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陽だまり 3 [陽だまり]




洋平は店長に嫌味を言われながらも、コンビニの仕事を辞めていた。三浦を殺した後の九鬼和子の様子が心配だった。一言も喋らない。笑顔がないだけではなく表情がない。何もしようとしない。その結果、何も食べない。洋平が作ったものは機械的に食べてくれるが、自分の意思で食べているようには思えない。夜は狛江の自分の部屋に戻るが、翌朝九鬼邸に来ると、和子は前の夜と同じ場所にいる。眠っているようには思えない。そんな状態の和子を独りにしておく勇気はなかった。
知らない方がいい真実があると言われていることは正しいのかもしれない。そして、その真実を暴こうと持ちかけたのは洋平だった。こんなことになるのなら、と思ってみても後の祭りだった。九鬼和子を絶望のどん底に叩き込んだ責任は自分にもある。両親の死は、自殺とは言えない。両親はどんな想いで足元の椅子を蹴ったのか。娘の無事を祈ってか。最初から娘という存在そのものがなければ、自殺する必要はなかったのではないだろうか。洋平でもそのぐらいの想像はつく。何のために。それは、一人の卑劣な男の自己保身が唯一の目的だったとしたら。和子の中では、その卑劣な男を殺したとしても、それで決着がついた訳ではないのだろう。時間を13年巻き戻し、幸せな家族の中で、それまでの時間を続けていくこと。それ以外の決着はない。洋平にはかける言葉が見つからなかった。黙って見守ることしかできない。和子に残された道は自死しかないように思えた。一度も会ったことがない人だったが、洋平は九鬼竜平のことを思った。九鬼竜平は愛する妻に生きていて欲しかった。いや、愛する妻の心の中で九鬼竜平が生きていたかったのかもしれない。だから、憎しみも生きる糧になると言ったのだろう。洋平は自分の胸に問いかけた。「俺はこの人を愛しているのか」と。恋愛経験のない洋平には答えようがなかった。だが、一日一日、時間が過ぎていく分だけ、生きていて欲しいという気持ちが強くなる。だが、それはこちら側の勝手な都合であり、傲慢に過ぎないのではないか。死にたいと願う人間に生きることを無理強いすることは、どこまで行っても、こちらの勝手なのではないのか。それでも、人の気持ちなど変わるものだとすれば、いつの日か、生きていてよかったと思うことがあるのではないか。万人にとって正しいことなど存在しないということを思い知る。死ぬことも生きることも選べない時は、どうすればいいのか。
洋平は黙々と料理を作って、和子に食べさせ、何も言わずに横にいることしかできない。自分の中で答えが出るまで、その状態を続けるしかなかった。
和子が、自分の手の平を眺め続けるようになった。肉に食い込むナイフの感触が残るのだと言っていたが、今はその人殺しの手を見て何を思っているのだろう。和子の中で止まっていた時間が動き出したのか。だとすれば、どこに向かって動き出したのか。洋平は自分の部屋に帰ることを止め、九鬼邸で夜を過ごすようになった。仮眠しかできないが、とても和子から目を離すことはできない。朝、冷たくなっている和子に会うことなど、断じて認められない。
三浦殺害から二週間ほど過ぎたある日、今夢から覚めたという表情で和子が洋平を見た。
「須藤さん」
「・・・」
「何、してるの」
「・・・」
突然、洋平の目から涙があふれ出した。
「どうしたの」
言葉を出せば、大声で泣き出してしまいそうな予感がして、何も言えなかった。洋平は独りで裏庭に出て泣いた。
暫くして和子が庭に出てきた。
「私、あっちに、行ってたみたいね」
「ああ」
「九鬼と出会った時も、そうだった」
「ああ」
「台所が、私のやりかたと違う。須藤さんが、してくれたんだ」
「ああ」
「もう、大丈夫」
「えっ」
とても大丈夫には見えない。
「もう、終わりにする」
「はあ?」
「あとの二人は、止める」
「そんな」
「あれっ。須藤さん、賛成してくれると思ったのに」
「駄目ですよ」
「どうして」
「どうしてって。僕、そういうの駄目なんです。この計画に参加する時、僕にしたら大決断だったんです。三人と決めたら三人でないと駄目なんです」
「はあ?」
「そうしましょう」
「へえ、わからない。この話はまたにしましょう。私、地面に吸い込まれそう。疲れてるの。眠ってもいい」
「はい」
「ごめんね。眠る前にお礼を言いたかった。ごめん」
和子は、ふらふらとした足取りで家の中へ戻って行った。あと二人の殺害目的を放棄してしまえば、和子が生きている目的は無くなってしまう。殺人計画だろうが何だろうが、今は生きていてもらわなければならない。次の条件が、生きる条件ができるまでは、生きていてもらわなければ困る。
和子は丸二日間眠り続けた。だが、洋平は仮眠しかとれなかった。何度考えても、どう考えても堂々巡りにしかならない。それは、和子と洋平の向かっている方向が真逆だから。生きることは和子の苦しみになり、和子が死ぬことは洋平の苦しみになる。洋平は自分が和子のことを好きになっている、いや、かけがいのない相手だと思っていることに気づいていた。だから、こんなに苦しい。和子は洋平のことを、親切な協力者としか見ていないだろうが、それはそれでいい。何か方法を考えなければならない。
「須藤さん。まだいてくれたの」
「はい」
「私、まだ変なの。何度も意識失くすと思う。前もそうだったから。だから、もう、いいわよ。須藤さん、仕事もあるし」
「そんなわけにはいきません」
「そう」
「今、何か作りますから」
「もう、いいよ」
「駄目です」
「もう、楽になりたい」
「お願いです。そんなこと、言わないでください」
和子の敵は警察ではなく、和子の中にいる自分自身なのだ。自分を失うことでしか、自分でいる方法はない。どこにも、逃げ場はない。どうすればいいのだ。九鬼と暮らしている時に、和子は同じような体験をしているようだ。でも、憎しみを抱き締めることで戻ってきたじゃないか。憎しみ以外に生きる意味を与えてくれるものはないのだろうか。
一人の男の保身と快楽のために、地獄に落とされた家族。その男に報復をしたことで、更なる地獄に落ちている人間がいる。このまま、死んでしまったのでは酷すぎる。こんなの、おかしいだろう。
和子は明らかに病気だと思われた。一進一退の症状は続き、洋平は無言で介護に専念した。正常な和子に戻った時の生活は普通だったが、自失の時は洋平の言いなりに動いてくれるようになった。洋平の指示に従って風呂にも入る。和子は洋平の前で全裸になり、体を洗われても無表情だった。火傷の跡や切り傷の跡が何か所もある。監禁されていた壮絶の3年間を想像すると、洋平の体からも力が抜けてしまう。洋平は泣きながら和子の体を洗った。だが、和子は洋平の前で自分が全裸になったことを憶えていないようだった。
殺害計画もネットでの情報操作も空白になっている。洋平は和子を生かす方法ばかりを考えていて、他の事を考えるゆとりはなかった。事件がどうなっているのか、新聞もないし、テレビも見ていない。事件の事は気にならなかった。
和子が自分の命を絶たずに、病気になることで生きているのは、洋平の許しが出ないことが最大の要因だと思えた。協力者になってくれた洋平に対する義理のようなものだけが和子の決断を止めているのではないか。「もう、いいよ」と洋平が言えば、そこで和子の命は終わるのだろう。言えない。いや、言ってやりたい。
和子も痩せたが、洋平も痩せた。こんなやり場のない悩み事をするのは初めてだった。それでも、洋平の頭の中では整理されたことがある。和子にとっての一番は、自分の手で命を絶つことである。二番はない。洋平にとっての一番は、和子に生きていてもらうことである。どちらも譲れないとすれば、二番を捜すしかない。その二番は問題山積みだが、洋平は決心した。自分が最低最悪の人間になることを受け入れるしかない。和子には更なる苦しみと悲しみを背負ってもらうことになるが、許してもらいたい。
