SSブログ

頑なに変わろうとしない国民 [評論]



9月は自民党総裁選挙一色になりました。
これほど盛り上がった自民党総裁選挙は久しぶりです。
たとえ、茶番劇だとしても、ストレスを抱えている国民の皆さんにとっては、面白いワイドショーの一つになったのではないかと思います。
色々な方が、色々なことを言います。
次の日本の総理に、自民党の総裁に、色々な注文を出します。
中には、候補者を名指しで、「あいつは、ここが駄目だ」「こいつは、何、考えているのだ」とダメ出しもします。
ま、いつものことだと思えば、それでいいのでしょうが、茶番にしか見えません。
中でも、心配なのは、野党です。
格段に意識の低い人達、それが野党の皆さんです。野党の皆さんの意識の低さは、群を抜いています。「欲」が絡むと、ここまで意識低下をおこす人間を見るのは、決して、楽しくありません。確かに、他党の権力闘争なのですから、「俺には関係ねぇ」と言うことはできます。そこが、意識の低さなのです。なぜ、他党の権力闘争をチャンスに変えないのでしょう。ほんとに、不思議です。
国民の耳目は、自民党に集まっています。
禄でもない議論しか出来ていないのに、国民の関心は自民党総裁選挙なのです。
野党の中に、「おい、チャンスだぞ」と捉える人はいないのでしょうか。
自民党総裁選に埋没することを恐れた野党は、矢継ぎ早に政権構想なるものを発表していますが、国民の関心は、その政権構想に向かいません。
多分、チラリとは見るのでしょうが、視線は、すぐに自民党総裁選に戻ります。
立憲民主党の政権構想を見ると、自民党の過去の失政を追求することとバラマキが、大きな柱になっています。自分達が反対票を投じたことを正当化したいという、器の小さな政党に見えます。過去ではなく、将来の国民生活をどうするのかを、野党の主要テーマにしないで、国民の共感が得られるのでしょうか。これでは、国民のための政党ではなく、自分達の権力を優先した、第2自民党にすぎません。
政党支持率では、自民党の支持が増えただけです。毎日のように自民党総裁選がテレビで流れているのですから、野党にとっては不利です。野党には、自民党総裁選を捻じ伏せるほどの戦略が求められているのです。簡単ではありませんが、本気になれば、できるはずです。
なぜ、自分達の政権構想が政権構想になっていないことに気付かないのでしょうか。
私達が政権を取れば、国民の皆さんの未来はこうなります、という構想を出さなければ、政権構想の意味がありません。バラマキ政策も政策の一つだと、いや、唯一の政策だと思っているようですが、バラマキは一時的なカンフル剤でしかありません。
「自民党だって、そんな構想出していないだろ」と言うかもしれませんが、だから、チャンスなのです。
野党の目的は政権交代だそうです。
双六であれば、政権を取れば「上がり」です。もう、やることはありません。
政権交代は、手段であって、国民生活を守ることを、子供達の未来を守ることを、目的にしなければなりません。だったら、その構想を示して欲しいです。ところが、野党は、バラマキ政策しか持っていません。バラマキ政策では、国民は救えません。そんなことも、理解していないのでしょうか。
野党は、自民党総裁選で総理大臣の顔を変えても自民党政治は変わらない、と言います。
では、与党という顔を、野党という顔に変えれば、何が変わるのでしょう。
何も変わらないと思います。
国民にとっては「お上」の顔が変わるだけです。
「これに反対します」「この責任を追及します」という政権構想で、どうやって国を運営していくのでしょう。安倍の首を取ったら、国民生活は守れるのですか。
これでは、反対する対象である自民党が存在しなければ成り立たない構想です。立憲民主党の幹部の方は、「政権批判が私達の仕事だ」と胸を張って言います。私には、野党の皆さんは、コバンザメにしか見えません。
皆さんの政権構想には、国民の未来や、子供達の未来はないのですか。
自民党が提示できていないのは、皆さんのチャンスなのですよ。
与党も野党も、仲良く、重箱の隅に安住しているから、国民という存在そのものが見えなくなっているものと思います。国は、国民のためにあるのであって、政治家のためにあるのではありません。

