SSブログ

陽だまり 1 [陽だまり]




闇に身を沈めて五感を研ぎ澄ましていく。体全体の筋肉が張り詰めて、どんな状況にも対応できるようになるまで動きださないのが、須藤洋平のやりかただった。樹木の横では木になり、塀の傍ではブロックになる。勿論、家の中では家そのものになる。人の気配を感じ、貴重品の隠し場所へも直感が導いてくれる。まだ若いが、須藤洋平は空き巣のプロだった。遊びで盗みをやっていた高校時代。卒業と同時にプロに転向してから10年、まだ逮捕されたことは一度もなかった。小柄で童顔、まだ学生服でも通用する外見だが、20代は残り少なくなっていた。性格は臆病で几帳面。洋平の辞書には「無茶」という文字はなかった。フリーターという人種が市民権を得て、バイトを転々とする生き方を誰も不審に思わない時代になり、都会では市民と犯罪者の間に境界線は引かれていない。納得のいくまで情報収集を行い、計画を細部まで詰めて実行に移す。空き巣被害のほとぼりがさめると、その町を出ていく。戦国時代に生まれていれば、忍者になっていたかもしれないという空想に浸ることもあった。高校時代は体操部に所属し、床運動が得意だった。住宅街の塀の上を走っている時など、男子にも平均台の種目があれば、全日本級の選手になれていたかもしれないと思う。
プロの自負を持っている洋平だったが、今日はなぜか集中ができない。見た目ではいつもと変わりがない住宅街なのに、いつもの住宅街と違う。街のせいなのか、自分のせいなのか分からないが、今日は大人しく部屋に帰って寝ることが最上の策だと思い始めていた。
少し離れた場所で人の声がした。それは緊迫感を伴った声に聴こえた。何人かの足音がする。走っている。住宅街全体に緊張が満ちた。洋平は自分の背後の気配を探った。何本もの退路を確保しているが、どの退路が一番安全なのか。小さなビルと民家の間の細い隙間にいた洋平が体の向きを変えて走りだそうとした時に、塀の横を走る黒い影を見た。街を覆っていた違和感の正体が見えた。警察の張り込みと、黒い影の犯罪者。
洋平は通りに体を出した。
「こっちだ」
黒い影は急停止をして、洋平を見て、後を気にした。
「早く」
洋平は、そのまま狭い隙間に飛び込み、走りだした。黒い影が後ろにいることを気配で感じて、塀に飛びつき、塀の向こうに飛び降りた。黒い影は洋平のように身軽ではなく、塀を越えるのに時間がかかる。それでも、後を追って来ている。細い通路の出口で止まり、通りの様子を窺う。深夜の住宅街には人通りも車の通行もないが、安全確認もせずに飛び出すことはできない。後にしゃがんだ黒い影の息がよく聞こえている。
「行くぞ」
洋平は道路を横切って、また狭い隙間に入り込んだ。何度も住宅の庭を横切り、学校の裏側を走り、小さな崖を下った。古びた3階建ての小さなマンションの裏に出て、黒い影に待つように言って、表に回った。「マンション並木」の1階の端部屋が洋平の部屋だった。玄関から鍵を開けて部屋に入り、電気を点けずに裏に面したガラス戸を開けた。
身を潜めている黒い影は、上も下も、そしてズックも黒。しかも、黒いキャップを被っている。「素人」だなと思った。田舎じゃあるまいし、都会の住宅街に真っ暗闇などない。黒装束はそれだけで目立つ。洋平はグレイの上下で、ズックも黒ではない。洋平は手招きで黒い影を呼びこんだ。遠くでパトカーのサイレンが増えている。
ガラス戸を閉めて、カーテンをした後で部屋の電気を点けた。
正面から黒い影を見た。キャップを取ったのは女だった。額に汗が光っている。洋平は口に人差し指を当てて、声を出さないようにと注文をつけた。一人暮らしの男の部屋から話声が聞こえれば、それはいつもと違う状況が生まれる。警察は、何か変わったことはありませんでしたかと聞き込みをする。そんな状況を作る訳にはいかない。洋平の部屋には洋平以外の人間が入ったことはなく、ましてや女の声などする筈もない。
小さな座卓の上に、ノートとボールペンを置いた。
「どこか、痛いとこ、ないか」
ノートに書いた質問を渡した。胡坐をかいて座った女が首を横に振った。
洋平は立ち上がって、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して、一本女に渡した。
「なぜ、助けた」
女がノートに質問を書いていた。
「敵の敵」
女は洋平が書いた敵という文字を丸くかこった。
「警察だろ。追っかけてたのは」
「あなたの敵」
洋平は頷いた。
「今日は、ここを出ない方がいい」
女が、部屋を見回した。その六畳間には小さなテレビとラジカセが一台、それに小さな座卓があるだけ。隣の台所にも小さな冷蔵庫が一台あるだけの寂しい部屋だった。
「何を、やった」
空き巣や泥棒で警察があれほどの動きをする筈がない。女はボールペンを手にしたまま考え込んだ。ボールペンの先でノートを叩く。暫くして、女が書いたのは「殺人」という文字だった。
