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復讐 -1 [復讐]



 東大寺二月堂修二会、そのお水とりの行事が終わると春が近いと言われる。これは、奈良人だけではなく広く知られていることだが、実際には春分の日を過ぎるまで冬は終わらない。娘の朝子が中学を卒業したのは、お水とりと春分の日の中間だった。四月から高校生として通学を始めるまでの期間、朝子の弁当は作らなくてもいい。目覚まし時計も三十分遅らせてあるし、布団の温もりを楽しむ時間もある。それでも、朝食は作らなければならない。結城真人は、意を決してベッドから出て、着替えた。
食堂に灯りがあり、昨夜消し忘れたのかと思った。
「朝子」
「おはよう」
「何、やってんだ」
「見ればわかるでしょ」
「だから、なに」
「父さんの、お弁当」
「はあ」
三年前に妻の智子が急性心不全で他界し、娘の弁当は真人が担当してきた。朝子が中学の卒業式を終えたので、暫くは弁当担当から解放されたという安堵感。いや、娘の成長に対する安堵感かもしれない。その朝子が、突然、父親の弁当を作っていると言う。
「大丈夫か、朝子」
「なにが」
「何か、あったのか」
「もう」
「父さんは、会社の食堂で食べると、言ったよな」
「いいから。父さんは、顔洗って、歯磨いて、新聞取ってくる」
「ん」
智子が生きていれば、娘の行動を解説してくれただろうが、思春期の娘の心の振幅をつかみきれない自分を真人は認識している。子供だと思っていると子供でなかったり、大人だと思うと子供だったり。女の子の体験がない父親にはわからない部分があった。必死で母親の役もこなそうとしてきた三年間だったが、いたるところに限界があった。そんな心の動揺を見せないように、大人の振る舞いをしてきたつもりだが、それが成功していたのかどうかはわからない。今朝も心の中がザワザワしている。自分の子供が自分の手中にいないような不安感があった。
朝子の指示に従って、洗顔と歯磨きを終えて玄関を出た。寒さで引き締まった空気が肌を刺す。玄関から郵便受けまでは少し距離があり、冬場は苦労する。近くを近鉄電車が走っていて、乾いた音が聞こえてきた。
真人は食堂に戻る前に仏間の引き戸を開けた。カーテンが開けられていて、線香の匂いが残っていた。朝子がもう智子に会ってくれたようだ。
「朝子が弁当、作ってくれてる」
線香に火をつけながら、亡くなった妻の写真に話しかけた。
食堂に戻り、テレビの電源を入れて、新聞を開いた。昨日まで一家の主婦役をやっていたせいか、お父さん役はどこか居心地が悪い。
真人は台所で料理に没頭している娘の方に視線を泳がせながら、新聞を読んだ。
二十分ほどで食卓の上に朝食が並んだ。
「食べよう」
「ん」
出し巻きたまごがいい味になっていた。
「うまい」
「でしょう」
「今日は、父さんの誕生日じゃないよ、な」
「うん。卒業したから」
「卒業記念のサービスデー」
「違う、違う。今日から、私がシェフ」
「は」
「もう、高校生なんだからね。いつまでも、父さんの世話になってるわけにいかないの」
「は」
「料理だけね」
「ああ」
「小村さんには、今まで通りやってもらうつもり」
朝子が小村さんと言ったのは、通いで来てくれている家政婦さんで、買い物と掃除、そして洗濯をお願いしている。料理は土日に二人で作る保存食と、真人が簡単に作る朝食と弁当で三年間やってきた。満足のいく食生活とは言えなかったが、父子家庭としてはそれなりのものを食べさせていたと自負している。
「でも、休みの日は、食べに連れていってよ」
「ん」
「お味噌汁の味、どう」
「ああ、うまいよ」
「よかった」
妻の智子は真人に似て静かな女だった。だが、娘の朝子は子供の頃からひまわりのように明るい子だった。真人の祖母が元気で明るい人だったから、隔世遺伝というのかもしれない。朝子が部屋に入ってくるだけで部屋が明るくなると智子が言っていた。真人も智子も、控えめで大人しい性格だったから、朝子のいない時は「疲れるな」と二人で陰口を言ったこともあった。でも、智子が亡くなってからは、朝子の明るさに助けられてきた。
真人は朝子が作ってくれた弁当を持って家を出たが、嬉しさ半分と寂しさ半分という複雑な気持ちだった。
真人はS電気の研究所に勤務している。大学時代の専攻は数学で、大学院に残らないかという話もあったが、個人的な理由でS電気に就職した。卒業を待って智子と結婚することになっていたし、父親の入院があって奈良に戻らなくてはいけない事情を抱えていた。さらに、智子は東京の人間だったが、奈良に住みたいという希望を持っていた。
親の転勤で中学の時に奈良に来た智子は奈良の魅力にとりつかれ、高校時代に郷土史研究会で真人と出会った。東京で同じ大学に通っていたが、智子の奈良に住みたいという一言が真人の行動を決めたと言ってもいい。
就職する必要もなかったが、どこにでもあるような家庭で子供を育てたいという智子の希望があってサラリーマンになった。だから、真人にとっては会社が一番ではなく、家族が一番大切な存在だった。出世には関心がないというより、権力や金銭に執着を持てない平和な性格のせいかもしれない。他人は真人のことを「ぼんぼん」と言っているらしい。S電気に勤めるサラリーマンという立場と結城不動産の代表という立場を持っているのだから、世間の評価の方が正しいのだろうが、本人にそんな意識はない。世間のお父さんと同じように決まった時間に真面目に出勤し、全力を出して仕事をする。ただ、他の人より退社時間は早いし、付き合いで飲みに行くこともなかった。今は、何よりも娘の朝子のことが大事だった。朝子の結婚ということを考えない訳ではないが、まだ中学生だからという言い訳を楯にして考えないようにしているのは事実だった。結城のDNAは早婚が多い。真人も22歳で結婚した。それは早世の家系だからなのかもしれない。早く子孫を残さなければならないという防衛本能が働いているとのではないだろうか。

土曜日は大阪で買い物をした。大きな書店で本を仕入れ、デパートで紳士用品と婦人用品の売り場に分かれ、最後はデパ地下で買い物をする。この一年は行動パターンが決まっていた。それまでは婦人用品売り場にも連れて行かれていたが、真人は婦人用品売り場の居心地が苦手だった。
