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弱き者よ - 3 [弱き者よ]



7

夕方のニュースになると、園田駅前の映像が流れるようになった。
近くにいる銀行の女子社員が何に熱中しているのかわからなかったが、尋ねてみると犯人の投稿が載っている掲示板だった。この事件が次第に日本中の注目を集める存在になってきている。いや、ネットでは既に大騒ぎの領域に入っていると教えてくれた。現在起きている事件の実況中継など、ネット住民という人種も今までに体験がないらしい。犯人に対する応援が圧倒的に多い。「もっとやれ」「人質を殺せ」という投稿もあった。狂っているとしか思えない。犯人もこの掲示板を見ているようで、楽しそうな雰囲気はネットの反響が原因なのかもしれない。
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「少し、話をしませんか」
「質問には答えないと、日下部さんに言いましたけど」
「ええ。そう聞いています。でも、お願いできませんか、ぜひ」
「残念ですが、そのつもりはありません。どうしても、と言うのであれば、警察はこの交渉から降りていただいてもかまいません。交渉の仲介役は見つかると思います」
「仲介役に誰がなってくれると思うんですか」
「それは、これから捜します」
「マスコミは、仲介役、しませんよ」
「それを言うなら、させません、でしょう。別にマスコミでなくてもいいんです。あなたが心配することではありません。どうします。窓口を続けますか。それとも、降りますか」
「我々は、あなたの生命も、人質の方の生命も守りたい。だから、窓口の責任として、あなたと話がしたい。これ、変ですか」
「交渉になってませんよ。僕が電話を切れば、あなたたちは交渉窓口の相手ではなくなります。もう一度だけ聞きます。窓口を続けますか。それとも、降りますか」
「わかりました。我々が窓口です」
「では、食事を通用口の外に置いてください」
「通用口の外ですね」
犯人は電話回線を抜いた。そして、銃をもって警察官の三河の前に立った。
「三河さん」
「・・・」
三河は疲れた顔で犯人を見上げた。
「もうすぐ、その通用口の外に食事が運ばれてきます。それを中に運び入れていただきたい。あなたは、運ばずに逃げることもできます。それは、あなたが決めてください。思い違いがないように言っておきますけど、あなたが食事を運ばなければ、皆さんは食事ができないということになります。そして、あなたが逃げれば、報復としてどなたかが犠牲になることを知っておいてください。でも、ご自分のことが大切だと思えば、逃げることも選択肢の一つです。あなたが決めてください」
「佐々木さん。三河さんの手錠を外してあげてください」
犯人は三河の前から離れて、通用口との間に人質を置く場所に移動し、軽く銃を構えた。警察の突入に備えていることは誰の目にも明らかだった。警察官の三河は重い体を持ち上げるようにして立ち上がって、人質の群れに目をやった。
三河は通用口のドアを開けて、外に出た。暫くは何も起きなかった。人質たちの不安が徐々に膨れ上がって行く。食事の心配ではなく、犯人が報復と言っていたことが不安の原因だった。ドアが開き、両手に袋を持った三河が入ってきた。三河は体でドアを支え、外の人間が手渡す荷物を運びいれた。袋が5つと段ボールが2つ。三河はドアの鍵を閉めて自分の場所に無言で戻った。
「三河さん。食事以外のものは受け取っていませんか」
三河は黙って携帯電話を差し出した。
「佐々木さん。皆さんに食事を配ってください」
人質の緊張が一気に解け、一斉にため息が漏れた。
食事はスチロールの容器に入ったカツ丼だった。まだ、暖かい。漬物ってこんなに美味しかったのかと思うと、食事を通して頑張れと言っている人達がいると感じる。人質たちは元気を貰った。
食事が終わったところで、世話係が交代した。三人目の世話係は同じく女子社員の竹原という女性だった。
人質になってから半日が過ぎた。たった12時間だが、普通の生活をしていた自分を想像しても実感がない。電話をする声も少なくなってきているので、西崎との電話は控えざるを得なかった。犯人がトイレに行った時に、できるだけ時間をかけた。
「真衣ちゃん。あなた、誰と話してるの」
「えっ。ああ。親戚のおじさん。父がいませんから」
「そう。そのおじさんって、警察の人」
「いいえ、クリーニング屋さんです」
「そう。でも、気をつけなさいよ。あの男は、会話を聞いてる」
「はい」

7時に指揮本部の会議が始まった。何もしていない西崎でも疲れを感じていた。
「佐伯警部、その後の説明をお願いします」
黒装束の特殊班、佐伯警部が立ち上がった。
「先ず、内部映像はあのモニターに出ています。まだ一カ所ですが、今夜中にはもう一カ所、設置できると思います。狙撃班は、現状では一人を配置するスペースしかありません。まだ検討します。問題は犯人の銃ではなく、爆発物です。起爆装置の詳細がわかりませんので、犯人の言葉を頼りに推測するしか方法はありません。鞄は閉じたままなので、無線を利用しているものと思います。ただし、犯人の言うような起爆システムが組み込まれているのかどうかについて、確信は持てないという判断です。犯人の部屋を捜査した結果によれば、爆発物を製造したという痕跡はありますが、起爆コントローラーを製造した形跡が見当たりません。犯人が言ったような機能を持たせようとすると、電子機器の制作か改造が必要になりますが、そのような部品も工具も犯人の部屋にはありませんでした。市販品の組み合わせだけでは、難しいだろうという判断です。共犯者がいて、そのコントローラーを提供したという可能性、または別の場所で製造した可能性などを排除していますので、確率の高い推測ではありません」
「それを確認する方法はありませんか」
「ありません。あの鞄の中身を調べられれば、できますけど」
「犯人に、電子の知識があったと思われる痕跡はありませんでしたか」
「犯人の住居を見に行った隊員は、そのような痕跡を見つけていません。電子関係の書籍が一冊もなかったし、半田ごてもありませんでした。それに、犯人は職業についたことがありません。電子関係のプロだという要素はないと思います」
「どんなコントローラーが必要なんですか」
「例えば、タイマーで起爆させる場合、一度タイマーを作動させると時間が経過して起爆に至ります。犯人は最大で4分、最小で2分と言っています。タイマーの初期値は4分で、そのタイマーを何らかの方法でリセットしているものと思います。つまり、タイマーが進んで2分になったところで、何らかの信号により、タイマーは4分に戻るという仕組みです。信号がなかった場合には、2分から、さらにカウントダウンして起爆に至ることになります」
「どんな方法があるんですか」
「例えば、自分の脈拍を信号に変えて送るとか、音声認識でリセットしているとか、他にも方法があるかもしれないということです」
「そんな方法が一般的に使われているのですか」
「いえ。そのようなコントローラーが使用されたという事例は、少なくとも自分は知りません。でも、否定はできません」
「わからない、ということは50%の確率で爆発が起きるということですか」
「残念ですが」
「斎藤次長、犯人の交友関係で電子技術者はいませんか」
「高校中退後の交友関係は不明です。それ以前の交友関係を洗っていますが、該当するような人物は見つかっていません」
「インターネットの方は」
「それも、解析中ですが、そのようなメールは見つかっていません」
「銀行の対応は、どうです」
「現金を用意している途中、という回答です」
「感触は、どうです」
「用意すると思います。ただ、いくら銀行だといっても500億は右から左という訳にはいかないようです。でも、17人の人質を見捨てれば、M銀行は苦しい立場に立たされることになるということもわかっているようです」
「では、この500億を、犯人はどうするつもりなのか。どう思いますか」
「思想的背景はほんとにないんですか」
「ありません」
「確認は取れているのですか」
「取りました」
公安もマークしていなかったということだが、公安が正直になることなどないのだから、完全に信用はできないと刑事畑の人間は考えるだろう。
「愉快犯とは考えられませんか」
「愉快犯」
「例えば、500億の焚き火をしろとか、ヘリコプターで撒けとか、です」
「それはそれで大変な事態ですが、排除はできません」
「犯人の要求は続くかもしれない。飛行機を用意しろと言ってくる。人質と金を乗せて飛び立てば、受け入れる国があるかもしれません。500億ですから」
「その可能性も排除できません」
発言が途絶えた。
「まだ、始まったばかりです。精力的に捜査と検討をお願いします。この状況では突入という選択肢は難しいでしょう」
会議は散会した。この前線本部の様子は、全て政府の危機管理室に中継されている。テロ対策なのだから最終的な判断は危機管理室から出される。現場の指令本部の様子は、その判断に欠かせない。
「明日の朝の食事の手配をしてくる」
兼松課長が部屋を出て行った。西崎は生返事で課長を見送った。
西崎の頭の中も爆発物の事で占められていた。あの鞄の中に爆発物はあるのか。犯人の言う起爆装置があの中にあるのか。犯人はこの事件を公開しながら進めると宣言している。なぜ、ここまで公開する必要があるのか。犯人の目的がはっきりしていないのだから、断定はできないが、公開しなければならない条件が犯人にはある。それは、あの爆発物に関することではないのか。10個の嘘を並べる犯罪者はいない。9個の真実のなかに1個の嘘を紛れ込ませておけば、全体として真実らしく見える。1個の嘘があの爆発物だとすれば、犯人の思うつぼだろう。だが、それをどうやって証明する。
西崎は犯人の表情を直接見たいという強い欲求に駆られた。
柿崎が部屋に飛び込んできた。
「警視。これを」
柿崎が一枚の紙を楠木警視に渡した。ネットに新しい書き込みがあったのだろうが、柿崎の慌て方を見れば事態が動くような内容に違いない。
「何があった」
部屋を飛び出す柿崎を捉えて、西崎は大声を出した。
「下に来い」
西崎も柿崎の後ろを追って、部屋を飛び出した。
一階のプリンターが用紙を吐きだしている。西崎はその一枚を取った。

銀行ハイジャックの浅尾弘樹です。
僕の書き込みを見ていても1円の得にもなりません。
どうです。皆さんも参加してみませんか。
それとも、そんな勇気は持てませんか。
M銀行に要求した金額は500億円です。
これは、一人に100万円配ったとしても5万人分です。
僕の次の要求は、現金を先着5万人に100万円づつ配れという要求です。
銀行が要求を受け入れ、警察が妨害しなければ、明日の朝9時に現金は用意されます。
銀行が要求を拒否するか、警察が妨害をすれば、人質の命は1時間に1人ずつ失われていきます。
ただし、これはゲームではありません。
みなさんが危険に身を晒すことになります。
あなたの不運が重なれば、命を落とすことがあるかもしれない。
犯罪者として捕まるかもしれません。
でも、少しだけ冒険すれば、100万円が手に入るかもしれません。
あなたの人生は充実していますか。
それとも、糞みたいな人生ですか。
失うものは多いですか。
それとも、失うものはありませんか。
あなたが行動を起こせば、この糞みたいな日本の何かがかわるかも。
言いたい放題の「名無しさん」
糞みたいな「名無しさん」
根性、見せてくださいよ。
無理かな。
決断した時から、あなた達の敵は、警察です。
僕の周りも警察で埋め尽くされています。
さあ、この犬どもの包囲の中からお宝を持って帰るのは誰だ。
あなた、あなた、そしてあなた。
いつまで、そんな人生にしがみつくつもりなんです。
大切なものなど何もないあなたの人生に風を入れてみませんか。
冒険という風を。