洋平は女の顔を見つめた。女が冗談を言っているようには見えない。女は洋平の顔を見返した。目鼻立ちはくっきりとしていて、美人の部類に入るのだろうが、顔は戦闘モードのままで危険なオーラが立ち昇っている。洋平は自分の部屋に危険物を持ち込んだことに気がついた。
「近くのコンビニまで行く。僕のいない間は動かないで。トイレも台所も使用禁止。僕がいない間にトイレの水が流れたら変。わかる」
女は返事を書かずに、洋平の顔を見た。
洋平は入口の横にあるドアを指差した。
洋平は、女がトイレの水を流し終わってから外に出た。食糧と飲み物を調達し、外の様子を確認しておきたかっただけではなく、考える時間が必要だった。窃盗と殺人では重さが大きく違う。自分の身に危険が及ぶ事態は避けなければならない。
コンビニは少し大きな道路に面している。終電の終わった時間だから人通りはないが、車の通行はそれなりにあった。初対面だから、女の嗜好はわからない。弁当はやめて、パンとおにぎりを買い、お茶とコーヒーを買った。
パトカーがサイレンを鳴らして通り過ぎて行った。
「何かあったんですか」
「わからん。でも何台も通ったな。物騒で困る」
レジにいる中年の店員がほんとに困っている顔で答えた。コンビニ強盗が珍しくなくなり、深夜のコンビニを任された店員には危険が身近なものになっている。洋平もコンビニのバイトをしているので店員の気持ちはよくわかった。
洋平はコンビニを出て、天を仰いだ。なんて馬鹿なことをしたのだろう。あの殺人犯を助ける必然性などどこにもなかった。できるだけ速やかに、出て行ってもらわなければならないが、あの女が警察に捕まっても困ることになる。逃亡幇助の罪を被る立場に自分を追いやったようなものなのだ。
部屋に戻り、食糧はテーブルの上に置き、飲み物は冷蔵庫に入れた。女は壁にもたれて、目だけで洋平の動きを見ていた。洋平は押入れを開けて自分の毛布と、まだ使ったことのない新しい毛布を出した。
「まだ、使ってない毛布」
ノートに書いて、毛布を女に渡した。
「先に寝る。寝る時は電気を消して」
今晩は動けない。悩むより寝てしまった方がいい。洋平は自分の毛布を体に巻きつけて、女が座っている壁の反対側に横たわった。
女が立ち上がって電気を消した。毛布を使う様子も、横になった様子もなかった。
初対面の殺人犯と同じ部屋にいて眠れるほど洋平の神経は太くない。壁を見つめたまま、身動きもせずに、朝がきた。
トイレを済まして、温くなっているミネラルウォーターを飲んで、押入れから新品のトレーニングウェアと携帯用バックパックを取り出した。背丈は同じぐらいだから問題はないだろう。
「これに着替えて、今着ているものは、これに仕舞って、通勤時間帯に合わせて出て行ってもらいたい。その黒装束は目立ち過ぎ」
「お借りします」
「いや。返してもらわなくても、いいです。この先、二人は無関係。いい」
「わかった」
「好きな物、食べて」
「ありがとう」
筆談のペースが掴めてきた。女は菓子パンを取って食べ始めた。
「缶コーヒーでよければ、冷蔵庫」
洋平は、かつおのおにぎりの包装を外した。
「通勤時間帯は7時から7時半」
女は自分の時計で時間を確認した。
洋平はテレビをつけた。数時間前に起きた殺人事件は、まだ放送しないと思ったが、念のために世間の騒ぎは確認しておきたかった。
だが、十分ほど経ったローカルニュースで殺人事件が映像なしで放送された。殺されたのは暴力団の幹部で、鋭利な刃物で心臓を刺されたと伝えている。抗争事件の可能性も否定できないというのが警察の見解だった。同じ川崎市で拳銃の発砲事件があったばかりなので、その関連ではないかとテレビ局は推測していた。と言うことは、この部屋にいる女は暴力団に雇われた殺し屋なのか。洋平は女の顔を見た。だが、女はニュースを聞いていないふりをした。これこそ、正に最悪の事態だった。
7時になって、女が台所で着替えを始めた。先ほどまで女が座っていた場所にナイフがあった。鞘とベルトが見える。足に巻いて隠してあったナイフなのだろう。それを見て、洋平は自分の迷いを吹っ切った。この街では一度も仕事をしていない。せっかくの情報が無駄になるけれど、次の街へ移ることに決めた。川崎での仕事が終わったら、少し離れた市川市に行く予定をしていた。明日からアパートを探しに行こう。
「最初に、僕が出る。僕が道路で両手を挙げたら、すぐに、ここを出る。挨拶はいらない」
洋平はノートに行動予定を書いて、女が戻ってくるのを待った。
戻ってきた女がノートを読んで、頷いた。洋平はナイフを指差した。
「持っていかない。危険」
見るからに殺傷能力のありそうなナイフを持って出るのは危険だ。女の言うことの方が正しいのだろうが、割り切れない気持ちもある。でも、洋平は頷かざるをえなかった。
「用意は」
「はい。ありがとう」
