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子供達の未来を守る行動を [評論]



このブログは、最近、特に、嫌なブログに傾斜しているように見えます。
それは、国民の皆さんを糞味噌に言うことが増えてきたからです。
政治家は、有権者の一票が必要ですから糞味噌には言えません。新聞の購読者も、テレビの視聴者も、消費者ですから、メディアも国民を糞味噌には言えません。国民は、アンタッチャブルなのです。為政者もメディアも上級国民も、国民の生き血を吸って生きているのです。生かさず殺さず、とことん利用するほうが利益になるのです。
非常識で、変人である私であっても、こんなマイナーブログであっても、国民の皆さんには遠慮がありました。この国を壊しているのが国民であることは否定しようがありませんが、その事を明言することを避けていました。これも、助平根性だと思います。
でも、子供達の未来を守ることのほうが、遥かに大切ですから、助平根性を捨てることにしたのです。その結果、ひどい言葉が並ぶようになりました。
こんな文章を読んで、喜んでくれる方は、一人もいないと思います。
「なにを、偉そうに。お前に、そんなこと、言われる筋合いはない」と思うほうが自然だと思います。失礼な言葉を使っているのですから、私が悪いと思います。ただ、何もしようとしない皆さんのほうが、はるかに悪質です。
10年前は、5年前は、これほど酷いことは書かなかったと思います。
段々と、矛先が国民へと向かったのは、ここ数年です。
国民をボロクソに書くようになったのは、この1年かもしれません。
国家運営に対する批判は多くの方が書きます。
昔、私が書いていたのも、政権批判であり、政治批判でした。
どれほど多くの方が、山のように批判を浴びせたとしても、何も変わりませんでした。「国力衰退」のトレンドは、びくともせずに、粛々と進んでいます。
それは、批判されなければならないのは、政治ではなく、国民だったからです。私達は、見当違いをしていることに、今でも、まだ気付いていません。国民は、一票であり、消費者であり、納税者ですから、悪しざまに言う人はいないのです。
国民が、自分で自分の責務に気付くしか方法はありません。
政治は、国民の意識次第でどのようにでも変わります。政治の好き勝手を許している国民にこそ責任があったと思います。この国の責任者は国民です。国民こそが当事者であり、政治家は国民の外注先でしかありません。
批判の対象としても、国民の存在は無視されていたのです。今も、そうです。
それでも、批判は、批判でしかありません。必要なのは、具体的な解決策です。
唯一無二の解決策ではないのかもしれませんが、「言葉の定義」に気付いてから、書く内容が変わったと思います。ただ、「言葉の定義」を掘り進めると、いつも、国民という強固な岩盤にぶつかります。そこから一歩も進めません。確かに、提案はしましたが、「ふむ、ふむ」で終われば、提案も批判と同じで、何の役にも立ちません。
提案は、実際に行動に移して、初めて、意味を持つのです。
ところが、行動するのは、強固な岩盤であり、「俺には関係ねぇ」と言っている、国民の皆さんなのです。お手上げです。
原因の究明ができれば、対策が立案できれば、と考えていたのですが、間違いでした。
段違いに難しいのが、それをどう実行するのか、ということだったのです。
国民の皆さんだって、今のままでいいのであれば、不安なんてないはずです。今のままでいいと思っていないから不安なのです。ただ、自分で行動するということに慣れていませんので、じっと、何かを待っているのだと思います。それでも、待っているだけではドツボにはまるのは避けられません。今は、明治維新に匹敵するような変化が必要な時なのだと思います。厄介なのは、薩摩藩も長州藩もありませんので、国民がやるしかないことです。
結果、どんどん深堀りし始め、強い言葉が並ぶようになりました。
ほんと、難しいです。
最近は、この辺が私の限界なのかな、と思っています。
日本の常識に照らせば、私の言葉は暴言の類になるのかもしれません。
「これが、人にものを頼む時の言葉か」と言われれば、謝ります。申し訳ありません。
でも、地獄が近づいていることに、気付いて欲しいのです。
「だったら、言うだけじゃなく、お前が行動しろ」「お前は、言うだけ番長か」と言われると思いますが、その通りです。私には行動力がありません。老人の私にできる行動は、下手な文章を発信することくらいです。大変、申し訳ないと思っています。
「お前が書いていることは、国民を鼓舞しているのか、愚弄しているのか、よくわからん」と言われるかもしれません。「もう少し、書き方があるだろう」と言われても、反論できません。「大人の対応」ができなくて、申し訳ありません。ぐうの音も出ません。
これが、私の限界なのだと思います。才能が欲しいです。
どうすれば、この壁が乗り越えられるのか、教えて欲しいです。

