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復讐 -2 [復讐]



年が明けて、極寒の二月に大阪地方裁判所で千葉直樹の裁判が始まった。裁判員裁判の傍聴券を求める長蛇の列はなくなっていて、ごく当たり前に裁判が行われるようになった。
千葉直樹の強姦罪裁判は小法廷で開かれ、記者席はあっても記者がいないという寂しいものになった。
真人は被告人の顔がよく見えるように、傍聴席の左側の二列目に座った。千葉直樹という男を初めて見ることになる。最後に見た朝子の苦しそうな顔が浮かぶ。怖かっただろう。苦しかっただろう。痛かっただろう。悲しかっただろう。そして、なによりも、悔しかっただろう。
傍聴席には五人。書記官の席にも書類を整理する男がいる。検察官の席に若い男子検察官と更に若い女子検察官が座った。検察官もこのような裁判で経験を積むことになるのだろう。弁護人席に、年配の弁護士と若い女子の弁護士がやってきた。年配の弁護士は風呂敷から書類を出して、机の上に並べている。検察官の方を見ることもなく、自分の世界を作り上げているように見えた。女子弁護士は無関心な様子で別の方向を向いている。関係者に緊張は見られなかった。
開廷五分前に記者席に腕章を手にした男が一人座り、傍聴席も七人程度になった。甲斐雅子の姿もあったが、真人は無視した。もちろん、甲斐雅子も同じ様子だ。
横のドアが開いて、制服を着た二人の廷士に挟まれて被告人の千葉直樹が入って来た。背の高い、がっしりとした体格の男で、顔には卑しさが滲み出ている。千葉直樹は歩みを止めて、傍聴席を見回したあと、苦笑いを残して被告人席の前に立った。廷士が手錠を外し腰縄をとると、被告人席に大きく足を広げて座った。体全体からふてぶてしさを発散させている。
十時になって、裁判官と裁判員が正面のドアから入ってきて、法廷内いる全員が起立し、裁判長の礼に合わせて全員が礼をする。ただ、千葉直樹だけは頭を下げなかった。
年配の弁護士が、苦々しそうな表情で被告人の後頭部を見た。甲斐探偵社の調査によれば、千葉直樹の父親は巨大銀行の役員をやっているらしい。息子の事件があっても、その職に留まっているということは、職を辞する程の出来事ではないと考えているのか。無罪を勝ち取れると思っているのか。年配の弁護士はその父親から因果を含む言葉を投げつけられているのだろう。弁護側のチームワークがいいようには見えない。
公判前整理手続きで何が決められたのか、遺族とはいえ個人の資格しかない真人には知ることのできないことだった。しかも、この裁判は強姦罪を裁く法廷であり、強姦致死罪を裁くものではない。厳密な意味で言えば、被害者家族であっても被害者遺族ではない。
真人は被害者家族としての意見陳述をすることになっているが、その呼び名にも異論があった。強姦とは切り離され、朝子は勝手に死んだという位置づけに対して、家族はどう受け止めればいいのか。
裁判は儀式のように始まった。
人定尋問が終わり、検事が公訴事実を読み上げる。自分で書いた文章ではないのか、何度も読み間違いをしている。紙に書かれた文字を読むだけの控訴事実には説得力の欠片もないのではないだろうか。
弁護側は強姦を否認して和姦を主張した。
検察側と弁護側の主張を聞く限り、事件のあった場所で千葉直樹が朝子と性交をしたことだけは、物的証拠から明らかな事実と認定されている。
検察側の証人として、片桐卓也という医師が証言台に立った。
「警察医の先生ですね」
「はい。非常勤ですが」
「被害者の結城朝子さんの遺体を解剖されたのは、片桐先生ですか」
「そうです」
落ち着きと自信に満ちた態度は、外科医師の持つ特性だと思われる。
「遺体には、多くの外傷がありましたか」
「はい」
「それは、どのような傷ですか」
「ほとんどが、殴打された傷でした」
「つまり、殴られたためにできた傷ですね」
「はい」
「何か所ですか」
「傷の深さには多少違いがありますが、十二か所です」
「被告人は、被害者が殴って欲しいと言ったので、やったことだと言っています。そういうプレイを好む女だと思ったそうです。そういった類の傷でしたか」
「いいえ。あの傷は、そのようなものではありません」
「違いますか。どう違うのですか」
「私は、外科医として二十年やってます。いろいろなことがあります。いわゆるSMプレイの中で、誤って怪我をさせてしまったという患者にも遭遇しています。そのようなプレイでも相手に怪我を負わせることは滅多にないのが普通だそうです。やりすぎて、出血しても傷の深さはたいしたことありません。この被害者の傷は、誰かが本気で、力を込めて殴ったためにできた傷です」
「そのような傷はどんな場合に見られますか」
「本気で喧嘩した時とか、リンチをされた時にできる傷です」
「ありがとうございました。以上です」
「弁護人。反対尋問をしますか」
「はい。裁判長」
弁護人は立ち上がったが、しばらく言葉を捜していた。
「先生。先生はSMプレイをしたことがありますか」
「いいえ。ありません」
「そうですか。では、詳しいというわけではありませんよね。それとも、SMプレイを医学的に研究しているのですか」
「いいえ」
「では、どうして、その傷がその手のプレイでできた傷ではないと断言されるのですか。何か、科学的根拠がおありですか」
「科学的という意味では、傷の深さです」
「でも、SMプレイでもありうるではありませんか」
「ないでしょう。私も出会ったことがないし、そのような事例があったという話も聞きません。あの怪我は素人で処置できる怪我ではありません。医者にかかる必要があります。我々の常識では考えられません」
「100パーセント、ありえないと断言されるのですか」
「いいえ。私が申し上げているのは、常識の話です。あなたの論理であれば、被告人は常識を外れた人間だと言う結論になってしまいます」
弁護人が目を剥いて、顔を赤らめた。
「私がお聞きしているのは、プレイの傷ではないと、100パーセント言い切れますかと聞いています。はいかいいえでお答えください。100パーセントですか」
「いいえ」
「質問を終わります」
検察側の証人は片桐医師一人だけだった。
なぜ、同じ場所にいた内村健太を証人として検察が申請しなかったのか、不思議だった。強姦なのか和姦なのか、その場に居合わせた内村健太の証言にかかっていることになる。
驚いたことに、内村健太を証人申請したのは弁護側だった。
弁護人は片桐医師への質問で失点したことを承知しているようで、自分が申請した証人に対して厳しい表情で臨んだ。
「内村健太さん。あなたは、今、宣誓されましたね。正直に、事実を述べていただかないと偽証罪であなた自身が裁かれることになります。よろしいですね」
「はい」
「警察の取り調べで、あなたは被告人により手錠で拘束されていた、と証言したそうですが、そのような事実はありましたか」
「いいえ」
「つまり、あなたは、警察に嘘の証言をした。そういうこと、ですか」
「はい」
「では、犯人はあの男だと、警察で被告人を指して証言した。それも、嘘の証言ですか」
「いいえ」
「あなたにとっての真実は、ご自分の都合で変幻自在に変えることができる。そういうものなんですか」
「・・・」
「あなたと結城朝子さんは仲がよかったと聞いています。周囲の人は恋人同士に見えたと言っていますが、特別に仲のいい友達だったのですか」
「はい」
「将来の結婚を約束するほどの間柄でしたか」
「いいえ」
「違うのですか。あなたの友達は、あなたの口から聞いたと言っていますが、その友達は嘘をついてるのですか」
「結婚の約束はしていません」
「それは、あなたは結婚したいと思っていたが、まだ彼女の承諾をもらっていないということですか」