「このガキ、愉快犯ってことか」
西崎は独り言としては大きな声を出した。こんなことのために、17人の生命が危険に晒されている。許せることではないが、こんな若者がどこにでもいることも事実だ。壊れ始めている世界を、一人の警察官に救える筈もない。
以前に恐喝と傷害を犯した若者に説教口調で反省しろと言ったことがある。なぜ、あんなことを言ったのか。クールに仕事をこなせる男だと自分では思っていたのに、あの時は魔がさした。いやクールに仕事をこなしたいと思っていただけかもしれない。その若者に「おまえらに言われたかねえよ」と冷静な声で言われた。「そりぁ、そうだ」とも言えず、話を変えたことがある。確かに、世界を壊したのは俺達大人だ。俺一人の力で壊したわけではないが、やはり世界をこわしたのは大人たちだと思う。それでも、したり顔で取り締まりをする大人たち。西崎にも偽善者というレッテルを勝手に外す資格はない。困ったことだと言いながら、仕事をするしかない。そんなことを思う西崎は、警察官失格かもしれない。いや、大人たちが大人失格なんだと思う。思っただけでは駄目なんだけど、と感じながらいつも西崎の思考は霧の中へ消えて行く。
犯人の書き込みにより、指揮本部の中は電話をかける男たちの声で満ち溢れた。金を求めてやってくる5万人の人間をどう扱い、どう防ぐのか。この指揮本部で対応する問題ではなくなっていた。政府の危機管理室の仕事であり、東京の警察庁の仕事であった。
呼び集められ幹部に対して、「この件は、私たちの仕事ではありません」と楠木警視は言い切った。若いのに肝の据わった男だと思った。
「何があった」
戻ってきた兼松課長に、犯人のメッセージを渡した。
「西崎よ。どうすれば、いい」
「そんなこと、俺に聞かないでくださいよ」
「このまま、壊れて行くのか、この国は」
「だから、俺に聞かないでくださいって」
犯人のメッセージを、課長も若者の悲鳴だと受け取った。管理職にある警察官なら、先ず新たに出現する5万人の対策を心配しなければならない筈だが、課長も現場の人間だということになる。現場を預かる人間には見えることでも、緯いさん達には見えないのだろう。いつものことだけど。
殺された人間の体を切り刻むことが解禁され、無差別殺人も解禁された。そして、今度はテロも解禁される。いつの日か、ハイジャックした飛行機が国会議事堂に突っ込むようなテロもフィクションだけの世界ではなくなるのだろうか。
新しい指揮本部が西警察署の中に立ちあげられた。園田不動産ビルに設置されたハイジャック本部から西警察の署員は、兼松と西崎を除いて新しい指揮本部に移された。全国の警察本部に非常呼集がかけられ、12時間以内に10万人の警察官を新指揮本部の指揮下に置くことが決められた。
人質の生命を守るためには、現金を配る必要がある。だが、配った現金は全額取り戻す。そのためには、金を受け取った5万人に10万人の警察官を張り付かせる。国家権力をなめるんじゃねえ、という意思表示でもある。不正に取得した金が自由に使えたのでは法治国家ではないと言い切った幹部もいたらしい。世間一般には流れていない情報も、西崎のいる指揮本部には入ってくる。
「課長。これ、やり過ぎじゃないですか。10万人ですよ。戒厳令じゃあるまいし」
「ああ」
「銀行は、あくどく儲けてるんですから500億ぐらい出せるでしょうに」
「警察が取り戻すと言わなければ、銀行は出さないかもしれない」
「人質が殺されても、ですか」
「人の噂も何とかだろ。しばらく耐えれば済む」
「だったら、国が補填すればいい。資産の再配分ってやつですよ。どのみち、金に困ってる連中が押し寄せるでしょうし、炊き出しだと思えばいいんです」
「そんなことになれば、国家権力が権力ではなくなる。何でもありになる」
「実際は、何でもありでしょう。金持ちは」
「それを下々にも許せば、権力の意味がないだろう」
「じゃあ、俺たちは、何なんです」
「下々よ。上が下を取り締まるんじゃない。上は下々に下々を取り締まらせる。そういう仕組みを作る。それが権力だろ。だから、俺たちは犬と呼ばれてるんだ」
「犬、ねえ」
「今更、何。青臭いこと言うな」
「でも、課長も腹立ててるでしょ」
「それとこれとは別だ」
「俺、警察辞めようかな」
「辞表、受け取ってもいいぞ」
「怒らないでくださいよ」
「やってられねえな」
「課長。愉快犯だと、人質は危なくないですか」
「ああ」
「どうしたら、いいんです」
「ああ」
人質になっている真衣には、「まかせとけ。助ける」と言い続けているが、西崎には何の目途もない。それでも、言い続けるしかない。警察官にできることが神頼みしかないのでは、話にならない。あの爆発物が犯人の嘘だという確証が欲しい。刑事の直感としては高い確率で当たっていると思うが、楠木警視に強行突入を進言するほどの根拠にはならない。事態は刻々と西崎の手が届かないところへ行ってしまう。5万人の群衆と10万人の警察官。何が起きても不思議ではない状況に対して、西崎個人の力など役に立たないというより意味がない。
立体的な銃声が聞こえた。監視モニターを担当している警察官が声を出した。
「どうした」
「モニターが消えました」
階段を駆け下りてくる足音がして、特殊班の佐伯が飛び込んできた。
「すみません。スコープが破壊されました」
「あの銃声か」
「はい。狙撃班の一人が負傷しました」
「負傷」
「ファイバースコープを設置してある場所で位置についていた隊員の肩を銃弾が貫通しました」
「命は」
「大丈夫です」
「散弾銃だからな」
「はい」
再び、銃声がした。その銃声はステレオになってなかった。少しくぐもった音に聞こえた。
階段を駆け下りてくる靴音がして、黒装束の特殊班隊員が部屋に来た。
「東側のスコープが破壊されました」
「被害は」
「東側はスコープだけです」
「2カ所とも、やられたか」
「はい」
「新しいスコープを設置してください。映像なしでは何もできない」
「はい。開口部は難しいと思いますので少し時間がかかります。」
「どうするんです」
「穴を開けます」
「スコープの予備は何台ありますか」
「3台です」
「すぐに手配してください。できるだけ多く」
「はい」
「一カ所だけでも、残るように。それと、穴をあける工事は同時に開始してください。音は聞こえても仕方ありません。一カ所でも場所が特定されなければいいのです」
「はい」
佐伯が部屋を飛び出して行くと、すぐに電話が鳴った。
「はい。楠木」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「はい」
「お年寄りが一人、体調を崩しました。交換要員はいますか」
「もちろん」
「5分後に電話します。名前と電話番号を用意しておいてください」
「わかった」
ファイバースコープに関する話だと思っていたので、さすがの楠木警視も返事をするのが精いっぱいだった。
「警視。私が行きます」
「西崎さん、でしたね」
「はい」
「お願いできますか」
「はい」
「危険な任務だという状況はわかってますよね」
「はい」
「ありがとうございます」
西崎は近くにあった紙に自分の携帯電話の番号を書いて渡した。
「西崎さん。必ず救出します」
「ぜひ。お願いします」
西崎は兼松課長の近くに寄った。
「うちのやつに、すまん、と言っておいてください」
「わかった」
聡美は怒るだろうな。警察なんか危ない事ばかりで、一生の仕事じゃないと言っていた。聡美は母親の後を継いで美容院をやっているから、生活には困らない。刑事なんて、髪結いの亭主の道楽ぐらいにしか考えていない。間違いなく、聡美は怒る。でも、ここで手を上げなければ、西崎はこの先自分がまともに生きていけるとは思えなかった。男は勇気があるんじゃない。男は重い十字架を背負って生きていけるほど、強くはない生き物だということを犯罪者を見ている西崎は知っていた。ただ、十字架を背負いたくないだけなのだ。
西崎は銃と手錠、そして警察バッジを課長に渡して指揮本部を出た。銀行に向かいながら、吸いおさめになるかもしれない煙草を取り出した。警察の仕事は嫌いではなかった。特別な才能もない自分にとって警察官になったことで後悔する部分はないと思っている。自分の人生について、深く考えたことはない。まあまあの人生だったんじゃないだろうか。まだ死ぬと決まった訳じゃない。まだ犯人の首に喰いつくぐらいのことはできる。それでも、思い出したこともない過去の光景が脳裡をよぎる。まさか、これが走馬灯。
携帯が振動した。
「はい」
「西崎、さん」
「ああ」
「通用口の鍵を開けておきますので入ってください」
「わかった」
西崎は、最後の煙を思い切り吸い込んで煙草を捨てた。


8

犯人の男が通用口の鍵を開けて、距離を取って銃を腰のところで水平に構えた。携帯で西崎という名前が聞こえたので身代りになるのは西崎かもしれない。眼鏡屋のおじいさんが苦しそうな声を出し始めて一時間は経っている。顔色は青ざめ、呼吸も苦しそうだ。
ドアが開いて、西崎刑事が入ってきた。
犯人は銃口を動かして、眼鏡屋のおじいさんを指した。
「あなたがおぶって外に出してください。外の人間に渡したら、ここに戻ってきてください」
「わかった」
「命が惜しければ、そのまま戻ってこなくてもいいですが、その時はここにいる誰かが犠牲になります。警察官としては、それはできませんよね」
「わかってる」
西崎は不機嫌な顔で眼鏡屋のおじいさんに近づいた。
「内藤さん。もう、大丈夫ですよ」
「ああ」
眼鏡屋のおじいさんは、薄く眼を開けて西崎を見た。顔見知りのようだ。
「俺の肩につかまって」
西崎は、眼鏡屋のおじいさんを抱き起し、背負って力強く歩き始めた。人質の目が二人を追った。西崎がドアを出て行くと、何人もの人質からため息が漏れた。犯人の言う事が正しければ、自分たちの生命は風前の灯の筈だが、それでもおじいさんが救助されたことは人質の気持ちを落ち着かせた。
ドアが開いて、すぐに西崎が戻ってきた。ドアの外に救助の人間が待機していたのだろう。
犯人は眼鏡屋のおじいさんがいた場所を銃口で示した。厳しい目で睨みつけていた西崎も無言で動いた。
「ご自分で、手錠をしてください」
西崎は真衣の横に座って、眼鏡屋のおじいさんがしていた手錠を自分の右手にはめた。
「竹原さん。机の上の袋を持ってきてください」
世話係をやらされている女子がカウンターの向こう側にある机からビニール袋を持ってきた。
「おまわりさんに、渡して」
西崎が袋を受け取ると、犯人は西崎の前に立った。
「その中に、ポケットの物を出してください。全部です」
西崎は携帯電話や手帳を袋に放り込んだ。煙草を入れる時だけ躊躇した。
「それで、全部、ですか」
「ああ」
「他に何かあると、面倒なことになりますよ」
「ない」
「いいでしょう。では、口を大きく開けてください」「もっと、大きく」
犯人は、大口を開いた西崎の口の中に銃口を入れた。
「暴れないでくださいよ。安全装置、外れてますから」
犯人は西崎のボディチェックをした。
「ほんとに何もないんですね。三河さんもあなたも警察官でしょう。警察なら何か小細工するでしょう。マイクとか拳銃とか」
「おまえ、警察のこと、何もわかってないな。人質の安全に影響するようなことを警察がする訳がない」
「でも、それでは僕を制圧できませんよ」
「そんなこと、おまえが心配する事じゃない」
「警察は、可能だと思ってる。そうなんですか」
「当然だろう」
「どうやって」
「そんなこと、俺が言うと思うか」
「殺されるとしても、ですか」
「ああ。そうでなきゃ、ここにはこない」
「強がりを言わないでくださいよ。人質の生命が一番大切なんでしょう。そんな警察に何ができると言うんですか」
「だから、それは話せないと言ってる」
「まあ、いいでしょう。あなたが、どこまで強気を通せるか見たくなりましたよ。警察が約束を破った時、犠牲者の一人目は警察官にしようと思ってましたけど、他の人にします。一般人の犠牲者の方が重みがありそうだと気がつきましたよ」
「馬鹿な事、言うな」
「うん。それがいい」
犯人は銃を肩に担いで、笑いながら西崎の場所から離れた。
「おい」
犯人は立ち止まり、人質一人ずつに銃口を向けた。
「西崎さん。あなたを見る皆さんの目が急に冷たくなったと思いませんか。礼を言います。あなたのおかげで、一枚カードが増えました」
人質の間に刺々しい空気が流れた。誰もが疲れている。決して楽しい会話ではなかった。
「おじさん」
「すまん」
真衣は外に援軍がいることで、少しだけ安心感があったが、西崎が同じように人質になったことで動揺はあった。
「真衣ちゃん。うちの課長に連絡入れてくれないか」
「はい」
真衣は西崎に言われた電話番号を押した。援軍が無くなった訳ではない。
「兼松」
「成沢と言います」
「おう」
「西崎のおじさんは、ここにいます。伝える事があれば言ってください」
「まだ、今はない。時々、連絡してくれるか」
「はい。そうします」
「ああ。西崎に、くれぐれも慎重にと」
「わかってます」
真衣は電話を切った。
「何て」
「くれぐれも、慎重にと」
「ああ」
「おじさん。どうして」
「ん。どうしても、あいつと直接会いたかった。表情とか仕草とか目の色とか、そんなものが知りたかった。外からではわからない」
「そう」
「すまんな」
できるだけ小さな声で話していたが、隣にいる相棒には聞こえていたようだ。
「可能性は」
「えっ」
「黒崎さん、です」
真衣は黒崎を紹介した。
「もちろん。助け出しますよ」
「そんなこと聞いてない。どのぐらいの可能性があるのか、教えて」
「可能性、ですか」
「そう。答えられない程度なのね」
「いえ」
「あの鞄が心配なんでしょう」
「はい」
「あれは、爆弾なんかじゃないわよ」
「どうして」
「どうしても」
「俺もそう思うんですが、証明ができないんです」
「危険を恐れていたら、危険がやってくるわよ」
「でも」
「確かに、変な強盗だけど、あの男は平気で人を殺す。刑事さんならわかるかな」
「そんな様子がありましたか」
「ううん。ないように見える。皆もそれで安心してるようだけど、違うよ」
「おじさん。私にもわからないけど、黒崎さんには見えるみたい」
「見えるって」
「何ていうか、見えない部分が見える。ですよね、黒崎さん」
「ほんとは、見たくないものは見えない方がいいのにね」
「そうですか」
「信じられないって顔ね。別に信用しなくてもいいのよ。ただ、頭の片隅に仕舞っといて」
「はあ」
「警察も、無理に突入して、あの鞄が爆発したら責任問題だから、待ってる」
「何を待ってるんですか」
「自分たちの責任が問われなくなるのを」
「・・・」
「一人か二人、犠牲者が出れば、いい訳ができる。そう思ってるんでしょう」
「・・・」
「最初に身代りになってきた警察の人も、あんたも、上の人はそのつもりで寄こしたんでしょう。二階級特進ぐらいのことで命を捨てて、どうするの」
「違いますよ。俺は、あいつの顔が直接見たかったんです」
「そう」
黒崎は、話は終わったとばかりに向こうを向いてしまった。
「おじさん。そうなの」
「いや。いろいろやってる」
「そう」
「・・・」
「私、黒崎さんみたいに見える訳じゃないけど、あの鞄は違うと思う。あの男だって、最後の武器があの鞄の爆発物だってことは知ってると思う。普通、気にならないかな」
「ん」
「あの男は、鞄の事、全然、気にしてない。命綱なら、視線が行くと思うのに」
「ん」
「ほとんど、携帯ばっかり」
「そうみたいだな」
「銀行強盗なんだから、外にいる警察の事とか、人質の事とか、爆発物の事とか、気になると思うのに、携帯と睨めっこしてる。まるで、遊んでるみたい」
「ああ」
「でも、警察は来ない。そうなの、おじさん」
「いや。俺が何か証拠を掴む」
「他の人が犠牲になっても」
「・・・」
「あの男は死ぬのは警察官じゃないって言った」
「ん」
真衣は携帯を西崎に渡した後、世話係をしてくれている竹原に手錠を外してもらいトイレに向かった。犯人は一瞬だけ真衣の方を見たが、すぐに携帯電話に視線を落とした。銃を腕に抱えたまま、カウンターの内側を歩き回りながら時折笑顔が見える。今は、ネットに書き込んでいるのではなく、ネットの書き込みを読んでいるようだ。真衣は犯人を見ないようにしてトイレのドアを開けた。
犯人の男は解決まで時間がかかると言っていた。西崎の話だと警察の救助はまだ先になりそうだ。この先、何が起きるのか誰にもわからない。それでも、真衣はなんとしても生き残りたかった。まだ短い人生だけど、初めて見えた光は失いたくない。妹の真樹には悪いけど、今は生きてみたいと本気で思っている。
便座に座りながら、真衣は死神とつぶやいて小さく笑った。生きたいと思っている反対側に死が横たわっていることを知っている。死神にしっかりと押さえこまれている自分がいることもわかっていた。どこで途切れても不思議ではない命なのだという気持ちは、真衣の奥深くでどっしりとした重量感を持って沈んでいる。死神との付き合いの方が永いのだから仕方がない。
用を足した真衣は丁寧に手を洗って、鏡に映った自分を見た。鏡の中の自分はいつものように暗い顔をしていた。トイレのドアを出た真衣の目に映ったのは、カウンターの上に置かれている銃だった。犯人は少し離れた場所でケーブルを触っている。多分、携帯の電池が切れたのだろう。ドアの閉まる音がしたが、犯人は振り返らなかった。真衣は真っすぐ銃に向かって歩いた。別に焦る気持ちもなく、走り出そうという気持ちもなかった。
重い。両手で銃を抱えて、そのまま歩いた。まだ、犯人も人質も銃が真衣の手にあることに気が付いていない。
「動かないで」
普通に声が出た。銃口は犯人に向けられている。犯人はカウンターに銃がないことを確認して真衣の目を見た。
「無理」
「動かないで」
「女の子に、銃は扱えない」
「そうかしら」
真衣は銃口を天井に向けて引き金を引いた。だが、轟音はなかった。真衣は小さなレバーを押し下げた。安全装置の存在など知らなかったが、犯人の行動の全てを見ていたので、その動作が必要だとわかっていた。
轟音。
銃が手の上で跳ね上がり、銃を抱えたまま後ろに押し倒される格好になったが、銃口を犯人に向けることには成功した。
「動かないで」
「そんな撃ち方じゃ、僕には当たらないよ」
犯人は自分のザックから大きなナイフを取り出して、カウンターの上に飛び乗った。
「竹原さん」
世話係の竹原が脅えた目で真衣を見詰めた。
「みんなの、手錠を外して」
「竹原さん」
犯人は真衣の方を見たまま、落ち着いた声で竹原を呼んだ。
「あなた、死にたいですか。銃なんて簡単に撃てないし、人に命中させることも無理。それに、あの銃にはあと一発しか弾は入っていない。あの子が僕を殺せなかったら、僕は、これで、一番先に竹原さんを殺すことになる。それでも、いいんですか」
竹原はその場にしゃがみ込んだ。
「おじさん。電話して」
「おっと。西崎さんって言いましたっけ。この子が死んでもいいんですか。僕は銃を返してくれたら、何もしませんけど。あなたが電話すれば、この子に襲いかかりますよ。警察官なら、わかりますよね。この子が危ないことぐらい」
西崎刑事の動きも止まった。
「もう、終わり。返してくれたら、無かった事にしてあげる。君には無理だから」
真衣は首を横に振った。
「おやおや。気が強い子だ。僕もまだやったことないけど、人を殺すって簡単じゃないって言うよ。君に出来るのかな」
真衣は首を縦に振った。
「まさか。じゃあ、撃ってごらんよ」
犯人は両手を広げて胸を突き出した。
真衣は引き金を引く決意をしていた。なめちゃいけない。私は死神なのよ。ただ、男が言ったように相手の胸に命中させる自信はなかった。それでも、どこかに当たれば何か方法はある筈である。
「撃てないだろう」
「・・・」
「その指を離して、銃を床の上に、ゆっくりと置く。できるよね。仕返しなんてしないから」
男はカウンターの上に座って、足をブラブラと振り、笑顔で真衣を説得するつもりらしい。真衣は男の目から視線を外さなかった。手錠の鍵を持っている竹原も警察官の西崎も動けない状況では有利な展開は期待できないが、銃を手放しても状況が改善する訳でもない。それにしても、重いと思った。自然と銃口が下を向く。
「君。可愛い顔して、頑固だね。彼氏、いる」
「・・・」
「じゃあ、こうしよう。君は、その銃を持ったまま、ここから出ていく。僕は止めない。そうすれば、君は自由になれる。それなら、丸く治まると思わない」
真衣はおもわず銀行の通用口に目をやった。確かに魅力的な提案に思えたが、立ち上がることも通用口まで歩いていくことも出来る確信は持てなかった。指先に神経を集中することが真衣に出来る精一杯の行動だった。真衣は銃口を少し上に挙げて首を横に振った。
「あれあれ、いい案だと思ったのになあ。君、死んじゃうよ」
真衣はあらためて首を横に振った。
「じゃあ、最後にもう一回忠告しとくよ。銃を撃ったら、相手はばったり倒れて万事目出度しみたいな漫画、あるけど、実際はそうじゃないらしいよ。人間はそう簡単には死なないんだって。だから、万が一、僕に弾が当たったとしても、僕はこのナイフで君の事を刺す。いい。君には銃弾が一発しかないけど、僕はナイフを何回でも刺す事ができる。つまり、君の息の根を止める事ができるんだ。どっちが有利かわかるだろう。絶対にここから出ていくことがいいに決まってるんだよ。わかる」
男はカウンターから飛び降りた。
「さあ、狙いは、それでいいのかな」
男は三歩ほど左に走ってから、突進して来た。男の顔に笑顔はなかった。
真衣は目を開けたまま、引き金を引いた。
轟音と反動で後ろに押しやられながら、真衣は男から視線を外さなかった。男の体が巨大な力でなぎ倒されたように横向きに二度転んだ。床の上に伸びた男の体に動きはない。男と床の間から流れ出る血を見て、真衣の記憶は途切れた。女子社員の悲鳴を聞いたようにも思うが、自信はなかった。