買い物から帰って、夕食用に買ってきた寿司を食べて、一日のスケジュールが終わる。
「父さん」
「ん」
「私、作家になる」
「えっ。新聞記者じゃなかったのか」
「作家」
「今からは、衰退産業だぞ」
「新聞だって、一緒でしょ」
「まあ」
「とびきり明るい小説が書きたい」
「明るい小説ね」
「父さんが読んでるのは、いつも暗いよね」
「そうか」
「そうよ。性格、暗くならない」
「元々、暗いから」
「明るい読み物、読んだら、明るくなれるのに」
「多分、父さんは、無理」
「どうして」
「父さんは暗い人だから、暗い方が安心する」
「そうかな」
「高校では、新聞部じゃないのか」
「新聞部は続けるよ。いろんなことができるから」
朝子は、小学校の頃から新聞を作ることに情熱を燃やしていた。何人の生徒が読んでくれているのか疑問だったが、小学校の時から将来の夢は新聞記者だった。新聞記事を書くのだから、書くことは嫌いではないのだろうが、作家とは飛躍したものだ。
「この前、新人賞に応募したんだ」
「へっ」
「全然、駄目だったみたいだけどね」
「へえ」
「私、何度でも、挑戦するよ」
「んん」
どう反応すればいいのだろう。気の利いた言葉は浮かばなかった。やはり、自分は暗いのかなと思ってしまった。娘がどんどん大人になっていく。覚せい剤に手を出しましたとか、子供ができたと言われるよりはるかにいい。親は応援するだけだ。
金曜日に帰宅すると、食堂は宴会のような騒ぎだった。そう言えば、お別れ会をするのだと朝子が言っていた。
「お邪魔してまーす」
一斉に声をかけられて、真人はおもわず頭を下げてしまった。手巻き寿司パーティだと言っていたが、既にケーキが並んでいた。
「ごめん。父さん、自分の部屋で食べてくれる」
「ああ」
「すぐに持って行くから」
「ん」
真人が自分の部屋で着替え終わった頃に、大きなお盆に手巻き寿司の材料を乗せた朝子がやってきた。
「こんなに、食べれないぞ」
「残していいわよ。あと、お茶、持ってくる」
「ん」
手洗いをして、部屋に戻り、手巻き寿司を食べ始めたが、あまり美味しくない。手巻き寿司は、大人数で競争しながら食べるから美味しかったのだということを知った。
成績がよかったり、美人だったりすると友達ができないというのが相場だが、朝子には友達が多い。明るいだけではなく、繊細な気配りができる女の子で、親よりはるかに繊細な神経の持ち主だと思ったことがある。親は勝手に娘が美人だと信じているが、一般の評価では美人の部類に入っていないのだと本人が言っていた。
八時にパーティが終わり、子供たちが引き揚げていった。自分の部屋にいても、家中が静かになったように感じる。
食堂には朝子と親友の内村健太の二人が椅子に座っていた。
「お邪魔してます」
「健太君。大変だったろう」
「いえ。楽しかった、です」
朝子には健太を顎で使うようなところがある。男の子なのに、健太はそれを喜んでやっている節があった。多分、今日もこき使われたのだろう。近所に住んでいて、二人は幼稚園から中学まで一緒だった。ずっと同じクラスだった訳ではないが、二人の友情は続いていた。高校も同じ高校に行くので、ここまでくれば腐れ縁と言ってもいい。これで、同じ大学にでも行ったら、結婚してしまうのかもしれない。朝子にはそんな様子も見える。
「ご飯、足りたのか」
「炊飯器持参で来てくれた子が三人いたから」
「ああ。炊飯器一つでは無理だもんな」
「健太君の計画は完璧だったのよ。具もご飯も完食」
「へえ」
「たまたま、うまくいっただけです」
「そんなことないよ」
男は褒めて使うべし、という真理を小さい時から実践してきた朝子の言葉に不自然さはない。男は何も気づかずに、必死に役目を果たそうとする。恐るべし女の術。健太は幸せそうな顔をしている。
「ほんとに、卒業したみたい」
「僕も、そう思う」
一大イベントを終えた二人の表情は満ち足りていた。

四月になり、朝子は高校生になった。高校の制服を着ると高校生に見えるし、表情も大人びてきた。朝子の成長を感じる度に、智子にもそんな朝子を見て欲しかったという気持ちが湧いてくる。少しづつ少女の殻を抜け出す毎に美しくなっていくと感じるのは親の欲目なのだろうか。
夏休みになったが、塾には行かないと言って、校内新聞の特集記事に熱中している。郷土史の特集らしい。高校時代に真人と智子も郷土史に熱中した時があった。受験勉強が忙しくなって熱中できたのは一年だけだったが、真人にとっては大切な、そして輝くような青春だった。
難波宮の取材だと言って大阪の博物館へ朝子と健太は出かけて行った。
真人は六時半に会社を出て帰路についた。五年前に買った愛車は一度も故障することなく走り続けている。エンジン音にも異常がない。混雑するG駅前を通り抜けて自宅に向かった。真人の家の前に回転灯をつけた救急車がいる。何があったのか。近づくとガレージの前にも車両があり、その車が邪魔になってガレージに入ることができない真人は、その後に車を停めた。救急車の中から無線の声が聞こえ、門扉が開け放たれている。真人の家で何らかの異常が発生していることは明らかだった。真人は門を抜けて走った。
玄関戸も開けられたままになっていて、中から人声が聞こえる。
目の前に大柄な男が立ち塞がった。
「結城さん、ですか」
「はい。何があったんです。あなたは」
「私は、奈良西署の楠木と言います」
楠木と名乗った男は警察バッヂを開いて見せた。
「警察」
「落ち着いてください」
「落ち着いてますよ。何があったんです」
「お嬢さんが、自殺を」
「朝子が。まさか」
「救命処置をやってもらいましたが、まだ蘇生しません。今から病院に搬送します」
「馬鹿な」
男を押しのけて玄関ホールに入って、壁にぶち当たったように止まった真人の前に担架に乗せられている朝子がいた。救急隊員と思われる男が二人、担架の両端にいる。朝、出かけた時と同じジーパンとTシャツを着ている。
「朝子」
「あ、さ、こ」
「あさこおお」
真人は朝子の肩を両手で持って揺すった。
唇の片端が腫れて歪んでいる。こんなに苦しそうな顔をした朝子を見るのは初めてだった。
「お父さん。ともかく、病院へ運びましょう」