「はい」
「あなたは、高校一年生ですね」
「はい」
「彼女と肉体関係がありましたか」
「いいえ」
「肉体関係を求めたことはありますか」
「いいえ」
「正直に言ってください。決して恥ずかしいことではありません。私も、あなたの年頃の時は自分の性欲に困ったものです。私にも恋人と呼ばれるような彼女がいたら、肉体関係を迫ったと思います。それが普通の高校生だと思いますが、あなたは違ったのですか。もう一度聞きます。肉体関係を求めたことはありますか」
「いいえ」
検察官は異議を挟むこともなかった。
「では、肉体関係を持ちたいと思ったことはありますか」
「はい」
「あなたは、被告人と被害者の二人が性行為をしている時、どこで、何をしていましたか」
「車の中に閉じ込められていました」
「車の中、ですか。変ですね。普通、車は中から自由にドアは開ける事ができます。閉じ込められることはありませんよ。車の中で何をしてましたか」
「何も」
「二人の様子を見てましたか」
「・・・」
「どうなんです。見えてましたか」
「はい」
「もし、無理矢理犯されているのだとしたら、どうして、止めなかったんですか。大切な彼女ですよね。二人が合意の上だったから、行動に出ることができなかった。そうなんでしょう」
「違います」
「違う」
「怖かったんです」
「怖かった。そんなもんですか。結婚したいと思っているほどの間柄ですよ。警察に嘘の証言をして、この法廷でも嘘の証言をするつもりですか」
「いいえ」
「質問を終わります」
弁護人は席に座った。被告人は笑みを浮かべて内村健太を見ている。弁護側は唯一の目撃者である内村健太の証言を無力化することに成功した。
「検察官。反対尋問をしますか」
「はい。裁判長」
検察官は冷ややかな目で内村健太を見ていた。
「今、弁護人の質問にありましたが、どうして、あなたは、手錠をかけられていたなどと嘘をついたのですか」
「怖かったんです」
「結城朝子さんは、被告人の行為に喜んでいましたか」
「いいえ」
「あなたに、助けを求めましたか」
「はい」
「一度ですか」
「いいえ。何度も」
「それでも、あなたは、助けに行かなかった。どうしてですか」
「怖かったんです。体が動かなかったんです」
「そうですか。あなたの目から見て、強姦に見えましたか」
「はい」
「質問を終わります」
最初から最後まで、内村健太は真人の方を見なかった。
真人の中で、何かが腹の底にストンと落ちた。朝子が自殺をした理由が体でわかった。それまでは、なぜ、という疑問が解けていなかった。朝子は強姦されたために自殺したのではない。絶望して自殺したのだ。朝子も内村健太のことを将来の伴侶だと考えていただろう。最悪の事態に堕ちた時、内村健太は何もしなかった。そんな男を将来の伴侶だと考えていた自分が許せなかったのではないだろうか。将来が全否定されたと感じたのではないか。一言でも相談してくれれば、自殺を止められたのに。何でも話し合ってきた父子だったのに。自分の力不足だったのか。
それでも、朝子の将来を砕いたのは千葉直樹という男に変わりはない。許せない。絶対に許すことはできない。
被告人尋問が始まった。
証言席に立っても、被告人の態度に変化はなかった。意識してふてぶてしさを出そうとしている訳ではないようだと真人は感じた。この男は、本心から世の中をなめきっている。真人の周囲にいる人たちとは人種が違うのではないだろうか。裕福な家庭で育ち、大学に入学しても、通学することもなく遊び歩いている。働いている様子はないと探偵社の報告にはあった。4WDの車も親が買い与え、贅沢できるほどの小遣いを渡しているのは親なのだろう。千葉直人の22年間の人生は、自分の思いのままに生きてきた人生だったと思われる。自分の主張が通らなかった経験はなかったのではないか。若さと腕力と経済力があれば、若者の世界では怖いものはない。唯一の劣等感が女性関係だったと思われる。誰が見ても「いけめん」からは遥かに遠い。女の子からは近づきたくない男に分類されているだろう。過去に朝子のような犠牲者が何人もいたはずである。それらの犠牲者が被害届を出さなかったことも、社会をなめる条件になったのであろう。
検察官が質問を始めた。
「被告人は、この裁判を、どう感じていますか」
「茶番」
「ほう、茶番ですか。どうして、そう思うのですか」
「誰でも、セックスするよね。あんたも、そこにいる裁判官も」
千葉直樹は検察官と裁判官を指で示してみせた。
「だったら、あんたたちも被告人。被告人が被告人を裁く。おかしい、しょ」
「被告人は、あくまでも、強姦容疑を否認し、和姦だと言い張るのですか」
「だって、そうなんだから」
弁護人は遠い壁の方を睨んで、苦虫をかみつぶした。この被告人の弁護では、どんな優秀な弁護士がついても勝訴は難しいだろう。被告人や被告人の家族と弁護士の間は弁護方針で一致していなかっただろうと想像した。優秀な弁護士なら、有罪判決が出るであろうことは容易に推定できる。情状酌量で争うのが弁護士の役割になると主張したはずである。被告人の父親の社会的地位が、弁護士に不本意な方針を受け入れさせたと考えたほうがわかりやすい。
「被告人は、被害者を殴打しましたか」
「だから、そう、頼まれたんだって」
「そうではなく、殴ったのか、殴らなかったのかを聞いています」
「そういう質問には、答えたくない。いきさつがあって、結果がある。だよね」
「では、質問を変えましょう。被害者は、いつ、何と言って頼んだんですか」
「憶えてない。でも、頼まれたのは間違いないよ。困るんだよな。真実は当事者しか知らない。そうだよね。当事者は二人しかいない、しょ。真実を話さないで、勝手に死なれちゃ迷惑。おかげで、こうやって、被告人にされて、冤罪で裁かれることになる。こんなの許せない、しょ」
千葉直樹は馬鹿ではないようだ。矛盾点が出そうな部分では、検察官の質問をはぐらかした答えをしている。検察官は、若さのせいなのか、有罪を確信しているのか、それ以上の追及をやめてしまっている。それとも、ただ、仕事をこなしているだけなのか。
検察官も弁護人も、まるでマニュアルに従ったような質問を繰り返した。
裁判員も当たり障りのない質問をした。
被告人による、聞くに堪えないような死者への誹謗中傷があった。でも、真人はそのことで動揺することはなかった。大きな目標が眼前にあり、被告人が何を言っても驚かないだけの覚悟はできていた。
午前の日程は終わり、午後には被害者遺族である真人の意見陳述と検察の論告求刑、そして弁護人による最終弁論が予定されている。明日、裁判員による審理が行われ、午後には結審することになるだろう。
食欲など出る訳がなく、真人は地下の喫茶室でコーヒーを頼んだ。バザーの時に活躍する誰かのお母さんのような女性が二人働いていた。裁判所だというのに落ち込んでいる客は真人だけに見えた。
午後からの意見陳述の内容が頭の中を回っている。千葉直樹は一つだけ正しいことを言った。それは、この裁判が「茶番」だということだ。誰もが、自分の求める方向だけを見て、自分に都合のいい事を言っている。午後の意見陳述でも、真人は自分の求める方向だけを見て、自分に都合のいいことだけを発言するつもりだった。茶番の上塗りをして、裁判そのものが茶番だということを、何人の人が理解してくれるのか。真人の戦いは、まだ始まったばかりだった。
被害者参加人の意見陳述が始まった。真人は被害者参加人席で立ち上がって、裁判官の方へ小さく頭を下げた。常識は持ち合わせていますよ、という態度表明でもあった。
「私は、被害者、結城朝子の父親です。娘は被告人に強姦され、自殺をしました。被告人の答えにもありましたように、娘は勝手に死んだことになっています。でも、私は被害者遺族のつもりですので、その観点から意見を述べさせていただきます」
