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復讐 - 3 [復讐]



事件から5年が過ぎた。
真人の頭の中は半分以上が自分の裁判のことになっていた。準備に漏れはないか。覚悟はあるか。司法を、いや国を敵に回して勝つ目算などあるのか。朝子の苦しそうな顔が、より鮮明に浮かんでくる。
大阪のビジネスホテルで探偵社の甲斐雅子を待っていた。甲斐雅子は携帯電話を接続したままでやってくる。到着と同時にドアを開けて入ってもらった。以前に恩田敬一郎に目撃されるという失敗をしてからは、より慎重になった。
「甲斐さん。五年過ぎました」
「はい」
狭い部屋の椅子に座った甲斐雅子の表情も緊張していた。
「これからの仕事がほんとの仕事になりますが、やっていただけますか」
「もちろんです。大きな借りを返せるのかどうか、それを心配しています」
「他の仕事は、どうですか」
「はい。結城さんにはご迷惑かけません」
「忙しい、ですか」
「はい。それなりに」
「また、増えましたか」
「はい。全部で四人になりました」
「甲斐さん、所長の貫禄がでてきました」
「とんでもない、です」
「この仕事が終わっても、一本立ちできそうですね」
「なんとか」
「無理、言いますが、しばらくは、この仕事に時間を下さい」
「はい」
「最初にも言いましたが、甲斐さんの仕事は監視することです。絶対に手出しはしないでください。お願いします」
「はい」
「大丈夫ですか。最初、そのことに抵抗を感じてましたよね」
「大丈夫です。覚悟はあります」
「よかった。前にも言いましたが、あなたの危険度は最大限低くします。ただ、万が一の時は勘弁してください」
「はい」
「私と甲斐さんの信頼関係はしっかりしたものだと思っていますが、何か、吹っ切れていないことがあったら、言っておいてください。正念場ですから」
甲斐雅子が目を見開いて、真人を見た。
「確かに、お聞きしたいことはありました。でも、やめました。それも含めて覚悟をしたということですから」
「いいですよ。訊いてください。全部答えるとは限りませんが」
「はい。それでは、二つだけ」
「どうぞ」
「どうして、この仕事を、私に依頼してくれたのか、私、わかっていないような気がしているんです」
「あなたの目に賭けたんです」
「目、ですか」
「この仕事は、誰でもいいという仕事ではありません。普通の商売なら商品があります。商品を吟味することで、ある程度、良し悪しは決まります。あなたの仕事には、その商品がない。甲斐さん自身が商品なんだと思います。それを、私は相手の目で判断しようとしました。今、考えれば、危ない橋を渡ったものです。たまたま、あなたと出会えたことが幸運だったのかもしれません。他にも判断材料はありましたよ。あなたが元警官だったこと。会社設立2年目で、事務所の様子からは、厳しい状況だと思えたこと。卑怯ですが、札束であなたの顔を殴ったことになります。申し訳ない」
「いえ。少し、すっきりしました。石の上にも3年と母に言われて、2年経った頃でした。先は全く見えていませんでした。結城さんのお仕事がなければ、3年で終わっていたと、今では、そのことがよくわかります」
「でも、この5年で仕事は増えましたよね」
「なんとか」
「それは、甲斐さんの人柄なんだと思います。自信を持ってください」
「とても、まだ」
「もう一つは」
「ええ。これは、私には関係ないことなんでしょうが、結城さんの目的がわかりません」
「目的ですか。多分、私の我儘なんだと思います。私は、今の司法制度に変わって欲しいと思っています。娘が強姦されて、勝手に自殺したと言われて、犯人は5年で社会復帰です。親として耐えられません。あの男の過去の余罪もわからず、出所してからも、あの男は必ず同じことをすると思っています。私はその事実を司法にぶつけたい。あなた方のしていることは、こういうことなのだと。誰も振り向いてくれないかもしれない。それでも、やらなければ、娘と私の間にあった信義は意味を失ってしまう。娘は死んでしまったんですから、あの子にとって信義など、何の役にもたちませんが、私にとっては重要なことなんです。だから、つきつめて言えば、私の我儘なんです。国に向かって牙を剥く男が一人ぐらい、いてもいいと思うんですよ」
「でも、結城さんが辛い立場に立つことになりませんか。娘さんは、それを望んでいると思いますか」
「わかりません。父さん、もう止めて、と言うかもしれません。もう、娘のためにやっていることではなく、自分のため、自分の感情を満足させるためだけにやっているとしても、私には自分をとめることができない。だから、我儘なんです」
「そうですか」
「あなたを巻き込んでいることは、すまないと思っています。我儘なら、自分一人でやれよ、と言われるかもしれないが、一人であれもこれもはできない。あなたには、私の目の代わりになって欲しいんです」
「はい。そのことは、引き受けています」
「ありがとう」
若干の報告をして、甲斐雅子は静かに部屋を出て行った。納得してくれたのかどうか、自信が持てないまま真人はベッドに横たわった。眠れるわけではないのに目を閉じてみる。そこには、やはり、いつもの朝子の顔があった。狭い部屋の中を歩き回ることでは何も解決しないことを百も承知だが、苛立ちは治まらない。
携帯電話が振動した。甲斐雅子との連絡用に使っている他人名義のものだ。ディスプレイには甲斐雅子の番号が表示されていた。
「はい」
「私です」
「どうしました」
「外に出れますか」
「ええ」
「阪急梅田に向かって歩いてくれますか」
「わかりました」
「そのまま、本屋に行ってください」
真人は迷ったが鞄を持って部屋を出た。鞄の底にスタンガンが入っている。まだ、職務質問に遭遇したことはないが、その時は護身用で通すしかない。
梅田駅にある大型書店に入り、法律関係の専門書のコーナーに落ち付いた。
すぐに携帯が振動して、真人は書店を出た。
「はい」
「男が尾行してます。心当たりは」
「さあ」
「どうします」
「正体、掴めますか」
「わかりました。応援を呼びます。連絡するまで、中で時間潰しておいてください」
「お願いします」
尾行をするとしたら、と考えても思い当たる人間はいない。適当な本を一冊買って、雑誌の棚で車の本を手に取った。いつから尾行されてるのか分からないが、自分に不審な行動はなかっただろうか。一番不審な行動は、奈良の人間が大阪のホテルに宿泊していることだろう。甲斐雅子はマークされたのだろうか。でも、どうして。
尾行者を尾行する準備が出来て、真人はホテルに戻った。
零時を過ぎて、連絡が来た。
「確証はとれませんが、警察だと思います。それも、多分、公安」
「公安」
「何か、ありますか」
「いえ。どうして、公安が」
「明日の朝、そこを出たら、どうされますか」
「奈良に帰ります」
「普通に動いてください。しばらく、くっついてみます。向こうもプロですから、うまくいく保証はありませんが、やってみます」
「あなたのことは」
「気付かれてないと思います」
「そうですか。お願いします」
心当たりと言えば、恩田敬一郎しかいない。甲斐探偵社の調査結果を待って、電話をしてみる必要がある。もしも、公安が張り付いているとしたら、行動は大幅に制限されてしまう。逃れる方法はあるのだろうか。
甲斐雅子から、大阪に出る用事を作って出かけるように言われた。田舎では尾行が難しいが、尾行者を尾行することはもっと難しいらしい。大阪府立体育会館で拳法の大会があって道場の子供たちも出場することになっている。見学に行くことにした。
