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陽だまり 4 [陽だまり]


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紺野奈津は悩みながらも取り調べには応じてくれた。異例ではあったが、恭介は病院での取り調べを主張して譲らなかった。紺野奈津が自殺をしないという確信は持てていない。帰宅優先組の恭介が一週間も帰宅しなかったのは結婚して初めての出来事だったが、重大事件の最前線にいる夫を恭介の妻は励ましてくれた。
国選弁護人の鬼塚律子弁護士とは、話し合いをした。警察と弁護士の間にまともな話し合いができると思っていなかった鬼塚弁護士も恭介の熱意を認めてくれた。
「あなた、変わった警察官ね」
紺野奈津と鬼塚弁護士の間にも、微かだが、信頼関係ができたようだった。
拘留期限を取れるだけ取り、納得のいく調書が作りたい。それが、警察官としてできる最大の誠意だと思うことにしている。
拉致監禁されていた3年間の取り調べには、強靭な精神力を必要とした。供述を聴く立場の恭介と佐竹も、毎日のように落ち込んでしまい、取調室になっている病室は暗雲に覆われたような空気が澱んでいた。
「的場さんも男ですよね。同じような願望があるんですか」
佐竹は男を敵視し始めているのか、余り口をきいてくれない。
「勘弁してくださいよ」
「私、男なんて、信用ならないと知りました」
反論をすれば、余計に溝を深めることになりかねない。決してタフな警察官とは言えない恭介には、どの場面も大きな試練だった。
目黒署で取り調べを受けていた須藤洋平は、傷害で検察に送られ、起訴も確定しているようだった。三浦を拉致する時に殴ったことだけが、須藤洋平と紺野奈津の供述を根拠に立証されただけで、他の犯罪は立証できなかった。物的証拠は全くない。自供に頼るしか方法はない。警察にとっては扱いに困る事案だった。
警察は四番目と五番目に殺害が予定されていた裁判官と国交省の役人からも、任意で事情聴取をおこなった。二人は常連だったが主催者ではないので、二人からは多くの情報は取れなかった。ただ、既に社会的制裁は受けていたようだ。二人とも、職を辞し、離婚調停の最中である。又、三宅組にも捜査が入り、二名の女子の行方が捜索されたが、何も出てなかった。名前も年齢もわからない。紺野奈津が知っているのは、二人の女子の泣き声と叫び声だけだった。坂東と三浦は若い時からの趣味仲間ではないかと紺野奈津が言っているが、二人とも死亡しているので確認はできていない。
秋吉管理官の指示で捜査内容がリークされ、必殺処刑人は無差別殺人に見せかけるために犯人が仕組んだもので、そのような犯罪集団は存在していないという内容の週刊誌の記事が出た。ネットの騒乱を抑える目的で行われたリークだが、犯人逮捕がなければ、必殺処刑人が独り歩きをする危険があったのだから、政治家や警察トップは胸を撫で下ろしたことだろう。
紺野奈津は3件の殺人で起訴が決まった。物的証拠はなく、状況証拠と自白なので、公判の維持に関して検察は難色を示したが、これだけ大きな事件を不起訴にすることはできない。しかも、求刑は20年と決められている。独立性を公言している検察にとって、政治的配慮や超法規的措置は、検察のプライドを損なうものであったが、受け入れざるを得ない状況はわかっていたのだろう。
警察の仕事は終わった。紺野奈津の身柄は拘置所に移される。心配なのは、恭介の手の届かない所へ行くことだった。「できるところまで、やってみます」という言葉を信じるしかない。恭介は秋吉管理官に頼んで、異例の要望書を東京拘置所へ書き送った。

拘置所という所へ移された。そこは、いわゆる牢獄であった。病院のベッドと違って圧迫感があり、閉じ込められていることを実感した。殺人犯として逮捕されたのだから、当然のことだったが、最初は戸惑いをおぼえた。しかし、一人で畳の上に座っていると不思議な安心感がある。身近にナイフもない。もう、誰も殺さなくてもいい。終わったのだと思うことができた。机の上に置いてある身の回り用品。差し入れてくれたのは身元引受人になってくれた叔母だった。余りにも遠い記憶なので、叔母の顔は漠然としている。自分では勝手に天涯孤独だと思っていたが、的場刑事から叔母の言葉を伝えられ、差し入れてくれた物を見ていると、胸がざわつく。
人間の想像力が現実の前では、なんの力も持っていないことを思い知らされた。あの監禁部屋を逃げ出せたら、別の生き方が待っていると想像していた。しかし、現実は苦しみを増幅させただけだった。体が恐怖を憶えている。それは、現実の恐怖より大きかった。男たちに対する憎しみも大きくなった。だから、五人の男を殺すことで、恐怖を克服しようと思った。それなのに、男を殺す度に殺人の恐怖が大きくなり、二種類の恐怖を抱えてしまう結果になった。恐怖に押し潰され、逃げ場を失くし、自分すら失くした。残された道は一つだけ。自分で自分の命を絶つ。その思いが強くなり、ナイフを自分の胸に刺す時を待っていた。あの時、九鬼が死んだ時に、自分も死んでおくべきだった。逮捕など、あってはならない。捕らえられて、死を選ぶことも出来なくなれば、恐怖や苦痛が永遠になると信じていた。だが、実際に逮捕され、病院で自分に戻った時に感じたのは、安堵感だった。思い悩むことに何の意味もないことを知ってしまって、先のことを考えて悩むことを止めようと思ったのも、あの病院のベッドの上だった。笑ってしまった。自分の人生を笑ったことで、多くの事が意味を無くしてしまった。だから、私は抜け殻。今は、生きたいとも死にたいとも思っていない。そんな気がする。九鬼や須藤、そして、的場刑事と佐竹刑事の気持ちを暖かいと感じている。だが、それに答える方法を知らない。もしかして、私はもう死んでしまっているのだろうか。考えるのは、やめよう。
拘置所の職員が窓越しに、面会が来ているが、どうするのかと聞いてきた。
「北村千恵さん。叔母、となってる」
「叔母さん」
「どうする」
「はい」
叔母は身元引受人になってくれたそうだが、殺人犯と関わりを持てば、叔母やその家族に迷惑がかかるのではないだろうか。返事はしたものの、体は動かなかった。
「今日は、帰ってもらおうか」
「ええ」
「何か伝えることは」
「いえ」
少しだけ拘置所の生活に慣れた。一週間が短いように感じた。そんな時、佐竹刑事が面会に来た。
「刑事さん」
「どう。元気」
「ええ」
「今日は、警察官じゃなくて、友達として来たの。私達、友達、よね」
「ええ」
「叔母さんに、会わなかったんだって」
「ええ」
「そう」
「私のせいで、迷惑してるのに」
「そう」
「会えません」
「そうかな。私、自分の母親に聞いてみたの。私が殺人犯になったら、どうするかって」
「・・・」
「関係ないんだって。娘は娘だって。あなたの叔母さんも一緒だと思う。会ってあげればいいのに。顔を見れば、叔母さん、きっと、安心してくれると思うな」
「ええ」
「詳しくは話せなかったけど、少しだけ話した。叔母さん、可哀そうにと言って、泣いてた。もう少し、待ってあげてくれるように、言っておいたけど」
「ええ」
「少しは、慣れた」
「はい。皆さん、親切にしてくれます」
「よかった」
「佐竹さん。病院では思い出せませんでしたけど、世話係のおばさんの名前」
「ええ」
「ばんば、みちという名前だったと思います。どんな字を書くのかは知りません」
「そう。ばんばみち。調べてみる」
「はい」
困ってることはないか、要る物はないかと聞いてくれた。ただの愛想で言ってくれているのではないことは、佐竹の目でわかる。
的場刑事は20年と言っていたが、やはり死刑になるのだろうか。だから、こんなに親身になってくれるのだろうか。自分で先の事を想像しないことにしたので、死刑のことも考えていない。受け入れることが出来るかどうか自信はないが、その時に考えようと思っている。でも、まだ、月に一度面会に来てくれる叔母に会う踏ん切りはついていなかった。
