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希望的観測よりも現実を [評論]



アフガニスタンが混乱しています。
それでも、アフガニスタン情勢の日本への政治的、経済的影響は、ほとんど、ありません。もっとも、アフガニスタンには、日本も多額の国費を投入していたのですから、それが無駄金になってしまいましたが、税金なんですが、その件で騒ぐ人はいません。
まさに、対岸の火事です。
それでも、それなりの数の方々が心配をしています。
世界では、人道上の心配をする方が多いのかもしれませんが、日本では、日本の安全保障を心配する方が多いように見えます。もちろん、心配するべきだと思いますが、75日経てば、この話題は消えていくと思います。
私は、この10年間、日米安保は消滅すると書いてきました。アメリカは日本を守らない、と書いてきました。私だけではなく、少数の人の意見としてはあったと思いますが、「まさか」、と笑われていたのだと思います。でも、古人が残してくれた言葉にある「氷山の一角」「一事が万事」「二度あることは三度ある」は、今でも有効なのです。ベトナムやアフガニスタンで起きたことが、日本で起きても不思議ではないのです。
アメリカの軍事力に依存している多くの国で、今回のことが心配されています。
今、一番、アメリカ軍の力を必要としている国が台湾だと思います。台湾政府は強がりを言っていますが動揺しています。しかし、フィナンシャルタイムズ紙が指摘しているように「タリバンとも戦おうとしないアメリカが、中国やロシアと戦えるのだろうか」という心配は拭えません。中国は、言葉でも行動でも、そんな台湾に攻勢をかけています。バイデン大統領は「台湾は守る」と明言しましたが、その後に、政府高官がその発言を取り消しています。そのことで、アメリカの信頼性は更に低下しました。「おい、おい、大丈夫か」
台湾の市民の皆さんが本気で「ヤバイ」と感じたら、政権交代が起き、台湾は中国に吸収されます。
アメリカ軍を必要としているのは、台湾だけではありません。
韓国の文政権を除き、台湾も日本も欧州諸国もアジアの国々も、アメリカ軍を必要としています。これが、現実です。私は、バイデン政権の「逃げ腰」を指摘してきましたが、世界もそのことに気付いてしまったのではないかと思います。もちろん、アメリカにはアメリカの国益を守る権利がありますので、アメリカが悪いわけではありません。
ただ。
今回の醜態は、アメリカの威信を大きく傷つけました。
バイデン政権は、更に、「逃げ腰」になると思います。
相手が悪かったと思います。
アメリカが多額の資金(数百兆円)を投入しても、どこかへ消えてしまうアフガニスタン政府の腐敗構造が、アメリカの支援を頓挫させた大きな一因だと思います。アフガニスタン軍の軍事教育を担当したアメリカ軍は、戦う意志のないアフガニスタン兵を間近で見ています。アフガニスタン軍兵士の最高指揮官である大統領が率先して逃げるような人なのですから、兵士だけではなく、皆で白旗を挙げたのです。政府も軍も、自分の国を自分で守ろうとしなかったのです。国として機能していません。アメリカが逃げるのも必然でした。
これも、現実です。
最低限の基本は守らねばなりません。
自分の身は自分で守る。
自分の国も自分で守るしか方法はないのです。
アフガニスタン政府は、その責務を果たしませんでした。では、大統領だけが悪いのでしょうか。そうではありません。そんな政府を容認していた、黙っていた、国民に責任があります。アフガニスタン国民が厳しい環境に戻ったとしても、それは、自業自得だと思います。どこの国の「お上」でも、自分の利益を優先させます。「国民の利益を優先させる国家運営をしろ」と国民が要求しない限り、ドツボにはまるのは国民なのです。
アメリカに「おんぶにだっこ」で「俺達は安泰だ」と思っている日本の皆さん。
私達の国はアフガニスタンとは違うのでしょうか。

戦争は、絶対に、起こしてはいけません。
でも、戦争は起きるのです。それが、現実です。人類史は、戦争史です。
ですから、私達は、戦争から逃げるのではなく、戦争と正面から向き合い、「戦争とは」という言葉の定義をしなければなりません。「何となく戦争反対」は最悪の対応です。
「戦争反対」という言葉だけで、空気だけで、戦争がなくなるわけではないのです。
最終的に、国民生活を守るためには、どうすればいいのかを見つける必要があります。他国を占領する必要はありませんが、国民生活を守るために、自分の国は自分で守らねばなりません。「国とは、国民とは」という定義があれば、当たり前のことです。
でも、「自分の国は自分で守る」という世論は、日本国内にありません。
皆さんは、「日米安保があるじゃないか」と思っています。
いや、「何とかなるさ」と思っています。
「神の国、日本は、不滅だ」と信じている方もいるでしょう。
そんな皆さんは、アメリカ軍のアフガニスタン撤退を、どう説明するのでしょう。
もちろん、今日明日に在日米軍が撤退するわけではありません。
アメリカは、日本を防波堤として利用するだけしておいて、撤退します。
そこに残るのは、アフガニスタンのように、ボロボロになった日本です。
でも、仕方ありません。自分の国は自分で守るという鉄則を守らなかった日本政府に責任があるからです。そして、残念ですが、政府には責任能力がありませんので、国民が責任を取らされます。それは、アフガニスタンを見ていればわかります。
アメリカは悪くありません。私がアメリカの立場であれば、同じことをすると思います。
では、どうして、日本は、自分の国を自分で守ろうとしないのでしょう。
簡単です。
国民が、戦争反対と言っているからです。
いや、少し違います。
国民ではなく、「もやもや」とした空気が、戦争反対と言っているのです。いや、そもそも、日本という国は、空気で、動いているのです。これが曖昧統治システムです。
全国民とは思いませんが、戦争反対を唱えていれば安全が確保できると勘違いしている人が、それなりにいるのです。もちろん、論理的な判断ではありません。空気です。
これも、「戦争とは」という言葉の定義がないからです。
左翼の皆さんが戦争反対を利用しているだけなら、どこの国でも起きることですが、日本では、一般国民の中にも戦争反対と叫ぶことで平和が守れると「何となく」「根拠なく」信じている人がそれなりにいるのです。私からは「お目出度い人」にしか見えませんが、彼等は、そのことを信じているのです。もちろん、確証なんて持っていないと思いますが、きっと、そのほうが、気が休まるのだと思います。戦争に反対するような「いい人」でいたいのだと思います。
でも、実際に戦争が始まれば、空気なんて吹き飛ばされます。
仮に、米中戦争が始まったとしましょう。
日本は、「俺には関係ねぇ」と言えるのでしょうか。
アメリカ陣営に参加するか、中国陣営に参加するか、の選択肢はありますが、アメリカ側に参加すれば中国軍と、中国側に参加すればアメリカ軍と戦うことを強要されます。「日本は、観客席で見ていてください」なんてことは、誰も言いません。
戦争反対を唱える人達は、空気だけを読んでいた日本人は、武器を捨て、「煮るなり焼くなり、どうぞ、自由にしてください」と言うのでしょうか。「戦わない」という選択肢があることは否定しませんが、皆さん「私の命を、どうぞ、ご自由に」と言う度胸はあるのですか。
国民の皆さんが、どんな理不尽に逢おうとも、戦わないと決めるのであれば、その意見は尊重されていいと思います。ただ、理不尽に対峙する覚悟もなく、「戦いたくない」と言うのは、ただの我儘に過ぎません。
戦争も戦争反対も、先ず、自分が死を受け入れて、初めて成り立つことなのです。
認めたくはありませんが、それが戦争です。
国民は「いいとこ取り」をしたいのです。あるのは覚悟ではなく、助平根性です。
ここにも、「曖昧」があります。戦争の定義もなく、度胸も覚悟もなく、ただ、何となく、戦争は嫌だと言っても、それは、甘えでしかありません。
私達の日常生活でも、自分に都合の良いことだけが起きて欲しいと願っても、叶うことがありません。そんなこと、わかっていると思います。それは、国際関係でも同じです。

確かに、これまでの日本は、この「曖昧」で生き延びてきました。
その曖昧が機能した環境は失われています。国家運営の失敗が続いていますが、それは偶然ではありません。曖昧統治システムの機能不全による必然なのです。
国際関係に影響されずに生き延びるという選択肢はなくなっています。
嫌でも、国際基準に従う時代になっているのです。
その国際基準の代表例が「自分の国は自分で守る」というルールです。
「鎖国していれば」「戦争に反対していれば」「神の国であれば」「日米安保があれば」なんてことを言っていても国は守れません。国を守れないということは、国民を守れないということなのです。そのことに気付いて欲しいです。
小国が列強の餌食のなるのは、昔も今も同じです。
ですから、大国の力を借りることは仕方がありません。
それでも、基本は「自分の国は自分で守る」という鉄則なのです。
バイデン大統領は「アフガニスタン正規軍がタリバンと戦わないのに、なぜ、アメリカ兵が血を流さねばならないのだ」と言っていました。これも、国際基準です。
アメリカ国内世論は、今回の、突如の、アフガニスタン撤退に反対していますが、それは、突然だったからです。もともと、アフガニスタン撤退は7割以上の国民が賛成していました。しかし、世論は、人道の問題を指摘し、撤退の仕方が悪いと言っているのです。人道的な意見は、時間が経てば、環境が変われば消えてしまいます。自分の利益を減損してでもアフガニスタン人を守るというアメリカ人はいません。
共和党は「テロの温床になる」という観点から反対していますが、アメリカがテロ集団のタリバンを制圧できなかったのは現実です。アメリカは、テロとの戦いに負けたのです。共和党は、その事を認めたくないから、バイデンを非難しているのです。
現実には勝てません。
日本は大丈夫なのでしょうか。
世界では、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は通用しません。
世界では、「曖昧」よりも現実が優先されます。これが、世界です。