連日のように外出した。大阪のデパートであったり、京都の博物館であったり、神戸のセンター街へも行った。5年間忘れていた普通の市民生活をしているようで不思議な感覚だった。
甲斐雅子の指示に従い、タクシーと電車を使って尾行を振り切った。甲斐の指示は相手に撒かれたと思わせないような配慮がされていて、真人も自然体で動いた。
真人と甲斐は京都駅で合流した。駅前のホテルに予約を入れてある。いつものように、真人がチェックインして、甲斐が遅れて部屋に入ってきた。
「どうでした」
「はい。大阪を出る時には、尾行はありませんでした」
「そうですか。甲斐さんは、どうして尾行に気づいたんです」
「あの日、ホテルの狭いロビーに嫌な空気の男がいたんです。普通の人は気付かないかもしれませんが、警察官は臭うんです。最初は、それほど気になりませんでした。ホテルを出て、歩いている時、ターゲットが結城さんではないかとひらめいたんです。単なる勘でしたけど。それで、動いてもらったんですが、当たりでした」
「そうですか。あなたを見張ってたわけではない」
「はい」
「相手が警察だとわかったのは、その臭いですか」
「最初はそうです。でも、男が大阪府警の建物に入るのは確認しました。部署も名前もわかりませんが、あの空気は公安の男だと思います。ただ、緩い監視だと思います。人数が少ないし、時間も少ない。趣味で監視しているような雰囲気です。念のためということではないかと思います。例えば、本ボシの関係者を押えておくという程度のものだと思います。心当たりないと言いましたよね」
「実は、ないこともない、かもしれない」
「えっ」
「話しておいた方がいいかもしれない」
「ぜひ」
真人は恩田が強姦テロ計画という名前をつけた計画の話をした。恩田敬一郎と甲斐雅子は短い時間だけど面識がある。
「フリージャーナリスト、ですか」
「胡散臭い、でしょう。ただ、憎めない」
「余り、相手にしない方が賢明だと思いますが」
「ええ」
「その恩田さんの友人が、本気で心配したら、結城さんの名前は出てきますよ。過去の強姦事件を当たればいいだけです。その手のデーターベースは東京だけ独立している訳ではないと思います。強姦事件の被害者の家族で、資産家の人間を調べるだけです。だって、憎しみとお金さえあれば、実現可能だと、私でも判断できます」
「まあ」
「憎しみとお金を持ちあわせていて、絶望している被害者遺族。それって、結城さんですよね。私が命令する立場にいたら、念のためなどと言いません。24時間体制の完璧な監視体制をとります。もちろん、盗聴もします。あなたをテロリストと認定してでも」
「困りましたね、千葉の尾行をするのに、自分が尾行されてたんでは、動きにくい」
「千葉の監視は、私がやります。結城さんは報告を聞いて、指示を出してくれたらいいんですから」
「いや、私もこの目で確認しておきたい。もちろん、甲斐さんの協力は不可欠ですけど」
「でしょう、ね」
「仕事をややこしくして、すみません」
「いえ。それが仕事ですから。でも、事前にわかって、よかったです」
「お願いします」
「結城さん。本気なんですね」
「ええ。本気です」
「でも、そのテロ計画、実行しませんよね」
「わかりません」
「相手の出方次第ですか」
「それも、わかりません」
「私が言うことではありませんけど、実行しないでください。何百人もの被害者が出ることになりますよ」
「わかってます、私は。でも、彼等はわかっていない」
「それは、そうですが、お願いします。結城さんに雇われている探偵としてではなく、個人としてのお願いです。それは、辛すぎます」
「それも、わかっています。私の娘も犠牲者なんですから。彼等は、あなたのような善意の上に胡坐をかいている。いいですか、彼等がしなくてはいけないのは、私に監視をつけることではありません。司法を守ることと、市民を守ることが同義語だとは思いませんが、余りにもかけ離れている。これが、現実なんです」
「私は、結城さんのことも、心配です。甲斐探偵社の救世主ですからね」
「私は、大丈夫です。あまり無茶をしないタイプですから」
「ほんとに、そうなら、いいんですけど」
「監視は、いつまで、続くんでしょう」
「わかりません。中止命令が出なければ、半永久的に続くと思った方がいいです」
「そうですか」
国家権力という壁にぶつかって、粉みじんに粉砕される自分が容易に想像できる。

更に半年が過ぎ、世の中は師走の慌ただしさと不況の静けさが混ざりあい、殺気だった様子も見える。尾行されているという前提で注意深く周囲を見ているが、真人にはその気配すら確認できなかった。もう、監視は中止になったのだろうか。
甲斐雅子から、千葉直樹が仮釈放になって実家に戻っているという連絡があった。行動パターンを掴むから待つようにと言われ、真人は焦る気持ちを抑えた。
二か月待って、甲斐探偵社の車の中から千葉直樹の姿を見ることができた。双眼鏡を渡されて、レンズの中から見た千葉は法廷で見た千葉よりも凶暴な顔に見えた。罪を償い、更生した人間には見えない。甲斐の調査によれば、昔の仲間には相手にされていないようで、単独行動ばかりらしい。家に居づらい事情があるのか、ほぼ一日中車で出歩いている。家には寝るために帰るだけのようなので、家族との会話が多いとは思えないし、友達と話す機会もないようだと甲斐は言った。
「あの男は危険ですね。結城さんが心配していたことが、現実になるかもしれません」
「ええ」
「ストレスは、溜まってますよ、きっと」
「ええ」
「仮釈の身ですから、無茶はできないはずなんですが、あの男の目を見てると危ないと思います」
停めた車にもたれて缶コーヒーを飲んでいるが、視線は歩道を歩く若い女に向けられている。千葉の頭の中でどんな仮想劇が展開されているのかは、容易に想像がつく。
「頻繁に買春していますが、楽しそうな顔を見たことがありません」
真人は生返事を返した。
「どうして、男の人の頭の中は、こうなってるんですか」
「えっ」
「すみません。独り言です」
甲斐が離婚したという話は最初に聞いたが、中身はわからない。でも、男女の意識の差があったのかもしれない。甲斐の頭の中には元亭主の顔が映し出されているようだ。
千葉は場所を変えるが、通行人を見つめる行動は変わらない。毎日毎日、よく飽きないものだと甲斐は呆れていた。だが、いつの日か、眺めるだけでは済まなくなる。
「勉強するとか、仕事をするとか、奉仕活動でもいい。何でもやれるのに」
「独り言、ですよね」
「すみません」
「少なくとも、あの男は社会に戻すべきじゃない」
「同感です」
「強姦罪の量刑は、終身刑でなくてはなりません」
「はい」
甲斐の調査結果にあったように、千葉は何度も場所を変え、同じ行動をした。真人と甲斐は深夜まで追い続けた。甲斐は奈良まで送ると言ったが、真人はタクシーで帰った。

四月になり、冬が通り過ぎたと実感できる季節になった。毎回尾行を振り切ると、相手を警戒させると言われ、十日に一度程度しか千葉の監視に参加できなかったが、納得せざるを得ない。公安とは言え、警察官の目の前でできることではない。
久しぶりに監視班に入った真人が連れて行かれたのは、繁華街とは程遠い場所だった。
「このところ、ここが多いんです」
新大阪駅の北側は、まさに裏側だった。東海道線の線路を地下で抜ける道路が走っており、その地下道の側道は不法駐車の車で一杯だった。
「あそこです」
反対車線に千葉の4WDがあった。
「何、してるんですか」
「わかりません。寝てるのか、瞑想に耽っているのか。あの先に公園があるんですが、時々そこに行きます。公衆トイレがありますから、用足しかもしれません」
「人通りは、ありませんね」
「ええ」
一時間過ぎても千葉の車に動きはなかった。
「甲斐さん」
「はい」
「休み、とってます」
「大丈夫です」
「もう、三か月、張り付いたままでしょう」
「仕事ですから」
「尾行がついてなければ、私が引き継げたのに、申し訳ない」
「この日のために、結城さんは私を雇ったんですから、気にすることありません」
「助かります」
「ほんとに、結城さん、いい人なんですね。私の周りには、いません。世界が違うんでしょうね」
千葉は一度車を離れて、すぐに戻ってきた。戻ると、シートを倒して姿はまた見えなくなった。
「甲斐さん。私もトイレに行ってきますが、いいですか」
「はい。できるだけ大回りでお願いします」
真人は大きく迂回して、20分かけて公園に到着した。小さな公園は人影もなかった。公園の北側は団地が並んでいる。JR東海道線を電車が行き交い、都心でありながら、さびれた郊外の印象が強いのは団地の壁の色がくすんでいるせいなのか、人通りが少ないせいなのか。真人は用を足して樹木の多い公園を出た。
真人と入れ替えに甲斐も出かけた。甲斐は元刑事だから張り込みにはなれているのか、落ち着いている。探偵という仕事も大変な仕事だと感じた。
「ずっと、この調子ですか」
「昨日も、何もせずに11時までいましたね」
「監視の仕事、大変なんですね」
「慣れてますから、それほどでもないですよ」
「水分を摂らないのも、仕事」
「ええ。生理現象には勝てませんから」
日が暮れて、もうすぐ8時になろうとした時に、千葉が車を出た。
「あの男は水分摂ってるんだ」
真人は甲斐を見習って水分補給をやめていた。
三十分ほど過ぎた。
「遅いですね」
甲斐が時計を見た。二人は同時に胸騒ぎがした。
「行きましょう」
二人は公園の裏側から近づいた。千葉の姿が見当たらない。
「トイレの横です」
甲斐に言われて、目を凝らして見ると、トイレの陰に人影があった。甲斐の後ろについて、公園の外からトイレに近づくと、蹲っている千葉の姿が近くに見えた。甲斐が真人の動きをとめる。二人は息を殺して、石になった。人通りはなく、電車が通り過ぎる。
道路から足音が聞こえてきた。ヒールがコンクリートを鳴らしている。
ドスッという肉を打つ音がして、二つの人影が公園の中へもつれるようにして入ってきた。女の小さな悲鳴と、肉を打つ音。倒れている人影の上に馬乗りになっている千葉の姿があった。
「声を出すな」
「・・・」
女が口を開けようとしたのか、千葉は続けざまに女の顔を殴った。女の抵抗がなくなったのを確認して、千葉が自分のベルトを外している。それは、まさに、強姦現場だった。
真人は甲斐を手で制しておいて、公園に飛び込んだ。
気配に気づいて、振りかえろうとした千葉の股間に、真人は渾身の力で蹴りを放った。
千葉の体が女の体の上から飛び上がった。地面に転がった千葉は全く動かない。気を失ったのか死んだのか。甲斐も飛び込んできた。
「逃げろ」
甲斐は女を無理矢理立たせて、公園の外へ。
真人は背中のバックパックを降ろして、用意した道具を取り出した。すぐに使えるようにスタンガンを横に置いて、手錠で千葉の両手を後ろ手に拘束し、足首をロープで縛る。千葉の体を返して、ガムテープで口を塞いだ。念のためにガムテープで首から顎を二巻きしたが、千葉に動く気配はなかった。千葉のポケットから車のキーを取り出し、甲斐の姿がないことを確認して、千葉の車に走った。手袋をすることも忘れなった。冷静に行動している自分が誇らしかった。
トイレの横の道路に千葉の車を停めて公園に戻り、落としもののないように注意して道具を仕舞った。千葉の体を担ぎあげ、車の後ろのドアを開ける。この時のために5年間肉体改造をしてきたのだ。
五分ほど走った暗闇で車を停め、バックパックからロープの束を取り出した。
千葉の首にロープを巻き、そのロープの片方を足首のロープに巻きつける。気がついたとしても、千葉は動けない。真人は新御堂を北へ向けて走った。
すぐに新御堂を降りて、一般道を走り、レンタカーの看板を確認して、側道の不法駐車の仲間になった。
真人はズボンと服の泥を落として、人通りのない坂道を下りて行った。
千葉の車からレンタカーへ移す時は苦労したが、アドレナリンの力で乗り切った。
市内に向けて走り、南森町の近くで車を停め、甲斐に電話を入れる。
「結城さん。大丈夫なんですか」
「すみません。逃げられました。女の人は」
「家まで連れて行きました」
「そうですか。タクシー捕まえて追ったんですが、危険だからやめました」
「よかった。今、どこですか」
「多分、千里の近くだと思います。そこまで、戻った方がいいですか」
「いえ、私は大丈夫です」
「そうですか。では、私はここから帰ります」
「わかりました。結城さんに怪我はないんですね」
「ええ。でも、疲れてます」
「そうですよね」
「明日、電話します」
「はい。結城さん。ありがとうございます」
「どうして」
「強姦をとめてくれました」
「失敗です」
「そんなことありません」
「それじゃ」
「はい」
甲斐を騙していることで、真人の胸は痛みを感じていたが、仕方のないことなのだと自分に言い聞かせた。
高速を使って奈良に向かう。レンタカーであればNシステムは怖くない。だが、直接自宅まで帰るのは危険だろう。甲斐の話だと自宅も監視されていると思わなければならない。
T駅の近くにある団地の不法駐車場に行った。不法駐車が犯罪に利用されるという警察の言い分は正しい。犯罪に使われた車は木となって森に隠れることができる。T駅から電車で自宅に戻り、自分の車でレンタカーの場所へ行った。何度か住宅街に入り込み、尾行している車がないことを確認してある。
レンタカーのトランクルームを開けると、千葉は意識を回復していた。千葉は細い目を大きく開いて何か叫んでいるが、ガムテープのために声にはなっていない。真人は自分の車からスタンガンを持ち出した。
「暴れると、これ、使いますよ」
千葉の抵抗は弱くなったが、大柄な千葉を動かすことには大変な労力を必要とした。
自宅のガレージに戻り、シャッターを下ろして、用意してあった車椅子に千葉を移した。椅子に座らせるために首のロープを外したので、千葉は大暴れを始めた。重い千葉を背負って部屋に入ることは難しいと判断した結果の車椅子だが、千葉の抵抗を予測しなかった判断は甘かったのか。千葉は車椅子から転げ落ちた。
真人はスタンガンを千葉の腹部に当ててスイッチを押した。すこしくぐもった音がして千葉の体が跳ねた。痛みに耐えて丸くなっている千葉を見降ろして、暫く千葉の反応を待った。抵抗するようだと、何度もスタンガンを使わなければならない。
「どうする。次はここだ」
真人はスタンガンを千葉の股間に当てた。千葉の体が反応した。股間の痛みはまだ取れていないと思う。千葉の体から力が抜けるのを待って、再び千葉の体を車椅子に乗せた。
車椅子を押して、真人は裏庭へ向かった。裏庭には母屋とは違うプレハブ小屋がある。小屋と言っても小さいものではなく、中にはキッチンも風呂もトイレもある。部屋の片隅にはホームバーもあった。父親が音楽室として使っていた。真人の父親の趣味はクラシック音楽で、大音量を楽しむために完全防音の小屋まで建ててしまった。父親が亡くなった後は、使う者もなく放置されていたが、真人が五年かけて改造した小屋の中は手製の拷問部屋になっていた。
国家権力を持たない真人は、権力の代わりに暴力を使用する決意で臨んでいる。
拷問台と便器の機能を持った椅子に千葉を拘束した。さすがに疲れた。口を塞いでいたガムテープを剥がすと、真人は小屋を出た。
翌日、レンタカーを奈良の営業所に返却し、甲斐に電話をして、しばらく監視を中断するように言った。甲斐も、それがいいと同意してくれた。
小屋の中は千葉の糞尿の臭いで満ちていた。ホースを伸ばし、簡易便器の中を洗い流した。この臭いには慣れなければならない。
千葉の下半身は裸にされている。その寒さと体中の痛みで眠れなかったのだろう。千葉の目は充血していた。
真人は椅子を千葉の前に置いて座った。正面から千葉の目を見る。恐怖と怒りと痛みが混ざった複雑な眼差しだった。
「あんた、だれ」
千葉は真人が誰なのか、まだ気づいていない。5年前の結城真人は千葉の中で別人だと判別されているようだ。
「なんでや」
「千葉直樹、強姦罪で服役、現在は仮釈放の保護観察期間。そうだな」
「だから、お前は、誰なんや」
「結城朝子の父親を、忘れたか。法廷で会っただろ」
「あのオヤジか」
「そうだ。そのオヤジだ」
「せやけど、なんでや。俺は、刑務所に入って、もう罪の償いはしたんや。あんたには関係ないやろ」
「償い」
「そうや。おっさん、これは逆恨みや。こんなこと、許されるとおもてんのか」
「逆恨み、か」
「わかった。あんたの気持ちもわからんことはない。今までのことは無かったことにしたろ。ここから、出せ。警察へはいかへん。黙っといたる」
「罪は償ったのか」
「そや。あんなとこへ5年もおったんや。充分やろ」
「更生したのか」
「そや」
「更生した人間が、昨日、公園で、どうしてあんなことしたんだ」
「なんもしとらん」
「あれは、強姦未遂と違うのか」
「あれは、合意の上や」
「なるほど」
「ええか、おっさん。あんたは、今、罪を犯しとんねん。傷害と監禁の罪や。捕まったら5年では済まんで。それを水に流したろ、言うてんねん。損はないやろ」
「わかった。全部、正直に話して、それを文書にして、サインしてくれたら、ここから出してやってもいい」
「はあ」
「私の娘を強姦する前に、何人やった」
「そんなもん、やってへん。あれが初めてや」
「そうか。残念だな」
「なんや、それ。変な関東弁使うな」
「痛いおもいをしてからしゃべるよりも、今の方がいいと思うけど」
「何やて、これ以上罪を重ねたら、俺も見逃されへんで」
「しゃべる気はない」
「ちゃう。しゃべることが、ないんや」
「そうか」
真人は立ち上がって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出した。千葉の右手首の革手錠だけを外して、キャップをとったボトルを渡した。肘が固定されているので右手が自由になったわけではない。それでも、千葉は一気に水を飲んだ。
「さあ、外せ」
「この5年間、いろいろと勉強した。拷問の方法もいろいろと考えた。なかなか難しい。だから、古典的な方法でいくことにした」
「はあ」
「昔から、拷問の定番は、爪剥がしらしい。左手の爪を一枚づつ剥がす。次は足の爪だ。それでも駄目なら、骨を砕いていく。それでも頑張るなら、別の方法を考える」
「あほか」
「一日だけ、時間をやる。よく考えることだ。それと、水はいくら飲んでもいい。食べ物はなしだ。痛みがひどいと胃の中の物を吐き出すらしい。ゲロの中で生きてるの、嫌だろ。あと、ここは完全防音になっている。無駄な体力は使わずに、拷問に耐える力を残しておくことだ」
真人は脇机を千葉の椅子の横に置き、水のボトルを5本並べた。
「待てよ」
「ん」
「しゃべるから」
「まだいい。ゆっくりで、いい」
真人は小屋を出た。後で千葉のどなり声がしていた。
翌日、小屋に入った真人に向けて水の入っているボトルが飛んできた。本人は力一杯投げつけた積りだろうが、肘から先だけで投げたボトルはトスをするよりゆるいものだった。
真人はボトルを両手で受け止めておいて、椅子に座った。脇机の上に置いてあったボトルは床に散乱している。
「臭いな」
千葉は思いっきり唾をとばした。真人の椅子までは届かなかったが、千葉の反抗心を証明するには充分だった。
ホースを伸ばして便器の掃除をし、ついでに水流だけで千葉の下腹部を洗浄した。
今日の千葉の目にあるのは、怒りだけだった。
「くそっ。なんでや」
「それは、自分に聞け」
「うわあああ」
千葉は狂ったように叫び続けた。その様子は大きくなった駄々っ子だった。
何も食べていない千葉の体力は急速に萎み、声が出なくなった。そして、大粒の涙を流して泣き始めた。
「こんなん、逆恨みや」
真人は小屋を出て、一時間後に戻った。千葉は半分眠っていた。大騒ぎをして、体力の消耗が激しかったのだろう。
真人がホースで千葉の下腹部に水をかけると、飛びあがるようにして目を覚ました。
「話してみろ」
「へっ」
「何を怖がってる」
千葉の体が小さく震えた。
「ここは、警察でも裁判所でもない。失うものは何もないだろう。それとも、何か大きな秘密でもあるのか」
千葉は顔を背けた。どうやら図星だったらしい。
「仕方がない。お前の体に訊くことにするしかないな」
真人は用意しておいたペンチを持って、千葉の左手に近づいた。目を見開いて、左手に力を入れて握っている。爪を見せないつもりのようだ。真人は小指をペンチで挟み、指を引き出したあと、左手で千葉の小指を固定してペンチを爪に当てた。
「わかった。言う」
「少し、遅かったな」
真人はペンチに力を入れた。
「頼む、言うから、止めてくれ」
「約束か」
「約束する」
「約束破ったら、二本一度に抜くぞ、いいのか」
「約束する」
「わかった。話してみろ」
真人は椅子に座って待った。
「全部は覚えてない。多分、十人ぐらいだ」
「ぐらいって、なんだ」
「いや、十人だ」
「いつ、どこで、相手は。ゆっくりでいいから話すんだ。時間はある」
千葉の話は曖昧なものばかりだったが、十件の話をした。既に、高校の頃から強姦魔だったようだ。
真人は立ち上がって三脚の上のカメラのスイッチを入れた。
「最初から、もう一度話せ。同じ話だぞ」
質問を入れながら、具体的な話になるまで手を緩めなかった。
「もう一度だ」
「えええ。何度話しても同じやろ」
「話せ。約束だ」
同じ話だと言いながら、五回目になると違う話が混じりだした。
「十人じゃないな」
「十一人だ」
矛盾だらけの話だが、千葉は七回繰り返して話すことになった。
「もう一人、いるだろう」
「いや。もう、いない」
「お前が、殺した子だよ。死体はどこに捨てた」
「なに言ってんだよ」
「約束違反か」
「違うって、これで、全部だ」
「わかつた。休憩にしよう。後で訊く。ピザは好きか」
「ああ」
「冷凍ピザしかないけど、食べるか」
「ああ。タバコが欲しい」
「タバコか、それは気がつかなかった。あとで買ってこよう」
真人はピザをレンジに入れておいて、コーヒーの準備をした。
「コーヒーはブラックでいいか。ミルクはないんだ」
「ブラック」
「よかった」
出来あがったピザを切って、脇机に置いた。
「ゆっくり、だぞ。下痢でもされたら、臭くてかなわん」
コーヒーもピザの横に置いた。
「タバコを買ってくる」
真人はタバコの銘柄を聞いて小屋を出た。
自販機はほとんど役に立たなくなっているので、G駅構内の売店でタバコとライターを購入した。
小屋に戻るとピザもコーヒーもなくなっていた。
「コーヒー、もう一杯飲むか」
「ああ。先にタバコが欲しい」
「タバコは、最後の一人を話してからにしよう」
「だから、もう全部話したって」
「わかってないようだな。ここは警察じゃないんだ。とぼけて済まそうなんて考えは、捨てろ。お前が死ぬまで責め抜いて、結果、死んでも、別にかまわん。警察は規則があってそこまではしない。でも、私に規則はない。何でもできるんだ。ここは、二人にとって地獄の一丁目なんだよ。私も半端な気持ちでやってるわけじゃない。私が信用できるような話をしろ。でないと、苦しみぬいて死ぬことになる。楽には死なせないよ」
「全部、話した」
千葉の声が小さくなった。分かりやすい男だ。
「仕方ないか」
「待て。待ってくれ」
「いづれ、お前は話をする。痛みには耐えられない。損得を考えろ」
「少し、待ってくれ」
「頭、悪いな、お前」
真人はペンチを手にして、容赦なく左手小指の爪を引き抜いた。千葉は叫ぶ前に失神していた。やり方が乱暴すぎたのか、出血があった。
真人は小屋を出た。自分の行為に吐き気がする。鬼になった積りだったが、覚悟が足りなかったのだろうか。
三時間後に小屋に戻った真人が見たのは、泣きじゃくる千葉の様子だった。不思議だったのは、この数時間で体が一回り小さくなったように感じることだった。
真人は冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、千葉に渡した。千葉は素直に受け取ったが、手にしたまま、ただ泣くだけだった。
ペンチを手にした真人が近づくと、千葉は涙と鼻汁で濡れた顔をあげて真人の方を見上げて首を横に振り、イヤイヤという仕草をした。
「約束は2本だ」
千葉の体には力が入っていない。手の平も握っていない。千葉は声を出して泣き始めた。
「話してみろ」
千葉は頷いたあと、ガクッと頭を落とした。真人は椅子に座った。
一時間後に、やっと千葉が話し始めた。
「あいつは」
「いつ、どこで、を忘れるな」
二十歳の夏頃、吹田の近くだと千葉は話し始めた。他の話をした時のように真人が質問を交えて話は続いた。
「あいつが、訴えると言ったんだ」
「終わったあとか」
「ああ。そんで、どついたら、女がひっくり返って、コンクリートの角に頭ぶつけて、動かなくなった」
「だったら、殺人じゃなくて、傷害致死だろう」
「わからん」
「なぜ、警察に行かなかった」
「行ける訳ないやろ」
「その時、警察に行っていれば、こんなことにはならなかった」
「・・・」
「それで、その女をどうした」
「埋めた」
「どこに」
「覚えとらん」
「全部、話すんだろ」
「箕面の方だ」
「場所を思い出せ」
「もう、思いだされへん」
真人は小屋を出て、家の中にある地図を捜し、車の中にある道路地図も集めて戻った。
脇机を千葉の正面に置き、地図を開いた。
「さあ、探そう。これが、お前の分かれ道だ。爪はまだ14枚も残ってる。その小指も痛いだろ。病院に行けば治療もできるし、痛みも抑えられる。何としても思いだすんだ」
千葉は病院という言葉に反応したのかもしれない。二人で何冊もの地図帳を並べて、必死に死体を埋めた場所を探した。
地図上で大体の場所はわかったが、埋められた死体を捜すとなると範囲が広すぎる。
休憩をして、ピザとコーヒー、そしてタバコを振る舞った。千葉の記憶を手繰り寄せなければならない。
二日間、千葉から聞き出せることは聞き出したと感じ、真人は現地に向かった。千葉の話だと、死体を埋めたのは8年前になる。そのままの風景が残っている確率は低いのだろうが、自分の目で確かめなければならない。
ここだ、と考えた場所に来たが、途方に暮れるしかなかった。開発の手は伸びていないが、場所を特定するのは無理だとわかった。真人は来た道を戻り、再び目的地へ向けて車を走らせた。途中で何度も停まり、携帯で写真をとる。写真を見せて、千葉が思い出せばいいが、そうでない場合は本人をここへ連れてくるしかない。こんな事態は予測していない。どうやって千葉をここまで連れて来るかを考えなければならないだろう。
奈良に戻った真人は、パソコンに撮影した写真を取り込みプリントアウトした。
小屋に行って、千葉に写真を見せたが、写真ではわからないと言った。
「死体が見つかったら、どうなるんや」
「お前が嘘をついていないと、証明できる」
「そしたら、どうなる」
「お前は警察に自首する」
「殺人でか」
「そうだ。警察は爪を剥いだりしない。トイレにも行けるし、食べ物もくれる。ここに比べれば天国みたいなもんだ」
「死刑か」
「それは、わからん。でも、その可能性は高い。最近は一人でも死刑がある。そうならないように祈ることだ」
「・・・」
真人は自分の部屋に戻りパソコンに向かった。最近では車椅子で乗り降りできる車両が多くなった。現地に千葉を連れていくためには、先ず移動手段の確保から始めなければならない。レンタカーのホームページを見て歩き、福祉車両という名称でリフトにより車椅子を乗降させる車種があることを知った。営業所に電話をして、翌日の予約をし、真人はホームセンターへ走った。後部座席には遮光フィルムで目隠ししておきたい。
慌ただしい行動計画だったが、翌日の午後には、千葉を現地に連れて行くことができた。
何度も停まり、確認しながら進んで、予測地点に着いた。
「ここか」
「ああ。こんな感じだ」
いくら人通りや車の通行が少ないとはいえ、車椅子に縛り付けた千葉を外に連れ出す訳にはいかない。遮光フィルムを剥がして、外の景色がよく見えるようにした。
「たぶん、あの辺やと思う」
「木が三本並んでるあたりか」
「ああ」
「わかった」
真人は遮光フィルムを貼り直して、車を出した。
「掘らんのか」
「今日は掘らない」
死体を埋めたという話をしてからの千葉は元気をなくしてしまった。反抗もしないし、真人の目を見ようともしない。口数も極端に少なくなり、素直で大人しい千葉直樹になっていた。
奈良に戻る途中で、千葉が泣き始めた。
「どうした」
「なんで、あんたは、そこまでやるんや」
「どういう意味だ」
「子供のために、なんで」
「・・・」
会話はそこで終わった。真人が口を開こうとしてバックミラーを見ると、千葉は首を傾けて寝入っていた。左手小指は倍ほどに腫れているのに、痛いとも言わない。千葉はこわれてしまったのだろうか。
小屋の拷問椅子に戻す時も、千葉には暴れる意思がなかった。こんなにも大人しくなってしまった千葉の爪はこれ以上剥がせない。明日は、警察に連絡しよう。自分自身が逮捕されることも承知の上だが、後始末の段取りだけはしておかなければならない。

翌朝、小屋のドアを開けた瞬間に真人は異常に気づいた。真人は千葉直樹の前に立ちつくした。明らかに千葉は死んでいた。口元に血の跡。舌を噛み切るしか方法が無かったとはいえ、千葉にはそんな勇気はないと確信していた。なんで。
真人は小屋を出て、仏間に入った。朝子にも、智子にも語りかける言葉が見つからない。これが、悪魔に魂を売るということなのだろうか。戦いは始まったばかりなのに、もう挫けそうなっている。乗り越えるしかない。
真人は恩田敬一郎の携帯電話の番号を押した。
「恩田です」
「結城ですが」
「どうしました」
「恩田さん、今、どこですか」
「今。品川」
「無理にでも、こちらに来てもらえませんか」
「今から」
「ええ。出来るだけ早く」
「何があったんです」
「来てから話します」
「結城さんが、そう言うのなら、行かなければなりませんね」
「申し訳ない。ぜひ、お願いします」
「わかりました。G駅でいいんですよね。着いたら電話します」
「すみません」
真人は、次に甲斐雅子との連絡用の電話で甲斐の番号を押した。
「私です」
「はい」
「実は、あなたを騙していました」
「はあ」
「あの時、あの男を拉致しました」
「そうでしたか」
「そして、ここで、殺してしまいました」
「えっ」
「自首しますので、これが最後の電話になると思います。残念ですが、契約は解除です。成功報酬渡す積もりでしたけど、できそうにありません。許してください」
「とんでもありません。そんなこと心配しないでください。最初から、こういうつもりだったんですね」
「ええ」
「では、何も言いません」
「あなたのとこまで捜査は及ばないと思っていますが、あなたと私は何の関係もなかった。それで押し通してください。この電話も処分します。いいですね」
「わかりました」
「ありがとう」
「いえ。私の方こそ、お礼申し上げます」
真人は電話を切って大きく息を吸った。椅子を動かして鴨居の隙間から電源を切った携帯電話を投げ入れた。この家を解体しなければ、この携帯電話は出てくることはない。
次に、真人は望月の自宅に電話をした。
「真人です」
「おはようございます」
「専務。頼みがあります」
「何ですやろ」
「専務となっちゃん、そして香織ちゃんの三人で、ここまで来てもらいたい」
「三人」
「ええ。できれば、すぐに。他に何か予定があったら、そちらを断ってでも来てもらえませんか」
「わかりました。すぐ、ですな」
「申し訳ない」
三十分も待たずにチャイムが鳴った。真人は三人を食堂に案内した。
「座ってください」
「どないしましたんや」
「説明します。先ずは座ってください」
三人が座るのを待って真人は話を始めた。
「私が全部話し終わるまで、我慢して聞いてください。香織ちゃんはもう高校生だから、大人扱いするけど、許してもらいたい」
「朝子を強姦した男、千葉直樹という名前なんだけど、私は千葉を殺しました。用事を済ませたら自首をします。傷害致死になるのか、殺人になるのか、わからないけど、もう、ここへは帰ってこれないと思う。専務も知っているように結城の家は代々早死にの家系です。多分、刑務所で死ぬことになると思う。そこで、心配があるんです。朝子がいなくなって結城の血筋は絶えました。私が死ねば、全ての資産は国に没収されます。結城不動産の社員もビルのテナントもマンションの人たちにも、迷惑がかかります。私が一人我儘しただけで、申し訳ないことになってしまう。そこで、厚かましいお願いなんですが、なっちゃんに跡を継いでもらえないだろうかと思いました。今から、なっちゃんには再婚話がいろいろと来ると思う。それもわかっていながらの話なんだけど、私と戸籍上の夫婦になってもらいたい。結婚したいという男性が現れても、私が死ぬまで我慢してもらいたい。殺人犯の男の籍に入ることになるし、香織ちゃんは殺人犯の子供になる。これが、無茶な話だということはわかってます。なっちゃんと香織ちゃんのどちらかが反対であれば、この話はなかったことにしてくれていい。なっちゃんにも香織ちゃんにも自分の人生を生きる権利がある。だから、無理にとは言えない。少し時間をかけて考えてもらえないだろうか。それと、この件に関して、専務にお願いがあります。専務はこのことには一切口を出さないでいただきたい。会社のためだと無理強いしてもらいたくないんです」
真人は用意した紙を出した。
「なっちゃん。こんな無理言って、ごめん。でも、時間が無くなってしまって、こんな形で頼むことになってしまった。卑怯だと思うけど、考えてもらえないだろうか。私のサインはしてある。承知してくれるのなら、君のサインをして提出してもらいたい。そうでなければ、この紙は破ってくれていい。二度と帰ってくることのない、幸せを約束してくれない男の妻になってくれと言ってる。断ることに躊躇はしないで欲しい」
真人は恩田の名刺を望月の前に出した。
「この男には、いずれ、連絡する必要が出てくると思います。自首すれば、この家の中は家宅捜索で滅茶苦茶になると思います。押収されるものもあって、何がどこにあるのかわからなくなると思う。いつも、後始末ばかりで申し訳ありませんが、今回も専務を頼るしかないんです。お願いできませんか」
「真人さん」
「この通りです」
真人は立ち上がって、頭を下げた。
「真人さんの頼み、全部引き受けま。何でも、言うてください。わしにできることなら、命でも賭けまっせ。望月康夫を頼りにしてくれて、おおきに」
「叔父さん。叔父さんは朝子さんの仇を討った。私は、叔父さんを誇りに思います」
「ありがとう。香織ちゃん」
「奈津子。どうやねん」
「ごめん。私、頭、真っ白で、わからない」
「奈津子」
「専務。さっきお願いしました。この件だけは、口を出さないでください。お願いします。専務には専務の人生があるように、なっちゃんにはなっちゃんの人生があります。専務の気持ちは、抑えてください。是非、お願いします」
「わかった」
「私の我儘でなっちゃんの人生を奪ってはいけない。百のうち一つでもという思いなんです。少し冷静になってからでもいいんです。時間がかかってもいいんです」
「そうします」
「専務。次のお願いです」
「はい」
「三塚先生は民事が専門なんで、私には刑事の弁護士さんが必要です。探してもらいたい。私は司法制度に戦いを挑むつもりです。その条件に合う人を探して欲しい」
「わかりました」
「結城不動産の判断は、全て専務に一任します。書面が必要ならいつでも書きます。それと、必要になるかどうかわかりませんが、恵子さんの名前で望月不動産が設立できる段取りをしておいてください」
「望月不動産」
「結城不動産は潰されるかもしれない」
「潰される」
「ええ。司法制度と戦うということは、国に逆らうということです。国家権力は何でもできるんです。その用心はしておいた方がいいと考えてます」
「えらいこっちゃな」
「それから、私への貸付金がありますよね」
「ああ。四億や」
「何も承知していないと言い張ってください」
「それ。ほんまのことや」
「私に聞けと言ってください」
「わかった」
「最後に、もう一つ。朝子の遺骨を、納骨して欲しい。仇を討つまでと思ってましたが、まだまだ時間がかかるし、私には面倒をみる時間がなくなりました」
「承知や」
「叔父さんには、最後の最後まで、面倒かけます。すみません」
「水臭いこと、いいなや」
「その名刺の男が、東京からこっちに向かって来てくれてます。その男と話をしたら、自首します。今日の内に」
真人は三人と握手をして送り出した。最後に望月だけを呼び止めて、紙袋を一つ渡した。
身の回りの整理は終わっていたが、もう一度確認しておこう。心残りは仏壇だが、奈津子が承知してくれない時は諦めなければならない。智子は許してくれるだろうか。
昼前になり、真人が二人分のサンドイッチを作っている時に、G駅に着いたと言う恩田の連絡があった。道順を教えて、コーヒーをセットする。恩田の反応は予想できないが、やるだけのことはやっておきたい。
食堂に通した恩田にサンドイッチを出して、煎れたてのコーヒーを飲んでもらった。
恩田は真人が話し出すのを待っている様子だった。この男は、こういう気の使い方をする。強引に呼び出されたのだから、文句の一つも言いたいところなのに、平然とした様子をしてみせる。キザと見るか、気遣いとみるか。真人は、恩田の気遣いだと感じていた。
「無理、言って、すみません」
真人は素直に頭を下げた。
