を越えていると思います。ですから、今の私達にとって、自民党政権は最悪の選択なのですが、他党の政権だと、最悪に輪をかけて最悪なのです。これでは、国民は救われません。
ただし、これ、政治家のせいではありません。国民の皆さんが、自分の生活を守ろうとしていないのです。だから、皆さん自身がドツボの前に立っているのです。
もしも、「言葉の定義」から新しい政党が誕生していれば、こんな最悪の状況は回避できたのかもしれません。
自民党の評価が6点だとすると、野党は一纏めにしても3点です。もちろん、100点満点での評価です。与党も野党も、せめて、60点か70点は欲しいです。
自民党政権が最悪だとすると、立憲・共産政権は超最悪なのです。どちらも歓迎できませんが、国民へのダメージという意味では、立憲・共産政権を選んだ時のほうが痛みは大きくなると思います。
国民が救われないという点では、どちらも同じです。国民は、なぜ、痛みの大小を選択するしかないのでしょう。それは、既存の政党という選択肢しかないからです。未だに、経済発展時代を引き摺っている政党には、「国力衰退」が進む今の国は運営できません。
この国は、誰の国なのですか、と問いたいです。
国は、国民のためのシステムなのです。
その原則(認められていませんが)を理解している方が見当たりません。
誰が悪いか、ではありません。
どんな立場にある人も、国力が衰退している現状には責任があります。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」で楽をしている、国民の皆さんも悪いのです。
ま、あらゆる立場の方が責務を果たしていませんので、平等であることには違いがありませんので、これでいいと言えばいいのかもしれません。
誰のせいでもなく、何となく、ごく、自然に崩壊へ向かっているのは、皆で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっているからだと思います。
政治だけが悪いわけではありません。官僚だけでも、企業経営者だけでも、メディアだけでもありません。もちろん、国民だけが悪いわけではありません。ただ、一番重い責務を持っているのは国民です。最終責任を取るのも国民です。人数でも最多です。比重という視点から見れば、国民の責任が一番重いと思います。その国民が「俺には関係ねぇ」と言っているのですから、手の打ちようがありません。

