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池袋母子殺害事故 [評論]



今日は、池袋の母子殺害事故から見える、「なんか、変だな」について書きます。
権力構造に組み込まれた官僚組織が、国民の利益よりも権力者の利益のために働いている実態の一端がこの事件で見えてきます。封建制度下の官僚組織が、「お上」の利益を守るために働くのは当然の事だったのでしょうが、民主国家になってからも、その働き方は変わっていません。これは、この国が民主国家にはなっていないことの証です。
もちろん、証拠があって告発したいから書くという文章ではありません。庶民の愚痴だと思ってください。
「一事が万事」「氷山の一角」の、ごくごく、小さな実例です。

池袋の母子殺害事故の判決がありました。
一審の判決は、懲役5年の実刑です。
加害者が、退官した旧通産省の高級官僚であったことから、「上級国民」という言葉が流行になりました。「上級国民」に相応しく、最後まで、無罪を主張しました。「あれは、本人の意思ではなく、弁護士の戦術だった」と加害者を擁護する方もいます。でも、本人の同意なしに戦術は作れません。「車が悪い」と言い続けたのは、やはり、加害者本人だと思います。
これはこれで、「上級国民」の皆さんから見れば「あっぱれ」な態度だったのかもしれません。
2人を殺害し、9人もの人達を傷つけた事故ですが、反省の色がないとメディアや「下々」の皆さんに非難されましたが、それでも、無罪を主張し続けました。一般人であれば、挫けるのでしょうが、上級国民ですから、誇りにかけても、譲れなかったのかもしれません。大変な重圧だったと思います。
世論を無視したのは、加害者にとって、メディアや「下々」よりも重視しなければならないものがあったのだと思います。自分は「お上」の一員だという意識です。「お上」全体を守るためであれば、高級官僚は、文書の改竄もしなければなりませんし、虚偽答弁もしなければならないのが、使命です。もう、退官しているのですから、そこまでしなくてもいいと思うのですが、それは一般人の思考なのかもしれません。
「お上」の一員としては、天晴な態度です。ここで、腰砕けになったら、「お上」の皆さんに多大な迷惑をかけると思ったのかもしれません。いや、あっぱれ、です。
確かに、私の言っていることは無茶苦茶です。たとえ、加害者に対してであったとしても、とても失礼な発言だと思います。でも、私達の思考では理解できないものがなければ、あんな対応はしなかったと思うのです。弁護士を代えてでも、「大変、申し訳ない事をした」と言えば済んだことです。
加害者を知る人は、「とても、いい人です」と言います。多分、そうだと思います。日本では、「いい人」でない人のほうが珍しいです。
でも、「俺のせいじゃない。車が悪いのだ」と言い続けました。
車の調査は綿密に行われ、異常がなかったと報告されました。
逆に、アクセルを踏み込んだ記録があり、ブレーキを踏んだ記録がないことも、車には不具合がないことを示しています。
それでも「車が悪い。私は悪くない」と言って、納得してくれる人はいるのでしょうか。
無理を通して道理を引っ込めようとしていることは、小学生でもわかることです。