「恩田さんに、一肌脱いでほしいと思っています。もちろん、断ってくれてもいいです。恩田さんの仕事にとっては、大きなダメージになる危険もあります。恩田さんがどちらに賭けるかをお聞きしたい」
「難しい話のようですね」
「ええ。恩田さんが窮地に立っても、私はバックアップできません。ご自分の力だけで切り抜けてもらわなくてはなりません。申し訳ない」
「話してください。聞くだけなら危険はないでしょう」
「さあ、どうでしょうか」
「はあ」
「ここに来ていただいたことで、既に危険領域に入っていることになるのかもしれません」
「どういうことです」
「私は監視されてます。多分、恩田さんの友人の指示でしょうが」
「えっ。山岡が」
「山岡さんと言う人ですか。その方が一番危険な人かもしれません」
「そんな」
「そのことは、また後で話しましょう。朝子を強姦した犯人は千葉直樹と言います。千葉は仮釈放で戻ってきました。私は、千葉が新たな強姦罪を犯そうとしている現場に飛び込んで、千葉を拉致しました」
「拉致ですか」
「ここへ監禁し、拷問をしたことで、千葉は自分で命を絶ちました。恩田さんとの話が終わったら、私は警察に電話をして自首するつもりです」
「・・・」
「私は専門家ではありませんが、殺人罪で起訴されると考えています」
真人はテーブルの上に用意しておいたDVDを恩田の前に出した。
「ここに、拷問の一部始終が入っています」
「ということは、死体は、まだここにある」
「そうです」
「私は共犯」
「いえ、死亡推定時刻に、恩田さんは東京ですから、問題ないでしょう」
「まあ」
「千葉は、十一件の強姦を話してくれました。拷問の結果ですから法的な価値はないでしょうが、状況証拠にはなるでしょう。そして、千葉は殺人も犯しています。死体を掘り出してはいませんが、死体を埋めた場所は大体特定しました。千葉のこの話が嘘であれば、他の強姦の話も嘘ということになりますが、もしも、死体が出てきたら、千葉の話は真実に近いものになるでしょう。そのことも、そこに写っています」
恩田は束になっているDVDを手に取った。
「これを、私が預かるってことですか」
「それもあります」
「それもって」
真人はカメラを恩田の前に出した。
「それで、インタビューしてもらいたい。例の強姦テロ計画のインタビューです。殺人犯への直接インタビューです。あなたは、報道するだけですから罪には問われないでしょう。そして、それをどこかのメディアで公表していただきたい」
「それでは、結城さんが不利になるでしょう」
「大丈夫ですよ。日本には死刑以上の刑はありませんから」
「でも」
真人は大きな紙袋を恩田の前に置いた。
「この中に、二千万あります。これは、恩田さんの危険手当だと思ってください。危険手当としては少ないかもしれませんが、無いよりはいいでしょう」
「やっぱり、共犯」
「厳密に言えば、そうなるかもしれません。お友達の山岡さんの出方次第でしょう。最後の砦はあなたの肩書だけかもしれません。恩田さんがジャーナリストという肩書を持っていなければ、共犯者だと決めつけられるかもしれませんね」
「僕に考える時間は、ないんですか」
「五分や十分考えても、あまり影響ないでしょう」
数分の沈黙のあと、恩田は危険を背負う側へ足を踏み出した。やらせのインタビューを真面目な顔でこなし、細かな質問をしてきた。
荷物をまとめた恩田が大きなため息をついた。
「恩田さん。あなたの事は警察では話しません。ただ、あなたがここに来たことを公安は知っていると思うので、このインタビユーのことはしゃべりますが、それ以外の事を自供することはありません。DVDのことも、危険手当のことも、です。そのつもりで」
「わかりました」
「あなたを、こういう形で利用することになるとは想像しませんでした。でも、なにとぞ、よろしくお願いします」
「あの時、結城さんに声をかけたこと、後悔することになるんですかね」
恩田は少し重い足取りで帰って行った。
真人は仏間に入り、智子の写真と朝子の遺骨を見た。でも、話しかける言葉が見つからなかった。何を言っても、二人には届かないような気もしていた。
食堂に戻って、警察に電話をした。
「刑事課の倉沢さんをお願いします」
「あなたは」
「結城真人といいます」
暫く待たされた。
「はい。倉沢ですが」
「結城です」
「どうされました」
「千葉直樹を殺しました」
「はっ。何て、言いました」
「千葉を殺しました」
「結城さんが、ですか」
「そうです」
「今、どこにおられます」
「自宅です。死体もここにあります。ご足労いただけますか」
「ええ。それは自首するってことですか」
「はい。お待ちしています」
「すぐに、伺います」

受話器を置いた倉沢は、夢を見ているような違和感で一杯だった。
「倉沢。自首って何だ」
楠木刑事に声をかけられて、倉沢は自分を取り戻した。
「結城さんが、千葉直樹を殺したと言ってきました。死体は結城さんの自宅です」
「マジかよ」
二人の刑事には、やっぱりという気持ちと、まさかという気持ちがある。
「行くぞ」
「はい」
階段を駆け下りて、車に走った。
「サイレン、どうします」
「鳴らせ」
「はい」
倉沢は駅前の渋滞をサイレンで蹴散らして結城の自宅へと向かった。
「停めろ」
楠木の大声で急ブレーキを踏んで、二人はフロントガラスに突っ込むところだった。
「どうしたんです」
「一寸待て。いや、お前先に行ってろ」
「楠木さん」
楠木は車を出て、今は営業していない店舗の前に停まっている車に近づいていった。
倉沢は両手でハンドルを力任せに叩いて、車を発進させた。楠木の突発行動には悩まされるばかりだ。「ちゃんと、説明しろよ」倉沢は車内で大声を出した。
結城邸の玄関に車を横付けにして、倉沢はチャイムを鳴らした。オートロックの門扉が解錠された音を聞いて、中に入る。玄関ドアの所に結城真人が立っていた。
「結城さん」
「ご迷惑かけて、すみません」
「冗談なんでしょう。まさか、あなたが」
「すみません。そのまさかなんです」
「もう」
「楠木刑事さんは」
「途中で脱線しました。困った人です。ところで、死体がここにあるとおっしゃってましたね」
「はい。案内します。楠木さんは、いいですか」
「とりあえず、確認させてください」
真人は裏庭の小屋に倉沢を案内した。
「この中ですか」
「はい。鍵はかかっていません」
「先に、入ってください」
「はい」
異様な部屋の中には、椅子に拘束された男が一人。頭が垂れ下がっている。近づかなくても、それが死体であることはわかった。「現場保全」の四文字が倉沢の足を止めた。何で楠木がいないの。倉沢は呪いの溜息をついた。
「すみません。楠木を待ちます」
「確認していただいた方が」
「ええ。そうですね」
警察官が現場に到着して、被害者にまだ生き残る可能性があった時はやらねばならないことがある。放置したことで死に至ったと判定されれば難しいことになる。
倉沢は男に近づき、男の死亡を確認し、小屋の外へ出た。
「結城さん。あなたが」
「はい」
「事情は、あとでゆっくりと聞かせてもらいます」
倉沢は携帯を取り出して、応援の要請と鑑識の出動を依頼しておき、楠木の携帯に電話を入れた。
「楠木」
「どうなってるんです。応援と鑑識、呼びましたよ」
倉沢の声は怒りに震えていた。
「わかった。すぐに行く。どなるな」
倉沢は誰にも聞かれないようにお腹の中で「くそおやじ」とどなった。
応援が到着する寸前に楠木がやってきた。
「なんで、そんなとこに突っ立ってる」
「はあ」
倉沢はおもわず蹴りを入れそうになった。原因は、お前だろ。
