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国力衰退と貧困化と児童虐待の相関 [評論]



児童虐待件数が、2020年度に、200000件を越えたそうです。
参考までに、30年前は、1100件でした。
なぜ、こんなにも、児童虐待が増えてしまったのでしょう。
このデータは厚労省が発表したもので、児童相談所に相談があったものだけの件数です。
ですから、実際に虐待されている児童が何人いるのかは不明です。
随分前にも書きましたが、子供の悲鳴は、この国の悲鳴です。「地獄のような社会がやって来るぞ」と子供達が教えてくれているのです。
「法」の前に、「人としての心」って何でしょう。「人としての罪」って何でしょう。
子供達の悲鳴を、見て見ぬふりをしている私達には、心があるのでしょうか、罪はないのでしょうか。たとえ、罰せられたとしても、文句は言えないのではないでしょうか。
ほんとに、「俺達には関係ねぇ」でいいのでしょうか。
そうではないと思います。20万人もの子供達です。厚労省のデータが氷山の一角だとすると、悲鳴を上げている子供は、100万人かもしれませんし、200万人かもしれません。私達は、そんな子供達を「見て見ぬふり」しているのです。人として、いかがなものかと思います。

「十人十色」という言葉があります。
同じ人は、一人として存在していません。ですから、児童虐待を趣味にしている人が1人もいないとは断言できません。でも、それは、無視してみましょう。
子供を守る責務は、誰にあるのでしょう。
親です。
しかし、児童虐待の加害者は、その親です。
親が自分の子供を虐待するには、それなりの理由が、言い訳が、あると思います。
その理由も千差万別だと思います。
児童虐待を根絶することは可能なのでしょうか。
いいえ、残念ですが、児童虐待を根絶することは不可能です。
それは、私達が人間だからです。
性善説は理想であって、現実ではありません。人間は、誰でも、児童虐待をする資質を持っています。それが人間の本性です。どんな人でも、例外なく、「悪」を持っています。人間は、自分が神や仏になれないことを知っていたから、神や仏を創り出したのです。
人類史には児童虐待のことは書かれていませんが、人類の歴史で、児童虐待がゼロになった時代はなかったと思います。児童虐待を容認するつもりはありませんが、人間が人間である限り、児童虐待を根絶するのは不可能だということです。可能な限り、虐待数を減らすことが、私達にできることだと思います。
では、生活にゆとりのある家庭での虐待件数と、生活が苦しい家庭の虐待件数は、どちらが多いのでしょう。データはありませんが、生活が苦しい家庭の虐待件数のほうが、圧倒的に多いのではないかと推測できます。
児童虐待件数の増加は、貧困層の増加と相関関係があると思っています。
貧困層の増加は、間違いなく、国力の衰退と相関関係にあります。
現状。
国力の衰退は続いています。
だから、貧困層の増加も続いています。
それに比例して、児童虐待の増加も続いています。
将来。
国力の衰退は、今後も、続きます。何もしてませんから。
当然の帰結として、貧困層は、更に増加します。
それに伴い、児童虐待も増加します。
これは、将来予測ですが、否定する根拠がありません。
児童虐待を減らすためには、貧困層を減らさねばなりません。
貧困層を減らすためには、国力衰退を止めなければなりません。
相関関係がある以上、根っ子を解決しなければならないことは自明の理だと思います。
もちろん、児童虐待を「是」とするなら、この論理は成り立ちません。
では、国民の皆さんは、児童虐待を「是」とするのでしょうか。
それとも、「俺には関係ねぇ」と言うのでしょうか。
実際には、ほとんどの国民が、見て見ぬふりをしているのですから、「俺には関係ねぇ」と言っていることになりますが、それでいいのでしょうか。
「見て見ぬふりをしているのは、俺だけじゃない」と言うでしょう。
その通りです。
皆で無視しているのです。
では、皆で無視していれば、何でも、許されるのでしょうか。
実際に、そういう空気があることは否定できませんが、それでいいとは思えません。
皆さんは、自分の首を絞めているのですが、そのことに気付いているのですか。そこが、わかりません。
子供達の悲鳴は、将来の皆さんの悲鳴です。
国力衰退と貧困は、皆さんのところへもやって来ます。
「俺には関係ねぇ」と言える人は、一人もいません。
たとえ、どんなに「いい人」であっても、「貧すれば鈍する」のです。
皆さんは、例外なく、児童虐待の加害者予備軍なのです。
この流れは、国力衰退、貧困化、児童虐待という流れは、そろそろ、止めなければならないのではないでしょうか。
皆さんが不幸になり、子供達も不幸になる。
そんな社会の、どこが、いいのですか。
元凶になっている「国力衰退」を阻止しなければならないと思います。
もちろん、個人だけで、何とかできるような問題ではありません。
トレンドという潮流を変えるためには、巨大な力が必要になります。
国民の持っている力は「数」です。いえ、「数」しかありません。
多くの国民の皆さんが、「何とかしたい」と思い、「何とかしよう」と言葉に出し、国家運営者に「何とかしろ」と強要するしかないと思います。国家運営者が応じない場合は、国民の要求を受け入れてくれる国家運営者を作り出さなくてはなりません。
今の国家運営者は、禄でなし集団ですが、国家運営者が不必要だということではありません。それは、国民全員で、仕事を放り出して、国家運営をするなんてことが出来ないからです。
もちろん、「何とかしろ」と言ってみたところで、何も変わりません。
何を、どうすればいいのか、誰にも見えていません。
いや、見ようとしていません。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民の皆さんにとって、国力衰退も貧困化も児童虐待も他人事です。既に、貧困層の仲間入りをしてしまった人達でさえも、国力衰退や貧困化や児童虐待は他人事だと思っています。だから、見ようとしていないのです。
何故なのでしょう。
国民に責務があるということを知らないからです。
「だって、誰も、教えてくれないから」と思っていませんか。
それ、勘違いです。
国民に責務がある、ということを知ることも、国民の責務なのです。
国にも、国民にも、責務があります。
今は、曖昧な空気に溶けていて、見えていないだけです。
ここを変えなければ、何も変わりません。
皆さんが変わらなければ、解決策を見つけなければ、たとえ、「俺には関係ねぇ」と言っている人でもドツボに嵌るのです。
国民自身が、「何とかしろ」の「何とか」を見つけるしかないのです。
そんなに難しいことなのでしょうか。
国にも、国民にも、責務があることに気付くだけでいいのです。
原点に戻り、「国とは」「国民とは」を定義するだけでいいのです。
誰にでもできることです。
日本の国民の皆さんであれば、雑作もなく、出来ることです。
言葉の定義をして、国の目的を、国民の目的を、国の責務を、国民の責務を、明確にすれば、国力衰退も貧困化も児童虐待も変えることができます。いや、国民の皆さんの意識を変えなければ、この国は変わりません。
先ず、国民の皆さんが変わってください。
なぜなら、今の延長線上にあるのは破滅だからです。
既に、壊れ始めています。
それが、児童虐待の数字になって現れているのです。