和子の病状が軽くなった時に、洋平は出かけるようになった。一人で計画を立て、一人で実行しなければならない。
以前に川崎駅の近くで、携帯電話の裏取引を目撃したことがあった。売人は自分のテリトリーで取引したいと思うだろう。同じ場所は危険だか、東京や横浜まで足を伸ばすことはないと思った。自分が売人だったら、どこがいいか。そういう場所を徘徊した。40代の頭髪がかなり薄くなった男で、競輪場でよく見かけるちょい悪の雰囲気で、高架道路のわき道で目だけが動いている怪しい男だった。洋平は遠くからその男を見張った。しばらくすると、これも挙動不審な若い男が近づき、取引が始まった。洋平は取引の終わった売人の後をつけて部屋を見つけた。その男の行動パターンを調べる。どんな人間でも特徴があるものなのだ。三日後にその男のアパートに入り、携帯電話を2台盗んだ。
次にパソコンにかじりついて、過去一カ月の社会情勢を読み始めた。まだまだ、必殺処刑人の話題は衰えをみせていなかった。洋平がダミーの書き込みをしなくても、三浦の殺害は必殺処刑人の犯行だと言いだした奴がいて、それは既成事実のようになっていた。模倣犯を装って書き込みをした人間が警察に逮捕されている。警察の捜査は、それほど進展しているようには見えない。新聞の論調には、警察批判の部分が表に出始めている。法の不備も問題視されていて、庶民の不安も膨らんできている。
洋平は渋谷の公衆電話から目黒署に電話をした。
「刑事課の的場さんをお願いします」
「はい。あなたは」
「渋谷といいます」
「少しお待ちください」
しばらくして、男が電話に出た。
「的場ですが、どちらの渋谷さんですか」
「以前に友達が的場さんのことを話してました。ナイフを捜してますよね」
「ええ」
「そのナイフのことで話したいことがあるんですが」
「どういう話ですか」
「いえ、それは会った時に話します」
「いいですよ。いつです」
「今からでも」
「場所は」
「駅前の本屋の入り口」
「あなたの目印は」
「僕が捜します」
「わかりますかね」
「的場さん。刑事さんでしょう。わかりますよ」
「ほう」
洋平は本屋の入り口から少し離れた場所で待った。
中肉中背の、一見したところ刑事には見えない男が人を捜している。だが、洋平にはその男が的場と言う刑事だとすぐにわかった。顔がわかればいい。
翌日、的場の自宅を突き止め、更にその翌日、家族を調べた。
最初の電話から三日後に、洋平は目黒署に電話をした。渋谷と名乗るとすぐに的場刑事が電話口に出てきた。
「的場です」
「的場さん。ひどいじゃないですか。まさか、刑事さんにすっぽかされるとは思いませんでしたよ」
「とんでもない。僕は行きましたよ」
「えっ、そうなんですか」
「いつ、会えますか」
「いえ、今日は、無理なんです」
「そうですか。いつでも話、聞きますよ」
「はい。都合がついたら、また電話しますよ。あっ、そうだ、携帯の番号、いいですか」
「携帯ですか。この電話でもいいですけど」
「的場さんは、一日中、おられますか」
「いや。そうでもないですけど」
「そうですか。一寸面倒ですね。又にしますよ」
「あっ、一寸、待ってください」
「刑事さんに内緒の話するのって、大変なんだ」
「携帯の番号、言います。ぜひ、電話ください」
「そうですか」
これで、的場刑事の携帯電話の番号はわかった。後は、会って話すだけだった。
世の中には、キーを付けたままの車が多い。特に商用車にはその傾向が強いようだ。そんな車を拝借して、洋平は的場の帰路を待った。的場は遅い時間にお寺の横の道を歩いて帰る。警察官だから暗い夜道も平気なのだろう。狭い道路だが対向車はなんとかすれ違うことができる。
バックミラーに男の人影が現れた。洋平は的場の携帯番号を押した。男が携帯を取り出して耳に当てる。
「的場さんですか。渋谷です」
「ああ」
「今から、お話できますか」
「いいですよ」
「的場さんの目の前に、ライトバンが止まってますよね。見えますか」
「なに」
「ブレーキ、踏みますよ。ブレーキランプ、見えました」
「君は、何者だ」
「ナイフの話です。どうしますか」
「・・・」
「危害は加えません。話をするだけです」
「わかった」
「後ろのドアから入ってください」
車のドアを開けた的場の体には緊張が見て取れた。
「ドアを閉めてください」
「どういうことです」
「すみません。驚かせてしまったようですね」
「君は誰だ」
「どうしても、あなたと個人的に話がしたかったんです。先ず、これを見てください」
洋平はタオルに包んだナイフを後部座席の的場に渡した。
「これは」
「捜してるナイフは、それでしょう」
「これを、どこで」
「それを今からお話しますが、その前に聞いておいて欲しいことがあります」
「ああ」
「僕を逮捕しても、警察では何も喋りません。今、的場さんはナイフを持ってますから僕を刺すこともできますが、警察官がそんなことはできませんよね。もちろん、僕があなたに危害を加えることもありません。僕と取引することで、警察は連続刺殺事件を解決することができます」
「取引だと」
「最後まで聞いてください。僕は四人目の犠牲者も五人目の犠牲者も出したくない。ネットの騒ぎも治めたい。そのための条件を一つだけお願いしたい」
「条件」
「僕の条件は、犯人に対する求刑を20年以下にしてもらいたい。それだけです」
「警察と求刑は関係ない」
「わかってます。的場さんに検察と交渉して欲しいんです」
「それは、無理だ」
「すみません。言い方が悪かったですね。的場さん個人が交渉するのではなく、警察が検察と交渉するという意味です」
「それでも、無理だ」
「それは、何人殺されても、ネットがどんなに騒いでも、いいと言うことですか」
「そうは言わない。でも取引はできない」
「放っておけば、現実に模倣犯が出ますよ」
「残念だが、出来ないんだ」
「では、これを聞いてください。編集はしていますが、付け加えてはいません」
洋平はカセットテープを入れてスイッチを押した。
それは、三浦の告白テープだった。三浦本人の名前を除き、ほかの名前の部分は消してある。的場刑事はそのテープに聞き入った。テープの再生が終わり、洋平はテープを取り出してから、ガスバーナーを当てた。車内はプラスチックを燃やした異臭がした。それは、あっという間の出来事で、的場は声にならないようだった。
「渡すことはできませんが、これが、求刑20年の材料です」
「君は」
「こんな人にも、検察は死刑を求刑するんですか」
「犯人は、紺野奈津」
「ほう。そこまではわかってるんだ」
「そうなのか」
「でも、紺野奈津は見つかりませんよ」
「だろうな。ずいぶん捜したが、見つからなかった。たとえ写真を公開したとしても、これだけ時間が経っていれば、難しい。それでも、取引は無理だ。警察にそんな力はない。取引を持ちかければ、検察は意地になって拒否するだろう」
「やってみなければ、わからないでしょう。取引はあくまでも裏取引です。次の犠牲者を出さずに事件は解決するんです。他に何が重要なんです。警察や検察の面子ですか。建て前ですか。そんなのおかしいでしょう。そんなのは、三浦と同じ精神構造じゃないですか」
「確かに。僕もそう思うよ。でも、勝算はない。残念だが」
「交渉する気もない、と言うことですか」
「それよりも、なぜ、君はこんな危ない橋を渡るんだ。内部分裂なのか」
「僕は、彼女に生きていて欲しいだけですよ。このままでは、紺野奈津は死ぬしかない。聞いたでしょう。これだけ痛めつけられて、地獄の苦しみを嘗めて、報復しても、彼女には自分の命を絶つことしか選択肢がない。こんなの、おかしいでしょう。悪いのは三浦であり、本間であり、坂東ですよ。何をやっても、ばれなければいいんですか」