確かに、色々な場所で議論が行われていることは、いいことだと思います。
ただ、誰もが、「自分は当事者ではない」と思っているために、議論の中身は、いつも、抽象論で始まり、そのまま、抽象論で終わります。確かに、議論をした、という気分には浸れますが、何の役にも立ちません。
これを、「〇〇ごっこ」と呼ぶのだと思います。
それでも、政党は、どの政党も、選挙のために、無理矢理、具体論を出そうとします。
しかし、原因を究明していませんから、出てくるのは、結果を捻じ曲げる政策ばかりです。与党も野党も、「分配、分配」と連呼します。「格差是正」だと言います。それで、何をするかと言うと、「カネをばら撒きます」「税制を変えます」です。国力が衰退しているのに、バラマキ政策や税制で、目先を変えても、日本の将来は変わりません。「国力衰退」の原因を見つけ、それを克服するしか方法はないのです。何度も書きますが、「国力衰退」の原因は、この国に、目的と責務がないからです。「なあ、なあ」「まあ、まあ」で自分を誤魔化して、言葉の定義をしないからです。
どうして、結果を捻じ曲げても何も変わらないことに気付かないのでしょう。
日本人って、そんなに馬鹿なんですか。不思議でなりません。
誰にも危機感はなく、誰もが他人事だと思っています。
色々な分野の識者と呼ばれる人達が議論に参加していますが、自分がオピニオンリーダーになる覚悟を持っている方は見当たりません。誰も表立って認めてはいませんが、日本は、今、「国力衰退」という、歴史上最大級の有事にあります。こういう時こそ、識者の皆さんや学者の皆さんには、オピニオンリーダーになる責務があると思うのですが、そんな自覚はないようです。
識者の皆さんは、さすがに、口だけは立派なことを言います。
「国家像が必要なのだ」
「国民を豊かにする方策が必要だ」
その通りなのですが、そのためには何が必要で、具体的に何をしなければならないのか、については、誰も提案しないのです。とりあえず、結果を捻じ曲げてみませんかという、何の役にも立たない提案はあります。
この靴の上から足を掻くような行動は、どうして、生まれるのでしょう。
日本人の長所だと言われている「奥ゆかしさ」に問題があると思います。
この「奥ゆかしさ」を生み出したのも「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
日本人の長所を否定するつもりはありません。
「奥ゆかしさ」は素晴らしいと思います。
しかし、何事にも両面があります。いい方向へ働いた場合は、素晴らしいと思いますが、逆の場合もあるのです。
いろいろな立場の人に配慮し、悪しき言葉は極力避ける。常に配慮する。それが、大人の対応だと信じているのです。これは、国が順風満帆の時は、とても良き風習になりますが、そうではない時には、取り返しのつかない手遅れの原因になります。
この国の最大の課題は「国力衰退」なのですが、識者の皆さんは、百も承知なのですが、「国力衰退」という言葉を使いません。
彼等は、口には出しませんが、「国力衰退」を前提に話をしています。
強い言葉で波風を立てるのではなく、曖昧にすることで、他者を傷つけない配慮がされているのです。ただ、他者に優しくは、自分にも優しく、という助平根性につながっています。貴方の傷には触りませんから、私の傷にも触らないでくださいね。その時に便利に使えるのが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」なのです。
「国力衰退」が最大の課題であることは、専門家だけではなく、ほんの少しでも、データを見るチャンスがあれば、誰でも気付くことです。
知っていながら、「国力衰退」というネガティブな言葉は封印してしまうのです。
皆で、一致団結して、阿吽の呼吸で、封印するのです。見事です。
でも。
曖昧のベールで覆い隠しても、「国力衰退」という現実が消滅するわけではありません。
国と「国力衰退」の関係は、人間と人間の影の関係と同じです。逃げても、逃げても、追いかけてくるのです。
「国力衰退」という言葉に正面から向き合わなければ、抽象論になってしまいます。
言葉は言葉にすぎませんが、言葉には言葉自体の持つ力があります。
言葉は、自然と方向性を示します。言葉がないと、言葉の定義をしないと、あらゆるものが曖昧のままです。
「国力衰退」という言葉と向き合えば、「どうして、衰退したのか」と疑問を持つことができます。疑問を持てば、問題点を探すことができます。原因が見つかれば、対策を考えることができます。対策が見えてくれば、どうすれば実行できるかを考えます。
これ、社会人であれば、普通に、誰もがやっていることです。
どうして、そうしないのでしょう。
抽象論では、どなたも正しいことを言います。
でも、抽象論は、どこまで話し合っても抽象論でしかないのです。いや、抽象論の度が過ぎると、どんどん、重箱の隅に進んでしまうのです。出口はありません。
どなたも、いい人ですし、奥ゆかしい人ですが、皆さん矢面には立ちたくないと思っているように見えます。
確かに、具体論を出せば、四の五の言う人は大勢います。
いや、寄って多寡って、具体論を潰しにかかります。「言葉の定義」なんてことをして、自分の責務が表面化されたら、今の楽な生き方は出来なくなります。誰もが、本能的にそのことを知っているのです。でも、そんなこと言っている場合ではないと思います。
識者や学者は、それを承知の上で、具体論を提示する必要があります。
識者や学者は、それを受けて立つのが仕事なのではないでしょうか。
皆さん、自分が一番大事なのです。
やんちゃな、馬鹿な奴は、いなくなってしまったのでしょうか。
皆さん、「いい人」に徹しようとしています。
誰もが守りに徹する風潮も、国力衰退の現象の一つなのかもしれません。
「これは、自分ではない、誰かの、守備範囲だ」
「他人の守備範囲には、踏み込めない」
「誰かが、何とか、してくれ」
「少なくとも、俺には、関係ない」
皆さんが、こんなことを考えていて、「国力衰退」を克服できるとは思えません。
敢えて、火中の栗を拾い、批判の矢面に立ち、それでも、目指すべき方向を示す専門家や識者の方の覚悟が必要な時なのだと思います。私のような庶民が、マイナーブログで何を言っても、社会は動きません。それは、私が証明していますので、よく知っています。識者とか学者というステータスは、このような非常時の時に必要だから存在しているのだと思います。もちろん、私だけは正しいなんてことは言いません。私も、同じ穴の狢です。結果が出せていないということは、そういうことだと思います。庶民だから許されるという問題ではないと思います。
もちろん、国民の皆さんも同罪です。
どうすることも出来ないのでしょうか。
多分、そういうことだと思います。

このブログでは、いろいろな「氷山の一角」を書いてきました。
好意的に読んでくださった人は、そんな方は少ないと思いますが、「言葉の定義」と「国力衰退」と「皆さんの不安」がリンクしていることは見えたかもしれませんが、「お前の言ってること、わけ、わかんねぇし」という方もいると思います。
確かに、「言葉の定義」と「国力衰退」と「皆さんの不安」がリンクしているのは、見え難いかもしれません。
でも。
それでも。
ご自分で、「言葉の定義」をして、その定義から、目的と責務を見つけてください。
「国とは」を定義すれば、国の目的と国の責務が見えるはずです。
「国民とは」を定義すれば、国民の目的と国民の責務が見えると思います。
目的と責務が明確になれば、現在行われている諸々のことが、その目的と責務から外れていることが見えると思います。
定義をするのは、それなりに、手間がかかると思います。
それでも、是非、やって欲しいと思います。
もちろん、「言葉の定義」で全てが解決するわけではありません。
でも、糸口は見つかると思います。
確かに、どこの馬の骨なのかわからない老人の言うことです。信用できないかもしれません。ですから、ご自分でやってみて欲しいのです。

誰が新総理になっても、日本は変わりませんので、あまり意味はありませんが、自民党総裁選挙の結果について、書いておきます。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」が得意な岸田さんが選ばれたということは、この国は、今後も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやっていく、ということだと思います。
当たり前のことですが、「誰かが、何とか」という奇跡は、今回も起きませんでした。
国民の皆さん、ご愁傷様です。
皆さんは、いつまで、「いい人」を演じ続けるのですか。


2021-10-03



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