拘置所生活も三カ月になり、自分の住み家だと思えるようになってきた。記憶を失うことも無くなった。鬼塚弁護士に差し入れてもらった教科書で自習している。中学も高校も行けなかった。勉強の目的はないが、一日一日が過ぎていけばいいと思っている。ノートに自分で作った詩を書き始めた。明るい詩を書いていると自分でも明るくなれるような気がしてくる。子供時代の幸せだった風景を思い出しても、心が乱れない。両親の事も思う。もうこの世にいないことが実感できていないせいか、二人はいつも笑顔だった。もう、辛かったことは封印しようと思っていた。
叔母が面会に来た。三度も断っている。これ以上は断れない。奈津は面会室に向かった。
ドアを開けると、プラスチックの仕切り板の向こうに、中年の女性がいた。13年振りだったが、一目で叔母だとわかった。
「なっちゃん」
叔母が椅子から立ち上がった。
奈津の目の前が揺れていた。声が出ない。支えられるようにして椅子に座ったが、叔母の顔から目が離せなかった。ぼやけて見える叔母の目から、大粒の涙が落ちていた。
「よかった。よかった」
呪文のようなつぶやきが聞こえる。叔母は母と似ていた。姉妹なのだから当たり前かもしれないが、母を見ているようだった。奈津は大声で泣いていた。叔母もつられたように声を出して泣き始めた。叔母の胸に飛び込みたかったが、仕切り板一枚だけど、もう世界が違っていることを噛みしめるしかなかった。
奈津は謝ることしかできなかった。話は何もしていない。叔母は、よかったと言い。奈津は、ごめんなさいと言うだけ。それでも、叔母の目が、奈津の全てを受け入れてくれている。奈津は、ごめんなさいと言った。

鬼塚律子は東京地裁に向かっていた。連続刺殺事件の公判前整理手続きが開かれる。劇的な犯人逮捕から一年、世間はすっかり忘れ去っているが、当時は大騒動になった事件だった。弁護人が国選になった経緯はわからない。女性の被告の場合、鬼塚に振っておけばいいという単純なことなのかもしれない。鬼塚はDVの専門弁護士と言われている。だから、普段は被害者側に立つことが多い。数は多くないが、DVの結果が事件になった時は事件の加害者の立場に立つことになる。弁護士会は口止めされているようだが、この話の筋書きを描いたのは警察ではないかと、最近、漠然と感じていた。
鬼塚律子は自分の事務所を開いてからでも20年が過ぎた。過去に何度か国選弁護人を引き受けたことはあるが、久しぶりであった。
被告人の名前は紺野奈津。三人の男を殺害して、殺人罪で起訴が決まっている。殺人罪に普通の殺人はないが、紺野奈津の場合も悲惨な事件だった。長い拘留期間を病院で過ごし、接見の回数も限定された。警察官には珍しく、柔らかい刑事の口車に乗ってしまっただけなのかもしれないが、詳しく話が聞けたのは拘置所に移送された後だった。話を聞けば聞く程、その悲惨さにはやり場がなかった。いつも思う。どうして、女は女であることで、悲惨な経験をしなくてはならないのか。どうして、女は、これほど司法に無視され続けているのか。どうして。どうして。どうして。いつも、そう思っていた。
「物証はなし、ですか」
「ええ、これだけ状況証拠があれば、いらないでしょう。自供もしっかりしてる」
担当の占部検事は平然と答えた。検事は金太郎あめと同じ。どの検事も自分が世界を支配しているのだと言う強い自負を表に出す。鬼塚に好き嫌いはないが、唯一、検事だけは好きになれない。それは、思い出すこともできないほど昔に検事との恋に破れたためではない。法廷での人間蔑視の姿勢が許せないのだ。態度に出すまいとしているようだか、成功していないことを彼らは知っているのだろうか。
「どうです。鬼塚弁護人。量刑の評議ということで、いいですかね」
真面目で、気の弱そうな山本裁判官が、小声で聞いてきた。
「鬼塚さんは、無罪の主張がお好きだから、また、無罪ですか」
占部検事が、薄笑いをしながら言った。嫌な奴。
「ボイスレコーダーは」
「殺人には直接の関係はありません。必要ないので、外しました」
共犯となった男の裁判では、ボイスレコーダーを利用したのに、今度は無視するようだ。
「弁護側の証拠として、出しますよ」
「どうぞ、ご自由に」
採用する証拠で協議は紛糾した。検察は自分に都合のいい証拠だけを提示採用する。それは今回の裁判に限った事ではないが、隠れ証拠が司法を歪めているという実感を拭いきれない。再協議をすることで合意したことだけが収穫といえば収穫だった。事件の内容から憶測していた譲歩は、無いものと覚悟しなければならない。感触から言えば、検察は死刑を求刑してくる。無罪を主張して戦うことができるのかどうか、自信はない。被告人に自供の全面否定をさせることができれば、戦いになる可能性はあるが、勝つ見込みは非常に小さい。この裁判は情状酌量で争うことが最善だと考えていた。
被告人の紺野奈津がこの裁判をどう捉えているのか。まだ、その本音は掴めていない。鬼塚は拘置所に紺野奈津を訪ねた。
「体調は」
「はい。大丈夫です」
「そう。今日は少し突っ込んだ話をしたいと思ってるんだけど、いい」
「はい」
「裁判、始まるけど、あなたは、どうしたいの。無罪なの」
「わかりません」
「検察は死刑を求刑してくる。情状酌量されても無期懲役が限界。死刑か無期かの裁判になると思う。それで、あなたは、いいの」
「わかりません」
「そう。私は、あなたを犠牲者だと思ってる。何らかの責任は取らなければならないと思うけど、それは死刑でも無期でもないと思う。無罪を主張して戦ってもいいけど、可能性は限りなく小さいという覚悟がいる。あなたは、自分が、有罪だと思う」
「わかりません」
「そう。困ったわね」
「あの」
「ん。なに」
「的場さんと、話、してもらえませんか」
「的場さんって、警察の」
「はい」
「どういうこと」
「わからないんです。困った時は相談に乗ると言ってくれたんです」
「警察、ね」
「ごめんなさい。自分でも、わからないんです」
「そう。あり得ない話だけど、一度会ってみようか。あの刑事さん、変わり者だから」
弁護方針が立たないまま裁判になってもいい結果が出る筈はない。無駄を承知で的場刑事に会うことにして、その足で目黒署に向かうことにした。
電話番号を調べて目黒署に電話をすると、的場刑事は待っていると言ってくれた。
通された会議室には、的場刑事と少し年配の男が待っていた。
「ご無沙汰しています。先生に来ていただけるとは思いませんでした。何かあったんですか」
「いえ。そうではなくて、紺野さんが、あなたと相談してくれと言うから。弁護士が警察に相談しにくるのも変だけど、被告人の要望だから」
「そうですか。紹介します」
紹介された男は目黒署刑事課の野本課長という上司だった。
「紺野さん、何か困ってるんですか」
「ええ、まあ。私が困らせてるのかもしれません。裁判のことになると、わからないという返事しか返ってこないんです。ほんとに、どうしたらいいのか、わからないみたいで、どうしたらいいのか。そしたら、彼女が的場さんの名前を出したんです」
「裁判のこととおっしゃいますと」
「彼女の場合、死刑か無期かの裁判ではいけないと思うんです。だったら、無罪を主張するのか。でも、彼女は自分のこととして捉えていないのか、わからないと言うんです。あなたと彼女の信頼関係に私が到達していないと言うことなのかもしれないけど、彼女と何か約束でもしたの」
「それは、今のままでは、死刑か無期かの裁判になると言うことですか」
「ええ。検察はそのつもりのようです。でも、本当の被害者は彼女ですよね。全く責任を取らなくていいとは私も思っていませんが、死刑は許せません。もしかすると、無罪を主張した時に、自供の全面否定をすることで、的場さんとの約束を破ることを心配してるのかしら。何か、約束したの」
「いえ。僕が紺野さんと、話をしてみても、いいですか」
「それは、いいですけど」
「死刑の話は、公判前整理手続きで検察が出してきたんですか」
「はっきりとは、言いませんが、私はそう受け取りました」
「そうですか。明日にでも、会いに行かせてもらいます」
「そう」
「結果は、先生に必ずお知らせします」
「わかったわ」

恭介は玄関まで鬼塚弁護士を送り、会議室に戻った。
「課長」
「管理官は席にいるそうだ。行ってきてくれないか」
