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自分さえよければ、今さえよければ [評論]



毎回、毎回、同じような話ばかりで「うんざり」していると思います。
申し訳ありません。
国家崩壊の渦中にいると、変化は見え難いと思いますが、崩壊は着実に進行しています。
近い将来、このブログのような意見が、当たり前のように発信される時がやって来ると思いますが、それは、崩壊の最終章に入ったシグナルだと思ってください。今でも、打つ手は、ほぼありませんが、末期になればなるほど、打つ手はなくなります。
ただ、皆さんの直感は、この国が壊れることを、既に認識しています。
人間の直感は、大まかな結果だけが見えているだけで、具体像は見えませんが、原因とか、理屈とかの途中のプロセスも見えませんが、皆さんの直感は、未来を正しく予測しています。人間の直感は、優れものなのです。特に、庶民の直感は優れています。
崩壊は、いろいろな数値やグラフを見れば、一目瞭然なのですが、人間は、見たくないものは見ないようになっています。皆さんの思考は、無意識のうちに、将来の不幸を拒絶するように働きます。それは、人間が長期間のストレスには耐えられないようにできているからです。ただし、直感だけは、律儀に、同じ結果を示します。厄介なことに、人間は、そんな直感を無視することができません。だから、皆さんは「何となく、不安」なのです。
常識の世界では、そっとしておくことが礼儀なのかもしれませんが、このブログは、皆さんが見たくないものを、書き続けています。
ほんと、禄でもないブログです。
ただ、皆さんの直感が見ている将来の不幸は、半端なものではありませんので、何とかしたほうがいいと思います。津波のように、人間の力では、どうすることもできないのであれば、逃げることが正解なのでしょうが、将来の不幸は、もしかすると、皆さんの気持ち次第で、避けられるかもしれません。いや、間違いなく、避けたほうがいいと思います。
皆さんには、その力があるのです。

日本の歴史に縄文時代という時代がありました。
約1万年続いたと言われています。
なぜ、1万年も続いたのでしょう。
争いが少なかったから、1万年も続いたとも言われています。
明治維新で、日本人は、刀とちょん髷をやめました。今では、ちょん髷をしている自分を想像出来る人は少ないと思います。でも、明治維新から、まだ、150年です。そう考えると、1万年という時間は、想像を絶します。
しかし、縄文時代には平穏な社会があったから、1万年も続いたのだと思います。平穏な社会を維持していた理由は山のようにあると思いますが、想像でしかありませんが、推測されている生活様式から、「自分さえよければ」「今さえよければ」が封印されていたのではないかと思っています。もちろん、歴史書には、こんな解説はありません。
「自分さえよければ」「今さえよければ」が社会的に認められると、殺し合いのような争い事が増えます。争い事が増えれば、社会は衰えます。
ただ、争い事がなければ、社会は衰退しないのかというと、そうではないと思います。
争い事が社会を衰退させる要因になることは言うまでもありませんが、「自分さえよければ」「今さえよければ」だけでも、充分、社会を衰退させる力はあるようです。私達は、今、そのことを証明している最中なのだと思います。
縄文時代の社会では、暗黙の了解の元、半ば強制的に、「自分さえよければ」「今さえよければ」は認められていなかったのではないかと想像します。それは、皆で「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっていたのでは、生き残れなかったからだと思います。
もちろん、縄文時代に戻れば、なんて思っていません。いや、戻れません。
それでも、「自分さえよければ」「今さえよければ」に溺れているこの国の現状は、私達にとって、良い環境だとは思えません。

