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弱き者よ - 2 [弱き者よ]



3

真衣は二年生になっていた。強姦未遂事件は闇に葬られた。孝子母が「忘れなさい」と言い張った。納得したわけではないが、我儘の言える立場にいないことは自分が一番知っている。簡単なことだ。心を閉ざせば済む。重いものは背負いなれている。一つぐらい増えても大丈夫。心配なのは、このまま自分がどこへ流れ着くのかわからないことだった。
「真衣。あんた、進路の事、何も言わないね」
「進路」
「三者面談とかないの」
三人で、遅い夕食の時だった。
「真衣は成績いいから、心配ないよね」
おばあちゃんが笑顔で言った。
「でも、志望校とか学科とかあるでしょう」
「大学」
「まさか、進学しないとか。他にやりたいことがあるの」
「ううん」
「先生は、なんて」
「話してない」
「まさか。高見沢の子は一年の時から志望校あるらしいじゃない」
「でも、私は」
「私は何よ。里子だから」
「・・・」
「孝子」
「だって、黙ってたら、この子いつまでも言わないよ」
「大学に行ってもいいの」
「当たり前じゃない」
「うん」
「どこでもいいよ。ハーバードでも東大でも」
「駄目よ、そんな遠くは」
「例えばの話よ、母さん」
「考えてみる」
「真衣。私は、本気で母親やってるつもりだよ。もっと無理言いなさい」
「うん。ありがとう、おかあさん」
確かに学校は受験一色と言ってもいい。一年生の時には、楽しい高校生活をと言っていた生徒も、二年生になると目の色が変わった。偏差値だけしか見えていない。死神と言われた真衣のことを気に掛ける生徒はいなくなった。楽ではあったが、嫌われていた時よりも疎外感を押し付けられたような空気は気持ちいいものではない。
中学の成績で自動的に決められた高校が高見沢高校だった。真衣にとっての高校進学は大学受験が目的ではなかった。そして、高校でも他にやることがなかったから勉強をしただけで、受験戦争に参加していたわけではない。漠然とではあったが、一生続けられるものを身につけたいとは思っていた。男に頼る生き方だけはしたくない。病院の母は夫という男に人生を滅茶苦茶にされた犠牲者だと思っている。母のような生き方はしたくない。そういう意味では孝子母の生き方の方が納得できる。でも、自分には子供と接していく生き方はできないと思う。西崎刑事や神野刑事のような仕事も無理がある。自分にできることは何なのだろうということを考えなくてはならない。真衣にとっては初めての未来への挑戦になる。こんな日が来るとは思ってもいなかった。
母の許可をもらって居間にあるパソコンで大学の情報を見た。見るだけでも心が躍る。施設の子に大学進学はない。自分の意識では施設の子だったから、大学案内だけでも別世界のことのように思う。真衣の目は医学部に向かっていた。三沢病院の奈良岡先生の白衣に強い印象があった。自分が医者になれることなど想像すらしたことがないが、いろいろな条件が合致する。最大の条件は男に頼らずに生きていけることだが、奈良岡医師が言っていた研究もできるかもしれない。そうすれば、病院の母の病気に役立つかもしれない。歳を取っても医者を続けている人は多い。病人を助けることで贖罪ができるかもしれない。人間の命を救う死神というのは、かなり恰好がいい。真衣は夢中になって調べた。
医学部は他の学部と違って六年かかる。それだけ授業料も多くなる。孝子母は承知してくれるだろうか。私立大学の医学部の費用は驚くほど高く、除外する。T大の医学部なら、国立大学で、家から通えるし、偏差値の75も問題はない。クラスの中でもT大を目指している子は多い。仲間に入りたい訳ではないが、少しだけ嬉しい。真衣は入学案内を取り寄せることにした。
入学案内が届き、三人で顔を揃えた。
「ここでも、いい」
「医学部」
「うん。6年かかるけど」
「まさか、真衣が医学部にねえ」
「やっぱり、無理」
「いや。いいんじゃない。ねえ、母さん」
「ああ」
「医学部だと偏差値は」
「75ぐらい」
「大丈夫なんだ」
「うん。なんとか。これからも、受験の勉強するし」
「そう。医者か。三沢病院の先生の影響」
「それも、あると思う」
「・・・」
「それと、私みたいに暗い子でも、出来るかもしれない」
「真衣は、大学のこと考えてなかったみたいだけど、卒業したら、どうするつもりだったの」
「おばあちゃんの手伝い」
「一生」
「わかんない。お手伝いしながら、何か技術を」
「技術か」
「私、子供の相手、無理だし、愛想悪いし。それに医者なら、男に頼らずに生きていける」
「それが、本音」
「うん」
「医者でも、愛想笑いはするよ」
「しない医者もいる」
「真衣は、しないんだ」
「うん」
「そうね。無愛想な医者でも、身内に医者がいれば心強い。ねえ、かあさん」
「ああ。真衣ならできるよ」
「塾とか、どうするの」
「行かない」
「そう」
「できれば、センター試験で入りたい」
「ぶっちぎりでないと無理みたいよ」
「駄目なら、一般でもいい」
「何人だっけ」
「100人」
「センター試験よ」
「10人」
「これで、うちにも受験生の誕生だ」
「ほんとに、いいの」
「もちろんよ。頑張りなさい」
「うん」
翌日、放課後に担任の村山教師をつかまえて進路の話をした。
「受験することにしました」
それまで、真衣の進路は家事手伝いになっていて、薬局で働くことになっていた。
「そうか。よかったな」
よかった、という意味がわからないが、大したことではないだろう。
「で、第一志望は。成沢ならどこでも問題ないけど」
「T大の医学部です」
「T大でいいのか」
「はい」
「お前なら、東京の医学部でも、行けるぞ」
「いえ。地元で」
「そうか」
「何か、問題が」
「いやいや、何もない」
村山教師の態度が、どこか煮え切らないと感じた。
「よろしくお願いします」
「わかった。頑張れよ」
「はい」
村山教師の態度が変だと思っていた理由が一週間後にわかった。
「成沢。お前、受験するんだって」
同じクラスの柳沢が話しかけてきた。
「・・・」
「牧野が泣いてたぞ」
「どういうこと」
「成沢相手じゃ、牧野に勝ち目はないからな。あいつの家は病院だから、医学部しか行くとこないんだろ」
競争相手が増えたことで、牧野の合格確率が落ちたという意味だろう。
「それが、私のせいなの」
「そうは言わないけど、あいつは複雑だろ」
「・・・」
もう、真衣は返事をしなかった。もともと、連帯感のあるクラスではないし、仲間外れにされることも慣れている。的外れの嫌味を言われても答えようがなかった。競争など好きではないが、受験戦争に参加した以上、競争を否定することはできないことも現実なんだろう。できるだけセンター試験で、いい成績をとることだ。そうすれば、牧野に恨まれずに済む。
真衣は問題集を買ってきて、本気で受験勉強を始めた。
夏休みに全国区の塾で行われる模擬テストでは、偏差値86を出した。偏差値を気にする自分が不思議だった。学校のテストでもテストの度に順位が上がり、その年の暮れにはそれまでトップにいた男子に大差をつけて勝った。死神と呼ばれる真衣を見る同級生の視線は、更に冷たくなった。
学校が冬休みに入って、不愉快な視線を浴びなくて済むことが心地よい。朝もゆっくり寝ていいと言われているので、昼近くになって居間に下りて行った。
居間のガラス戸の向こうに見知らぬ男がいる。いつも来る薬の販売会社の営業社員ではない。ジーンズとフードつきのジャンパーを着た暗い目つきの男だ。
土足のまま板間に上がり、ガラス戸を開けて入ってきた。
「誰」
返事はない。男の口元が笑ったように見えた。真衣は店に続くドアの方を見た。すぐ近くにおばあちゃんも安藤さんもいる。
男がジャンパーの内側から出した物を見て、息を呑んだ。鈍い光を出しているナイフはどんな物でも断ち切れそうな存在感がある。
男は無言で真衣に近づいてくる。男の顔を思い出した。随分痩せていたが、カラオケハウスの裏で襲ってきた男だ。目を見れば、男が自分を殺しに来たことがはっきりとわかった。だが、叫ぶ余裕はなかった。男は左手でマフラーを取った。男の喉には手術痕がはっきりと残っている。男は、また、無言で笑った。小動物をいたぶるように、真衣の目の前でナイフをひらひらと動かした。男の手が伸びて、ナイフの切っ先が目の前まで迫る。目の前をナイフが風を切って横切る。男は立ちすくんでいる真衣の様子を楽しんでいるようだった。
その時、店の方のドアが開いて、おばあちゃんが二人に気がついた。
「そこで、なにしてるの」
男が動き、腰だめにしたナイフを突き出してきた。真衣は夢中で体を捻った。男は踏みとどまって、手にしたナイフを横に薙いだ。おもわず右手で顔を守ったが、右手に痛みが走った。真衣はテーブルを回りこむようにして逃げた。男の突き出したナイフを避けたが、すぐにナイフは上から振り下ろされ、真衣の右肩から胸の上を斜めに走った。相手にナイフを振り回させていれば、最後には刺されることがはっきりとした。腕と胸の痛みはあったが、真衣は男の右手を両手で持った。力で押しあえば負けるのはわかっていたが、ナイフの切っ先を相手に向けようと力を振り絞った。男に押され、ガラス戸にぶつかり、板間に押し出された。土間と板間の間には30センチ程の段差がある。真衣は後ろにさがりながらも体の向きを変えた。男と体が入れ替わった時、男の体から力が失われた。ナイフの切っ先も相手の方へ向けることができたと感じた時、二人は板間から土間に二本の棒が倒れるように横倒しになった。思い切り土間に叩きつけられて、その衝撃で真衣は弾き飛ばされた。「終わった」と思った。もう、これ以上は防ぎきれない。