「自分の手で処刑しなくても、告発すればよかったんだ」
「あんた、本気でそんなこと言ってるのか。告発だって。誰がそんなもん聴いてくれる。誰が証拠を暴いてくれるんだ。馬鹿なこと言わないでくれ」
「すまん。君の言う通りだ」
「あんたは、交渉する気もないんだ。僕も軽い気持ちでこんなことやってる訳じゃない。僕自身も命を賭けてる。話を聞いた以上、あんたには警察を辞めてもらう。理屈が通らないことは承知してるけど、この話は何も聞かなかったことにしてもらう。警察官でいたら、聞かなかったことにはできないだろう」
「それは、できない」
「奥さんや娘さんに、危険があってもか」
「なに」
「僕は、10年でも20年でも、時間をかけてでも目的は果たして見せる。理不尽だと思うだろう。紺野奈津もそんな目に遭ってるんだ。僕は許さない」
「待て」
「自分が、自分の家族が、卑劣な男の犠牲になる。それでも、あんたは警察の面子の方が大事なのか。僕は三浦になってやる。あんたにそれを止める力はない。だから、警察を辞めるように言ってるんだ」
「待て。一寸待ってくれ。考える」
的場は頭を抱えて下を向いた。この賭けが裏目に出た時は、洋平たち二人は危なくなる。
「交渉するだけで、いいのか」
「いや。約束を取り付けなきゃ駄目だ」
「僕には家族が一番大事なんだ。家族を脅しに使われたら、負けるしかない。君が本気なのはわかる。でも、成功する自信がない。どうすれば、いい」
「そんなこと、そんなことは、あんたが考えろ」
「それはないんじゃない。君にだって考える義務あるだろう。違うか」
「まあ」
「時間をくれ。考えようじゃないか。二人で」
「ああ」
「いいか。犯人が紺野奈津だとしよう。紺野奈津の両親は自殺と言うより、あれは三浦に殺されたようなもんだ。従業員だった人も、社長夫婦を悪く言う人はいない。あんないい人がと言ってた。その上に、さっきのテープだ。テープが偽物じゃなかったら、三浦という男は鬼だ。紺野奈津が復讐するのは、わかる。だけど、これは、あくまでも人の情としてだ。社会は情だけでできてる訳じゃない。報復とか復讐を認めないというのが、検察の基本姿勢になってる。でなきゃ、世の中殺し合いになる。だから、検察も正しい。紺野奈津は三人殺してるんだろう。それを、20年にしろと言われて、はい、わかりました、と言うか。それは、無茶だ」
「じゃあ、次々と死人が出てもいいのか。事件が解決しなくていいのか」
「それは、検察の問題じゃなくて、警察の問題なんだよ。警察は事件を解決したいし、次の殺人は阻止したい。だけど、求刑を決めるのは検察なんだ」
「そこを、なんとかしてくれと言ってる」
「さっきから、そこで困ってるんだ」
「お願いします。なんとかしてください」
「はあ?」
「あの人は死んでしまう。それじゃ、酷すぎる。酷すぎるよ」
「紺野奈津のこと、好きなのか」
「たぶん」
「ともかく、よく考えてみよう。安請け合いできるようなことじゃない」
「わかった」
「いいか、僕の家族には絶対に手を出すな。そうなれば、僕も殺し合いの輪に入っていく」
「わかった。でも、頼みます」
「僕はまだ、引き受けたとは言ってないからね」
「次の犠牲者は裁判官だ」
「裁判官」
「その次は、エリート官僚」
「そいつらは」
「常連の変態野郎。死んでも惜しいような男じゃない」
「そうか」
「降りてくれ。また連絡するから」
「これは」
「そのナイフは証拠品。いっぱいあるから」
洋平は的場刑事をそこに残して車を出した。しばらく走って帽子とマスクをとった。自分は喋り過ぎたのだろうか。あの刑事がこちらの要求を無視すれば、警察は紺野奈津を本気で捜し始めるだろう。あの刑事は紺野奈津のことも調べていたのだから、九鬼和子に辿り着く可能性も無いとは言い切れない。もし、和子が逮捕され死刑になったら、それは自分のせいだと思う。その時は的場刑事の家族を殺して、自分も死ぬしかないだろう。でも、そんなことがこの自分に出来るのだろうか。辛い過去も時間が癒してくれる。そんな言葉に賭けたことが、そもそも間違いだったらどうするのだ。刑務所の20年が、ほんとに和子を救ってくれるだろうか。刑務所なら自殺できないと思ったのは正しいのか。不安材料は山のようにあった。




翌朝、的場恭平はナイフとタオル、渋谷と名乗った男の携帯電話番号と車両番号を佐竹に渡して、調査を依頼した後、野本課長を取調室に連れ込んだ。
「何があった」
「はい。夕べ、男に待ち伏せされて、取引を持ちかけられました」
「誰」
「ナイフのことで話があるという電話をしてきた渋谷と名乗る男です」
「ああ」
「偽名だと思います」
「で、何の取引」
「犯人を教えるから、検察と交渉して求刑を20年にしてもらいたい、という要求です」
「で」
「それが出来ない時は、私の家族に危害を加えると」
「穏やかじゃないな」
「はい」
「どう答えたんだ」
「時間をくれるように言いました」
「ガセじゃないのか」
「本気だと思います。ナイフを預かりました。ナイフは鑑識に渡しました」
「あのナイフか」
「全く同じものです」
「でも、うちでは、どうにも出来ないことだ。ということは、お前の家族に何かが起きるということか」
「はい。多分、殺人」
「そんなもん、保護してみせるよ」
「10年でも20年でも待つと言われました。話の内容を誰にも言わずに警察官を辞めるなら見逃してくれるそうです」
「はったり、じゃないのか」
「違うと感じました。第四の犠牲者も第五の犠牲者も出したくないし、ネットの騒動も治めたいと言ってました。次のターゲットは裁判官だそうです」
「裁判官。全部、怨恨なのか」
「はい。次の犠牲者を出さずに、この事件を解決する。その交換条件が求刑20年です」
「もし、それがほんとの話なら、警察にはありがたい話だが、検察が首を縦に振ることはない。逆に捜査に問題があると言ってくるだろうな」
「はい。自分は警察官を辞めるしかないでしょうか」
「まあ、待て」
「自分は家族を犠牲にするつもりはありません」
「だから、一寸待て」
課長も困るだろう。恭平も一晩中、思い悩んだ。現在でも警察の威信は地に堕ちている。これで模倣犯が現れたりしたら、警察の威信を通り越してしまう。事件を早急に解決することが求められているのに、事件解決の糸口も見えていない。
「ともかく、私が預かる」
「いつまで、ですか」
「わからん」
「次の電話で結論を伝えなくてはなりません」
「いつだ」
「わかりません」
「先ず、お前の家族に護衛をつける」
「待ってください。それがばれたら、宣戦布告になってしまいます」
「じゃあ、引き延ばせ」
恭平は刑事課の部屋に戻ったが、何もやることがなかった。理屈は渋谷という男の方が正しい。だけど、社会は理屈で出来ているのではない。だから、渋谷の理屈が通ることはない。だったら、警察を辞めることが自分にとっては一番正しい選択になる。納得していた職場だったが、家族の安全と引き換えにできるほどの職場ではない。やはり、これで決まりだ。恭平は引き出しの奥から封筒を取り出した。ついに日付を埋めることになった。
「それ、何です」
「えっ」
佐竹が部屋に入ってきたことに気付かなかった。
「辞表。なんで」
「後で話します」
「何があったんです。相棒を無視するのは、まずいんじゃないですか」
「そういうことでは、ないんです」
「ナイフから指紋は取れませんでした。タオルにも何もありません。車は盗難届が出てます。携帯は持ち主を捜査中です。これ、全部、説明してください。報告に来たら、辞表とにらめっこ。わけ、わかりませんけど」
「すみません」
「謝らないでください。説明して」
「今は、まだ、説明できません」
「へええ、そう。そうなんですか。どいつもこいつも一緒なんだ。秘密、秘密、秘密。刑事課なんて、クソ食らえよ」
佐竹は手にしていた恭平の辞表を叩きつけて、部屋を出て行った。佐竹なら怒るだろう。恭平は辞表に日付を書き込んでポケットにしまった。
