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復讐 - 4 [復讐]



起訴の判定をするために真人は検察へ送られ、検事の取調べを受けた。
担当検事は笹本と名乗った。
「拉致、監禁、拷問、自殺。あなたは、この自殺が殺人に当たることも知っている。そういうことですね」
「はい」
「前代未聞の犯罪ですが、何か言いたいことがありますか」
「はい。裁判で言います」
「不起訴になったら、言う場所がなくなりますね」
「はあ」
「仮に、の話ですよ」
「不起訴にした時、私の身柄をどうするんです」
「ですから、仮の話です」
その時、部屋に一人の男が入ってきた。事前の打ち合わせは終わっているようで、男は黙って座った。
「あなたは、犯行を積極的に自供しているし、物証もあり、起訴を望んでいるようにも見えます。どうしてですか」
「質問の意味がよくわかりません」
「ま、いいでしょう。あなたを起訴することにします。山岡検事、何かききたいことがありますか」
「よろしいですか」
「はい」
「では、結城さん。私は東京地検の山岡と言います。私の名前を知っていますか」
「いえ」
「恩田敬一郎という名前を知っていますか」
「恩田さん」
「知ってますか」
「わかりません」
「わからない、ということは、知っていると解釈していいのですね」
「さあ」
「恩田さんの話しでは、あなたがテロ計画を進めているということですが、それに間違いありませんか」
「テロ計画。穏やかではありませんね。その恩田さんは、何か証拠を持ってるのですか」
「そのような計画はないのですか」
「おっしゃっている意味が、よくわかりません」
「結城さんは、内乱罪という言葉を知っていますか」
「ええ。聞いたことはあります」
「その量刑も知っておられる」
「確か、最高刑が死刑で、最少刑が死刑だったと思いますが」
「よく、ご存じですね」
「それは、私に内乱罪を適用するという脅しですか」
「まさか。そんな計画は持ってないのでしょう」
「今から、計画してみましょうかね。面白そうです。戦前は知りませんが、戦後で内乱罪を適用された事件はありませんよね。私は有名人になれそうです」
「どうやら、本気で戦うつもりのようですね」
「・・・」
「簡単にはいきませんよ。おやめなさい」
「国に逆らって、どうする、ということですか」
「お訊きすることは、以上です」
真人には、この先の展開は読めない。検察も読めていないのではないか。前例のない事態に対しては創造力しか役に立たない。そう言う意味では五分五分だとも言える。

起訴が確定し、真人の身柄は大阪拘置所に移された。真人が出した条件が厳しかったのか、まだ弁護士が決まっていない。どうやら、望月には迷惑をかけているようだ。更に、検察の意向があったのか、面会も許されていない。着替え等の差し入れはあるが、外部とは絶縁状態のまま、大阪に移送された。
拘置所に収監されて三日目に弁護士面会があった。父親の代から世話になっている三塚弁護士事務所の二代目が若い弁護士を伴って来ていた。
「三塚先生。お手数をかけてすみません」
「とんでもない。遅くなってしまった。真人さんの弁護を引き受けてくれる伊東圭介先生です」
「伊東です」
「結城真人です」
伊東圭介弁護士は三十を超えたかどうかという若さだった。背が低く顔の造作が大きいという印象が第一印象だった。
「伊東先生は、伊東洋平先生の御子息で、前途有望な方です。間違いなく、真人さんの力になってくれると思います」
「はい。よろしく、お願いします」
「若輩者ですが、全力でやらせてもらいます」
「若い弁護士さん、大歓迎です。検察でも前代未聞の犯罪人と言われました。前例や司法界の常識は役に立たない可能性があります。ぜひ、一緒に戦ってください。もちろん、手に余ると思ったら遠慮せずに言ってください。あなたのキャリアを潰してしまうかもしれませんから、その時は早めにお願いします」
「お言葉ですが、僕、根性なしに見えますか」
「そうは言ってません。心配は、一つ間違うと、あなたを潰してしまうことになるのではないかということです。弁護士として、これからだと言う時に、躓く必要はない。本心からそう思っているんです」
「大丈夫ですよ。弁護士辞めても、私は生きていけます。というか、辞める機会を狙っているのかもしれません。ただ、中途半端は嫌いなんです。今は弁護士ですから、弁護士として徹底的にやりたいと思ってる。私の人生よりあなたの人生を考えましょうよ」
「ありがとう。そう言ってもらえると、無茶が言えそうだ」
「やりましょうよ」
「伊東さんが、この案件を引き受けようと思った動機はなんですか」
「司法制度への挑戦だとお聞きしたからです」
「あなたも、その司法制度のど真ん中にいますよね」
「ど真ん中ではなく、端の方にいます。私から見た司法は制度疲労で健康体とは言えません。風穴を開ける時が来ていると思っています」
「あなたのこと、先生と呼んでませんが、違和感ありませんか」
「名前で呼ばれて、とても新鮮に感じています。僕みたいな若造が先生と呼ばれることの方がおかしい。これも、制度疲労ですよ」
「先日、不起訴にしたらどうするつもりだと検事に言われました。内乱罪を適用するとも言われました。この意味わかりますか」
「不起訴ということは、闇に葬るということですか」
「多分、薬漬けにするという脅しでしょう。今でも、まだそんな事例があるとは思いませんので、軽い脅しなんでしょう」
「内乱罪ということは、無条件に死刑だという意味ですよね」
「そうです。私は、そのくらい検察に嫌われていると言うか、危険分子だと思われているってことです。彼等は本気で向かってきますよ」
「そのようですね」
「法律論だけではすみません。やれますか」
「やります。こんなチャンス、滅多にありませんよ。内乱罪ですか」
「私には、テロ計画があることも事実なんです」
「えっ」
「どうしますか」
「それは、困りました。テロの片棒を担ぐわけにはいきません」
「ですよね」
「テロだけは、外してもらえませんか」
「難しい、ですね。ここが鍵になりますから」
「テロの目的はなんですか」
「司法の変革です」
「それで、テロですか」
「他に方法があれば、テロでなくてもいいんですが」
「他に方法はないと考えておられる」
「検察は現司法を守るために脅しをかけてきているんです。この時代、国に対抗できるのはテロぐらいしかないのではありませんか」
「正直、困りました。一日だけ時間くれませんか」
「いいですとも」
「具体的な要求はあるんですか」
「あります。強姦罪の量刑を30年以上にしてもらいたい」
「現在は3年ですよね。30年ですか」
「変ですか」
「いえ。考えてみます」
翌日、伊東弁護士が一人で面会に来た。
「結城さん。この裁判、僕も参加させてください」
「いいんですか。あなたのお父さんのことはよく知りませんが、有名な方なんでしょう」
「だと思います」
「お父さんに迷惑がかかりませんか」
「ですから、一日時間を貰いました」
「説得したということですか」
「いえ。宣言したと言った方が合ってます」
「お父さんは、テロのことも承知なんですか」
「まさか。依頼人の重大秘密ですよ。話す訳にはいきません」
「でも、三塚先生が話すでしょう」
「それは、僕の事情ではなく、結城さん、あなたの守備範囲です。三塚先生のおられる場所であの話をしたのは結城さんですから」
「たしかに」
「二人しかいませんが、僕たち弁護側のリーダーは結城さんのようです。パートナーとは思っていません。僕は部下に徹します。それで、いいですか」
「ありがとう。私はいい弁護士さんに会えたようですね」
真人は事件の内容について話をし始めた。ただし、共犯容疑の心配がある甲斐探偵社のことだけは伏せておいた。
「伊東さん。三塚先生と結城不動産の望月専務に、あなたが弁護を引き受けたことを知らせてやってください」
帰り支度をしている伊東に頼んだ。望月は心配していることだろう。
「はい」
「弁護料の件も望月専務にお願いしてあります。それと、刑法関係の本と参考資料をできるだけ揃えて差し入れてください」
「はい」
翌日、伊東と一緒に望月と奈津子が面会に来た。弁護士が選任された以上、面会の制限は難しいと考えたようだ。
「なっちゃん」
「元気そうで、よかった。届は出しました」
「ありがとう」
「私、待ちます。真人さんと、一日だけでもいいから一緒に暮らしたい。帰って来てください」
真人は立ったままで、深く頭を下げた。一緒に暮らす日がくることはないだろうが、気がかりは一つ消えた。朝子の父親としては精いっぱいのことをしているが、奈津子に対してはいい男とは言えない。男の身勝手を許してもらえるだろうか。
「これで、専務は私の父親になった。お父さん、不肖の息子をお願いします」
「そんなん、照れるがな」