洋平は部屋を出た。ドアは半開きにしてある。道路に出て、周囲の建物の窓をチェックし、通行人を見た。安全を確認して、道路で体操をしているつもりで両手を上に挙げた。
女は洋平と目を合わせることもなく、自然な態度で歩きだした。黒いズックだけが浮いていたが、着ているトレーニングウェアは全然不自然ではなかった。
部屋に戻った洋平は毛布の上に倒れ込んだ。疲れ切った頭を叱咤激励して目覚まし時計をセットする。バイト先のコンビニの店長は物分かりがいいが、今日の今日では休みは取れない。明日にも辞める店だったが、無茶な辞め方はしたくなかった。
翌日、市川でアパートの賃貸契約をして、バイト先を一週間後に退職する話し合いもついた。自転車で通勤しているが、その途中でターゲットに決めていた家を見ると気持ちが揺れる。だが、殺人事件の緊張感はまだ街中に残っていた。忍耐力が仕事の基本だと信じている洋平は自分の衝動を抑えつけた。

監視を始めて三日になる。バイト先のコンビニに行って名札で名前は確認した。男は須藤洋平。年齢は20代前半か後半か不明だが、30代ではない。化粧をして、眼鏡もかけているのでレジで対面しても気がついた様子はなかった。人畜無害の男に見えるが、須藤洋平が、なぜ助けてくれたのかがわからない。
九鬼和子は「マンション並木」の近くで車を停めて須藤洋平の帰りを待っていた。朝早くに出勤したから、夕方には帰ってくるだろうと思っていたが、須藤洋平が帰ってきたのは夜の10時を過ぎていた。
和子は須藤洋平の自転車の前に立ちはだかった。
「なにか」
「あなたと、話がしたい」
「は」
「お礼も、言いたいし」
「えっ。あなたは」
「そう。あの時の」
「一寸。約束、違う。もう、無関係だと言いましたよね、僕」
「ごめんなさい。でも、無理。あなたの安全も大事だけど、私も自分の安全を確保しておきたい。あなたなら、わかりますよね」
「・・・」
「あの車で待ってます。自転車置いて来てください」
和子は車に戻った。あの男が逃げ出せば、不本意ではあるが、口を塞がなくてはならない。殺人犯を目撃した人間は無条件で殺す必要はあったが、助けてくれたという義理はある。話し合いで両者の立場を創り出さなければならないと思っていた。
しばらくして須藤洋平が無言で助手席に乗りこんできたが、迷惑だと顔に書かれていた。
和子も無言で車を発進させた。近くの工事が中断されている道路に入った。不法駐車の車が何台もあるが、人通りは全くない。
「最初に、助けていただいたお礼を言います。ありがとうございました」
洋平は無言で頷いてみせた。
「どうして助けたのかと聞いたら、須藤さんは、敵の敵だと言いましたよね。警察を敵だと思っているということは、あなたも犯罪者ということになりますが、そうなんですか」
「ああ」
「あなたも殺人犯、なんですか」
「違いますよ」
「じゃあ、何を」
「僕は、可愛い空き巣です。ただの窃盗犯ですから」
「そうですか。そこが、わからないんです。敵の敵はわかりましたが、それだけで、助けますか。私なら、自分だけ逃げますよ。普通、そうでしょう」
「自分でもわからないんですよ。なんで、あんな馬鹿なことをしたのか」
「でしょう。もう少し、納得できる理由はありませんか」
「魔がさしたとしか、言えません。僕だって後悔してるんです」
「そう」
「もう、勘弁してくださいよ」
「須藤さん。逮捕されたことは」
「ありません」
「窃盗なら、有期刑ですね。私、もう二人殺してますから、無期か死刑です。この差がわかりますか」
「・・・」
「それよりも、私は、あと三人、殺さなければならないんです。捕まるわけにはいかないんです。あなたが捕まれば、私のモンタージュ作成に協力することもできます。それって、とても危険なことですよね」
「そんなこと、しませんよ」
「私も、そう思います。でも、あなたも人間ですから、絶対ということはありえない。たとえ1パーセントの確率しかないとしても、危険は危険です。わかってくれますよね」
「だから、絶対に、しませんって」
「無条件に、信じろ、と」
「ええ」
「須藤さん。たとえ、軽微な窃盗だとしても、あなたも犯罪者ですよね。そんなあなたが、他人の言葉を信じろと言って、説得力があると思いますか」
「・・・」
「では、立場が逆だったら、あなたは、どうしますか」
「・・・」
「私の言葉を信じますか。それは、ないでしょう」
「僕に、どうしろ、と」
「まだ、わかりません。だから、話し合って、お互いに納得できる結論が欲しいと思っているんです」
「確かに、僕は失敗をしました。あなたの逃亡に手を貸すべきではなかった。だからと言って、こんなこと言われるのはおかしいと思います。それに、どうして僕の名前を知ってるんですか」
「あのコンビニで、あなたの名札を見ました」
「僕がレジしたんですか」
「ええ」
「どうして、わかったんです。勤め先が」
「・・・」