そこへ、応援部隊と鑑識がやってきた。結城真人の案内で小屋に入る。
「死亡は確認しました」
倉沢が大声で宣言した。異様な室内に目を見開いていた警察官たちは、すぐに自分の仕事に着手した。
「結城さん。事情を訊かせてください」
楠木に促されて、現場を離れた。
「お邪魔しても、いいですか」
三人は結城邸の応接室に入った。
「結城さん。自首したということでいいんですね」
楠木刑事は不思議そうな表情で言った。
「はい」
「この時点では、傷害の現行犯ということで逮捕します。反抗の様子もないと判断して、手錠はしません」
倉沢刑事は逮捕の時刻を控えた。
「倉沢への電話では、殺したと言ったそうですが、そうなんですか」
「はい。直接の死因は千葉が自殺したことでしょうが、拉致、監禁、拷問の結果で自殺した場合は殺人になると読んだことがあります」
「拷問ですか」
「はい。その内容は、あの部屋にあるカメラに全部入っています」
「撮影していた」
「はい」
「それを、押収しても、いいんですか」
「はい」
「結城さん。全く、読めていないんですが、あんたの狙いは何なんです」
「・・・」
「あんた。何者なんです」
「言っている意味が」
「公安に監視されてたのは、知ってたんですか」
「いえ」
「あんたは、何度も尾行を振り切っているそうじゃないですか」
「そうなんですか」
「先ほど、拉致と言いましたよね。そのことを公安は掴んでいない。公安の監視は素人に振りきられるほどヤワなもんやない」
「偶然だと思います」
「そうですか」
「楠木さんは、どうして監視のことを知っているんですか」
「申し訳ない。質問には答えられないんです」
「そうですか」
「ともかく、全く別の目的のために、わしらは、ただ、餌に食いついているとしか、思われへんのですわ。この通報も、この逮捕も、納得いってまへん。拷問の一部始終をビデオに撮って、それも持って行っていい。はあ、おおきに、とわしらが言う、とでも」
「いえ」
「目的は、何です」
「裁判で、ということでは、駄目ですか」
「やっぱ、な」
「犯罪の事実を解明するのが、警察の仕事ですよね。楠木さんや倉沢さんを困らせるつもりはないんです。犯行事実については全面自供でいいんです。犯行を隠すつもりはありません」
「結城さん。あんた、わしらをアホや思てんのか。警察官かて、本物の真実とやらを捕まえたい思てまんねんで」
「すみません」
「動機は、娘さんの仇打ち」
「そうです」
「なら、刺したら終わりでしょう。なんで、拷問を」
「すみません。警察に意趣返しする気は全くありませんが、あの男は他にも強姦をしていると思っていました。それを、警察とは別の方法でしゃべらせたいと思ったんです。拷問という手段を使って」
「で、しゃべったんですか」
「はい。十一件の強姦と殺人を一件」
「殺人」
「まだ、話だけですよ。死体は出てませんから」
「倉沢。お前がやってくれ。俺はこの件、下ろさしてもらう。わしは病気療養や」
「楠木さん。馬鹿なこと言わないでくださいよ」
「気にいらん。わしら警察は、最後にドツボに落ちるんや。やってられるか」
「楠木さん。ほんとに、申し訳ありません」
「あんた、そうやって謝るだけやろ。どっかで爆弾落ちてくる予感がしてんねん。刑事の勘や。公安がらみの事件で、よかったなんて事件はあらへん」
開けっ放しの応接室の入口に別の刑事が来た。
「長さん。家宅捜索、いいですかね」
「よろしいか」
「はい。どうぞ」
「やってくれ」
「倉沢。あいつら何を捜索する気や」
「形式的な捜索でしょう」
「なんも、出てこんやろ」
「でも」
「これは計画的な犯行や。たぶん、物証も自供も釣りが来るぐらい出るやろ。それは、この人が渡してもいいと判断したものだけや。気にいらん」
「それでも、やることはやらないと」
「わかった。署に戻る」
「現場を見なくていいんですか」
「わしらが見ても、意味ない。あるのは、この人が差し出した証拠だけやからな」
警察署に連行される車の中で、楠木刑事は無言だった。
取調室に入ってからも、楠木刑事は何もしない。尋問も調書作成も、倉沢刑事が一人でこなさなければならなかった。もっとも、犯人が全面協力しているのだから、尋問技術は何もいらない。時間を追って、書類に書き込んでいく作業だけだった。倉沢には見えていないものを楠木は見ている。そのことだけで、クレームをつける根拠はなくなっていた。
「身内の方は」
「いません」
「では、連絡しておきたい方は」
「結城不動産の望月専務に、お願いします」
「わかりました」
一日で終わるような内容ではないと判断して、倉沢は真人を留置場へ移した。
「楠木さん。どうしたらいいんです」
「わしにも、わからん」
「公安の件、なんで」
「車の中におった奴や。あいつは、大阪府警の公安や」
「府警」
「そこから、気にいらん。違うか」
「なんで」
「あいつらがほんとのこと言うとるの、わしは聞いたことない」
「気に入りませんね」
「せやろ」
「でも、粛々と、しかないでしょう」
「そや。つまり、この取り調べは誰がやってもええ訳や」
「は」
「別の殺人事件を追うことにする」
「別のって」
「十一件の強姦と一件の殺人、言うてたろ」
「はい」
「罠に嵌められてるようで、気悪いけど、あのおっさん、わし、嫌いやないねん」
「ですよね」
「ほな、あのビデオ、見さしてもらおか」
「はい」
ビデオを見終わるには一日かかった。
「倉沢。お前の感想は」
「あり、だと思います」
「押収品の中に地図帳があるか、見て来てくれ」
「はい」
地図帳には何か所にも印があったが、辿りついたと思われる場所は黒く塗りつぶされていた。下見ということで、二人は箕面に向かった。
「ここやな」
「はい」
「あの木や」
「はい。写真撮ります」
「瓢箪から骨か」
「楠木さん」
「わかっとる。不謹慎や」
千葉直樹の強姦事件を担当したのは大阪南署になる。箕面署は公務執行妨害で逮捕したにすぎない。千葉の余罪を追及できなかった責任は南署に降りかかる。南署に手柄を攫われた格好だった箕面署は難を逃れたことになるのだろう。奈良西署でも箕面署でも、あの男から余罪を引き出せたという保証はないが、責任は南署に任せておけばいい。
箕面署は遺体発見を引き受けてくれて、すぐに白骨化した遺体が発見された。
「倉沢。あのおっさんと友達やな」
「はあ」
「取調室では言われへん。箕面で白骨死体が出たこと、耳打ちしといたれ」
「いいんですか」
「いずれ、わかるこっちゃ」
「はい」
「この事件はまだ何かある。恩を売っといて損はないやろ」
「はい」
「南署みたいな恥、かきとうはない」
「楠木さん。あのビデオは表に出すんですか」
「出さなしゃあないやろ。死体が出たんや。どないして事件にするつもりや」
「するんでしょうか」
「ほう。お前も大人になったな」
「楠木さん」
「お前の心配は当たっとる。ここは、見物や。前にも後ろにも行かれへん。パソコンあったな」
「押収品ですか」
「ああ。あのおっさん。用意周到やと思わんか」
「思います」
「どこ探しても、あのビデオのコピーは出てきてない。カメラごと、わしらにすんなり渡しよった。あのパソコン、調べてもらえ」
「はい」
「もしも、や。あれを表に出さんといて、コピーが出てきたらどないするんや」
「カメラごと渡したのは、予定の行動ですか」
「わからん。この事件では、わしは何も信用しとらん」


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