では、世界最強の曖昧国である日本は、どうすればいいのでしょう。
曖昧から離脱するしかありません。
安全保障で必要になるのは、国民の皆さんに、戦争を、戦争の現実を、知ってもらうことです。戦争は、プラスとマイナスの比較ではありません。マイナスとマイナスの比較なのです。どちらのマイナスを選ぶのかという選択なのです。そこに、必要になるのが覚悟だと思いますが、日本にあるのは、曖昧と勘違いと能天気です。
国民が、覚悟もなく、戦争反対を唱えている限り、国民生活は守れません。戦争に、何が何でも反対なのであれば、自分の命を犠牲にしてでも、戦争には反対するという覚悟が必要なのです。
曖昧からは何も生まれません。
私は、曖昧から離脱する方法は、言葉の定義をすることだと主張してきました。
安全保障問題でも同じです。
「戦争とは」「戦争反対とは」「安全保障とは」「国際基準とは」等々の言葉の定義をする必要があります。
ただ、それらの言葉の定義をするためには、その前提条件として「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義がなければなりません。
国全体として、曖昧からの離脱をする必要があるのです。
そうであれば、国の形を変えるしかありません。
でも、そんな機運はどこにもありません。
このまま、「なあ、なあ」「まあ、まあ」も「戦争反対」も続くということです。
私達が歩んでいる先には「ドツボ」しかないということだと思います。アフガニスタン人の人権を心配している場合ではありません。

何度も、何度も、くどくて、済みません。国民の皆さんは気付いていないと思いますが、私達の国は「曖昧」という土台の上に築かれている国です。
「お上」の利益は、この曖昧から生まれているのです。国家運営で失敗しても、実際に失敗の連続ですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、すべて「うやむや」にできるシステム。それがこの国の国家運営システムです。「お上」は傷つきません。責任は、すべて、国民が取ってくれます。だから、「お上」は「曖昧」を捨てることが出来ません。
ここで、「お上」という言葉について考えてみます。
「お上」って、誰。
総理大臣でしょうか。
違います。総理大臣は「お上」の一員ではありますが、総理大臣が「お上」ではありません。
「お上」集団を「お上」と呼び、「下々」集団を「下々」と呼んでいるだけです。「お上」にも、「下々」にも、色々な方が所属しています。
お偉い先生方と呼ばれる種族の皆さんは「お上」の一員です。そのお偉い先生方のために仕事をしている皆さんも「お上」の一員です。「お上」との関係で利益を得ている皆さんも一員です。それだけではありません。共産党や朝日や毎日という「お上」に反対することで仕事が成り立っている人達も、寄生虫という意味で「お上」の一員です。皆さん、同じ穴の狢です。かなりの数の方が「お上」の一員ですが、それでも、国民の1割か2割であり、圧倒的に「下々」の人達のほうが多いと思います。
別の視点から見ると、「お上」は「曖昧」で利益を得ている人であり、「下々」は「曖昧」で利益を失っている人達です。もちろん、「下々」はその事に気付いていませんから、平穏無事に見えますが、「お上」にとっては、知らぬが仏という有難い存在です。
逆の視点で区別すると、「言葉の定義」をすれば利益を失う人達が「お上」であり、そうではない人が「下々」です。皆さんは、言葉の定義をして、何か不都合がありますか。不都合が生じる人が「お上」の一員であり、そうではない人が「下々」です。
「お上」の皆さんに共通しているのが「曖昧」の堅持です。ここに挙げた人達は、「曖昧」がなければ、利益を失う人達ばかりです。
しかも、ここに挙げた「お上」の人達は、権力を持っているだけではなく、明らかに、「下々」よりも発言力があります。発言力のない「下々」は、日本の歴史と伝統に従い、耐えることが仕事です。
でも、これって、変じゃないですか。
「下々」のほうが圧倒的に多いのです。
ほんと、不思議です。
「お前は、マルキストか」と言われるかもしれませんが、私は左翼ではありません。
強いて言えば、「子供達の未来を守りたい」と願っている老人です。
それは、子供であることが不利であるというだけではなく、「下々」の子供達のほうが、圧倒的に不利だからです。
「じゃあ、人道主義者か」
それも違います。
どんな言葉を使えばいいのかわかりません。
「人類主義者」なんて言葉はありませんが、明日の人類になる子供達を、普通に守りたいと願っている者です。


2021-09-06



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76年も放置されている戦争責任 [評論]



8月15日と言えば「終戦記念日」です。
私は変人ですから、国が戦争責任を放置し続けている記念日だと思っています。特に、国民に対する国の責務が議論されていないことを記念する日です。常識のある「いい人」は、こんな馬鹿げたことは言いませんが、直近の日本近代史を見れば、日本は、私達は、明らかに破滅へと向かっています。その原点が、戦争責任の総括をしなかったことにあります。
終戦記念日は、日本が敗戦した記念日だと思っている人がほとんどだと思います。国も、そのつもりなのでしょうが、ほんとに、そうなのでしょうか。議論がありませんので、終戦記念日は「曖昧」な記念日のままです。
「もやもや」とした空気の中にあるのが終戦記念日なのだと思います。いや、あらゆることが「もやもや」とした空気の中にある国ですから、終戦記念日も、その一例に過ぎません。
終戦記念日は、国民の祭日にはなっていません。戦勝記念日であれば祭日に出来たのでしょうが、敗戦記念日ですから祭日にはし難かったのでしょう。ここも、「もやもや」です。意味不明な「山の日」が作られ祭日になりましたが、「お上」は終戦記念日を意図していたのではないかと思います。ただ、何故か、8月11日です。8月15日にすればいいのに、そこは、微妙に外してあります。「もやもや」
終戦記念日には式典が行われます。
立派な会場で、立派な祭壇を作り、お偉い方々が頭を下げていれば、それでいいのでしょうか。儀式好きの日本人ですから、それなりの効果はあるのでしょうが、変人の私には、靴の上から足を掻いているような違和感があります。共産党や朝日新聞のように、「日本の侵略が悪い」という定型文にも、違和感があります。
「なんか、違うな」という感触があります。
右も左も団結して、本質を避けようとしているように見えるのは、偏見なのでしょうか。共産党や朝日新聞を含めて、皆さん、「いい人」ばかりなのかもしれません。私は変人ですから、「国民」という視点が欠けていることが不思議です。

昭和初期から開戦の日に至るあの時代、国民の皆さんは、漠然と「ヤバイ」という感触は持っていたと推測します。昭和7年に515事件が、昭和11年に226事件が起きています。「俺達は、破滅へ向かって進んでいる」とは感じていなかったのかもしれませんが、多分、何となく「ヤバイ」とは思っていたでしょう。
あれから、約100年後の今、「俺達は、破滅へ向かって進んでいる」と感じている人がいないのと同じ感覚だったのではないかと思います。ただ、100年前と同じで、国民が「ヤバイ」と思っているところは共通しています。
でも、庶民の「ヤバイ」という感触は、実際に「ヤバイ」結果になります。
後で、冷静に、振り返って見れば、あの戦争に勝算などないことは明らかです。
それでも、空気に引きずられて戦争をしてしまったのです。
しかし、私達は、そのことを、いや、多くのことを、戦前も、戦中も、戦後も、腫れ物に触るような感覚で、避けてきました。これは、空気に責任転嫁して、「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言いながら、皆で、逃げているだけだと思います。
日本人だけではありませんが、日本人は、特に、「恥部を隠す」という意識が強いと思います。暗黙の中で、「なかったことにしようじゃないか」という意見は、大人の対応として、受け入れられる社会が、日本の社会です。
戦前の意識も、開戦したことも、「うやむや」のまま、76年が経過したということだと思います。もちろん、「うやむや」は戦争に限ったことではありません。
戦争の総括は、国の責務だと思いますが、そもそも、責務そのものがありませんでしたので、総括はされませんでした。参考までに、今でも、国の責務は決まっていません。
すべて、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で終わってしまっているのです。
今は、「戦争という破滅」に向かっているのではなく、「国力衰退という破滅」へと向かっているのですが、同じような空気があるように思います。
もちろん、戦争の総括をしていれば、こんなことにならなかったという証明はできません。しかし、戦争を「うやむや」にしてしまったという歴史が、何らかの影響を与えているのではないかという想像はできます。
徳川時代、生類憐みの令や奢侈禁止令の時に、うっかりしたことを口にすると牢屋に入れられたという歴史があり、戦前、戦中は、国や軍部に対する批判は厳しく取り締まられていたという歴史もあります。庶民は「壁に耳あり」と言って慎重に行動していました。それでも、本音では「ヤバイ」と思っていたはずです。だって、人間には、直感があるからです。
今も、同じです。
国民の皆さんは「ヤバイ」と思っています。だから「不安」なのです。
徳川時代や戦前の日本と違い、今は、「ヤバイ」と本音を漏らしても、牢屋に入れられることはありません。
それでも、皆さんは「ダンマリ」です。
どうしてなのでしょう。
歴史と伝統という空気が、体にしみ込んだ「下々」根性が、「ヤバイ」なんてことを言わせないのです。