高級官僚は、馬鹿では務まりません。きっと、頭脳明晰な人だと思います。
もしも、普通の神経を持っていれば、かなり、辛かったと思います。
でも、加害者は、本物の官僚であることを見事に証明してみせました。
普通の感覚であれば、車両の不具合が立証されなかったのですから、老人がよくやる「ブレーキとアクセルの踏み間違い」だと思いますが、絶対に認めません。車両の報告書が出た時点で戦術を、本人の意思として、変更してもよかったのに、そうはしませんでした。
それは、加害者が、高級官僚であり、「上級国民」だったからだと思います。
高級官僚は罪を認める権利を放棄している、いや、放棄させられているものと思います。官僚機構という体制を維持するためには、個人の良識に依存するわけにはいかないからです。悪事に加担しない高級官僚が皆無だとは言いませんが、悪事のレベルにもよりますが、ほぼ全員の高級官僚が悪事に加担しています。中には、運良く、悪事に加担せずに退官する人もいるかもしれませんが、そんな人は、この2000年の官僚史でも、ごく稀なことだと思います。
それを、一々、認めていたら、官僚機構は維持できません。悪事を働かなければ高級官僚は務まりません。いや、悪事を働くために高級官僚という存在があるのです。残された選択肢は、罪を無かったことにするしかないのです。加害者が、何年官僚をやっていたのかは知りませんが、人生の大半を官僚として生きてきたのです。退官したからと言って、簡単には変われなかったのでしょう。
悪事に加担しない官僚の方はいると思いますが、そんな方は、高級官僚にはなれません。高級官僚になるということは、人間の良識を捨てるということです。ただ、ひたすら、組織のために、「お上」のために、死力を尽くすのが、高級官僚の使命です。
国民の皆さんは、官僚の使命を知りません。もちろん、官僚の皆さんも、自分達の使命を公表することはありません。国民の皆さんと官僚の皆さんの判断基準は違うのです。国民の皆さんが、加害者を「上級国民」と揶揄して呼ぶのは、加害者の行動が異様に見えるのは、判断基準が違うからです。
官僚の皆さんは、「ふん、下々が騒いでおるわ」と感じているのかもしれません。
官僚の皆さんは、「俺達は国のために働いているのであり、国民のために働いているのではない」と思っているかもしれません。いや、そう信じていると思います。
官僚の皆さんは、「少数の下々が死んで騒ぐのはおかしい。私達が国を支えているから、下々は生きていられるのだ。下々は私達に感謝するのが筋だと思う」と信じているかもしれません。「国とは」という定義がないことが、残念です。
なんか、変です。
その原因は、国民と官僚では、判断基準が違うことにあります。
官僚の皆さんは、本気で、「国のために働いている」と信じています。
「国民のために働く」という意識がゼロだとは思いませんが、出世すればするほど、高級官僚に近づけば近づくほど、その意識は薄れていきます。国という概念と国民という概念は、次第に離れていき、対立構造にまで乖離してしまうのだと思います。
問題は、「国とは、国民とは」という定義がないことです。
交通事故という些細な出来事ですが、些細な出来事にも「言葉の定義」が欠如していることが影を落としていると思います。