9

真衣が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。最初に孝子母の顔が見え、その後ろに西崎の顔があった。
「まい」
「おかあさん」
孝子の顔が歪んで、大粒の涙が落ちてきた。
「ねむい」
「うん」
二度目に目を開けた時も、孝子母と西崎の顔があった。
「みんなは」
「ああ。全員、救助された。怪我人はいない」
「そう。あの男は」
「即死だった。心臓に命中してた」
「そう」
「ごめんな」
「えっ」
「おじさん、何もできなかった」
「また、殺しちゃったのね」
「真衣ちゃんのせいじゃない。あの男が弾をめがけて飛び込んできて、自殺したようなもんだ。真衣ちゃんのせいじゃない」
「そう」
真衣の愛称は揺るぎの無いものになったらしい。これほど「死神」という名前が似合っている人間もいないだろう。体中が重い。真衣はまた眼を閉じた。

一月のセンター試験の成績でT大の医学部に入学を許された真衣は、胸を張って進学した。銀行テロ事件の詳細は世間に広がったが、犯人を射殺した女子高生のことは有名にはならなかった。警察からの説得に人質たちは従ってくれたらしい。報道でも犯人は銃の暴発で死亡した事になっている。ただ、決して口数の多い方ではなかった真衣が、さらに寡黙になった。
医学部の学生にとって、大学という場所は遊び場ではないと何度も念を押された。そのことは、真衣の望むところだった。必要とされる医者になることが、真衣の大目標なのだから、全く違和感はない。可能な限りの知識を吸収すること以外にやることはない。受験生だった頃よりも勉強時間は増え、家事手伝いをする時間が減った。自分の手で何人もの人の命を断ったのだから、帳尻を合わせる事が自分の贖罪だと思っている。相手が死に値する人間であったとしても、殺してしまったことには変わりがない。平気でいられる筈もない。刃物の感触も銃の感触も自分の体の中に沈み込んでいる。無かった事にはできなかった。

医学生としての一年が過ぎた。テストではどの科目でも常に上位三人の中にいたが、真衣の目標は全科目で一番をとることだった。おしゃれにも男女交際にも全く関心が無い。学食で食事をする時も一人で専門書を読みふけった。友達が欲しいと思った事が無い。実際には何を喋っていいのかわからない。その点では中学の頃から変わりがなかった。
勉強漬けの毎日だったが、年に二回だけ、三沢病院に行くことだけは例外にしていた。まだ、母親には会えていないが、奈良岡医師の話を聞くだけでも心が落ち着いた。
「どう、勉強の方は」
「はい。頑張ってます」
「大変でしょう」
「はい。でも、楽しいです」
「そう。あなたは、医者にむいてるかもしれない」
「そうなんですか」
「ええ。自分の出来が悪いから、そう思うのかもしれないけど。だって、楽しいなんて思ったこと無いもの」
「まさか。先生は私の目標です」
「ありがとう。でも、きっと、目標低いと思うわよ」
「先生」
「お母さんのことだけど」
「はい」
診察室に年配の看護士が入ってきて、小声で奈良岡医師に話をした。少し困った顔をした奈良岡医師は、真衣の顔を一度見て「わかった」と返事をした。
「ここでいいですか」
「そうね、どこにいるの」
「前の待合にいます」
「すぐに、行くわ」
奈良岡医師は立ちあがって、真衣の肩に手を当てて「ちょっと、ごめんね」と言ってドアに向かった。
ドアを開けた奈良岡医師が、「あっ」と言ったので真衣が振り向くと、ドアの前に長身の男が立っていた。
「びっくりするじゃない」
「すみません」
「そこに座りましょう」
「はい」
ドアが閉まって見えなかったが、病院が静かだったので話声は聞こえていた。男が頼みごとをし、奈良岡医師が賛成できないと言っているようだった。すぐに話は終わった。
戻ってきた奈良岡医師から母の状況を聞いたところに、また看護士が入ってきた。何か入院病棟でトラブルが起きているらしい。
「先生。私はこれで失礼します」
「えっ、そう。ごめんね、バタバタして」
「いいえ。また、来ます。よろしくお願いします」
「ええ」
奈良岡医師は厳しい表情で診察室を出ていった。精神科でも医療現場なのだから何があっても不思議はない。真衣も診察室を出た。
正面受付の場所で、奈良岡医師と話をしていた男が何かの手続きをしているのが見えた。真衣は時計を見た。三沢病院で一番困るのがバスの発車時刻で、二時間ほどは全く発車時刻が書かれていない時刻表を見るのは嬉しくない。三時の時刻表には一本のバスがあるようだ。ただ、あと四十分は待たなければならない。おもわずため息が出た。いつものことだから、真衣はバス停のベンチに座って本を開いた。大学生になってからは、どこでも本が読めるようになった。たとえ五分や十分でも集中できる必殺技を手に入れたと自負している。
バス停の真衣の前で車が停まったのは知っていたが、真衣は眼を上げなかった。暫くすると、車はバス停を離れていった。もうすぐ十九になるのだから、男と女の間に微妙な空気があるのは知っている。でも、その微妙な空気が微妙になったことはない。街中で男に声を懸けられたこともない。教室で性別を無視した議論はできるが、個人的な関係になったことは一度もなかった。男の方でふっとそんな様子を見せる事があっても、真衣の一メートル手前で引き返して行く。大学生になってからの真衣のニックネームは「バリア」に変わった。死神もバリアも人を寄せ付けないという意味では共通している。本人がそのニックネームの意味に気がついていない訳ではない。真衣はそのニックネームを喜んで受け入れていた。女の子が生まれて初めて出会う異性は父親である。だが、真衣の父親は母親を不幸にしただけの男だった。あの男がいなかったら、と思うが、あの男がいなければ自分も妹も存在しなかったのにとも思う。子供の時から男に対する不信感は生活の一部のようにあった。妹の死も原因の根っ子はあの男だと思っている。強姦に失敗し、逆恨みで真衣を殺しに来て、死んだ男。銀行強盗に巻き込まれて人質にとられ、殺すしか方法がなかった男。身勝手という言葉は男のためにあると思わせるような同級生や先生や警察官。真衣にとって、そんな男という生き物と個人的な付き合いを持つことはありえないことだった。医者になる動機は、自分で生きていける力を手に入れる事が最大の目的だった。バスの時間を待つことぐらい、全く気にならなかった。高校生の時に孝子母に言われて美容院に一度だけ行った事があるが、男の美容師が自分の髪を触ることに耐えられなかった。今でも、おばあちゃんに散髪をしてもらっている。眉の手入れもしないし、化粧品も使わない。口紅も持っていない。自分が女であることを主張する気は全くなかった。毎月来る生理など、尻尾と同じように退化して欲しいと思っている。自分で自分の命が断てないのであれば、女としてではなく、人間として生きることが願いだった。