「監視してたんですか」
「ええ」
「まいったな。ひどいじゃないですか」
「あなたと私では、失うものの大きさが違います。当然のことをしただけです」
「僕は帰らせてもらいます。たとえ、僕が逮捕されても、僕はあなたの名前も住所も知らないから、警察に情報を取られることもありません。それで、納得してもらわなければなりません。それ以上のことはできませんから」
「それでは納得できないから、ここにいるんです」
「そんな無茶な」
「須藤さん。あなた、気懸りなことがあって、仕事に支障があるとしたら、どうしますか。その気懸りを放っておきますか、それとも解決しようとしますか。私なら、心配事は無くしておきたい」
「そら、まあ」
「ですよね。ま、あなたが助けてくれたのは、あなたが言うように魔がさしたとしましょう。でも、結果的にそれが私の心配事になってしまった。あなたが意図したものではなかったかもしれないけど、このことは、つまり、あなたと私の関係ははっきりとしたものにしておかなければなりません。ん。回りくどい、ですよね。はっきり言っていいですか」
「ええ」
「あなたは、私の顔を見てしまった。私としては、安全のために、あなたに死んでもらうことが最善の方法になります。死人に口なしですから。でも、あなたには助けてもらったという恩義があります。できれば、殺したくない」
「・・・」
「私は、あなたを殺さずに、心配事を解決する方法を見つけたい」
「そんな」
「あなたの、命を救う方法。それを考えてください」
「わかりません」
「須藤さん。あなた、ほんとに真剣に考えてますか。このままだと、殺されますよ。私のこと女だと思って、なめてます」
「いえ」
「だったら、考えて」
「僕が、捕まらなければいいんですよね」
「で」
「空き巣、辞めます」
「その保証は」
「保証、って」
「例えば、片足になるとか。松葉杖ついて、空き巣は無理でしょう」
「まさか」
「じゃあ、視力を失うとか」
「そんなの、駄目です」
「うちには地下室がありますけど、そこに監禁するとか」
「それも、駄目です」
「そうですか。困りました」
「信じてくださいよ。絶対に喋りませんから」
「喋らない。その保証は。そうか。あなたも、殺人犯になればいいんです。それなら、窃盗で捕まっても、殺人のことは喋りませんよね」
「勘弁してくださいよ。僕にそんなことできるわけがない」
「だって、他に方法はないでしょう」
「駄目です」
「待って。あの日、あなたは、あの路地にいた。つまり、アリバイはないのよね。私達が二人組でもおかしくない。そうか、私があなたを共犯者だと自白すれば、あなたにはそれを否定する材料がない。あとは、動機さえあれば」
「待ってくださいよ」
「あなたは、坂東に脅されていた。窃盗のことを黙っていて欲しかったら、組の仕事をしろと脅されていた。覚せい剤の運び屋とか」
「坂東って、誰です」
「この前、私が殺した三宅組の幹部。坂東は死んでるわけだから、どんな話も裏は取れない。警察は共犯である私の話を信用するしかないでしょ。それに、私の指紋はあなたの部屋にある。全部消すのは難しいと思うし、一つでも見つかれば、あなたが隠蔽工作をしたことが立証される。警察は、そもそも、女が一人で男を二人も殺すことができたことに疑問を持つわね」
「どうして、そうなるんです」
「あなたの命を助けるためよ」
「おかしい、ですって。僕が何をしたと言うんです」
「ごめんね。私、捕まるわけにはいかないの。自分勝手だと言われても、どんな障害を排除してでも、必ず、やりとげる。あと三人。それが終わったらあなたは自由になる。それまでは我慢して」
須藤洋平は頭を抱え込んだ。
「実はね、私、今とても危ない橋を渡っているんだと思う。問答無用であなたを殺しておかなかったことを後悔することになるかもしれない。あなたを殺して、そのことを後悔することの方が正しい選択なんだと思う。自分でも、どうして、こんな危険なことをしてるのかわからない。あなたが私の希望通りに動いてくれる保証はどこにもないでしょう。須藤さんの監視だけをするわけにもいかないし、あなたが逃げれば、見つけるために大変な時間が必要になり、見つけても殺す以外に方法はないとすると、二度手間になるのよね。あの日、あなたの部屋に行った時、何度も殺そうと思った。でも、できなかった。馬鹿よね」
「ここでも、そうなんですか」
「・・・」
「僕のこと、殺そうと思ってます」
「それはありません。だって、血痕がここに残るもの。危ないのは、車を出た後。でも、そんなことにはしたくない」
「つまり、共犯者になるしかない、と言うことですか」
「ええ。そうしてくれると、嬉しい」
「えらい人に出会ってしまったようですね。手遅れですけど」
「そうね。運が悪いと言うか」
「全くです。僕は自分の計画をやめて、引っ越す予定でした」
「市川でしょう」
「それも、わかってたんですか」