被害者の家族の皆さんは、随分、苦しんだと思います。
最愛の妻と子を失っただけではなく、加害者の態度にも傷つけられました。
多分、傷口に塩を塗られたような気持だったと思います。
庶民感覚としてわかります。
被害者家族が良識のある方のようですから、救われます。
私のような変人が、あの方の立場いれば、何をしたかわかりません。
では、加害者の家族の皆さんも、大変苦労したのでしょうか。
それは、わかりません。
「上級国民」と脚光を浴びた人の家族ですから、私達の感覚とは違うかもしれません。
「エリートは守られて当たり前だ」と信じている「上級国民」の家族を私は知っています。
庶民の私には理解できませんが、確かに、別世界は存在しています。もちろん、加害者の家族が、別世界の人だったのかどうかは知りません。
事故当時、加害者は87歳です。どうして、免許証の返納をしなかったのでしょう。家族は、なぜ、勧めなかったのでしょう。「上級国民」ならば、国民の範となる行動をしても不思議ではありません。自分の利益を、自分の権利を、追うだけの「自分さえよければ」族だったのでしょうか。全員とは言いませんが、かなりの数の官僚の皆さんの感覚は、私達とは全く違います。

その後のニュースを見て、ビックリです。
加害者は上告せずに、一審の判決を受け入れたそうです。
「遺族に対して申し訳ない。収監を受け入れ、罪を償いたい」と語っているそうです。
それでも、上告しないと筋が通りません。
犯罪などなかったと言い張るのが、官僚の皆さんの仕事です。
仮に、犯罪行為があったとしても、なかったことにするのが、官僚の皆さんの仕事です。
実刑判決が出て、犯罪が明るみに出てしまったから、戦術を変えたのでしょうか。
それでも、「私は、やっていません」と言うのが、官僚答弁です。
上告する権利はあります。
いや、これは権利の問題ではありません。官僚の名誉と意地と根性の問題だと思います。官僚の皆さんは、たとえ、それが無理筋だとしても、筋を通すものです。
だからこそ、「私は悪くない。車が悪いのだ」と言い続けたのです。
一審で判決を受け入れるのであれば、これまでの主張は、一体、何だったのでしょう。
体に染み込んでいた「保身」という習性で動いていただけなのでしょうか。
街宣車や爆破予告や脅迫に屈したということなのでしょうか。
だったら、どうして、あんな無謀なことを主張したのでしょう。
私には、自分の過失を認めようとしない加害者の振舞は、「国力衰退」という現状を認めようとしないこの国の振舞と重なって見えました。
日本の未来を暗示しているようで、とても不気味です。
最後は、投げ出すのです。
日本の国家運営者の皆さんも、きっと、最後は投げ出すことになると思います。
「お上」に丸投げしている国民の皆さんは、自衛を考えなければなりません。
車の不具合を主張していた加害者の主張は、科学的な調査で全て否定されたのに、加害者はそれを認めませんでした。
「国力衰退」も、多くの数値が示しています。これも、科学的な根拠です。しかし、国は、それを認めていません。
同じ構図です。

この加害者の振舞を見ていると、今が令和という時代ではなく、明治時代だと言われても違和感はありません。いや、江戸時代だと言われても、頷いてしまいます。五千石の旗本の殿様が、馬で街中を駆け抜け、死傷者が出て、「馬が勝手に走ったのだ」と言っているようなものです。いくら江戸時代であっても、この旗本は職を解かれていたと思いますが、死んだり、怪我をした庶民は、泣き寝入りをしたと思います。
庶民が見れば、明らかに、変ですが、現実はそうではありません。
令和の時代になっても、国民は、虫けらに過ぎないと思われているのです。
「私達は、大所高所から国を支えているのであり、下々のことを斟酌している余裕はない」と言われているようで、大変、不快です。
何のための国なのですか。
何のための公務員なのですか。
国民の皆さんは、メディアの皆さんは、「上級国民」と揶揄するだけで満足なのですか。

官僚の皆さんだけを叩くのは公平ではありませんので、国家運営者の皆さんのことも叩いておきます。もちろん、一番、批難されるのは、今のシステムを黙認している国民の皆さんです。
野党の国会議員の先生方は、どうして、「モグラ叩き」が趣味なのでしょう。
財務省の佐川氏も高級官僚です。公文書改竄や偽証に対して個人攻撃をしても、何も解決しません。なぜ、佐川氏がそうしなければならなかったのかを見つけなくてはなりませんでした。財務省の佐川が悪い、安倍が悪い、麻生が悪いと言って、誰かの首を取ることにしか興味を示しません。これだと、次から次へと叩き捲らなければなりません。モグラはいくらでも出てくるのです。政権党の全議員の首と、全官僚の首を取らなければ終わりません。これは、「やってるふり」をしているだけだと思います。
「お上」と「下々」という構図が間違っていることに、どうして、気付かないのでしょう。
どうして、「言葉の定義」をしないのでしょう。
いつまで、封建制度を続けるのでしょう。
国会議員は、「お上」ではなく、国民の外注先です。ましてや、官僚は、その外注先から仕事を請け負っている孫請けでしかありません。どうして、孫請けの官僚が「上級国民」なのでしょう。
国会議員と国民は五分と五分です。もちろん、官僚と国民も五分と五分です。
民主国家では、それぞれの立場の人が、自分の責務を果たすのが、本来の姿です。
ところが、目的も責務も、何一つ明らかではないのです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」と言いながら、未だに、「お上」と「下々」という構図を守っているのです。
これでは、国ではありません。少なくとも、民主国家ではありません。


2021-11-06



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