「はい」
紺野奈津の情報は最大限集めていたので、公判前整理手続きが行われたことも知っている。
検察は約束を破ったということなのか。信じられない。
恭介は本庁の静かな会議室で20分待たされた。
「確認が取れた」
部屋に入ってきた秋吉管理官は、恭介の情報が正しかったと確認したようだ。
「正式なルートですか」
「まさか」
「こちらから、念押しはできないのですか」
「敵は確信犯だな。裁判の論告求刑で死刑を求刑しておいて、既成事実にするつもりだ。その時点までは約束を破ったことにならない。抗議して謝られても、後の祭りだよ」
「あの時の検事、確か、石橋検事でしたよね。私が会いに行っても駄目でしょうか」
「石橋検事は、だいぶ前に飛ばされた。後任の検事に、そんな話は知らないと言われればそれまでということだ。一年前の口頭での約束。どこにも文書は存在していない。裏取引なんだから当然だけど、その気になれば破るだろう。彼らに実害はない。警察の一部の人間が抗議してきても、申し訳ないと言えば済む。あの時にあった社会不安はもうないのだから、何でも出来る気になってるのだろう」
「それは」
「わかってる。警察は完全にコケにされている。いいか、的場君。ここからは、全て裏の話だから、そのつもりで聞いてくれ。表向きでは、検察と警察は協力して社会秩序を維持するために職務に邁進している組織である。このことには、いささかの揺るぎもあってはならない。だが、裏では、そんな仲良し倶楽部ではない。闘争はいつでも続いている。警察としては、指を咥えて見ているつもりもない。向こうが喧嘩を売ってきた。買うしかない。君は家族の安全のために戦う必要に迫られている。私達もここで負ければ、影響が大きい。上層部の面子もある。奴らが、最後には、求刑を20年にせざるを得ないと考えるようにしなければならない。そのためには、あらゆることをする覚悟がいる。出来るかな」
「もちろんです」
「君のキャリアに傷がつくかもしれない。最悪の場合、交番勤務になることもある。それでも、やってくれるか」
「はい」
「鬼塚弁護士にアポイントをとっておいてくれ」
「これから、ですか」
「少し、急がなければ」
「はい」
二人はタクシーで神田にある鬼塚法律事務所に向かった。小さな貸しビルに事務所はあった。
「本庁の秋吉管理官です」
「あら、お偉いさんの直々のお越しですか」
「秋吉です。先生の裁判は一度拝見いたしました。見事なものでした」
「いつ」
「DVの被害者が殺人事件をおこした裁判です」
「ああ、あの裁判。私は結局、何の役にも立ちませんでした」
「そんなことありません」
「で、今日は」
「お願いがあって、来ました。微妙な話になりますので、できましたら」
「ああ、ここには、しゃれた応接室はないんです。書庫でよければ」
「それで結構です」
「そう、それじゃ、そこの椅子を持ってついてきてください」
三人は自分のパイプ椅子を持って、階段で五階に上がった。そこは、言葉通りの書庫で、書類の山だった。狭い空間に三つの椅子を置いて、話が始まった。
「結論から申し上げます。紺野奈津の裁判で、20年、いや16年以下の判決を引き出していただきたい」
「16年」
「この的場君が全面協力します」
「これは、当然、非公式の話ですよね」
「はい」
「驚いた。でも、可能性があるのなら、私に異存はありません。説明していただけますか」
「ありがとうございます。先生、勝手なことばかり言って申し訳ありませんが、この話、裁判の後ではなかったことにしていただけますか」
「口外無用と言うことですね」
「はい」
「いいでしょう。被告人の利益になるのなら」
「すみません。最初からお話します」
秋吉は事件解決の経緯を話し、検察との裏取引の話もした。もちろん、恭介の家族が危険に晒されることも含めて。
「警察の持っている情報は、全て開示します。証人として的場君を召喚していただいても結構です。嘘の証言はできませんが、事実を隠すことはありません。検察は都合のいい証拠しか出してこないでしょう。先生には事件の全貌を掴んでいただき、16年をもぎ取っていただきたい」
「そこまでする理由は、的場さんの家族のためですか」
「最大の理由は、そうです。それと、約束を破ると、どうなるか。それを知っておいてもらいたい。これは、基本のルールですよね」
「ええ」
「あの事件で、四人目の犠牲者になる予定だった男は裁判官です。検察もこのことを知っていますから、裁判官への圧力はかけてると思いますが、先生が知ることで裁判官への圧力はなくなります。それと、これは検察には知らせていない情報ですが、番場メモというものがあります。事件が片付いた後で紺野さんが思い出してくれたことです。そのメモには耽幼会へゲスト参加した人物の名前があります。その中には、検事もいますし、政治家、学者、その他にもいろいろな職業の人がいます。もちろん、弁護士もいます。これも、表に出していただいて結構です。明日から目黒署が裏をとります。紺野奈津の供述も全て見ていただきます。それは悲惨な過去です。彼女が死刑や無期懲役になるのはおかしいと思います」
「こんなことして、あなたたちの立場はどうなるんです」
「もちろん、ダメージはあります。でも、16年を取れなかったら、もっと大きな被害が生じることになるんです。的場君は仕事より家族を大切にする、刑事としては変わり種です。そして、残念ですが優秀な刑事です。警視庁には、いや、警察には彼のような優秀な人材が数多くいます。警察と言う組織はそれで成り立っているんです。私の役目はそういう警察官を守ることなんです。検察の裏切りくらいで、警察官を無駄死にさせたくない。どうしても、先生には勝っていただかなければなりません」
「そう。警察と二人三脚なんて初めてですから、戸惑います。それと、お二人ともお話が上手。全面的に信用したわけじゃありませんが、利害は一致するわね。私は弁護士ですから、被告人の利益になるのなら、全力でやります。利害に不一致があった時は、考え直します。それでいいですか」
「もちろんです」
「それと、聞いてはいけない話ばかりのようですから、私の記憶には裁判の終了と同時にその記憶が消滅する時限装置をセットしておきます」
「ありがとうございます」
「実はね、弁護方針が立てられなくて困ってたんです。これで、少し先が見えてきました」
「この件は、ごく少数の人間しか知りません。打合せは的場君とお願いします」
「はい。変わった刑事さんだと思ってたんです。愛妻家なんですか」
「はい」


11

連続刺殺事件の裁判は裁判所の予定より二カ月遅れて始まることになったが、簡単に決まったわけではない。目黒署が番場メモの捜査をする時間を稼ぐために鬼塚が引き延ばしを図ったのも遅延の要因だった。弁護側の抵抗が主な原因だったので、裁判官の心証も悪い。それでも、鬼塚は簡単に妥協するつもりはなかった。
公判前整理手続きでは、争点は量刑に絞るということで合意した。弁護側は、ぜひ裁判員裁判にする必要があった。証拠に関しても、ボイスレコーダーを弁護側の証拠として認めてもらい、それ以外は検察の意見を受け入れた。弁護側証人として警察官を召喚する件では、若干の抵抗があったが、証拠の大半が自白によるものだから、調書を作成した警察官に質問するのは当然のことだと裁判官も認めてくれた。ただ、日程調整は紛糾した。明らかに裁判官は検察寄りに見えた。
鬼塚は集合時間の前に裁判所に出向き、四人目のターゲットは裁判官だったそうですね、とさりげなく爆弾を投げた。その一言で事態は大きく変わり、弁護側の意見を取り入れた日程に落ち着いた。
裁判初日は雨だった。それでも傍聴人は詰めかけ、抽選倍率はそれなりの数字を示した。それでも、一年前の必殺処刑人騒動に比べれば非常に大人しい反応だと言える。
被告人の紺野奈津は落ち着いた様子で、傍聴席に目をやるゆとりもあった。鬼塚の目から見ても、紺野奈津は大きく変わったと写っていた。相手を思いやるような眼差しが印象的だと思っている。本来の紺野奈津は優しい人間だったのだろう。裁判で傷つかないで欲しいと願っていた。