男は起きあがってこなかった。男の胸にはあのナイフが刺さっているのが見えた。それでも、真衣は這うようにして店の方へ逃げようとした。自分の体が赤く染まっているように見えたのが不思議だった。痛みはあるが、それよりも体がだるく感じる。
板間も土間も血で染まっていた。死んでしまったのか、真衣が動かない。順子の呼ぶ声にも反応しないが、まだ呼吸はしているように見えた。
救急車はまだ脈のある真衣を先に搬送した。胸の傷が深くて出血も多かった。あと数分遅れていれば失血死の可能性もあったようだ。男はナイフが心臓を直撃していて、その時点で即死だった。

病院にいる孝子の所へ西崎がやってきた。
「どう、真衣ちゃん」
「うん」
「おばさんと安藤さんから事情は聞いた」
「今度も、真衣が殺人罪なの」
「まさか。あの男が殺人未遂で起訴されるだろう。真衣ちゃんは被害者だ」
「あの時、戦っておけばよかった」
「一緒だ。有罪になっても執行猶予だったろう。あいつは、同じことをしたと思う」
「警察では、防げないの」
「無理だな。全員、刑務所に入れとかなきゃならない。お前も、俺も」
「・・・」
「残念だけど、人間のやることは、最低の事ばかりだからな」
「どうしてなの。真衣、ばかり」
「ああ。俺もそう思う。犯罪などに縁がない人の方がはるかに多い。それなのに、あの子は三回目だ。あり得ないことだ」
「心に傷を受けて、今度は体を切り刻まれて、酷すぎるよ」
「どこかに、お祓いに行って来た方がいい」
「うん」
「こんな時だ。孝子がしっかりしてなきゃ」
「わかってる」
「明日になれば、真衣ちゃん、話、聞けるかな」
「西崎君の仕事も、辛い仕事だね」
「優しいこと言ってくれるね」
「自分が弱気になってるのがわかる。私、あの子に何もしてやれていない」
「そんなことない。ま、たとえそうだとしても、平然としてるふりをしてやれよ」
「そうだね」
「明日、来るわ」
西崎が帰って行くと、病室は静かになった。個室しか空きがなかったし、重症だったので仕方がないが、落ち込んでいる孝子にはこの静けさが重い。真衣は麻酔で眠っているが、目を覚ましたら、何と声をかけてやればいいのか。自分のため息に驚かされる。
小さなソファーの上で眠ってしまったようだ。深夜の2時を過ぎていた。孝子は真衣のベッドの横の椅子に座った。酸素マスクをつけて、点滴のチューブがぶら下がっている。計測機械のコードも伸びていて、その外見だけでも重症患者だった。
真衣の体が動き、目を開けた。
「真衣」
「・・・」
「痛い」
「おかあさん」
真衣の声はかすれていて、聞き取りにくかったが、確かに「おかあさん」と言った。
「もう、大丈夫だからね」
「のど、かわいた」
「ああ、そうだね、待ってね」
孝子はナースセンターに走った。文字通り走っていた。
「せんせい」
「千佳ちゃん。何か、飲み物」
「目、覚めたんですか」
孝子は何度も頷いた。
「そこの自販機で、何か買ってきてください。吸い飲みをお貸しします」
「自販機」
孝子は小銭を取りに病室へ走って戻った。
「先生、お茶かスポーツドリンク」
「うん。わかった」
この病院にも孝子の教え子が何人もいる。西田千佳も、その一人だった。顔見知りの看護士がいることは心強い。
真衣がお茶を飲み終わった時に、当直の医師が 部屋に入ってきた。計測機のデータを確認して、真衣の手をとって脈の確認をした。
「痛い」
真衣は少し考えて、首を横に振った。
「もう、全然大丈夫だからね。でも、時間が経てば痛みがくると思う。我慢できなければ、薬を出すから看護士に言って。用意させとくから」
真衣は小さく頷いた。
「君は、よく頑張った。二重丸の子だね」
「二重丸」
おもわず、孝子が聞いた。
「生きる。その強い意志がこの子を助けたんですよ。簡単に諦めてしまう子もいるんです」
「よかった」
「おかあさん。この子は大丈夫」
「ありがとうございます」
孝子は深々と頭を下げていた。

痛みが押し寄せてきている。どんな怪我だったのか、自分で確認する時間はなかったが、今までにない痛みだった。孝子母はずっと横の椅子に座っている。自分が一人ではないと思わせてくれている母には感謝していた。
看護士が来て、点滴の入っていない左手に注射をした後で、また眠ったようだ。眠りが浅いのか深いのか、どれだけ時間が過ぎているのかわからない状態が続いた。西崎のおじさんが病室にいたようだったが、いなかったのかもしれない。
担当の医師が来て、看護士が包帯の取り換えをして、初めて自分の胸の傷を見た。右肩から両乳房の間を斜めに走った傷は30センチ以上あるように見えた。自分の体の傷なのに覚めた目で見ている。孝子母のうろたえた様子の方が気になった。大怪我だったようだが、気持ちの上ではそれほどのダメージは感じていない。誰も話をしないが、あの男はどうなったのだろう。胸に刺さった刃物を見た。ドラマのシーンを見るような感覚しかないが、大変なことが起きたことはわかっていた。

痛みはなくならないが、酷い痛みは峠を越えたようだ。時間の感覚が不確かで、何日経ったのかはわからなかったが、少しずつ周囲が見えるようになった。早く自分の足でトイレに行きたいと思う。孝子母にも休んでもらわなければ。
西崎のおじさんと神野刑事が部屋に入ってきた。
「真衣ちゃん。どう。まだ、痛むか」
「少し」
「そうか。話、聞けるかな」
「うん」
神野刑事の質問に答えながら、憶えていないことが多いと自分でも思った。でも、思い出せる限りのことを答えた。警察の尋問に慣れているのもどうなんだろうと思いながら、丁寧に答えた。
「あの男は」
「即死だった」
「そう」
死神の真衣が、ついに本当の殺人者になった。そのことに驚きはなかつた。「やっぱり」という思い。落ち着くところへ落ち着いたような、自分が自分になったような、そんな安心感があった。開き直りだと非難されてもいい。自分の生き方が見つけられそうな今、それに全力で向かって行って何が悪いのだ。胸に大きな傷を負い、女の武器を一つ失ったことには失望していない。男がこの傷を見て怯んでくれた方がいいとさえ思えた。
「真衣ちゃんが悪いんじゃないからな」
「ありがとう、おじさん」
ナイフの切っ先を男の方へ向けたのは真衣だった。殺意があった訳ではないが、自分の行動が一人の人間の生命を奪ったことは事実だった。それでも、死んだ男に対して申し訳ないという気持ちはない。生きていて、また出会えば、殺意を持って殺してもいいと思う。
早く退院して勉強がしたい。病院の母が死んだ訳ではないが、生きているとは言えない。母と妹とあの男。三人もの生命を奪った自分は、何人の生命を救えば許してもらえるのだろう。どうしても医者にならなくてはならないと強く思う。こんな計算は悪魔の計算なのだろうか。だが、重い十字架を背負い続けるには、助けが必要だった。
正月を挟んで一カ月間学校を休んだが、病院でも家に帰ってからも、全てを忘れて試験問題集に集中した。高見沢高校の中でも、受験の鬼と言われる存在になりたい。


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死神が悪魔に進化した。真衣は自分の事をそんな目で見ていた。修羅場というものは通過した後、ただの思い出になるだけではないようだ。家族以外の周囲の人間は底知れぬ暗闇を見るような目つきで真衣の事を見るようになった。真衣がクラスメートのことを幼い子供だと感じていることが原因なのかもしれない。先生でさえ真衣に声をかけることはなくなった。
受験勉強が苦しいとか、嫌だと感じたことは一度もない。楽しいことだから寸暇を惜しんで勉強する。偏差値は勝手に上がっていった。そのことで、クラスの中では浮いた存在になる。しかし、あの事件以来、些細なことは気にならなくなっていた。先生は、三年の夏休みは受験生にとって最後の正念場だと檄を飛ばしているが、その言葉で奮い立つ生徒より萎縮する生徒の方がはるかに多いとの認識はないようだった。学校から、両親から、更には自分自身から追い込まれ、行き場を無くした生徒の目にあるのは焦りだけだった。今までも教室が居心地のいい場所だったことはないが、脅えた小動物の群れが蹲るだけの教室は地獄絵図みたいなものだ。