捜査本部所属になっている地域課の先輩が部屋に来た。
「的場。署長室で課長がお呼びだ」
「はい」
「何、やったんだ」
「いえ。大丈夫です」
恭平は先輩に頭を下げて、署長室へ向かった。
署長室には、管理官と野本課長の二人が待っていた。
「説明しろ」
「はい。課長にご報告した通りです」
「いいから、お前の口から言え」
恭平は課長に報告した範囲のことだけを報告した。
「的場君は、これがガセだとは思っていない。そうだな」
「はい」
「それは、ナイフなのか」
「はい」
「それだけか」
「・・・」
「他にも、あるのか」
「申し上げられません」
「どういうことだ」
「すみません」
恭平はポケットから辞表を取り出して、横にいる課長の前に置いた。
「こんなもんで、事が済むと、思ってるのか」
「すみません。でも、家族を危険に晒すことはできません」
「ともかく、座れ」
「いえ」
「いいから、座ってくれ」
野本課長に静かに言われると、座るしかない。
「具体的なことは聞かない。的場君の感触を聞かせてくれ」
「はい。あの男は本気です。取引が成立すれば、新たな犠牲もなく事件は解決します。成立しなければ、自分の家族は間違いなく殺されます。自分が何も話さずに警察官を辞めれば、家族に危害は加えないという約束を取り付けました。ですから、これ以上詳しい話はできないんです。検察が取引に応じることはないと、自分も確信しています。でも、自分のような若僧にはわからないことがあるかもしれません。そんな確率に期待した自分が間違っていました。申し訳ありません」
「私は、やってみる価値があると思います。相手は無罪を要求してきているのではありません。私もそこに本気を感じています。捜査の進展が期待できれば、こんな取引に耳を傾ける必要はありません。相手がドジを踏むまで殺しをさせておくこともできません。それと、心配なのは、模倣犯が出てくることです。社会不安が増大すれば、警視庁だけではなく、警察全体の責任を問われることになります。ここまで来ると、お宮入にして蓋をするだけでは収まりません。社会的影響が大きくなりすぎました。この事件は、もう時間との勝負になっているのです。それなのに、我々には一枚のカードもありません。潮時だと思います。もちろん、このことはここにいる人間以外に知らせるつもりはありません。取引のとの字も知られてはなりません。その上で、私はこの取引を成功させることを進言します」
「的場君」
それまで一言も発言しなかった本庁の管理官が発言した。
「はい」
「君は、この20年をどう思った」
「法律的な根拠はありませんが、仕方ないな、と思いました」
「そうか。わかった。本庁に持ち帰ります」
「管理官」
「このままだと、何人も腹を切る人間が出ますよ。的場君の次は野本課長が辞表を持って署長室に来るでしょう。それで終わらないのが、今度の事件の怖いところです。社会制度が脆弱になっていることで、犯罪予備軍はつまらない理由で一線を越えてしまう。それでも警察官は責任を取らされる。有能な人材が散逸して、警察の弱体に拍車をかけることはやめておきたい。そうは思いませんか」
本庁の人間に面と向かって反対出来る人間はいない。
「的場君。その辞表はもう少しポケットに入れておいてくれませんか。ゴーがかかれば、君にも一緒に行ってもらいたい。検察は頭固いから」
「はい」
「結果を出しましょう、野本さん」
会議は終わり、恭平は課長に連れられて取調室に入った。
「もう、わかっていると思うが、この件は誰にも話さないでもらいたい。家族にも」
「相棒にも、ですか」
「そうだ」
「ちゃんと話をしておいて、口止めした方が確実じゃないかと思います。ここまでの捜査は全て知ってますので、なぜ、突然、犯人に辿り着いたのか、不思議に思うでしょう。自分が逆の立場なら、疑います。口止めしていない訳ですから、推測を誰かに話すかもしれません。佐竹さんは鋭い人ですから、かなり正確に推測すると思います。それと、自分も動きにくくなります」
「相棒を変えようか」
「そんなことしたら、確実に噂は流れます。こちらに引き込んでおいた方が安全だと思います」
「相手は交通課の巡査だからな」
「でも、優秀ですよ。刑事としても」
「そこまで言うなら、そうしょう。ただし、決まってからにしよう」
「はい」
「私に話していないことは、多いのか」
「はい」
「君は変わった警察官だな。第一線の捜査官なのに、優先事項の一番に家族がある。私の感覚ではありえない警察官に見える。ところが、捜査を本筋に戻し、解決の糸口を掴んでくる。新しい警察官なのかもしれんな」
「そんなこと、ありません」
「私の先輩に、自称ラッキー刑事という人がいた。自分は何もしてないのに、なぜか事件解決のポイントにいる。そう言ってた。ご本人は謙遜していたのだろうけど、不思議だった。君は似てる。犯人が、なぜ、君に接触してきたのかな」
「わかりません。なぜ、自分の名前を知ってたのか、わからないんです。本音では、迷惑だと思っています。退職に追い込まれたのは、あの男のせいです。自分はこの仕事好きですから、ほんとは辞めたくありません」
「そうか。この事件では、不思議な警察官に会う。管理官もそうだ。あの管理官をどう思う」
「自分にはわかりません」
「私は多くの警察官を見てきた。キャリアの人も。あんなキャリア、初めてだよ。頭がいいだけではない。スケールが大きい。初めてキャリアの存在を認める気になった。検察との交渉は、管理官と君の二人でやることになるだろう。よく、見ておくことだ」
「はい」
「連絡あるまで、待機。いいな」
「はい」
どうも、居心地が悪い。署を出て喫茶店で時間を潰したいと思うが、無責任だと言われるのもいい気分ではない。結局、自分の席しか行く場所はなかった。あの男はどこで恭平の名前を知ったのか。大勢の人間に会って話を聞き、名刺を渡してきた。関係者の延長線上にいることは確かだが、それは誰だったのだろう。いろいろな人間の顔を思い浮かべてみるが、思い当たる人物はいなかった。
佐竹が部屋に入ってきて、横の席に座った。
「出したんですか」
「ええ。でも、返されました。明日、出します」
「そうなんだ。お日柄がよくなかったんですか」
「そう言えば、今日は友引だったかな」
「なに、ふざけてるんです。よくも、相棒に無断で、こんなことができましたね。的場さんは、今、最低、最悪の人間になり下がってるんですよ。それで、いいんですか」
「申し訳ない」
「私が、何かヘマしました」
「いや」
「信頼できないと思ってるのは、どうして」
「そんなこと思ってませんよ。話せる段階になれば、話しますから」
「その時は、もう、警察官じゃないんでしょう」
「・・・」
「あああ。馬鹿みたい。的場さんに憧れて、刑事になってみようかな、なんて夢みて。私も、最低、最悪」
二人は無言で座っているしかなかった。最低最悪と言われても話すことはできない。夢を壊した張本人みたいに言われても、あなたの勝手でしょ、とは言えない。それを言えば子供の喧嘩になってしまう。困った。
野本課長が急ぎ足で部屋に入ってきた。
「的場くん。すぐに出発してくれ。秋吉管理官は本庁一階の受付で待ってる」
「はい」
「そうだ、佐竹君。本庁まで送って行ってやってくれ。サイレン鳴らしても構わん。急げ」
「佐竹さん。行きますよ」
「はい」
恭平と佐竹は階段を駆け降りた。佐竹は走り出す前からサイレンを鳴らした。
「何なんです、これ」
「話せるかもしれない。急いで」
「はい」
交通課にいるからではないだろうが、佐竹の運転技術は優秀だった。運転席で怒鳴りながら一般車両を蹴散らして進んだ。恭平の仕事は「緊急車両が通ります」とマイクに喋り続けることだけだった。
駐車場には入らずに道路わきに停めて、入口まで走った。
秋吉管理官の姿はすぐにわかった。
「早かったですね」