「ごめんなさい」
「あと三人殺したら、僕は自由になれるんですよね」
「ええ」
「どの位、時間、かかります」
「そうね。二年かな」
「じゃあ、二年待ちます。その間、仕事はしません。だから、捕まることはありません。ただのフリーターでいます」
「そう。よかった。ありがとう」
「ふうう」
引っ越しの話は黙っていてもいいことだが、須藤が自分からその事に言及したことでその言葉に少し信頼感が出てきた。
「では、次の話し合いに移りましょう」
「えっ」
「須藤さんは、私の共犯者?」
「違いますけど、そうです」
「どっちなんですか」
「共犯者ということになってます」
「つまり、あなたには共犯者という意識はないということ?」
「だって、違いますから」
「そうよね。そこで、相談です。あなたが腹を括るためにも、実際の共犯者になってもらう必要があると思うの」
「はい?」
「違う?」
「あのね。言ってることが、無茶苦茶なんですけど」
「あなたには、いつでも裏切る用意がある。私にはそう聞こえる。とても、安心できませんよね。つまり、本物の共犯者になってもらうしか、ない。そう思いませんか」
「思いません」
「そこで、あなたには、次のターゲットを探してもらいます。あなたに殺人は無理なようですから、殺せとは言いません」
「出来ませんよ」
「条件を言います。殺されても当然だと言われる男を見つけてください。年齢は問いませんが、できれば40代以上の男が理想です」
「どういうことです。あなたは、無差別殺人をやってるんですか」
「いえ。無差別殺人に見えるようにしたい」
「偽装工作」
「ええ」
「そのために、人を殺すんですか」
「いけませんか」
「普通、いけないでしょう」
「それを言うなら、無差別でなくても、殺人はいけないでしょう」
「そりゃあ、そうです」
「私は、目的のために手段を選ばない決心をしました。でも、人を殺すという行為は、想像を超える衝撃がありました。肉に食い込むナイフの感触が残るんです。二人殺しましたが、慣れることはできません。多分、何人殺しても、同じことだと思います。だから、死んでも当然と思われる相手が必要なんです。三人目の被害者は須藤さんでもよかった。でも、須藤さんは小さな悪事は働いていても、殺されても仕方がないほどのことはしてませんよね。あなたを殺した時は、これまでの衝撃より、はるかに大きなダメージを受けることになるような気がするんです。ただ、他に選択肢がなければ、それは、仕方のないことですけど」
「どうしても、と言うことですか」
「ええ。最悪の出会いだったと、諦めて、くれませんか」
「ほんと、最悪です」
「ごめんなさい」
「どうして、偽装工作が必要なんです。あと三人を、とっとと殺してしまえば済むことでしょう」
「そう、簡単にはいかないんです。実際にやってみると、殺人は簡単じゃありませんでした。無差別に五人殺すのなら、時間はいりませんが、特定の人間を殺そうと思うと、時間がかかるものなんです。途中で捕まりたくない。そのための偽装工作です。次の男を殺すと、捜査線上に私が浮かぶ可能性もあります。そうなると、四人目と五人目の男を殺すことができなくなる。それは困るんです」
「でも、僕の周りにそんな男はいませんよ」
「だから、捜すんです」
「捜すと言っても」
「須藤さん、ネットは」
「パソコンありません」
「ネットカフェは」
「そりゃあ、行ったことはありますけど」
「本職は空き巣ですよね」
「その言い方、一寸」
「でも、そうでしょう」
「まあ」
「学生証を集めてください」
「どうして」
「あなたなら、学生でもおかしくないでしょう。監視カメラがありますから、多少の変装はしてくださいね。先ず、噂を流します」
「噂」
「ええ。現代版の仕事人がいるらしい、と言う噂です。目黒の公園刺殺事件も川崎の暴力団幹部刺殺事件も、その仕事人がやったのだと。二人の悪行を書いて、死んでも当然の男だったと」
「で」
「時間が経てば、その噂は独り歩きをするでしょう。もちろん、警察も目を光らせる。ハッキングは」
「それは、無理」
「じゃあ、私がします。休眠状態の他人のホームページに殺人依頼を書き込む場所を作ります。そのリストを拾い上げて、削除してください。これは、時間との戦いになります。警察がネットカフェに駆けつける前に逃げださなければなりません」
「捕まりませんか」
「絶対安全ではありません。危険はあります」
「ですよね」
「いっぱいダミーを作りますから、それなりに時間はかかると思いますし、きっと、マネをしてくれる人も出てくるでしょう。この手の話は、皆、好きですから、噂が噂を呼ぶと思います。逮捕者が出るかもしれませんが、私達が実行に移すのは、半年先ぐらいになります。ほんとに、処刑されるにふさわしい男かどうか、調べなければなりませんから」
「はあ」