夏休みに入り、登校の必要がなくなって気持ちは楽になった。真衣にとっては勉強のできる環境さえあれば、それでよかった。昼と夜を逆転させないために、生活のリズムは変えない。深夜の時間帯が勉強に向いているとも思わなかった。普通の生活をすることを心がけた。テレビこそ見ないが、店の手伝いもするし、洗いものも手伝う。受験生がいる家庭に見られる緊迫感は無かったので、おばあちゃんも孝子母も平気で用事を言いつけるし、真衣も喜んで協力した。あの事件があって、孝子母は真衣をどうやって支えて行くかと悩んだそうだが、真衣は逆に明るい子供になった。もっとも、それは真衣が自然に明るく振る舞う力を手にしたということに過ぎなかったが、おばあちゃんや孝子母が喜んでくれれば十分にご褒美を貰っていると思えるようになった。以前ほど里子という立場を意識しなくなったとはいえ、それが無くなった訳ではなかった。
「真衣」
「はい」
「悪いけど、銀行に行ってくれる」
「いいよ」
片岡薬局は商売が大繁盛しているわけではないが、それでも一週間に一度は入金と両替をするために銀行へ足を運ぶ。
九時になると、おばあちゃんが用意した鞄をもって銀行へ向かった。ジーパンにTシャツという軽装で携帯電話とハンカチだけを持って家を出た。強姦未遂事件の後、孝子母の命令で持たされた携帯電話だが、両手で数える程度の使用頻度しかない。それも持ち始めた頃に使った程度で、この数カ月間は充電をするだけの機械になっていた。
商店街のシャッターが全て開くという状況はこの園田駅前商店街でもないが、ほとんどのシャッターが閉まったままという状況でもない。シャッターを開けて開店準備を始めている店もあった。駅前にあるM銀行園田支店は生命保険会社のビルの一階にある。学校は夏休みだし、通勤時間帯は終わっているので駅前は人通りが少なかった。
真衣は銀行に入ると、真っすぐ番号札の機械に向かった。客の数はそれほど多くはない。それでも、何か参考書を持ってくればよかったと後悔した。ATMでも入金と両替は出来るが、おばあちゃんが窓口を利用していたので、真衣もそれに倣っていた。
何もすることがなく椅子に座っていると、正面にいる窓口の銀行員を見詰めてしまう。一秒でも早く処理すべく、トップギアで働いている様子がわかる。銀行員になったら、自分でもあんな働き方ができるのだろうか。以前はそんな見方はしなかった。
10分ほど待った時に、違和感のある客が入ってきた。黒づくめの服装。背中に大きなバックパックを背負い、大型のキャリングケースを引っ張っている様子は銀行には似つかわしくない。大勢の視線がその若い男に向けられた。男は空いている椅子に、肩にかけていた皮のケースと背中のバックパックを下ろし、ケースのジッパーを開け始めた。その動作は自然なものだったので気にならなかったが、ケースの中から出てきたものを見て、真衣は息を呑んだ。
男は取りだした銃を構えて、応接間になっているらしい部屋のガラスに向けて発射した。
轟音とガラスの割れる音が店内に空白の時間を作った。その場にいた全員が手を止め、一瞬だが息を止めた。すぐに女性の悲鳴があがった。
「はあい。みなさん。銀行強盗です。おとなしくしてください」
銀行員は訓練していると聞いたことがあるが、あの音を聞いては冷静でいられない。女性の叫び声はやまなかった。真衣の体は金縛りにあったように動かない。
男は、再び銃を構えて引き金を引いた。銃声の後、応接間の奥にある壁に穴が開いた。
二度目の銃声で銀行内は静寂を取り戻した。
「皆さん。動かないでください。動くと危ないですよ」
男はポケットから取り出した弾を素早く入れて、銃口をゆっくりと左右に振った。
「あなた」
男は一人の男子社員を指差した。
「そう。あなた。シャッターを閉めてください」
指名された男子社員は男を見詰めるだけで動かない。いや、きっと動けないのだろう。
男は銃口をその社員に向けた。
「死にたいですか」
男子社員の体がぎこちなく動いた。蒼白な顔面と揺れる視線。それでも、男子社員は入口に向かって歩を進めた。男子社員がスイッチを押すと、モーターの音が聞こえ、ゆっくりとシャッターが降り始めた。
「元の場所に戻って、床に伏せてください」
男の態度は冷静であり、威圧感はない。まるで普段の会話をしているように見えた。
「皆さんも、床に伏せて、動かないようにしてください」
男は全員に聞こえるように大きな声を出したが、凶暴な印象は全くない。
「できれば、殺したくないんです。お願いします」
真衣は椅子の前にうつ伏せで横になった。
シャッターが閉まるまで随分時間がかかったように思えた。鈍い音がしてモーターの音がなくなった。
「銀行の方は、立ち上がって、こちらに集まってください。ゆっくりとお願いしますよ」
来客用の広いフロアに銀行員が出てくる。男の立っている場所を避けるようにして、銀行員は壁際に並んだ。
「そのまま、床に伏せてください」
男は椅子の上に置いてあるバックパックを開けて、ビニール袋を二つ取りだした。
「あなた」
シャッターを閉めるように言われた中年の男子社員を指名した。
「お名前は」
「・・・」
「あなたの名前」
「工藤」
「じゃあ、工藤さん。立ってください」
工藤と名乗った男子社員は、少しよろめきながら立ちあがった。男の声は柔らかいが、最初のあの二発の銃声は十分恐怖を与えていた。
男はビニール袋から小さな袋を取り出して、工藤の所へ近づいた。
「出してください」
工藤が袋から出した物は手錠だった。
「二人づつ、一人は左手、一人は右手です。その手錠をかけてください」
男は椅子に腰を降ろして、工藤の作業を見守っていた。真衣は年配の女性と手錠で繋がれた。金属の冷たさは、自由を奪われたのだという実感を与える。それでも、無理矢理拘束されたという恐怖はなかった。作業は淡々と進む。
「御苦労さま。あなたも左手にして、伏せてください」
男は別の袋から取り出した手錠で、二人づつ椅子やパイプに固定していった。固定用の手錠は鎖の部分が1メートルほどの長さがある。真衣は近くの椅子に拘束された。座ってもいいと許可は出たが、逃げ出す時は椅子を抱えて逃げなくてはならない。
全員が拘束され、男は女子社員の前に行き、名札を確認した。
「本橋さん」
女子社員の顔が硬直した。
「抵抗しなければ、殺しません。僕の指示に従ってくれますか」
「・・・」
「どうします」
女子社員は首を縦に振るしか方法はなかった。
男はポケットから小さな鍵を取り出して、本橋と呼ばれた女子社員の手錠を外した。
「先ず、電話のケーブルを全部外してください。うるさいでしょう」
女子社員は立ち上がって、大きく息を吸った。そして、事務室の電話機から次々とケーブルを外していった。電話の呼び出し音がなくなると、他人の息遣いが聞こえるほどの静けさがやってきた。
「本橋さん。携帯、ありますか」
女子社員はカウンターの方を指差した。そう言えば、本橋という女子社員は窓口に座っていた人だった。
「では、携帯で、110番してください。銃を持った男にハイジャックされました、と伝えて、この事件を担当する電話番号を教えてくれるように頼んでください。それと、この事件の窓口になる人の携帯番号とメールアドレスを一緒に教えて貰ってください」
銀行強盗が人質にむかって110番をしろと命じる。誰だって変に思う。本橋も首を傾げた。
「お願いします」
本橋は自分の席に座り、命令に従って110を押した。
「はい。こちら、110番。どうしました」
「あの」
「どうしました」
「あの、M銀行園田支店です。銃を持った男にハイジャックされました」
「ハイジャック、ですか」
「はい」
「あなたは」
「園田支店の本橋と言います」
「今、どこから、電話してますか」
「園田支店からです」
「犯人は、そこにいるんですか」
「はい。電話するように、言われました」
「犯人から、ですか」
「はい。この事件の担当の電話番号を聞くように言われてます。それと、担当者の名前と携帯電話の番号、そして、メールアドレスを聞くようにと」
「わかりました。このまま、待ってください。切らないで下さいよ」
「はい」
警報は警察に届いていて、園田支店に異常があることは承知しているようだった。予備知識がなければ、いたずら電話だと思われるような内容の話なのに、警察は電話が現場からの電話だと判断したようだった。すぐに先ほどの警察官の声がした。
「今、調べています。状況をお聞きしたいが、話せますか」
「待ってください」
本橋は携帯を耳から離して、男を見た。
「今、調べるそうです。状況を教えろと言ってますが」
「答えてやってください」
「はい」
「答えて、いいそうです」
「犯人が、そう言ったんですか」
「はい」
「傍にいるんですか」
「はい」
「銃を持って、ハイジャックと言いましたが、人質がいるってことですか」
「はい。全部で20人くらいです。数えますか」
「いえ。どんな状態なんです」
「皆、手錠で拘束されています」
「怪我人は」
「いません」
「発砲はありましたか」
「はい。二回」
「犯人は、一人ですか」
「はい」
「何か、要求されましたか」
「いいえ」
「犯人は、どんな男ですか。男ですよね」
「若い男性です」
「その男は、どんな様子をしてますか」
「あの、すみません。もう、電話を切るように言われました。先ほどの番号は」
「もう少し、待ってください」
「もう一度、電話します。もう、切らないと」
「わかりました」
電話を切った本橋が震えているのは、真衣の場所からでもわかった。
「皆さん」
男が少し大きな声を出した。