縄文時代の後に、約700年間の弥生時代と呼ばれる時代があり、その後に、大和朝廷が誕生し、約800年間は天皇による統治の時代があり、保元・平治の乱から、武士の力が社会を動かし始め、明治維新までの約800年間は武士が社会を統治する封建制度の時代がありました。でも、1万年という時間から見れば、短命に終わりました。
縄文時代には、統一政府と呼ばれるものはなく、集落ごとに統治が行われていました。集落間の交流や交易はありましたが、統治システムは個別の集落で決められていました。弥生時代に、稲作が普及し始めたことで、人口が増え、少しずつ貧富の格差が生まれ、そこから「自分さえよければ」が解禁されるようになったものと思います。
どの時代でも、食糧の確保が最大の課題です。
今は飽食の時代だと言われていますが、歴史から見れば、些細な変化に過ぎません。
より多くの食糧を確保できた者が権力を握ります。それは、食糧を分配することで、より多くの部下が養えるからです。権力者は、その権力を支えてくれる部下のために、強権を使うことを躊躇しなくなります。自分を支えてくれる者のために「自分さえよければ」を受け入れることも、権力者の権利だと思うようになります。もちろん、全ての人のためではなく、自分の権力を支えてくれる人達のために「自分さえよければ」を行使するのです。この構図は、今でも続いています。
ただ、権力者の「自分さえよければ」が行き過ぎると、ベネズエラや北朝鮮のような国が生まれます。

縄文時代には文字がありませんでしたので、文献が全くありません。遺跡から想像する方法しかありませんが、それなりに、縄文社会の様子は想像できています。
法律はありませんでしたが、集落とそこに住む人達が生き残るための「掟」はあったと思います。村長がいて、占い師がいて、集落と住民の秩序を維持していたと思います。その「掟」は、私が提案している「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義に近いものだったのではないかと思っています。縄文時代の「掟」の根っ子にあったものは、個人と集団が生き残ることであり、その目的は「永続」という一点にあったと思うからです。「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義から導き出される目的が「子供達の未来を守る」ことであれば、縄文時代の「掟」に通じるものがあるのではないでしょうか。
縄文時代と現代では、環境が全く違いますので、比較することでさえ意味はないと思いますが、一点だけ、人間が生きていくという点では同じだと思います。それは、目的が同じであっても不思議ではないということです。私達は、未来のために、未来の子孫のために、今を生きていると考えることはできないのでしょうか。縄文時代を真似すれば1万年生き続けることが出来るとは思いません。しかし、同じ目的を持てば、実現するかどうかは別にして、可能性は生まれるのではないかと思います。
今の日本社会は、「自分さえよければ」「今さえよければ」が横行し過ぎているように見えます。もちろん、私達は人間ですから、どうしても、「自分さえよければ」「今さえよければ」に傾斜してしまうと思いますが、共通の目的を持つことで、ある程度制御できるのではないかと思うのです。
もっとも、国民の皆さんの大半が、「永続」なんて要らない、明日滅んでも「自分のやりたいように生きたい」と思うのであれば、それも否定できません。人間の目的が「永続」だとは決まっていません。皆さんが、何を選択するのか、という問題だと思います。
ただ、崩壊は、苦痛を伴うことを忘れるべきではありません。幸せの中で滅ぶという選択肢はないことを承知しておく必要があります。貧困と飢餓の中で、食糧の奪い合いや殺し合いの中で、苦しみと絶望の中で、死ぬことになります。人間社会では、自分にとって都合の良いことだけが起きるわけではないのです。