言葉の定義の欠如は、あらゆる場所で影響しています。
何らかのシステムを構築する時に、必要不可欠なものが、その目的と各要素の定義だと思います。目的のないシステムは存在しませんし、そのシステムに影響する諸々の要素が定義されていなければ、システムは使い物になりません。これは、専門知識などではなく、一般常識だと思います。
しかし、日本の国家運営システムには、その目的と定義がありません。ですから、そもそも、日本には、国家運営システムそのものがないのです。いや、システムらしきものはありますが、それは、どのようにでも解釈できる「なあ、なあ」「まあ、まあ」という不思議なものです。私は、それを民主主義風王政並立封建制度と呼んでいます。この国は、古来より、「お上」による、「お上」のためのシステムで運営されてきました。少しずつ形は変えてきましたが、その根っ子は変わっていません。それでも、なんとか、運営できてきました。
その点では、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は優れものです。
しかし、それも、ここまで国力が衰退すると、限界だと思います。

この文章を書いている時点では、自民党総裁選挙の勝者は決まっていません。ただ、誰が勝者になっても、自民党は変われないと思います。
自民党の総裁候補として立候補した四氏の主張を見てください。
これまでの自民党の足らざる部分を、無視してきたことを、列挙しています。
どの候補も、「国民のための政治」「国民政党の自民党」「国民に寄り添う自民党政治」を強調します。これは、これまでの自民党と違いますよ、と言いたいのでしょうが、裏返せば、彼等は、自分達が国民を無視してきたことを知っているのです。選挙の時にだけ出現する現象であり、常套手段でもあります。
「国民」という言葉を強調しますが、定義はしません。
彼等の言う「国民」って、誰の事ですか。民間の利権団体に属する人達も国民ですし、献金をしてくれる富裕層も国民です。「国民の声を聞く」という意味は、これら特定の国民の声を聞いても、国民の声を聞いたことになるということです。それが、自民党政治です。
一般庶民が、「俺達の声も聞いてくれるんだ」なんて思うと、また、失望するだけです。
もちろん、野党も同じ考え方をしています。彼等にとっては、左翼おたくの市民が市民であり、私達は市民とは思われていません。応援してくれ人も、そうではない人も、等しく国民だという意識は持っていません。一般庶民は、どちらからも無視されています。この国は、誰のための国なのでしょう。全ての国民のための国ではないのですか。政党の利益にならない国民は、国民ではないのでしょうか。これも、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義がないためだと思います。
自民党政治は、これまでも、国民を誤解させ(国民が勝手に誤解したと言っていますが)、それを利用するというやり方をやってきました。非常に上手です。今回も、国民という言葉が頻繁に使われますが、自民党が定義する国民と、一般国民が考える国民という定義は同じではありません。自民党議員が言う国民とは、自分の利益に貢献してくれる国民が、国民なのです。私達、一般庶民は、彼等が定義する国民の中には含まれていません。私達は、そもそも、国民ですらないのです。何度も騙されますが、それでも、私達は騙されるのです。それは、一般庶民が「いい人」の集まりだからです。
「国民」とか「子供」とか「弱者」という言葉も多発されます。これも、これまで、いかに「国民」とか「子供」とか「弱者」を無視してきたのかということの裏返しです。
彼等は、選挙の時だけは夢を語るのです。言葉にしたからと言って、実現するとは限りません。いや、そもそも、実現する気は、ないと思います。あくまでも、夢ですから。夢は、語ることに意味があるのであり、実現するかどうかは、どうでもいいのです。
彼等にとっての現実は、自分の利益です。
もちろん、夢を語ることは必要です。でも、これまでの自民党も、同じことをやって来ました。自民党が語る夢で、庶民が幸せになっているのですか。そうではありませんよね。自民党にとって、夢は夢であり、現実は現実なのです。衆議院選挙に向けて、国民向けの夢を語りますが、新政権が発足すれば、直ちに、現実路線に、自分達の利益の最大化という現実路線に舞い戻ります。これが、彼等が考えている選挙なのです。