二年生になってから、授業が一段と難しくなったと感じている。駅前の高架橋の上を歩きながら、真衣は南田教授の先週の授業内容を頭の中で復習していた。バス停に向かう道路は朝の通勤通学時間帯だったが、電車の到着時刻の影響なのか人通りが少なかった。
後ろの方で騒ぎが起きているのは知っていたが、真衣の頭の中は復習で一杯だった。
強い力で体が引き戻され、持っていた重い鞄が肩から外れて落ちた。何が起きたのかわからない。耳元で大きな声が聞こえ、嫌な臭いがした。
「来るな」
真衣に見えたのは、警棒を構えた二人の警察官の姿だった。
「来るな」
「放しなさい」
「うるせえ。こいつも、死ぬぞ」
見知らぬ男に首を羽交い絞めにされ、目の前にはナイフがあった。
真衣の体は男に引きずられて後ろ向きに進んでいる。階段の方から背広姿の若い男が走ってきて、「やめなさい」と叫んだ。手にしているのは警察バッジらしい。三人に取り囲まれた男の動きが停まった。
「お前の話は聞く。先ず、その人を放しなさい」
「この女が死んだら、お前らのせいだぞ、わかってんのか」
「わかってる。だから、話をしよう。悪いようにはしない」
「ごまかしてんじゃねえぞ。こいつを殺して、ここから、飛んだら、てめえらの方が殺人罪だぞ。もっとさがれ。離れろ」
男の呼吸は粗く、体は不安定だったが、首に回している腕の力は強かった。首を絞められているので酸素の吸収が充分ではない。真衣は男の腕を両手で放そうとした。
「動かないで」
私服の警官は真衣に向かって言ったようだ。冗談じゃない、息が苦しいのは私なんだから。
顎のあたりに冷たいナイフが触れた感触があった。
「やめなさい」
真衣の目からは、三人の警察官に人質を救い出す手立てがあるようにはみえない。緊張感だけが増幅していて、後ろにいる男が興奮しているのは体を通してわかる。二人はそれほど密着していた。男の刃物が自分の体を切り裂くまで、そんなに長い時間はかからないだろう。真衣の頭には教壇に立っている南田教授の顔が浮かんだ。
真衣は、ナイフを持っている男の右手に両手をかけておいて、思い切り男の腕に噛みついた。
男が真衣の耳元で絶叫する。刃物が落ちる音がし、呼吸が楽になる。男の腕から口を放すと、真衣は地面に叩きつけられた。真衣の体を飛び越えて二人の制服警官が男に飛びかかった。私服の警察官に腕をとられて起こされた時、男は二人の警察官に制圧されて大声を出していた。真衣は自分の鞄を捜した。いつの間にか見物客が真衣たちを取り巻いている。
真衣は鞄を拾って走った。こんなことで、授業を台無しにする訳にはいかない。いつも成績で競争相手になっている男子学生が一度授業を休んだだけで成績を落とし、苦労したことを知っている。トップ争いの中では些細にみえることでも軽視できないのだ。見物の人垣を押しのけてバス停に走った。
「待ちなさい」
鞄を引っ張られて真衣は転倒しそうになった。
「事情聴取をさせてください」
「後で」
真衣を追いかけて来たのは先ほどの私服警察官だった。
「急いでいるのはわかりますが、協力してもらえませんか」
「後で、警察署に行きます。授業に遅れるんです」
真衣は鞄を取り戻し、走った。バスが停まっている。真衣がバスに飛び乗ると警察官も一緒に乗り込んできた。
「お願いしますよ」
真衣の横に立った警察官が小声で言った。バスは何事もなかったように走り出した。
「後にしてください。必ず、行きますから」
真衣も小声で頼んだ。
気まずい空気のまま、学校にバスが到着し、真衣は時計を見ながら走った。
「授業、終わるまで、待ってますから」
真衣の横を並走している警察官が落ち着いた声で言った。その言葉の意味はよくわからなかったが、警察官が授業に出ることを肯定したのだと解釈した。

黒岩圭三は、女子学生が飛び込んでいった教室の外にある丸いオブジェの石の上に腰を下ろした。所属は県警本部捜査二課の刑事だが、非番で友人を訪ねるところだった。駅前で事件に遭遇し、知らない顔はできなかった。人質になった女子学生には見覚えがあったので、何とか解放しなければならないと思った。警察官と言えば誰もが屈強な武等派みたいに思っているようだが、圭三は武術も逮捕術も苦手で、しかも経済犯罪の部署にいる。だからと言って、事件の関係者から事情聴取もしないで見逃すことなど出来る筈がない。そんなことはわかっているが、女子学生の強い波動には逆らえないものを感じた。
また、始末書の数が増えるが、やむを得ないと覚悟した。圭三のような軟弱な男が刑事として捜査課にいられるのは、その独特の分析力によるものだが、組織の中では浮いた存在でしかないことを自分でもわかっていた。圭三の父親は公認会計士事務所をやっていて、県内では大手の会計事務所として認められている。長兄は父の事務所の副所長をし、次兄は東京に出て会計事務所を構えている。三男の圭三だけが、全く畑違いの警察官になった。黒岩の家にいる限り、公認会計士の資格を取ることは当たり前のことだから、兄たちに負けないように圭三も勉強をして資格だけは取った。大学を卒業したら、東京にいる次兄の会計事務所に勤めることが家族で決められていたようだが、圭三は公務員試験を受けて警察官になったのである。確かに大騒動にはなったが、今では圭三に期待する空気は無くなった。
組織の中で、惰性で生きているような自分に不快感がある。会計という数字の世界に馴染めなかったから警察官になった筈なのに、数字を分析することを仕事にしている。情熱も希望も失くしている自分が許せていない。友達には「いつまで青春やる気なんだ」と言われる。「結婚して、子供ができれば変わるさ」とも言われる。だけど、自分が生きていないという感覚は拭いきれない。それなのに、あの女子学生は鮮烈とも言える生命力を自分の目の前で展開して見せた。あれは、若さだけではなかった。事情聴取は警察の業務であり、市民には協力する義務があると声高に言える空気はなかった。
女子学生が三沢病院で見かけた女だということは、あの場でわかった。診察室で奈良岡医師と面談していたが、そのまま帰った様子からみて、患者ではなく面会者だったのだろう。市内まで送っていってやろうかと思って車を止めたが、空気が遮断されていて声もかけなかった。その時も、どこか不思議な体験をしたという印象が強い。事情聴取という警察業務のためではなく、得体のしれないものを解明したいという気持ちの方が強い。今は、圭三の心を鷲掴みにしている女子学生に主導権を渡してもいいと思っていた。それは、男女間にある一目ぼれという感情とは少し違う。生き様に対する憧れのような感情だった。確かに美人だし、目力もあったが、女の部分は感じなかったからかもしれない。大学何年生かは知らないが、少なくとも圭三とは十歳以上の年齢差があると思うのに、そんなことは意識にもなかった。
「ほんとに、待ってたんですか」
「仕事ですから」
「授業は、まだまだ、ありますけど」
「ええ。待ちますよ」
「いいんですか」
「良くはないけど、待ちます」
「すみません」
「次の教室は、どこですか」
「あの建物です」
「わかりました。待ってますから」
「はい」
「あの」
「・・・」
「三沢病院で会いましたよね」
「あっ」
「僕の友人の主治医も奈良岡先生なんです」
「友人」
「ええ。ああ、僕は黒岩圭三といいます。あなたは」
「成瀬です。成瀬真衣」
「そうですか。成瀬さんですね」
「はい」
「学部は」
「医学部です」
「なるほど。大変だと聞いた事があります」
「教室に行っても、いいですか」
「ええ」
午前の授業が終わり、真衣の後ろについて圭三は食堂に入った。学食はどこの大学でも独特の雰囲気がある。懐かしいと思った。成瀬と名乗った女子学生と同じカレーをトレーにのせて、二人は無言で壁際の席に座った。
「私、本を読んでもいいですか。予習したいので」
「ええ。邪魔はしません」
「はい」
本を取り出したとたんに、女子学生の周りは別世界になった。同じテーブルで同じカレーを食べているのに、世界は遮断されている。圭三はとことん付き合ってみようと思った。スプーンを口に運びながら、遠慮なく女子学生を観察した。ショートカットの髪形は決して似合っているとは思えないが、あまり気にならないタイプなのだろう。一番特徴的なのは、睫毛の長さだと思った。特に下を向いて本を読んでいるので、その長さが意識される。鼻は標準的。大きくも小さくもない。口も同じだ。小顔の中で顔の造作はバランスが取れている。違和感があるとすれば、やはり睫毛だろう。大口を開けてカレーを食べている。周囲のことに全く無頓着。目の前にいる圭三も、この女にはテーブルの一部に見えているのかもしれない。それにしても、この存在感は何なのだろう。つい、数時間前に刃物を押し付けられていた人間には見えない。事件に遭遇したという残滓も無い。普通のジーパンにTシャツとジャンパー。時計はしているが、装飾品は一切ない。靴もスニーカーだ。学生だからそれでいいのだが、T大の女子学生でも多少のおしゃれはしている。身長は高い方ではないが、均整はとれていて、標準より足の長さは長く見える。どこから見ても、男から意識される容姿の持ち主である事は間違いがないが、そのことを意識しているとは思えない。

駅前の現場で警察バッジを提示しているのだから、人質になった女を追いかけていったのが警察官だということはわかっているだろう。あの場にいた二人の制服警官が圭三のことを知っている確率は小さいが、調べれば時間の問題で判明するだろう。圭三はそれを承知で携帯の電源を切っている。中央署の刑事は怒り狂っているだろう。人質の調書はとれないし、犯人に噛みついた女の情報もない。女を追いかけた刑事の携帯も通じないでは、ただでは済まないと覚悟しなければならない。それなのに、今では、圭三は女子学生を守る立場の自分に納得していた。
「すみません。無理言って」
「終わりましたか」
「はい」
既に四時を回っていた。
「多分、乱暴なことを言われると思います。勘弁してやってください」
「はい。わかっています」
圭三はタクシーを奮発して中央署に向かった。

圭三は一階のカウンターで事情を説明した。署内でも音信不通になっている警察官の話は出ていたのだろう。すぐに、階段を駆け下りてきた刑事が怒りの表情で睨みつけてきた。
「あんた、黒岩さん」
「はい」
「何、考えてるの。本部の人間だったら、何やってもいいと思ってるのか」
「いえ」
「あんたの事情聴取もさせてもらう。二人とも上にあがってくれ」
後から降りてきた刑事を入れて五人の刑事に取り囲まれて、二人は階段を昇った。成瀬真衣は驚いた様子もなく、平然と歩を進めた。頭を下げていたのは圭三だけだった。

取調室に入れられた真衣は、別の部屋に連れて行かれた黒岩刑事のことが心配だった。警察官としては気の弱そうな人に見えたが、これだけ他の警察官の怒りを買う事を知っていて、授業に出る事を認めてくれたのだから、気弱な警察官ではないのだろう。真衣は、普通の人たちよりも警察官との接触が多かった。だが、黒岩には同じ臭いがしなかった。
「お譲ちゃん。あんた、大学生」
「はい」
「だったら、市民の義務ぐらい、わかるよね」
「はい」
「何で、逃げたの」
「逃げたわけではありません。こうして、来てます」
「はっ。よく、言うよ」
「・・・」
「すぐに、協力しようとは、思わなかった」
「誰にでも、譲れないものはあります」
「譲れないものって、なに」
「私の場合は、学校の授業です。学生ですから」
「あんた、警察をなめとんのか」
「いいえ」
「名前」
「成瀬です」
「成瀬、何」
「成瀬真衣です」
「字」
「成功の成、浅瀬の瀬、真実の真、衣です」
「住所」
「○○市相生町28です」
「ちょっと、待て」
刑事は後ろで調書に記入している若い刑事から書類を取り上げた。
「池田を呼んで来い」
「はい」
暫くして、別の刑事が入ってきた。
「話を聞いて、調書を作っておいてくれ。まだ、帰すなよ」
「はい。新藤さんは」
「俺は、別件だ。進めておいてくれ」
「はい」

新藤刑事は部屋を出ると、別の取調室に入って携帯を取り出した。
「西崎」
「おう、新藤だ」
「どうした」
「お前、あの銀行テロの女子高生の知り合いだったよな」
「ああ」
「名前は」
「名前」
「その子の名前だ」
「成瀬真衣」
「やっぱり」
「成瀬真衣が、どうかしたのか」
「ああ、今、取調室にいる」
「なんで」
「今朝、駅前でシャブ中が暴れた事件、聞いてるか」
「噂程度に、な」
「男の腕に噛みついて、逮捕のきっかけを作ったのが成瀬真衣だ」
「またか。でも、なんでこんな時間にそこにいるんだ」
「本部の若いのが、追いかけたんだが、出頭してきたのがさっきだ。学校の授業が優先らしい。黒岩というバカが一緒だったと思う」
「で」
「マスコミが騒ぐぞ」
「ああ、ありうるな」
「有名人になったら、あの銀行での発砲も表に出るかもしれん。警察が偽情報を流したと問題にならないか」
「ああ。やばいな」
「お前の方からも根回ししろ。俺もこっちでやる。本部には、うちから話する。そっちの署長からも話を上げろ。お前のところの署長はこんな時しか役に立たんがな」
「わかった。この件は、一点借りだ」
「馬鹿野郎。十点の貸しだ」
「わかった」
「段取りついたら、引き取りに来い」
「わかった」
新藤刑事と西崎刑事は警察学校の同期で、その後も女房へのアリバイ工作などで協力し合う仲間でもあった。
新藤は別室の黒岩刑事の聴取に顔を出した。
「どうだ」
調書を取り上げて読んだ。
「これだけか」
「はい」
「黒岩さんよ、あんた、わかってんのか。始末書ぐらいでは済まんぞ」
「はい」
「何でだ。何で、そこまでする」
「すみません」
「市民の権利じゃ、警察は成り立たないことぐらい、わかるだろ」
「・・・」
「もういい。適当で、帰ってもらえ。本部に落としまえはつけてもらう」
「はい」