「香織ちゃんは」
「誇りに思ってる、と言ってました」
「ほんとに、すまない。皆には迷惑かけてしまう。許してください」
「うんん。真人さんの思い通りにやって。でも、帰って来て欲しい。今日は来れなかったけど、香織も同じ気持ちです」
「皆さん、座りましょうよ」
伊東が気を利かせて二人に椅子を勧めた。一般面会なので、伊東は気軽な気持ちでいれるのだろう。
「事務所にも家宅捜索が来ましたで」
専務の顔には、その後のことを報告したいという表情があったが、真人は目で制した。詳しいことは二人の時に話をしたかった。
「事務所にね」
「あっちゃんの遺骨は、納骨しましたで」
「ありがとうございます」
「家の方は、まだ、ほったらかしや」
「そのうちに、考えましょう」
「ともかく、元気そうな顔見れて、よかった。ん」
「伊東さんの弁護料、頼みますよ」
「わかってまんがな」
「面会手続き、わかりました」
「おう。ばっちりや」
「また、面会にきてくれますか」
「もちろん」
「あっちゃん、も」
「はい」
「ありがとう」
「ほなな」
「伊東さんは」
「お二人を送ったら、来ますから」
「お願いします」
翌日、朝一番に望月が一人で面会に来た。
「すみません。忙しいのに」
「なんの。あの先生、なんかありまんのか」
「いや。それをお願いしようと思って」
「ん」
「丸調を」
「丸調」
不動産業では、それなりに信用調査が必要になる。トラブルが起きた後の方がコストがかかるので、結城不動産は個人の調査を含めて探偵社も利用していた。社内では調査のことを丸調と言っている。
「この関係を、一か月」
真人は手を広げて望月に見せた。手の平には、検察と公安の文字がサインペンで書かれている。大声で話ができる内容ではない。
「事務所の捜索は、どうでした」
「大慌てや。初めてやし」
「何か持って行きましたか」
「もう、戻してもろたけど、帳簿を持って行きよった。うちの帳簿は模範生やから、怖いことあらへん」
「他には」
「そけだけ」
望月に預けた紙袋は無事だと望月の目が言っていた。
「会社のことですが、代表をあっちゃんの名前に変えてください。私の名前ではいろいろと不便になります。それでいいですか、専務」
「わかりました」
「名前だけですから、今まで通り、専務にはやっもらわなくてはなりません。いいですか」
「ああ」
「それから、家の方ですが、警察は」
「もう、ええそうですわ」
「そうですか。なら、あの小屋は撤去してください。一度、警察には断っておいた方がいいかもしれません。欲しいと言うなら持って行ってもらってください」
「ああ」
「あの家の処分は専務に任せます。私が残しておいて欲しいものは仏壇だけです。それも、私が死んだら処分してもらっていいです」
「真人さん」
「あっちゃんが住んでくれるのなら、すっくり、建て替えてくれてもいいです」
「まあ、まあ。まだ先の話にしましょ」
「専務。届のこと、口出ししてないでしょうね」
「それは、ほんまに、しとらん。あれは奈津子の意思で決めたことや。ここだけの話やけど、あいつは嬉しかったんやと思うわ。ずっと、そう思てたんやろ。智子さんには、悪いけど、あんたを待つ気らしい」
「専務も、私のこと、ひどい奴だと思ってますか」
「いや。真人さんのこと、わしは、男やと思う。家族のために、ここまでできる奴は滅多におらん。わしが真人さんの立場やったら、と思うと自信がない」
「でも、あっちゃんは女だから。悪いと思ってます」
「真人さんの気持ち、あいつ、わかっとると思います」
「恵子さんの具合は」
「心配ない。ここんとこ調子がええらしい」
「そうですか。専務、楽隠居はできませんね」
「する気も、ないけど」
真人は体調不良を理由にして、伊東と打ち合わせをするペースを落とした。実際に体調も悪かった。拘置所は自分の時間で生活できるわけではない。決められた時間に起きて、決められた時間に寝る。不眠のおかげで、真人の睡眠時間は極端に少なくなっていた。
「大丈夫ですか」
「ええ、少し眠れるようなりました。慣れてきたんでしょう」
望月に頼んだ伊東の身辺調査が終わり、不審な点はないという報告を信じて本格的に動き出した。
「伊東さん。箕面の方で白骨死体が発見されたという記事を探してください」
「それが、なにか」
「千葉の犯行です。その結末が知りたい」
「それが、千葉の自供で」
「今日か明日、あなたの所へDVDが届きます」
「はい」
「千葉の拉致、監禁、拷問。全部記録してあります。カメラごと警察に渡しました。その映像のコピーを伊東さんの事務所に送らせました。これは、まだ他には言わないでください。警察は、検察の意向があれば、闇に葬るかもしれません。千葉は11件の強姦と殺人を1件喋りました。11件の強姦を証明することは難しいでしょうが、箕面の死体は、千葉の言った場所から発見されているはずです。検察はこのコピーの存在をまだ知りません。コピーの可能性を疑って結城不動産の事務所まで家宅捜索したのでしょうが、見つかっていません」
「隠ぺいはしないでしょう」
「さあ、それを確認しておきたい」
「ただ、この件を持ち出しても、検察は事件に関係ないと言うでしょうね」
「ええ、でも疑問は増えます」
「状況証拠にはなります」
「うちの娘は千葉に強姦されて自殺しましたが、殺人罪ではありません。私は、千葉を拷問して、千葉が自殺をしました。でも、私には殺人罪を適用するんです。これも、疑問の数に入れましょう」
「状況証拠を積み上げるということは、結城さんは、裁判員裁判を希望ですか」
「ぜひ、そうであって欲しいと思いますが」
「あなたの話を聞いていると、難しいかもしれませんね。検察は承知しない」
「私は、自分の事件で容疑事実として出されるものは、全部認める積りです。ですから、量刑だけが裁判で審理される。裁判員裁判に最適ですよね」
「まあ」
「以前にも言いましたが、私の目的は強姦罪を30年にすることです。自分の量刑は何年でもいい、たとえ、それが死刑でも受け入れます。その目的のために、あらゆる手段を使いたい。伊東さんには、私の犯罪の動機の部分に最大の力をつぎ込んでもらいたい。犯行動機の尋問の中で、テロ計画の話も出します。マスコミにも取り上げてもらいたい」
「マスコミですか」
「何をリークすれば、マスコミが食いついてくれるか、それも考えてください」
「考えてみます」
「法廷で出た話を書くことは、マスコミが責任をとる必要はありません。私にとって、法廷で話すことの一番の利点がそこにあります。できれば、千葉の拷問映像も出して欲しいぐらいです」
「あなたは、命を捨てている。検察にとっては嫌な被告人になりますね。命を捨てたら、どんなことでも言えます」
「そうなんです。テロ計画を話しましょう」
もう、何人にこの計画を話しただろう。真人の頭の中では整理され、流れるような計画に仕上がっていた。
伊東は途中からメモをとることをやめて話を聞いていた。
「なるほど。あなたの心配がよくわかりました。この計画は検察も知っているわけですね」
「そうです」
「この裁判の攻防はここなんですね」
「ええ」
「たしかに、これは前代未聞の裁判になります。でも、検察がどう出てくるのか、想像できません。過去の判例も経験も意味がない」
「そうです」
「僕たちのシナリオが、決め手になる。そういうことなんですね」
「その通りです。そのシナリオを二人で作っていきたい」
「ただ、裁判員裁判は更に難しくなりましたね。検察がうんとは言わないでしょう」
「この部屋も盗聴されているかもしれません」
「まさか」
「保証できますか」
「いえ」
「相手はどんなことでもできるんです」
「ほんとに、テロ計画を実行するんですか」
「相手次第です」
「内乱罪、ですか」
「まだ、予備罪ですけどね」
真人はそれほど裁判員裁判には固執していない。裁判員にできることは真人の裁判の判決に関与することであり、強姦罪には無関係の立場にいる。ただ、司法関係者以外の目が6人分増えることは歓迎したいと思っている。死刑の求刑が予想される裁判になると思われるので、記者席に大勢の記者が来てくれることを期待していた。
拘置所生活が始まって三か月が過ぎた。奈津子は週に一度は来てくれる。香織も二回面会に来てくれた。二人の願いは真人の健康だけだった。最悪の夫や、最低の父親にはなりたくなかったが、どうすることもできない。道理に合わない、辻褄合わせの結婚を押し通しているのだから、責めは負わなければならない。奈津子と香織を巻き込んだことを何度も何度も後悔している。全体を見て、たとえ合理的であっても、人の心を合理で押し切ることはできない。本物の鬼になったのではないかと感じることがあった。
恩田敬一郎が面会に来た。
「どうしました。ここへは来ない方がいいんじゃないですか」
恩田は薄く笑った。見るからに元気がない。