和子は、ここまで話して、須藤洋平の落ち込んだ様子を見て、諦める決心をした。殺害もいとわないという強い決意でこの場に臨んだのだが、自分にはこの男を殺すことはできない。どう考えても、処刑に相応しい男ではない。この男を放置すれば危険はあるが、それは自分で背負っていかなければならないだろう。殺した坂東が警察の監視下にあったことに気がつかなかったのは、あくまでも自分のミスであり、須藤には関係がない。
「無理みたいですね」
「えっ」
「私のことを、誰にも話さないということで、勘弁してあげます」
「いいんですか」
「須藤さんは私を助けてくれた。それなのに、私はひどいことを言ってる。私、必死なんです。許してください。でも、諦めることにします」
「はあ」
「送ります」
和子はエンジンを始動した。

どんどん追い込まれて、もう逃げ場がないと思った時に女は諦めると言い始めた。洋平はなぜか肩すかしをくらったように感じていた。こんな強さを持った人間に出会ったのは初めてだった。空き巣を重ねて、細く長く生きようとしていた自分が小さく見える。犯罪者なら太く短く生きるべきかもしれない。別に将来に何か希望を持って生きているわけではなく、充実感があるわけでもない人生。本気で考えれば、自分を壊すことになると思って、棚上げにしてきた自分の生き様。納得しているわけではないのに、先送りにすることで問題を解決したように感じていた自分。女に頬を張り飛ばされたように感じた。自分の中にまだ残っている男の部分が、「どうする。男を捨てるのか」と問いかけている。
「じゃあ」
女に言われて、洋平は車を降りた。
洋平は、車の発進に合わせて車のルーフに取り付けられているパイプに手をかけて屋根に飛び乗った。出来る限り屋根に張り付く。車高のあるワンボックスカーだから、他の車からは見えにくいはずだが、大型車からは丸見えだろう。でも、この機会を逃せば二度とこの女とは会うこともなくなる。何かをやり残し、消化不良のまま時間を送ることができなかった。問題はどこまで走るのか、だった。まだ十月とはいえ、風をまともに受けて長時間走られたら体力に問題が出る。
女は幹線道路を使わずに裏道ばかりを走った。川崎に住所を移してからまだ2年にもならない洋平には初めての道ばかりだった。前後を走る車はなく、対向車も一台しかいなかった。東横線は越えたが、まだ小田急線は越えていない寂しい場所に女の家があった。田舎風の垣根と広い門を入った車は屋根だけの駐車場に停まった。建屋は田舎作りではなく、古びた洋館風の建物で灯りの類は月明かり以外に何もない。玄関灯すらなかった。
洋平は女が車を降りて建屋に入るまで、車の上で待った。しびれた手足を揉みほぐしながら、「ほんとに、いいのか。引き返せないぞ」と自分に問いかける。臆病を慎重に、優柔不断を思慮深いに言い換えて、30年近く生きてきて、そのことに倦んでいる自分を無視して、「何してるんだろう」と呪いながらも、ただ流れ続ける朽ちた葉のような自分。人生なんてそんなものだろうと悟ってみても、何も満たされることのない人生。自分自身に「うんざり」していることだけは、自分が一番よく知っている。二人もの人を殺し、まだ三人殺すのだと言っていた女の目には輝きがあった。あの女には、俺の目は死んだ魚の目のように見えたことだろう。息はしているが、俺は生きていない。あの女は、生きている。自分一人では冒険できないが、あの女となら、それができるかもしれない。死ぬのは怖いが、百年生きるのも怖い。何もしなかったという後悔に包まれて死ぬことを、昔の人は成仏できないと言ったのだろう。今、この一歩を踏み出さなければ、自分の人生は想定通りの、何の輝きもない人生になってしまう。
洋平は玄関に向かって歩き始めた。
玄関の前に立ったが、どこにも呼び鈴のようなものがない。どんどん、どんどんと拳でドアを叩いた。自分の心臓の音が聴こえる。
「だれ」
「須藤です」
ドアがゆっくりと開いた。最初に見えたのは、手に握られたナイフの光だった。
「入って、いいですか」
女が背中にナイフを隠して、目を見開いていた。
「どうして」
「いいですか」
女が道をあけて、洋平は玄関の中に入った。
「共犯者って、仲間ですよね。仲間なら、正体は知りたいですよね。話も途中だったし」
「でも、どうして」
「ああ、簡単です。僕もあなたの車に乗ってきましたから」
「車に」
「ええ。屋根の上は寒かったです」
「屋根」
「気付きませんでしたか」
「ええ」
「できれば、何か温かいもの、ないですか」
「ああ、ごめん」
洋平は食堂に案内された。玄関ホールも食堂も古く、明治時代にタイムスリップしたのではないかと思った。テレビドラマに出てくる鹿鳴館風の館、ドラマなら、その内部では必ず殺人事件が起きることになっている。女が出て行ったドアの向こうは台所になっているのだろう。ガスの音や食器の音が聞こえてくる。テーブルも椅子も窓もアンティークを気取ったものではなく、自然とアンティークな家具になりましたという古さを感じる。