「僕は、この銀行にも、ここにいる人にも、恨みはありません。ですから、犠牲者を出さずに終わることを願っています。ただし、警察とはチキンレースになると思いますから、その時は、残念ですが、犠牲者が出るかもしれません。チキンレースというのは我慢比べのことです。このことは、いずれ、わかります。こんなことに巻き込んでしまったことを申し訳ないと思います」
「僕は、銃を持っていますし、その鞄の中には爆発物も入っています。警察も簡単には制圧できないと思いますので、少し時間がかかります。ここから、逃げ出そうとか、僕をやっつけようなどと考えないでください」
「できるだけ、おとなしく、気長に、そしてリラックスしていただいた方が皆さんのためです。携帯は自由に使ってもらっていいです。ただし、長電話は駄目です。それと着信音が煩いから、かけるとき以外は電源を切っておいてください。トイレも、一人づつになりますが、行っていただきます。この本橋さんに手錠の鍵を渡しておきますので、彼女に言ってください。ただし、お一人五分程度で用を足してください」
「本橋さん」
「はい」
「手元に携帯を持ってないと思いますので、皆さんから携帯の場所を聞いて、渡してあげてください。できれば、充電機も。電源の延長コードも必要です。お願いできますか」
「はい」
本橋という女性社員は、窓口のリーダー格の中堅社員だと思われる。既婚者かもしれない。脅えてはいるが、この状況で落ち着いた行動は称賛に値する。
本橋が社員の携帯電話を捜して渡している間、男は窓口のカウンターの上にキャリングケースを持ちあげ、バックパックから何かを取り出して作業を始めた。
次第に電話をする声が増えてきた。真衣も家に電話をした。
「おばあちゃん」
「どうしたの」
「銀行で、ハイジャック犯に人質にされちゃった」
「なんて、言ったの」
「銀行に、強盗が来て、銀行の人も、お客も人質になって、手錠で繋がれてるの」
「嘘でしょ」
「そうよね。変だよね。でも、犯人は、電話してもいいと言ったから、皆、電話してる」
「ほんとなの」
「ほんとなの。危害はないけど、お母さんにも連絡しておいて。私は無事だって」
「そんな」
「また、電話するから」
「ちょっと」
おばあちゃんは、きっと落ち込むだろうなと思った。誰かに迷惑をかけることを特に嫌がっているおばあちゃんだから、きっと自分のせいだと思うだろう。誰のせいでもない。こんなことに巻き込まれるのは、そういう運命にある自分が悪いのだと思う。こんな出会い頭の事件に巻き込まれるのは、自分の中に何かがあるせいだと確信した。孝子母がおばあちゃんを支えてくれることを祈った。
「電話しました」
「私、携帯、苦手でね」
手錠で繋がれた相棒が苦笑いをした。
「家の番号は、何番です」
「かけてくれるのかい」
「心配するでしょう」
「電話しても、心配すると思うけど」
「ええ。そうですよね」
「もう少し、後に、お願いできる」
「ええ。いつでも」
「でも、変な強盗だね」
「はい」
「うちの息子と、同じくらいの歳なんだよ。どっかダブってね」
「そうですか」
「あんたは、学生さん」
「はい。高三です」
「受験」
「はい」
「えらい時に、ぶつかったね」
「はい」
「私、黒崎雅子」
「成沢真衣です」
「真衣ちゃん」
「はい」
「真衣ちゃんは、全然脅えてないよね」
「そんなことないですよ」
「そう見えるのは、あんたの中に闇があるからかな」
「闇」
「あるだろ。底の見えない闇が」
「そんなもの、見えるんですか」
「見えなくていいものが見えるのも、いいことじゃないけど、仕方ない。そうなんだから」
「霊能者」
「そんな悪者じゃないよ」
「悪者、ですか」
「あの男は薄っぺらのぺらぺら。ああいうのが多いね。自分の事しか考えてない。真衣ちゃんは重い重い物を背負って、それでも前に進もうとしてる。昔は、そういう人が多かった。闇はいつか勲章になるよ」
「そうなんですか」
「そうは思えないって、顔してる」
「はい」
「だろうね」
「私、死ぬんでしょうか」
「わからない。でもあの男は簡単に人を殺すだろうね。根っからの悪でもないのに、人間を殺すことに抵抗がない。そんな軽い男が増えた。なんとか、切り抜けなさい」
「ええ」
切り抜けなさいと言われても、真衣にその方策は浮かばない。自分の歩いている道は、短くて、死に直結しているだけの道なのかもしれない。短い過去を振り返れば、そう思わざるを得ない。微かな希望にすがって、受験勉強をしていたことは何の意味も持たないのではないだろうか。おばあちゃんや孝子母だけではなく、病院の母にも悲しみを残すだけの存在なのではないだろうか。明るい考えは何一つ浮かばなかった。
銀行内は次第に静かになっていった。
「本橋さん、自宅に電話しましたか」
「はい」
「もう一度、110番に電話してください」
「はい」
本橋は大きく深呼吸をして、携帯に目を向けた。
「はい。110番です。どうされました」
「先ほど電話したM銀行の本橋と言います」
「本橋さん。変わりありませんか」
「はい。お願いした件、わかりましたでしょうか」
「はい。申し上げます。何か書くもの用意されてますか」
「はい」
担当の警察官が言った内容を、本橋は手元のメモに書いていった。
「こちらの担当者が電話したいと言っているんですが、どこに電話すればいいか、聞いてもらえますか」
「待ってください」
「警察が電話したいと言ってますが」
「僕が電話しますので、それまで待つようにと、言ってください」
「はい」
「こちらから、電話するそうです。それまで待つようにと言われました」
「そうですか。あなたたちには被害はありませんか」
「はい」
「人質の方は、どうしてますか」
「皆さん、電話を終わって、静かにしてます」
「電話」
「私も自宅に電話しました」
「電話、できるんですか」
「はい。携帯の使用は自由だそうです」
「・・・」
「もう、いいですか」
「あの」
男が首を横に振っている。本橋は電話を切った。
男がカウンターを離れて、人質の群れから少し離れた。
「本橋さん」
「はい」
「ここに、来てください」
本橋は重い腰を上げるように、テーブルに両手をついて立ち上がった。
「携帯を持ってきてください」
「はい」
本橋は男の立っている場所から少し離れた場所で立ち止まった。恐怖心が目に出ている。
「大丈夫です。撃ちませんよ」
「・・・」
「ここから、写真を撮ってもらいたいんです」
「・・・」
「写メです」
「あ」
「できるだけ、僕も皆さんも、全員が写るように、お願いします」
男はカウンターの所へ戻った。
本橋は携帯を構えて、何枚かの写真を撮った。そのフラッシュが不気味に感じられる。犯人が何をしようとしているのか、誰にもわからない。そこに不気味さがあった。
「見せてください」
本橋の携帯を受け取った男が、撮られた写真を見ている。人質全員の視線が男の動作に注がれていた。
「一番目の写真にしましょう。内部の写真ですというコメントを付けて、先ほど聞いたメアドに送ってください」
「はい」
本橋が携帯の操作を始めた。
「皆さんの中に、病気の方はいますか」
「例えば、透析をする必要があるとか、注射をする必要のある重い病気です」
銀行員の中年男性が一人手を挙げた。
「何の病気ですか」
「糖尿病です」
「わかりました。他の方は、どうです」
誰も手を挙げなかった。
「メール、送ってくれました」
「はい」
「この電話は、外に繋がりますか」
「はい」
窓口の机にある電話機をカウンターの上に置き、男がケーブルを接続した。
「メモをください」
「はい」
メモには、電話番号と担当者の名前、そして携帯電話の番号とメールアドレスがきれいな字で書いてあった。
「日下部です」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「浅尾さん」
「はい。父は県会議員の浅尾弘道です。住所とか生年月日はそちらで調べられますよね」
「わかりました」
「写真は見ていただけましたか」
「見ました」
「写真を撮ってくれた人を入れると、人質は17名です。お一人、糖尿病の方がいます。長時間は難しいかもしれません。どなたか警察の方で身代りになってもいいという方がおられたら、相談に応じます」
「他の方は」
「病気の方はお一人です。皆さん、自宅への連絡はしていると思いますので、人質の方の名前もじきにわかると思います」
「あなたの要求は、何なんですか」
「僕の要求の前に現状認識をしませんか」
「・・・」
「僕は散弾銃を持っています。弾は充分な量を持ちこみました。それと、写真に写っている鞄の中に爆発物があります。稲沢の方で爆発事件があったのを知っていますか」
「小さな小屋で爆発した事件ですね」
「あれは、実験ですから、威力は小さなものです。ここにある鞄に入っている爆発物はかなりの量になります。このビルが倒れるかどうかはわかりませんが、この部屋の中の物は壊滅状態になると思います」
「ビルごと倒すということですか」
「わかりません。そのつもりはありませんけど、やってみないとわかりません。もう、特殊班の方は配置についていますか」
「特殊班」
「SATの人です」
「それは」