楠木と名乗った刑事が真人の体を引きはがした。
「どうして」
真人は刑事の顔を見た。
「わかりません」
救急隊員が担架を持ち上げた。
「お父さんも、一緒に病院へ」
少し離れた場所に内村健太と大柄な女が立っていた。なぜ健太がそこにいるのか不思議に思ったが、真人は担架の動きに合わせて玄関を出た。
救急車がサイレンを鳴らして動いた。
真人は朝子の顔から目が離せない。「なんで」「なんで」と言う想いだけが頭の中を駆け回っている。病院に行けば、朝子は目を覚ます。
「朝子。がんばれ。もう少しだぞ」
長い時間かかって、やっと病院に到着した。
ストレッチャーになった担架は病院の廊下を駆け抜けた。真人は朝子の名前を呼びながら、ストレッチャーの横を走った。
看護師に阻止されて、部屋の外に置き去りにされた。誰もいない。朝子が運び込まれた部屋の前を右に左に歩くことしかできない。
頭の中では「なんで」が渦巻いている。
楠木刑事がやってきた。
「なんで」
「まだ、わかりません」
「なんで」
楠木刑事は、それが真人の独り言だと気付いて口を閉じた。
「なんで」
朝子が消えていったドアに耳を押しつけて中の様子を窺う。部屋の前を歩き始めた真人を見て、楠木刑事は壁際によけて真人の自由にさせた。楠木刑事にも娘がいた。まだ、小学生だが、娘を失った男親の気持ちはわかるつもりだった。「わかってないのかもしれん」と思って楠木刑事は首を横に振った。
気の遠くなるような時間が過ぎて、ドアが開けられた。実際には三十分ほどのことだったが、真人には時間の感覚がなかった。
「先生」
真人は、部屋から出てきた医師らしき男に詰め寄った。
「申し訳ありません。死亡を確認しました。残念です」
「馬鹿な」
真人は部屋に飛び込んだ。半裸状態の朝子に看護師が布を被せていた。
朝子の傍に行くまでに、真人は楠木刑事の太い腕で抱きとめられた。
「あさこお」
真人はあらん限りの力で暴れた。
「はなせえ」
「結城さん。落ち付いて」
「おあああ」
真人は叫び声をあげた。それは、火事場のクソ力だった。体力的には勝ち目のない真人が楠木刑事を振り払って、看護師を突き飛ばして朝子の体にすがりついた。突き飛ばされた看護師の腕から出た血が床を赤くした。楠木刑事が真人の体を持ち上げるようにして投げをうち、床に抑え込んだ。今度は楠木刑事も本気だった。それでも、真人は暴れた。「朝子を死なすわけにはいかない」という一念だけだった。医師が看護師から受け取った注射器を真人の腕に射した。
少し時間がかかったが、真人の体が動かなくなった。床に投げ出されて怪我をした看護師の手当も終わった。
「申し訳ありません」
楠木刑事が医師と看護師に頭を下げた。
「あなたは」
「奈良西署の楠木と言います」
「警察の方でしたか」
「この怪我、どうしましょう」
「三井さん。どうします」
「大丈夫です。ちょっと、すりむいただけです」
「そうですか。ありがとうございます」
楠木刑事は看護師に頭を下げた。楠木刑事が悪いわけではない。
「先生。この薬は何時間ぐらいでとれますか」
「三時間ですかね。人によりますけど」
「この子の親なんです。多分、事件になりますので、事情を話さなければなりません」
「部屋が用意できるかどうか」
「いえ。また暴れるといけませんので、署に連れて行きます」
「事件ということは、変死扱いですね」
「はい。解剖の手続きをとります」
「わかりました」
「それと、監識の人間が来ます。しばらく、ここを借りますけど、いいですか」
「いいですけど、別の急患が来たら、部屋移ってもらいますよ」
「はい。よろしく」

真人が目を覚ましたのは深夜だった。畳敷きの広い部屋だが、どこなのかわからない。
「気がつきましたか」
「・・・」
真人は起き上がった。体中の痛みに顔をしかめた。
「痛いですか」
「ここは」
「西署の道場です」
「朝子は」
「病院です。司法解剖させてもらいますので」
「解剖」
「はい。事件になりますから」
「事件」
「ええ。私の話、聞いてくれますか」
「事件」
「そうです。大丈夫ですか」
「朝子」
真人は痛みに耐えて立ち上がった。
「結城さん。また、暴れるようだと、拘束しなくてはなりません。落ち付いてください」
真人は膝を折って、その場にしゃがんだ。朝子の苦しみの顔が浮かんだ。病院で医師から朝子の死亡宣告を受けたことも思い出した。朝子が死んだ。死んでしまった。
目の前にいる刑事が朝子を殺したわけではないのに、掴みかかって殺してやりたいという衝動がある。自分の体が震えている。刑事は、事件だと言った。
真人は放心状態から戻ってきた。
「事件、と言いました」
「はい。落ちつきましたか」
「話、聞かせてください」
「わかりました。下の部屋に行きましょう」
まだ数時間しか過ぎていないのに、真人の顔は憔悴で黒く変色していた。朝子が死んだことは感情としては認めたくないが、理性では受け止めている自分がいる。苦悩というものは、自分の中で全く相反するものが戦っている状態なのだと、何かで読んだ記憶がある。真人の中では感情が渦を巻いて暴れていた。
小さな会議室に案内され、言われた場所に座った。
ドアが開いて、背の高い若い女性が入ってきた。お茶のペットボトルを真人の前に置いて、「倉沢です」と名乗った。真人の自宅で内村健太の横に立っていた女性のようだ。
お茶を目にしたことで、真人は自分の喉の渇きに初めて気づいた。
「いただきます」
一気に半分ほど飲み、大きく息を吸った。二人の刑事を見た。それまでは漠然とした警察官という実態のないものとしか感じていなかった刑事を生身の人間として認識できるようになった。楠木は上背も体重も申し分ないほどの体育会系の男で、首が短いところは柔道選手として活躍したであろうと思われる。倉沢という女性刑事は真人よりも数センチは高い均整のとれた三十前後の女性だった。二人に共通しているのは、その目の鋭さだった。
「結城さん。警察官が公務員だということはご存じですよね。公務員というのは報告書を山のように書かなければならない職業なんです。本題に入る前に、いろいろとお聞きしなくてはなりません。ご理解、いただけますでしょうか」
真人は頷いた。
「ありがとうございます」