「先ず、被害者参加制度ができて、被害者家族が法廷で意見陳述できることになりました。このことに関しては感謝しています」
「初めてのことで、大変緊張しています。被害者のガス抜きが目的で作られたこの制度をガス抜きで終わらせてしまうかどうかは、私たち被害者家族にかかっています。今は、とても、重い責任を感じています」
「裁判員の皆様にもお願いがあります。司法に対する不信を和らげるために創設された裁判員制度も、単なるガス抜きになってしまってはいけないと思っています。司法は長い時間をかけて、市民から遊離してしまいました。市民のための司法を取り戻すのには、まだまだ時間がかかるでしょうが、一つ一つの裁判で、皆さん裁判員の方の努力が大きな力になることは明らかです」
「私は被告人の発言で、一つだけ共感した言葉があります。被告人はこの裁判を茶番だと切り捨てました。その点では、私も同じ意見です。強姦された被害者の、あるいは被害者遺族の願いは一つです。二度と犯人を社会に戻して欲しくないということです。二度と同じ犯罪が起きて欲しくないという願いです。でも、裁判は決められたレールの上を粛々と進められています。求刑も判決も出ていませんが、被告人が終身刑になることはありません。つまり、被害者の願いは一顧だにされていないのが現状なんです。ですから、私の目から見ても、この裁判が茶番に見えてしまうのです」
「白状しますが、私は、この事件の当事者になるまで、犯罪にも裁判にも関心はありませんでした。国民のほとんどの人が、私と同じだと思います。当事者になって、私は愕然としました。市民は国に守られているのだという漠然とした安心感。それが幻想だと知った時の衝撃は大変なものでした。それは、恐怖と呼ぶにふさわしいものです」
「女と子供は弱者です。大人の男の、悪意の前では無力と言っても過言ではありません。弱者を誰が守るのですか。親ですか。24時間、つきっきりでいろと言うのですか。この国はそんな国なんですか。司法が犯罪抑止力になっているのですか。いろいろな疑問が浮かんできます。でも、どこにも答えは見つかりません。ぜひ、教えてください」
「少なくとも、弱者に対する暴力には厳罰をもって対応していただかなくては困ります。弱者に、身を守る能力がないことも自己責任なんでしょうか。もし、そうなら、銃規制を撤廃してもらいたい。私なら、娘が自分の身を守るために、娘に銃を持たせます」
「強姦犯は、数年の刑期を終えれば社会に戻ってきます。性犯罪の再犯率が高いことは、我々一般市民でも知っています。その現実を放置しているのは、なぜなんでしょうか」
「刑期を終えれば、その罪は償われたと言われています。司法関係者の方でも、それを言葉通りに受け取っておられる方はいないでしょう。被害者や被害者遺族にとっては、論外な話です。被害者遺族の願いを優先度の高いものから挙げていきます。一番は、娘を返せ、です。二番は、犯人を殺せ、です。三番は、犯人を二度と社会に戻すな、ということです。被害者遺族は百歩も二百歩も譲って、せめて、犯人を社会に戻して欲しくないと願っています。これって、法外な要求なんですか」
「強い者だけが、勝つ世界でいいのですか」
「裁判官、検察官、そして弁護人の法曹三者と言われる方々にお聞きしたい。司法はほんとに国民を守っているのですか。社会秩序は守られているのですか」
「市民感覚で言えば、答えはノーです」
「だから、裁判員制度を導入したではないか。そう言いたいのですか。とんでもありません。市民だって馬鹿ではありません。裁判員制度がごまかしにすぎないことは、市民だけではなく、あなた方が一番よくわかっているはずです。市民感覚を司法に、と言うのなら、検察員制度を導入してください。検察官の職域を聖域にしていたのでは司法改革にはなりえません。検察官が、起訴不起訴を決め、求刑を決める。判決は求刑の八掛け。それのどこに市民感覚があるのですか。これが、私の暴言であり、偏見だと言うのなら、検察員制度を導入することに躊躇することはありませんよね。そうなれば、司法は大きく市民感覚に近づくことができます。混乱がお嫌いですか。混乱を嫌うことと、犯罪を嫌うことのどちらが市民感覚に合っていると思いますか。犯罪被害者という立場になって、私はそのことに初めて気付きました」
「皆さん、迷惑そうな顔をしていますね。迷惑ついでに申請書に書いていない話をしたいと思いますが、許可いただけますでしょうか。ここからの話は本物の暴言になります。もちろん、訴追覚悟で話します。お願いいたします」
「許可、できません」
裁判長の声は裏返っていた。立腹は相当のものだと思われる。
「そうですか。裁判員の皆さんには不思議かもしれませんが、私、被害者参加人も検察官の管理下にあります。検閲されていない意見は話すことができません。検閲という言葉は共産主義の国か第二次大戦下の日本でしか聞いたことのないような言葉ですが、司法の場では、実情に合致した言葉なんです。あなたたち裁判員も管理されているのです。もし、それを確かめたいのなら、求刑の量刑に縛られることなく20年の刑を決めてみてください。それが不可能であれば、被告人が主張する和姦を認めて無罪判決を出すことです。死んだ娘も、遺族の私も被告人が五年や十年で社会に戻ってくることを望んではいません。無罪放免にして、あの男が、あと何人の弱者に暴力を振るうのか、見てみようではありませんか。その時の被害者は、もしかすると、あなた方の家族かもしれません」
「被害者参加人。それ以上の発言は許可しません。発言をやめない場合は強制退室を命ずることになりますよ」
「私の意見陳述を終わります」
裁判長も立腹しているかもしれないが、真人の怒りは比較にならないほど大きい。自分に世界を壊すことのできる力があったら、全てを壊してもいい。そんな怒りだった。たが、最終目標のためには、冷静な判断が必要だった。そのことを支える強さは、すでに悪魔から貰っていた。
真人は傍聴席に戻り、検察官の求刑を聞くために座った。
被害者に与えた傷害の程度が重いと判断したのか、検察官は強姦罪単独の求刑にしては重い10年を求刑した。
弁護側は最後まで和姦を主張し、無罪判決を要求した。ただ、弁護人の声には力が感じられなかった。
裁判長が閉廷を宣告する直前になって、六番の裁判員が手を挙げた。
「まだ、なにか」
裁判長は用心深く問いかけた。明日の審理を考えると、ここで人間関係を壊すわけにいかないという判断と、六人の裁判員の中で一番公平な態度の持ち主だという信頼に似たものがあったためだった。
「どうしても、検察官に確認をしておきたいことがあります。検察官に質問してもいいでしょうか」
「部屋に戻って、私がお聞きするのでは、いけませんか」
「裁判長にお聞きしたいのではなく、検察官にお聞きしたいのです」
「わかりました。一つだけにしてください」
「どうして、ですか」
「裁判長の権限として、とご理解ください」
「納得はできませんが、一つだけにします」
「検察官。よろしいですか」
「はい。裁判長」
「では」
「先ほど意見陳述をされた被害者のお父さんのことですが、お父さんは被告人を殺すのではないかという心配をしました。もしも、です。そうなった時に、検察にも我々裁判員にも責任があるように思えるのですが、検察官の所見をお聞きしておきたいと思います」
「わが国では、個人的報復は認められていません。従って、もしも、そのような事態になった場合は新たな事件として裁判を受けねばなりません」
「いえ、そういうことではなく、検察官に責任はないのですか、とお聞きしています」