人定尋問、起訴状の朗読、罪状認否。検察は死刑と言う言葉は出さなかったが、強い口調で極刑に値すると断じた。刑法の極刑なのだから死刑以外にないのだが、そこまでの自信は検察にもないのだろうと鬼塚は解釈した。被告人は起訴内容を全面的に認めた。法廷内は、どこか緊張感に欠けたざわめきがあったが、裁判員の緊張だけは解けていない。裁判長の指名を受けて鬼塚が立ちあがった。日程調整で一番苦労した部分だが、裁判の方向を決めるためには、どうしてもこの一時間は必要である。立ちあがった鬼塚は法廷内に静けさが戻るまで待った。
「これから弁護人が一時間にわたりお話するのは、被告人尋問で明らかにすべきことですが、時間の制約がありますので要約させていただくものであります」
「さて、裁判員の皆さま。大変、緊張されていることと思います。人間が人間を裁く。緊張しないで、と言う方が無理でしょう。あなた方が死刑という判決を下した時、被告人は実際に絞首刑により命を絶たれることになります。これは、模擬裁判や空想の世界の出来事ではないのです。死刑囚の中には、暴れたり、泣きわめいたりする方もいると聞いています。そして、量刑を決めるということは、皆さんが決めた時間、人間の自由を奪い、刑務所に閉じ込めるということです」
「皆さんは、重い役目を背負わされました。どなたも、自分なりに納得のいく判断をしたいと願っているものと思います。裁判が終わった後に、法廷では明らかにされなかった事実があった時、そのことを知っていたら、自分の判断は違うものになっていたという後悔はしたくないと思うのではないでしょうか」
鬼塚は裁判員、一人一人の顔に視線を送った。
「先ほど、検察官が起訴状を朗読しました。規則に従って作る起訴状ですから、少しわかりにくい部分もあります。簡単に要約してみましょう。被告人は殺人計画を立て、殺人訓練をし、殺意を持って、三人もの人間を殺した。しかも、その発覚を防ごうとして架空の犯罪者集団を作り上げ捜査の撹乱を図った。更に、逮捕後も殺された被害者に対する謝罪の言葉はない。つまり、殺害計画、殺意、多数殺人、犯行隠蔽、無反省。被告人は極悪非道な殺人鬼としての要件を完璧に満たしていると断じているのです」
法廷内に張りつめた空気が生まれ始めていた。弁護人が検察の意図を裁判員に解説するなど、もってのほかの行為だった。
「そうして、被告人は、その訴状に対して、反論もなく認めました。弁護人も検察官の訴状には、何の瑕疵もない、事実だと思っております」
「検察官は、五年前に遡り、犯罪という一本の木を見事に描いてくれました」
「弁護人は、これから、皆さんに、森を見ていただきたいと思っています。その森の中には検察官が描いてくれた木もあります。裁判員の皆さんには、この大きな森を見て、一本の木の正邪を判断していただきたいと思います」
「弁護人は、事件の13年前まで遡ります。被告人は当時中学一年の少女でした。父親は紺野建設という会社を経営し、母親はその会社の専務として働いていました。被告人は社長令嬢として、さぞ優雅な生活をしていたのだろうと思いましたが、紺野一家は貧しく質素な暮らしをしていたそうです。なぜならば、自分たちの生活より困っている人を助けてしまう悪い癖があったと周囲の人が言っています。とびきり優しい、いや、優しすぎる家族だったと、いまだに慕ってくれている人が大勢います」
「父親の経営していた紺野建設はある大手ゼネコンの下請け会社として、仕事もありました。発端は、その大手ゼネコンの社内規則の変更にあります。変更の結果、紺野建設は直系の下請け企業の基準から大きく外れる立場になりました。そのゼネコンの社員だったのが、三番目に殺害された三浦さんでした。紺野建設はゼネコンから約一億円の借り入れをしていました。それは、会社と会社の貸借ではなく、三浦さん個人の力で、別名目で出資していたお金だったんです。なぜ、三浦さんがお金を融通したのかは、後ほど聞いていただく録音にありますが、紺野建設からの二千万円のキックバックにありました。中小企業が生き残るためには、親会社の意向は絶対のものです。親会社の担当者の提案を断る勇気のある社長はいないでしょう。断れば、明日から仕事は無くなるのです。紺野社長も二千万円を三浦さんに渡しました。ところが、親会社の社内規則の変更により、突然、三浦さんは融通していた一億円のお金を取り戻す必要に迫られたのです。紺野建設としては、仕事があり、時間があれば返すことのできるお金でしたが、即座に用意できる金額ではありません。しかも、仕事はなくなるのです。でも、三浦さんは、その一億円を何が何でも回収しなければなりません。結果的に横領になってしまうからです。会社での出世街道を走っていた三浦さんには選択の余地はなかったのでしょう。そこで、思いついたのが経営者保険です。その保険金を返済資金にしようとして、三浦さんは社長夫婦に自殺を強要したんです。社長夫婦の保険金が合わせて一億円だからです。誰でも、はい、そうですかと言って自殺などしません。当たり前です。そこで、三浦さんは被告人を拉致したのです。娘は育てるから、死んでくれ、と言うのが三浦さんの発想でした。これは、立派に営利誘拐だと思うのですが、結果的に社長夫婦は自殺をしました。今となっては、その詳細はわかりません」
鬼塚は水分補給のために、そこで話を切ったが、法廷は静まりかえっていた。
「その時に、保険金の受取りや会社整理に協力してくれたのが、最初に犠牲となった本間弁護士です。紺野建設の整理で得た金額は一億五千万円だったようです。三浦さんが紺野社長との約束を果たすのなら、五千万円は被告人の養育のために使われるべきものでしたが、その五千万円を、三浦さんは本間さんと二人で分けたのです」
「三浦さんも、本間さんもこの事件の被害者ですから、弁護人は、あえて、敬称をつけて話してきました。事件にならなかったら、立派な市民なんでしょうか。非常に抵抗を感じながら敬称をつけていることもわかってください」
「皆さん、これは酷いと思っていますよね。でも、このことが被告人の殺害動機になったのではありません。被告人が殺人という手段に訴え始めた時点では、被告人はこの事実を知りませんでした。両親の自殺は知っていましたが、なぜ自殺したのかを知ったのは、三浦さんの告白を聞いた時なのです。では、なぜ、被告人は、人殺しを始めたのでしょう。そのことをお話しする前に、悲惨な話が苦手な方は退席されることをお勧めします」
「では、少し我慢して話を聞いてください」
「三浦さんには、他人には知られたくない特殊な性癖がありました。ロリコンとSMを合体させた趣味です。少女に暴力をふるい、少女を犯す趣味です。三浦さんは、家を借りて、そこに被告人を監禁しました。足に鎖をつけて、逃亡を防ぎました。死なれては困るので、管理人を雇いました。なぜ、死なれたら困るのか。楽しみがなくなるからです。この場では、とても暴行の具体的内容を話せません。暴行だけではなく性交も常軌を逸したものだったそうです。まだ、中学一年の少女ですよ。当初、被告人は自分の身に何が起きているのかさえわかりませんでした。生傷は絶えません。十分な手当てをしていないので、傷は残ります。被告人の体には、13年経った今でも傷が残っています。女性なら、人前では決して見せたくない体でしょう。弁護人は写真で見ただけですが、泣きました。暴行や性交の話を聞いただけで、私は体の震えが止まりませんでした」
「余りにも苦しくて、辛くて、何度も死のうとしました。でも、残念ですが、死ねませんでした。泣いても、叫んでも、三浦さんの暴行は終わりません。抵抗すればするほど、相手が喜ぶのだと知った時、被告人の心のどこかで糸が切れたそうです」
「でも」
鬼塚は、ティッシュを出して鼻を拭いた。
「でも、それは、地獄の始まりに過ぎなかったんです」
「類は友を呼ぶ、という言葉がありますが、同じ趣味を持つ坂東さんが参加してきました。坂東さんは二番目に殺された人です。次に本間弁護士も参加しました。被告人と同じ奴隷の女の子も二人増えました。顔を合わせたことはなかったそうですが、叫び声と泣き声で、別の女の子が二人いたと証言しています。三人の変態さんは、耽幼会という秘密クラブをつくり、ゲストを参加させるようになりました。その数は推定でも数百人です」