この現状を見れば、誰が総理大臣になろうが、どの党が政権党になろうが、国民は、特に一般庶民は、救われないということだと思います。
国民には、「第一駄目党」と「第二駄目党」しか選択肢がないのです。
政党支持率を見てください。無党派層が最大です。自民党支持層は、数字は大きく見えますが、風次第でどちらへでも動く浮遊層です。野党の支持者は、どの野党も、全て一桁の支持しかありません。国民の皆さんは、意識しているか意識していないかは別にして、選択肢がないことを知っているのです。
でも、日本の皆さんは、与えられたものしか選択肢はないと信じています。
自分で選択肢を作ろうという発想がありません。
この2000年間、私達は、「自分で何とかする」という実績を持っていません。
じっと「我慢」することが、国民の責務だと信じているのです。
ほんとに、健気で、いい人達ばかりです。
私は、国民が変わらなければ、この国は変われないと何度も書きました。
しかし、国民の皆さんは、頑なに、変わろうとしません。
自分の生活が壊れようとしているのに、既に壊れているのに、どうして、我慢という選択肢しかないと思うのでしょうか、不思議でなりません。
この国を壊そうとしているのは、政治家だけではありません。いや、政治家が壊しているのは5%で、国民が壊しているのが95%かもしれません。
国は、ただのシステムです。国民次第で、どのような国にでもなれるのです。
国民自身が、能動的に、選択肢を作れば、国は変わるのです。
そんな体験も習慣もないと思いますが、それをしないとドツボへ行きます。
今は、そういう時代です。
皆さんは、非正規労働者になりたいのですか。年収100万円の生活がしたいのですか。そんなこと、望んでいませんよね。まだ、自分の生活は壊れていないと思っている皆さんの生活も、必ず、壊れます。「国力衰退」の時代とは、全ての国民が貧しくなるという時代のことです。そんな時代が目の前にあることは、皆さんの周りを見れば明らかです。
「誰か、何とかしてくれ」と思っているのでしょうが、皆で、「誰か、何とかしてくれ」と言っているのです。
「誰か」って、誰。
「何とか」って、何。
「誰も」「何も」してくれません。
皆さん自身がするしかないのです。
新しい選択肢を作るのは、皆さんの責務です。
こんな単純なことに、どうして気付かないのでしょう。
「不安」ありますよね。「ヤバイ」と思っていますよね。
皆さんの直感は間違っていません。

なぜ、こんなことになっているのでしょう。
こんな国になってしまった原因を見つける必要はないのですか。
このまま、皆で、仲良く、ドツボにはまる日を待ちますか。
それとも、未だに、「誰かが、何とかしてくれる」と信じているのですか。
どこまでも逃げますか。いや、逃げ切れると思っているのですか。
助平根性も、限界だと思います。
自分の生活のことです。
皆さんが、何とかするしかないのです。
私のような高齢者は、数年、辛抱すれば、あの世へ行けます。でも、若い方や子供達は、この先も、ずっと、この国で生きていかなければならないのです。
自分のために、今のシステムを変えてください。
それが、誰かのために役立ちます。

ふわふわっとした、得体のしれない、何かの上に、この国はあります。
この「得体のしれない、何か」とは、曖昧模糊とした、歴史と伝統だと思います。
では。
この国の目的って、何ですか。
国の責務って、何ですか。
国民の目的って、何ですか。
国民の責務って、何ですか。
多分、国も、国民も、目的も、責務も、個別に意識したことはないと思います。
何となく、ふわふわっとしたままなのです。
私達は、全国民共通の目的も責務も持っていません。これでは、国民として、判断のしようがありません。歴史と伝統という曖昧で動いているこの国には、そもそも、言葉の定義は必要ではありませんでした。だから、言葉の定義をするという習慣がないのです。
もちろん、全体主義になることを推奨しているのではありません。
共通の価値判断が出来るだけの、最低限の、言葉の定義が必要だと思いますが、やはり、「なあ、なあ」「まあ、まあ」のほうがいいですか。
確かに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は捨てがたい魅力があります。
何と言っても、楽です。
皆さんが楽だと思うことは、「お上」だって楽なのです。
それは、「お上」が好き勝手をやっても許すということです。
現実は、その通りなのですが、それでいいのですか。
国力衰退は、目的と責務がないことによる副作用です。
曖昧システムでは、国を運営する皆さんも、国民の皆さんも、好き勝手が認められているのですから、何をやっても良く、何をやらなくてもいいのです。確かに、楽です。でも、全員で、「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっていれば、全体として衰退するのは目に見えています。それが、「国力衰退」という副作用です。結局、回り回って、自分で自分の首を絞めることになるのです。


2021-10-02



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog