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従順・忍耐という責務 [評論]



この文章を書いている時点では、衆議院選挙の投票日は決まっていませんが、衆議院選挙が間近に迫ってきました。ポストに政党のチラシが入るようになりましたが、これは、選挙という儀式が始まる触れ太鼓のつもりなのでしょうか。
政党支持率を見ると、自民党支持は30~40%ですが、「どうしても、自民党」という人は10%以下だと思います。昔、民主党政権が誕生した時のことを見れば、世論調査と実際の投票行動が違うことは明らかです。立憲と共産を合わせても10%です。それ以外の政党を支持する方が10%だとしても、70%もの人が無党派なのです。この70%の国民は、投票先がないために、風で投票するのです。風さえ吹けば、立憲・共産政権は夢ではありません。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界で生きている私達には、「これこそは」という根拠がないために、風に頼ることしかできません。いや、「お上」も「下々」も、皆で「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっているのですから、国家運営を任せたいと思える政党は存在しようがありません。
国民の皆さんは、なぜ、新しい選択肢を作ろうとしないのでしょう。
皆さんには、与えられたものしか、選択肢はないのですか。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」でいいんですか。
最終責任を取るのは、皆さんなんですよ。
しかし、国民の皆さんは、動こうとしません。
それは、国民の皆さんに、自分が主権者だという自覚がなく、自分達は「下々」に過ぎないと思っているからなのではありませんか。
この国は、近い将来、必ず、ドツボに到達します。これは、「預言」でも「妄言」でもありません。トレンドが、そうなっているのです。しかし、「他の」「誰か」のせいではありません。主権者である国民の皆さんの自業自得です。

さて、皆さんは、投票所へ足を運びますか。
無党派の皆さんは、確信を持った票を投ずることができるのでしょうか。
私は、今度の選挙では、投票所へ行かないと思います。
年寄りの私には、投票所のある小学校までの階段が負担になるという理由もありますが、投票用紙に書く名前が見当たらないことも、理由の一つです。
以前にも書きましたが、白票が有効票になるのであれば、老体に鞭打って階段を登ってもいいと思います。
今回の選挙では、多くの国民の皆さんが苦慮することになると思います。
60点の候補者と70点の候補者から選ぶのではなく、6点の候補者と3点の候補者から、どこかの選挙区では、1点の候補者と1点の候補者から、選ばなくてはならないのです。これは、苦しい選択です。
私は、国民が言葉の定義をすることで、新しい政治集団を作りましょう、という提案をしていますが、このブログ以外には、そんな気配は微塵もありません。ほんとに、不思議です。
ですから、既存の、禄でもない候補者の名前を書くしか選択肢がないのです。

せめて、白票を有効票にした選挙制度に変えて欲しいと思います。
以前に書いた選挙制度改革案を、再度、書きたいと思います。
もちろん、実現する可能性は、ゼロです。それでも、問題提起にはなると思います。
先ず、議員定数という枠を、最大議員数に解釈変更します。
現在は、票数にかかわらず、最大得票数を得た候補者が当選します。
改革案では、白票を有効票として数え、有効投票数の一定割合の票数を得た候補者を当選とします。当選する人が一人もいない選挙区が誕生します。
同時に、一定の投票率がない選挙区では、何票獲得しても、当選にはなりません。
政治不信が強ければ、白票が多くなりますし、投票率も低くなります。
白票が多くなれば、投票率が低くければ、当選者が少なくなります。
国会議員数が減れば、国家運営はできないのでしょうか。
そんなことはないと思います。
政治全体で、白票を減らそうとするインセンティブが働きます。選挙が儀式ではなく、政治家と国民の闘いになり、緊張感が生まれます。

同時に、衆議院と参議院の役割を変えなければなりません。
衆議院と参議院が、同じようなことをする必要はないと思います。
衆議院は、国政に専念し、参議院は、地域の代弁をする場所にすればいいと思います。
国政と地域の利益獲得を、同じ国会議員がやれば、どうしても、自分の利益、地域の利益に引っ張られて、全国民のための政治ができなくなります。
この程度の選挙制度改革をすれば、少しは、国家運営が改善される可能性はあります。
もちろん、改善ですから、それほどの効果は期待できません。
それでも、やらないよりは、やったほうがいいと思います。

もちろん、実現の可能性はゼロです。
説明するまでもなく、実現はしませんが、実現しない理由を知っておくことは意味があると思いますので、その理由をみてみましょう。
法律を変える権限を持っているのは、国会議員です。
法律を変えたら、国会議員の数は、減少する可能性があるのです。いや、間違いなく、国会議員数は減少すると思います。普段、投票をしない若者も、白票なら投票します。
国会議員が、そんな法案を出すことはありません。
誰も気付いていませんが、議員定数は、国会議員の既得権益です。
また、衆議院議員が、国政に専念することになれば、地域とのつながりは薄れ、貢物が減ってしまいます。衆議院議員は美味しい職業ではなくなるのです。
今の選挙制度は、国会議員による、国会議員のための、制度なのです。
国会議員が既得権益を捨てることはありません。
国会議員にとっては、自分の利益のために、国会議員であり続けることが、最大の目的です。有権者は、二の次三の次でもいいのです。これが現実です。
ですから、白票を有効票とする選挙制度改革案は、法案として提出されることもなく、国民の不信感は制度的に無視されることになります。
白票が大議論になったという話も聞きません。
国民の皆さんは、「ま、こんなもんだろう」と納得しています。
ほんとに、「いい人」です。
「下々」は、貧しくなっても、無視されても、慣れていますので、反発しません。
その上、「お上」は「自己責任でお願いします」と言ってきます。「下々」は「ふむ、ふむ、自己責任なんだ」と納得してしまいます。涙が出るほど「いい人」です。
非正規労働者は、総数で見れば、メジャー団体のはずですが、非正規労働者が立ち上がったというニュースはありません。皆さん、耐えることが自分の責務だと思っているのです。

この国に、国民が何かを能動的に行動するシステムは存在していないのです。「お上」の御慈悲で、「下々」でも、選挙という儀式に参加させてもらっていることに感謝しなければいけないのかもしれません。
これは、主権者としては、いかがなものかと思いますが、「言葉の定義」が存在していませんので、そんな議論はありません。
現行システムで、国民が国政に参加できる権利は、選挙権だけです。
この選挙権が、国家運営に反映しているのでしょうか。
いいえ、立候補者と、当選した国会議員は、選挙を境に別人格になります。誰に一票を投じても、同じことなのです。見事なほど例外はありません。
もちろん、国が真逆なことをやっているとは思いませんが、国民が閉塞感や不安感や不信感を持っているのは、紛れのない事実です。それは、民意が国家運営に反映していないことを示しているのではないでしょうか。
今の国家運営システムを見ていると、国民の出る幕はありません。
「デモがあるじゃないか」と思っている方は、もう、いないのではないかと思います。
1960年代に、日本最大のデモがありました。
今では、安保デモという呼び名を憶えている方も少ないと思います。
当時の若者は、かなり、盛り上がりましたが、各地の大学は、それなりに混乱しましたが、あのデモで、何かが変わったのでしょうか。
政府は、あさま山荘の攻防で、学生運動を制圧することに成功し、デモの原因になった日米安保条約は、今では日本の基軸と言われる時代になっています。
その後、左翼の方の努力により、小規模なデモは行われましたが、次第に少なくなりました。まだ、労働組合に力があった時代は、管理職以外は組合員ですから、私も、強制的にデモに参加させられ、国会議事堂前で、機動隊の前を歩いた経験があります。しかし、残ったのは、無力感だけだったように思います。
今は、デモで何かを変えられるなんて信じているのは、左翼の、それも、ごく一部の人達だけだと思います。
では、デモ以外に、私達に何か手段があるのでしょうか。
ありません。
今では、選挙が唯一の意思表示のチャンスですが、国民のための選挙ではなく国会議員のための選挙をやっているのですから、国民は何もしていないのです。儀式へ参列しているだけです。
それでも、そんな国家運営でも、国民は「ふむ、ふむ」「まあ、仕方ないか」と頷いています。「下々」の鏡のような国民ばかりで、政治家の先生方は、我が世の春を謳歌しているのです。2000年間、「お上」による「お上」のための国家統治という日本の構図は、何一つ変わっていないということです。
国民の皆さんは、現状に満足しているのですか。
今の日本社会は、夢の楽園なのですか。
非正規労働者の皆さんは、「非正規になれて、嬉しいです」と言っているのですか。
貧困家庭の皆さんは、「神の与えられた試練に感謝します」と言っているのですか。
虐待されている子供達は、喜んで、笑っているのですか。
収入の増えない皆さんは、「もう、充分、給料貰ってますから」と言っていますか。
違いますよね。皆さん、我慢しているだけです。
国民の利益を代弁してくれる政治集団が存在していないから、選挙権を行使しても、何も変わりません。「我慢」を通り越して、既に、諦めているのではありませんか。
与党も野党も、既存の政治集団には、何の希望も持てない国なのです。
だから、国が衰退しているのです。
国力は、どんどん衰退しているのに、国民は、拗ねた子供のように、「俺には関係ねぇ」と言っています。逆の側面から見ると、偽物の民主主義を作ることに成功した「お上」の努力が素晴らしかったという見方もできます。その大きな力になったのが歴史と伝統だと思います。多くの方が、歴史と伝統こそが、この国の守護神だと考えてきたと思いますが、今、歴史と伝統は、この国を壊そうとしています。
ただ、国民の皆さんが、それでいい、と思っているのですから、どうすることもできません。