「生き地獄は三年続きました」
「生理中の女性を好む男もいるそうで、三人の少女は365日休みなしです。本物の少女を本気で暴行できるのは、日本で唯一、耽幼会だけだと豪語していたということです」
「私は、この話を、被告人が、今、どんな気持ちで聞いているのかと思うと、胸を締め付けられます。了解はもらっていますが、とても、苦しいです」
「ある日、被告人は逃亡に成功します。16歳になっていました。もう、立派に大人の女性です。雨の中、バスタオル一枚で、裸足で、逃げました。Kさんという方の裏庭で倒れているところを、Kさんに助けられました。高熱を出しながら、病院に行くことを拒んだそうです。何よりも連れ戻されることが怖かったのです。Kさんの献身的な看病で、事なきを得ましたが、あの場で死んでいた可能性もあったのではないかと思っているそうです。全身傷だらけの全裸の女の子に事情が無いはずはありません。Kさんは被告人を遠くから見守っていてくれたそうです」
「Kさんは、五年後に亡くなりました。亡くなる一年ほど前に、Kさんは闇の戸籍を手に入れ、被告人を入籍させました。それは、生活能力に不安のあった被告人に家と財産を残すためでした。結婚しましたが、最後まで男女の関係にはなれませんでした。彼女は恐怖症になっていたのです。Kさんの誠意に対して、なにもできない自分が情けなかった。何もない彼女は自分の体で応えたいと思いましたが、体が震え、硬直し、何もできませんでした。二度とセックスのできない体になっていたのです。Kさんは馬鹿なことは考えるなと言ってくれたそうです。俺に恩返しがしたいのなら生きろと言われました。憎しみを糧にしてでも生きろ。それがKさんの最後の言葉でした」
「その後、彼女が何をしたのか。それは、先ほど検察官が述べてくれた通りです。その続きを話しましょう」
「被告人はナイフを投げて、相手を倒します。手にしたナイフを相手の心臓に差し込む訳ではありません。それなのに、ナイフが肉を裂き、めり込んでいく感触が手に残るそうです。殺人の感触が彼女を苦しめることになりました。暴力に苦しめられ、その苦しみを克服したいと思った被告人は、殺人という暴力を使ったことで、新たな苦しみを生みだしたのです。なぜ、被告人が、これほどまでに苦しみを背負わなくてはならないのですか。そして、今、この法廷は彼女を裁き、三つ目の苦しみを、彼女の背中に乗せようとしている。なぜ、なんです。私には、理解できません。法律って、そんなに偉いんですか」
「終わります」
静寂の中で、裁判長が休廷を告げた。
午後の法廷は証人尋問で始まった。証人は弁護側が申請した目黒警察署の刑事課、的場恭介巡査部長だけだった。
鬼塚は供述調書に関する質問を何点かした。公判前整理手続きでは、調書作成者への質問をすることになっている。
「調書によれば、被告人の殺害予定は五人になっていましたか」
「はい」
「私の見た調書には、その記述はありませんでした。弁護人の見ていない調書があるということでしょうか」
「自分には、わかりません」
「そうですね。後で検察官に尋ねてみます。三人殺害されていますので、殺害されなかった人が二人います。その二人はどこの誰かは、わかっているのですか」
「はい」
「捜査をされたのですか」
「はい。事情をお聞きしました」
「その人は、どのような方ですか」
「異議あり」
検察官が大声を出した。
「弁護人はこの事件には関係のない個人情報を引き出そうとしています」
「裁判長。私は、どのような方かと聞いています。せめて、職業ぐらい教えてもらってもいいと思いますが、何か不都合がありますか」
「あの。それは」
裁判長は言葉を濁すだけだった。
「もう一度、お聞きします。個人情報の漏洩に当たらないように、お二人の方の職業を教えていただけますか」
「はい。お一人は裁判官で、もうお一人は国土交通省の官僚の方です」
「裁判官と官僚」
「はい」
検察官の顔色が変わった。異議を申し立てたのは、証言台にいる警察官に、余計なことを喋るなという意味だったのに、警察官は何の抵抗もなく証言した。警察は検察の下部組織だと思っている検察官にとっては、あり得ないことが起きていた。
「弁護人が被告人から聞いた話では、その二人が足繁く通っていた常連で、暴力も酷かったのでターゲットにしたと言ってましたが、そのことも調書に記述しましたか」
「はい」
「その調書も弁護人は見せてもらっていません。私が見ていないということは、裁判員の方も見ていないということです。裁判員も弁護人も守秘義務があるのですから、見せていただかなくては困ります。では、耽幼会の管理人をしていた女性の名前を知っていますか」
「はい」
「捜査をされましたか」
「はい」
「調書はどうされましたか」
「提出してあります」
「その方を、ここでは仮にBさんとしましょう。Bさんはゲストの名簿を持っていたらしいという話をききました。そのようなものはありましたか」
「はい」
「異議あり。弁護人は本件に関係のない質問をしております」
「弁護人。そうなんですか」
「耽幼会の管理人は多くの事実を見聞きした人物です。どこが関係していないのか理解に苦しみます」
「質問を続けてください」
「はい。その名簿には何人の名前がありましたか」
「およそ、400人です」
「個人の特定はできたのですか」
「いえ。特定ができたのは、約120名だけです」
「では、どのような方がおられたのでしょう」
「異議あり。個人情報の保護からも、不要な質問です」
「裁判長。弁護人は、先ほどと同じように、職業だけをお尋ねします。それ以上の事は質問いたしません」
「職業だけですね」
「はい」
「続けてください」
「的場さん。どのような職業の方たちですか」
「あらゆる職業と言えます」
「例えば」
「政治家とか」
「教師もいましたか」
「はい」
「その他には」
「俳優もいました」
「まさか、お坊さんは、いませんよね」
「いえ。おりました」
「えっ。でも、まさか、検事さんはいないでしょう」
「おりました」
「えっ、ありえません。それなら、警察官もいたのですか」
「はい。残念ながら、いました」
「と言うことは、当然、弁護士もいたんですね」
「はい」
「裁判官の方は」
「被告人の殺害のリストにあった一人だけです」
「そうですか。弁護士は何名いましたか」
「三人です」
「検事は」
「四人です」
「おやおや、その人たちは、少女に鞭を振るったり、ろうそくを垂らしたりしてたわけですか」
「話をしてくれた人は、そうだったようです」
「ありがとうございました。これ以上お聞きすると、吐き気がしますから止めておきます」
検察官は反対尋問をしなかった。
「裁判長」
「弁護人」
「従来から、度々問題になっていますが、検察側の情報統制は度を越しています。裁判員や弁護人が見ることもできない証拠が多すぎます。これで、正しい判断をせよというのには無理があるのではないでしょうか。ぜひ、証拠の全面開示を命じていただきたい」
「努力します」
裁判長の煮え切らない態度に法廷がざわついた。
「では、被告人質問に移ります。検察官」
「ありません」
「ひっ。よろしいのですか」
「はい」
「では、弁護人」
「ありません」
「ええと、では、その、今日の審理は以上で」
「裁判長」
「あ、はい」
「裁判員の方が何も質問されませんけど、裁判長のご指示があるのですか」
「いえ、そのようなことは、その都度、確認しておりますから」
「わかりました」
「では、今日はこれで閉廷とします、明日は」
裁判長の話は誰も聞いていなかった。検察官も書類を片付けているし、廷史も立ちあがっている。傍聴人はさっさと席を立って出口に向かっていた。
鬼塚は法廷を出ていく紺野奈津の後姿を見ていた。何度やっても裁判は疲れる。しばらく弁護人席で腰を落ち着けた。これで16年が勝ちとれるのか、不安がいっぱい。裁判員の無反応が気掛かりだった。
法廷の出口で的場刑事が待っていた。
「お疲れ様です」
「あなたも」
「明日、秋吉が来ます。法廷内で二人で談笑したいと言ってます。握手も」
「へえ。デモンストレーション」
「そのようです」