「自分さえよければ」「今さえよければ」の中でも、権力者の行使する「自分さえよければ」「今さえよければ」は、最悪のパターンです。
その最悪のパターンは、余りにも多すぎて、日常茶飯事となり、あたかも「自分さえよければ」「今さえよければ」が正義になっているようにも見えます。ただ、曖昧な空気に包まれたこの国では、つい、見過ごされてしまいます。とても危うい状況だと思います。
この危うい状況を放置しておいていいのでしょうか。
必要なのは、言葉の定義であり、目的と責務の明確化だと思います。
そこで、庶民でも分かり易い「自分さえよければ」「今さえよければ」について見てみたいと思います。ほんの些細な出来事ですが、これも氷山の一角だと思います。
秋篠宮家の長女の結婚問題です。
「私は、どうしても、何があっても、この人と結婚したい」「どうしても、30歳までに、結婚したい」と言い張って、強行したことは、庶民であれば問題ありませんが、権力者が強行すると、それは最悪のパターンになってしまいます。
権力者に「よいしょ」したり、何よりも個人の権利を優先したいと思っている「自分さえよければ」教を信奉する方は、内親王を応援しているようですが、多くの国民が、本音の部分で、「それは、ちょっと」と感じていると思います。それは、水面下で天皇制が続いているこの国では、庶民が、内親王は権力者の「お姫様」だと思っているからです。庶民は、隣の家の真子ちゃんが、駆け落ち婚をしても、こんな大騒ぎにはしません。権力者の「お姫様」だから、税金で生活をしている権力者だから、騒ぐのです。明らかに、ダブルスタンダードです。これも、定義不在の弊害だと思います。
私達の国には、民主主義もあります、天皇制もあります、「お上」と「下々」もあります、「何でもある」デパートのような国です。それぞれの原理原則は異なりますので、原理原則を表に出せば、収拾がつきません。だから、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で国家運営が行われてきたのです。今回の件は、この「なあ、なあ」「まあ、まあ」が機能しなかったことによるゴタゴタだと思います。
私は、日本の国体を、民主主義風王政並立封建制度と呼んでいます。そんな国では、宮家の内親王は権力者の一員になります。それは、内親王の婚約者が、将来の権力者の一員であるという理由で、利用価値があることで、多くの利益を得ていることからも歴然としています。権力者の「お姫様」という高級ブランドは、利用価値があるから、おカネが集まって来るのです。ロースクールを卒業したばかりの30歳の夫の年収が2000万円で、妻になった「お姫様」の年収が1500万円だと言われています。それだけ払っても、利益が出るのです。権力とカネは表裏一体ですから、いや、カネを手に入れるために生まれたのが権力ですから、そこには、当然、表には出てこないカラクリがあります。
国民の批判に耐えかねた宮内庁が、内親王は病気だと言い出しました。「国民の誹謗中傷で、内親王は病んでしまった。これ以上の誹謗中傷は止めてください」というやり方は、感心しません。宮内庁だけではなく、新郎新婦が二人揃って国民による誹謗中傷を非難していましたが、これは、政治家のお家芸である「国民が、勝手に誤解した」というやり方と同じです。権力者側の問題を、国民にすり替えてしまうやり方は、誹謗中傷という強い言葉で国民を威圧するやり方は、褒められる手法ではないと思います。このやり方を見ても、内親王が権力者の一員であることは明らかです。
恋愛成就が人生最大の願いなのは、素晴らしいことだと思いますが、贅沢な願いにすぎません。庶民は、生活という、もっと切実なことで苦しんでいます。内親王と同年代の女性の中には、風俗の仕事を選択するしか道がない人もいます。多くの若者が生活に困窮し、中には、命を絶つ若者もいます。内親王は、宮家の一員であったというだけで、破格の収入を得られる仕事が用意されているのは、いかがなものかと思います。
下世話な話ですが、これだけ大騒ぎをして、啖呵を切って、結婚した内親王は、退路を断ったことになります。口が裂けても離婚という言葉は出せません。夫が、どんな人なのかは知りませんが、夫は、とても有利な立場を手に入れたと思います。やりたい放題をやっても、妻は従うしか道はありません。孤立無援の外国で、逃げる場所もなく、愚痴を言う相手もなく、一生を送るのは大変だと思います。大丈夫なのでしょうか。夫が、100%の「いい人」であることを、そんな人はいないと思いますが、願うしかありません。