氏名、年齢、住所、家族構成、勤務先、朝子の年齢と学校名。楠木が報告書に必要とされる項目を淡々と質問し、倉沢刑事が書類に書きとっていく。
「内村健太さん、ご存じですよね」
「はい」
「どういう方ですか」
「朝子の友人です」
「かなり、親しい」
「はい。幼稚園から高校まで一緒で、よく遊びに来ます。身内同然の親しい友人です」
「今日も、一緒に出かけられた」
「そう言ってました。二人で大阪の博物館に行ったはずです」
「その内村さんが、119番通報をしてくれました」
「そうですか」
「彼に鍵を渡していましたか」
「いいえ。でも健太君なら、スペアキーの場所を知っているはずです」
「ええ。彼はガレージのドアをスペアキーで開けて入ったと言ってます」
「はい」
「彼は玄関のオートドアの操作も知っていました。そのくらい親しい友人ということですか」
「はい」
「彼の話では、大阪城の近くで男に襲われて、彼もお嬢さんも殴られたそうです。そして、内村さんは手錠を使って木に縛られ、お嬢さんは乱暴されたそうです」
「何時頃、ですか」
「二時ごろ、だそうです」
「真昼に、ですか」
「はい。お嬢さんに言われて、二人はタクシーで家まで帰ってきたそうです。一人になりたいと言われて、内村さんは自宅に戻ったそうですが、心配になって様子を見に行ったと言っています」
「はい」
「家に戻ってきたのが四時半頃で、内村さんが様子を見に行ったのが六時半頃だそうです。救急隊員の話では、自殺後、一時間は経過しているだろうと言っています。ですから、心肺蘇生は難しかったそうです。通報した内村さんがレイプと言っていたので、警察に連絡が来て、我々が行きました」
「はい」
「お父さんが帰って来られたのは、その後です。内村さんには、ここに来てもらって詳しい状況をお聞きしました。相手の男の人相も車のナンバーも証言してくれました。既に、手配済みなんですが。ご存じかと思いますが、強姦は親告罪なんです。被害者の告訴がなければ事件にはなりません。お嬢さんが亡くなられているので、お父さんが代わりに告訴していただければ、事件になり、我々は捜査をすることになります」
「はい」
「現場の保存も必要ですし、少し、急いでいます。無理にここまできていただいたのは、そのためで、結城さんの心痛を無視しているわけではありません。ご理解いただきたいわけで。どうされますか。お嬢さんの名誉のために、告訴しないというご家族もおられます。我々が無理強いすることはできません」
「もちろん。告訴します」
「そうですか。明日、一番で、内村さんには現場に行ってもらいます。情報は揃っていますので犯人逮捕は時間の問題だと思っています。もし、よければ、この後、被害届けを出していただけますか」
「はい」
真人は被害届けを出し、警察が預かってくれていた家の鍵と車のキーを受け取ってサインをした。深夜を過ぎていたが倉沢刑事が車で送ってくれた。
「私にできることがあれば、言ってください」
「ありがとうございます。大丈夫です」
「そうですか。ご遺体の引き取りについては、連絡させていただきますので」
「はい」
真人は倉沢刑事の車を降りて玄関の前に立ったが、何をすればいいのか、思いつかない。倉沢刑事が車から降りてきた。
「車のキーを貸してください。ガレージに入れます」
真人は手に持っていたキーを渡した。倉沢刑事が車を車庫入れする様子を眺めるだけだった。玄関の鍵を開け、家の中に入ったのも倉沢刑事に言われるままに従った。
「結城さん。ほんとに、大丈夫ですか。誰か、来てくれる方はいませんか」
「大丈夫です。ありがとう」
大丈夫でないことは自分でもわかっている。頭の中がパニックになっていることも承知していたが、どうしようもない。痛みも、苦しみも、悲しみも、怒りも、全部一人で背負わなければならない。
倉沢刑事が帰った後、真人は仏壇の前に座った。先ず、智子に謝らなくてはならないと思った。娘を守ってやれなかったことを謝らなくては。
真人は、仏壇の前に座り続けた。真人の中で時間は止まっていた。
夜が明けても、動けなかった。
どこかで、電話の呼び出し音が鳴っていたが、何をしたらいいのかわからない。
十時になって、家政婦の小村が仏間に来たが、顔は知っているが名前を思い出せなかった。しばらくして、望月夫婦が部屋に来た。望月康夫は結城不動産の専務取締役をお願いしている父の代からの番頭だった。
「社長」
全く反応しない真人を見て、三人が部屋を出ていった。三人には何が起きたのかわかっていない。
「電話が鳴りっぱなし、なんです」
家政婦の小村が、そう言った時に電話が鳴った。
「はい。結城ですが」
専務の望月が電話に出た。S電気からの電話で、無断欠勤で困っていると言う。望月にも事情がわからないので、わかり次第、連絡をすると言って電話を切った。
受話器を下ろすと、すぐに電話が鳴った。
「はい。結城です」
「あなたは」
「結城不動産の望月ですけど、おたくさんは」
「結城さんに、何かあったんですか」
「それが」
「結城さんに、電話に出てもらえますか」
「おたくさんは」
「あっ、失礼。私は奈良西署の倉沢と言います」
「警察。警察がなんで」
「結城さんは」
「なんも、言いませんのや」
「無事なんですか」
「無事って、どういうことです」
「何も、ご存じないようですね」
「どないなってますのや」
「詳しくはご説明できませんが、昨日、お嬢さんの朝子さんが自殺をされました。昨日、結城さんを送って行ったのは私なんですが、様子が心配だったんです。今日は非番ですが、夕方に一度行きますから、結城さんをお願いします」
倉沢はそれ以上詳しいことは言わなかった。
望月は食堂の椅子に座り込んだ。
「なんやて」
望月の妻の恵子が、望月の横の椅子に座って聞いた。
「警察や、あっちゃんが、自殺やて」
「あっちゃんが」
恵子と小村が息を呑んだ。望月夫妻は朝子が生まれた時から朝子を可愛がってきた。朝子も二人をほんとの叔父叔母と慕ってくれていた。それよりも、二人は父親である真人の朝子に対する愛情を知っていた。もし、ほんとに朝子が自殺したというのなら、真人の様子は納得できるが、朝子と自殺は結びつかない。
「警察は、どない、言うてんの」
「自殺したとしか、言わへん」
「あほな。あっちゃんに限って、そんなこと」