「いずれ、強行突入の時が来るでしょう。あなたたちには、数分の時間しかないことを知っておいてもらいたい。でないと、人質の方は全員死にますし、突入した警察官にも大勢の犠牲者がでることになります」
「どういう意味ですか」
「僕の射殺に失敗して、僕にスイッチを押す力が残っていた場合は、すぐに爆発しますが、僕が死んだ場合にはタイマーが作動し、短くて2分、長くても4分後に爆発します。シャッターを破り、人質の手錠を外し、避難する時間は2分しかないということです。2分以内に救出可能という確信があればやってください。それと、あの鞄はカウンターに接着剤で固定してあります。僕自身の射殺は、この計画の中では想定していますので、僕は納得しています」
「・・・」
「もう一つ。僕は、この事件の全てを公開しながら進めて行くつもりです」
「公開、ですか」
「人質の方にも、情報を発信してもらいますが、僕もネットを通じて公開するつもりです。つまり、あなた方警察の対応も、全て公開されると考えてください。都合のいい警察発表はできませんので、注意してください。それと、僕との連絡はできません。必要と考えれば、僕の方から連絡します。先ほど電話をしてもらった本橋さんの携帯にも電話はしないように。ここでは着信を禁止しています。あなた方の電話で本橋さんが犠牲者になっても困るでしょう」
「浅尾さんが、一人でやってるのですか」
「はい。協力者はいません。僕、一人です。これだけの情報が手に入った訳ですから、しばらく時間を差し上げます。検討してください。次に電話した時に、僕の要求を伝えます」
男は一方的に喋って電話を切った。
自分でハイジャック犯だと名乗った浅尾という男は、自分の携帯を出して、しきりにキーを押している。
「犯行声明を出しました」
「皆さんも、いくらでも発信してもらっていいです。着信は禁止しますが、発信なら電話でもメールでも自由にやってください」
暫くして、勇気ある女子社員がトイレに行った。
ハイジャックされて、2時間が過ぎた。
真衣は相棒の黒崎雅子の自宅に電話を入れて、黒崎にも話をしてもらった。
「おかあさん」
孝子母は仕事を放り出して帰ってきてくれていた。
「大丈夫なの」
「うん、今のところ、大丈夫みたい」
「私にできることは」
「西崎さんの電話番号、知ってるよね」
「うん」
「西崎さんと話した方が、いいんじゃないかと思うの」
「そうね、言うわよ」
孝子が二度繰り返して電話番号を言った。
「わかった。おばあちゃんのこと、お願い。おばあちゃんのせいじゃないから」
「うん」
「切るね」
真衣は西崎の番号を押した。
「西崎」
「おじさん。真衣です」
「おう、真衣ちゃん。話は聞いた。大丈夫か」
「今のとこ、大丈夫。おじさん、私にできることない」
「そうか。そうだな」
「着信電話は禁止だけど、こちらからはかけられる」
「わかった。十分後に電話くれるか」
「はい」


5

銀行ハイジャック事件の特別捜査本部は、M銀行園田支店の正面にある廃業したカラオケ店の建物の中にあった。西崎も捜査本部の一員ではあるが、所轄の捜査員の仕事は運転手役だった。中心にいるのは県警本部の人間ばかりであり、西警察署からは兼松刑事課長が一人だけ本部に詰めているだけだった。
駅前広場の駐車場は閉鎖され、バスの発着も別の場所に移された。駅舎の前から機動隊のバスが並べられ、臨時の歩行者通路が確保されている。駅自体を閉鎖したいところだが、まだ乗降客は臨時の通路を通って利用している。犯人は銃を持っているので、流れ弾の危険があった。
西崎は、臨時捜査本部の中に入り、課長の姿を捜した。
「課長」
「おう、どうした」
「中にいる人質と連絡がとれています。何かできることありませんか」
「誰」
「成沢真衣です」
「成沢って、あの成沢か」
「そうです」
「勘弁してくれよ」
「こちらからは電話できないそうですが、向こうからは自由だそうです」
「犯人もそう言ってる」
「もうすぐ、電話が来ます」
「あの子が、ヤバいことにならないか」
「向こうから、言ってきたんです。何かできることないかと」
「そうか。待っててくれ」
待合室だったスペースに衝立を立て、長机を持ちこんだだけの捜査本部とカラオケルームだった部屋を片付けて指令室にした部屋があるようだ。兼松課長は指令室に入ってしばらく出てこなかった。
西崎の携帯が振動した。
「西崎」
「真衣です」
「真衣ちゃん。今、捜査本部とうちの課長が話をしてる。10分でなくてもいい。電話出来る時に適当に電話してくれないか。真衣ちゃんに危険が及ぶようなことは、してはいけない。そんなことになれば、俺は孝子に許してもらえない。だから、危険がないと思われる時だけでいい。これだけは絶対に守ってくれ。わかるな」
「はい」
「長話もいけない。切るぞ」
「はい」
真衣の申し入れに食いついてしまったが、そのことで真衣を窮地に追い込んだら悔いが残る程度では済まない。突破口になりそうな状況だと、それにのめりこむ刑事の習性が他人を不幸にする場合がある。それがわかっていても、刑事は突っ込んでしまう。西崎は悩んでいた。
部屋から顔を出した課長が手招きした。
指令室には五人の男がいた。その五人の中で一番若いと思われる男の前に連れられて行った。
「警視、うちの西崎巡査部長です」
「はい。ああ、日下部です。中の人質と知り合いですか」
「はい」
「どんな人です」
「成沢真衣という、高校三年生の女子です」
「高三の女子」
「はい」
「どんな子ですか」
「どんな、と言われますと」
「頼りになりそうか、ということですよ」
「さあ、どうでしょうか」
「どうでしょうか、という程度だということですか」
「まあ」
「わかりました。兼松課長と待機していてください」
「わかりました」
課長と西崎は指令室を出て、本部になっている机の一番端に座った。
「何です、あの若造」
「そう言うな」
「あの歳で警視ってことはキャリアでしょう。あんなのに任せておいて大丈夫なんですか」
「西崎」
「手柄だけが欲しいって顔してますよ。早く東京に帰りたいだけでしょう」
「西崎。もう、それ以上言うな」
「はいはい」
「ともかく、今までの状況を説明しとく」
状況といっても、浅尾弘樹と名乗る犯人が電話で喋った内容だけだった。送られてきた写メを父親に見せて、確認は取れている。散弾銃も父親の持ち物だと推定された。人質の家族から届けられた内容により、17人いる人質の大半が確定出来た。犯人の言った内容で不審な部分は見つかっていない。ネットの掲示板に犯行声明が出たことも確認済みである。
「目的は、何なんです」
「それは、まだわからん」
「要求は」
「それも、まだだ」
「でも、この犯行は異様ですよね」
「ああ」
「人質が自由に電話してますよね。内部の写真も送ってきた。自己紹介までする犯人はありえませんよ。これは、どういうことなんです。本部はどう捉えているんです」
「まだ、何もわかっていない」
「犯人はSATのことも言ってたんでしょう。もう、来てるんですか」
「ああ」
「どう見ても、おかしい。変です」
「警視庁の特殊班が、こちらに向かっている」
「警視庁」
「ばか、声がでかい」
「はあ」
「これは、銀行強盗事案じゃない。銃と爆発物で武装した犯人が人質を取っている。もう、立派にテロなんだ。政府の危機管理室も動いている」
「テロ。犯人に何か背景があるんですか」
「それは、まだわからん。要求が出てくれば、方向は見えてくる」
「で、県警本部の特殊班は動いてるんですか。穴開けるとか、マイクを仕掛けるとか」
「いや。警視庁が来てからだ」
「もっと、でかいビルを借りなきゃ」
「どうして」
「警視庁ごと来ますよ。ここでは入りきれない」
「まあ、それは言える」
「うちの出番も県警本部の出番もなくなりますよ。地域住民とは何の関係もない連中が仕切れば、辛い立場に立つのは人質と周辺住民でしょう」
「じゃあ、うちで、何とかなるのか」
「それは」
「県警本部なら、どうだ」
「んんん」
「少なくとも、お前と俺がここにいる。交通整理してるより、いい」
「まあ」
「これだけは、言っとく。あの子に無理させちゃいかん。上がなんと言ってきても、お前だけはあの子の立場に立って判断しろ。交番勤務になっても、俺がいるかぎり元に戻す」
「はあ」
課長に言われるまでもなく、警察官という立場は二番にすると決めている。一番は成沢真衣の安全以外にない。確かに成沢真衣は頭がいいし、修羅場も体験している。高校三年生の女子生徒に過ぎない成沢真衣に重荷を、人命に関わる重荷を背負わせることはできないと思っていた。携帯が振動し、西崎は席を立って本部の衝立を出た。
「真衣です」
「真衣ちゃん。最初にルールを決めとこう」
「はい」
「先ず、俺からは電話しない」
「はい」
「安全と思えなかったら、真衣ちゃんは電話をしない」
「はい」
「電話の途中でも、真衣ちゃんの判断で電話を切る」
「はい」
「いいかい、安全の上に、安全を確保する」
「はい」
「おじさんは、全力で対応するけど、期待はしないでもらいたい」
「はい」
「ほんとは、期待しろと言いたいんだけど、期待外れは嫌だろ」
「ええ」
「今、現在、俺にできることは、何もない。だから、真衣ちゃんと俺の考えていることを統一させておきたい。そんなつもりじゃなかったと、後で後悔するの、辛いもんな」