「ありません。我々は法に照らして適切に職務を遂行しております」
「そうですか。裁判員の責任については、後で裁判長にお伺いします」
「では、明日二時から判決を言い渡します。閉廷します」
真人も法廷を出て、エレベーターで一階に降りた。正面玄関を出て淀屋橋への道を捜した。
「結城さん」
後ろから声をかけられて、真人は足を止めた。同年配と思われる、少し崩れた感じのする男が笑顔を向けている。サラリーマンではない。真人から見ると職業不詳の男に見えた。
「何か」
「お話、聞かせていただけませんか」
「あなたは」
男はボケットから名刺入れを出して、名刺を差し出した。名刺には恩田敬一郎という名前と電話番号しか書かれていない。
「お仕事は」
「フリージャーナリスト。ほんとは、ノンフィクション作家といいたいところですが、本を出している訳ではないので、遠慮して、フリージャーナリストです」
「悪名高き、ですか」
「とんでもない。私は、もっとも良心的なジャーナリストだと思ってます」
「その良心的な方が、私に何の用です。私のこと書いても、金にはならないと思いますが」
「少し、気になりましてね」
「なにが、です」
「法廷で、裁判長に拒否されて、しゃべれなかったことです」
「あの、法廷におられた」
「はい」
「被告人の関係者ですか」
「いいえ、たまたま、ふらっと入っただけです」
「たまたま、興味を持った」
「ええ」
「話す気はありませんね。申し訳ないけど」
真人は歩きだした。恩田敬一郎も肩を並べて歩き始めた。
「何を言おうとしたのか、気になりましてね。気になると、僕、眠れないんですよ」
「それは、気の毒なことをしました」
「お願いしますよ」
「恩田さん、でしたっけ」
「ええ」
「あなたなら、法に触れるような計画を誰かに話したりしますか」
「でも、結城さんは、あの時、話そうとしたじゃないですか」
「あの場所でなら、意味があったんです」
「よくわかりません。法廷以外では意味がない話。ますます、眠れない」
「謎かけ、じゃありません。たいしたことでもありません。つまらんヨタ話です。枯れ尾花って、知ってます」
「幽霊の話ですか」
「そうです。気にしないで、ぐっすりと眠ってもらっていいですから」
「じゃあ、あなたの友人リストに載せてください。役に立つ時もあると思いますが」
「申し訳ない」
「結城さん、さっき僕のこと悪名高きと言いましたよね」
「あなたのことじゃない。フリージャーナリストが、です」
「そのフリージャーナリストは一度食いつくと、スッポンのようだと言われてるのも知ってますか」
「脅し、ですか」
「はい。結構、迷惑だと思うんです」
厚かましい男だけど、どこか憎めない。少し、楽しいかもしれない。
「恩田さん。私、今からサウナに行こうと思ってますけど、一緒に行きますか」
「もちろんです。僕も丁度、サウナに行きたいと思ってたところです」
恩田は旧知の友人のような様子で、難波のサウナまで付いてきた。見た目は軽い男に見える恩田だが、一皮剥けば強かな男だと考えておかなくてはいけない。フリージャーナリストをしているということは、そういうことなのだろう。朝子の死を契機に真人も変わっていた。悪魔のおかげかもしれない。
サウナで汗を流し、水風呂で体を冷やしたあと、二人はマッサージ器に座ってビールを飲んだ。
「結城さん。一つ、教えてください」
「ん」
「結城さんは、裁判に何の期待もしていない。そう感じたんですが、何故です」
「そんなことありません。期待してますよ」
「言葉は悪いかもしれませんが、あなたの意見陳述は司法攻撃に終始していたと思うんです。あなたにとっては、目の前の裁判が一番重要だと思いますが」
「重要」
「違うんですか」
「日本には終身刑がありませんから、無期懲役になりますが、求刑が無期懲役なら、あなたの言うとおり裁判そのものが重要になると思います。あの男を一生刑務所に閉じ込めておいて欲しいというのが遺族の本音なんです。現実はほど遠い、ですよね。司法そのものが変わってもらわなければ、困るんです。それは一つ一つの裁判の積み重ねなんじゃないでしょうか」
「何か、違うな」
「違いますか」
「優等生の答案を読んでるようで、どこか痒い、そんな感じですね。結城さんの目は、あの時、そんなことを訴えていたようには思えない」
「恩田さん。深読みして、失敗するタイプでしょ」
「れれれ、わかります」
真人の友人には恩田のような男はいなかった。確かに職業は信頼感に乏しいが、人柄という面では他にない豊かさを感じさせる。人生が短くなると人生が濃くなるという話を聞いたことかある。恩田との出会いも、その一端なのかもしれない。
「恩田さん。記事にしないということで、話しましょう」
「えっ。ここで」
「ええ。手元にレコーダー、ありませんよね」
「ひどいな。そのためのサウナですか」
「用心深い質なんです。もし、あなたが約束を破って記事にしたとしても、それはあなたの意見になります。発表すれば、恩田さんが起訴されることになるかもしれない。まあ、話だけなら不起訴かな」
「一寸、甘く見たかな」
「恩田さん。資産家ですか」
「まさか」
「だったら、不起訴というより、警察が相手にしないかもしれない。フリージャーナリストのヨタ話で、一件落着です」
「とほほ、ですね」
「どうします。ヨタ話、聞いてみますか」
「不起訴になるんでしょう。聞かせてください」
「わかりました。少し長い話になります。いいですか」
「もちろん」
「恩田さん。子供はいますか」
「いえ。僕は独身主義を通してます」
「親の気持ち、わかります」
「たぶん、わかってないんでしょうね」
「嬉しいですね、そう言っていただけると。当事者にならないと、わからないものなんです。子供をあんな形で失ってから、あなたの気持ちわかります、と多くの人から言われます。中には、ほんとにわかっていると信じている人もいる。私には、強姦被害に遭うことも、子供が自殺してしまうことも、想像すらできませんでした。その中に放り込まれて、初めてわかったんです。私は、いたって普通の市民だったと思います。多くの人がそうなんです。犯罪や裁判なんて、自分にとっては別の世界の出来事なんです。無関心で生きていても、全く支障ありません。司法制度は、その上に胡坐をかいているんです。司法による司法のための司法制度。彼等も公務員みたいな存在ですから、仕方ないのかもしれない。でも、被害者はそれでは済まないんです。司法に大きく変わってもらわなくてはならない。司法は究極の国家権力なんです。だから、下々の声は届き難い。被害者が叫んだ位では変わりません。司法が自ら変わろうとしなければ、変わることはありません。どうしたら、司法が自ら変革しようとするのか。恩田さんに、その手立てがありますか」
「いや。ない、でしょう」
「被害者にも、温度差があります。私のように、残された自分の生きる道さえ無くしたと感じる被害者も大勢います。もう、失うものは何もありませんから、私には、何でもあり、なんです。犯罪との境界線も、私にはありません。世間では、私のような人間を逆恨みの卑劣漢だと言うでしょう。そう言った非難を受け取ることにさえ、何の抵抗もありません。ここからが、前代未聞の犯罪計画です。検察官、次に裁判官、最後に弁護士、この法曹三者と呼ばれる人たちが司法を動かしている、と言うより司法そのものなんです。個人としての検察官、裁判官、弁護士が当事者になれば、司法は変わらざるをえなくなります。被害者とそれ以外の人との落差は、体験した者にしかわかりません。感情は論理を超越するのです。あらゆる理論が崩れる。恩田さん、ユーゴの内紛はご存じですよね。隣人と、友人と殺し合いをしなくてはならなくなった時、彼等は理論や理想の前で自分を律したでしょうか。そんなこと、できないのが人間なんです。検察官と裁判官だけでも、五千人はいるでしょう。中には、あなたのような独身主義者もいますが、私のように娘を持つ親もいます。きっと誰にとっても大切な家族のはずです。検察官の娘だけが狙い撃ちにされて強姦されたとしたらどうなります。一人や二人ではありません。百人、二百人という犠牲者が出るのです。検事という使命感だけで乗り切れると思いますか」