「紅茶しかないの、いい」
「はい」
砂糖もミルクもレモンも出てこないところを見ると、このまま飲むものらしい。
「いただきます」
一口飲んで洋平は驚いた。美味しい。生まれて初めての紅茶ではない。何回かは飲んだ記憶があるが、まるで初めての体験のようだった。
「美味しいです」
「よかった」
「ところで、お名前を、教えてもらえませんか」
「言ってませんでしたか」
「聞いてませんよ」
「そうよね。九鬼和子です」
「九鬼さん。この家に、お一人ですか」
「ええ、主人は亡くなりました」
「お歳を、聞いてもいいですか」
「26」
「僕より、年上かと思ってました」
「須藤さんは」
「僕、28です」
「見えませんね」
「でしょう。いつも、そうです」
お互いの名前と年齢がわかっただけで、随分身近に感じる。
「事情はあるのでしょうけど、僕を仲間にするという話は本気なんですか。そもそも、人を殺したという話、ほんと、なんですか」
「ええ」
「僕のこと、殺すつもりだった、というのも」
「ええ」
「その気持ち、まだ、あるんですか」
「いえ。須藤さんを殺すのは、諦めました」
「よかった」
「でも、どうして。あんなに抵抗してたのに」
「僕、優柔不断だと言われます。石橋を叩く方なんです。いつでも、安全第一なんですけど、そんな自分に行き詰っていたんだと思います。犯罪者なら犯罪者らしく、太く短くでもいいんじゃないかってね。どう見ても、せこいんです。僕の生き方。九鬼さんの発想に、揺さぶられたと言うか、叩きのめされたと言うか、いつか後悔するんでしょうが、いや、きっと後悔しますが、一歩踏み出してみようかな、なんて」
「でも、窃盗なんですから、細く長くも、あるんじゃないですか」
「何十年も、ですよ」
「無期懲役よりは、よくないですか」
「捕まらなければ、いいんです」
「それは、無理でしょう。捕まりますよ、私も須藤さんも」
「そこを、何とか、頑張って、切りぬけましょうよ」
「変な人ですね」
「僕も、そう思ってます」




目黒署7階にある弁護士刺殺事件の捜査本部には疲れた表情の捜査員が群れていた。事件が発生してから一か月になるのに、まるで方向が見えない。凶器が特殊なナイフだったので、すぐに解決する事件だと誰もが思っていた。10月に発生した川崎の暴力団幹部刺殺事件の殺害手口と凶器が全く同じだということが、目黒の事件を複雑にしていた。警視庁も神奈川県警も連続殺人事件とは発表していないが、警察にとっては同一犯人による紛れもない連続殺人事件だった。川崎の事件の場合、別件で監視していた警察官の前で事件が発生したのに、一人として犯人を目撃した刑事がいない。それは、あり得ないような失態だった。多摩川を境界としている警視庁と神奈川県警は決して良好な関係を築き上げているとは言えない。未だに合同捜査本部の話は宙に浮いたままだった。
二つの事件に使われた凶器のナイフは柄の部分の文様まで一緒なのだが、目黒署はその捜査に行き詰っている。一般に市販されているナイフではない。コレクターと呼ばれる人種が持っている特殊なナイフで、スローイングナイフと呼ばれている。被害者は二人とも背中から心臓を一突きにされて、ほぼ即死だったと思われる。物盗り目的ではなく、怨恨と言うより処刑に近い。やくざが被害者になったことで、処刑説が多くなったが、二人の被害者の接点はどこにもなかった。犯人はプロの殺し屋で、既に国外に逃亡しているのではないか。憶測ばかりが先行し、警察の得意とする地道な捜査でも空振りばかり。捜査本部の士気が下がるのは仕方のないことだった。
的場恭介は殺人事件の捜査本部に初めて参加した。本庁から来た警部補と組んでいるが、その梅原警部補の口数が日に日に少なくなっていく。冗談も言えない雰囲気で、毎日が重苦しい。被害者の弁護士は悪徳弁護士だと判明し、恨みを持つ人間は山のようにいる。すぐにでも犯人が絞り込めると思われていたが、容疑者は浮上してこなかった。犯行時刻は深夜と推定されているため、目撃情報は数件しかなく、それも全て裏がとれて無関係と断定された。周辺の店舗やマンションの防犯ビデオをかき集めて分析したが、有力な情報は得られていない。
恭介は凶器のナイフ捜査班だった。ネット販売の場合には送り先があるが、店頭にきた客に対しては身分証の提示を求める必要もない。しかも、販売されていないナイフを捜すのだから、マニアやコレクターを捜すことが先になる。特に両刃のナイフが販売できなくなってからは、マニアは情報提供にも二の足を踏む。ナイフ所持者全員の捜索令状を請求するわけにもいかず、頭を下げて情報を貰うくらいしかできない。東京中を走り回っているが、スローイングナイフを持っている人間はいなかった。特に若者は実物を見たこともないという人間ばかり。どこで売ってるんですかと聞かれることの方が多かった。