「はい」
「先ず、真衣ちゃんの、そのままの気持ちは」
「助かりたい。私だけじゃなく、皆が」
「ん」
「ここで、死んじゃったら、酷くない」
「ひどい」
「おばあちゃんもお母さんも応援してくれているから、私、大学に行きたい」
「ん」
「おじさんなら、わかるよね。私が大学に行けるなんて、驚きでしょう」
「ああ」
「だから、おじさん。助けて。三度目の正直なんて、嫌だからね」
「ん」
「実はね、こんな風に思っている自分が、不思議なの。生きていたい、という本音がよくわかった」
「ああ」
「それだけ」
「ん。わかった。今度は、おじさんが、どう思っているか、だけど、電話、まだ大丈夫か」
「一度、切る。しばらくして、電話する」
「わかった。いいか、絶対に無理はするな。絶対に」
「はい」
西崎は廊下を歩き回った。まるで檻の中の熊だったが、本人は周囲に気を使うほどの余裕はなかった。
「西崎」
「真衣です」
「今度は、おじさんの正直な気持ちだ」
「うん」
「犯人の様子はどうだ。イライラしてるとか、緊張してるとか」
「そんな風には見えない。とても、落ち着いてる。どちらかと言うと、楽しそう」
「そうか」
「歌でも歌いそう」
「やっぱり、変だよな」
「へん」
「犯人は、今、犯罪行為の真っ最中だろ。警察が取り囲んでることもわかってる。落ち着いてる場合じゃないはずなんだ。それに、人質の真衣ちゃんは、こうやって自由に外部と電話をしてる。警察が欲しがる内部の写真も、犯人が送ってきたし、自己紹介までしてる。どう考えても、変」
「そうだね」
「なぜ、犯人は、こんなことしてるのか。自分にとって利益があると考えるのが自然だろ。そこに、きっとこの事件を終わらせるヒントがあると思ってる。それが何なのか、さっぱりわかってないけどな」
「うん。変ね」
「真衣ちゃんには、俺の目になって欲しい」
「わかる。一寸、待って。電話するみたい。切るね」
「ああ」
西崎は急いで本部の中に戻った。

「はい。日下部」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です」
「質問がある」
「質問は、受け付けません。それでご不満なら、電話を切ってください。僕は、交渉先を警察以外にしてもいいんです。例えば、テレビ局とか」
「・・・」
「どうしますか」
「質問はやめる」
「では、先ほどの人質交換の件からですが、どうしますか」
「交換したい」
「そうですか。では、その方の電話番号をお聞きします。この電話が終わり次第、直接本人と打ち合わせします」
「すぐに調べる」
「わかりました。では、最初の要求です。もうすぐ昼になります。人質の方のために昼食を差し入れていただきたい。コンビニのおにぎりは駄目ですよ。そうですね、近くの民家の方にお願いして、手製のおにぎりにしてください。17名分です。食事に薬を仕込むという話を聞いたことがありますが、人質を眠らせても意味ないですよね。僕は自分の食料は持ちこんでますから、差し入れの食料は食べません。飲み物も用意してください。何か問題ありますか」
「いや」
「では、二つ目の要求です。現金を用意してください」
「現金」
「金額は、500億円です」
「500億」
「M銀行の本社に連絡してください。新札でも旧札でもいいです。できれば、帯封があった方がいい。受渡し場所は、この銀行の前です。明日の朝、9時まで待ちます。この電話、録音してますよね。繰り返し聞いて、間違いのないようにお願いします」
「無理だ」
「その無理を通すのが、あなたの仕事です。お願いします。先ほどの電話番号は」
電話番号を伝えると、電話は一方的に切れた。
録音された電話内容が、すぐに捜査本部の部屋でも確認された。これでは、警察の窓口が子供扱いされたようなものだった。警察内部の肩書だけで交渉人になった日下部警視は何の役にも立っていない。一秒たりとも犯人から主導権を奪えないまま、素直に要求をお聞きしただけだった。
「課長」
「ん」
「警視庁に任すしか、ないようですね」
「ああ」
指令室から、初老の男が出てきた。不機嫌な顔を隠そうともしていない。
「兼松課長」
「はい」
「昼食の手配、お願いできますか」
「はい」
男は肩を落としたまま、指令室に戻って行った。
「あれは」
「刑事部の斎藤次長」
「お気の毒に」
「ああ」
兼松課長が自分の携帯電話を取り出して、衝立の外に出て行った。西崎も課長の後ろについて出た。17名分のおにぎりを依頼している。
「誰に頼んだんですか」
「米屋の井川」
「友達」
「いや、遠いけど親戚だ。せめて、いい米を食べてもらいたいじゃないか」
「まあ、そうですけど」
「俺は、一度署に戻る」
「はあ。まずいでしょう」
「昼食の手配のためだ。西署の代表は、お前だ」
「課長」
「課長命令だからな」
課長は平然と出て行った。確かに居心地のいい捜査本部ではないが、管理職としては戦列放棄に等しい。真衣との電話がなければ、自分が飛び出していたかもしれない。
一時間後に課長が戻ってきた。その間に真衣から二度電話があったが、すぐに切った。あまり頻繁に電話をしていると、何がおきるかわからないという心配があった。
捜査本部の机の端に座っているのは西崎だけじゃない。兼松課長と同年代と思われる地味な男が誰とも口をきくこともなく座り続けている。
「まだか」
「ん」
「そうか」
課長が声をかけて、男の肩を叩いて西崎の横に戻ってきた。
「誰です」
「県警本部の三河警部補だ。人質の身代わりに志願した」
「ああ」
「昼飯の電話はまだか」
「まだだと思います。用意は」
「できた」
「持っていく時、俺も行きます」
「いや、いい。細川を連れて行く」
「そうですか」
誰かの携帯電話が鳴った。マナーモードにしていない警察官がいることに驚いた。
「はい。三河です」
少し離れた場所で三河という警部補が電話に出ている。暫く、返事をしていたが、立ち上がって指令室に入って行った。
「兼松」
「はい」
本部の斎藤次長が出てきた。
「三河に食事を運ばせる。犯人の指示だ。入口まで一緒に行ってくれ」
「はい」


6

西崎と連絡していることで、真衣の気持ちは落ち着いている。何かが変わるようなことはしていないが、外部の人間と繋がっていることは、自分の中に籠らずに済む。犯人が昼食のことで指示を出していた。同時に人質の交換が行われるようだ。銀行員の男性が糖尿病だと言って手を挙げた時、他の銀行員が驚いた様子をした。糖尿病だということを誰も知らなかったという印象だが、あの男は嘘をついているのだろうか。
犯人が自分の携帯電話を手にして、プッシュボタンを押している。
「今、どこにいますか」
「銀行の前です」
「横に通用口のドアがありますので、そこまで移動してください」
「わかりました」
「電話は切らないでください」
「わかりました」
少し人質の間に緊張があった。
「ドアの前にいます」
「お一人ですか」
「はい」
「鍵を開けます。強行突入をすると犠牲者が出ることになりますよ」
「わかってます。そんなことはしません」
「ドアを開けて、荷物を入れてください」
犯人はドアの鍵を開けると、ドアから離れ、携帯をポケットに入れて銃を構えた。
中年の男性がビニール袋を四つと小さな段ボールを二つ、ドアの内側に持ちこんだ。
「ドアを閉めてください」
「はい」
「本橋さん」
「はい」
「その人の手錠を外してあげてください」
本橋が銀行員の男性の手錠を外した。人質がトイレに行く度に手錠を外しているので、慣れた手つきになっている。
「あなたは、外に出てもらって結構です」
銀行員は何度も何度も頭を下げて、出て行った。
「三河さん」
「はい」
「そこに座ってください」
「本橋さん。その人に手錠を、お願いします」
人質交換作業は、何の問題もなく終了した。
「三河さん」
「はい」
「武器は持ってませんか」
「持ってない」
「マイクはどうです」
「ない」
「調べて、出てきたら、面倒なことになりますよ」
「わかってる」
「そこに、うつ伏せになってください」
三河は素直に横になった。犯人は、片手でゆっくりと体を調べていく。
「仰向けになってください」
三河が体を反転させた。
「口を開けてください。少し痛いですよ」
犯人は銃口を三河の口に押し込んで、体を調べた。
「靴を脱いでください」
三河が脱いだ靴を、犯人はドアの外へ放り投げて鍵をかけた。
「三河さん。命令で来たんですか。それとも、志願したんですか」
「もちろん、志願して来た」
「そうですか。あなたの勇気に敬意を表します。何かあれば、あなたが最初の犠牲者になることを承知で来た、ということですね」
「そうだ」
「ここだけのルールを説明します。電話の着信は認めませんが、発信は認めています。ただし、あなたは警察官なので、携帯は没収します。トイレは、彼女に言って手錠を外してもらって行っていただいて結構です。時間は短くお願いします。すぐには解決しないと思いますのでリラックスしてください。以上です。携帯を」
携帯を受け取った犯人は定位置にしているカウンターの向こうの席に戻った。
「本橋さん。皆さんに食事を配ってください」