国民の皆さんは、閉塞感も不安感も不信感も持っています。
「ヤバイかも」「どうなるのだろう」と思っている国民は多いと思います。
しかし、不思議なことに、「こうしよう」とか「何とかしなきゃ」とは思いません。
私達は、これまで、2000年間、そんなことをしたことがないのです。
これが、歴史と伝統の重みなのだと思います。
日本の皆さんは、2000年間、そして、今も、同じことをやっています。
このままだと、将来、食えなくなる日が来るから、「何とかしよう」という行動はとって来ませんでした。
それは、私達の歴史を見れば、歴然としています。江戸時代の百姓の行動を見てください。実際に、食えなくなり、餓死者が出るまで我慢して、次々と餓死者が出ることが見えた時に、初めて、一揆を起こしたという歴史があります。
多分、今度も同じことをするのでしょう。
一にも我慢、二にも我慢、を優先させるのが、自分の使命だと刷り込まれて2000年経ったのです。これは、DNAに組み込まれるほどの時間だと思います。
昔の百姓と、今の国民は、同じDNAを持っています。
ですから、私が、「皆さん、立ち上がってください。このままだとヤバイですよ」なんて言っても、聞く耳を持ってくれません。
焦燥感と不安感を持っているということは、国民の皆さんにも、「ヤバイ」ということはわかっているのだと思います。
それでも、歴史と伝統には勝てません。
私は、この国には目的と責務が必要だと主張しています。
では、今、国民には責務が全く無いのでしょうか。
私は、今でも、国民の責務あると思っています。
皆さんは、国民の責務があるとしたら、それは何だと思いますか。
明示されていませんので、国民に責務はないように見えますが、国民には2000年間不変の責務があり、皆さんはそれを守っています。
それは、大昔から継承されている責務であり、時間をかけて作られ、余りにも日常に溶け込んでいるために気が付きませんが、責務はあります。
しかも、昔は、刀や銃で強制されていましたから、目に見える責務でしたが、今は、空気が強制していますので見え難くなっています。
その責務とは、「お上」に対する「従順」であり、現実に対する「忍耐」です。2000年間、ずっと、です。
「お上」にとっては、こんな美味しい責務はありません。本来、この「従順」と「忍耐」は、人間が持っている宝物であり、自分のために使うものであり、お殿様や独裁者に強要されるものではありません。
空気は、土下座を強要することはありませんが、無礼討ちや問答無用の投獄はありませんが、「お上」に対する反抗は許しません。誰が了解したのかは不明ですが、2000年という空気が生み出した暗黙の了解があり、国民は勝手に自己規制しているのです。それを、国民は、忠実に守っています。今も、そうです。封建時代の「お上」と「下々」の関係は、刀や銃が空気に変わっただけで、何も変わっていないのです。
国民の皆さんは、本当に、感心するほど、辛抱強い。それは、2000年かけて刷り込まれた責務が、未だに、生きているからです。外国人から見れば、「アンビリーバブル」なのです。日本の皆さんは、この「アンビリーバブル」や「ストイック」を賞賛と受け止めているようですが、そうではありません。彼等は、実際に驚いているのです。
私達は、一見すると、人間に見えますが、実は、「お上」に飼われている家畜なのかもしれません。いや、忠犬ハチ公なのかもしれません。
皆さんは、ほんとに、「いい人」です。「お上」にとって、掛け値なしに「いい人」です。
皆さんは、無意識だと思いますが、「従順」「忍耐」という責務を守るために、想像力を封印しているのです。
多分、皆さんが良民で、私が不良国民、なのでしょう。皆さんが、私を変人だと言うのは、私が「従順」「忍耐」を否定しているからかもしれません。
皆さんが、このブログを読んで不快になるのは、「お上」に対する「従順」や「忍耐」という責務を忘れた不良国民に、言われたくない、と思っているのかもしれません。
皆さんの気持ちも理解できます。
でも、ドツボにはまるのは、皆さんなのです。
その上、良民の皆さんは、太っ腹なのだと思います。いや、歴史と伝統は、太っ腹も推奨していますので、歴史と伝統に忠実だということなのかもしれません。「下々」が太っ腹であれば、とことん我慢してくれるのですから、「お上」は喜んでくれます。
でも、日本国民の背負っている責務は、全て、「お上」の利益のための責務です。
私は、小心者ですから、ドツボにはまるのは嫌です。
まさに、私は「非国民」と呼ばれてもいいような不逞の輩なのでしょう。
でも、皆さん、ほんとに、それでいいのですか。
それとも、皆さんは、マゾヒストなのですか。苦しいことが快感なのですか。
そうであれば、私のやっていることは、余計なお世話です。
でも、1億2000万人全員が「エム」だとは思えません。
だとすると、やはり、歴史と伝統の力なのだと思います。
私は、2000年という時間の重みに闘いを挑んでいるようです。
勝ち目はありません。
その通りなのですが、私は変人ですから、たらたら文句を言いながらも、続けることになるのでしょう。ほんと、身の程知らずの、馬鹿な奴です。


2021-10-04



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