何度も同じ事を聞かれ、何度も答えた。警察の取り調べは初めてではない。自分の我を通したということもあり、真衣は最初から腹を据えていた。
もう少し待て、と言って刑事が出て行ってからでも一時間以上は経っているが、取調室に一人で待たされたままだった。やはり、黒岩の事が気になった。
ドアが開いて、部屋に入ってきたのは西崎だった。
「おじさん」
「よお」
「どうして」
「最初にガラの悪い刑事がいただろ」
「うん」
「おじさんの友達。本当は気のいいやつなんだ」
「うん」
「真衣ちゃんの名前が出ると、マスコミの餌食になると電話してくれた」
「・・・」
「ヒロインになんか、なりたくないだろ」
「うん」
「今、本部と交渉中だ」
「うん」
「未成年とか、個人情報とかで匿名にするように頼んでる」
「ごめんなさい」
「真衣ちゃんは悪くない。でも、世間は騒ぎたがる。困ったもんだ」
「あの刑事さんは」
「黒岩刑事か」
「うん。私のために、困ったことにならないの」
「多少は、なる。そんなこと、承知の上でやったようだぞ」
「でも」
「それよりも、帽子持ってるか」
「帽子」
「それと、メガネ。マスクは店にあるだろう。野次馬がいただろう。真衣ちゃんの顔を憶えていてマスコミに通報する奴がいるかもしれん。しばらくは、顔を隠しておいた方がいい。おじさんは有名人になったことないけど、マスコミの攻撃は半端じゃないらしいぞ。勉強なんかさせてもらえないと思うよ」
「はい」
「ああ、それと、孝子には電話しといた」
「はい。すみません」
「そろそろ、帰るか」
「あの刑事さんに会えないのかな。お礼を、言いたい」
「黒岩刑事は帰った」
「そう」
西崎が立ち上がった。
「おじさん」
立ち上がった真衣は西崎に深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「・・・」
「いつも、おじさんに迷惑かけてる」
「真衣ちゃんが悪いわけじゃない」
「でも、最後はおじさんに助けてもらってる。私、何もできないのに」
「気にするな。真衣ちゃんが医者になったら、助けてもらうよ」

黒岩圭三は県警本部に行って、始末書を書いて課長に提出した。懲戒処分を受けてもいいと思っていたが、課長は始末書を書けと言ってくれた。自分の行動に後悔はないが、組織の中では個人の気持ちなど関係無い。最初、中央署の聴取は厳しいものだったが、途中でやってきた刑事が西警察署の西崎だと名乗って事情を聞かれた頃から突然空気が変わった。取調室から人がいなくなり、放置されていたが、訳がわからないまま、本部に戻れと言われた。何かが動いているような気配があったが、それが何なのかわからない。あの成瀬という女子大生に何か事情があるような感触があったが、誰も教えてはくれなかった。課長も「さあな」と言うだけで、その話を打ち切った。圭三の気持ちの中では「一件落着」になっていない。
二週間後、圭三は西警察の西崎を訪ねた。
場所がないということで、取調室に案内された。勿論、非番ではあるし捜査でもなく、個人の用件なので会ってくれるだけで感謝している。
「非番なのか」
「はい。無理言ってすみません」
「何が知りたい」
「あの成瀬という人の事です」
「どうして、すぐに署に連れて行かなかった」
「出来ませんでした。西崎さんなら、どうしてました」
「俺」
「聞かせてください。西崎さんは彼女の事、知っているんですよね」
「その質問には、ノーコメントだ」
「では、彼女の名前が報道されなかったのは、どうしてですか。犯人逮捕に協力したんですから本部長賞でもおかしくないですよね」
「それも、ノーコメント」
「彼女は、何者なんです」
「ただの女子大生」
「西崎さん」
「どうして、そんなに気になるんだ」
「あの空気です。オーラというか何というか。どこか、とても危険な臭いもします。刑事が職質をかけそうなものを持ってます。放っておいては危険だと思うんです」
「一目惚れってことか」
「そんなんじゃありません。うまく言えませんが、誰かが守らなくてはいけないもの。変ですか」
「まあ、それは言える」
「彼女と一緒にカレーを食べました。向かい合って、ですよ。彼女には僕の存在はテーブルの一部くらいにしか見えていません。男とか女とかの問題じゃありません」
「わかる」
「三沢病院で見かけました。誰か入院してるんですか。これも、ノーコメントですか」
「まあな」
「西崎さん。僕も刑事です。二課ですけど。自分の足で調べようと思えば調べられます。でも、それは彼女のためにならないような気がするんです。踏んではいけないものを踏んでしまう危険はありませんか」
「んんん」
「わかりました。何かがあることは。やはり、自分で調べます」
「黒岩君だったね」
「はい」
「あの子の事は、忘れてもらえないか」
「それが出来ないから、ここに来たんです」
「わかってる。そこを曲げて、忘れて欲しい」
「すみません。それはできません」
「どうして、そこまで拘る」
「わかりません。ただ、僕自身の生き方にも影響があるように感じているんです。勿論、一目惚れとか、恋愛とかじゃありませんよ。全然別の事なんですが、うまく説明できません」
「少し、時間をくれないか」
「時間」
「これは、世間話じゃない。個人の人権にも影響する。黒岩君が警察官でなければ、無視するような質問だと思わないか」
「はい」
「自分で調べます、と脅しをかけられたら、俺にも考える時間がいる」
「脅してなんかいませんよ」
「いや、立派な恐喝だろ。それに、黒岩君にも時間が必要だと思う」
「僕、ですか」
「うまく説明できない、と言った。先ず、自分の気持ちを知ることが先だろ。あの子の事に拘る黒岩君の気持ちに納得できれば、話をしてもいいのかもしれない。俺の言う事、間違ってるか」
「いえ。すみません。僕が強引でした。西崎さん言う通りです。自分の気持ちを整理してから、出直します」
「悪いな」
「とんでもありません。反省します」
圭三は西警察署を出た。西崎が何も答えなかったことが答えだった。あの成瀬という女子大生には何らかの事情がある。ただ、西崎の言う通り、圭三自身の行動が不可解ととられても仕方がないと自分でも気がついた。先ず、自分がなぜあの女子大生のことに固執しているのか、自分自身にもそれをはっきりさせなくてはならない。漠然とではあるが、気になる。それも、かなり強く気になる。だが、それは自分でも恋愛感情とは別物だと思える。子供を守る親の気持ちは、こんな感情なのかもしれない。守らなければならないという気持ちが一番強いように感じている。これでは、まるでストーカーだと思われるだろう。それなら、一目惚れと言った方がまともに受け入れられる。確かに、変だ。
圭三の家では会社の発展と利益の追求が最大の目標だった。圭三を除き、父親と二人の兄はその目標に向け全力で努力している。そのことが悪い事だとは思っていないが、圭三はその目標には乗りきれなかった。せっかくの人生なのだから、何かの役に立ちたかった。警察官になったのも、その気持ちが強かった。裕福な家庭に育った苦労知らずの青二才だと長兄に非難された。反論はできなかったが、反旗は挙げた。独身寮に入り、もう何年も実家には戻っていない。交番勤務の時は、それなりに社会に貢献している実感があったが、捜査課に配属されてからは何かが違うという意識に満たされていた。自分の人生を生きていないという鬱々とした気持ちが膨れていることに原因があるのだろうか。あの女子大生は羽交い絞めにされ、刃物を突き付けられていたのに大学の授業が最優先だった。あの鮮烈な印象は自分の人生を真剣に考えている空気が生んだものだろうか。わからないが、自分が卑小な生き物に思えたのは確かだった。
考えながら歩いていて、気がつくと駅に来ていた。切符を買って改札を通ろうとしたが、駅員と男が口論をしていた。それは、口論ではなく男が平謝りに謝っている。横にいる中学生ぐらいの男子が横を向いて不貞腐れていた。どうやら、無賃乗車をしたのはその子供で、謝っているのは関係者のようだが、親子ではないらしい。圭三はしばらく耳を傾けた。子供は養護施設の子供で、男は児童相談所の職員らしい。何度も頭を下げている男は痩せて背が高いので動作が大きく見える。駅員はもてあまし気味だった。男は料金を支払い、男子に頭を下げさせて駅事務所から出てきた。
「このことは、誰にも言わないけど、これで最後にしてくれよ」
男子は小さく頭をさげて、駈け出して行った。男の目が心配そうにその後ろ姿を追った。
男がホームへと歩き始めたので、圭三は後を追った。
「すみません。児童相談所の方ですか」
「はい」
圭三は名刺を出して男に渡した。
「警察」
「いえ、職務ではありません。非番ですから」
「何か」
「あの子とは、知り合いですか」
「ええ、まあ」
「あなたの、態度が、とても立派だったので、つい、声をかけてしまいました。何でもないんです」
「そうですか」
男は圭三に名刺を差し出した。児童相談所の園田支所、荒木田哲治と書かれていた。
「児童相談所に支所なんて、あったんですね」
「ええ、県内に一カ所ですが、もっと増やして欲しいですね」
「大変ですか」
「ええ。一般の方が想像するより、はるかに酷い状況です」
「何が問題なんでしょう」
「ありきたりですが、何もかも、ですね。親も地域も行政も国も、全部問題です」
「そうですか」
電車が到着し、二人は電車に乗り込んだ。昼間の時間なので電車には数えるほどの乗客しかいなかった。
「何が必要、ですか」
「そうですね、先ず予算ですかね。次に人員でしょう。大変な仕事ですからね」
「親は」
「ここまで社会が壊れたら、親には期待できないでしょう。救われない子供たちが大勢いますよ。自分の力不足を思い知らされます」
「あなたのせいでは、ないでしょう」
「そうであれば、いいんですが。仕事が忙しい事より、壊れていく子供たちが多い事の方がこたえます」
「辛い仕事ですね」
「まさか、辛いのは子供たちで、私たちがそんなこと言えば、子供に笑われます」
「そうですか」
「あなたも、警察官だから、いろいろなことにぶつかるでしょう」
「ええ、でも、僕は経済犯の部署ですから、大人が相手です」
「そうですか。経済犯のことはよくわかりませんが、これだけ子供が痛めつけられる社会は、いつか壊れるような気がしますよ」
「時々、児童相談所の対応が問題にされますが、うちの県では、どうなんです」
「まあ、あまり大きな問題にはなってませんが、問題はどこの県でも起きるでしょう。現状に追いつけていないのが問題です。いつ、何が起きても不思議じゃありません」
「そうですか」
電車を降りて荒木田という児童相談所の男とは別れたが、圭三の心は重かった。あの事件で、あの女子大生に出会ってから、圭三は自分の世界が自分の気持ちとは違う方向へ動いていたのではないかと感じている。いや、その事に気付かないふりをしていただけかもしれない。この状況を打開しなければ、ここで立ち止まらなければ、取り返しがつかなくなるのかもしれない。誰の問題でもない。自分自身の問題から逃げているに違いない。
圭三は三沢病院へ向かった。
「あら、今日はどうしたの」
突然の訪問だったが、奈良岡医師は面談に応じてくれた。
「今日は、後藤のことじゃないんです。児童相談所にお知り合いはいませんでしょうか」
「児童相談所。仕事なの」
「いえ。全くプライベートなことなんです」
「いないことはないけど、どうして」
「転職できないかと思っているんです」
「転職」
「すみません。藪から棒で。実は、この前来た時に成瀬真衣という女性に、ここで会いました」
圭三は事件の話と、授業が終わるまで待っていた事、その事で始末書を書いた事を説明し、児童相談所の職員と出逢った事を話した。
「青臭いと言われるでしょうが、僕は、誰かのために仕事をしたいと子供の頃から思っていました。警察に入った動機もそうでした。でも、何かが違うんです。確かに、犯罪捜査は大事な仕事であり、誰かのためになっているのだと思いますが、違うんです。交番勤務に戻してもらおうかと何度も思いました。でも、今日児童相談所の人と出会って、僕の仕事はそこにあるんじゃないかと思ったんです。衝動的というか、思いつきというか。そんな部分がないとは言えませんが、自分の生き方を変えるチャンスなのではないかと」
「そのことと、成瀬真衣さんのこと、関係あるの」
「はい。彼女のあの凛とした態度に触れて、僕は自分がゴミに見えました。もう一つは、確かに彼女は強い意志で生きていますが、とても危ない空気も持っているんです。何をおいても彼女を守らなければいけないと思ったんです。ですから、彼女の家に近い園田支所で働ければ、自分の生き方が変えられると思ったんです。ストーカーじゃありません。純粋に彼女を守りたいだけなんです」
「少し、強引なこと、ない」
「ですよね。自分でも論理的に説明できないと思っています。でも、チャンスって、こういう時のことを言うんじゃないかと思ったんです。偶然、事件に遭遇し、彼女に出会い、今日、児童相談所の人と出会った。動け、と言われているじゃないかと」
「困ったわね。警察を辞めるんでしょう」
「ええ」
「もう少し、考えた方が、よくない」
「そうなんですか」
「断定してる訳じゃないのよ。時間が必要なんじゃないかしら」
「こんな相談されても、困りますよね。僕はここの患者の友人に過ぎません。どうしてか、先生の事が頭に浮かんでしまったんです。すみません」
「そういうことじゃなくて」
「ありがとうございます。話を聞いてくれた事、感謝してます」
「どうするの」
「はい。直接、児童相談所に相談してみます」
「そう、わかったわ」
奈良岡医師はメモ用紙に名前と電話番号を書いて渡した。
「所長さん。一応、電話はしとく。三日後にね」
「いいんですか」
「あなた、止まらないでしょう」
「すみません」
「でも、せめて、二日間だけでも、考えて」
「はい」
「でも、意外な事って、どこでも起きるのね」
「えっ」
「あなたには、何の迷いもないのかと思ってた」
「ええ。無意識に封じ込めてたのかもしれません。成瀬さんと会ったことで、ごまかしが効かなくなったというか、粉みじんに吹き飛ばされたというか、不思議な感覚です。でも、大切にしたいと思っています」
「後藤君に対するあなたの気持ちが少しは理解できたかもしれないわ」
幼友達の後藤正志が三沢病院に入院したのは、大学受験の直前だった。後藤の父親が経営する会社が倒産し、債権者が押し掛け、受験を前にして後藤正志は強い鬱症状の病気になった。両親と弟は債権者から逃れるために夜逃げをしてしまった。それから十二年間、後藤正志は回復すること無く三沢病院に籠っている。生活保護と障害者年金で入院生活は続けられたが、ジュースを飲んだりする小遣いのような金はなかった。圭三は社会人になってから、年に数回病院を訪れ自分の給料から友達の小遣いを置いていくようになった。後藤正志の負担になるからという理由で、そのことは本人には伝えられていない。それが八年も続いている。奈良岡医師がその理由を尋ねても「友達ですから」という返事しか帰ってこない。圭三は不思議な面会者だった。
一週間後に圭三は休暇をとって、児童相談所を訪問した。採用予定はあるが、試験を受けてもらわなくてはならないと言われた。採用されたら園田支所勤務を希望してもいいかと尋ねると、補充要員は園田支所の人員だと言われた。園田支所の荒木田に新しい支所を軌道に乗せるために移動してもらわなければならないようだ。自分の周囲で起きている事が、全て同じ方向に向かっているような気がしている。自分の判断は間違っていないと確信した。
試験に合格し、三か月の研修を終えて、圭三は園田支所に赴任した。荒木田とは二度ほど面談しているので心配はなかった。一年かけて引き継ぎをし、園田支所の仕事は圭三にまかされる計画だった。経験不足は否定できないが、児童相談所も支所にベテランを配置する余裕はなく、中途採用だった荒木田が園田支所を軌道に乗せたこともあって、児童相談所は二匹目のどじょうを狙ったのかもしれない。児童相談所の職員になったことで、成瀬真衣のことも知ることができた。里親である片岡孝子にも会った。圭三は西警察署に西崎を訪ねた。
「驚いたな」
「成瀬真衣は、里子に出てますが児童相談所の子供でもあります。今度は教えてもらえますよね」
「ああ」
西崎は火事の事から話してくれた。銀行での出来事も公式見解ではないがと断って話してくれた。
「そうですか。ありえないことですよね。誰かが守らなければ」
「あんたが、あの子を守らなくてはならないと言った時、びっくりした。俺もそう思ってたんだ。俺に出来ることは、それほど多くはないけど、そう思ってた。孝子には、里親の片岡孝子はガキの頃からの友達でな、お祓いに行けと何度も言ったことがある」
「ええ」
「これだけ重なると、他人の事とは思えない。俺には子供がいないけど、自分の子供みたいに思ってる。心強い味方ができた。俺からも頼む。あの子を守ってやってくれ」
「はい」
「まだ、一目惚れじゃないのか」
「多分、違います」
「残念だな。二人が一緒になってくれたら、安心なのに」
「そうですね。それもいいかもしれません」