「いや。でも、そんなこと、できっこない」
「私が、鬼になって強姦魔になると思ったんですか」
「・・・」
「私は、何もしません。金を出すだけです」
「金」
「僅かな金のために、殺人や強盗をする男はいませんか。その日の金に困って、明日の弁当を買うために、何でもするんです。この女を強姦すれば、百万出すと言えば、行列ができると思いませんか。殺人をしろと言ってるのではありません。強姦です。若い男にとって強姦のハードルは決して高いものではありません。強姦の場合、やり得の方が圧倒的に多いのです。百件の強姦があったとしましょう。被害届を出す人が十人だとします。そして、逮捕される犯人は五人とします。成功率は何パーセントになります。加害者百人の内、成功するのは95人です。95人は、何のお咎めもなしで百万の金が手に入るのです。しかも、失敗した時の服役期間は五年で済むとしたら、こんなおいしい話はないと彼等は思うでしょう」
「でもね。どうやって募集するんです」
「募集も私がやるのではありません。これは、あくまでも裏の仕事です。一件の強姦につき百万の手数料を払うと言えば、手を挙げる暴力団がいるのではありませんか。自分の組員が強姦罪をかぶるわけではありません。段取りをつけて募集するだけです。キャッチフレーズは、世直し隊募集とすれば、抵抗も減ります」
「でも、一人二百万だとすると、それだけで二億の金が必要ですが」
「私には、二億でも五億でも払えます」
「ううん」
「さらに、恐ろしい事が起きます。強姦は親告罪だということは知っていますよね。被害届を出した被害者の実名と写真がネット上に流れることになります。どうしてかわかりますか。強姦の証拠のためにカメラを回すことが条件になるからです。映像には困りません。ドキュメント映像として、裏で出回るかもしれないのです。そうなれば、告訴する人間は更に少なくなります。成功率は限りなく100パーセントに近づきます。強姦請負単価も下がり、犯罪希望者は増え、抽選会の必要も出てきます。そして、便乗犯も出てくるでしょうね。これは、もう立派な社会不安です。司法が変わるしかありません」
「犯罪ですね。いや、これはテロですよ」
「恩田さんなら、自分の計画として、書きますか」
「いえ。やめときます」
「賢明な判断です」
「あの場で、この話をするつもりだったんですか」
「ええ」
「ありえない」
その時、隣の椅子に男が座った。少し暗い印象の初老の男だが目は鋭く、声は低かった。
「聞かせてもらったよ」
その声を聞いただけで、その男が何者なのか二人は理解した。
「私にも、協力させてもらえないか」
「はあ、その」
「組の力もいるんだろ」
「ええ、まあ」
「どこか、伝手はあるのか」
「いえ」
「うちがやれば、間違いなくうまくいく」
「でも、まだ計画だけなんです」
「金さえ用意してくれれば、調査も実行もうちでやれる」
「その金が」
「そうか」
「計画では、4億の現金が必要です。簡単ではありません」
「まあな」
男が右手を挙げると、黒服の若い男がやってきた。
「わしの名刺、取ってこい」
「はい」
若い男の持ってきた名刺には、佐藤組の佐藤有三となっていた。
「あんたの名刺もくれんか」
「それは、勘弁してください」
「駄目か」
「素人の仕事としては、やばい仕事でしょう。用心するのは大目に見てください」
「わかった。その代わり、よそに頼んだ事がわかれば、それなりの落とし前はつけてもらうことになるよ」
「わかってます」
二人は、大急ぎでサウナを出た。
「尾行はないとは思いますが、念のため、撒きましょう」
恩田の指示でデパートと地下鉄を使って、また淀屋橋まで戻ってきた。
「もう、大丈夫でしょう」
二人は地下道を歩いて北浜まで行き、地上に出て喫茶店に落ち付いた。真人は、自分の名刺を出して、恩田に渡した。
「いいんですか」
「友人になった方が無難でしょう」
「わかりました」
「でも、あの佐藤さんに会って、いたって現実的な計画だということがわかりました」
「まさか、実行しませんよね」
「レコーダー貸してくれますか」
「えっ」
真人は恩田が出したレコーダーが切られていることを確認してテーブルの上に置いた。
「娘が生きていれば、反対したと思います。あの子はそういう子です。自分と同じ被害者が百人も増える。絶対に許さないでしょう。でも、現実を見てしまった今、私は自分の感情を抑える自信がない。もし、実行に移すとしても、まだまだ考えるでしょうね。ただ、私にとっては、理想とか常識とか、良心の問題ではないんです。恩田さんにはわからないでしょうが、地獄に落ちることに抵抗はないんです」
「そうですか。僕には、よくわかってないんだと思いますが、せっかく友達になったんですから、僕にできることがあったら連絡してください。もっとも、僕は地獄に落ちる覚悟はしてませんけど」
「ありがとう」

翌日、開廷の予定は二時間遅れた。審理が紛糾したことによるものと思われる。
判決は懲役八年の有罪判決だった。単独の強姦罪としては重い判決だと言える。裁判員の表情が硬かったことが印象に残った。甲斐雅子の姿は法廷にあったが、恩田の姿はなかった。真人は冷静な目で法廷を見ていた。法廷関係者の目は、結城真人が暴れ出すのではないかと警戒している。この人たちには、何も見えていない。他人の痛みを推し量るだけの感受性も失くしている。自分たちが守らなければいけないのは、司法だと思っている。
真人は法廷を後にした。
次の課題が見つかっていた。千葉直樹が出所してきた時、真人は千葉直樹を無力化して支配下におかなければならない。だが、非力な真人の場合、返り撃ちに遭う確率の方が大きいと考えなければならない。体力の増強と武器の調達が不可避になる。
真人は38年間、勉強と研究しかしてこなかった。体育会系の中学生相手でも勝つ見込みは薄い。そもそも、基礎体力が欠けている。しかも、年齢的には下降線というジェットコースターの上に乗ったあわれな中年男である。それでも、最低限の体力を獲得することは、自分を守ることに繋がる。娘の仇を討つために挑んだ戦いで返り撃ちにあったのでは泣くに泣けない。
新大宮にある体育クラブに個人レッスンという項目があった。イケメンの若い男が笑顔でこちらを見つめている写真がある。着ているトレーナーを脱げば、きっと筋肉が四角く分かれているのだろう。真人のような中年男の行く場所ではないだろうが、運動に関して知識のない真人には指導者が必要だった。
「スポーツ11」というクラブは中規模のビルの五階にあった。エレベーターを降りた場所が受付になっている。真人は足が竦むおもいだった。
「見学ですか」
営業スマイルの若い女が声をかけてきた。
「あの」
「どうぞ、お伺いします」
受付の女性はキビキビとした動作で、二つある椅子の一つを勧めた。
「どのような、ご相談でしょう」
セールスではなさそうだし、会員ではない。見学でもなさそうだ。残るは、相談だという風に消去法で決めたようだ。
「ええと、体力増強というか、指導者が欲しいというか」
「わかりました。専門のインストラクターをお呼びします。少し、お待ちください」
受付嬢はエレベーターから降りてきた会員らしき女性客に明るい声をかけて、ドアの向こうに消えた。居心地の悪さではデパートの婦人用品売り場に匹敵する。