「まるで、駄目。どうしょうもない。あんたには、済まないと思ってる」
「うまく、いきませんか」
「ええ。どいつもこいつも、我が身大事で、話にならん。日頃の話と全然違う」
「いいですよ。恩田さん。無理しないでください。この先、恩田さんの出番が来ますよ。何社かに話をしてくれたんでしょう」
「3社」
「今は、それで良しとしましょうよ。少なくとも、テロ計画の存在を知っている人が増えたことになります。裁判が始まれば、恩田さんのところへ話が来ると思います。直接インタビューしたジャーナリストは恩田さんだけなんですから」
「でしょうか」
「私の裁判で爆弾が落ちるらしいという噂を流しておいてください。必ず、恩田さんに喰いついて来るところがあります」
「まあ」
「元気のない恩田さんは、らしくないですよ」
「ええ」
「ただ、あの絵は大切にしてください。紛失しないように」
「もちろん。あの二千も預かったままでいいんですか」
「きっと、役に立つ日がきます」
元気を取り戻すことなく、恩田は帰って行った。

真人と伊東はシナリオ作成に全ての時間を使った。被告人尋問であっても、弁護人と被告人が都合のいい話ばかりできるわけではない。検察官も裁判官も横槍を入れてくる。特に検察官の横槍はシビアなものになるだろう。弁護側は変幻自在でなくてはならない。
そんなある日、伊東が緊張した表情で面会に来た。
「親父のとこに、検察からの打診がありました」
「えっ。そんなことってあるんですか」
「親父も驚いていました。聞いたことがないと」
「で、どんな」
「結城さんに話し合いの気持ちがあるかどうかです。もちろん直接的にそういう言葉を使ったわけではなく、それらしきことを言って、それなりに判断してくれという彼等の得意技を使っていたそうですけど、言いたいことは、話し合いだろうと、親父は言ってます」
「そうですか。私は話し合い決着でも構いませんが、検察が本気で話し合う積りがあるとは思えませんね。こちらの本音が知りたいだけなんでしょう。敵もシミュレーションの途中なんだと思います。いいでしょう。こちらの条件は強姦罪30年だと言ってください」
「いいんですか」
「もともと、力関係で言えば、我々が勝つ確率は非常に低いと思います。たとえ言質を与えるような言い方をしていないとしても、隠し玉にはなる可能性があります。相手は卑怯な手を使う訳ですから」
「まあ」
「お父さんには、何か言葉を拾ってきてくれるように頼んでくれませんか」
「わかりました」

奈良監禁殺害事件の初回公判が五月の連休後に開かれることになった。事件からほぼ一年が過ぎ、事件は風化し、世間の注目を集めることもないと判断したのか、裁判員裁判になった。この検察側の余裕がどこから出ているのかはわからなかった。この裁判に限れば検察が負ける心配はないが、真人の持っている爆弾を不発にさせる方法が見つかった結果なのだろうか。裁判が始まってみなければわからないと思うしかない。
真人が警察に渡したビデオ映像は検察側の証拠として提出されていない。拷問部屋の映像や千葉の体に残されていた怪我の写真は証拠として出されていて、警察医が証人として申請されていた。弁護側は担当した警察官を証人として申請していたが、裁判前の整理手続きでは比較的短時間の裁判になる可能性もあった。
裁判は10時開廷の予定になっている。一般傍聴席に空席が見られたが、記者席には多くの記者章を手にした人間が群れていた。どこで手に入れたのか記者章を巻いた恩田の姿があった。傍聴席には甲斐雅子がいたが、真人は目線を止めないようにした。望月と奈津子には来ないように言ってある。法廷画家といわれるホームレスのような年老いた画家がスケッチブックを手にして真人の様子を観察している。検察席には、表情の硬い四人の男が鋭い目付きで真人を見ていた。伊東が調べたところ、エース級の検事が担当しているらしい。なぜか、東京地検の山岡が左端に座っている。弁護人席には伊東と助っ人にきた伊東の友人で笹本正平という男前が席についていた。真人が入廷した時には、すでに裁判官席以外の出席者は揃っていた。
裁判は決められたルールを守って始まった。裁判員は男性3人と女性3人の六人。裁判長は学者の方が似合いそうな細身の中年男子だった。
検察官が控訴事実を力強い声で読み上げている。声を聞いているだけでも検察官が強敵であることは間違いない。
「被告人。前へ」
「今、検察官が述べた控訴事実に間違いはありませんか」
「はい」
法廷内がざわめいた。死刑の可能性がある事件で被告人が控訴事実を認めた。
引き続き、検察官が事件の内容を写真やイラストを示しながら説明する。女性の裁判員は画面から目を背ける場面もあった。
「このように、拉致、監禁、拷問の末に、被告人は被害者千葉直樹を自殺に追い込んだのであります。拷問という卑劣な手段を使い、人間を自殺に追い込むなど、あってはならないことであります。人間のすることとは思えません。厳しい審理をお願いします」
検察官は強い口調で締めくくった。何度も拷問という言葉を使い、この犯罪がいかに極悪非道な犯罪であるかを強調した。さすがにエースと呼ばれる検事だけあって、その声には説得力があった。
「弁護人」
「はい。弁護人は、このような惨い事件がなぜ起きたのか。どうすれば、このようなひどい犯罪を無くすことができるのかを求めていきたいと考えています。このような犯罪が二度と起きないようにすることこそが、この裁判の使命であると信じます」
これでは、検察官と弁護人がスクラムを組んで被告人を糾弾する法廷になるような錯覚を与えることになる。裁判員の中には弁護人の言葉が呑み込めていない人もいた。
「証人尋問を始めてください」
「はい。裁判長」
最初の証人は、遺体の検視に当たった警察医だった。
「遺体の傷は何か所ありましたか」
検察官は静かな声で質問を始めた。
「手元に資料を持っていませんが、数が必要ですか」
「それは、記憶できないほどの数だということですか」
「そうですね。無数にと言った方が適切でしょう」
「わかりました。傷の種類はどのようなものでしょう」
「一番ひどい傷は左手小指の爪ですね」
「爪に傷があったんですか」
「いえ。爪を剥がされたためにできた傷です」
「剥がされた。生爪をですか」
「はい。出血もあり、化膿していたので小指全体が腫れていました」
「他には」
「擦り傷と圧迫痕です」
「それは」
「被害者は椅子に縛られていたと報告を受けています。その傷だと思います。それ以外にも本人が暴れたのか、加害者が暴行したのかわからない傷もありました」
「他にもありましたか」
「はい。やけどの跡がありました。多分、スタンガンによる傷だと考えられます」
「ひどいですね。では、次に被害者の死因についてお尋ねします。被害者の死因は何ですか」
「舌を噛み切ったための窒息死。自殺です」
「舌を」
「はい」
「よくあることなんですか。先生は過去にも同じような遺体を見たことがありますか」
「私は初めてです。言葉ではありますが、簡単なことではありません。噛んで血が出る程度では死ねません。完全に噛み切ってしまわないとできないことです。そのような事例は聞いたことがありません」
「ありがとうございます。以上です」
「弁護人は質問がありますか」
「ありません」
「裁判員の方の質問は、ありますか」
「証人は結構です。御苦労さまでした」
「では、次に弁護側の証人をお願いします」
がっしりとした体格の精悍な男が証人席に来た。警察バッヂを出さなくても警察官と認識してもらえそうな楠木刑事だった。
裁判所の規則に従い、証人の身分が明らかにされ、質問が始まった。
「証人は現場で被告人を逮捕した警察官ですか」
「はい」
「どのような経緯で逮捕に至ったのか、話していただけますか」
「被告人からの自首をしたいという電話を受けて現場に行きました」
「逮捕の時のことを伺います。証人は、被告人をどこで逮捕しましたか」
「被告人の家の部屋です」
「その部屋には、誰がいましたか」
「被告人と私と同僚の警察官の三人です」
「証人は被告人を逮捕した時、被告人に向かって、公安に監視されていたことを知ってたか、と聞いたそうですが、それは、どういう意味ですか」
楠木刑事は言葉が出なかった。
「どうしました。もう一度言いましょうか」
「忘れました」
「残念ですね。思い出せそうですか」
「異議あり」
検察官が反応した。
「弁護人は本件に関係のない証言を求めています」
「弁護人の質問の意図はなんですか」
「裁判長。今、検察官は、この質問が本件と関係がないと言い切りました。まだ全容が解明されているわけではないのに、関係ないと言い切る根拠を検察官は持っているのでしょうか」
「わかりました。でも、質問の意図だけはお聞きしておきましょう」
「公安の監視については、被告人の犯行動機に深く係わっております。そのことにつきましては、あとの被告人質問で明らかにしていきたいと思っております」