10

真衣は店を通って帰るようにしていた。
「ただいま」
そうやって声をかけると、おばあちゃんの喜ぶ顔が見れる。店の手伝いができなくなって、少し寂しい。銀行の事件があってから、おばあちゃんは真衣に店の手伝いをさせてくれなくなった。孝子母から聞いた話では、おばあちゃんのショックは酷かったらしい。おばあちゃんの責任でも何でもないのに、銀行へ真衣を行かせた事が許せなかったらしい。時間が許す範囲ではあったが、できるだけおばあちゃんと接するようにしている。
お客さんがいるのに、おばあちゃんは満面の笑みを返してきた。ドアを開けて家の土間に入ると、食堂に電気がついていて孝子母と男の人が話をしている。児童相談所に新しい人が来たと聞いているが、その人かもしれないと思った。
「ただいま」
「お帰り」
「あっ」
「お邪魔してます」
「黒岩さん」
「久しぶりです」
「知ってたの」
「あの駅前の事件の時の、刑事さん」
「えっ」
「もう、元刑事です」
児童相談所に来た人の名前が黒岩だということは聞いていたが、同じ人だとは思わなかった。
「どういうこと」
「別に隠してた訳じゃありません。僕は偶然園田駅で荒木田さんに会って、荒木田さんの話を聞いて、自分の仕事はこれだと思ったんです。それに、僕はあの時、警察官として正しい事をしたんじゃなくて、僕の失敗談ですから、話をするようなことでもありませんし」
「真衣は、あなたに感謝してたのよ」
「とんでもありません」
「私、黒岩さんに、礼も言えなかった。ごめんなさい」
真衣は深々と頭を下げた。
「やめてくださいよ。僕の中では失敗談なんですから」
「でも、驚いたわね、あの黒岩さんが、この黒岩さんだったなんて。真衣から名前は聞いてたのに、びっくり」
「黒岩さんに会ったら、ほんとは会いに行くべきだったんだけど、どうして授業に出る事を認めてくれたのか聞きたかった。どうしてなんですか」
「僕にも、それは謎なんです。なんで、あんな失敗をしたのか」
「いいじゃない、もう、この人、警察官じゃないし」
「そうですよ」
「でも、ありがとうございました。あの事で辞めたんですか」
「違いますよ。あれは始末書一枚で決着です。刑事はよく書くんです。始末書」
「ごめんなさい」
「違いますって」
黒岩は慌てて帰って行った。
「狭いのね」
「ほんと。でも、あの人に会えてよかった。お礼を言ってなかったし」
「そうね」
「また、何か問題あるの」
「うん。うちのクラスの子が、虐待に遭ってるかもしれないの」
「そう」
孝子母はいつも誰かの問題を抱えている。でも、一時も休む暇なく走り回っている。その人生では、小学校の先生以外の選択肢はなかったのだろう。孝子母のそのエネルギーは多くの子供たちの力になっている。真衣も救われた子供の一人だった。

孝子は西崎の携帯に電話を入れた。
「おう、久しぶり」
「今、忙しい」
「まあな」
「時間ができたら、電話もらえる」
「何か、あったのか」
「ううん、大したことじゃないと思う」
「そういう言い方、よくないぞ」
「うん。会った時、話すから」
「わかった。今、どこだ」
「駐車場」
「ここのか」
「うん」
「お前、な」
「ごめん」
「待ってろ。今行くから」
五分も経たずに西崎がやってきた。
「ごめんね。忙しいのに」
「何があった。真衣ちゃんに何かあったのか」
「ううん。そうじゃないけど」
「そうか。じゃあ、大事件じゃないな」
「そうだね」
「で」
「黒岩さんのことなんだけど」
「相談所に来た黒岩か」
「そう。どうして、警察を辞めたの」
「どうして」
「真衣の事で辞めさせられたの」
「違うだろ」
「そう。真衣が気にしてたから、一寸、気になって」
「会ったのか、二人は」
「うん。何か、黒岩さんもぎこちなかったし、私も変に気になって」
「そうか」
「ごめんね、時間とって」
「ああ」
話は終わった筈なのに西崎は車を出ようとはしなかった。
「西崎君」
「あの事件で辞めた訳じゃない」
「やっぱり、何かあるのね」
「別に口止めされてる訳じゃないけど、真衣ちゃんがからんでないこともない」
「どういうこと」
「俺にも、よくわからん」
「何が」
「黒岩の言う事が」
「・・・」
「あの事件の後、俺の所へ来た。成瀬真衣について教えてくれと言って」
「で」
「同じ警察官でも、事件に直接関係していないと思ったから、話さなかった。個人情報だからな」
「うん」
「あいつは、真衣ちゃんを守りたいと言うんだ」
「・・・」
「だから、一目惚れか、と聞いてみた」
「うん」
「違うらしい。誰かが守らなければ、あの子は、また事件に巻き込まれると思っている。だから、自分が守ると言うんだ。確かに、あの子は事件に巻き込まれ過ぎている。お前にも、お祓いに行けと言ったことがあるよな」
「うん」
「その後は、何も言ってこなかったから、もう終わったことだと思ってんだが、児童相談所の黒岩ですと言って、ここへ来た」
「うん」
「荒木田さんにも話を聞いたみたいだけど、あの子は里子だから、児童相談所の人間であり、自分には知る権利があるみたいな事を言うから、一応、喋った」
「うん」
「真衣ちゃんを守るために、あの園田支所に来たらしい。でも、あくまでも、男と女の問題じゃないと言ってた。だから、わからねえ。意味不明だ」
「そう、そんなことがあったの」
「あいつは、ちょっと変わりもんじゃないのか」
「そうは見えないけど」
「だよな。本部でも結構優秀だったらしい。俺達とは少し毛色が違う刑事だけど、分析力があったと聞いた。だいぶ、引きとめられたらしい」
「そう」
「変だろ。初めて会った女の子を守るんだと言って、退職なんかするか。俺にはわからん。俺が歳とっただけなんかな」
「うん」
「おい。うん、だけかよ」
「そういう意味じゃない、私にも、わからない」
「お前も、歳か」
「まさか」
孝子は割り切れない気持ちを持ったまま西警察署を後にした。一度黒岩本人に聞いてみたいが、何と切り出せばいいのか見当もつかない。真衣が異性を異性として捉えている様子がないことは容易に想像できた。真衣にとって黒岩は親切な刑事さんに過ぎないのだろう。黒岩が真衣に好意を持っているとしても、孝子には何もできない。逆に黒岩が異性としての感情を持っている方が話しは面倒かもしれない。真衣が自分から話をする男性は、孝子が知っている限りでは西崎しかいない。西崎は真衣の事を自分の子供だと思っている節があるが、真衣にとっては頼りになる警察官のおじさんなのだろう。成り行きに任せるしかないと思うことにした。

少し遅くなったが、まだ明るさは残っていた。真衣は小走りで家に向かった。カラオケハウスは撤去されて空き地になっているが、どうしても走ってしまう。医学生のくせに記憶が脳だけにあるということを信じていない。
「ただいま」
「おかえり」
客がいないので、おばあちゃんがついてきた。
「まだ、孝子は帰っていないんだよ」
「そうみたいね」
食堂には人気がなかった。
「ごはん、食べるだろ」
「ううん、おかあさんが帰るまで待ってる」
「そうかい」
真衣は二階の自分の部屋に向かった。読みたい本はいくらでもあり、調べたいことも山ほどある。まだ先の話だが、卒業する時は一番で卒業したい。それが当面の目標だった。
八時を過ぎた頃に、孝子母の車が戻ってきた。今日は久しぶりに三人で食事が出来そうだ。真衣も本を閉じて部屋を出た。食堂に行くと、孝子母が二人の女の子を連れて入ってきた。
「真衣。ぞうきん、持ってきて」
「はい」
真衣の持ってきたぞうきんで二人の子供の足を拭いた孝子母の顔が悲しそうに見えた。
シャッターを閉めたおばあちゃんが食堂に来たが、二人の子供のことは何も言わなかった。
「ごはんにするね」
おばあちゃんと真衣が食事の用意をし、孝子母は二人の子供に話しかけているが、子供たちの声はなかった。虐待の可能性がある子供のことを話していたから、姉の方が二年生で、妹はまだ幼稚園児だろう。真衣は小さい頃の自分を思い出していた。小さい子供を見ると、どうしても心拍数が増えてしまう。真衣と真樹にもあんな年頃があった。そして、いつもお腹が減っていた。
「さあ、食べなさい。食べたら送って行くから」
二人の子供は無言で食べた。子供たちは無我夢中だった。三人の大人は茫然と子供たちの様子を見るだけだった。真衣は目頭が熱くなり、涙線と戦った。
妹の方は瞼が落ちていくのを堪えて食べていたが、箸の動きも鈍くなり、食べながら眠ってしまった。姉が立ち上がって妹の体を揺すったが妹の反応はない。
「いいわよ。食べてなさい」
孝子母が妹の体を抱き上げて、ソファーの上に移した。妹は苦しみなど何も知らないようなあどけない顔で寝入ってしまった。
姉の方も箸を置いた。
「もう、いいの」
姉は大きく頷いて、複雑な目で孝子母を見て、「ごちそうさま」と小さな声を出した。
「はい」
椅子を降りた姉は、妹の頭の横に座り妹の体に手を置いた。真衣にも憶えがある。妹を守るのは自分の役目だと信じ切っている表情だ。小学二年生の表情ではない。子供たちの向こうにある苦界が見えるようで、三人は無言で箸を動かした。
気がつくと、姉の方もソファーの背に頭を預けて眠っていた。
「よっぽど、疲れたんだね」
孝子母の話によれば、暗い国道を裸足の二人が歩いていて、連れて帰ってきたらしい。
「家に連れて行っていいのかい」
おばぁちゃんも、事情は知らないが想像するだけの体験はある。
「相談所には電話した。荒木田さんも、黒岩さんもいないの。親に連絡もしないでここに置いとく訳にもいかないし」
その時、孝子母の携帯が鳴った。
「はい」
「黒岩です」
孝子母は事情を説明した。
「わかりました。親には僕から電話入れます。あと一時間ほどで園田に戻れますので、一緒に行っていただけますか」
「わかりました。あまり遅くなってもいけないから、子供たちの家で落ちあいましょう」
「はい。下で待っててくれますか。何かあるといけませんから」
「わかったわ」