「はい」
「行きましょう」
「はい」
「上の方で話はつきました。ゴーです。ただし、現場を説得することが条件です。これが、難敵でしてね。カチコチの頭を溶かさなくてはなりません。的場君に期待してますよ」
「はあ」
「元気出してくださいよ。君だけが頼りなんだから。この事案はもうトップまで上がってる。失敗すれば、詰め腹を切らされる人間が大勢いる。僕もその一人だ。ここまで来て、済みませんでしたでは、済みませんよ。ねじ伏せてでも承知させる。いいですね」
「はい」
恭平の声が小さくなった。管理官は歩きながら軽い世間話をしているような口調だったが、恭平の立場から見れば、雲の上の、重々しい出来事に見える。
地検の会議室には四人の男が待ち構えていた。しかも、四人に笑顔はない。
「お時間取って頂き、ありがとうございます」
誰も席を勧めたりしないが、管理官は会議机の反対側に平然と座り、恭介には横に座れと手で示した。
「前置きは省かせていただきます。現在捜査中の連続刺殺事件、別名は必殺処刑人事件のことはご存じでしょうか。必要であれば、その話からいたしますが、ご存じですね」
「・・・」
「ありがとうございます。では、事件の解決が遅れ、もはや社会問題、いや、社会不安にまでなっているという我々の認識に同意いただけますでしょうか。異論がありましたら、お聞かせください」
「・・・」
「この事件は、一日も早く解決しなければなりません。我々は解決の糸口を掴みましたが、解決のためには大きな難題を乗り越えなくてはなりません。それが、今日、お願いに来ました20年の件です。内容はお聞きになって頂いたと思いますが、ご賛同頂けますか、いや、ぜひにも、ご賛同頂きたい。この通りお願いします」
管理官は机に額をつけた。慌てて、恭平も習った。
「秋吉さん。今回の件で、あなたが職務権限を大きく逸脱していることは、ご存じですよね」
「はい」
「本来なら、この話し合いも必要ないところですが、検察上層部の面子もあるでしょうから、お話だけはお聞きすることにしました。最初に結論を申し上げておきますが、この件は受け入れることはできません。そのことを承知の上でお話ください」
「ありがとうございます。詳細はここにいる的場巡査部長からお話させてもらいます。的場君は捜査本部発足時からのメンバーで有能な人物です。よろしくお願いします」
恭平は渋谷と名乗る人物が接触してきたところから話し始めた。テープの内容も思い出せる限り、全ての内容を話した。
「的場君が話した内容は、私を含めて、まだ、誰も知りませんでした。犯人側にとっては非常に不利になる内容が多く含まれています。彼は、この全てを腹に収めて警察官を辞める決心でした。家族を犠牲にしたくないという気持ちからです。彼は、目黒署で一番の愛妻家という変わり種です。辞職の決断は彼にとっては自然の事だったと思います。条件付きながら、おたくの上層部の承諾をいただいたので、この場で話すことを強要したのは、私です。この時点で、私は彼のご家族に対して重大な責任を背負ったことになります。皆さんも信念に基づいて反対されていると思いますので、そのことには何も言えません。でも、この場で、皆さんにも、この的場君のご家族に対する責任が発生したことは承知しておいていただきたい。私は知らんと言って逃げたい方は、それはそれで一つの生き方だとは思いますが、褒めてくれる人は少ないと思います」
「秋吉さん。あなたは検事に対して、脅しで結論を出そうとしてます。警察官としてはあってはならないことですよ」
「脅し、ですか。私は、まだ、脅したつもりはありません。ここで、ご賛同頂けない場合は、本格的に脅しをかけさせていただく」
「馬鹿なこと、言うんじゃない」
「ここは、超法規的措置というやつで乗り切る場面です。八方丸く収めるためには、それしかありません。いろいろな立場の方がいますが、反対してるのは、あなたがた現場の検事だけです。政治家の先生も、警察、検察の上層部も、捜査本部も、現場の警察官も、ここにいる的場君も。誰もがこの案に賛成です。それはなぜか。最大の目的は社会不安の解消です。次に、更なる犠牲者を出さないためです。裁判官や官僚が、幼い少女に卑劣な行為をしてたんです。さらに捜せば、検事も警察官もいたかもしれない。もし、犯人が全てを暴露したらどうなります。あなた方四人で責任が取れると思いますか」
「・・・」
「どうしても、反対されると言うのなら、事の顛末をマスコミにリークします。そうすれば、的場君に責任はないと犯人が納得してくれるかもしれない。私には、どんなことをしてでも、彼を守らなくてはならない責任があります」
会議室が静まり返った。
「この犯人に情状酌量の余地はありませんか。裁判になれば、裁判員裁判になりますよ。もし、検察が死刑を求刑して、10年の判決が出たら、どうするのです。裁判員裁判に大きな課題を残すことになります。八方丸く収めるためには、皆さんの協力が必要なんです」
「時間をくれないか」
「それが、無理なんです。次の電話で、相手に、はっきりとした結論を言わなければなりません」
「電話は、いつ」
「五分後かもしれないし、五日後かもしれない。タイミングを逃せば、もうチャンスはありません」
「2時間だけ、待ってくれ」
「駄目です。一時間で結論を出してください」
「わかった。一時間だな」
「ここで、待ってます」
四人の男が部屋出ていき、管理官は腕を組んで目を閉じた。この管理官は大声を出したり、机を叩いたりする訳ではないのに、圧倒するような迫力があった。捜査本部の上席に座っている管理官を見ている限りでは、大人しいもやしのようなキャリアに見えていたが、とんでもない大物に見えてきた。これが、課長の言っていたスケールの大きさなのかもしれない。
検事が一人だけ部屋に戻ってきた。
「秋吉さん。我々が反対であることは、変わりません。このことは、承知しておいてください」
「はい」
「条件は、この取引が決して表に出ないこと。それと、これはあなたに対する大きな貸しになります。必ず、回収させていただく。よろしいですか」
「はい」
「では」
「20年です。25年でも30年でもありません。20年です。お願いします」
「わかってますよ」
「では、失礼します」
管理官は何でもない会議を終えたように地検の建物を後にした。
「的場さん。もう、途中放棄は認められません。必ず、事件を終わりにしてください」
「はい」
「ところで、的場さんは、どうして、あのネット騒動がダミーだと思ったんですか」
「わかりません」
「刑事の勘、ですか」
「とんでもありません。自分のような若僧に勘の捜査はできません」
「では、虫の知らせ」
「さあ」
「あなたの方向は、真っすぐ紺野奈津に向かってました。やはり、虫の知らせですか」
「はあ」
「どの所轄にも、あなたのような捜査員がいます。それが、警視庁、いや、警察の財産です。できれば、あの辞表は永遠に提出しないでもらいたい。手に余る時は、私に一言、声を掛けてくれませんか」
「はあ」
「あなたなら、自然体で捜査するだけで、大きな力になります。忘れないでください」
「はあ」
「おや。あなたの相棒が待ってますよ」
「えっ」
「私はこの件の始末をつけていきます。捜査本部には戻らないと野本さんに伝えてください」
「はい」
恭平は管理官の後姿に向かって礼をした。退職せずに、事件を解決する可能性を手に入れてくれたのは秋吉管理官の力だった。
「的場さん」
「帰らなかったんですか」
「課長の指示です」
「そうですか。少し待ってください」
恭平は野本課長に簡単な結果だけを伝える電話をした。
「行きましょう」
「はい」
車の座席に座ると、疲れがどっと押し寄せてきた。
「疲れました」
「休憩しててください。安全に署まで連れて行きますから」
「ありがとう」
目を閉じたら、ほんとに眠ってしまったようだった。佐竹に揺すられて、目を覚ました時には目黒署の駐車場にいた。