二十代前半とおもわれる若いトレーナー姿の男性が来た。広告に出ていた男性ではないが、女性客からはイケメンと言われているに違いない。採用試験には、容姿端麗が条件に入っているのかもしれない。
「インストラクターの前田といいます。ご相談だと聞きました。話していただけますか」
「ええ」
「体力増強だと」
「ええ。私のようなおじさんの来る場所ではない、ですか」
「とんでもありません。いろいろな方が来られています。最高齢の方は七十歳を越えておられます」
「人並みよりも、少し上でいいんですが、体力をつけたい、と思いまして」
「何か、スポーツをやっておられましたか」
「いいえ。全く」
「まったくですか。最後にスポーツらしき体験をされたのは、いつ頃ですか」
「多分。高校の、体育の時間」
「それ以降、スポーツはやられていない」
「はい」
「失礼ですか、お幾つですか」
「38です」
「ご希望をもう少し具体的に教えていただけますか。アスリートになりたいとか、市民マラソンに参加したいとか。何か描いていることがおありだとおもいますが」
「そうですね。格闘技で勝ちたい、とか」
「格闘技をやっておられるのですか」
「いいえ。やろうと思っているんですが、私の身体能力では難しいと思って。スポーツに関しては、知識がありませんので、何をどうしたらいいのか見当もつかないんです。ですから専門家に教えていただきたいと思って」
「わかりました。個人レッスンでいいんですか」
「ええ」
「ところで、ご専門は」
「数学ですが」
「数学。学者の方ですか」
「いえ。今は、辞めましたが、民間の研究所にいました」
「なるほど、何か心に期するところがあって、一念発起でスポーツをやろうと決心された」
「まあ」
前田は立ち上がって受付からパンフレットと入会申込書を持ってきた。
「これに、記入していただいて、終わったら受付の者に言ってください。ジムの見学されるでしょう」
「はい」
入会申込書を出し、入会金とジム使用料を支払った。前田に連れられてジムを見学し、受付で会員証を渡された。平日の昼間だったが、広いジムにはそれなりの人がいた。
「明日、結城さまの体力測定をしましょう。その上で計画書を作ります。私たちインストラクターを占有される時間は、レッスン料が発生しますが、よろしいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
「では、運動できるような服装で、明日、十時に」
「運動できる服装ですか」
「そうですね。トレーナーとズックがあればいいですよ。よければ、受付の横に売店もあります。それと、汗をかくと思いますので、着替えがあった方がいいです。荷物はロッカーがありますから」
「はい」
真人はトレーナーとズック、そしてスポーツバックを購入してビルを出た。ビルを出て大きく息を吸い込んだ。やっと自由に呼吸ができる。
ジムに慣れたら、生駒にある拳法の道場に入門するつもりだった。五年かけて、体育会系の男子までとは言わない。せめて、人並みの男にならなくてはならない。結城不動産の仕事は無理かもしれないと思った。

三ヶ月後には、トレーニングと拳法の道場の生活が軌道に乗ってきた。毎朝のランニングも順調に距離を伸ばしている。拳法の道場では子供たちと一緒に練習が出来て、毎日でも行きたいほど楽しい。子供たちは真人のことを足手まといだと感じているようだったが、道場に寄付をして、大人たちを懐柔しているので勘弁してもらっている。真人には金の力しかなかったが、その力を使うことに何の抵抗もない。
朝子の死から、真人の生活は変わった。確かに、楽しいことも多い。だが、真人の前からあの朝子の苦しそうな顔は一時として消えたことがない。もう、不眠には慣れたが、体の中から爆発を起こしそうになる怒りは、真人を苦しみの渦に巻き込む。大人しくて、善良な市民の見本だった真人の様子は、日々変化してきていた。
「結城さん」
「はい」
道場で声をかけてきたのは、奈良西署の倉沢刑事だった。
「刑事さん」
「どうして」
「入門しました。刑事さんは」
「私、ここの卒業生です。非番の日だけ、時々、子供たちに教えています。気がつきませんでした。子供たちの噂は知ってましたが、結城さんだとは思いませんでしたよ」
「噂ですか」
「いえ。大したことじゃありません」
「動きの鈍いおじさん、ですか」
「いえいえ」
「皆には、悪いと思ってます」
「でも、どうして」
「家の中に籠っていると、発狂してしまいます。体を動かして、何とか」
「そうですか」
「迷惑かけないように、がんばります」
「ええ」
子供たちが倉沢を呼びに来て、倉沢刑事は連れ去られた。真人と違って人気者のようだ。
他の師範の話によると、倉沢は全国レベルの実力者らしい。仕事で骨折をしてからは大会に出ていないが、この世界では有名人だと言っていた。刑事の勘が働かないことを祈るしかない。

真人の祈りが効かなかったのか、倉沢刑事の勘はざわめいていた。
「あの結城さんのお父さん、憶えてます」
「強姦事件のか」
楠木刑事は面倒くさいという顔で答えた。
「昨日、道場で会いました」
「で」
「あのお父さんに、拳法は似合いません。何か考えてるんじゃないでしょうか」
「だから」
「だからって、心配になりません」
「復讐か」
「ええ」
「そんなこと、俺らが心配しても、しゃあないやろ」
「でも」
「俺たちの仕事はな、今起きている事件のことを心配する仕事なんや。お前、老けるで。気にするな。俺はあの犯人が、どうなっても、別に構わん」
「結城さんが犯人になってしまう」
「それは、あの人の話や。ほんまに、そんなこと考えとるんやったら、本人は覚悟の上やろ。俺は邪魔する気、ないで」
「そんな」
「ええか、警察官も人の親なんや。もし、うちの子がやられたら」
「そんなこと、言っていいんですか」
「お前も、はよ結婚して子供作れ、そしたらわかる」
「結婚はひとりではできませんから」
「合コン、合コン、婚活や。努力せな、結果は出ん」
「そんな時間どこにあるんですか」
「そこを、根性で乗り切れ。それにしても、お前みたいないい女に誰も気がつかんのは、なんでや」
「楠木さん、それ、褒めてます」
「アホか」
倉沢刑事の胸のざわめきは、楠木のせいで大きくなってしまったが、楠木の言うとおり警察に何かができる訳ではないと自分に言い聞かせた。

真人自身にもどんな結末になるのか見えていないが、用心をして困ることはないと思っている。この六カ月、髪と髭を伸ばして人相を変えていた。簡単に、しかも合法的に入手できる武器はそれほど多くはない。一年間、武器の入手ができない時は、趣味を射撃にするつもりだった。ライフルでもショットガンでも、手続きさえすれば手に入る。だが、銃の場合、問題はその音だった。簡単に使える訳ではない。先ずは、スタンガンを試してみるつもりだった。
大学の四年間は東京にいたが、図書館に用事はあってもガンショップなど無縁の場所だった。警察は購入経歴を五年前まで、遡るのだろうか。多分、店員は何人も変わり、真人の顔を記憶している人間はいなくなるだろう。東京の人口は半端ではない。時間も田舎の何倍ものスピードで過ぎていく。東京は犯罪者にとってはなくてはならない土地だと思う。
二軒の店を回って、四台のスタンガンと四個の手錠を購入した。店員は淡々と仕事をしていて、不審に思っている様子ではなかった。
問題はスタンガンの能力だった。江戸時代にはやった、殿様の試し切りのようなことはできない。自分の体で実験するしか方法はなかった。

秋になって生活が落ち着いてきた頃、結城不動産の望月専務が難しい顔で真人の自宅にやってきた。結城不動産の仕事に何の貢献もしていない真人は、明らかに心拍数が増えていた。仕事は任せておけと言っていた望月だったが、朝子の事件から一年以上にもなるのに、仕事にタッチしようとしない真人に苦言を呈しにきたのだろうか。