皆さんは、未だに、自分が「下々」だと信じていませんか。
「下々」が「お上」に逆らうようなことはできないと思っていませんか。
確かに、「下々」には無理かもしれません。
でも、皆さんは、「下々」なんですか。
この国は、看板だけですが、それでも、民主国家なのです。民主国家に「下々」や「奴隷」は存在していません。
では、皆さんは、一体、何者なんですか。
幽霊ですか。
そうではありません。
皆さんは、国民なのです。
国民であれば、果たさねばならない責務があります。
そうです。悲鳴を上げている子供達を助ける責務は、皆さんにあります。
この児童虐待の数字は、皆さんが、国民の皆さん全員が、一人の例外もなく、責務を果たしていないという証の数字なのです。もちろん、児童虐待をしている親が一番悪いと思います。しかし、それを「見て見ぬふり」をしている皆さんも、同罪です。
児童虐待が行われている家に殴り込め、と言っているのではありません。児童虐待と相関関係のある貧困化を止めることです。貧困化を止めるために、国力衰退を止めてくださいと言っているのです。そのために、目的と責務を見つけてください、とお願いしているのです。
今、皆さんがやっている「俺には関係ねぇ」は、確かに、楽ではありますが、最悪の方法だと思います。皆さんは、自分の墓穴を掘っているのです。最終的に、辻褄を合わせるのは、国民の皆さんです。児童虐待を放置した責任を取るのは、国民の皆さんなのです。飢えに苦しむのは、皆さん自身です。
自分の身は自分で守る。自分の家族は自分が守る。自分の国は自分で守る。それだけではありません。人間の子供は、他の生き物に比べて極端に脆弱です。ですから、人間は集団で子供を守る運命を持っているのです。他所様の子供でも、子供達を守ることは、国民の責務だと思います。
当たり前のことだと思いますが、違うのでしょうか。

今の日本で、悪しき事象をグラフにすると、右肩上がりのグラフになります。
児童虐待件数のグラフも、右肩上がりです。
これは、国が、悪しき方向へ向かっているということです。
ニュースでも児童虐待のことは、度々、出てきます。
「見て見ぬふり」をしていて、心は痛みませんか。
それとも、皆さんは、もう、人間やめたんですか。
これは、理想論とか人道主義の問題ではありません。
もっと原始的な「人の心」の問題だと思います。
縄文時代に児童虐待があったのかどうかは知りません。ただ、あったとしても、非常に少なかったと思います。縄文人は、自分達が、いつ滅んでも仕方がないと思っていたのではないでしょうか。彼等の最大の望みは、未来に向けて、生き延びることだったと思います。その未来の象徴である子供達は大切にされていたと思います。
日本は、どうして、こんな国になってしまったのですか。
それは、皆さんが「見て見ぬふり」をしているからです。
それでも。
多分、多くの皆さんが、本音では、心苦しく思っているはずです。
好き好んで「見て見ぬふり」をしているのではないと思います。
でも、皆さんは、「どうすればいいのか」がわかりません。
学者という名のお偉い先生方も、何一つ、解決策を提示できていないのですから、皆さんだけが悪いわけではありません。私達は、全員、解決策を持っていないのです。
その通りですが。
成功するという保障はありませんが、「言葉の定義」をしてみませんか。
一本の藁に過ぎないかもしれませんが、他に選択肢がないのですから、「駄目で元々」と思って「言葉の定義」をしてみませんか。
もちろん、「言葉の定義」に費用はかかりません。
ただし、時間はかかります。
日頃使い慣れていない脳の一部も使わねばなりません。
それなりに、調べ物もしなければなりません。
でも、国民の皆さんが「言葉の定義」に挑戦すれば、何かが変わります。
そのくらいは、「人として」やってもいいのではないでしょうか。
そして、皆さんが手にした「言葉の定義」をできるだけ多くの方に知らせてください。
国民の皆さん一人一人には、力はありません。しかし、数が集まれば力になります。
それが国民の力です。
時間はかかりますが、いつの日か、児童虐待を減らすことができるかもしれません。
「俺には関係ねぇ」は、いつか、必ず、ブーメランとなって、皆さんを襲います。
私も、皆さんも、当事者なのです。
皆さんは、ほんとに、このままでいいと思っているのでしょうか。


2021-10-06



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