多くの兵が外地で命を失い、沖縄戦で市民が命を失い、各地の空爆で市民が命を失い、広島・長崎の原爆で市民が命を失いました。戦後の食糧難でも、多くの市民が、飢えに苦しみ、栄養不良で病気になって亡くなりました。戦後のどさくさで命を落とした人もいます。戦争さえなければ死なずに済んだ人が、数百万人もいるのです。
どう贔屓目に見ても、国には戦争を総括する責務があったと思います。
しかし、国は、76年経っても、「俺には関係ねぇ」と言っているのです。
慰霊の式典をやっているのだから、靖国神社を守っているのだから、「それで、充分だ」と思っているのでしょうか。
「東京裁判で責任は取った」と言う人もいます。
それは違います。
東京裁判は、戦勝国が敗戦国を罰する儀式に過ぎません。
当時の「お上」は、国民に対する責任を取っていません。国民を犠牲にした罪で罰せられた人は一人もいないのです。
それどころか、「お上」は、その象徴である天皇制の残滓を残すことに奔走したのです。
これも、歴史と伝統に支配された行為です。
天皇が国を支配したのは、遠い昔の話です。
平安朝以降、日本の指導者は、天皇を利用することで権力を握ったのです。明治でも同じことをやり、昭和でも同じことをやったのです。
昭和天皇は「私の命が必要なら、差し上げる」と言ったそうです。しかし、天皇を利用して国を支配していた「お上」は、天皇に死なれたら、自分達も「ヤバイ」と思って、戦争責任を曖昧にするために、奔走したのです。
そんな人達が、戦争を総括するなんてことはしません。
そうして、天皇と共に「お上」は生き残ったのです。
日本の戦後も、国民という視点は生まれませんでした。占領軍が、無理矢理押し込んだ民主主義も、見事に、風味だけの民主主義になってしまったのです。付け焼刃の民主主義が、「歴史と伝統」に勝てないのは当然のことだったと思います。
あの敗戦の時に、戦争を総括し、言葉の定義をしていれば、違った国になっていたのかもしれません。でも、当時の「お上」は、権力と利権を守るために、占領軍との折り合いをつけ、天皇と曖昧を、歴史と伝統を温存することで、権力と利権を守ったのです。
「お上」にとって幸運だったのは、自分自身のために、自分の立場を死守していたら、国民が勝手に頑張ってくれて、戦後復興に成功してしまったことです。
「俺達は間違っていなかった」と安堵したことでしょう。
いやいや、それ、違いますから。
古い国家統治システムを温存したから、戦後復興が実現したのではありません。国民が勝手に「追いつき、追い越せ」という目的を持ったから復興したのです。
しかし、その復興も、国民が目的を失ってしまい、国は衰え始めました。
国家運営システムで復興したのではありませんので、この間、国家運営システムは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」でよかったのです。
敗戦後、民主国家という看板を掲げたのですから、言葉の定義をしてもよかったのですが、敗戦から76年経った今でも、言葉の定義を主張した人はいません。
「民主主義って何ですか」という疑問も出てきません。
「何となく民主主義」という「ふんわり」とした空気があるだけです。
「国とは、何ですか」「国民とは、何ですか」なんて疑問が出てこなくても不思議ではないのが、私達の国です。
上昇気流に乗っている時は、「なんとなく」でも「ふんわり」でも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」でもいいんです。
しかし、そうではない時は、そうはいきません。
放置すれば、下落トレンドに引きずられて、「ずるずる」と深みにはまってしまうのです。
今が、まさに、その時です。
今は、縄文時代まで遡る必要がある時です。実際の縄文時代には民主主義は存在しませんでしたが、縄文時代に戻ったつもりで、民主主義を議論する時だと思います。
「お上」が推奨する「歴史と伝統」から離脱する必要があります。
もちろん、こんな主張をしても「訳、わからねぇ」と言われるだけでしょう。
「歴史と伝統のどこが悪い」と言われると思います。
皆さんが考える「歴史と伝統」と、「お上」が考える「歴史と伝統」は別物です。
「お上」が推奨する「歴史と伝統」は、「お上」と「下々」というシステムのことを指すのです。第二次大戦では、数百万人の「下々」が命を失いましたが、「お上」は、他国が裁く東京裁判で罪を問われた一部の不運な人を除き、生き延びたのです。これは、私達が考える「歴史と伝統」とは別物です。
多くの方が「人命は何よりも尊い。たとえ、一人の人命でも尊い」と言います。
数百万人もの人命を失っているのに、理屈、合いません。
戦争だから仕方ないなんて、誰が決めたのですか。
「下々」は何人死んでもいいのですか。
多分、そういうことなのだと思います。
「済んだことだ。ぐちゃぐちゃ言うな」と言われるかもしれません。
でも、これは、済んだことではないのです。
戦争では数百万人で済みましたが、これからやって来る国力衰退のドツボでは、数千万人の「下々」が犠牲になる可能性があるのです。
もちろん、何人の犠牲者が出るかは、まだわかりません。数百万人で済むかもしれませんし、総千万人かもしれませんし、1億人かもしれません。それは、実際に、ドツボにはまってみなければわかりません。それでも、戦争犠牲者よりは多くなると思います。
もしも、あの敗戦の時、「お上」が責任を取らされていたら、そのことを学習していたら、ここまで好き勝手なことはしなかったのではないかと思います。

戦争に関しては、右の方と左の方が言い争いをします。
ただ、枝葉のことを、重箱の隅で議論するだけです。
それは、右にも左にも、国民という視点が欠けているからです。
右の方が見ているのは天皇です。左の方は、他国に対する責任を追及します。
国民は、どこに、いるのでしょう。
国は、国民で成り立っているのです。国民の存在こそが本質なのだと思います。
過去の戦争責任も、将来の経済崩壊責任も、国民に対する「お上」の責任問題だと思います。
いつになれば、「国」のメインテーマが「国民」になるのでしょう。
あの戦争で死んでいった軍人の皆さんの多くは、本音では、国のためでも、天皇陛下のためでもなく、自分の家族のために死んでいったのだと思います。彼等は、自分の命が家族の命を助けることになるのであれば、と思って、死んで行ったのです。
しかし、本土では、その家族が次々と殺害されたのです。
軍人の死が、無駄にされてしまったのです。
アメリカ軍が殺戮者であったことは誰もが認めることです。
では、「お上」には市民を守る責務はなかったのでしょうか。
「お上」は、市民に向かって、「竹槍でアメリカ兵を殺せ」と一億玉砕を叫んでいました。
市民を、国民を、何だと思っていたのでしょう。虫けらなんですか。
軍人が命を懸けて守ろうとした家族を、国が見殺しにしていいのでしょうか。
戦争なんですから、勝ち負けはあります。
ところが、「日本は神の国だから、負けることはない」と信じていたのです。
なんと、馬鹿馬鹿しい。「神の国」、これも、「歴史と伝統」の影響です。
こんなことは、漫画の世界でしか成り立ちません。
必要だったのは「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義だったと思います。国の責務が明確になっていて、「お上」が、早期に敗戦を認めていたら、沖縄の人も、各地の空爆で死んだ人達も、広島や長崎の市民も、死ぬ必要はなかったのです。そのことだけでも、重大な責任があります。
これも、国民が国にとってメインテーマでなかったことが原因です。「下々」は虫けらとしか考えていなかったということです。今でも、そうだと思います。
でも、国民の皆さんは、ゴキブリなんかではありません。
ゴキブリじゃありませんよね。
違いますよね。


2021-09-05



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想像力を意識して使う時代 [評論]



今日は、皆さんが気分を害するような文章を書きますので、いつものことですが、不快な気分にはなりたくないという方は、読まないようにしてください。もっとも、このブログで、「明るい気分になった」なんて人はいないと思います。「不快な気分になるのは、いつものことだ。気にしない」と言う方は、試しに読んでみてください。

私が、初めて、ピカソの絵に出合ったのが何歳だったのか記憶にありませんが、最初の印象は「なに、これ、変なの」というものでした。
残念ながら、今でも、ピカソの絵の良さは理解できていません。
多分、理解できないまま、あの世に行くことになると思います。
私の勝手な解釈ですが、芸術作品の良さは、その作品に接する人の想像力を刺激する力だと思っています。そして、絵を見て、何かを感じるということは、見た人が何かを想像したということだと思います。それが具体的な事ではなく、「何となく」「何か」を感じたとしても、そこにあるのは想像力なのだと思います。
私は何も得られませんでしたが、ピカソの絵が多くの人の支持を得ているということは、ピカソの絵から、その何かを感じた人が大勢いたということなのでしょう。それは、素晴らしいことだと思います。
絵から、勇気を貰った人、モチベーションを貰った人、夢を貰った人、優しさを貰った人、よくわからないが何かを貰った人、いろいろな感じ方があるのでしょうが、その絵がなければ感じることが出来なかった何かを手に入れることができたということだと思います。
理屈じゃないと思います。
それは、絵を見た人の想像力が生み出したものです。
人の気持ちを変化させる想像力は、凄い存在なのだと思います。
もしも、人間に想像力が無かったとしたら、地球は、もっと色褪せた、つまらないものだったのかもしれません。
無粋な私でも、心打たれる作品に出合うことはあります。
私の場合は、東山魁夷の「道」という作品です。
数ある名作と言われる作品に刺激を受けることがなかった私ですが、「道」を見た時は「ドキッ」としました。何故、「ドキッ」としたのかは、今でもわかりません。でも、絵画には力があるという解釈を体現したのは確かです。
現世のしがらみから解き放たれ、想像の世界を遊泳できる心地良さが、芸術作品の素晴らしさだと思っています。それを意識せずに体現できるのが人間なのだと思います。人間以外の動物は、想像しません。ライオンに、私が描いた絵と、ゴッホが描いた絵を同時に見せても、多分、違いはわかりませんし、見向きもしてくれないと思います。
もちろん、芸術論を語りたいのではありません。
いや、そんな資格は、私にはありません。
ただ、想像力は、芸術だけのものではなく、私達の生活にも必要だと思うのです。
動物の中で、想像力を持っているのは人間だけです。だから、人間が地球の王として君臨しているのだと思います。
世知辛い世の中で「想像力なんかで、飯が食えるか」と言う方もいると思います。
その通りだと思います。
それでも、想像力は必要だと思います。

ただ、私達は、ついつい、想像力の存在を忘れてしまうことがあります。
なぜなら、想像力は、昨日今日手に入れた能力ではないからです。数千年、いや数億年前から持っている能力であり、あって当たり前の能力であり、特別に意識しなければならない能力ではないからです。しかも、想像力だけで飯が食えるわけでもありません。
それでも、必要な、どうしても必要な能力であることは間違いありません。
この地球上から消え去った動物が、何千種、何万種いるのは知りませんが、決して強靭な肉体を持っているわけでもない人間が生き残っているのは想像力によるものだと思います。人間は考えることが出来る動物です。考えるという能力は、過去と現在と未来を同時に理解できる能力であり、だからこそ、生き残り、繁栄できたのです。
人間だけではなく、動物でも、過去は体験で知ることができますし、現在は、目で見ることができます。しかし、未来は、想像しないと手に入りません。人間の頭脳が他の動物よりも優れているのは、この想像力があるからです。
ただ、私達は、日常で、想像力を意識することはありません。「さあ、今から、想像するぞ」と掛け声を掛けなくても、自然と想像力という能力を使っています。
過去の体験による恐怖感は、人間でなくても体験することはできるでしょう。でも、将来が不安だという不安感は、人間にしか体験できません。人間以外の動物が、不安感を持ってしまったら、それだけで、生き残ることは難しいと思います。それは、人間以外の動物は将来不安に対応する方法を見つける頭脳を持っていないからです。将来に対応できる能力を持っているのは人間だけです。
人間も、人間以外の動物も同じ生存能力を持っています。どんな動物よりも大きな脳を持っている人間が、地球上で優位に生き残ることが出来たのは、この将来対応能力によるものです。このことは、将来に対応する能力を使わなければ、人間であっても生き残れないということだと思います。衣服を作り、家を作り、道具を作り、火を作り、言葉を作り、文字を作り、集団を作るだけではなく分業というシステムを作ることができたのは、人間だけです。過去と現在と未来を一つのキャンバスの上に置いて考えることが出来たから、生き残っているのです。
もしも、私達が想像力という能力を失えば、生き残ることは非常に困難になります。いや、多分、滅びると思います。
同じように、もし、私達が、無意識であったとしても、過去と現在と未来を同時に考えることを放棄してしまえば、生き残れないということです。
想像力を使えなくなれば、人間は生き残れないのです。
2000年前の人間社会と、1000年前の社会と、現在の社会は同じではありません。
21世紀の社会は複雑になり、個人でも国家でも、想像力の差が、生き残りを大きく左右する社会になります。これまで以上に、想像力の比重は重くなります。
想像力を意識して使う必要のある時代になったということです。

過去を変えることは出来ません。これは、人間だけではなく、神羅万象、あらゆることに共通するものです。時々、人間は、過去を、結果を、変えようとしますが、それは、出来ない相談なのです。
未来に、どんな結果が出るのかは、神様しか知りません。
しかし、人間だけは、それを想像することが出来るのです。それこそが、人間の価値なのだと思います。もちろん、神様だって、人間が想像力で創り出したものです。
ただ、想像力でしか得られない未来も、変える意思を持たなければ、変えられません。
未来は、現在と繋がっていますので、もちろん、現在の延長線上にない場合もありますが、少なくとも、現在の延長線上にある未来だけは変えることが可能です。未来の出発点である現在を換えれば、必然的に未来が変わるのです。どんなに頑張っても、現在の延長線上にない未来は、人間の力では変えることができません。
確かに、未来を変える力は限定的でしかありませんが、それでも、小さなことかもしれませんが、変えることは可能なのです。
人間には、その能力があります。それを捨てる必要はないと思います。
では、私達は、その想像力を十分に使っているのでしょうか。
もしも、悪しき未来が見えている場合、それを変えようとしているのでしょうか。
そうではないと思います。
つまり、今の私達は、悪しき未来に向かって、想像力を捨ててしまったかのように、突き進んでいるのです。
これは、持っている能力を使わない「愚か者」の所業だと思います。
想像力よりも強い力が働いているために、あたかも、想像力を使っていないような状態を作り出しているのだと思います。
皆さんは、意識しなくても想像力を使っています。だから、「不安感」が持てるのです。想像力がなければ、「不安感」なんて生まれません。
皆さんの想像力は正しい判断をしているのです。しかし、何故か、不思議なことに、その判断を「無かったことにする」判断をしているのです。これは、想像力を使っているということにはなりません。そこに残るのは「不安感」という残骸だけです。

では、なぜ、想像力で得た判断を「無かったことにする」という判断をしているのでしょう。
人間の価値を生み出している想像力でさえ、抑え込む力って何でしょう。
これは、私の勝手な判断ですが、皆さんの「下々」根性が、そうさせているのだと思います。
2000年という時間をかけて作り上げた「下々」根性は、それほど強いものなのだと思います。これが、「歴史と伝統」の力です。
「お上」には逆らえないという空気がある。
「我慢」「辛抱」「忍耐」が美徳だと言われている。
「分相応」「忖度」が当然だと思っています。
「騒ぎたくない」「目立ちたくない」「奥ゆかしいと言われたい」という消極性が良いことだという空気がある。
「黙っている人」が大人だと思われている。「騒ぐ奴は、軽い奴は、口数の多い奴は、人でなし」だと思われてしまう空気がある。
全て、空気です。
これ等のことは、もちろん、法律で決められているわけではありませんが、空気は、法律よりも強い強制力になることがあります。しかも、この空気は時空をも越える優れものです。
そして、何よりも、日本人は「いい人」が多い。
救いようのないほどの「いい人」です。
仮に、日本の歴史が2000年の歴史だとしてみます。
2000年間、皆さんは、ずっと、「下々」だったのです。
明治維新で、ほんの少しだけ、変化しました。
敗戦で、また、ほんの少しだけ、変化しました。
ただ、明治維新から150年であり、敗戦から76年です。とても、2000年の重さには敵いません。しかも、2度の変化は、あれほどの大変革だったにもかかわらず、意識の変化だけは「ほんの少し」でしかなかったのです。
皆さんの意識は、未だに、押しも押されぬ「下々」なのです。
「お上」が「歴史と伝統を大切にしましょう」と言うのは当たり前もしれません。「お上」は「下々」の存在があってこその「お上」なのですから、この仕組みは壊したくないと願っても不思議ではありません。
今回のコロナ騒動でも、このことは表面化しました。
それでも、皆さんは、「下々」意識を堅持しています。
「お見事」と言ってもいいくらいです。
皆さんは、この国が「ヤバイ」ことを知っています。将来、「ドツボに嵌る」ことを知っている人もいます。
それでも、「下々」の身分を守ろうとしているのです。身分を弁えるという意味では、世界最強の民族だと思います。
私には、理解不能ですが、皆さんが「馬鹿」に見えてしまいますが、多分、この評価は当たっていると思いますが、皆さんは、「下々」である自分を大事にしたいと願っているようにしか見えません。
多分、百万言を並べても、皆さんの意識を変えることは不可能なのだと思います。
だから、この国は壊れ始めていますし、この先も壊れ続けます。
皆さんの「下々」根性が、壊しているのですが、そのことには気付いていません。
そして、皆さんは、今まで以上に、「下々」でありたいと願っているように見えます。
きっと、そのほうが、居心地がよく、安心できるのではないかと思います。これが、「歴史と伝統」であり、2000年の重みなのだと思います。
歴史と伝統は、ほんとに、怖いと思います。
コロナ対応で、不満や不安や批判は山のようにあるでしょう。
でも、それを生み出しているのは、国民の皆さんだということに気付いているのでしょうか。多分、気付いていないと思います。もう、ほとんど、絵に描いたような「愚か者」の姿、それが国民の皆さんの姿です。実際に、「お上」に「自宅療養で死ね」と言われても、暴動を起こしませんでした。耐えることが自分の責務だと信じています。
この先、コロナ騒動なんて大した騒動ではなかったということに遭遇することになります。それも、国民の皆さんが、自ら招くことなのです。
日本人の得意技であり、日本人の美徳だと信じられている、苦しみや悲しみに耐え、誇りを持ってあの世に行くことが理想なのでしょうか。叩かれても、蹴られても、健気に耐え、また、立ち上がり、前に進んでいくドラマ「おしん」のように見えます。「おしん」は「下々」の鏡です。もちろん、ドラマでは、ハッピーエンドになりますが、現実では、そうはなりません。皆さんは「下々」でいたいと思っている自分に気付いていません。「下々」根性に染まり切っている国民の皆さんは、変人の私から見ると、集団催眠にかかっている「馬鹿集団」にしか見えません。
それでも。
それでもです。
私達のやることの大部分は間違いばかりですが、私自身のことを振り返って見ても、誇れることは何もありませんが、それでも、私達は、子供達の未来を守らなくてはならないのではないでしょうか。
皆さんは、皆さんのために変わるのではなく、子供達のために変わって欲しいと思います。
それが、大人の責務だと思います。
こんな文章しか書けないことが、言葉の定義がないことが、悔しいです。
不幸な人は一人もいない、なんて社会は作れません。
しかし、近い将来実現するであろう、ほとんどの人が耐え忍ぶしかない、不幸な人の集まり、という社会は間違っていると思います。
皆さんは、第二の北朝鮮になりたいのですか。いや、北朝鮮には、独裁者ですが、指導者がいます。日本は、それ以下の、自我と自我が衝突する修羅場になります。
そんな社会に、子供達を送り込んではいけません。
是非、子供達のために、考え直して欲しい。
「下々」を返上して、国民になって欲しい。
国民になるということは、国民の責務を背負うということです。
その通りなのですが、そろそろ、「馬鹿」を装うのはやめませんか。確かに、責務を抱えるのは厄介なことです。「俺には関係ねぇ」とか「俺のせいじゃねぇ」と言うのは楽です。でも、自分が楽をするために子供達を地獄へ送るのは間違っていると思います。
未来を生きる子供達を守るためには、想像力を使うしか方法がないのです。
意識して、想像力を使って欲しい。
心から、そう願います。


2021-09-04



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我慢強くて、いい人、ばかり [評論]



「我田引水」という言葉があります。
私の主張に適した事柄だけを並べて、まるで、100%、私の意見が正しいかのような文章を書いていますが、私は、勝手に正しいと思っていますが、これも「我田引水」だと思いますので、信用していただく必要はありません。
あくまでも、これは、私の勝手で書いていることです。
素人の私が、月に6本の文章を書くのは、決して、楽ではありません。それでも、書けてしまっているのです。これは、それだけ、私の主張に適したネタがあるということです。
ほんとは、私のような悲観論者が、書くネタに困る世の中になってほしいです。

今年も、10月から、たばこ税が増税されます。
これで、4年連続の増税です。
喫煙者は減少していますので、「俺には関係ねぇ」という人のほうが多いと思いますが、私のように禁煙が出来ない意志薄弱者にとっては、増税は痛手です。
「だったら、禁煙すればいいのだ」と言われると思いますが、それが出来ません。
「だったら、自己責任だろ」と言われても仕方ありません。
でも、少しだけ、八つ当たりさせてください。
私達が若い頃は、国が煙草を売っていたのです。あの頃は、国家推奨の嗜好品だったのです。中毒性があることは最初からわかっていたことなのに、税収のために、国が中毒者を増やしていたのです。ところが、手のひらを返して、国民の健康を守るためにという名目を作り、「どんどん、税金を取ってやれ」というやり方に代わりました。ま、どっちに転んでも税を取る姿勢は同じだということですが。
「国は強制していませんよ。たばこを吸うことを選択したのは、あくまでも、あなたですよね」と言われれば、反論できませんが、禁煙できない私が悪いのでしょうが、親の仇のように増税するのは、騙されているようで、気分のいいものではありません。
曖昧統治の国の「お上」には、自分達が手のひらを反しているという意識はありません。いつでも、自分達が正しいと思っています。「国民のため」という言葉も言い訳に使える便利な言葉だと思っているのではないでしょうか。国民の健康を守るのが国の使命であれば、そもそも、煙草を売ってはいけなかったのです。財政事情が悪化してなければ、たばこ税の増税はしなかったと思います。国家運営に失敗したから、増税しなければならなくなりました。些細なことですが、これも、目的と責務が曖昧だから起きたことです。
でも、これが、今の世の中です。諦めるしかありません。
ただ、この先、喫煙者だけが泣く社会ではなくなります。
ありとあらゆる税が増税されますし、新しい税も作られます。
話題に挙がっているものだけでも、見てみましょう。
事業収益1千万円以下の小さな事業者は消費税を免除されていましたが、2023年から変更されます。小企業にとっては、かなり厳しい増税になります。
混乱していた酒税は整理されましたが、これは、増税準備だと考えておくべきです。
所得税も、高所得者の税金は増税されましたが、高所得者の定義なんていつでも変更可能ですから、これも、増税準備です。
相続税と贈与税が整理されて、一本化されるそうです。相続税は増税されたばかりですが、贈与税と関連付けることで、実質的な増税が可能です。
先月、炭素税について書きましたが、どんな名称になるのかはわかりませんが、カーボンニュートラルに関連した新税が作られます。
よく意味の分からない出国税という新税も作られるそうです。
貧乏人から批判が出ている金融取引税が増税されるかどうかはわかりません。お金持ちの皆さんは「お上」に影響力がありますので、簡単には変わらないでしょうが、それでも、背に腹が代えられなくなれば、増税の可能性はあります。
そして、真打は、コロナ復興税です。
震災復興税という前例がありますので、コロナ復興税は当然のように作られます。コロナ復興という主旨で、消費税を15%にするという案も浮上しているそうです。
皆さん、大丈夫ですか。
これ等の増税は、5年以内程度の短期予測ですが、中長期的に予測した場合は、消費税の増税は避けられません。中期的には15%、長期的には20%~25%になると思います。環境次第で、早まるかもしれません。
忘れてはいけないのは、年々増額されている各種保険料の増額です。
いつになるのかはわかりませんが、生活保護保険も新設されると思います。
国民の皆さんは、増税に耐えられますか。
これまでの増税は、「ほとぼりが冷める」のを待って行われてきましたが、最近は、その「ほとぼりが冷めた」と判定される時間が短くなってきています。たばこ税は、昔は、数年の間隔がありましたが、今は、1年になりました。消費者としては、とても、「ほとぼりが冷めた」とは思えない時期に新しい増税がやってきます。
喫煙は、喫煙者は、悪だと言われ始めたのがいつの頃か忘れましたが、喫煙者は、いくらでも袋叩きにしてもいいという空気が出来ています。「早く、1000円にしろ」という声も聞きます。喫煙者としては、大変、肩身の狭い思いをしています。
でも、非喫煙者の皆さん、安心していては駄目です。
是非、「一事が万事」という言葉を思い出してください。
煙草という切り口ではなく、増税という切り口で見てみると、皆さんの周りには危険が一杯あるのです。
「なに、俺は大丈夫だ」と信じている皆さん、ほんとに、大丈夫なのですか。
皆さんは、大丈夫だと思っているあなたの今の環境が永遠に続くと信じていませんか。
それは、勘違いです。
環境なんて、簡単に変わります。
リストラ、倒産、病気、災害、戦争があっても大丈夫なのですか。
突然、奈落の底へ堕ちる危険は、誰にでもあるのです。
それは、数千万人と言われる非正規労働者の誕生で証明されています。
コロナ後遺症で働くことが出来ずに、生活に困窮している人もいます。
貧乏人になって、初めて実感するのかもしれませんが、税や保険料は、貧乏人には大きな負担になるのです。
今の日本社会は、いつ、誰が、新規貧乏人になっても不思議ではありません。
「俺には関係ねぇ」と言える人は一人もいないのです。

では、なぜ、こんな国になってしまったのでしょう。
「国力衰退」で国家運営費用が集まらなくなったからです。
個人でも、企業でも、国でも、必要経費は年々増加するものです。
30年前(1990年)の国の一般会計予算は69兆円でした。2021年度の予算は100兆円を越えました。それだけではなく、何度も、定例的に、補正予算が組まれてきました。
しかし、その間の日本のGDPは0.1%しか増えていません。
増加する必要経費は、借金で賄われてきたのです。
もう、誰一人、借金を返済するというイメージを持っている人はいないと思います。
50年経っても、100年経っても、この借金は返済できません。子供達の時代に、孫達の時代に、昭和・平成・令和の大人達が作った借金は、どう影響するのでしょう。
コロナでも、大盤振る舞いをしました。これは「毒を食らわば皿まで」という心境なのだと思います。
それでも、国家運営は続けなければいけません。
そのためには、カネが必要なのです。
ですから、国が崩壊するまで、増税は続きます。
国民は、ますます、貧しくなります。
私達は、悪循環というループの上にいるのです。
行き着く先は、地獄です。
こんなこと、普通に考えれば誰にでもわかることです。
しかし、誰も、そのことには触れませんし、原因を究明することもありませんので、対策なんて生まれるわけがないのです。
貧乏になるのは国民の皆さんです。
でも、国民は、何も言いません。
ほんとに、我慢強い、「いい人」ばかりです。
ごめんなさい。変人の私には、皆さんが「馬鹿」に見えます。
「そんなこと、変人のお前に言われたくない」と思うかもしれませんが、第三者の目で見ても、例えば外国人が見ても、「馬鹿」という評価は外れていないと思います。もちろん、礼儀がありますので、彼等は「馬鹿」という言葉は使わずに、「不思議な人達」だと言うかもしれませんが、それは「馬鹿じゃないの」ということです。
外国人から見ると、日本人はストイックに見えるそうです。「武士の国は、違うな」なんて思う外国人もいるそうです。それ、勘違いですから。「ふむ、ふむ」「へら、へら」をやっているのは武士ではなく、皆、百姓の末裔なのです。
自分の身は自分で守らなければなりません。これ、人類の基本原則です。
「お上」が守るのは「お上」自身です。「下々」のことは守りません。
これも、当たり前のことです。
皆さんは、自分が「お上」の立場だったら、自分の利益を犠牲にして「下々」を守りますか。
そんなことは、しないと思います。
我慢強くて「いい人」であれば、報われると信じているのかもしれませんが、そんな奇跡は起きません。判定するのが神様か運命なのかはわかりませんが、地獄へ堕ちる人が「いい人」なのかどうかは判定基準に入っていません。必要となる人数が無作為に選ばれるのです。我慢強い人でも、「いい人」でも、区別なく、地獄へ堕ちます。ただ、その人選は、なぜか、貧乏人グループから始まるようです。

私は、国民を糞味噌に言いますが、糞味噌には違いないと思いますが、それでも、今日だけは、敢えて、擁護しておきたいと思います。珍しくて、済みません。
国民の皆さんは、声を出そうとしても、どこに向かって、何に対して、声を出せばいいのかが見つけられません。「じわじわ、ずるずる、何となく」という変化に対しては声の出しようがないのです。逆に、これが、曖昧統治の最も優れている部分です。「曖昧」が尊ばれるお国柄ですから、「下々」の私達は、何事も明確にすることを避ける習慣を持っています。現実を知ってはいけない、「お上」の領域を犯してはいけない、と思っています。もちろん、「お上」も知らせてくれません。それが古くからある曖昧統治システムなのです。何も知らされていない民は、仕方なく「お上」に頼ろうとします。だから、「ふむ、ふむ」も「へら、へら」も不思議ではないのです。
日本人でも、打ち倒す相手が見えている時には、行動します。
近年では、倒幕運動があり、安保闘争がありました。倒幕運動は部分的には成功しましたが、安保闘争は完敗でした。それでも、行動できたのです。
しかし、今は、打ち倒す相手が見えません。
だから、日本人は行動を起こさないのです。
この「じわじわ、ずるずる、何となく」は、大変危険な兆候ですが、何を打ち倒せばいいのかは、全く、見えません。
「じわじわ、ずるずる、何となく」の顕著な事象が、国力の衰退です。
数々の数値を見れば、「国力衰退」は明らかなのですが、数値は数値でしかなく、打ち倒す相手とは認定されません。ですから、「国力衰退」が問題だという意識が持てません。
問題意識が持てないので、原因の究明は行われません。原因の究明が行われないのですから、対策は生まれません。それが、一層、「じわじわ、ずるずる、何となく」を得体のしれないものに替えてしまうのです。
ただ、理屈や風評には左右されないものが一つだけあります。それが人間の直感です。ほとんどの国民が「不安」を抱いていますが、それは、よくわからないが、何となく「不安」だというものです。直感は、無意識にですが、根っ子を見ているのです。
この「じわじわ、ずるずる、何となく」という「国力衰退」に対処しなければなりませんが、「皆さん、打ち倒す相手は国力衰退なのですよ」なんて言っても、行動のしようがありません。国力衰退は徳川慶喜でも岸信介でもないからです。
では、どうするのだ。
どうすることも、できません。
このまま、「じわじわ、ずるずる、何となく」滅びるのを待つだけです。
私の主張では、打ち倒す相手は「曖昧」が作り出した「国力衰退」です。
「はあ、曖昧、何、それ。お前こそ曖昧だろ」
その通りです。これでは、誰も賛同してくれません。
その通りなのですが、それでも、打ち倒す相手は「曖昧」なのです。
ただ、私には、皆さんを説得する言葉がありません。
ここに、限界があります。
どうすれば、いいのでしょう。
残念ですが、お手上げです。


2021-09-03



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子供達の未来のために私達はここにいる [評論]



先月、日本円は、世界一の対外純資産で維持されているという話について書きました。
国際収支の黒字は、今のところ継続されています。
今は、まだ、対外投資額(FDI)は、世界第2位です。
ただ、逆の数値、日本国内へのFDIは、確認はしていませんが、世界196カ国中、196位だと言う方がいます。仮に196位ではなく、50位であろうと100位であろうと、この落差に危機感は持たないのでしょうか。
国内は衰退へ向かい、海外への金貸し業で生計を立てている国、それが日本です。
私の目には、大変危険な状況に見えます。
環境は、必ず、例外なく、変わります。
全般的な世界環境、世界経済秩序、世界商取引環境も変化するということです。
少し長い目で見れば、私達が立っている場所は、薄氷と同じなのです。
中でも、大きく環境変化を起こすものが戦争だと思います。
第3次世界大戦は、必ず、起きると思っている私には、日本の未来が明るいとは思えません。戦争になれば、対外資産なんて、ただの紙屑になります。いや、デジタルの時代ですから紙屑にもなりません。
自力という言葉があります。
最後は、自力が鍵を握ります。
その自力が、年々、低下している国、それが日本です。

私の論理構成の中にあるのが「れば、たら、もし」であることは認めます。
「国際環境が変化す、れば」
「戦争が起き、れば」
全て、未来の話ですから、「れば、たら、もし」です。
逆に。
「国際環境が今のままであ、れば」
「戦争が起きなけ、れば」
これも「れば、たら、もし」です。
私は悲観的な予測をし、皆さんは楽観的な予測をする。
確かに、どっちもどっち、だと思います。
では、「どっちもどっち」だから無視していいのでしょうか。
そうではないと思います。
ここで、国の目的を見てください。
今のところ、そんなものは、ありませんので、目には見えないと思いますが、ここは、無理矢理、想像してください。ここで言う「国の目的」というのは、政治家の口先の言葉のことではありません。国民のコンセンサスを得ている、実のある、国の目的です。
国の目的は、国民生活を守ることです。もちろん、今は、曖昧の中に埋没していて、こんな目的は目に見えていませんが、国民は、「この国に生まれてよかった」と思いたいのです。
「環境が変化したのだから、国民生活が守れなくても仕方がない」で済むのでしょうか。
そうではないと思います。
どんな環境であっても、国は国民生活を守らなければなりません。
それが、国の責務です。
多くの方が、「国民生活を守る」という言葉から連想するのは、弱者の救済だと思います。これは、野党の助平根性から生まれた副作用であり、実現不可能な夢であり、結果に対する対処療法のことです。何度も書いていますが、結果を変えようとする対処療法では問題は解決しません。これまで、対処療法で成功した事例は、世界中探しても見つからないと思います。日本でも、失敗の連続ですし、対処療法の副作用だけが残り、症状を悪化させることのほうが普通です。
「国民生活を守る」という言葉の意味は、弱者を作らないシステムを作るということです。もちろん、完璧なシステムは存在しないと思いますが、少なくとも、努力は、常に必要になります。
そして、それが、国の責務です。
ただ、システムは、システムにすぎません。
システムそのものが何かを生み出すわけではありません。
国民の力がなければ、システムは機能しないのです。
先程書いた「自力」は、国民が作るのです。いや、国民にしか作れません。そう考えれば、国家運営者の仕事は決まってきます。政治家や官僚に国力を生み出す力がないのですから、国力を生み出す国民を支えるのが国家運営者の仕事です。国家運営者は「お上」などではなく、「縁の下の力」として働く立場にあるのです。ところが、「お上」も「下々」も、そうは考えていません。それは、言葉の定義がないからです。
ただ、私は、国家運営者が不要だと言っているのではありません。
国民の力だけではなく、「縁の下の力」も不可欠な存在です。
国の形を歪めている「お上」と「下々」という意識を、是正する必要があると思っているのです。意識改革が起きなければ、日本は、このまま、ずるずると朽ちていきます。
その意識改革に必要になるのが言葉の定義です。
私達は、日々の生活に忙殺されていて、FDIなどという数値を見る機会はありません。仮に、FDIの数値を見たことがあるという人が数百万人いたとしても、1億2000万人の中の、たかが数百万人であり、しかも、ほとんどの人が私のような役立たずの老人であり、「ふむ、ふむ」で終わると思います。そのことを問題視したとしても意味はありません。「餅は餅屋」という言葉があるように、それぞれに専門分野があるのです。
FDIと同じような数値が、山のようにあります。
「縁の下の力」の出番が、ここにあるのです。
そして、私達は、そのために、彼等に仕事をしてもらうために、税金を納めているのです。
全ての人達の力が、全てではないとしても多くの人の力が、この国を作っているのです。だとすると、皆が「自分さえよければ」をやっていたのでは、国は機能しません。
そんなことは、当たり前のことだと思うかもしれませんが、その当たり前が当たり前になっていないから、国が衰退しているのです。
多くの国民が頑張っていると思っています。国家運営者の皆さんの中にも頑張っていると思っている人は大勢いると思います。それでも、国は衰退しているのです。
それは、この国に目的がないからだと思います。
目的があれば、目的を達成したいという意識が普通に生まれます。
衰退する国を救う方法は、目的を持つことから始めるべきだと思います。いや、他に方法はないと思います。
「何のために生きるのか、なぜ、自分は、ここにいるのか」という哲学的な疑問に答はありません。
でも、「子供達の未来」のために、「私達はここにいる」のだと考えてしまえばいいのではないでしょうか。
仮想目的に過ぎないのかもしれませんが、それでも、生きる意味はあると思います。
子供達の未来を守れるのは、環境変化に弱い海外への投資ではなく、環境の変化に強い国内の「自力」が子供達を守ることになると思います。
ここで、以前にも提案しましたが、「なに、それ」という無茶な提案をしてみます。
世界的な食糧不足の時代が来ると言われています。
食べる物があれば、最低限、生き延びることは可能です。
国力衰退は、工業だけではなく、農業や漁業でも進んでいます。いや、農業や漁業は、先行して衰退した業種です。
世界環境が変化した時の最大の課題が食糧です。
農業、漁業へ資金を投入し、技術革新をする時だと思います。
国民を飢えさせることなく、海外への食糧輸出ができる農業大国になることが、日本の生きる道なのかもしれません。

環境は、必ず、例外なく、変わります、と書きました。ここで言う環境は経済環境ですが、私達の生活を破壊する環境変化は経済的な変化だけではありません。
「人口、財政、戦争、災害、疫病」という五大災禍は、私達の生活に直結しています。
コロナで忘れられていますが、地震は私達の生活を大きく変えます。
ここで、2019年7月に書いた、東南海地震と首都直下地震の被害想定の数値を再掲載しておきたいと思います。2年前の数字ですから、今の数字とは違うかもしれません。また、この数値には目に見える被害しか含まれていません。でも、国民の皆さんの生活は、この数値では見えない部分で大きく毀損していることを想像で補ってください。
東南海地震と首都直下地震が同時発生したと考えてください。
それは、同じ場所で、1854年と1855年に連動して発生しているからです。その地震は、安政東南海地震と安政江戸地震と呼ばれています。この地域の地震は90年~150年の間隔で起きているそうですから、必ず、起きる地震だと言われています。

          東南海    首都直下    東日本    倍率

被害総額      150兆円    95兆円   16兆円  15.3倍
死者・行方不明    35万人     7万人    2万人  21.0倍
建物の全壊・消失  250万棟   130万棟   13万棟  29.2倍
被災地域の人口  6000万人  3500万人  750万人  12.7倍
避難者数     1000万人   700万人   50万人  34.0倍
災害関連死       8万人     2万人    5千人  20.0倍

倍率は、東日本大震災と比較した時の、被害の大きさです。
東日本大震災の映像を憶えている方も多いと思いますが、あの東日本大震災が、約20個、束になって、やって来るのです。
被災地にいた人も、被災地にはならなかった人も、それまでの生活が続くとは思わないのではないでしょうか。
皆さんの生活は激変するのです。
その時に必要になるのが、「自力」であり「底力」なのだと思います。
被災地の人達を救援することだけが、国の仕事ではありません。多くの国民が、再び、生活を取り戻せるようなシステムを作っておくことが国の仕事です。ところが、日本の「自力」は、年々、衰えています。国に対して、「本来の仕事をしろ」と言えるのは国民だけなのです。しかし、そんな声はありません。それは、言葉の定義がないからです。
あらゆることが「曖昧」の中にあって、「お上」は「自分さえよければ」をやっているだけで、日本の未来は、子供達の未来は、放置されたままなのです。
このままでいい、とは思えません。
言葉の定義をして、目的と責務を明確にして、システムを作り替え、国民のために存在する国にすべきだと思います。
これは、国民の仕事だと思います。
数字を見てもらえばわかりますが、死者数はコロナの比ではありません。コロナでは、家屋の倒壊や道路の寸断はありませんが、地震では、人命以外の物理的な被害があります。当然、生活基盤を失う人は、桁外れなほど多いと思います。
今の国家運営システムで、コロナで右往左往しているシステムで、巨大地震に対応できるとは、とても、思えません。
国家運営システムを根っ子から変えることを強く推奨します。
あと、「右」とか「左」の議論は意味がありません。「右」も「左」も国民を無視しているという点では同じ穴の狢だからです。国民のためのシステムを作って欲しいと思います。


2021-09-02



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根っからの「下々」根性 [評論]



今日は、多くの国民が、特に、この8月に生まれた、漠然とした「もやもや感」について書きます。
「原則、自宅療養」を堂々と発表する総理大臣の姿を見て、国民は、どう感じたのでしょう。「なんか、ヤバイ」と感じたのではないでしょうか。しかし、日本の国民は、「いい人」ばかりですから、暴動を起こしません。でも、国民の直感は、「なんか、変だぞ」と感じています。庶民の直感は、理屈抜きで、いつの世でも、真実を見抜いていると思います。
残念ですが、「いい人」が、「大人しい人」が、「従順な人」が、「寛容な人」が幸せを掴めるという法則はありません。ここが、大変難しいところなんですが、危機的状態になっても、日本人の「下々」根性が、2000年かけて刷り込まれた「いい人」「大人しい人」「従順な人」「寛容な人」であらねばならないという意識が、自分に「動くな」と指示します。
結果的に、国民の皆さんのこの「下々」根性が、この国を壊します。コロナなんて大したことではありません。でも、コロナでさえ対峙できない皆さんが、これからやって来る国家崩壊に対峙できるとは思えません。いつでも、地獄へ堕ちるのは庶民だと決まっています。自分の身は自分で守るしかありません。「いい人」でいて、地獄に堕ちていたのでは間尺に合いません。でも、皆さんは、自分を守ろうとしていません。これを自業自得と言うのです。

8月に、政府のコロナ対策基本方針が変更になりました。
突然で、驚きました。
その変更主旨は。
感染爆発という局面を迎え、このままだと医療崩壊が起きるから、「入院を制限」しようというものです。いつもの結果を書き換える方式を、結果が出る前にやれば、何とかなると考えたのでしょうか。理解に苦しみます。この「原則、自宅療養」という方針は、国民には、「自宅療養で死んでください」と言っているように聞こえてしまいました。
これまでも、医療体制の拡充が議論されてきましたが、実現しませんでした。
そのことを、多くの国民が知っています。
医師も、政治家や学者と同じ、お偉い先生方という種族です。「お偉い先生方の利益を守るために、国民は、自宅で耐えてください」と言っているような方針変更なのですから、大人しい国民の間にも動揺が走りました。もっとも、走ったのは動揺だけです。
医療が崩壊する危険はありますが、自宅療養だって崩壊する危険があります。
だとすると、医療崩壊で医師会に恨まれるよりは、自宅療養崩壊で国民に恨まれることを選択したということなのでしょうが、国民には納得してもらえないと思います。
有事における医療システムの不備は、国と医療界の責任であり、国民に責任を取らせるのは少し筋が違うと思います。いつものことですが。
確かに、医師会は利権集団であり、自民党にとっては超強力な圧力団体ですが、今は、有事であり、平時よりも国民の協力が欠かせません。従来の常識を守るのは、いかがなものかと思います。
医療は、日米安保と同じような構図があります。
アメリカに守ってもらわなければ、日本は守れない。だから、アメリカの要求は呑むという構図はよく知られています。
医師会に守ってもらわなければ、国民は守れない。だから、医師会の要求は呑む。
どちらも、国民の命を人質に取られているのですから、要求は呑まざるをえないと思いますが、日本政府が外国政府を制御することは不可能ですが、有事に限定すれば、国内の医師会を制御することは可能なはずです。
どうして、そうしないのでしょう。
国の目的と国の責務が曖昧だから、利権集団の利益が優先されているから、「お上」優先の国だから、国民が「下々」のままだから、こうなっていると思います。
「国の責務は、国民生活を守ることです。これは、絶対命題です。そのために、医師会は犠牲を払ってください。それが、医師会の責務です」と言えば済むことです。
銀行や酒類卸問屋に圧力をかけて、飲食店をコントロールしたいという政府の対応も褒められた施策ではありませんでしたが、今回の基本方針の変更のほうが、国民を軽視しているという点では、はるかに悪質です。
この基本方針の変更は、衆議院選挙に大きな影響を与えると思います。
国民の皆さんは、確かに「いい人」ばかりですが、文句も言いませんし、デモも暴動も起こしませんが、それでも、自民党に投票しようという国民は減ると思います。医師会と心中するという菅さんの覚悟は裏目に出る可能性が高いと思います。自棄になった国民の、ストレスの発散場所が選挙になれば、自民党に厳しい結果になると思います。
4月の「大阪の悲劇」で実証されたような事態が次々に起き、自宅で死亡する人が多数出てくれば、その非難は政府に向かいます。これは、とても危険な賭けだと思います。
厚労省は「自宅療養死は把握していない」と言っていますが、すでに、「大阪の悲劇」を越えているものと思います。
本来であれば、医療崩壊が起きないように医療体制を変更することが先だと思うのですが、そうは、なりませんでした。
これは、医師会の力と国民の力の差が、影響したものと思います。
政府にとって、菅さんにとって、1億2000万人の国民の存在は、「下々」に過ぎず、数百万人の医療界の存在よりも低いということだと思います。
ただ、この国は、これまで、このやり方が当たり前なこととしてやってきました。
今回も、国民の健康と命よりも、医師会の利益を優先させるという判断をしたということは、菅政権が自分の利益を優先させたということです。今までも、「お上」の利益最優先という方程式で運営されてきた国ですから、何の不思議もありませんが、ここまで、自分達の利益をあからさまに前に出すやり方は、どこかで破綻すると思います。多分、官僚主導で決められた方針ではないと思います。官僚主導であれば、「お上」の利益最優先という基本理念は変わりませんが、国民にはそれが見えない形にする工夫がされていました。今回は、それが、丸見えになってしまったのです。菅さんの独り相撲のかもしれません。
菅さんの性格を知っているわけではありませんが、菅さんは、とても真面目な方なのだと思います。わざわざ「自宅療養」なんて宣言しなくても、勝手に自宅療養になりますし、「頑張ってます」と言っておけば責任転嫁もできます。これまでの総理大臣であれば、余計なことは言わなかったと思います。
「これは、ヤバイ」と思ったのは、選挙を間近に控える自民党の議員です。
自民党が、政府に撤回するように申し入れました。自民党の申し入れの主旨は、「選挙に不利にならないような文言に出来ないのであれば、撤回しろ」ということのようです。国民の代表だと胸を張っている国会議員の先生方にとっては、「自宅療養」が問題なのではなく、選挙に悪影響が出るのが問題なのです。自分の選挙のことしか考えていません。
自民党の議員は、今のままでも、美味しい国会議員という身分を失う人が数十人出るだろうと言われているのです。何とか当選するだろうと考えていた議員も、これは「ヤバイ」と思ったとしても不思議ではありません。
もしかすると、政権も失うかもしれません。
近年、ここまで国民を愚弄する政策を打った政権はありません。国民が、どれほど「いい人」だったとしても、いくら何でも、反抗する人は出てきます。自民党議員は「マジ、ヤバイ」です。引退表明をする自民党の老政治家が多くなったのも、風向きを見て、「晩節を汚したくない」という意識があったものと思います。
仮に、何とか当選しても、野党になれば、国民よりは恵まれた利権はありますが、与党の議員に比べれば、利権は「無い」に等しいものになってしまいます。
ところが、このような構図が、いつでも「お上」が得をするという構図が、間違っているのですが、国民は何も言いません。ほんとに、「いい人」です。
全体の構図を見てください。国民の姿が見えません。曖昧という空気に溶けていて、国民の姿は見えないのです。国民は、人間ですらないんでしょうか。デモや暴動が起きたというニュースもありません。国民の皆さんは「へら、へら」と笑うだけです。選挙で自民党への投票をやめた程度ではこの状況は変わりません。だって、政権交代をしたら、また、あの悪夢の旧民主党政権が誕生するのです。国民が、自分の生活を、健康を、命を守りたいのであれば、言葉の定義をして、新しい政治集団を誕生させる以外に選択肢はないと思います。