孝子母が姉をおぶり、真衣が妹をおぶって市営第二団地の下に来た。子供たちの部屋は三階にある。
「もう、来ると思うから、少しずつ階段を上っておこうか」
「うん」
階段を昇り始めると、姉が目を覚まして、歩くと言いだした。車の音がして、孝子母の車の後ろに黒岩の車が停まるのが見えた。孝子母は二階の踊り場から黒岩に手を振っておいて、姉の手を引いて階段を昇った。妹は全く起きる気配もなく真衣の背中で熟睡しているようだ。
三階の子供たちの部屋の前まで来ると、ドアが開いて暗い表情の女が出てきた。
後ろから見ていても姉の体に緊張が走っているのがわかる。
「湯浅さん。担任の片岡です。相談所から電話ありましたよね」
無言で手を出した母親の手を姉が恐る恐る握る。
その時、ドアを大きく開けて男が出てきた。
「相談所に連絡したのは、あんたか」
「そうです」
「余計な事、しやがって」
「あなたは」
子供たちの家は母子家庭の筈で、孝子母も男の存在は予想していなかった。
母親がしゃがみ込んで、姉の体を抱きしめた。暴力を振っているのは男の方らしい。男の右手には包丁が見えた。ドアを挟んで孝子母と真衣は右と左に分かれていたので、孝子母が真衣の方へ動くのと、階段を駆け上がってきた黒岩が真衣の前に飛び出すのが同時だったが、男の包丁は黒岩の腹部に突き刺さった。そこにいた全員の動きが一瞬止まった。最初に動いたのは刺した男で、真衣達を突き飛ばして階段を駆け下りていった。
「お母さん。救急車。おかあさん」
黒岩は両膝を折り、その場に蹲った。
「おかあさん」
携帯のボタンを押す孝子母の手が震えているのが、真衣にも見えた。真衣は背中の妹を母親に渡して、黒岩の体に屈みこんだ。
「黒岩さん」
「だいじょうぶ」
「すぐに、救急車きますからね」
真衣は、孝子母の手から携帯電話を取り上げ、消防署員に場所と怪我の状態を話し、警察にも電話を入れた。
孝子母が黒岩の体を揺すっている。
「お母さん。動かしちゃ駄目。おかあさん」
真衣は孝子の体を黒岩から離した。
「子供たちを、部屋に」
子供たちに見せたい場面ではない。孝子はコンクリートの床に座り込んで茫然としている。
「黒岩さん。動かないように。大丈夫ですからね」
黒岩が真衣の方を向いて笑ったように見えた。救急車が来るまでの時間が恐ろしいほど長いことに気がついた。
サイレンが近づき、真衣は三階の手すりから身を乗り出して、救急車に大きく手を振った。
「お母さん。私、黒岩さんについて病院に行く。警察が来るから、お母さんは事情を説明して」
孝子が頷いた。
「お母さん。大丈夫だから」
「わかった」
黒岩が飛び出してこなかったら、真衣が刺されていた。まだ、死神がついている。黒岩を死なせる訳にはいかない。でも、真衣にできることは祈ることしかなかった。

中央病院の外科手術室の廊下で、真衣は待っていた。包丁はかなり深く刺さっていたので、内臓に損傷があると、重症になる。そんなことにはなって欲しくなかった。
当直の医師は外科の医師ではなかったのだろう。手術が始まるまで少し時間があったように感じた。周囲が静かになり、手術の緊張感がドアの外へも伝わってきた。
暫くして、病院に西崎が来た。
「どうだ」
「手術中。お母さんは」
「今、署で話を聞いてる。あんな孝子を見るのは初めてだ。かなり、ショックだったんだな」
「そう」
「どんな、様子だ」
「まだ、わからない」
「そうか」
「あの男は」
「手配中だ。すぐに捕まるだろう」
「黒岩さんの家族には」
「まだだ。荒木田さんを捜してる。家族の連絡先がわからない」
「そう」
「大丈夫。警察の方から、連絡するから」
「うん」
「念のために、真衣ちゃんからも話してくれるか」
真衣は孝子母が子供たちを連れて帰ってきた時からの話をした。
「あっ、と言う間で。黒岩さんのお腹に包丁が刺さってるのが見えて、刺されたんだとわかった」
「うん」
「おじさん。私のせいかな」
「まさか」
「自分が刺されるのも怖いけど、他の人が刺されるのも、怖い」
「ああ」
「黒岩さん。死んだりしないよね」
「大丈夫。人間、腹、刺されたぐらいでは死なない」
「そうだよね」
やっと手術が終わり、担当の医師が二人の前に来た。
「ご家族の方」
「いえ」
西崎が警察バッジを見せた。
「この人は、現場に居合わせた人です。で、どうです。黒岩君は」
「大丈夫です。内臓の損傷はありませんでした。ただの刺し傷ですから、問題ありません」
「そうですか。包丁を後で鑑識がきますので渡してください」
「はい」
「まだ、麻酔が効いてますよね」
「ええ」
「この子を置いていきますので、よろしくお願いします。家族にも連絡しますから」
「わかりました」
「真衣ちゃん。しばらく、ついててやってくれるか」
「はい」
西崎は携帯で連絡しながら、病院を出ていった。
「最初は、個室の方がいいでしょう」
「はい。お願いします」
ICUに入る必要もないのだと思うと、気持ちが少し楽になった。

病室に入り、看護士が部屋から出ていくと、部屋の中が急に静かになった。黒岩は穏やかな顔だし、呼吸も安定している。突然、黒岩が自分の前に飛び出してきて、真衣に向けた包丁が黒岩の体で見えなくなった。黒岩が倒れて、刺された事を知った時は全身に恐怖が走ったが、すぐに「助けなくては」と思った。医師はただの刺し傷だと言ったが、刺された本人は痛かっただろうし、怖かっただろう。真衣には、何故か、黒岩が身代わりになってくれたという想いが強い。
二時間ほどして、孝子と西崎がやってきた。
「どうだ」
「眠ってる」
「家族には連絡したから、もう来るだろう」
「うん。おかあさん、大丈夫」
「うん。びっくりしちゃって。ごめんね。あんなの、初めてだから」
「私、慣れてても、びっくり」
「そうよね。びっくり、よね」
「あの男、逮捕したから」
「そう」
二人は団地まで車を取りに行くと言って出ていった。西崎に子供たちの様子を聞かなかったが、あの二人はどうしたのだろう。怪我をした黒岩が痛い思いをしただけではない。子供たちは、あの犯人のせいで怖い想いをしていたのだ。いつでも、そうだ。男たちは卑怯者だと思う。子供には暴力をふるい、食べ物を与えず、自分は酒を飲む。あの犯人も酒の臭いがしていた。思い通りにならないことや、嫌なことは、誰にだってある。でも、それを子供に向けても何も解決しないのに。
病室では何もすることがなかった。黒岩の寝顔を見ながら、真樹の事を想った。真樹は、ずっと真衣の中で生きている。自分が変わっただけではなく、真樹も変わった。真樹の怒った顔は思い出せないが、笑っている真樹の顔は思い出す。何も話しかけてはこないが、いつも真衣に笑顔を見せてくれる。だけど、真衣は真樹の笑顔を思い出すと胸が痛い。怒ってくれた方が楽だとも思う。あの二人の姉妹はどうなるのだろう。
病室のドアが開いて男が一人入ってきた。
「黒岩さん、ですか」
真衣は立ちあがった。
「あなたは」
「事件の時、一緒にいました」
「圭三とは」
「後で説明します。先生にはお話、聞かれましたか」
「いえ」
「看護士さんに、知らせてきます。内臓は痛んでいないと聞きましたが」
「それは、看護士に聞きました。あなたは」
ドアが開いて、孝子と西崎が戻ってきた。
「黒岩さん、ですか」
「そうですが」
「西警察の西崎と言います」
西崎は警察バッジを見せた。
「圭三は」
「あなたは、お兄さん、ですか」
「そうですが」
「事情は、外で話しましょう」
二人が病室を出ていった。
「私、まだ先生がいるかどうか、聞いてくる」
「そう」
「お母さん、大丈夫。そこに座ってて」
「うん。ちょっと、疲れた」
ナースステーションの近くにある談話室で、黒岩の兄と名乗る男と西崎が話をしていた。先生に連絡するという看護士に礼を言って、真衣は病室に戻った。
「あの子たちは」
「母親と三人であの部屋にいる。明日、相談所の荒木田さんがあのお母さんと話をして、その後はどうなるかわからない」
「三人で大丈夫なの」
「・・・」
「あのお母さん、随分疲れてたみたいよ」
「そうね。今晩はうちで預かろうかと言ったんだけど」
「そう」
しばらくして、西崎が一人で戻ってきた。
「あの人は」
「先生と話をしてる。帰ろう」
「えっ」
「話しは、後でする。帰るぞ」
「わかった」
西崎の言い方は、有無を言わせない言い方だった。
孝子の車に三人が乗り込んだ。
「どうしたの」
孝子が心配そうな声で言った。
「どうも、こうもねえ。何なんだ、あの男は」
「だから、どうしたの。西崎君、怒ってる」
「黒岩の兄貴らしいが、まるで、俺たちが刃物で刺したみたいな言い方をしやがる。警察だから、いろんな奴からくそみそに言われることもある。事件が起きれば、誰でも気が立ってるから仕方がないけどな。あんな冷静な顔で言われると、腹が立ってしょうがねえ」
「あの人だって、動顛したんじゃないの」
「最初は、俺もそのつもりで話した。でも、あいつは違う。本気で迷惑だと思ってる。冗談じゃねえ。刺されたのは、仮にも弟だぞ」
「そう」
「やるだけのことは、やった。あの野郎に四の五の言われるこたあねえ」
「そう」
西崎は自分の車に戻り、荒々しく出ていった。
「帰ろう」
「うん」
「西崎君、本気で怒ってたね」
「うん。私も、あのお兄さん、変だと思った」
「何か、言われたの」
「あなたは誰。どんな関係かって聞かれた。普通、弟の容体が心配になると思うの」
「そう」
「黒岩さんって、どこか柔らかいって感じするけど、あのお兄さんは、勝手って感じ」
「嫌な男なんだ」
「うん」
「でも、黒岩さんは、私たちの身代わりになってくれた。西崎君は怒るかもしれないけど、知らん顔はできない。私はお見舞いに行くよ」
「私も」
「男って、面倒だね」
「うん」
「真衣、ごめんね。時間とって、事件に巻き込んで」
「ううん」
「明日、遅刻しないようにしなきゃね」
「うん」