「わしも、そう思うけどやな、真人さんの様子がな」
「うん」
「夕方に警察の人が来てくれるらしい。わしは、会社に戻るけど、お前はここにおれ。もし、警察の言う通りやったら、真人さんは、今、どん底におるんや。先ずは体力や。無理矢理でもええ。何か食べささなあかん。水分補給もせなならん。わかるか。二人で知恵絞って、なんとか食べさせるんや」
「せやな。わかった」
三人にとって結城真人は大切な人だった。生活のためだけではい。集団の中心にいる人物にはそれだけの存在価値がある。

望月康夫が取り仕切って、朝子の葬儀が五日後に行われたが、真人は出席しなかった。親族が一人もいない葬儀は珍しい。結城朝子の親族は真人しかいない。結城の血筋はそれまでも細々と繋がれていたのに、唯一の子孫である朝子が死んでしまった。学校関係者には事件を理由に参列を断ったので、参列者は近隣の住人だけだった。
一週間、真人は仏間から出てこなかった。望月恵子と小村舞子の努力にも関わらず、真人はほとんど食事を摂らなかった。痩せ細り、目だけが不気味に光る男になっていた。
真人の希望で、望月は真人の代理としてS電気に辞表を持って行った。会社側は落ち着くまで待つから辞表は受け取れないと言ったが、望月は無理に預けてきた。

奈良で朝子の葬儀が行われていた日に、大阪箕面署が公務執行妨害の犯人として千葉直樹という22歳の男を逮捕した。結城朝子強姦容疑で内偵していた千葉直樹に職務質問をしたところ、暴れて刑事の前歯を折る怪我をさせたためだった。奈良県警にも正式の連絡がきたが、柔道の近畿大会で楠木刑事の好敵手となっていた箕面署の安達巡査部長からプライベートな連絡も入り、楠木と倉沢の二人は取り調べに参加することになった。本人は強姦に関しては否認しているらしい。DNA鑑定が出る日を待って二人は箕面署に出かけた。
千葉直樹は180センチの堂々とした体格の持ち主で、刑事に怪我を負わせた腕力は頷ける。ただ、顔には凶暴な男特有のふてぶてしさがあった。誰が見ても、喧嘩相手にはしたくないと思うだろう。取り調べ室でも、全く臆する素振りは見せないらしい。
「三日の日、神戸に行ってたと、言ってたよな」
「そうだっけ」
「そう記録されてるけど、違うのか」
「忘れた。そんなん」
「大阪城近くの病院駐車場には行ったことがない、と言ってたが、それも忘れたか」
「ああ。忘れたな」
「そこで、アベックを襲って、強姦したろう」
「さあな」
「駐車場で、お前の体毛が出てきた。なんで、お前の毛が、そんなとこから出てくるんだ」
「知らん」
「お前、女を強姦して、中に出したろう」
「だから、知らん、言うとる」
「だったら、なんで、お前の体液が女の子の体から出てくるんだ」
「さあ」
「DNAが一致した。DNAをなめたらあかんで。今じゃ立派に証拠になるんや」
「知るか」
「アベックの、男の方を憶えてないか。面通しで犯人はお前やと言うとる」
「あの、アホが。チクったのは、あのガキか」
「やったんやな」
「あんたら、字を間違えとるな。あれは、強姦と読まずに和姦と読むんや」
「強姦とちゃうのか」
「和姦や。いいケツしとったから、教えたろ、言うたら、自分でケツ出したんや」
「殴ってか」
「あれ、刑事さん。なんも知らんな。喜ぶ奴がおるんやで」
「男を手錠で繋いどいてか」
「手錠。なんじゃ、それ」
「男が騒がんようにしたんと、違うんか」
「あほ、言いなや。あいつ、車の中から涎たらして見とったんやで」
「けど、やったのは、やったんやな」
「せやから、和姦や、言うてるがな。この前、あの女自殺した、言うてたな。生きとったら、証言できたのにな」
「そんな言い分通るか」
「合意の上の、行為や。あの女に聞いてみいや。悦んどいて、自殺なんかされたら、かなわん。俺がまるで強姦犯みたいや」
一日中、千葉直樹は強姦を認めなかった。
奈良西署の二人は暗い表情で帰路についた。
「楠木さん。どうします」
「何を」
「内村健太の証言」
「ああ、あれな。どうしょうもないやろ」
「被害者の親には、言っといた方がいいと思いますけど」
「わざわざ、言わんでもええやろ」
「でも、公判になったらわかりますよ。手錠の話はあの男が言ってることの方が説得力ありますよ。自宅にガサかけても、手錠は出てこないでしょう」
「そん時は、そん時や」
「あの子も、なんで、あんな嘘つくんですかね」
「誰でも、自分がかわいい。しゃあないやろ。新聞部の取材でも、あの二人にとってはデートやったやろ。連れの女を守れんかったんや。嘘もつきたくなる」
「はあ」
「あの親は、だいぶ痛んどる。今、傷の上に塩塗る時と違うで。いずれ、わかるかもしれんが、わしらはあの子の証言をゆがめて伝えたわけと違う。余計な事を言わんだけのことや。違うか」
「いえ」

暗く沈んだ結城邸を楠木刑事と倉沢刑事が訪れて、初めて真人が仏間を出た。
「結城さん」
二人の刑事は真人の様子をみて絶句した。別人に見えた。
「大丈夫なんですか」
倉沢刑事が恐る恐る声をかけた。
「はい」
「結城さん。今日は犯人が逮捕されたことを、ご報告に来ました」
「はい」
「大阪の箕面署が公務執行妨害の罪で千葉直樹という男を逮捕しました。まだ、自供はしていませんが、物的証拠から犯人に間違いないと思います。大阪南署から、強姦罪の逮捕状も出ました。いずれ、起訴されると思います」
「ありがとうございます。これで、娘に報告できます」
「犯罪被害者支援のシステムもあります。なんなと、ご相談ください」
「はい。その節は、お二人にも、病院の方にもご迷惑かけました。申し訳ありませんでした」
「とんでもない。私にも娘がおります。私なら、もっと暴れてたかもしれません」
「はっきりと憶えていないんですが、私が暴れて、看護師さんが怪我をされたと、おっしゃってましたね。看護師さんのお名前、わかりませんか。謝りに行きたいと思ってます」
「名前はわかりません。看護師さんは事件にはしないと言ってくれましたので、警察には資料がありません」
「そうですか」
二人の刑事は言葉少なく帰って行った。
真人は仏間に戻った。望月恵子と小村舞子は事件の後、真人の家に常駐していたが、腫れものに触るようにして遠くから見守ってくれている。
仏壇には納骨をしていない朝子の遺骨がある。