「何か」
「真人さん」
望月が真人を社長と呼ばずに、昔のように名前で呼ぶのは、いい兆候ではない。下を向いて言い難そうにしている。たとえ、望月に叱られても生活を変えるつもりのない真人は、対応に窮した。
「実は、我儘言わせてもらいたいんや。娘が帰って来ましてな」
「なっちゃん、が」
「結城不動産に採用してもらいたい、とお願いに来ましたんや」
「そんなことですか。ぜんぜん、問題ないでしょう」
「いや。わしは先代に約束したんや。先代が紹介してくれた婿はんを蹴飛ばして、勝手に行ってしもた娘のこと、二度と家には戻さんとわしは約束した。せやけど、子供連れて帰って来て、仕事が欲しい、言われると、アホぬかせ、出ていけ、とは言えまへん。かっこ悪い話やけど、真人さんに何とか、勘弁してもらいたい思て、来ましたんや」
「親父は、もういません。たとえ、いたとしても、親父なら二つ返事で引き受けたと思いますよ。何の問題もありません」
「おおきに。そない言うてもらえたら、助かります。すんません」
「何があったんです」
「あのアホ亭主。車で事故りましたんや。それも、不細工な、自分で勝手に壁にぶつけてあの世行きですわ。ふらふらしとった男やから、家族に何も残さんと、いてまいよった。奈津子が、うちのやつのとこへ金貰いに来とったんは知らん顔してました。恵子も別れて帰ってくるように言うたらしい。せやけど、啖呵切って出て行った以上、奈津子も帰りにくかったんやろと思てます。パートも人員整理やし。詫び入れて帰ってきよりました」
「よかったじゃないですか。専務、ほっとしたでしょう」
「アホな」
「強がり、言わないで、大切にしてやってください。帰ってきてくれる娘がいる。その幸せを忘れたら罰があたります」
「せやな」
「子供さんは、いくつです」
「まだ、小学生ですわ」
「そうですか」
「お願いついでに、もう一つ」
「専務」
一難去って、また一難なのか。
「実は、うちのが、体調悪うて、検査に行ってますのや」
「恵子さん、どこが」
「まだ、わかりまへん。めまいがきついらしい」
「よくないじゃ、ないですか」
「恵子を、辞めさせても、ええでしょうか」
「もちろんです」
「奈津子では、まだ恵子の代わりはできしまへんけど、ちょっと、休憩させてやらなあかんのかな、思て」
「そうしてください」
結城不動産を望月夫婦に任せっきりにしている真人にも責任はある。真人は背中に汗をかいていた。
「おおきに。わしら、お世話になりっぱなしや。先代に拾てもろて、真人さんにようしてもろて、すんまへん」
「私の台詞ですよ。私は専務に仕事押し付けたままで、申し訳ないと思ってます」
「まさか、おおきにやで、真人さん」
「恵子さん、大事にしてあげてくださいよ」
「おおきに。すぐに奈津子、来させます」
「いいですよ。専務から、採用決定と伝えてください」
「それは、あきまへん。採用は社長の仕事です。社長に採用言われて、初めて社員になれる。そこを外したら、もぐりや」
「はあ。わかりました」
望月が帰って行ったのは五時半を過ぎていた。六時になってチャイムが鳴った。
奈津子と娘の二人がやってきた。望月夫婦は晩婚だったので、真人と奈津子は三歳違いだった。子供の頃は兄と妹のようにして大きくなった。
「なっちゃん。久し振りだな」
「無理なお願いして、すみません」
「とんでもない」
「娘の、香織です」
「向井香織です」
明るい表情で香織が頭を下げた。
「父が、採用通知をもらってくるようにと」
「もちろん。採用です」
「ありがとうございます」
「コーヒーでいいかな」
「いえ。そんなの、社長さんに」
「なっちゃん。やめようよ。昔通りでいこう。まだ、兄のつもりだから」
「ごめんなさい」
「香織ちゃんは、コーヒー、いけるかな」
「はい」
念のために、砂糖とミルクも出したが、香織もブラックで飲んだ。
「おいしい、です」
「よかった」
奈津子にはいろいろな感情が渦巻いているのだろう。まだ、肩が緊張していた。子供の頃、奈津子は「大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになる」と言っていた。真人が智子と結婚したので、真人の父親は罪滅ぼしのつもりもあって奈津子の結婚相手を探した。誰かに悪意があったわけではないが、奈津子の心が傷ついたのは事実だった。
「何年になるかな」
「六年。お父さんのご焼香に」
「そうか。六年か」
真人の父親の葬儀には、望月が首を縦に振らなかったので、奈津子は出席できなかった。日を空けて一人で焼香に来た奈津子に会ったのが最後だった。
「なっちゃん。いろいろあっただろうけど、なっちゃんには香織ちゃんがいてくれる。頑張れない訳がない。優しくて、明るいなっちゃんでいなくちゃ」
「はい」
「お父さんから事情は聞いてるだろ」
「はい」
「なっちゃんは、幸せだと、思ってよ」
「はい」
「お母さんのことも、大事にしてあげて欲しい」
「ほんとに、ありがとう。私が真人さんの力になってあげなくちゃいけないのに、迷惑ばかり」
「そんなこと、ない。でも、娘に笑われない親にはならなくちゃ」
「はい」
「お父さん、まだ事務所で待ってるだろう。報告してあげて。採用決定だって」
「はい」
奈津子と香織が帰って行った。香織の生き生きとした様子を見たことで、真人の感情は爆発しそうだった。朝子が生きていれば、この家も明るかったのに。体力増強計画のためにアルコールは卒業したが、今夜はスケジュールを破ろう。
一晩だけと決めた酒が一週間続いた。自分で自分の傷を舐めていた。塩味がした。朝子の涙なのか、自分の涙なのか。苦しい。でも、朝子の苦しみに比べれば。楽になってしまった方がいいのか。浴びるような酒の中で、体中が分解してしまい、頭の中も砕け散ったのか。苦しみの中では、何でもありの思考を止める術はない。もがきながら酒から抜け出した時には、体重が3キロ減っていた。アルコールだけで生きていたのだから仕方がない。
問題は、それまでに築き上げてきたスケジュールが壊れてしまったことにある。それを復元するのには一か月の時間が必要となった。
冬が終わり、春が来ても、真人の表情が明るくなることはなかった。昔から口数の多い男ではなかったが、その寡黙さに危険な臭いがし始めていた。運動のせいで体が細くなっただけではなく、頬も削げて目の力が浮き出ている。優しい目を持っていた癒し系男子の見本のようだった昔の面影は全くない。
突然、内村健太の父親が訪ねてきた。
小学校の学校行事の時に顔を合わせただけで、何年も会っていないし、特に知人と呼ぶような関係でもない。
「ご用件は」
玄関で話を聞いて、帰ってもらおうと思っていたが、内村隆志は体を二つに折る勢いで頭を下げた。真人は内村を応接室に通した。
内村の顔を見たまま、話し始めるのを待った。
「実は、お願いがありまして。結城さんに助けていただきたいのです。厚かましいことは重々承知していますが、あなたしか、頼る人がいません」
真人より十歳以上は年上の、髪の毛も薄くなった男で、眼鏡の奥の目がおどおどしている。
「得意先から不渡り手形をもらってしまいまして、会社の資金繰りが苦しいんです。三日後の残高が足りません。勿論、一時的なことですから、すぐにでもお返しできます。一か月だけ助けていただけませんか。お願いします。この通りです」
内村は椅子を降りて床に手をついた。
「なぜ、私、なんですか」
「えっ」
内村は、旧知の友人から意外な質問を受けて、戸惑っているという表情を見せた。
「うちの健太の証言で、犯人が逮捕されたんですよね」
「はあ」