「あの方は、策士ね。私は、そういうの、好きな方じゃないけど、16年取るためだったら何でもするわよ。キスしろと言われれば、キスもする」
「そう、伝えておきます」
「馬鹿ね、冗談よ」
「わかってます」
「あなたとなら、考えてもいいわよ」
「自分は遠慮しておきます」
「そうよね」
変な警察官だと思っていたが、鬼塚は的場と一生友達付き合いをしてもいいと思うようになっていた。秋吉は的場の事を刑事としての力もある男だと言っていた。遠い、遠い、また、その昔、鬼塚にも青春時代があった。的場のような男が、この世に存在しているのなら、結婚を諦めるべきではなかったのかもしれない。たまたま、恋をした相手が人間としても最低の男だったことで、その反動で仕事にのめり込んだ自分が間違っていたとは思いたくないが、男を見る目がなかったことは確かなことのように思える。

公判三日目は、弁護人の最終弁論と検察官の論告求刑、そして評議を経て判決が言い渡される。傍聴人も増え、マスコミの騒ぎも大きくなっていたが、鬼塚はマスコミの力を信用していなかった。マスコミに笑顔を振りまいても結果はついてこない。法廷内で結果を勝ち取ることが弁護士の仕事なのだ。インタビューにも無言を通した。
鬼塚は、開廷の30分前には自分の席に着くことを習慣としている。最終弁論だけなので、持ち込んだ荷物は少ない。ファイルの最終ページに草案はあるが、一字一句、頭の中に叩き込んだ。見る必要もないが、念のため目を通した。視線を感じて傍聴席の方を見ると、秋吉が軽く会釈をしている。検察官の席は、昨日より人数が増えていた。楽しそうな顔もないし、話し合う様子もない。そっくり、そのまま、お通夜の席に移せば、いい演出になること間違いない。いつ見ても、好きになれない集団だった。
鬼塚は立ち上がって、傍聴席との柵に近づいた。秋吉管理官は声を落として話し始めたが、それは昨日、法廷の出口で的場と打ち合わせした時の話題だった。
「的場君とだったら、キスもありなんですか」
「あの馬鹿」
「彼にとっては、衝撃的だったようですよ。尊敬する先生に言われたもんで」
「冗談に決まってるでしょう」
「ともかく、先生、もうひと押し、お願いします」
「もちろん」
二人は固い握手をして離れた。
傍聴人にはわからないだろうが、この裁判は過去の裁判とは違っていた。いつもは裁判官と検察官が腕を組み、見えない場所で警察官が支えている。その最強軍団に弁護人が挑むのが常だが、今回はその構図がなかった。裁判官も検察官も、我が身が第一。しかも、バックアップの警察官が弁護人と人前で何かを相談をしている。誰にも見えない場所でいろいろな思惑が飛びまわっている様子は、司法関係者の暗闘と言っても過言ではない。
開廷され、弁護人による最終弁論が始まった。
鬼塚弁護士は立ち上がったが、法廷内が鎮まるのを待った。
「弁護人は、裁判員の皆さんに森を見ていただきたいとお願いしました。それは、裁判員の皆さんの良識と良心に、この裁判を委ねることが最善の道だと信じたからです」
「法曹三者という言葉があります。裁判官、検察官、弁護人のことです。今回の事件では、法曹界そのものが事件に関与しています。もちろん、この法廷におられる方々は、私も含めて、この事件に関与していないと信じております。いえ、信じたいと思っております。あってはならないことが、現実に起きたのです。耽幼会という秘密組織に関与していた人間の大半が、いまだに解明されていません。この法廷にいる裁判官、検察官、弁護人がその中に含まれていないという確証はないのです。そんな不確実な法曹三者に人間を裁く資格があるのでしょうか」
「例えば、検察官には求刑する資格がありますか。裁判官には判決を言い渡す資格がありますか。いいですか、加害者が被害者を裁こうとしているんです。これは、独裁者にしかできないことです。私達は独裁者の手先なんですか。この事件は他人事ですか。違います。現実にこの被告人を虐待し、弄び、苦しみのどん底に突き落としたのは、私達なんです。その被告人の罪だけを取り出し、他の事には目を瞑り、裁いて、そのどこに正義があるんです。法律だから、ですか。規則は正義より優先されなければならないのですか」
「正義より利益。正義より規則。誰かのためより自分のため。社会が疲弊し、未来の見えないこの国の中で、せめて、司法だけでも、正義の最後の砦として、踏みとどまることは、無駄なことなのでしょうか。少なくとも、弁護人は無駄ではないと信じています。時代遅れの愚か者と言われるかもしれませんが、我々司法従事者が投げ出してしまえば、もう、後ろには何もないのではありませんか。裁判員の皆さん。裁判が終わっても、正義の味方になってもらいたい、と言っているのではありません。せめて、裁判員として司法の一員でいる間だけでも、正義のために戦っていただけませんか。あえて、愚か者になっていただけませんか。弁護人は無茶なお願いをしているのでしょうか」
「そもそも、なぜ、検察はこの被告人を起訴したのですか。検察はこの事件の全容を知りながら、起訴をしたんです。これを傲慢と言わずに何と言うのです。あなた方は神ですか。それとも、独裁者ですか。コンベアに乗って運ばれてきた案件を自動的に仕分けて、何も考えずに起訴したのですか。コンベアに乗っているは人間ですよ。あなたがたには、不起訴の選択肢もあったんです」
「起訴状の内容を思い出してみてください。その内容は、被告人に罰を与えることだけが目的としか思えない内容でした。その目的のために情報を隠蔽し、真実を隠し、検察の自己満足を充足するためだけの裁判をしようとした。その目的は一体何なんですか。検察の威信のためなんですか。この事件を起訴したことで、検察の威信は大きく傷つきましたよ。本当の目的が別にあるのなら、ぜひ教えていただきたい。それとも、あなた方には、この被告人を裁く資格がまだあると考えているのでしょうか」
「弁護人は、ここであらためて、裁判官と検察官にお願いします。どうか、良識と良心を取り戻していただきたい。法曹界の常識は、良識と良心を担保するものではありません。人間としての尊厳を取り戻していただきたい」
「裁判員の皆さん。弁護人としては、皆さんに託すことしかできません。もし、皆さんの中で耽幼会に関わったことがある方がおられたら辞退していただきたい。そして、司法に代わり評議をお願いしたい」
「さて、ここで、誤解を招かないように、もう一つ、別の側面からの意見を言わせていただきます。弁護士も司法の一端を担っています。ですから、社会秩序の維持に関しては責任を持たねばなりません。皆さんも、私的な報復や復讐が認められていないことはご存じだと思います。それを許せば、社会が収拾のつかなくなる大混乱に陥るからです。被告人は、三人の人間を殺してしまいました。殺されても当然と思われる男ばかりですが、社会秩序の維持という観点から、敢えて、処罰せざるをえないという事情があることも確かです。情としては、無罪を主張したいのですが、何らかのけじめはつけなくてはいけないとも思います。その観点に立てば、検察官も苦渋の選択をせざるをえないでしょう。そのことは理解してあげてください。もっとも、苦渋の決断として死刑を求刑してきたとすれば、検察は権力の驕りという呪縛から解き放たれていないということになります。その時は、どうか検察の求刑を無視して評議をお願いします」
「以上で、最終弁論を終わります」
裁判官の席で話し合いが行われて、裁判員の男性が手を挙げた。
「弁護人の方に質問があります」
この裁判で初めての質問だった。
「あなたは、何年がいいと思っているのですか」
「裁判長」
「どうぞ」
「記録を止めていただくことはできますか」
「記録を」
「はい。弁護人が具体的な量刑に言及することは控えなければなりません。でも、それでは裁判員の方は困るでしょう。個人の参考意見として述べることはできませんか」
「わかりました」
裁判長が書記の男性に言葉を伝えた。
「弁護人としてではなく、鬼塚個人として意見を申し上げます。私見ではありますが、5年から10年が妥当ではないかと考えております。でも、これは、あくまで参考意見です。どうか、そのことをお含みください」
「ありがとうございます」
「他に質問は」