「朝子。犯人が逮捕された」
「智子。すまん。お前たちのいる所へは行けない」
解けないパズルが、犯人逮捕で解けたようだ。悪魔に魂を売れば済むことなのだ。地獄に落ちる覚悟はできている。智子と朝子のいる場所に行けないことは残念だが、仕方がない。朝子の仇打ちではない。自分にできることをする時間が欲しかった。役目を終えれば、命に未練はない。智子も朝子もいないこの家には、生きる価値も見つけられない。
真人は食堂で望月恵子が作ってくれた雑炊を食べた。想像していたほどは食べることができなかったが、恵子は喜んでくれた。
夕方になって、望月専務がやってきた。
「社長。犯人が逮捕されたそうですね」
「刑事さんが、来てくれました」
「よかった」
「望月さんには、何から何まで世話かけました。すみません」
「あほな。当たり前のこっちゃ。雑炊、食べてくれはったらしいな。恵子が喜んどります」
「恵子さんにも小村さんにも、我儘言いました」
「なに、言うてんねん。真人さんは、わしらのボスなんや。気にすることやおまへん」
「すみません。ちゃんと食べます」
「ほんまやで」
「それと、仕事の方ですが、もう少しまかせきりでいいですか」
「はい。慣れとります」
「すみません」
真人の代になってから、結城不動産は不動産売買をしていない。売買する不動産がないわけではないが、相続税のために寝かせてある。真人の父も真人も商売熱心ではなかったので、代替わりをする度に資産が減っていくのは仕方がない。地方都市だが、駅前の一等地に七棟の貸しビルと住宅街にある二棟のマンションを合わせれば9棟あり、結城不動産はその管理だけをやっている。社員は五人いたが、公務員みたいにおっとりした人たちで、賃貸契約と修理、そしてクレーム処理が主な仕事だった。社長の真人がいなくても何の問題もない会社だった。
一ヶ月後には、自分の食事は自分で作るようになり、望月恵子も小村舞子も本来の仕事に戻った。真人が暴れた病院の看護師を捜して謝罪に行き、慰謝料を本人が受け取ってくれなかったので、病院に寄付をした。金持ちの我儘に過ぎないことはわかっていたが、この事件に関することでは自分の我を通す決心をしていた。
警察署で犯人の情報をもらった。強姦罪で正式に起訴されており、住所、氏名、年齢は公判になればわかることだからと言って倉沢刑事が教えてくれた。犯人は22歳で学生となっているが、保護者である親は一度も連絡をしてきていない。もっとも、真人には会うつもりがないので、かえって面倒がなくてよかったと思っている。ネットで強姦罪に関する項目も調べた。そして、求刑10年、判決8年、実質刑期は5年から6年と想定した。
真人は地味な服装で大阪に来ていた。
扇町公園の近くにある甲斐探偵社を捜していた。既に、探偵社を3社訪問したが、どの所長の眼差しにも満足できなかった。どんなことでもご相談くださいと言うが、依頼主に対してもあらゆる対応があると、その目が言っていた。自分の利益のためなら、瞬時に味方にも敵にもなりうる。笑顔の裏にそんな腹の底が見えていた。
路地に入った所にある扇町第一ビルは、50年前ならビルと呼ばれたかもしれないが、既に耐用年数は終わったと言われるような建物だった。広くない、暗い階段で3階まで登った。確かにドアには甲斐探偵社と書かれていた。真人は期待を持たずにドアをノックした。
部屋の中はビルの外観から想像していたものとは違い、明るくて清潔な感じがした。壁にはポスターの類もなく、応接セットではなく会議机が置かれている。若い女性が電話をしながら手で座るように言った。真人は椅子に座って周りを見た。見る人によっては殺風景だと感じることもあるだろう。女性は電話をしながらメモをとることに集中していて、真人の方へ視線を向けることもなかった。
「すいません。お待たせしました」
短い髪がよく似会う女性で、何よりも目が明るかった。真人は立ち上がって頭を下げた。
「どうぞ」
女性は名刺を真人の前に置いて、自分も座った。甲斐探偵社の所長で甲斐雅子という名前らしい。
「結城、です」
「初めまして。ここ、探しました」
「はい」
「ですよね」
笑顔もさわやかだった。
「結城さんは依頼人に見えるんですけど、まさか、セールスとかじゃないですよね」
「はあ。依頼人になるかもしれません」
「探偵社を使うのは初めてですか」
「ええ」
「眉に唾つけなから、ドアをノックしました」
「まあ」
「何社か回られましたね」
「ええ」
「結城さんの目、不審チェックモードになってます。で、ここは、どうですか」
「はあ」
「普通、私の方から質問させていただくことが多いのですが、結城さんの場合は、私が質問に答えた方がよさそうですね。不審を取り除いていただくために」
「まあ」
「何でも聞いてください。心配ですものね」
「いいんですか」
「ええ」
「何人で、やってるんですか」
「二人です。二人と言っても、留守番をしてくれる母と私ですから、実際には私一人ですね」
「おいくつ、ですか」
「37です」
「開業されて、何年目、ですか」
「二年です」
「依頼人は、多いですか」
「いえ。少ないと思います」
「続けるの、大変でしょう」
「ええ。大変です。今は下請け仕事の方が多いですね」
「下請け」
「ええ。同業者の人手が足りない時に手伝いをします」
「どうして、探偵社を」
「私、警察官だったんです。ある事情があって、この事情も話さなければいけませんか」
「いえ」
「ある事情があって、退官しました。で、私にできること、それが、この仕事でした」
「ご結婚は」
「別れました」
「お子さんは」
「いません」
「探偵さんって、どの位、秘密が守れるんですか」
「難しい質問ですね。少なくとも、私は、何があっても、と考えています」
「法に触れても、ですか」
「それは、困りますね」
「あなたが、法に触れるという意味じゃありませんよ。調査の途中で違法行為に遭遇した時に、見なかったことにできますか。道義的責任が出てきますよね」
「すみません。この答えは、少し保留させていだいても、いいですか」
「時と場合による、ということですか」
「はい」
「そうですか」
真人は口をつぐんだ。
「どうやら、そこが肝心なとこのようですね」
「まあ」