「着きましたよ」
「はい」
「本気で寝てましたね」
「みたいですね。課長に報告します。佐竹さんも一緒に来てください」
「いいんですか」
「相棒ですからね。そう言ったのは佐竹さんですよ」
「はい」
恭平は取調室に入り、詳細を課長に報告した。
「この件は、報告書、書かなくていい」
「はい」
「捜査本部の中で、このことを知っているのは、ここにいる三人と管理官の四人だけ。この人数を増やすつもりはない。的場君の強い要望があったので、佐竹君にも聞いてもらったが、絶対に他には漏らさないでもらいたい。たとえ、警察官を辞めても話してもらっては困る。約束してもらえるか」
「はい」
佐竹の体が硬直しているのがわかった。恭平も同じ緊張感を持っていた。
野本課長が部屋を出て行った。
「すみません」
佐竹が頭を大きく下げた。
「もう、いいですよ」
「私、足、震えています」
「僕も、地検で震えていました」
「的場さん。ほんとに奥さんの事、愛してるんですね。離婚したら、私が的場さんを引き受けてもいいと思ってましたけど、離婚の可能性、ないみたいですね」
「馬鹿な。でも、家内には、報告しておきますよ」
「止めてください。これぐらいは、二人だけの秘密にしておいてくれなくちゃ」
「ごめん。うちは、秘密なし、なんです」
「もう」
「了解、は」
「あああ」




九鬼和子の病状は波動状態が続いていた。自失状態の時の記憶はないようだ。苦痛が大きすぎて、精神の壊滅を回避するために、自動的に自分自身を切り離す本能の働きなのだろうと思った。今まで、洋平は自分の人生が酷い人生だと思ってきた。和子の人生を垣間見た時、自分の人生などふわふわと飛んでいるシャボン玉に過ぎないと感じている。人間をここまで痛めつけることが許されるだろうか。
洋平が、何も知らずに正義漢面をして、真実を暴く行為に走った結果が、和子を苦痛の底に沈める結果を招いた。和子は、そのことを非難することもしない。洋平は自分を捨てることで償わなければならない。和子が自死を選べば、洋平の未来もない。たとえ、遠い将来でもいい、生きていてよかったという和子の言葉を聞きたい。そのためだけに生きていく。それでもいい。洋平は何でもやるつもりだった。
和子は自分の手は血で汚れていると感じている。自分の投げたナイフが肉に食い込んでいく感触が手に残っていると言った。殺人という罪悪感に押し潰されそうになっている。和子は体験者にしかわからないと言った。そうやって自分で自分を追い込んでいる。たとえ、相手が死に値する男だったとしても、慰めにはなっていない。
洋平は和子を生かすために、拘束を選んだ。断罪され、拘束されることで贖罪の実感が得られれば、生き残る道があるかもしれない。細い、ほんとに細い道かもしれないが、眼前にあるのが死に繋がる道しかないとすれば、たとえ細い道だとしても賭ける価値がある。裏目にでるかもしれないが、選択肢はないと思った。そのためには、刑は有期刑でなくてはならない。警察と取引をすることになるとは思ってもいなかったが、的場という刑事に電話をしたのは冒険に違いないが、時間との勝負になると考えていた。
的場刑事と話してみた結果、求刑をするのは検察の仕事だと言われた。漠然とはわかっていたが、犯罪者にとっては警察の比重が大きいためか、警察と交渉すればいいと考えていた。犯罪者との窓口は警察なのだから。確かに、調べてみると的場刑事の言っていたことは正しい。だが、検事に知人はいないし、個人名は知らない。誰と交渉するのかを決めなければならない。結局、あの刑事に検事の名前を教えてもらう以外に方法はないと思った。
「的場さん」
「はい」
「渋谷です」
「はい」
「この前の件だけど」
「交渉しました。20年で了解が取れました」
「へっ」
「20年でしたよね」
「ええ」
「これ以上の変更は無理ですよ」
「ああ」
「話し合いをしなければなりません」
「もちろん」
「時間と場所を、言ってください」
「ああ」
「どうしたんです。今さら、約束違反は困ります」
「そんなことはしない。でも、のこのこ出て行ったら、逮捕ですか」
「そんなことしても、事件が解決しないと言ったのは、あなたです」
「ええ。ほんとに、20年ですか」
「はい。20年です」
「わかりました。じゃあ、準備ができたら、連絡します」
「渋谷さん。携帯も盗難車も要りません。話し合いに行くのは僕と相棒の刑事二人だけです。卑怯な真似もしません。この前の話で、その位の判断はしてください。僕が信用できませんか」
「いや。でも、もう一度電話をします」
洋平は渋谷の公衆電話の前で、しばらく思考停止に落ちてしまった。そして、渋谷の街を一時間ほど彷徨った。すでに、虎穴に入っているのだから、虎児を得ずに戻るわけにはいかないという結論に達した。洋平は的場刑事に電話をして、車で渋谷まで来るように伝えた。
「渋谷さん。今日はマスクをしてませんね」
車に乗り込んだ洋平に最初に声をかけたのは的場だった。
「あんたのこと、信用することにした」
「そうですか。同僚の佐竹です」
洋平は運転席にいる女刑事に会釈をした。
「20年、簡単じゃありませんでした。今度は、あなたが約束を守ってもらう番です」
「わかってます」
「我々は、どうすれば」
「彼女は、紺野奈津は、今、病気なんです」
「病気」
「医者に見せたわけではありませんし、病名もわかりません。でも、病気なんです」
「そうですか」
「症状が悪くなると、身動き一つしなくなります。その時に連絡しますので、来てください」
「はい」
「僕の希望は伝えましたよね」
「はい。20年ですね」
「それと、彼女に生きていてもらうことです。自殺の可能性は99パーセントあります。逮捕されれば、僕が横にいることはできませんよね。彼女が死んでしまったら、何にもなりません。このことも、約束してくれませんか」
「どうすれば、いいんです」
「24時間監視するとか、自殺出来ないように手足を拘束するとか、どんな方法でも構いません。生きていてくれれば、それでいいです」
「考えてみます」
「今は、四人目の男を殺すまで、死んではいけないと言って、止めています。逮捕されれば、もう殺人はできないので、彼女を止めるものがなくなります」
「わかりました。でも、どうして、彼女が自殺すると確信してるんですか」
「彼女は、最初から、五人の男を殺して、自分も死ぬ計画を立てたんだと思います。彼女はいいことをしてるとは思っていないでしょう。だから、ずっと苦しみながら計画を進めていた。僕は、真相を知るべきだと言い張って、三浦を拉致して告白させました。彼女は両親の自殺の原因を知りませんでした。彼女は地獄の底で苦しんでいると思ってましたが、更に深い地獄を見てしまったんです。もう、殺人は三人で止めると言いだしました。どうして止めるのか。自分の命を絶つためとしか考えられない。僕は約束が違うと責めました。あと二人。それまでは勝手なことしてもらっては困ると言ったんです」
「辛いですね」
「20年後でもいい、30年後でもいい。生きていてよかったという言葉が聞きたいという僕の我儘です。ほんとは、希望通り死なせてやることが、一番いいのかもしれない。それが本当の優しさなんでしょう。でも、このままじゃ、酷すぎませんか。時間と言う魔法に期待している僕の浅知恵かもしれません。生きていることで、より深い苦しみを味わうことになるのかもしれません。それを思うと」
「あなたがしようとしていることが、正しいのか、正しくないのか、ぼくにもわかりません。ただ、僕が渋谷さんの立場にいたら、同じことをすると思う」
「そう思いますか」
「ええ」
「ありがとうございます。少しは気が晴れます」
「でも、あなたも、逮捕されることになりますよ」
「仕方ありません。僕は立派に共犯者ですから」