皆さんは、原因にも対策にも関心はありませんでした。ただ、ただ、棚から牡丹餅が落ちてくるのを待っているのです。目的もなく、責務も知らず、土下座をして「神様、仏様、なにとぞ御恵みを」と呪文を唱え、自分に美味しい結果だけを待っているのです。封建時代の百姓の皆さんも、同じようなことをしていたと思います。
これでは何も変わりません。
どうすれば、国民の皆さんがそのことに気付いてくれるのか、私には、まだ、その答が見つかりません。それを見つけるのには、まだまだ、時間がかかるのかもしれません。いや、見つからないのかもしれません。
ただ、目的だけは、はっきりしています。
子供達の未来を守ることです。
目的がある限り、挑戦するモチベーションはあるということです。
ただ、老人の私と、死は、それほど遠い存在ではありません。
私にも、国民の皆さんにも、残り時間は多くないのです。
確かに、焦りはあります。
だから、性急になっているのかもしれません。最近は、「切れる老人」が多いと聞きますが、私もその一人なのかもしれません。
困ったことです。

貧困化が進み、児童虐待まで増加し、多くの数値が悪化しているのに、この国の課題が、国力の衰退だとは、誰も言いません。
データは持っていませんが、昨日も、今日も、新しい貧困家庭が誕生しているでしょうし、明日もそうなります。これが、国力衰退です。
皆さんは、棚から牡丹餅が落ちてくるのを、誰かが何とかしてくれることを、待っているのです。確かに、これまでは「従順」と「服従」が私達の使命でしたから、自分から動くことなど、頭をよぎることもなかったのかもしれません。でも、危険が迫ってきているのです。皆さんの直感は、その事を知っているのです。
貧困化を止めるためには、「国力衰退」を止めるためには、行動が必要なのです。
私が提案している「言葉の定義」でなくても構いません。皆さんは、自分を守るために行動を起こす必要があるのです。
答はあるのでしょうか。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民の皆さんに、「そんなもん、お上の仕事だろ」と言っている国民の皆さんに、気付いてもらう方法も、行動してもらう方法も、ありません。
ただ、何となく、ずるずると、衰えていっているのです。
識者と呼ばれる人達は、時折、「国民にも、問題がある」と言いますが、そうではありません。「国民にこそ、問題がある」のです。
それでも。
多分、おそらく、いや、確実に、私には国民の皆さんを説得できません。
と言うことは。
この国は、このまま、行き着く所まで、行くということだと思います。
この国の衰退は、既に、トレンドになっていますので、自動的に行き着く場所は決まっています。世界一の貧困国です。世界一の下は存在しません。
今は、じわじわ、ずるずる、と坂道をずり落ちている状況ですが、どこかで、ドカンと転落する時がやって来ます。その引き金を引くのが何になるのかは、まだわかりません。それは、戦争かもしれませんし、地震かもしれませんし、デフォルトやハイパーインフレかもしれません。トドメを刺された時に、皆さんは、初めて気づきます。でも、それは、最後のトドメが劇的に見えるから、そう思うだけで、この国は、もう壊れ始めているのです。
「なに、また、戦後のように奇跡を起こせばいいだけの話だ」と思っているかもしれません。
そうではありません。
奇跡なんて、何度も起きません。だから、奇跡なのです。
「一度、壊れないと、俺達はその気にはなれないんだ」と言う方もいます。
冗談を言ってもらっては困ります。その気になったら再建できるのですか。
どうして、再建が可能だと思うのか、理解できません。
「日本は神の国だから、必ず、蘇るのだ」と信じている人もいるかもしれません。
神の国なんて、誰が決めたのですか。日本は普通の国です。妄想家の私が言うのは違反かもしれませんが、神の国信仰は、妄想に過ぎません。
世界の最貧国から抜け出すのは、簡単ではありません。
最貧国から抜け出すのに、100年かかるのか、500年かかるのか、或いは、二度と抜け出すことは出来ないのか、それはわかりません。
今生きている私達老人は、死にますので、いいのかもしれません。
でも、子供や若者は、かなり長い間、貧困に苦しみながら、絶望の中で死にます。
孫や、その孫達は、豊かな国だったという記憶もなく、貧困が日常の生活をしなければならないのです。
でも、これが、昭和・平成・令和の大人達の置き土産だとしたら、許されないことだと思います。私達の無作為が、多くの将来の国民を苦しめることになるのです。
これは、どう見ても、人として、あるまじき行為だと思います。