「多分、ご事情がおありなのでしょうが、無条件に受け入れることは難しいかと思います」
「そうですよね」
「硬いこと言っていたら、商売にならないんですが、依頼人を裏切るのも嫌ですから」
「ええ。簡単に引き受けてもらっても、信用できません」
「わかります。もし、その事情をお話いただければ、はっきりとお答えします。もちろん、お聞きした内容は私の誇りにかけて守ります」
真人にとっても決断のしどころだった。探偵社の力を借りることは不可欠だと思っている。
「少し、時間かかりますけど、いいですか」
「ええ。うち、時間だけはあります」
真人は思わず笑いそうになった。
「失礼」
「いいんです。ほんとのことですから」
「ある男の調査を、長期にわたってしたいんです」
「長期、ですか」
「ええ。多分、五年くらい」
「五年」
「ですから、私の顧問探偵社になってもらうことになります。一年ごとの契約で、最短でも五年間継続したい。最初に着手料を二百万払います。年間の契約料は六百万の予定です」
「恐ろしいほどの金額ですね。五年間だと三千万になりますよ」
「あなたが、悪魔に魂を売る金額です。高くはありません」
「悪魔に」
「事情をお話します。私には高校一年の娘がいました。私にとっては、自分の命より大切な娘でした。その娘が、先月、自殺しました。原因は強姦されたことです」
「強姦」
「ええ。犯人は逮捕され、近いうちに裁判が始まります。でも、犯人は五年もすれば戻ってきます。そして、また、同じことをするでしょう。そして、いつか、強姦罪で再逮捕されることになります。私は、犯人の余罪を告発したいし、司法のゆがみも指弾したい。野獣のような男を五年で解き放つ司法は市民を守っていることにはなりません。私の娘も、そんな司法のゆがみに殺されたのだと思っています。警察におられたのだから、強姦が親告罪だということはご存じですよね。うちの娘以外にも犠牲者はいたと思いますが、犯人は自供していません。たぶん、犯人にとって、強姦は軽いものだったのでしょう。私は自分の人生をかけて、あの男の、司法の前に立ちはだかりたい。だから、あなたがこの仕事を引き受けると、強姦の目撃者になることになります。強姦を阻止するのではなく、強姦の証拠のために見過ごしてくれと依頼しなければならない。道義的責任への強い違反が生じます。ですから、悪魔に魂を売ってもらえないかと言ったんです」
甲斐雅子の表情は固まっていた。
「強姦被害者の願いは何だと思いますか」
「・・・」
「犯人を刑務所に閉じ込めておくことです。現在の司法は機能していません。野獣はやりたい放題です。娘は死んでしまった。しかも無駄死にです。親が娘の死に、ほんの少しでも意味を持たせてやりたいと思っても許されると思いませんか」
「でも、犯罪を見過ごせと」
「ええ。自分勝手だと思います。ただ、あなたが目撃者になるのは、依頼があったからですよね。監視していたから、その現場に遭遇するのです。でなければ、誰も知らずに過ぎていくのです。これが詭弁に過ぎないことは承知しています。どうですか。悪魔に魂を売ってくれませんか」
「少し、時間をいただけませんか」
「もちろん、です」
真人は自分の名刺を出して、裏に携帯電話の番号を書き足した。
「一週間待ちます。決心がついたら、電話ください」
「はい」
真人は立ち上がった。
「甲斐さん。この事務所は感じがいいです。あなたも、いい探偵さんになると思います。ご縁がなかったとしても、ぜひ、がんばってください」
「はい。ありがとうございます」
真人は甲斐探偵社を出て、梅田まで歩いた。甲斐雅子が断ってきてから次の探偵社を捜すつもりだった。甲斐雅子に強姦現場を見過ごせと言ったが、彼女がそんな状況になることはないはずだと考えている。その前に、犯人の千葉直樹は死ぬことになる。真人の殺意を探偵に知らせる訳にはいかない。結果的に甲斐雅子を騙すことになるのが気の毒だったが、もう悪魔に魂を売ってしまった真人に選択肢はなかった。
翌日の夕方になって、甲斐雅子から電話があった。
「今、ご自宅ですか」
「ええ」
「住所、教えてください」
「自宅の」
「はい。今からお邪魔して、いいですか」
「いいですけど」
突然で驚いたが、住所を伝えた。
「G駅からの距離は」
「私の足で五分です」
「じゃあ、五分後に」
甲斐雅子には、昨日会った時にあった柔らかさがないように感じた。でも、断るためだったら家まで来る必要はない。真人は落ち着かない気持ちで五分待った。
五分後にチャイムがなった。
オートロックの門扉を開け、玄関のドアを開けて甲斐雅子を待った。
「突然ですみません」
「いえ。どうぞ」
応接間ではなく、食堂に通した。
「コーヒー、入れたとこなんですが、飲みますか」
「いただきます」
「すぐに、わかりました」
「ええ。捜しものは専門ですから」
「そうでしたね」
「今、お一人ですか」
「ええ」
「ご家族は」
「もう、いません」
「奥様は」
「家内は三年前に亡くしました」
「そうでしたか」
「砂糖は」
「いえ。ブラックで」
コーヒーを渡して、真人も座った。
「甲斐さん。何か怒ってます」
「えっ」
「怒ってますよね」
「そうですか。そう見えますか。多分、自分に腹が立っているんだと思います」
「どうして」
「正直に言って、いいですか」
「ええ」
「私、金に目が眩んだんです」
「それが、悪いことですか」
「そういう生き方、してきましたから」
「でも、どこかで転機はきます。褒めたことではありませんが、それが大人になるということなんじゃないですか」
「母にも、そう言われました」
「で、今日は、私に支払い能力があるのか。確認ですか」
「それも、あります」
「他にも」
「はい。仕事をさせていただくために」
「そうですか。ありがとうございます」
「いえ。礼を言うのは私の方です。行き詰っていたんです。看板を下ろすことも考えていました。でも、私、好きなんです。この仕事」
「甲斐さん。女性のあなたに言うのも変ですけど、人間はどこかで潔さを求められます。開き直ってみませんか」
「・・・」
「怒っていては、話が前に進みません」
「女々しいと」
「そう、思います」
「そうですね。ごめんなさい。私、女々しいの、一番嫌いなんです」
「コーヒーを」