「彼女が自殺をして、あなたが知らぬ顔をしていれば、警察に捕まることもない。あなたは自由です。どうして」
「そんなこと、できませんよ。的場さんなら、そうしますか」
「いえ。しません」
「僕は更なる苦しみを与えようとしている地獄の使者なのかもしれない。それを考えると、足が竦みます」
「・・・」
「念のために言っておきますが、彼女と僕は男女の仲ではありません。でも、介護をしていますから、彼女の体は見ました。火傷や傷の跡を見て、僕は泣きました。今でも、あの五人の男は死んで当然だと信じています」
「本音では、すぐにでも、と思ってました。でも、渋谷さんの気持ちを信じて待ちます。ただ、介護の必要がある病気だとすると、彼女から事情を聴くことはできないのですか」
「いえ、良くなったり、悪くなったりの繰り返しですから、大丈夫です。ただ、症状が悪くなると、何も言いませんし、何もしません。食事も食べさせなければ、自分からは食べてくれません。トイレも風呂も介護が必要です」
「そうですか」
「的場さんに話してよかったと思ってます。いい結果が出ることを祈るばかりです」
「そうしたいですね。ところで、具体的なことなんですが、迎えに行く時はどこへ行けばいいのかは、まだ教えてもらえませんか」
「それは。そうですね。川崎、だけではいけませんか」
「川崎。川崎ですか」
「何か」
「いえ、我々は東京の警察なので、川崎だと、神奈川県警に頼まなくてはなりません。出来れば、静かに、と思ってましたから」
「だったら、僕のアパートで逮捕したことにすれば、いいです。僕のアパートは狛江にあります」
「そうですか。では、どんな態勢で行けばいいでしょう。病気であれば、救急車か何か必要でしょうか」
「いえ。この車で、お二人で来ていただければ、いいと思います」
「バックアップ要員を認めてもらえますか」
「少人数でしたら」
「それと、先日聴かせていただいた録音とか、他に参考になるものは、その時に渡していただけますか」
「わかりました」
「お二人をお連れした後、神奈川県警と合同の家宅捜索をすることになると思いますが、よろしいですか」
「はい。ただし、鍵はかけておきますが」
「はい。もう一つ。お二人は別々の場所にお連れすることになると思います。多分、刑期を終えるまで、会う機会は無くなると思います。承知しておいてください」
「はい」
「このことを、彼女は知っているんですか」
「いえ」
「彼女は裏切られたと思いませんか」
「思うでしょうね。でも、今は、この話を受け入れてくれないと思います。自殺を早めてしまうかもしれない。それが、困るんです」
「最後に、あなたのお名前と、彼女の現在のお名前を教えていただくことはできませんか」
「んんん。言わなければいけませんか」
「無理にとは、言いません」
「当日まで、許してください」
「わかりました。そうします」
洋平は車を降りて渋谷駅に向かった。予想外の展開だった。だが、もう引き返すつもりはなかった。今日、すぐに実行してもよかったが、あと一日だけ、和子の傍にいたかった。

「署に戻ります」
「はい」
的場恭介は後ろ髪を引かれていた。彼らの住所を確認したい、本名を知りたいという願いはあった。だが、失敗した時のダメージを考えると自重するしかなかった。紺野奈津と渋谷と名乗る男は、いつでも闇に溶け込むことができる。そうなれば、再発見は不可能と思われる。ここまでの彼らの仕事ぶりから考えると、彼らが警察に証拠一つ残さずに消え去ることは可能だと思う。渋谷の発言が全て正しいとして、川崎と狛江にローラー作戦をかけても、発見の確率は低い。
「私、胃が痛い」
「佐竹さんも、ですか。僕もそうなんです」
署に戻って、野本課長に報告した。今は、課長直属の特別班になっているので、捜査本部での居心地はよくない。待機を命じられているので、帰宅もできないし、やることもない。待つことだけが仕事だった。恭介は自分の席に戻り、事件の経過を整理する仕事に没頭することにした。
佐竹にも泊まってもらった。婦警の泊まり込みには、狭い部屋だが仮眠室がある。恭介は道場の片隅で遠慮がちに寝た。
渋谷からの電話がかかってきたのは翌日の昼過ぎだった。
先ず、狛江まで来るように言われた。恭介と佐竹のバックアップは、刑事課で直属の上司である日高警部補が一人だけだった。秘密厳守の方が優先されているようだ。
狛江に着く前に二度目の電話があり、多摩水道橋を渡るように指示された。警察無線は使えないので佐竹の携帯を使って、後続の日高警部補に連絡を入れる。三度目の電話は、府中街道を南下するようにという指示だった。すでに神奈川県警の管轄区域に入っている。佐竹は自分の実家の近くなので、運転に迷うことはない。
四度目の電話が来た。
「的場さんは、九鬼という家を憶えてますか」
「ええ」
「目的地は、そこですが、来れますか」
「ええ。大丈夫です」
「鍵は開けておきますから、そのまま入ってください。よろしくお願いします」
「はい」
まさか、という思いが強い。
「佐竹さん。前に行った、九鬼という家です」
「ひぇっ」
「びっくり、ですね。僕たちは紺野奈津と話をしていたことになる」
「うそみたい」
一度訪問しているので、佐竹は迷うことなく敷地内に車を進めた。
玄関を入ると、廊下の奥に渋谷が立っていた。食堂に入ると、ソファーに座って庭の景色を見ている女性の姿が見えた。その横顔には見覚えがある。恭介たちが部屋に入っても、その女性は動く気配を見せなかった。部屋にはまるで殺気がない。念のために持参するように言われた拳銃が重い。
渋谷が佐竹の耳元で、「ここで待っててください」と言って、恭介を地下室に案内してくれた。
「ナイフはここにあります」
渋谷が開けた棚の中には、夥しい数のナイフが並べられていた。
「これが、ボイスレコーダー。そして、これが調査資料です」
渋谷が分厚いファイルとレコーダーを恭介に渡した。
「僕の名前は須藤洋平です。彼女の現在の名前は九鬼和子といいます」
「須藤さん」
「はい。これで、約束を果たしましたよ。次は的場さんが約束を果たす順番です」
「わかってます」
「意外でしたか」
「まあ」
「彼女の命は的場さんに預けました。守ってください。お願いします」
「はい」
紺野奈津は須藤に体を支えられて、何事もなく車に乗り、須藤が小声で話しかけると、紺野奈津は須藤に体を預けて目を閉じた。
「的場さん。行先は」
エンジンをかけた佐竹が、恭介の指示を仰いだ。
「中野に行きましょう」
「はい」
恭介は日高警部補に電話で応援を要請した。警察病院から、目黒署まで須藤を護送してもらわなくてはならない。地下室で今後の段取りは須藤に話してある。点滴等の処置が必要かもしれないので、紺野奈津は病院に収容し、須藤は目黒署に留置する。昨日、念のために、病院にも中野署にも重要参考人の収容を依頼してあった。
東京警察病院の最上階の特別室に紺野奈津を収容し、須藤を目黒署に送り出した時は三時を過ぎていた。医師の診察には佐竹を立ち会わせ、駆けつけてきた野本課長と残ってくれた日高警部補の三人で打ち合わせをした。
「尋問はできそうか」
「まだ、無理のようです」
「そうか。発表しても、問題はないか」
「ナイフはありました。ボイスレコーダーはまだ聞いていませんが、前に聞いたものと同じであれば状況証拠としては役立ちます。班長にお渡しした資料も状況証拠になります。物的証拠は家宅捜索で見つけるしかないと思います」
「男の方の裏付けはどうだ」
「わかりません。自分は情報提供者としての須藤しか見ていません。どういう犯罪を犯しているのかは、わかりません」
「紺野奈津の尋問は、引き続き、君にやってもらう」
「はい」
「家宅捜索は、うちも立ち会うが神奈川県警にやってもらうことになった」
「はい」
「逮捕の現場は狛江でいいんだな」
「はい。詳しい住所はまだ聞いていません。須藤に確認してください」
「わかった。私は何をすればいい」