「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっているのは、内親王です。結果が凶と出ても、受け入れるしかありません。とても、気の毒だと思います。
これは、内親王が生まれた時から「公人」と決められているからです。
世間に賛否両論があるのは、天皇の定義が、皇室の定義が、曖昧であり、民主主義との整合性が取れていないからだと思います。
皇族の家に生まれると、生まれた時から、公人なのです。
もちろん、これは、皇室が決めたことではありません。天皇を利用することで利益を得られる人達が決めたことです。
少し斜に構えて見てみると、皇族は「人身御供」に見えます。時の権力者が、皇族には利用価値があると思うから、人格を無視してでも利用するのです。保元平治の乱以降、天皇家は、権力者の利益のために、利用され続けてきました。内親王は、その犠牲者だと言うこともできます。
内親王が公人でなければ、権力者の一員でなければ、今回の行動は、一般的な悩み事に過ぎず、国民が違和感を持つような「自分さえよければ」「今さえよければ」にはならなかったと思います。
民主主義を定義し、皇室を定義すれば、済むことではないかと思います。
今でも、天皇崇拝者は、それなりにいます。そのほとんどが、欲と二人連れであることは仕方ありませんが、それでも、歴史と伝統の名の下に、この国には天皇が必要だと言います。とんでもないことです。国民生活が壊れようとしている時に、歴史とか伝統は、何の足しにもなりません。歴史と伝統が、食事に事欠く貧困家庭を救っているのですか。歴史や伝統では腹は膨れません。歴史や伝統よりも、現実が優先されます。歴史や伝統は、国民の生活にゆとりがある時に限り容認される贅沢品にすぎません。
もしも、権力や自分の利益を度外視してでも、天皇を崇拝する人達がいるのであれば、そんな人はいないと思いますが、ファンクラブを結成し、その人達の献金で天皇家を支えればいいと思います。税金を使っているから、国民が四の五の言うのです。いや、国民には、四の五の言う権利があります。内親王は、そのことがわかっていたから、1億5千万円は受け取れなかったのだと思います。
国論が分断されたと評する人もいます。元々、曖昧の上に成り立っていた「国民の総意」ですが、見事に、「総意」ではなくなりました。仮に、多くの国民が賛成していたとしても、それは、国民の総意ではありません。「総意」とは全員の意思という言葉です。もちろん、そのことも、曖昧さえあれば、どうにでもできてしまいますが、この曖昧が日本を衰退させているとしたら、考え直す時だと思います。そもそも、憲法に書かれている「国民の総意」は、一部の人達の利益を守るために生まれた言葉であり、当時の国民でさえ関与していません。出発点から、間違っているのです。
私は、皇室を抹殺しろ、なんてことは思いません。多分、多くの国民が、そう思うのではないでしょうか。貴重な文化として、保護していくべきだと思います。例えば、この国には人間国宝という制度があります。人間国宝になっている方は、「私人」であり「国宝」なのです。この「国宝」は権力の領域とは別のものです。
もちろん、皇室の定義をする前に、「国とは、国民とは、民主主義とは」という定義をすべきです。その定義で目的と責務を明確にすれば、憲法の1丁目1番地に天皇条項が書かれていることが間違っていることに気付くことができます。この国は、天皇のためではなく、国民のためにあるのです。
時計は逆回転できませんが、縄文時代の生き方は参考にすべきだと思います。
縄文時代にも権力は存在したと思います。
ただ、権力は自分のために使うのではなく、集団のために、そこに住む人達のために、使うものだとされていたのではないでしょうか。縄文人にとっては、権力よりも、生き延びることのほうが、はるかに優先順位が高かったと思います。彼等には、「永続」という唯一無二の目的があったのです。今の、この国の、目的は、何ですか。
もちろん、私が言っていることは、大きく今の常識を逸脱しているのでしょう。
でも、縄文人から見れば、どちらが常識なのでしょう。縄文人にとっては、「自分さえよければ」「今さえよければ」よりは、「子供達の未来を守る」ことのほうが常識なのではないでしょうか。1万年という実績は無視できません。


2021-11-05



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