「検察官の異議は却下します。弁護人は質問を続けてください」
「ありがとうございます」
「答えていただけますか」
「被告人の電話を受けて、同僚と二人で被告人の家に急行しました。被告人の家の近くに不審車両がいたので、車を降りて職質をかけました。そこにいたのは、大阪府警の公安の人間でした。名前は知っていますが言いたくありません。その男は、結城になにかあったのかと聞いてきました。結城というのは被告人の苗字です。警察官なら、それだけで公安が被告人を監視していることがわかります。被告人は人を殺したようには見えませんでしたし、落ち着いていました。簡単な殺しではないと思いました。こんな偶然は滅多にあるものではありません。刑事なら、なにかあると思いますよ。まだ見えていないものを引きずりだすためには、その程度のことは言います」
「被告人は、逮捕の時、ビデオカメラを警察に渡したと言っていますが、あなたは受け取っていますか」
「はい」
「その映像をご覧になりましたか」
「はい」
「そこには、何が写っていましたか」
「全部です」
「全部というのを、少し詳しく教えてください」
「被害者を監禁した日からの記録だと思います」
「いわゆる拷問部屋での、拷問の記録ですか」
「はい」
「その記録の最後には、何が写っていましたか」
「風景だったと思います」
「風景ですか。その風景には意味があったのですか」
「被害者が遺体を埋めた場所だと思われます」
「遺体を埋めた。被告人ではなく、被害者が遺体を埋めたのですか」
「はい」
「異議あり」
検察官が立ち上がった。
「弁護人は、何も証明されていない、本件には関係のない案件を持ち出し、この裁判の遅延を図っているように見えます」
「却下します。弁護人は続けてください」
「はい。証人は、ビデオは全記録だとおっしゃいました。普通、拷問とは相手に何かを喋らせようとして行うことが多いと思いますが、この拷問で被害者は何を話したのですか」
「異議あり。弁護人は推測で証人に発言を強要しています」
「却下します」
「裁判長。検察官の異議発言はこの裁判を妨害するためのもののように思われます。注意をしていただけると助かります」
「わかってます」
「裁判長。我々検察は、被告人が提出したビデオ映像を証拠として採用しておりません。被告人が一方的に撮影したと言っているものであり、客観的な映像ではなく、証拠にはなりえません。その中身について、この場で言及するのはいかがかと思います。誰が、この映像を事実だと認めるのですか」
「証拠に採用するとは言っていません。参考資料として、聞いています。裁判員の皆さんも、そのことは承知しておいてください。検察官の言うとおり、証拠能力はないものと考えられます。ただ、重要な参考資料だと本官は感じております。なぜ、被告人がこのような物を作成したのか、それも知りたい。弁護人。この件はできるだけ短時間でお願いします」
「はい。では質問を繰り返します。被害者は何を話したのですか」
「ビデオの中では、十二件の強姦と一件の殺人を被害者が話しています」
「異議あり」
「裁判長。何度も言及しますが、これは本件とは関係がありません。この法廷は被告人である結城真人の犯した犯罪を審理しております。被害者の犯罪を追及する場ではありません」
「裁判長。この事件は、拷問などという前代未聞の犯罪を審理しています。出会い頭の単純な殺人事件ではありません。複雑な背景を知ることが、正しい判決への近道だと思われます」
「双方のご意見は、それぞれ正しいと思いますが、本官はもう少し証人の話をお聞きしたいと思います。弁護人。続けてください」
「はい。では、その殺人についてお尋ねします。拷問に耐えられずに、被害者は殺人を犯したことを白状したとしましょう。そして、その遺体を埋めた。その遺体を埋めた場所が、ビデオに残されていた風景だと思っておられる。証人は、その風景の現場には行かなかったのですか」
「行きました」
「それで」
「行った、だけです」
「どうして、ですか」
「うちの管轄ではありませんから」
「では、管轄署に連絡をしたのですか」
「いいえ」
「不思議ですね。たとえ不確定な情報だとしても、殺人に関する情報ですよ。放置することが、できるのですか」
「放置はしていません。情報として上に報告しました。その後は、私が担当しておりせん」
「そうですか。実は、私もその現場に行きました。近くで白骨死体が発見されたという新聞記事も読みました。発掘されたと思われる現場も見ました。被告人は、その場所が被害者の特定した場所だと言っております。ビデオに残されていた風景が死体遺棄現場だと私も確信しました。証人は、どう思われましたか」
「私は、その後の現場を見ていませんので、わかりません」
「関心はないのですか。あなたが手にした情報ですよ。刑事さんって、そんなに淡白なものなんですか。遺体を埋めた場所を特定したのは被害者です。犯人しか知り得ない情報ですよね。それなのに、白骨死体の事件が解決したという話は聞きません。あなたが、情報操作をしているのですか」
「いいえ」
「まだまだ質問はしたいのですが、短時間にということなので、質問は以上です」
「検察官。この証人に質問はありますか」
「ありません」
「裁判員の皆さん、質問はありますか」
「はい」
一番の男性裁判員が手を挙げた。裁判長は手で、どうぞと言った。
「あなたの感想でいいのですが、そのビデオの中で話されたことは、真実に近いと思われましたか」
「個人的には、そういう感触を持っています」
「で、そのビデオは、まだ警察にあるのですか」
「あると思いますが、時間も経っており、私は確認しておりませんので、わかりません」
「ありがとうございます」
「他に、質問はありますか」
「では、証人は御苦労さまでした。引き続き被告人尋問を行います」
裁判が始まった時は、この裁判の行方がはっきりと見えていた。そう感じていた人が大半だっただろう。今では、不透明な霧で覆われた印象が強い。被害者の殺人が浮かび上がっただけではない。公安の監視という言葉は記者が敏感に反応する言葉の一つだった。「この裁判では何かが起こる」という空気が記者席の緊張を強いものにしていた。
弁護側は疑問を積み上げる作業をしている。多くの疑問を解き明かすという名目でテロ計画になだれ込んでいこうという計算だった。
「被告人。前へ」
「検察官。質問を始めてください」
「はい」
「被告人は、警察に電話をした時、人を殺したので自首すると言ったのですか」
「はい」
「でも、被害者は自殺ですよね。どうして、殺人だと思ったのですか」
「以前、どこかで、そのような記述を見たことがありました」
「被害者が自殺をするという、想定を持って拷問をしていたのですか」
「いえ。自殺のことは想定していませんでした」
「それは、殺意がなかったということですか」
「いいえ。殺意はありました」
「殺意があった」
「はい」
「つまり、最後は殺すつもりだったということですね。たまたま、相手が自殺したために、殺す手間がなくなった。そうですか」
「多分、検事さんは拷問をしたことがないと思いますが、拷問をする側にも、重大な覚悟が必要なんです。何度も、最後は殺すと宣言しました。楽には死なせないとも言いました。本気で殺す気がなければ、拷問にはなりません。ですから、私に殺意があったことは確かです」
「あの犯行現場の部屋は、片手間でできる改造ではなかったと思いますが、どの位の時間が必要だったんですか」
「5年です」
「5年。つまり、5年前から、殺人計画を持っていた、ということですか」
「はい」
「この犯行は計画に基づき、殺意を持って犯行に臨んだ。そういうことですね」
「はい」
「反省をしているようには見えませんが、どう思っているのですか」
「反省はしております」
「ほう。どう反省してるのですか」
「計画に不備がありました」
「不備」
「はい。彼が自殺することを、予測できませんでした。とても残念です」
「反省や後悔が、人間の生き死にではなく、計画の不備によるものですか」
「そうです。私が、彼の自殺を予測できていれば、彼は死なずに済んだのです」
「言っていることが支離滅裂ですね。被告人は殺害計画を立て、殺意をもって拷問をしたと証言したのですよ。ところが、自分の計画が完璧であれば、被害者は死なずに済んだと言う。それは、余りにも死者を冒涜する言葉ではありませんか」
「もう、私は彼から聞き出すことは全部聞けたと思っていました。死体を埋めたと言う現場に案内してもらった時に、私の殺意は消えていました。あとは警察に任せるだけだと思っていましたが、私が至らなかったために、彼は自分の命を絶ってしまった。とても、残念でなりません」
検察官が言葉を失った。
「確固たる殺意が、一瞬で消えた、と言うのですか」
「いえ。一瞬ではありません。それなりに時間はかかったと思います。あのビデオを見てもらえばわかりますが、彼が最後に言った言葉。なんで、子供のことで、そこまでするんだと言われました。あの時、私には見えていない絶望の淵に彼は立っていたのだと思います。自殺したのは、その夜です」
「殺害計画を立て、殺意を持っていた被告人が、最後の最後で殺意はなくしたと言う。これを詭弁と言わずに何と言えばいいのか。罪を逃れたい一心だと思われますが、卑劣としか言う言葉が見つかりません。質問を終わります」
検察官の目的は、計画的犯行と殺意の二点だった。反省していないという言質が取れれば花丸になる。その目的は達成されたようでもあり、達成されなかったようでもある。法廷にいる人たちの多くが消化不良の不快を感じていた。中途半端の連続は胃にいいとは言えない。
「一時間の休廷にします。午後は1時20分から弁護人による被告人尋問を行います。休廷」
元気に退廷する人は一人もいなかった。記者もどんな記事を書けばいいのか迷っているのだろう、動きまわることが好きな記者席に動きが見られなかった。

午後の審理が始まった。冒頭に裁判長の発言があった。
「検察官。被告人が撮影したという映像を証拠として提出するつもりはありませんか」
「ありません。あれは、被告人による謀略の可能性すらあるものです。論外です」
「そうですか。残念です。裁判員の皆さんは強く希望していますがね」
「裁判長」
「弁護人」
「コピーでよければ、弁護側は提出できますが」
「検察官のご意見は」
「公判前手続きでは、討議されていません。もし、提出すると言うのであれば、公判前手続きからやり直していただきます」
「わかりました。では、弁護人。被告人質問を始めてください」
「はい。裁判長」
「被告人は、前へ」
「亡くなった方は、二度と戻ってくることはありません。では、残された我々は何をすればいいのか。午前の審理でも、被告人は犯行を全面的に認めております。被告人はまぎれもなく有罪であると考えます。弁護人は二度とこのような犯罪が繰り返されないように、この犯罪の背景を徹底的に洗い出し、対策を施す材料にしなければならないと信じております。それは、自ら命を絶った被害者に対する、我々の責務でもあります。裁判員の皆さんにも、この複雑な背景をご理解いただくために、様々な話をすることになりますが、辛抱強く聞いてくださるよう、心からお願いいたします。一見、無関係なことに思えることも、全てがこの犯罪に繋がっているということを断言しておきます」
「さて、被告人に聞きます。先ほど、検察官の質問で、この犯罪が五年前から準備されていたと答えましたが、その理由を聞かせてください」
「はい。私の娘は、高校一年でしたが、本件の被害者である千葉直樹に強姦され、その日に自殺をしました」
「異議あり。本件とは関係がありません」
「却下します」
「本件被害者はその裁判で有罪でしたか」
「はい。求刑10年。判決8年の有罪でした」
「殺人罪ではないのですか」
「違うそうです。拷問の結果で相手が自殺した私の場合は殺人罪が適用されますが、強姦の結果自殺した娘の場合は勝手に死んだことになっています。ただ、誤解しないでください。私は自分が殺人罪を避けたいのではありません。強姦された女子が自殺した時でも、殺人罪が適用できる道を作っていただきたいと思うから、このことに言及しています。男である私が言うことではないのかもしれませんが、女子にとって強姦は拷問に匹敵すると思います」
「娘さんを失ったこと。とても残念だったのでしょうね」
「どこの親でも同じことです。生まれた時、しゃべった時、初めて歩いた時、小学生になった時、生意気なことを言い出した時、その全てが私にとってはかけがえのない、とても大切な子供でした。犯人に殴られ、強姦され、娘は首をくくりました。殴られたために唇が裂け、その死に顔は苦痛に歪んでいるように見えました。でも、犯人は8年の刑で服役し、5年で仮釈放です。犯人が憎いことは当然ですが、私にとって一番辛かったことは司法の不備でした。ですから、私は計画を立てたのです。犯人は出所してからも再び強姦をするであろうと思っていましたし、私の娘以外にも強姦をしていたと思っていました。警察の取り調べでは許されていない拷問という方法を使ってでも、犯人の犯罪全てを喋らせようと決心しました。それを司法に示し、司法改革に繋げて欲しかった。私の希望は強姦罪の最少量刑3年を30年にしてもらうことです。弱者に対する犯罪は国が責任をもって守らなければならないと思うからです。弱者は自己責任で自分を守ることができないのです。暴漢から子供を守るのも親の責任ですか。日本はそんな国ではないはずです。司法が時代から取り残されているのです。犯罪加害者は圧倒的に男が多い。そして性犯罪の被害者は女性です。少子化が問題になっているのに、どうして女性を大切にしないのですか。私の娘も、いつか母親になり、おばあちゃんになる日もあったはずです。もし、強姦罪の量刑が最低でも30年だったら、私の娘は死なずに済んだかもしれない。国は我々市民に、いや弱者に、何をしてくれるのですか。弱者を守ることが国の責務ではないと言うのなら、国民が自己防衛可能な法体系にしていただきたい。市民に武器を持たせてください。私的報復も可能にしてください。自分で自分を守る原始時代に戻りましょうよ」
「被告人が記録したビデオ映像は、そのためのものなのですね」
「そうです。ただし、私は拷問をしてでも犯罪を証明しろなどというつもりはありません。拷問など許される行為ではありません。司法の不備を正すために、このような手段を使う社会にしてはいけないのです。娘の裁判の時、私は被害者遺族として意見陳述をしました。犯人を社会に戻さないでほしいとお願いしました。司法には私たち被害者遺族の声は聞こえていません。とても残念なことです」
「では、自分が犯罪者になるという大きな犠牲を払って、被害者千葉直樹の罪を白日のもとに晒した今、あなたの希望は叶うと思っているのですか」
「いいえ。この法廷に立ってわかりました。やはり、司法が変わることはないと確信しています」
「どうして。なぜそう言えるのですか」
「検察官の席についておられる検事の方の表情を見て、そう思ったのです。司法の要は裁判所でも裁判官でもありません。検察なのです。私は、検事取り調べの時、不起訴にすると脅されました。内乱罪を適用するという脅しも受けました。ここにいる検事さんも、同じ表情で私を見ています。ここにおられる検察の方が、検察のために働くのではなく、市民のために働くのだという意識を持っていただかなければ、司法は変わりません」
「不起訴にするとは、どういう意味ですか」
「裁判をしないということです」
「裁判をしなければ、裁けないじゃないですか」
「裁判をしなくても、裁く方法はある、ということなのでしょう」
「では、なぜ、被告人が、殺人罪で起訴されている被告人が、内乱罪になるのです」
「それを、口にすれば、残念ながらこの裁判は中止になります」
「そんなことはできませんよ。今、こうやって、裁判は進行してるじゃないですか」
「試しに、やってみますか。その時に、私の犯した罪はどこへ行ってしまうのですか」
「裁判長。被告人はこのようなことを言っておりますが、本当に裁判は中止になる可能性があるのですか。検察官の意向でそんなことができるのですか」
「そんなことは、ありえません」
「ありがとうございます。裁判官が保障してくれました」
「裁判長」
検察官の声が法廷を震わせた。
「休廷をお願いします」
「どうしてです」
「裁判長にお話があります」
「ここで話すことはできないのですか」
「そうです」
「わかりました」
「裁判長」
二番の裁判員が手を挙げた。
「はい」
「これは、検察の脅しです。ここで、休廷をすれば、司法そのものが傷を負うことになります。私は休廷に反対です」
「私も反対します」
「裏取引は認められません」
裁判員全員が手を挙げた。
「裁判長。基本的な問題を申し上げる。公判前整理手続きはどうなったのですか。三者の同意で始められたこの裁判を違う方向に向けようとしているのは弁護側です。しかも、被告人は司法を愚弄し、検察官を侮辱しております。断じて許すことができません。司法が愚弄されているということは、あなたも愚弄されていることになるのですよ。弁護側の暴走を許した場合、一裁判官に責任の取れるような問題ではなくなります。もし、それでもと言うのであれば、裁判長の責任で処理することです。我々検察官は責任が取れませんので、退廷します」
「退廷」
「そうです。検察官のいない裁判は、裁判の要件を満たしません」
「逃げるのか、あんたたち」
裁判員の一人が叫んだ。法廷内が怒号の渦となり、裁判長は頭を抱え込んだ。法廷内に配置されている廷士が立ち上がって身構え、入口の近くにいた廷士が応援を呼びに走った。
「きゅうてぇい」
立ちあがった裁判長が疳高い声で叫んだ。

真人の裁判は中断されたまま、半年近い時間が流れた。当時はマスコミも大騒ぎをし、世論も盛り上がるかに見えたが、一か月とは続かなかった。大きな出来事が次々と起きる現代でのニュース賞味期限は日に日に短くなっている。裁判中断事件は遠い過去の出来事という箱の中に仕舞いこまれていた。
「伊東さん。もう、いいでしょう」
「はあ」
「何度も言いますが、あなたの責任ではありませんから。貴重な経験をしたと思えばいいのです。これ以上、あなたを拘束する権利は私にはありません。あなたは、あなたの人生を築きあげなければなりません。再び、戦いが始まれば、最初に伊東さんを呼びます。いいですね」
「わかりました」
伊東は、この半年間動き回って裁判の再開を図ろうとした。裁判所も検察も硬く扉を閉じたまま、伊東の呼びかけを無視し、今では弁護士会も伊東の父親に圧力をかけてきている。
「弁護士、辞めませんよね」
「それは、わかりません」
悄然とした伊東が帰って行った。
一審も終了していないのに、拘置所の古狸になりそうな雰囲気だった。それは、真人の周囲にある空気のせいかもしれない。背中に危険人物というレッテルが貼られているかのような視線を感じる。いつも、どこかに、緊張感があった。面会も差し入れも自由だったが、誰かの監視下にあるという印象は付いて回った。奈津子が毎週欠かさずに来てくれている。結城不動産の話や地元の話、そして香織の話をして帰って行く。香織も月に一度奈津子と一緒にやってくるが、私服の香織はもう大人だった。若い頃の奈津子に似てきた。姉妹に間違えられるのは、ひどくない、と香織が言っていた。
クリスマスだから、と言い訳をして、香織が一人で面会に来た。
「お父さん。体調悪いとこ、ない」
「ああ」
「大学行くのって、意味あるのかな」
「突然、どうした」
「なんか、こう、ぴったり、来ないのよね」
「そんなもの、行かなきゃわからないだろう」
「そうかな。行ったら、何かあるのかな」
「それは、香織自身が感じて決めることだ。他に何かやりたいことがあるのか」
「どうして、わかるの」
「普通、わかるだろう」
「でしょう。でも母さんは、大学大学しか言わない」
「そうか」
香織は真人のことをお父さんと呼び、奈津子のことを母さんと呼ぶ。この微妙な違いは何なのだろう。本人に聞く勇気は持ち合わせていないが、気にはなった。
「お父さんは、若い時、何がしたかったの」
「そうだな。発見かな」
「発見って、コロンブス」
「いや。数学が好きだったから」
「ふうん。数学が好きだったの。私、一番苦手」
「香織は、何がしたい」
「私、作家になりたい」
真人の体に衝撃が走った。香織が朝子と同じことを言っている。
「変」
「いや」
「そんな、驚いた顔しないでよ」
「ごめん」
「無理だとは思うんだけど、これって、人生を無駄にするってこと」
「それはない。人生に無駄なんてものはない。あるとすれば、自分を裏切った時は無駄になるかもしれない」
「わかる。私もそう思う」
「新しい環境は新しい目を育ててくれる。変化を嫌う必要はないと思う。大学に行って、香織が新しい目で見た時、別の切り口があるかもしれない。それって、作家になる邪魔になるのか」
「ならない。やっぱり、お父さんはいいな。母さんは、途中で違う方向に行くの。止めるのも可哀そうだから、付き合うけど、ちょっとね」
「それは、母さんに言わない方がいい」
「もちろん。言わないけど。お父さん、チクったりしないでよ」
「まさか」
「母さん、どんどん若くなる。お祖母ちゃんから、母さんの小さい時の話を聞いた。だから、母さんは、今が一番幸せなんだと思う。私が言うのも変かな」
「済まない」
「私たち、一般的とは言えないけど、これも家族の形でいいと思うの。お父さんが謝る必要なんてないし、謝られると辛い。私にとっては、自慢のお父さんなんだから。もしもよ、私が昔からお父さんの子供だったら、お父さんは私を守るために全てを賭けてくれると思う。これって、すごいことだよね。お父さんが謝ることはないの」
「ありがとう」
「それと、これも母さんには内緒だよ。お父さんは自分を裏切る必要はないと思ってる。大丈夫。母さんの面倒は私が見るから」
「香織」
「ほんとはね、私、もっともっとお父さんと話がしたい。でも、母さんから取り上げる訳にもいかないでしょう。子供としては、これでも気を使ってるのよ。母さんの幸せの邪魔にはなりたくない」
「香織がそこまで考えてくれていたのを知らなかった。嬉しいクリスマスプレゼントを貰った」
「長い道の、まだその先のことかもしれないけど、絶対に帰って来て。これは、母さんと同じ。母さんも私もおばあちゃんになっているかもしれないけど、それでも帰って来て欲しい。私たち家族なんだから」
「ん」
「お父さんには、体を大切にする義務がある。わかる」
「ああ」
香織が帰り、部屋に戻された真人は部屋の真ん中に座って泣いた。奈津子と香織、それに望月たちの暖かい気持ちは嬉しい。でも、朝子のあの苦しそうな顔を忘れることはできない。真人にできることは残されていないが、朝子の死に殉ずることだけが唯一の道になる。兇暴とも言える国家権力の前では、個人の存在など意味を持たない。その国家権力を行使しているのも、本来はただの個人のはずなのに。
5月になり、裁判が中断されて一年が過ぎた。クリスマスに香織から体力維持が義務だと言われてから部屋の中で運動を続けている。毎朝の乾布摩擦も続いているので、風邪をひくこともなくなった。検察は真人の死を心待ちにしているのかもしれないが、楽になりたいという気持ちと、簡単に死ぬことなどできないという気持ちがあった。自分の中に真逆の心理がある苦しみは、人間が克服できるものではないと諦めることもできない。出口のない永遠。それが悪魔との契約なのだろうか。
「面会です」
水曜日は面会に来る人のいない日だった。
「誰ですか」
「行きましょう」
真人が連れられて行ったのは、いつもの面会室ではなく、立派な応接室だった。先客が二人座っている。一人は東京地検の山岡検事だった。
「どうぞ」
山岡が立ち上がって椅子を勧めたが、もう一人の年配の男は座ったまま真人を見ていた。
「私の上司です」
山岡は上司の名前を言わなかった。どこまでも秘密が好きな人たちなんだと思い、笑いたくなった。
「元気そうですね」
「何か」
「あなたと、話をしようということになりましてね」
「はい」
「笑いが止まりませんか」
「はあ」
「計画を中止していただきたい」
「・・・」
「結城さんの要求は30年でしたよね」
「まあ」
「かけ引きなしで申し上げる。30年は無理です。10年が限度です」
「何をおっしゃっているのか、わかりませんが」
「あなたのアリバイは完璧ですからね。あえて、あなたがやったとは言いません。でも計画は中止してもらいたい」
「ですから」
「このことで押し問答をしても意味がありません。話を変えましょう。あなたは、強姦罪の量刑を変更して欲しいという希望を持っていますね」
「はい」
「先ほども言いましたが、最少量刑10年が限度です。結城不動産の帳簿にはあなた宛ての貸付金が4億円支出されていますね。あなたがその4億円の隠し場所を教えてくれれば、法改正に動きます。あなたのテロ計画が理由ではありません。弱者に対する犯罪防止がその理由になりますが、異存はないですよね」
「それは、まあ」
「信用できませんか」
「まあ」
「でしょうね。では、改正法案が国会に上程されたら、信用していただけますか。国会で否決された場合は、我々の力ではどうにもなりませんが」
「ほう」
「あなたの資金を没収するつもりはありません。動きを封じるだけです」
「でも」
「わかってます。一度動き出すと止まらない。でしょう。でも資金が動かなければ、計画も動かなくなります。まさか、全額を渡したわけではありませんよね。緻密な計画を立てるあなたが、全額渡すようなことはしない。私はそう思っています」
「・・・」
「法改正には反対ですか」
「とんでもない」
「この提案が拒否された時には、我々も実力行使をしなくてはなりません」
「すでに、実力行使してますけど」
「別の実力行使です。あなたにも新しいご家族がおられますよね。高校生のお嬢さんもおられる」
「そこまで、堕ちますか」
「あなたと、同じことをするだけです」
「ですから、私は何もしていない、と言っているじゃないですか」
「押し問答はしないと言いました。あなたを含めて、我々がなぜ犠牲を出さなければならいのですか。責任を取るべきは強姦犯のはずですよね」
「都合のいい論理ですね」
「そうですか。私はそうは思いません。どうしますか。資金の隠し場所を明らかにする積もりはありますか」
「考えてみます」
「いいでしょう。法案が提出され次第、お邪魔します。それまでに結論を出しておいてください」
真人は深刻な表情で頷いて見せた。
山岡には交渉能力がない。自分で喋って、自分で譲歩をしてみせる。最初から最後まで、一人で喋っていた。真人は具体的な事は何も口にしていない。
どこかで、誰かが、検事の家族を強姦したのではないか。そんな偶然があるのだろうか。でも、勝手にではあるが相手が譲歩案を持って来てくれたのだから、それに乗らない手はない。3年が10年になるだけでも大きな変化だと思う。もし、実現すれば、朝子の死に対して少しは報いる結果になるのだろうか。お前の死は無駄ではなかったと言ってやれるのか。
金曜日に奈津子が面会に来た。
「頼みがある」
「はい」
「なっちゃんと香織にボディガードをつけたい」
「えっ」
「今、ある人物から脅しをかけられている。実行はしないと思うが、念のために防衛しておきたい。多分、半年もすれば危険はなくなると思う」
「はい」
「怖いか」
「ええ。でも、その位の覚悟は持ってます。殺人犯の妻になったんですよ、私」
「そうか」
「香織も、同じだと思います。私たちも一緒に戦います」
「ありがとう。迷惑ばかりかける」
「でも、どこで、頼めばいいんでしょう」
「さあ、それも調べてもらいたい。ここでは何もできない」
「そうですよね」
土曜日に恩田敬一郎が面会に来た。
「結城さん。元気なんですか」
「そう見えませんか」
「見えますけど、でもねえ」
「どうしたんです」
「いや。その。あの計画。動き始めたんですか」
「どうして」
「検察の動きが変なんですよ」
「ほう」
「一時、家族の警護がきつかったんですが、それが無くなったなと思ってたら、ここのところ更に厳しい警護が始まったんです。噂にしか過ぎませんけど、複数の犠牲者が出たらしいという話があるんです。結城さん。やってませんよね」
「やってませんよ。私はここから、一歩も出てませんから」
「そうですよね。でも誰かにやらせたとか、あるんですか」
「ありませんって」
「やってませんよね」
「三日前に山岡が、ここに来ましたよ」
「山岡が」
「山岡も私がやったと言ってました」
「やったんですか」
「ですから、やってません」
「ですよね」
「あなたにまで疑われては、かないませんね」
「いえ。僕は信じてますよ。信じてますけどね」
「それよりも、こんなとこに来ても大丈夫なんですか」
「どうして」
「ここは、盗聴されてますよ」
「ひぃ」
「あなたも、テロ集団の一味だと疑われませんか」
「まあ、山岡は知っている訳ですから、同じでしょう」
「でも、どこまで深く係わっているか、調べているかもしれない」
「脅かさないでくださいよ」
「当分、私には係わらない方がいいでしょう」
「ええ。やってませんよね」
「やってませんって」
「山岡は何をしに来たんですか」
「それを言ってはいけないでしょう。私に引導を渡しに来たのかもしれない。かなり、具体的な脅しを受けましたのでね、少し心配しています」
「結城さん。やることはやったんじゃないんですか。脅しに負けても、亡くなったお譲さんは怒らないと思いますよ」
「あなたは、山岡の手先ですか。結城を説得してこいと言われた」
「まさか。そんな言われ方、心外です」
「ともかく、私のことを忘れてしまった訳ではないということがわかって、とても嬉しいですよ。でも、これ以上深入りはしないでください。あなたに何かあっても困ります」
「怖いこと言わないでくださいよ。僕はどこまでも、味方です」
「わかってますよ」
恩田は半信半疑のまま帰って行った。恩田も山岡の監視下にあるのだろう。今は、山岡が、そして検察が勘違いに気付かないことを祈るしかない。
二ヶ月後。山岡が一人で大阪拘置所にやってきた。
「法案が提出されました。結城さんの結論をお聞きしたい」
「私はあなたの話を信用するしかないのですか」
「何を」
「法案の提出です」
「ああ。確認ですか。あなたなら、そう言うでしょうね。うっかりしてました」
「私の弁護士が確認のために東京へ行きましょうか」
「それでも、いいです。というか、それしか方法はないでしょうね。私たちのことは信用してない訳ですから」
「便宜を図ってください。法案の提出と法案の中身の確認ができるように」
「わかりました」
「伊東弁護士は法廷で一緒でしたから、わかりますよね」
「いつですか」
「あなたが電話をして確認してください。あなた方の指示だと思いますが、私は電話一本できませんから」
「いえ。電話ができるように取り計らいます。私は直接タッチできません。東京地検の受付でわかるように手配しておきます。日時だけ、私に連絡してください」
「いいでしょう。話し合いには伊東弁護士も参加できますか」
「いいえ。二人だけでお願いします」
「法案はあなた方の手を放れているわけですよね。法案を取り下げたり、否決にさせたりもできるのですか、検察は」
「それはできません」
「だったら」
「私は結城さんのことを無頼漢だとは思っていません。勝手な希望かもしれませんが、我々の誠意に対しては、あなたも誠意で臨んでくれると、上司を説得しました。ここで、あなたが無茶を言えば、私が腹を切るだけです」
「そうですか」
山岡は手帳を破って、自分の電話番号を書いて出て行った。
係官が部屋に入ってきた。
「番号、わかりますか」
「いえ。憶えていません」
「では、少し待ってください」
連絡先として、結城不動産と伊東弁護士事務所の電話番号を登録してある。すぐに伊東弁護士の電話番号を書いたメモを持って戻ってきた。
「その電話で外線にかかりますから」
「わかりました」
係官はそのままドアの前で待つようだった。
伊東は事務所にいた。
「伊東さん。元気ですか」
「結城さん」
「急ぎの用事をお願いしたいのですが、大丈夫ですか」
「もちろんですとも」
「ありがとう。明日、東京地検に行って欲しいのですが」
「東京地検ですか」
「受付で、あなたの名前を出してくれれば、たぶん、国会に案内してくれると思います。そこで、ある法案が正式に提出されているかどうか、法案の中に新しい強姦罪の量刑が書かれているかの二点を確認してきていただきたい」
「量刑の変更ですか」
「そうです。私は10年と聞きました」
「行きます。時間の指定はありますか」
「いえ。伊東さんの時間を連絡するように言われています」
「そうですか。では、11時に東京地検の受付ということで」
「わかりました。そう伝えておきます」
「動いたんですね」
「わかりません。それを伊東さんに確認してきていただきたい。面会時間に間に合うようでしたら帰りに拘置所の方へ寄ってください。時間がなければ翌日でいいです」
「承知しました」
「お願いします」
翌日は面会時間に間に合わなかったらしく、次の日の早い時間に伊東が面会室に来た。
「昨日は、時間が間に合いませんでした」
「そうですか。お手数をかけてしまいました」
「これが変更内容です」
伊東はA4用紙を5枚、仕切りボードに張り付けて言った。強姦罪の部分には赤いペンで線が入っていた。
「法案は、これで全部ではありません。主な箇所を書きとってきました」
「政治的な判断になりますが、法案の通過する確率はどうなんでしょうか」
「それは、わかりません。調べます」
「私はこれで、検察と合意しようと思ってます」
「そうですか。よかった」
「これが、検察の騙しでないことを祈ります」
「はい」
「もう少し時間を取ってもらえますか。法案通過の確率と、施行される時期、改正法の影響が知りたい」
「喜んで」
「私の裁判もこれで動くといいのですがね」
「はい」
「よろしくお願いします」
伊東が帰ると、その場で、検事さんがお待ちですと告げられた。山岡は待機していたらしい。
「確認がとれましたか」
「はい」
「合意でよろしいですか」
「はい。合意します」
「では」
「電話をかけてもいいですか」
「どこにです」
「結城不動産の望月専務です」
「望月さんが管理していたのですか」
「いいえ。専務は何も知らないと思います。大体、鍵がない」
「ということは、資金は一度も動いていない」
「そうです」
「あれは、あなたが仕掛けたことではないと」
「私は、ずっと、そう言ってます」
「まさか」
「被害者が出たようですね」
「ええ」
「全くの偶然です」
「三件ですよ。ありえない」
「でも、そうなんです」
「馬鹿な」
「どうします。現金の確認はしますか」
「もちろんです」
「電話していいですか」
「ええ」
真人は応接室の電話で望月に電話を入れた。
「真人です。専務をお願いします」
「真人さん」
「専務。お願いがあります」
「今、どこから」
「拘置所ですよ」
「何かおましたか」
「ええ。それは、また、奈津子に話しておきます」
「はあ」
「今から、男の人が一人、専務を訪ねて行きます。私の字で、ある金庫のダイヤルの数字と、私のサインが入っているメモを持って行ってもらいます。私のサインなら区別できますよね」