「紺野奈津を死なせるなと何度も念を押されています。彼女が死んだ場合、私も私の家族も須藤の報復を受けることになります。24時間の監視をお願いします。そして、監視班のベッドの確保もお願いします」
「よし」
「精神科医師の診察が必要になるかもしれません」
「手配しておこう」
「ボイスレコーダーのコピーをください」
「ん」
「尋問がいつからできるかわかりませんので、検察の方へは根回しをお願いします。尋問ができなければ、検察には送れません。ここに、来ていただいてもいいです」
「わかった」
打ち合わせを終えて病室に戻ると、紺野奈津は眠っていて、佐竹がベッドの横で元気なく俯いている。
「どうしました」
「はい」
部屋の隅まで連れて行かれ、佐竹が小声で話をした。
「ひどいです。十年前の傷でしょうが、怪我したときの様子を想像すると、体が震えました。許せません」
「そうですか」
「あの須藤さんが男女の仲ではないと言ってましたが、他人の前で裸になるのは嫌だと思います」
「そう」
「彼女のやったことって、ほんとに犯罪なんですか。そんなの、おかしい」
それから、二日間、紺野奈津に変化はなかった。食事を与え、時間をみて排便させる。看護師の指示に素直に従っているが、そこに紺野奈津の意思は感じられなかった。
二日後、突然ベッドの上で起き上がった奈津が周囲を見回した。
「ここは」
「病院です」
「あなたは」
「憶えてますか」
「いつかの刑事さん。私、逮捕されたんですか」
「はい」
「そう」
奈津が弱々しく笑った。
「僕の話、聞いてくれますか」
「私だけ?」
「いえ。須藤さんも逮捕しました」
「そう。あの人は何もしてませんよ」
「そうなんですか」
「私に、脅されて、少しは手伝ってくれましたけど、何もしてません」
「そうですか。須藤さんは、あなたの事をとても心配していました」
恭介は経緯を全て話した。後になって知るより、いいと思ってのことだった。警察官としては逸脱した行為だと思ったが、紺野奈津が何も知らないのはフェアではない。警察の独自捜査で逮捕したのではない。須藤の信頼を自分が背負ったことで逮捕に至っている。須藤の信頼には答えなければならない。規則だけで動くつもりはなかった。何よりも紺野奈津に死んでもらっては困る。
「どうして、そこまで」
「えっ」
「黙っていれば、須藤さんは捕まることもなかったのに」
「これは、須藤さんから聞いた話ではありませんが、須藤さんはあなたのことを本気で愛しているように見えました」
「私は、誰かに愛される資格なんてありません。人殺しですし、男の人には、何もお返しできませんから」
「これも、僕の勝手な想像ですが、須藤さんは、全部承知の上だったと思っています。見返りを求めているのではないと思います」
「須藤さんは、どうなるのですか」
「取り調べで犯罪行為が認められれば、起訴されて裁かれることになります。彼にとっては自分が裁かれることなど、重要なことだとは思っていないように見えました。あなたの命だけを心配してました」
「たぶん、須藤さんには見抜かれていると思ってました。約束だから、四人目を殺せと言って、私に圧力をかけてきたのも、そのため」
「そう言ってました」
「須藤さんは、いい人ですけど、余計なことをする人です。こんなことして、私が喜ばないことを、須藤さんは知っていると思ってました」
「ええ。同じようなことを、言ってましたね。あなたには、恨まれると」
「馬鹿なことを」
「まだ、死にたいですか」
「これ以上、私には耐えられません。もう、終わりにしたいんです」
「そうですか。須藤さんはあなたの自殺を阻止してきました。これからは、僕が阻止します。諦めてください」
「須藤さんも、あなたも、何もわかっていない。自分自身から逃れる方法なんてないんです。どこまで苦しめばいいんですか。もう、許して欲しい」
「僕は医者ではありませんから間違っているかもしれません。あなたは、どう見ても病気ですよね」
「何も出来なくなって、何も憶えていない。病気なんでしょうか」
「そう思います。もう耐えられない、もう死にたいと思ってますよね。苦しいですよね。正気のままでいたら、あなたはバラバラに壊れてしまう。あなたの病気は、壊れてしまう自分を防ぐための自然現象だと思うんです。ということは、あなたのどこかに死に対する抵抗があると思うんです。僕はそんなあなたに期待したい。それと、あなたは、僕なんかには想像もできない程の、ほんとに酷い目にあっているんです。だが、あなた一人ではないかもしれない。いや、きっと、あなたと同じように苦しんでいる人がいる。そんな人たちのためにも戦ってもらいたい。悪いのは、死んでいったあいつらでしょう。ここで、あなたが死んだら、あいつらの思う壺ですよ。負けないで欲しい。お願いだ」
「どうしてなの。須藤さんも、あなたも、おかしい」
「僕は警察官で、警察官の仕事は犯罪を証明することです。僕はあなたの犯罪を証明することで、本当に裁かれなくてはいけないのは誰なのかを、大勢の人に知ってもらいたい。そのためにも、あなたには、生きて、証言してもらいたい。全然おかしくなんかありません。あいつらの卑劣な行為を許せないのは、あなただけじゃない。須藤さんも僕も、許せないと思ってるんです」
理屈にならなくても、屁理屈でもいい。よく喋る男だな、と自分でも思う。考え付くことは全部伝えたい。何かが紺野奈津の琴線に触れることを期待していた。大事なものを山ほど失くした女に、大事なものを失くしたくないと思う男の話が通じるのかどうかはわからない。恭介にとっても、紺野奈津は生きていてもらわなければならない存在だった。
「あなたは、人間を殺したことがありますか」
「いえ」
「私の、恐怖は、あなたには、わかってもらえない」
「はい」
「私は、三人も、殺したんです」
「だから、人間は贖罪という方法を作り出したんじゃないでしょうか」
「贖罪」
「刑罰を受けることで、罪悪感と均衡をとる。刑罰は悪いことをした人間に罰を与えるだけではなく、罰を受けた人間にも許しを与えてくれるんじゃないでしょうか。自分の命で購うだけが罰ではないと思います。僕は、大勢の人から、あなたのお父さんとお母さんの話を聞きました。もちろん、あなたの話も聞きました。あなたの家族のことを悪く言った人はいませんでした。神様は何考えているんだと怒った人もいます。その根っこにはあなたたちが誰に対しても優しい気持ちを持っていたからなんだと感じたんです。あなたの優しさは失われていない。だから、苦しい。人一倍優しいから、人一倍苦しいのです。そんな人が死んではいけません。いつか、あなたの優しさに救われる人がいるはずです。あなたのご両親が大勢の人たちに生きる勇気を与えたように。ご両親があなたに残した優しさを大切にするために。あなたには、生きていて欲しい。幸いなことに、あなたは刑務所で罰を受けることになります。時間をかけて罪を償い、誰かのために生きて欲しいのです。あなたのご両親は、いつも周囲の人のために生きていた人だったそうですね。ご両親は、そんな生き方をしてくれるあなたを嬉しく思ってくれるんじゃないでしょうか。そして、そのことが、ご両親の死を無駄にしない、たった一つの方法だと思います」
「・・・」
「北村さんにも会いました。あなたの叔母さんですよね。北村さんは、今でもあなたが生きていると信じています。必ず、帰ってくる。何の疑いもなく、そう言いました。北村さんは子供に恵まれなかったから、あなたの事を自分の娘のように思っている。僕は、そう感じました。北村さんも喜んでくれます。あなたが生きることで、北村さんの人生が豊かなものになると思いませんか。あなたには、もう一度出直すチャンスがあるんです。まだまだ多くの人を幸せにすることができるんです」



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