「うちの子が、黙っていたら難しかったんじゃないですか。健太は犯人の報復を恐れずに証言したんです。お譲さんの無念を晴らしたと思いますが」
「いくら、必要なんです」
「はい。二千万でいいんです」
「このことは、健太君も承知ですか」
「は」
「どうなんです」
「いえ。健太には、言ってません。大人同士の話ですから」
「それでは、健太君にこのことを話して、彼がここへ来るなら、考えましょう」
真人は、朝子の自殺の原因が健太にあると思っている。その想いを本人に直接ぶつけたことはないので、いい機会だと思った。健太はどんな弁明をするのだろう。
「二時間だけ、待ちます。出かけますので」
赤の他人に借金を申し込むということは、金策のレベルとしては最終段階にあると思われる。少しでも可能性があるのなら、どんなことをしても金を引き出したいと思う。内村は慌てた様子で帰って行った。
健太は来ないかもしれない。法廷で真人を避けていた様子では、自分の行動が不適切だったことを認識しているように思えた。真人は簡単な夕食を作って食べた。
約束の二時間が過ぎて、やはり来なかったと思った時にチャイムが鳴った。
「用件は」
玄関で青白い顔で固まっている健太に問いかけた。
「おじさんの所へ行くように、言われました」
「だから、用件は」
「わかりません」
「お父さんに、用件を聞いてきなさい。一時間だけ待つと」
「はい」
そして、一時間後に、更に青白い顔になった健太が玄関に来た。
「用件は」
「おじさんが、二千万円貸してくれるからと」
「どうして」
「えっ」
「どうして、私が」
「わかりません」
「お父さんは、君のおかげで、犯人が逮捕されたのだから、金を貸せと言ってる」
「えっ」
「君は、朝子が、どうして自殺したと思ってる」
健太は顔を伏せて、返事をしなかった。
「君にはわかっている。そうだな」
「はい」
「お父さんに、そのことは話したのか」
「いいえ」
「私が、君のお父さんに金を貸す義理があると、思うか」
「いいえ」
「私は、君を許してはいない。朝子も、たぶん、そうだろう。断られた理由をお父さんに説明しなさい」
「はい」
真人は仏間に入り、朝子に報告した。朝子の本当の気持ちを知ることはもうできない。真人の独断に対して、朝子は怒るかもしれない。生き残った人間の勝手な憶測に苦笑いをしているのだろうか。朝子がこの世に残した想いは、どうやって知り、どうやって消してやればいいのだろうか。真人の独断と偏見は、朝子の想いと大きく乖離しているのだろうか。だが、自問自答の最後には、朝子のあの苦しそうな顔が浮かんでくる。
一か月ほど過ぎ、内村一家は夜逃げをしたという情報を望月が持ってきた。しばらくは債権者が押し掛けてきて騒然としていたらしい。

真人は梅田のホテルに来ていた。ビジネスホテルだから人の出入りも多く、フロントの人間だけではなく客も他人を気にしていない。探偵社の甲斐雅子との打ち合わせはホテルを利用していた。真人の宿泊室に来てもらって、千葉直樹の関係者の情報変更を報告してもらい、顧問料を支払う。甲斐雅子は情報量が少ないのに、顧問料をもらい難いと言っているが、感謝していると深々と頭を下げる。時間をかけて貸しを作る。これが、真人の目的だった。こうやって、甲斐雅子と仕事をしてみると、ここまで用心する必要はなかったのかもしれないと思うが、最後の最後に裏切られたら全てが台無しになってしまうと、あの時は考えた。真人との人間関係ができ、法外な顧問料を受け取っている甲斐雅子が裏切ることはないだろう。一番危険な時に近くにいる関係者は甲斐雅子になる。誰にも知られることのない関係者でいてもらわなければならない。
「別件でも、何かあれば言ってください」
「わかってます。もう少し、頑張ってください」
「はい。ありがとうございます。これで失礼します」
甲斐雅子は半年分の顧問料である三百万円をバックに仕舞った。
「下まで一緒に行きましょう」
「えっ。いいんですか」
「大丈夫でしょう」
真人は眠れない夜のための本を仕入れておくつもりだった。不眠とはもう親友になっている。アルコールに代わるものが必要だった。
「結城さん」
二人で部屋を出たとたんに、声を掛けられた。
「恩田さん」
フリージャーナリストの恩田敬一郎だった。
「私は、ここで失礼します」
甲斐雅子は気を利かせて、去って行った。
「まずかった、ですか」
「いえ、別に」
「こんなとこで、会えるとは思いませんでしたよ」
「恩田さん、元気そうですね」
「そうでも、ありませんがね」
「そうなんですか」
「結城さんに電話しようかどうか、迷ってたんです。結構、これでも気の弱い男でしてね」
「知ってますよ」
「えええ」
「中で話しましょうか」
恩田に口止めをしておかなければならない。真人は自分の軽率な行動を呪った。甲斐雅子は化粧をしていないので、狭い部屋でも匂いは残っていないだろう。
「あの人のことは、忘れてください」
「もちろん」
「結婚するかどうか、わかりませんから」
「はあ」
「・・・」
「何か、あるんですか」
「どうして」
「変ないい訳、するから」
「えっ」
「結城さんが、こんな安ホテルで、デートしないでしょう」
「・・・」
「いいです。忘れました」
「すみません」
「結城さん、変わりましたね。最初、別人かと思いましたよ」
「そうですか」
「細くなったと言うか、怖くなったと言うか」
「そうですか。歳とったんですよ」
「そうですかね」
「苦しみが大きいと、時間の流れが速いんです」
「そう言われると、一言もありませんけど」
「それより、私に何か用が」
「ああ、弱ったな。まだ、悩んでるんです」
「何を」
「怒りませんか」
「私が、怒るようなことなんですか」
「まあ」
「じゃあ、聞かないことにします」
「いや。話します」
変な奴だが、やはり憎めない何かを持っている男だと思った。
「一か月ほど前に、あの話をしたんです」
「ほう。記事にしたんじゃないんですか」
「ええ。他の記事にそれとなく、もぐり込ませようかな、と思って。感蝕を探るために、学生時代の友人に話したんです」
「ええ」
「その男、職業、何だと思います」
「さあ」
「検事、やってます。東京地検ですけどね」
「それは」
「やばい、でしょう。だから、ノンフィクションやめて、サスペンス作家になると言ったんです。信じてませんでしたけどね」
「ええ」
「最初は、僕のこと、馬鹿にしたような顔で聞いていましたけど、最後はマジ顔になってました。金さえあれば、実現可能だと言うことに気づいたようです。忠告されました。他所でその話はするなと言われましたよ。僕が難しい立場に立つことになるって」
「でしょうね」
「もちろん、結城さんの名前は出してませんし、大阪の話だとも言ってません。大丈夫ですよ。東京の人間は、この世は東京だけだと思ってますから、地方の事まで考えません。でも、記事にするのは、中止しました」
「そうですか」
「多分、あいつにも娘がいるんだと思いました」
「そう」
「結城さん、怒ってます」
「いえ」
「やっぱ、怒ってますよね」
「怒ってません。私が言ったという証拠はありませんよね。私の名前を出せば、名誉棄損で訴えられるかもしれない」
「れれれれ。それはないでしょう」
「それとも、佐藤組を証人にしますか」
「まさか」
「恩田さんには、何のメリットもない。違いますか」
「いえ。違いません。言いませんよ、結城さんのことは」
「自分のこと、もう少し大事にしないと」
「ふぅ」
恩田は大きな溜息をついた。
二人で食事に出て、恩田の仕事の話ばかりをした。
「あの計画、やりませんよね」
恩田は別れ際に真剣な目で聞いてきた。
「まだ、決めてません」


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