さて、国民の皆さん。
利権の力関係で運営されている国が、国民の利益になるのでしょうか。
私には、そうは思えません。
これまでも、「一事が万事」「氷山の一角」という言葉を何度も使いましたが、時々、このような現象が表に出てくることがあります。
それでも、国民の皆さんは「ダンマリ」です。
「ふむ、ふむ」と頷いている人がいます。
意味不明な笑顔を見せている人もいます。
「俺には関係ねぇ」と言っている人もいます。
「下々」は「お上」に逆らってはいけないと信じています。
国は、そんな国民を、自分の利益を犠牲にしてまで守らなければならない、とは思わないのではないでしょうか。
国民は、「へら、へら」と笑っている場合ではないと思いますが、どうなのでしょう。
野党の議員は、大騒ぎをするのでしょうが、それは、あくまでも、自分の利益のためであり、国民の利益を求めているのではありません。野党の議員も、自民党の議員のように、自分も美味しい果実を食べたいと思っているのです。もちろん、今の国家運営方式では、それが悪だとは思いません。私が同じ立場に立っていれば、同じことをしたと思います。つまり、システムそのものが間違っているのです。
野党が政権を取れば、この国の衰退速度は加速します。国民の皆さんは、意図せずに、「衰退」という悪魔に手を貸すことになるのです。それは、与党に頼っても、野党に頼っても、私達は地獄へ堕ちるということです。この窮地を救えるのは国民だけです。しかし、国民は、誰一人、そのことに気付いていません。
こんな国で、「なあ、なあ」「まあ、まあ」という曖昧で、自分で自分を誤魔化している国で、国民は頑張れるのでしょうか。
そうではないと思います。そのことが「国力衰退」を呼び込んでいるのだと思います。
この国は、定義がないために、見え難くなっていますが、未だに封建制度の国です。国民に主権はありません。「お上」と「下々」の世界のままです。まだ、お代官様と越後屋の世界なのです。泣きを見るのは百姓です。
残念ながら、「曖昧」を絵に描いたような民主主義風王政並立封建制度の国では、今のあり方は認められます。この国は、今でも、「お上」と利権集団のためにある国なのです。
国体を変えなければ、この状況は変わりません。
今のままでは、国民が頑張る動機は見つかりません。
だから、国が衰退しているのです。
私が、革命を推奨しているのは、そのためです。
民主主義風王政並立封建制度の国ではなく、民主主義国家になる必要があります。
そのためには、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義が必要です。
ところが、国民は、国体を変えるという意識を、全く、持っていません。
「へら、へら」と笑っているだけです。
たとえ、貧乏くじを引かされたとしても、どんな仕打ちを受けても、我慢することが優先します。根っからの「下々」根性が、そうさせるのです。
私は、国民の皆さんに意識を変えてくださいとお願いしています。
「お上に逆らうなんて、お前、馬鹿か」と言われると思いますが、それでもお願いします。
もちろん、私も、本音では、国民の皆さんの「下々」意識が変わるとは思っていません。
ですから、この国は崩壊すると信じています。いや、現に、崩壊し始めています。
それでも、何とか、一矢報いたいとは思いませんか。
無駄な抵抗かもしれませんが、皆さんに立ち上がって欲しいと思っています。
それは、子供達のために、未来の国民のために、私達は自分の責務を果たすべきだと思うからです。

今回のような方針変更は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」というシステムでは、よく起きることです。国民が「いい人」の国では、政府は何をやっても許されます。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、非常時の対応ができないことを、コロナが証明してしまったのです。ただ、そのことに、未だに、誰も、気付いていません。ただ、国民の皆さんには、何か得体のしれない不安があります。皆さんは、間違っていません。
多くの方が認めているコロナ対応のゴタゴタ感は、国家統治システムの不備によるものなのですが、そのことを指摘する方は、まだ、いません。何とか、枝葉の手直しで乗り切ろうとする空気しかないように見えます。でも、無理だと思います。これだけの犠牲を払ったのに、私達はまだ気付けないのです。
菅さんを擁護するつもりはありませんが、菅さん個人が悪いのではありません。国のシステムが間違っているのです。このシステムであれば、誰がやっても同じことです。そのことに、いい加減、気付くべきだと思います。

話題は変わりますが、恐ろしい記事を読みました。
コロナ後遺症の記事です。世界では、Long COVIDと呼ばれています。
まだ、医学的な検証はされていませんし、本格的な統計調査もできていないようですが、このコロナ後遺症が、もしも、最悪の想定に近づいた時には、気候変動問題を凌駕するような、世界的に大きな課題になる可能性があると思います。
世界のコロナ感染者は2億人を超えています。
コロナに罹患した人は、無症状の人、軽症の人、中等症の人、重症の人、死んだ人に分類されますが、死んだ人を除き、罹患した人は誰でも後遺症に苦しむ可能性があると言われています。データはありませんが、仮に、1割の人が後遺症で苦しむとすると、2000万人がコロナ後遺症という新たな病気に罹患することと同じ意味になります。
もっと厄介なのは、まだ、何も確定的なことは明らかではありませんが、今のところ、治療法がないことです。それは、コロナウィルスにより、細胞が破壊されるからです。人間の細胞には、一度破壊されると、生まれ変わらない細胞があります。もしも、治療法がないのであれば、コロナ後遺症は難病(不治の病)に指定される病気です。
京大の山中教授の再生医療が一般化するのを待つしかありません。
これは、この1年半で、2000万人が難病に罹患したということです。
何日、何年、後遺症の症状が出なければ安心だというデータもありません。
症状は出なくても、ウイルスは人間の体内で生き続けると言われています。それは、スピードは別にして、細胞が死滅していくということです。それ以前に、ワクチンに感染予防の効果は期待できないということは、実証され始めています。コロナとの闘いで負け続けている私達ですが、コロナとコロナ後遺症という2つの病気と闘う必要があるのです。
コロナは、一時的に症状は治まるのかもしれませんが、コロナ後遺症は、不治の病なのです。
もしかすると、必要なのはワクチンではないのかもしれません。コロナウイルスが人間の体内に入り込む前にウイルスを死滅させる何かが必要なのかもしれません。そんなことが可能なのかどうかはわかりませんが、コロナ対応を根底から変更する必要があります。
コロナから解放される日がいつなのかは、まだ、誰にもわかっていません。いや、解放される日は、永遠に来ないのかもしれません。
と言うことは、コロナ後遺症に罹患する人が感染者の何割になるのかも、今は見えていないのです。仮に1割としても、感染者が10億人になれば、後遺症患者は1億人です。
ウイルスは今後も変異を繰り返し生き残ります。それは、コロナウイルスと人間が共存するということです。だとすると、感染者がゼロになることはなく、コロナ後遺症という難病患者も増え続けるということです。
もしかすると、コロナウイルスは人類を絶滅させるウイルスなのかもしれません。既に、人類の生存を賭けた最終戦争が始まっているのかもしれません。


2021-09-01



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