「そらもう」
「その人を間宮の部屋へ案内してください」
「智子さんの」
「部屋の中に金庫があります。その金庫の鍵は仏壇の智子の写真の中に入っています。その金庫の中身は私への貸付金の4億です。その人はその金を確認するだけですから、渡す必要はありません。鍵は専務が預かっておいてください。何かわからないことありますか」
「いえ。わかります。でも、意味がわからへん」
「それは、奈津子が来た時に説明しておきますから」
「さよか。ほな、わかりました」
真人は電話を切って山岡の前に座った。
「手帳を一枚くれますか」
真人は山岡から貰った紙に、金庫の解錠番号を書き、サインをした。
「結城不動産の場所は知ってますね」
「ええ」
「望月のことも知ってますね」
「まあ」
「これを持って行ってください。このメモは差し上げます。私のサインも入ってますから。それと、現場で写真を撮影していただいても結構です」
「電話で言っていた間宮さんというのは」
「もう亡くなりましたが、家内の母親です。短期間その部屋にいました。随分昔の話です。そのマンションは結城不動産の物件ですから、意味もなく借りっぱなしになっていました。金庫は私が5年前に買ったものです」
「では、ほんとに、あなたの計画ではないと」
「違います」
「計画を実行する気はなかったんですか」
「いえ。まだ決めていませんでした。実行する可能性はゼロではありませんでした」
「いつ、決める予定だったんですか」
「予定はありません。朝子の許しが出たら、と考えていました」
「朝子さん。お譲さんですよね。亡くなった」
「ええ。私の前にはいつもいます。苦しそうな顔をした朝子がね」
「でも、ここにいたら、できませんよね」
「いえ。何時でも実行できる準備はありました。迷惑がかかる人がいますので、その方法は言いません」
もちろん、そんな計画など存在していないが、疑心暗鬼に溺れている山岡には判別不能だと考えていた。
「そうなんですか」
「恩田さんの名誉のために言っておきますが、恩田さんではありませんよ」
「そうですか」
「今、一瞬、疑ったでしょう」
「まあ」
「彼は実行反対派でした。気の弱い人ですね。あなたに比べれば天使のような男です」
「そんなに、私の印象、悪いですか」
「いいはずないでしょう。私から見れば、あなたも私と同じ悪魔ですね」
「はっ、あなたには言われたくないですね」
「山岡さん。シナリオ作りは得意ですよね。悪魔として協力しますよ」
「先ず、現金を確認して来ます」
「どうぞ」
翌日、奈津子が面会に来た。望月に言われたのだろう。
「あの人は」
「東京地検の検事さんだ」
「その検事さんが、どうして」
「私にはテロ計画があると言い、彼等はそれを信じた。そのテロのための資金があの金だ。彼等は、どうしても金の隠し場所を掴むことができなかったので、取引を持ちかけてきた。私は取引に応じた。取引の条件として、刑法の改正案が国会に提出されている。今日から、あの部屋は国の監視下に置かれていると思う。当分、あの部屋には近づかないように専務に言っておいてもらいたい。有無を言わさずに逮捕されることもある。没収はできないが、あの金は、暫くはただの紙切れとしての価値しかない」
「真人さんは大丈夫なの」
「それは、心配ない」
「そう」
山岡は金庫の中身を確認したあと、何も言ってこない。取引は終わったと思っていいのか。望月や奈津子たちに危険はないのか。拘置所に監禁されている真人にはわからないことばかりだった。
伊東弁護士が面会に来た。
「法案は通過の可能性が高いそうです。突発事件がなければ、ですけど」
「そうですか」
「可決されても、施行まではしばらく時間が必要になります。これは仕方がないことです」
「そうですね」
「改正の影響ですが、賛否両論あって、これはわかりません。現在の方向は厳罰化の方向が優勢ですが、そろそろ振り子が反対へ動き出すと言う人もいます。強姦罪に限って言えば犯罪抑止力はかなり強くなるだろうと言われています。重犯罪の領域に入っていますから、躊躇せざるをえない犯人は増えるでしょう。完璧とは考えていないのでしょうが、結城さんの目的は達成されたと考えるべきだと思います」
「そうですか。法案の成立を祈ることにします」
「訊いてもいいですか。どうして、こうなったのか。あんなに抵抗していたのに」
「推測の域は出ませんが、彼等は早い段階で法案改正に着手していたと思います。改正法案は一日や二日でできるものではない。その法案を提出するきっかけになったのは、偶発的に起きた犯罪のせいでしょう。検察関係者の家族が強姦被害に遭いました。それも、三件連続だそうです。彼等は私の計画が動き始めたと思った。それを聞いた時、私の方がびっくりしました。事情を知っている者なら誰でも、私がやったと思います。私はやっていないと否定しましたよ。でも、あの人たちは、他人の話を信用しない習性があります。いつでも、自分達が一番正しいと思ってますから。彼等は私の仕業だと確信していました。今でも、まだ自分たちの間違いには納得していない様子があります。偶然と自信過剰のおかげで、私は取引に成功した。そう考えています。私は4億円の隠し場所を教えただけです」
「そんな、偶然があるんですね」
「被害に遭った方には、申し訳ないと思っています。でも、もっと早く法案を改正しておけば、この被害は防げたかもしれない。悪いのは犯行におよんだ男ですが、防げたかもしれない犯罪を無視した司法の責任は重い。まだ、彼等はそのことに気付いていないかもしれない。正論ははじき返される。ヤクザまがいの脅しは通用する。日本は、どんどん袋小路に追い込まれているような気がします。お前には言われたくない、と彼等は言うでしょう。でも、彼等は私の卑劣な脅しに負けたのです。そのことも、闇に葬るのでしょう」
「救い難いとは思います。でも、結城さんのような方も、まだ存在している。僕は素直に結果だけを喜ぶことにしますよ」
「悲しいことですね」
弁護士を辞めるかもしれないと言っていた伊東だが、どうするのだろう。伊東には言わなかったが、検察は検察内部で凝結してしまい、厳罰化志向の検事は法改正の口実を待っていたのではないかと疑っていた。真人の脅しを自らの主張を正当化するために利用しただけで、真人の脅しに屈服した訳ではない。そうだとすれば、日本の司法には、もう救いはないのかもしれない。建前や思惑が市民より優先順位が高くなり、滅びの法則に呑み込まれていく現実は、もう止まらないのか。大勢の手で作り上げた、実像を持てない国家と言う深い闇に溶け込んでいく生身の人間たち。どう、立ち向かえばいいと言うのだ。

最近、係官の態度が微妙に変化していることに真人は気付いていた。要注意人物として収監した男だが、いたって素直で礼儀もわきまえている。普段は使用されない所長応接室を自由に使う男たちがやって来て、その男たちと応接室で話をする要注意人物。真人のことを大物だと判定しても仕方のないことなのかもしれない。高飛車な物言いもなくなったし、上から目線もない。気を使ってくれ、丁寧な扱いになっていた。
「面会でっせ」
「はい」
「べっぴんさんの奥さんやでぇ」
「どうも。伝えておきます」
「あほ。そんなん、言わんでもええ」
「はい」
面会室には奈津子が待っていた。
「真人さん。顔色悪い」
「そんなことない」
「そう」
「専務は元気」
「ええ。老いて、なお盛ん」
「それはいい」
「真人さん。どこか具合悪くない」
「いや」
「ほら、その咳」
「大丈夫だよ」
「中にはお医者さんいないの」
「いや。先生はいる」
「診てもらって」
「わかった。そうする」
一通りの話が終わり、奈津子は帰り際に医者に診てもらうようにと念を押していった。
「すぐ、行くかい」
部屋に戻ると、係官が聞いた。
「えっ」
「先生のとこ」
「ああ、大丈夫ですよ。一寸した咳だけですから」
「でも、奥さんに怒られるで」
「一週間で治りますから」
「そうかい。いつでも、言うてや」
「ありがとうございます」
だが、咳は止まらず、確かに体調も悪い。翌日には痰に血が混じっていた。何度も経験があるので本人は気にしていなかったが、診療所の医師は「大きな病院に行け」と言った。「手配しようか」とも言ってくれたが、遠慮した。だが、翌日は起き上がれずに、診療所のベツドに連れて行かれた。点滴をして、横になっているだけだが、意識はしっかりしていた。
医師の指示で、望月に連絡がいき、伊東弁護士が飛んできた。医師と面談した伊東は、すぐに裁判所へ医師の診断書をつけた保釈請求を提出した。許可が下りないと思っていた保釈が即刻許可になり、真人は大阪拘置所から直接K大付属病院に入院することになった。


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