翌日、学校の帰りに病院に寄ることにした。手ぶらで行くのもどうかと思ったが、先ずは様子を見て、必要な物を持っていく方がいいと思った。
病室のドアを開けると、年配の女性と目が遭った。
「失礼します」
「どなた」
「あっ、すみません」
黒岩が本当にすまなそうな声を出した。
「どなたなの」
「虐待にあってた子供の小学校の先生のお譲さん」
「成瀬と言います。黒岩さんには、申し訳ないと思ってます」
「そう」
「あなたのせいじゃ、ありませんよ。刃物を持ってたのはあの男ですから」
「でも」
「じゃあ。私は帰りますからね」
女性は真衣の事を無視して帰り支度を始めた。真衣はドアの所に立ったまま、身を縮めた。
「ほんとに、必要なものはないのね」
「ええ。もう大丈夫ですよ」
「そう。もう、こんな面倒は困りますよ」
「すぐに退院しますから、もう、いいです」
「そう」
女性は真衣に視線を送ることも無く部屋を出ていった。
「不愉快なおもいさせて、すみません」
黒岩がベッドの上で頭を下げた。
「いえ」
「警察から連絡がいったもんだから、無理して来たんです。顔を合わせるのは七年ぶりなんです」
「ええ」
「気にしないでください」
「ええ。何か要る物はありませんか」
「荒木田さんにお願いしました。大丈夫です」
「そうですか」
「あの姉妹がどうなったか、知りませんか」
「いえ。私、学校の帰りに寄ったので、何も聞いていません」
「そうですか。今日、荒木田さんが話をしてくれることになってるそうです」
「ええ。私もそれは聞きました」
「座りませんか」
「はい。痛みます」
「痛いです。麻酔、切れてますから」
真衣はベッドの横の小さな椅子に座った。
「黒岩さんが来てくれなかったら、私が刺されてました。女の子が背中にいましたし、多分、よけきれなかったと思います」
「あれは、あなたや先生の仕事じゃありません。僕の仕事です。間に合ってよかった」
「でも」
「あなたが責任感じることは、まったく、ありませんからね。あの二人を保護してくれて、食事までさせてくれたそうですね」
「ええ」
「西崎さんに聞きました。感謝してます」
「いえ」
「昨日、兄にも会ったそうですね」
「はい」
「西崎さん、怒ってました。あなたにも、失礼な事、言ったんでしょうね」
「いえ、べつに」
「すみません」
真衣は病室を見た。湯呑茶碗が一つあるだけで何もなかった。
「ほんとに、要る物、ないんですか」
「大丈夫です。全部、荒木田さんにお願いしましたから。この茶碗は看護士さんが貸してくれました。先生の教え子だと言ってました」
「自販機で、何か買ってきます」
「そうですか」
「何がいいですか」
「じゃあ、レモンティーをお願いできますか」
「はい」
真衣は病室を出た。紹介されは訳ではないが、あれは母親に違いない。自分の子供が事件に遭遇して、怪我をしているのに何も持ってこなかったのだろうか。それに会話も親子の会話とは感じなかった。母親と男の子の関係はよくわからない。
真衣はレモンティーを捜して一階の自販機まで足を伸ばした。部屋には小さな冷蔵庫があったので、レモンティーを二本とお茶を二本買って戻った。
レモンティーを黒岩に渡して、残りを冷蔵庫に入れた時に、荒木田が紙袋を二つ持ってやってきた。
「遅くなって、ごめん」
「いえ。ありがとうございます」
「それにしても、君の部屋はきれいに片付いていますね。驚きましたよ」
「はあ」
「あっ、真衣さん。来てくれたんですね。大変ご迷惑かけて、申し訳ありません」
荒木田は真衣に頭を下げた。
「とんでも、ありません」
「まだ、先生にもお会いしていない。今夜にもお伺いします」
荒木田の態度は、孝子と真衣に、ほんとに済まない事をしたと思っている事が表情に出ていた。相談所の仕事で、民間人に怪我をされたら立場上困るというだけの計算で言っているのではないことは、真衣にもわかった。
荒木田は、黒岩に荷物を見せながら器用に仕舞いこんでいった。
「どうでした」
「ん。ハウスに行ってもらうことになった」
「そうですか」
「母親も暴行されていたらしい。先ず、母親のケアをしないと。君のおかげで、あの男はしばらく出てこれない。時間はあるよ」
「怪我の功名ですね」
「文字通り、怪我のおかげだ。でも、怪我が大きくなくてよかった」
「あの男、傷害の前科があるみたいです。西崎さんが言ってました」
「そうですか。実刑ですね」
「はい。そうであって欲しいです」
「僕は、事務所に戻らなくちゃ。他に要るものは」
「大丈夫です。ありがとうございました」
荒木田は真衣が出したお茶に手もつけずに病室を出ていった。
「荒木田さんって、すごいですね」
「ええ。僕はあの人と一緒に仕事ができたこと、自分の財産だと思っています」
「荒木田さんのことは、よく母から聞きます」
「あの子供たちが、普通に暮らして欲しいです」
「ええ」
もう、子供たちの心には大きな傷がついている。あの子たちに黒岩が望んでいるような普通の暮らしが来ることはないと真衣は思った。

真衣は、翌日も病院に行った。黒岩は何度も真衣の責任ではないと言ってくれるが、真衣の代わりに黒岩が刺された事は消せなかった。何も出来ることはないが、何かすることは無いかと問うことぐらいは自分の役目だと思っていた。
「僕、暇ですから、来てくれるのは嬉しいんですけど、時間がもったいないです。勉強があるんでしょう」
「すぐに、帰りますから」
部屋の中は病室らしくなっていた。手が届く棚には、専門書や文庫本が並んでいる。寝巻も自分の物に変えたようだ。
「医学部の勉強って、大変なんでしょう」
「いえ。楽しいですよ。知らない事ばかりだから、時々、ワクワクします」
「真衣さんは、どんなお医者さんになるんでしょうね」
「私にも、まだ、わかりません」
西崎が部屋に入ってきた。
「真衣ちゃん。来てくれたんだ」
「はい」
「真衣さん、昨日も来てくれたんですよ」
「よかったな。望みどおりだ」
「えっ」
「西崎さん」
「おう。ところで、あいつ殺意はなかったと言いだした。もう一度、最初から話してもらえるか。真衣ちゃんも」
西崎の事情聴取が終わり、真衣も西崎と一緒に病室を出た。
「おじさん。さっき、望み通りって言ったのは、どういう意味なの」
「別に意味は無い。若い女の子が見舞いに来てくれたら、喜ばしい、という程度のことだから」
西崎の返事は、どこか嘘っぽく聞こえた。
「そう」
その夜、真衣が西崎の言葉を孝子に言った時、孝子も何か知っている感触があった。
「お母さん。黒岩さんのことで、何か知ってる」
「・・・」
「教えて」
「うん」
「なに」
「大したことじゃない」
「うん」
黒岩が真衣を守るために警察を辞めて児童相談所に来たという西崎から聞いた話をした。
「西崎君の勘違いだと思うよ。そんなことで、仕事辞めるの、変だもの」
「うん」
「ただの偶然よ」
「そうね」
荒木田も黒岩も男のくせに優しい一面を持っている。それは否定できないが、真衣の父親も昔は優しく明るい男だった。男なのだから、どうにでも変わるのだろう。真衣は何度も世話になった西崎の事も信じ切っている訳ではない。男は自分の許容範囲を超えた時に、最低の男になる。それだけの事だと思っていた。それはそれとして、黒岩が黒岩の人生を自分のために変えたのだとしたら、それは思いとどまってもらいたいと思う。男でも人間なのだから。真衣はそこまで傲慢になるつもりはなかった。できれば、男には自分の人生に絡まないで欲しいと思う。でも、人としては、どうなのだろう。
真衣は結論が出せないまま、一週間病院に行かなかった。普通の女の子であれば、知らん顔するだろう。黒岩本人から言われた訳ではなく、西崎の話だけを聞いて、変に邪推しているようで言いだしにくいのもあったが、孝子と児童相談所の関係はこれからも続く。そして、黒岩と顔を合わせる度に気にしなくてはいけないのも気が重い。最初にはっきりさせておいた方がいいという結論になった。たとえ、真衣を守るために身代りになったとしても、真衣が助けられたことに変わりはない。黒岩は、子供たちにとっても、母にとっても大事な人になるだろう。たとえ、相手が男だったとしても、人としての礼は守らなければならない。それが、真衣の結論だった。
「痛みは、もう、とれました」
「ええ。元気です。早く退院したいんですけどね」
「よかった」
「片岡先生に伝えてください。忙しいんですから、見舞いはいいって」
「はい。言っときます。黒岩さん、缶詰めの果物なんて食べます」
「ええ。好きですよ。みかんとか」
「よかった。開けていいですか」
「持ってきてくれたんですか」
「いつも、手ぶらだと、気になるんです。見舞客にも立場がありますからね」
「すみません。気を使わせて」
真衣は、持ってきた紙容器と缶詰めを持って、流し台へ立った。
「黒岩さん」
「はい」
「この前、西崎さんの言ってたことなんですけど」
真衣は缶詰めを開けながら、黒岩の方を見ずに言った。
「西崎さん、ですか」
「望みがかなったな、って言った事です」
「えっ。西崎さん、しゃべったんですか」
「まあ」
「おしゃべりなんですね。西崎さんには、ちょっと、がっかりです」
「いえ。母が聞き出したんです。西崎さんは母には弱いんです。不思議ですけどね」
「それでも、ひどいですよ」
真衣は缶詰めのフルーツを入れた容器をベッドの横のテーブルに置いた。ラップに包んできたプラスチックのスプーンを添えて黒岩に手渡した。
「いただきます」
「黙ってるのって、卑怯かなと思ったんです」
「・・・」
「私、男の人、だめなんです」
「知ってます。西崎さんに聞きました」
「ほんとに」
「はい」
「やっぱり、西崎さんはおしゃべりかも」
「はあ」
「私、男の人、信用してないんです」
「わかります」
「医者になりたいと思ったのも、自分一人でも生きていけると思ったからなんです」
「ええ、そうだと思いました」
「ですから、黒岩さんが守ってくれたとしても、私には何もできないんです」
「そんなこと、考えてもいません」
「気の強い女だと思われるかもしれませんけど、黒岩さんには相談所の仕事してもらいたいし、私とのことで、子供たちに迷惑かけたくないんです。ごめんなさい。勝手なこと、言いますけど」
「いいえ。西崎さんはわかってくれなかったんだと思います。僕があなたの事を守りたいと思ったことは、その通りですし、今でもそう思っています。でも、少し違うんです。聞いてもらえますか」
「はい」
「多分、僕の育った環境をわかってもらえないと、話が見えなくなると思いますので、そこから話します。父は会計事務所をやってます。上の兄は、その事務所で副所長ですし、下の兄は東京で会計事務所をやってます。僕の家は、僕が子供の頃から事業の拡大と金儲けの話ばかりでした。成り行きで、僕も資格はとりましたけど、どうしても仲間入りができなくて、警察官になりました。家族全員が猛反対でした。今時、勘当なんてありませんけど、昔流に言えば、勘当されたんだと思います。ずっと、会っていませんでしたし、電話で話したこともありません。この前、会っていただいたとおり、自分たちの常識が正しいと信じている人達です。僕は小さい時から先頭に立つのが嫌いで、気がつくと誰かを支える側にいましたが、僕にはそれが一番安心できるんです。警察官になる時も、市民を支える警察官になりたいと思ったんです。交番勤務の時はよかったんですが、刑事になってからは違いました。真衣さんと初めて会った時も、僕はずっと、何かが違うと悩んでいたんです」
「・・・」
「真衣さんに遭った時、僕は思い切り殴られたような衝撃を受けたんです。それは、あなたが生きていて、僕が生きていなかったからだと、今ではわかります。真衣さんは、前に、どうして授業に出るのを認めたのかと聞きましたよね」
「ええ」
「頭が真っ白だったんです。警察官でも人間ですから、いや、人間の自分が優先されるのは、どんな職業でも一緒だと思います。あの時の僕は、眩しいくらい鮮烈なあなたの姿に見入るだけでした。警察官の職務など、どうでもよかった。それだけでも警察官失格ですよね。ただ、鮮烈な、美しいほどのあなたの中に、とても危険な臭いもしたんです。もちろん、あの時はあなたのことは何も知りませんから、具体的な危険が何かもわかりませんでしたけど、この人は守らなければいけないと、強く感じたんです。西崎さんは、一目惚れだろうと言いましたが、そんな生易しい感情じゃなく、僕には、あなたを守ることが昔から決められていた、ごく自然なことに思えたんです。たまたま、あなたが女で、僕が男だったというだけで、西崎さんは一目惚れだと決めつけましたが、あなたが男だったとしても、あるいは僕が女だったとしても、同じ結論だったように思っています。ここは、確かに説明し難いところですが、実際にそうだったんです。三沢病院で会いましたよね。あの病院には僕の友人が入院しています。彼の家族は夜逃げしていて、彼には身寄りがありません。小さな子どもの頃からの友達で、彼を支えるのは僕の役目だと思っています。誰でも、誰かに支えられて生きてますよね。僕は、誰かを支えている時に、自分の人生を生きていると思うんです。そんなのは偽善だと言われました。自分自身でも偽善者なのではないかと疑った時もあります。でも、僕の場合は、そうとも言えないんです。それは、荒木田さんに会った時に、そう思ったんです。あの人は、子供たちを支えることが仕事ですけど、仕事を超えているんです。僕と同じような人がいる。僕は、荒木田さんに会って、この人と一緒に働きたいと思いました。そして、三沢病院の奈良岡先生の紹介で児童相談所に行ったんです。園田支所は僕にとってベストの場所だったんです。でも、真衣さんは何も気にする必要はありません。僕が勝手に自分の生きる場所を求めただけなんです」
「だから、あの時、飛び出したんですか」
「ええ、それも大きな動機ですが、あれは僕の仕事です。あなたや片岡先生の善意は有難いと、感謝していますが、僕たちが善意だけに頼るようになったら、僕たちに価値はありません。僕が刺された事で、あの姉妹と母親が一旦は苦境から抜けられますし、あなたや先生も傷つかずに済みました。僕は自分の判断は正しかったと思っています」
「私の心配は、的外れ、ですか」
「ええ。あなたが心配するようなことではありません。真衣さんは今まで通り、鮮烈な生き方をしてください。あなたの生き様が、見知らぬ人を勇気づけていることも、人生をやり直す勇気を与えている事も現実ですから。あなたはあなたでいいんです。あなたを守るなどと言って、僕が一番いい思いをしているんです。この仕事につけたことで、僕は生き直すことができたんですよ。僕は一生分の御褒美を貰った気分です」
「黒岩さんは、それでいいんですか」
「いえ。それがいいんです。そんな奴もいるんです。一歩間違うとストーカーになってしまいますけど、僕は違いますからね」
黒岩の説明を納得した訳ではないが、黒岩との距離感を保つためには、どこかに線を引く必要がある。どうでもいい男の事なら気にすることはないが、それでは済まない。おばあちゃんに相談してみよう。孝子母のお父さんは、黒岩のような人ではなかったのだろうか。もう少し時間をかけて決めることだと思った。



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