「あっ、はい。いただきます」
甲斐雅子の肩の力が抜けたように見えた。
「改めて、この仕事引き受けさせていただけませんか」
「もちろんです。あなた以外に、いません」
「ありがとうございます」
甲斐雅子の表情に柔らかさが戻ってきた。
「一寸、待っててください」
真人は仏間に置いてあるカバンを取りに行った。最近は仏間が真人の書斎になっている。
「住所と名前です」
千葉直樹の名前と住所が書かれている紙を雅子に渡した。
「お聴きしてもいいですか」
「はい」
「裁判が始まるとおっしゃってましたよね」
「ええ」
「有罪になれば、この男は服役しますよね。出所まで、何をすればいいんですか」
「ええ。仕事の量から言えば、最初と最後が大変です。途中は確認作業くらいしかありません。ですから、最後の仕事をしてもらうための年間契約です。あなたには、五年後も、探偵をしていてもらわなければならないし、五年後に忙しくて断られても困ります。何よりも大事なのは守秘義務の履行です。そのための費用です。数社しか回っていませんが、信頼できる探偵さんは、あなたしかいないと感じたのです」
「そうですか」
「これは、私個人の、言ってみれば我儘に過ぎません。一個人が国を相手に喧嘩をしても意味のないことかもしれませんが、私は我儘を通したい。ですから、あなたに迷惑がかからないように、最大限の努力をします」
「わがまま、ですか」
「甲斐さんは警察官をされていたから、刑法の近くで生きてこられたでしょうが、私の生活は刑法とは無縁のものでした。私は、今まで、大人しくて、分別のある模範的な市民だったと思います。でも、我々、市民がほんとうは守られていないことを知ってしまいました。ですから、模範市民を辞めて、国と、司法を相手に喧嘩する市民になろうと思いました。非難されることは覚悟しなければなりません。でも、その非難が私以外の人に及ぶことは避けなければなりません。あなたの名誉を全て守るとは言い切れませんが、全力で守ります」
雅子が頷いた。刑法に問題があることはわかっているようだ。
「強姦罪には多くの問題があります。多分、問題は強姦罪だけではないのでしょうが、大声をあげないと、是正の方向へは向かいません。傲岸不遜と言われても、私は問題提起をしたい。あの世に行って、娘と顔を合わせることができるように、あの世でも父親だと思ってもらえるようにしたい。変ですか」
「いえ」
「仕事の話をしても、いいですか」
「はい」
「いろいろ、注文を出しますが、いいですか」
「はい」
「先ず、この仕事は、裏仕事にしてください」
「裏、仕事ですか」
「甲斐探偵社も帳簿をつけてますよね」
「はい」
「私の仕事は、売上に計上しないでください。領収書も不要です。支払は全額現金で手渡します。いいですか」
「はい」
「私は、犯罪に抵触しそうなことをやろうとしています。そして、いずれ、私のやったことは表に出ることになります。いえ、表に出すことが目的なんです。警察が動くかもしれません。あなたと私の関係は誰にも知られたくありません。私は二度とあなたの会社を訪問することはないし、あなたもここへは二度と来ないでください。どこかで会ったとしても、知人ではなく他人でいてください。次に、お互いの携帯に経歴を残したくないので、連絡方法はあなたが考えてください。その他、警察が捜査しそうなことを想定して対策を打っておきたい。あなたなら、それができますよね」
「そこまで」
「そうです。そのことを前提として、その男の身辺調査をお願いします。家族、友人、学校、できるだけ詳細な調査をお願いします。納期は決めません。無理をせずにやっていただきたい。男が出所するまでの間は、その調査事項の変更を調査するだけで結構です。刑期も決まっていませんので、出所時期は不明ですが、できるだけ早く出所の時期を掴んでください。出所後は、可能なかぎり男の行動を監視していただきたい。ただし、監視だけです。その費用は別途出します。そして、成功報酬も出します。どうですか、できそうですか」
「やります」
「よかった」
真人は鞄の中から封筒を取り出して、雅子の前に置いた。
「着手金の二百万です。次にお会いした時に顧問料は払います。半年ごとの前払で、いいですか」
「はい。少し、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「このお金を持って、私が逃げたら、どうされるのですか」
「諦めます」
「五年後に、私が、こんな話は知らないと言ったら」
「それも、諦めます」
「どうして」
「自分の判断が間違っていたことになります。誰のせいでもありません。自業自得です」
「もう一つ。いいですか」
「ええ」
「この話、あまりにも、おいしい話ですよね。まだ、何か裏があるような気がしてならないんです。いえ、引き受けないと言ってるんじゃありません。どんでん返しは好きじゃないんです」
「そうですか。でも、どんでん返しはありません。私には別の計画もあります。まだ実行するかどうか決めていませんが、刑法に抵触するかもしれないという話ではなく、犯罪そのものの話です。もちろん、探偵さんにできる仕事ではなく、暴力団の仕事になるでしょう。もしも、あなたが泥をかぶるつもりなら、一億でも二億でも出します。あなたは、そんな人ではない。この仕事であなたに渡すお金は多くても五千万まででしょう。別に惜しい金ではありません」
「価値観の違い、ということですか」
「そうです。そして、たまたま、私が金を持っているということです」
「結城さんに裏切られたくありませんが、裏切られたとしても立ち直る覚悟を持つことにします」
「無理、言って、すみません」
「いえ。結城さんの信頼に答えたいと思っています」
「ところで、夕食、まだですよね」
「はい」
「パスタでよければ、作りますが」
「いえ。とんでもありません」
「この十年は、あなたと食事する機会はないでしょう。同志になっていただいたお礼です。料理の腕はかなりいいんです。食べていってください」
「はあ」
「待っている間に、簡単な計画書ぐらいできるでしょう」
「わかりました。ご馳走になります」


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