裁判長は裁判員の顔を一人づつ、ゆっくりと見回した。
「では、検察官。論告、求刑を」
検察官は元気のない声で論告を読み上げ、20年を求刑した。
鬼塚は最後まで検察と警察の間で行われた裏取引のことに言及しなかった。それは、検察に最後の逃げ場を残しておいたつもりだが、検察は理解していただろうか。
法廷は三時まで休廷になり、その後に判決が出る。鬼塚にできることはなかった。一旦、事務所に戻るか、ここで待つか。迷うところだ。人影の無くなった傍聴席に秋吉と的場の姿があった。警察官との付き合いは、求刑が出た時点で終わっている。的場一人だったら、時間潰しもいいかもしれない。秋吉は温厚そうに見えるが、鬼塚の目からは権力闘争の鬼に見える。お付き合いをしたいと思う人物ではなかった。
「先生は、三時までどうされるのですか」
「そうね」
「私は戻りますが、的場君は待つそうです。よければ、付き合ってやってくれませんか」
「そうね。私も、やはり事務所に戻ります」
「そうですか。先生、本当に、ありがとうございました」
「じゃあ」
この歳になっても、夢見る少女になれる。女は幾つになっても女なんだ。いい男とだったら一緒の時間を過ごしたいと思っている。それにしても、秋吉は嫌な奴。的場を生贄に差し出してきた。こんな男は事故で死にますように。早急に。
紺野奈津の量刑は10年だった。
翌日、上告の意思があるかどうか確かめるために鬼塚は拘置所に向かった。
「判決に同意出来ない場合、あなたは高等裁判所に上告することができます。どうしますか」
「同意します」
「そう」
裁判の前に、紺野奈津はどんな判決でも受け入れると言っていたが、確認をするのは弁護士の仕事である。それでも、仕事が終わった安堵感はあった。最初に会った頃に比べると、紺野奈津は落ち着いているように見える。だが、女は外見ではわからない。
「あなた、もう、大丈夫なの」
「えっ」
「的場さんが、心配してた。あなたが自殺するんじゃないかって」
「わかりません。でも」
「ん」
「先生。私、悪い人間を嫌と言うほど見てきました。それに、最悪の女も」
「女?」
「私のことです」
「ああ」
「でも、いい人にも沢山出会いました。いい人は、皆、同じことを言うんです。生きろ、って。九鬼も、須藤さんも、的場さんと佐竹さんも、叔母さんも、そして先生も。皆、私が地獄にいたことを知っているのに、鬼のような女だということを知っているのに、同じことを言うんです。苦しんでるのは私なんだから、放っておいて欲しいという気持ちはあります。でも、違うんじゃないかとも思うんです。私のような女に、見ず知らずの人が、そうやって声をかけてくれるのは、なぜなんだろうと思うんです」
「・・・」
「私、体も心も見た目以上にぼろぼろなんです。笑顔も偽物なんです。でも、大勢の人に同じことを言われると、そうなのかなとも思うんです。どこまで、頑張れるのか、自信はありません。朝になると、とりあえず、今日だけは、と思うことにしてます」
「そう」
「ごめんなさい」
「うんん。私は、あなたのような苦しみを味わっていない。だから、私にはあなたの気持はわかっていないと思うの。でもね、私、何にも言わずに、あなたを抱きしめてあげたい。結婚もしていないし、子供もいないけど、お母さんのように、ただ、抱きしめてあげたい。私にあなたの心を救う力はないけど、何もできないけど、ほんとに、抱きしめてあげたい。その気持ちは、嘘じゃない。あなたの苦しみを長引かせることになるのかもしれない。でも、お願い。生きて欲しい。理屈じゃないの。だから、うまく説明できない」
「ありがとう、先生」
鬼塚の所に来る女は、皆、不幸や苦しみを抱いている。自分で命を絶つ女もいる。悲しいことだが、鬼塚の力では、そんな女を救えていない。神の力が欲しいと何度も思った。自分の無力を呪いながらも、少しでも、力になれば。せめて、今日一日。それが、鬼塚という弁護士の人生だった。


12

紺野奈津は栃木の刑務所に移された。拘置所住まいは刑務所の予行演習とも言えるが、刑務所の空気が同一のものというわけではない。奈津が収監されたのは四人部屋で、どの囚人にも特別配慮はない。38号室は無口の佐野さん、ぼやきの山田さん、夢見る太田さんが共同生活者だった。決められた時間に決められたことをする。それが刑務所の生活だった。団体生活なので、いろいろな問題はある。特に、普通の社会生活をしてきていない奈津には戸惑うことも多かった。それでも、38号室は大人しい部屋だったようだ。600人以上の大所帯なのだから、いろんな人がいて、集団生活特有の権力闘争もある。入所早々には裏ボスの脅しもあった。同室の三人を追い出して、三人の女が奈津の前に座った。
「あんた、名前は」
正面に座った大柄な女が低い声で言った。
「・・・」
奈津は、暴力の臭いには敏感だ。静かに、三人の顔を見た。奈津の中から、怒りのマグマが無くなった訳ではない。体の奥底に沈んでいるにすぎない。心に小さな怒りが生まれれば、マグマは一気に湧き上がってくる。一生分、いや、お釣りがくるほどの暴力を受けている。もう、これ以上の暴力を認めるつもりはない。
左に座った女の髪を持って引き倒し、膝で相手の首を制して、親指と中指を相手の両目に置いた。突然の出来事に、残りの二人は唖然とするだけだった。
「私には、手を出さないで」
一般人とは生きてきた世界が違う。怒りのマグマが奈津の体からこぼれ落ちている。三人とも声さえ出なかった。
「この女の目を潰そうか」
「あわあわあわ」
「どうするの」
「・・・」
「私に手を出したら、三人とも死ぬよ。もう、しないよね」
「ああ、はい」
その事件の後、奈津の噂が所内に流れたらしい。三人の男を殺した凶悪犯という噂だった。それ以降、暫くは、部屋の中でも、風呂場でも、食堂でも、腫れものに触るような状態だったが、奈津に権力意識がないことかわかると、次第に落ち着いた。体中の傷が奈津を不気味な女に見せていたのもあって、奈津は一匹狼の座を手に入れた。
自由時間は、教科書を読むだけの静かな囚人。怒りのマグマさえ表に出てこなければ、危険な臭いは全くない模範囚だった。
佐野の無口にも、山田のぼやきにも慣れた。作業をしている時は単調な作業に没頭し、自由時間は教科書に没頭する。何も考えない時間が一番楽だった。
頻繁に面会に来てくれる叔母に、手紙でいいからと説得し、奈津も叔母に手紙を書いた。そうして、一定のリズムで刑務所生活が流れていく。変化が欲しいとは思わなかった。
一年も共同生活をしていると、同室の皆のこともよくわかる。それぞれに癖はあるが、いい人ばかりだと思う。刑務官としか口をきかないと思っていた佐野も、奈津とは話をしてくれるようになったし、山田も太田も、奈津に自分の話を聞いてもらいたがった。裏ボスの遠藤までが奈津の部屋に来る。奈津は何を言うわけでもなく、黙って聞いているだけなのに、話を聞いてもらうと気持ちが落ち着くのだと言う。自由時間が無くなるのは困ったが、誰の話でも聞くようにしていた。女たちの話を聞いていると、いつも感じるのが碌でもない男の存在だった。奈津も、酷い男ならいくらでも見てきた。だが、女たちは不実な男に未練を持っている。信じられないが、それが現実だった。次第に何も答えないカウンセラーとして所内に知れ渡り、38号室にやってくる人が増えた。だが、それは同室の人たちの自由時間を奪うことになるので、奈津は断るようになった。すると、他の人たちが38号室の人間を非難するようになり、施設内の問題にまで発展した。施設側が臨時措置として、独房が空いている時は使用を認めるという案が実現した。受刑者の間では、紺野ルームと呼ばれ、裏ボスの遠藤がその予約を取り仕切ることになった。ところが、その予約に不正があるという評判が立つ。結局、刑務官の監視下にある予約ノートによる運営ということで落ち着いた。紺野ルームは週に一日だったのが、二日になり、今では週に三日開かれることになっている。相談者は紺野ルームに入っただけで気持ちが晴れると言う。何もしていない、ただ話を聞いているだけの奈津は、相談者の思い込みに過ぎないと思っているが、そのことを批判しても意味のないことだと思っていた。それよりも、毎日が忙しく過ぎていくことが有難いことだった。

須藤洋平は、的場刑事から聞き出した刑務所に向かった。二年の刑期を終えて出所した洋平は自分で考案した鍵を手に会社訪問をし、あるメーカーに就職していた。前科があることは隠さなかったが、以前に窃盗を繰り返していたことは黙っていた。開発部門では、洋平のアイデアや助言が喜ばれた。プロの窃盗犯が助言するのだから、役に立って当たり前であったが、会社側はそれを洋平の才能だと思ってくれていた。無理に堅気の生活をする覚悟を決めたのは、旧姓九鬼和子、今は紺野奈津と呼ばれている女が出所した時に身元保証人になるためだった。逮捕されて、刑務所暮らしをして、ほぼ三年になる。九鬼和子と会うことが嬉しいようでもあり、怖いようでもあった。
面会室に入ってきた和子は元気そうに見えた。
「須藤さん」
「元気そうですね」
「もう」
「はい。刑期は終わりました」
「そう」
「怒ってます?」
「何を」
「警察には、僕が」
「ああ、的場刑事に聞きました。どうして、あんなことを」
「あなたに、生きていて欲しかった」
「だって、あなたは逮捕されずにすんだのに」
「頭、悪いから、他に方法が見つかりませんでした。やっぱり、怒ってます」
「とんでもない。感謝してます。もう、殺さなくてもよくなったのは、須藤さんのおかげです」
「よかった」
話したいことは山ほどあると思っていた。だが、話すことがなかった。あの時の事は、昔話をするように、笑い合いながら話せる話題ではなかった。それなのに、二人の繋がりはあの事件しかない。ぎこちない笑顔の後は沈黙になった。
九鬼和子は洋平の知っている、いや、知っていた九鬼和子ではなかった。紺野奈津に戻ったことは的場刑事に聞いていたが、確かに九鬼和子ではなかった。初めて会った時にも殺人鬼には見えなかったが、久しぶりに見た和子は菩薩になっていた。もう洋平には手の届かない場所に行ってしまったのだろうか。
「じゃ。元気そうな顔を見れたので、帰ります」
「そう」
「また、来ても、いいですか」
「えっ」
「いや、いつか、ですよ。いつか」
「はい」
「お元気で」
「ありがとう。須藤さんも」
生まれて初めて恋をして、でも、失恋して。「やっぱなあ」と笑うしかないけど、笑えない。勝手に夢を見て、その夢を勝手に膨らませて、最悪、最低だ。どうしょう。洋平の脱力感を押し流したのは、強い悲しみだった。
それでも、彼女はまだ自分と戦っているのかもしれない。洋平の目には見えないだけで、自分の運命と戦っているのかもしれない。女の気持ちは洋平にとって、いつまでも未知の世界の領域を出ない。
光だと感じるものがなかった洋平の人生。あの時は九鬼和子という女が輝く光に見えた。もう、細い光も残っていないのだろうか。


エピローグ

人並みのサラリーマンになって5年。洋平が開発する商品がヒットして主任になったのはいいが、平社員の時よりは2時間も余分に働かなければならなくなった。マンションの玄関に着いたのはいつも通り10時を過ぎていた。エントランスの郵便受けの前に大きな紙袋を前にして女性が一人立っている。オートロックのマンションではないので、少し不自然だった。照明の関係で陰になっていた顔が洋平を見た。洋平はその場に凍りついた。一瞬だが全ての音が消えて、音が戻ってきたときには洋平は走っていた。
「九鬼さん」
「おつかれさま」
「どうして」
「今日、出所しました」
「連絡を」
「ごめんなさい。こうやって、須藤さんに会いたかったんです」
「ともかく、部屋へ」
「はい」
一年に一度だけと決めて面会に行っていたが、笑顔は見せてくれるが何故か歓迎されていないような印象が拭えなかった。洋平の中では、恋は終わり、遠くで見守るだけでいいのだと納得していた。出所した、その日に行く場所が洋平の部屋だという想像はできなかった。今日だけの印象なのかもしれないが、九鬼和子は洋平の知っている九鬼和子ではなかった。あの凛とした強さも、シャープで危険な匂いもなかった。少女と呼ぶには無理がある年齢だが、陽だまりにいる少女のような印象を受ける。一緒にいるだけで、幸せのオーラに包まれているような安堵感を感じさせてくれる。余りの落差に洋平の体半分は戸惑いの中に置き忘れたような違和感に包まれていた。
「いい部屋ですね」
部屋に入った和子は、入り口で立ち止まったまま、初めての部屋なのに懐かしそうに見渡して言った。
「こっちが」
「寝室です」
「ここは」
「使ってません」
「そう」
独身の洋平が2DKの部屋を借りたのは、九鬼和子を迎える強い意志を自分で納得するためでもあったが、一人では二部屋を使えなかった。失恋してしまったのだから、高い家賃を払う必要はないと思っても、未練が決断を先延ばししてきた。
「座って。冷たいお茶でいいですか」
「はい」
洋平は慌ててグラスに麦茶を入れた。何を話していいのか、何も思いつかない。
「いただきます」
「あっ、はい」
初恋の女の子の前に立った中学生でも、もう少し気のきいたことが言えるのだろうが、洋平の頭の中は混乱していた。
「須藤さん。座ってください」
「ああ、はい」
「最初にお話ししたいことがあります」
そら、来た。これが、やばい。だよな。
「私、ほんとに、須藤さんに助けてもらいました。こんな日が来るとは、思ってもいませんでした。ありがとうございます」
「いえ、そんな」
「八年間、ずっと考えていました。この一年は、この気持ちを須藤さんにどう伝えたらいいのだろうと毎日考えました。結局、ありがとうございます、しかありませんでした」
「いえ」
「直接、須藤さんからは言われませんでしたが、須藤さんが私の事大切だと思ってくれていると的場刑事から聞きました。だから、ここに来たんですが、よかったんですか」
「はい。もちろん。もちろんです」
「私は、どうすれば、須藤さんの気持ちに応えられるのですか」
「それは」
「はい」
「できれば」
「・・・」
「できれば、あなたと、生きて行きたい」
「ありがとうございます。私が、人殺しなのに」
「だからです、この先も共犯者でいたい」
「もう、しませんよ」
「わかってます」
「よかった。それで、お願いがあります」
「はい」
「須藤さんの中で、九鬼和子は封印してください。紺野奈津でもいいですか」
「はい」
「私が、と言うか、私の体が須藤さんを受け入れられる時まで、時間をもらえませんか」
「ええ、僕はその日が一生来なくても、二人でいたい」
「そうはいきません。私は九鬼とそうなれなかったこと、まだ後悔してます。刑務所の仲間の話をいっぱい聞いて、私なりに勉強しました。男と女なんですから、何もないのは不自然なんだと教えられました。だから、今度は、須藤さんと一つになりたい。そうでないと二人で生きて行くことにはならないと思ったんです。まだ自信はありませんけど」
「僕は無理したくない」
「ありがとう」
「僕は、ずっと、そう思ってきましたから」
「ええ。それと、もう一つ、いいですか」
「はい」
「多分、私のとこへ大勢の前科者が来ると思うんです」
「聞いてます」
「たいしたことはできないけど、受け止めてあげたい」
「もちろんです」
「よかった」
「よかった」
「私、出すぎたことしてますよね」
「いえ、僕、苦手だから、ほんと」
「あの時、あなたを殺さなくてよかった」
「ほんとに」
「須藤さんとなら、やり直せるかもしれない。世話かけてばかりだけど」
初めて、二人は恋人のようにお互いの目を見つめ合った。
「九鬼さん。いや、紺野さん。食事は」
「まだですけど、紺野さんは変ですよね。私、洋平さんと呼んでいいですか」
「ええ」
「私のこと、奈津と呼んでください」
「奈津さん、ですか」
「それも、変。なっちゃんにしましょうか。子供の頃はそう呼ばれていました」
「なっちゃん。いいですね」
「洋平さん、食事は」
「まだです」
「何か材料あれば、作ります」
「いえ、カレーでよければ」
「洋平さんが」
「料理はだいぶ上達しましたよ」
「食べてみたい」
                                了



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