昼食はプラスチックケースに入った三個のおにぎりと漬物。誰もが無言で食べた。空腹だっただけではなく、おにぎりと漬物が美味しかったからだが、人質の心に余裕があったことが最大の原因だった。人質でありながら、外部との繋がりが断たれていない。銃と爆発物と手錠に拘束されているのに、切迫感は少ない。そこには不思議な空気があった。
真衣もおにぎりを二つと漬物を食べて、ペットボトルのお茶を飲んだ。犯人は自分で持ち込んだ物を食べていたようだが、何を食べていたのかは見えなかった。
銀行の男子社員が、手を挙げた。
「すみません」
「どうしました」
「たばこを吸ってもいいですか」
それを聞いた真衣は、お前は小学生か、と思った。
「我慢してください」
「駄目ですか」
男子社員は落胆した様子で肩を落とした。
西崎が「なんか、変だ」と言っていたが、真衣もその思いが強くなっている。犯人の意図はどこにあるのだろう。爆発物を用意し、自分の食事も用意している。犯人の計画は時間をかけて充分に練り上げられたものなのだろう。落ち着いているし、焦る様子は一度も見せていない。
食事の匂いが残る中、犯人が席を離れて近づいてきた。
「佐々木さん」
「はい」
銀行の女子社員の前で、屈みこんだ犯人が女子社員の胸の名札を見て声をかけた。
「本橋さんの代わりをやってもらえませんか。本橋さん、かなり疲れてます」
「・・・」
「おねがいします」
「はい」
女子社員が小さな声で返事をした。
「本橋さん。御苦労でした。佐々木さんと交代してください」
「はい」
犯人に言われて気付いたが、確かに本橋という社員の顔には疲労が浮き出ていた。それに気づく犯人は誰よりも先を走っている。犯人の後ろ姿だけを見ていたのでは、何も見えてこないのではないだろうか。
世話係の交代が終わった。
「犯人さん。質問してもいい」
相棒の黒崎雅子が手を挙げた。
「あなたも、たばこ、ですか」
黒崎は苦笑いをして首を振った。
「何です」
「私にも、あなたと同じ年頃の息子がいるんです。だから、あなたのことが心配で」
「で」
「目的は、何」
「・・・」
「どうして、こんなことしたの」
「犯行目的と犯行動機ですか」
「あなた、死ぬ気でしょう。死んじゃったら、誰にもわからなくなる。皆に知っておいて貰った方がいいんじゃないかと思うの」
「そうでもないです。どっちでも、いいみたいな事ですから」
「そう。でも、私は知りたい。私たち、死ぬかもしれないのよね。冥土の土産に持っていきたいじゃない」
「お土産は、なしってことで」
「寂しいわね」
そこで、黒崎雅子は口を閉じた。まだ手荒な事をしていないからといっても、相手は立派に銀行強盗だし、銃も持っている。親戚の男の子と話をするような訳にはいかない。横に座っている真衣の方が緊張していた。
犯人は自分の席に戻り、下を向いている。その手元は見えないが携帯電話を操作しているように見えた。
人質は来客者が5人と銀行の社員が11名、そして警察官が1名の17人だった。真衣は人質の様子を観察した。来客者は真衣と黒崎、年配の男性が1人と中年の女性が2人の5人だ。きっと商店街の人達なのだろう。銀行の場合、なぜ社員と言わずに行員と呼ぶのか不思議だったが、真衣の目には普通の会社員に見える。男性社員が3人と女子社員が8人。銀行というのは女性の職場なのだとわかる。電話してる人もいれば、メールをしている人もいる。食事をした後で、うとうとしている人もいた。絶体絶命の場所に閉じ込められているにもかかわらず、時間の流れはゆったりとしていた。
「佐々木さん」
「はい」
「あのテレビは、使えるんですか」
「はい」
「ニュースが見たいんですけど、お願いできますか」
「はい」
佐々木がリモコンを使ってテレビの電源を入れ、音量を上げた。NHKのニュースが始まる時間だった。最初のニュースが銀行ハイジャック事件のことだった。まだ、詳しい発表はなかったようで、事件が起きているということを伝えるだけのニュースだった。
浅尾弘樹と名乗った犯人は、興奮した様子もなくテレビを見ていた。
「佐々木さん。音を落としてください」
「はい」
「時々、他の局もチェックしてくれませんか」
「はい」
犯人がネット上に犯行声明を出しても、テレビ局がそのまま電波に乗せることはできない。犯人の浅尾は警察に宣言したように、事件の推移を掲示板に載せている。それでも、その投稿が犯人のものと特定できなければテレビ局は取り上げることはできない。ネット上には犯行声明らしきものや、犯行予告ともとれる投稿がいつも存在する。警察発表でもないかぎり、投稿の信憑性を証明することはできないのが現状だった。マスコミに突き上げられるような格好で警察は事件の存在を認めたという段階なのだろう。じきに、マスコミの取材班が東京から押し寄せてくる。現地の映像が送れるようになれば、テレビはハイジャック事件一色に染まることになる。

冷房が使えないので、捜査本部の中はうだるような暑さだ。持ちこんだ扇風機も熱い風をかき回すだけでは室温を下げることはできない。西崎は建物の外に出て、煙草を手にした。西崎の仕事は冷房の効いたオフィスでするものではないので、暑さには慣れていたが本部の中は熱すぎた。少し離れた場所にある園田不動産のビルを借りる交渉が行われている。東京のエリート連中をあのカラオケハウスに閉じ込めれば、それだけで県警本部は辛い立場に立たなければならないという判断があったようだ。自分の管轄内で起きた事件を別の人間が指揮する。決して気分のいいものではない。警察官である自分が言うのも変だが、大きな事件が少ない西警察署管内に特別捜査本部ができるのは珍しいので、自分の家に警察が踏み込んできているような不快感があった。
犯人の浅尾弘樹の父親は県会議員だが、母親は浅尾建設の社長をしている。園田不動産は、その浅尾建設の系列会社らしい。
人の動きが忙しくなった。捜査本部の移動が始まったようだ。日下部警視が全速力で走りだした。犯人からの電話がいつ来るかわからないので、電話回線の切り替えも一瞬でしなければならないし、窓口の日下部警視も瞬間移動をするぐらいでなくてはならない。
「西崎。行くぞ」
兼松課長に声をかけられて、西崎は煙草をもみ消した。
「課長。電車は」
「じき、だろう」
JRに交渉して、全列車が園田駅を通過するように依頼している。隣の駅との間はバスで結び、事態が更に悪化すれば電車は折り返し運転になる。近くの住民の避難は、西署の大半の人間が出て誘導した。駅前に残るのは警察官だけになるだろう。二次被害がでれば、県警本部上層部の首が飛ぶことになる。
「嵐が来る」
「・・・」
「警視庁の次には、東京からマスコミの集団が来る」
「ありゃりゃ」
「県警本部も総員出動だろう。マスコミ対策だけでも大変だ」
「そういえば、さっき大きなカメラ担いだ奴がいましたよ」
園田不動産ビルの前に車列が止まった。西署の交通課が後続の車両を誘導している。
「警視庁が来たな」
「はあ」
園田不動産ビルの二階会議室が捜査本部の指揮所になった。西崎と兼松が二階に行った時には、すでに幹部による捜査会議が始まっていた。ドアの外を特殊班と思われる黒装束の一団が上の階へと駆け足で通り過ぎた。
「戦争ですね」
「戦争だろ」
「そうは思えませんけど」
「どうして」
「ここは、東京のど真ん中じゃありません。重要施設がある訳でもない。地方の、ごく普通の田舎町ですよ。こんな町でテロは似合いません」
「過剰反応だと思うのか」
「いいえ。銃と爆発物ですから、過剰だとは思いませんが、テロではないと思います」
「どうして、そんなことが言える」
「さあ、どうしても、ですかね」
「この事案でも、西崎の勘は通用するのかな」
「さあ、わかりません」
「嫌な予感がするんだ」
「駄目ですよ、課長の悪い予感は」
「わかってる」
「金は用意できるんでしょうか」
「まだ、わからない。あの会議が終わったら確認しとこう」
「500億でしょう。意味わからない」
「金を持って高飛びするつもりでないことだけは確かだな」
「この犯人のやることは、訳わからんことばかりですよ。いちいち、気に入りません」
「捜査本部は後追いになってる。先を読まないと、いつまでも追いつけないかもしれん。警視庁に期待するしかないがな」
「ええ」
「西崎。先を読め。警視庁も県警本部も所轄に何かを期待してるってことはない。それは、本部の方針から外れていても文句言う奴がいないということだ。俺たちは俺たちの捜査をする。お前の言う田舎刑事の意地みたいなもんが役に立つかもしれん」
「課長。管理職がそんなこと部下の前で言っちゃまずくないですか」
「大丈夫だ。証人はいない。もっとも、俺が言わなくても、お前はそうするだろ」
「そうですけど、上司が唆すのもどうかと思います。懲罰もんですよ」
「お前もな」
「煙草、吸ってきます」
「ああ」
犯罪者に共通すること。それは必ず嘘をつくということだ。小さな犯罪でも大きな犯罪でも、自分を有利にするために巧妙な嘘をつく。長年犯罪者と向き合ってきた西崎は、そのことを知っている。この事案の場合、犯人は特定されているのだから、警察は犯人と対峙していることと同じだ。取調室か立てこもりの差は無視しよう。犯人は、どんな嘘をつこうとしているのか。それが、まだ見えない。