今は、国民の皆さんが、人としての責務を果たす時だと思います。
古い言葉に「人非人」という言葉があります。「人にして人に非ず」と読みます。「人として」の責務を果たさない人のことを指す言葉です。
「言葉の定義」をすることが気に入らないのであれば、せめて「人として」の責務を思い出してください。皆さんは、「人として」子供を守る責務があることを知っています。
歴史年表には載っていないかもしれませんが、貧困も最貧になると、私達は子供を間引くことだってしました。これも、私達の歴史です。「人として」失格だと思いますが、そうなってしまうのです。今なら、私達は「人として」の責務が果たせます。
子や孫に辛酸を嘗めさせようとしているのは、昭和・平成・令和の大人です。
国民の皆さんが、この国を変えるしか選択肢はないと思います。
その方法が、私の主張と違うものでも、何の問題もありません。
要は、子供達の未来を守ってくれたらいいのです。
この国にあるのは、溢れるほどの批判だけです。それも、自分の利益を守るための批判です。子供達の、孫達の、利益は誰が守ってくれるのでしょう。
これは、子供達に発言権がないことを利用した、「自分さえよければ」「今さえよければ」というご都合主義です。抵抗できない子供や孫に、責任を押し付けていいのでしょうか。これは「人非人」のやることです。
「ほんとに、壊れるのか。そんなもの、壊れてみなければ、わからないだろう」なんて言わないでください。
壊れてから「あちゃー」と言っても、どうすることもできないのです。
誰かが、何とかしてくれるだろう、なんて都合のいいことは起きません。
お願いします。子供達の未来を守る行動をお願いします。
皆さん一人一人には、先人として、大人として、人として、その責務があります。
それでも、やっぱり、「俺には関係ねぇ」という答しか返ってこないのでしょうか。
お偉い先生方に見放され、国民に見放され、子供はどうすればいいのですか。
これも、立派な児童虐待だと思います。

反省文を書こうとしたのですが、無理でした。
もっと、ひどいことを書いてしまいました。
国民の皆さんにお願いするしかないようです。
私は、皆さんが行動してくれる何かを見つけることが出来るのでしょうか。
今は、その自信がありません。
このまま、すんなりと、抵抗もなく、地獄へ堕ちていくような予感があります。
地獄へ堕ちれば、流石に、モチベーションは生まれると思います。行動しようという人も出てくると思います。
でも、手遅れです。
いつものように、「あの時、こうしていれば」と嘆くことになります。
また、同じことを繰り返すのですか。
後から嘆く「あの時・・・・」が今なのです。
時間は取り戻せません。


2021-11-03



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