「西崎」
「おう」
警察学校で同期だった柿崎という男で、二人とも優等生ではなかった。名前が似ているので、落ちこぼれの代名詞になったのが両崎という呼び名だった。教官も「西崎と柿崎」と言わずに両崎とよんで説教した。柿崎はいつの間に習得したのか、上司に取り入る術を身につけて、県警本部の刑事課に所属している。
「なんで、お前がここにいる」
「本部の待機班だ」
「へえ。お前が、ね」
「何、やってる」
「俺はネット担当だ」
「それが、そうか」
「持っていくとこだ」
「俺にも、一部くれ」
「ほんとに、本部にいるんだろうな」
「一緒に行こう。うちの課長も上にいる」
「わかった」
柿崎は会議中の幹部に一部づつ配布し、残りを空いている机の上に置いて、西崎に頷いて見せた。しっかりした野郎だ。資料を手渡すのではなく、机の上にある資料を西崎が取れば、柿崎の責任にはならない。警察学校にいた頃は純粋な若者だったのに、いつのまにか世渡り上手になっている。昇進試験も無難にこなし、今は警部補殿だ。試験を苦手とする西崎は一生巡査部長のままだろうと自分で確信している。少しは見習わなくてはならない。
「犯人の書き込みだそうです」
西崎は一部を課長に渡した。事件の経過が細かく書き込まれている。その内容には自分を有利にするような誇張も嘘もない。つまり、つけ入る隙がないということだ。
真衣からの電話は、およそ30分に一度の割合で来ているが、真衣を励ます言葉だけで終わっている。犯人からの連絡もなかった。ただ、特殊班の動きは慌ただしく、何かが進行している。
警察は第一段階として説得を試みる。説得に関しては粘り強く試みる。だが、それはあくまでも試みるのであって、結果が出るかどうかは相手次第になる。ただし、この事案に限っては現在まで説得は行われなかった。
警察が事件発生から終結まで一貫して考えているのは強行突入のことである。強行突入のために可能な限りの情報を収集し、最も有効と思われる手段を取り、果敢に行動を起こす。その時、人質の安全は最大限考慮されるが、考慮ばかりしている訳にはいかない。総合的判断という言葉で納得が得られる状態になれば、強行突入は実行される。そんなことは西崎にもわかっていた。
巨大な車輪が回り始めている。所轄の刑事にできることは限られている。真衣を救いだせるという、根拠に乏しい自信は時間と共に削られていく。犯人に主導権を握られたままでは、人質の救出など願うこともできない。まだ、見えていない犯人の嘘を見つけなければ何もできないということだった。
犯人が使用した電話も、最初に110番をしてきた本橋という女子社員の携帯も繋がらない。犯人からの電話を待つだけという状態は決して好ましいものではない。幹部の中には拡声器を使うべしという意見もある。「お前は完全に包囲されている。武器を捨てて出てきなさい」と拡声器で叫んだところで、効果があるとは思えないという意見が大半だったし、犯人の両親には説得する意志もない。三階にいる特殊班の検討結果次第で、一気に強行突入に踏み切るという決断もあるのではないかと思われた。
電話が鳴った。
「はい」
「ハイジャック犯の浅尾弘樹です。日下部さんと声が違いますね」
「楠木と言います。今からは私が窓口になります」
「どうぞ。人質の方の夕食の依頼です。六時にもう一度電話しますのでよろしく」
「浅尾さん。少し話できませんか」
「それより、現金の方はどうですか。問題ないですよね」
「全力でやってますよ。どうして・・・」
電話は切れていた。すぐにかけ直したが応答はなかった。
斎藤次長が兼松課長の方を見て、頷いてみせた。課長は軽く会釈をして立ち上がった。人質の食事の手配は所轄の仕事だと課長も納得している。コンビニ弁当を差し入れるようなことはしたくないと思っているらしい。人質にとっては最後の食事になる可能性もある。その食事がコンビニ弁当では申し訳ないと思っているのだろう。
所轄の二人は指揮本部のオブザーバーのような立場にあった。会議には参加できないが、同じ部屋にいることはできる。必要に応じて指示に従う、便利屋みたいな存在だった。二人一緒に部屋を離れることはできないが、一人残っていれば部屋の出入りは自由なので、喫煙者の西崎にとっては都合のいい立場だった。
捜査本部全体の指揮を取っているのは、警視庁の西原警視正という風采の上がらない中年男性だが、実際に捜査を動かしているのは楠木という若い警視だった。
「主導権は、現在のところ犯人側にあります」
楠木警視の話し方は落ち着いていて、県警本部の日下部警視に比べると信頼できそうな感じがした。
「その主導権を我々の方に持ってくるための努力が必要だと思っています。そのためには、犯人について、よく知っておく必要がありますし、犯人の弱点を掴むことです」
このキャリアは、若造のくせに捜査がわかっていると西崎は思った。犯人の弱点を掴むことで主導権は変わる。どんな犯罪にも共通することだった。
「一度、犯人についてわかっていることを整理してみましょう。斎藤次長、お願いできますか」
日下部警視を指名せずにベテランの斎藤次長を指名する知恵も持っているようだ。
「はい」
日下部警視の方を心配そうな視線で見た後、斎藤次長が話し始めた。
「犯人は、浅尾弘樹、29歳です。父親は県会議員、母親は浅尾建設の社長です。男ばかりの三人兄弟で浅尾弘樹は末っ子です。一番上の兄は父親の秘書をしており、次兄は浅尾建設の専務取締役をしています。本人は、高校中退で、過去も現在も職業についたことはありません。現住所はK市の加美町です。両親とではなく、祖父母と一緒に暮らしていました。5年前に祖父が、2年前に祖母が亡くなり、現在は加美町で一人暮らしです。加美町は、ここから電車で20分の場所です。高校中退の理由はわかっていません。友達は多くありませんでしたが、いじめ等はなかったと言っています。突然学校に来なくなり、それ以降は一度も会ったことがないそうです。ただ、加美町での聞き込みでは、ひきこもりになっていた様子はなく、祖父母と一緒に花の栽培をしていたようです。近隣の人は、おとなしい男だと言っています。銀行強盗など想像できないそうです。祖母も、優しい孫だと言って可愛がっていたと聞きました。ただ、両親との折り合いは悪いようで、両親の方でも息子の説得に力を貸す気は全くありません」
「高校中退と両親ですね。犯人の弱点は。どんな両親なんですか」
「はい。父親は婿養子で、母親は浅尾建設の二代目社長です。浅尾建設はN県では大手建設会社で、商売も手広くやっています。傘下に貸金業もあり、我々は暴力団との癒着もあると思っています。犯人が住んでいる祖父母の家は、父親の実家になります」
「農具小屋の爆破がありましたが、その加美の近くですか」
「すぐ近くではありませんが、車で15分程度の場所です」
「土地勘はあったということですね」
「はい」
「両親と息子の関係、そして、高校中退。更に深く捜査をしてください」
「はい」
「特殊班の検討結果によりますが、人質救出にとって一番の障害は爆発物です。それとネットです。犯人は克明に事件の推移を投稿しています。基本的に犯人の投稿内容については否定もしくは無視しますが、世間が騒ぐことは避けられません。ですから、警察は一枚岩でなくてはなりません。皆さんの協力が必要です。お願いします」
黒装束の男が部屋に入ってきた。
「紹介します。警視庁警備部特殊班の佐伯警部です」
「佐伯です」
「どうです」
「難しい、です」
「問題は」
「我々はあのビルの3階を借りて、救出シミュレーションをしましたが、2分で人質救出を終わらせることはできませんでした。4分でも難しいでしょう。これは、訓練ではありませんので、人質がどんな行動に出るか予測がつきません。爆発音や銃声の中で、人質が冷静な行動を取るとは想像できないからです。食事に睡眠薬を入れて、人質を眠らせた状態で突入した方が成功の確率が高くなります。それでも、この時間の制約は厳しいと考えます。最悪の場合、人質も我々警察も、多くの犠牲者を出すことになります」
「内部の映像は」
「はい。2カ所からの映像がとれるようになります」
「犯人を瞬時に無力化することは、可能ですか」
「はい」
「爆発物の起爆装置に、犯人の言うような装置を組み込むことは」
「本庁の方で検討してもらっていますが、不可能ではないと言われました」
「そうですか。更に検討してください」
「はい」
黒装束の男は厳しい表情で部屋を出て行った。
「さて、犯人の目的がわかっていません。どなたか、意見はありませんか」
会議は静まりかえった。
「身代金が目的ではありませんよね。現状では、何の対策もとれません。犯人の後追いをしていては、主導権をとれないということです。是非、皆さんにも知恵を絞っていただきたい。お願いします」
指揮本部の会議は終わり、個別の打ち合わせが始まった。
お友達になりたいというタイプではないが、指揮官としては合格点を出してやってもいいかもしれないと西崎は思った。それにしても、犯人は何を隠そうとしているのだろう。



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