若い頃は、コレクターだったという人間がそのコレクションを捨てきれずに物置の奥に仕舞っているナイフ。可能性が高いのはそんな元コレクターだが、それを捜すことは事実上不可能に近い。何十年も遡って、かつてのマニアやコレクターを見つける方法はないのが現状だった。それでも僥倖を求めて歩き続けなければならない。
神奈川県警との合同捜査は暗礁に乗り上げたままだが、この事件に関してだけは情報交換を徹底するという協定が成立した。お互い、背に腹は代えられないというのが本音だった。捜査方針は二人の被害者の接点を求める方向に移り、大半の捜査員は被害者の弁護士、本間隆三の過去に振り向けられた。ナイフ捜査の担当は梅原警部補と的場巡査部長の二人だけになった。
「このまま、年越しですかね」
「さあな」
二人の刑事は青梅市に向かっていた。話しが聞けそうな人物がいれば、どこへでも出かけなければならない。効率の良し悪しは問題ではない。微かな情報だけでも車を走らせている。最近は捜査時間の大半が移動時間に使われていて、それなりの話が聞ければ成功と言わなくてはならない。相手が見つからないこともあれば、全く無関係の場合もある。青梅市の向こうには奥多摩があるだけで、その先は東京ではなくなる。犯人が東京在住とは限らないし、さらに日本在住でないことも考えられる。青梅市ぐらいで不服を言うつもりはないが、当たりのない捜査は疲れを溜めるだけの行動にしかならない。二人の間には無駄話の種も、世間話の種も尽き果てていた。
やっとの思いで辿り着いたが、見事に空振りだった。該当人物は2年前に亡くなっていて、一人息子は海外在住だった。住んでいた家もなくなり、遺品がどうなったのかを知っている人間もいなかった。
梅原は恭介より年齢も階級も上だが、二人とも中肉中背で、体育会系ではない。さらに、共通しているのは、疲れた暗い表情だった。
そして、恭介が予測したとおり事件は何の進展もなく年を越してしまった。それまでにリストアップされ、既に聴取した人間から二回目の聴取もした。行き詰りとどん詰り状態の中で、もがく術さえなくなっている。
「青梅の坪井さんを、当たってみませんか」
「どうして」
恭介の提案には何の根拠もないが、元気のない梅原の反論にも根拠はないはずだと思った。
「海外出張は無理ですけど、手紙は書けます」
「ああ」
「住所調べてみますよ」
「ん」
「梅原さん、本庁に用事があると言ってましたよね。住所調べるだけだから、自分一人で行ってきます」
「そうか」
忙しく嗅ぎ回っている時は二人で行動しても問題ないが、煮詰まってしまうと二人でいることだけでも息苦しくなる。それは恭介だけではない。溜息の数を数えていれば、梅原も同じ気持ちでいることがわかる。
「わかった」
恭介は一人で青梅に向けて車を走らせた。天気は曇りだが、気持ちは晴れていた。梅原は、先輩風を吹かしたり、意地悪をするような悪い人ではないが、とにかく暗い。同僚から暗いと言われている恭介より何倍も暗いと思っている。
坪井義雄の親戚を探すために、市役所に寄った。
「坪井さんね。たしか亡くなりましたよ」
「ええ。知ってます。どなたかご親戚の方の住所をお聞きしたいと思いまして」
「坪井さんが、何か」
「坪井さんの息子さん、海外だと聞いたんですけど、住所をお聞きしたいので」
「そうですか。新町の坪井さんなら、甥っ子がいますけど」
「ここに」
「はい。呼びましょうか」
「お願いできますか」
すぐに愛想のいい男が窓口に現れた。
「坪井です」
「的場と言います」
恭介は名刺を出した。坪井義雄の甥がくれた名刺には坪井康夫とあった。
「坪井義雄さんの息子さんの住所、わかりますか」
「たっちゃんが、何か」
「いえ。坪井さんの古い記憶を教えていただこうと思ったんですけど、2年前に亡くなられたそうですね。息子さんなら何か知っているかなと思っているんです」
「ややこしいことに、なりませんよね」
「もちろんです。ただの情報集めですから」
「わかりました。じゃあ、私の家まで行ってもらえますか」
「ええ」
「達也からの手紙がありますから。家の者には電話しておきます」
「すみません」
坪井康夫の自宅では、明るくて気さくな奥さんに昼食までご馳走してもらった。行きも帰りも、こんなに気持ちのいい一日は久しぶりだった。これが、人間の生活というものだ。梅原も連れてくればよかったと後悔した。坪井達也はカナダで大学の研究員としてバイオの研究をしているらしい。日本に帰ってくる予定はないだろうと言っていた。
恭介は生まれて初めて書くエアメールに少し興奮しながら、丁寧に依頼事項を書いた。
地球の裏側にいる人間が、見知らぬ刑事の頼みごとに答えてくれるのかどうか。期待しないでおこうと思いながら、毎日返事を待っていた。そして、二十日後に恭介宛のエアメールが実際に届いた。手紙を手にしただけで、心臓が躍った。カナダから手紙が届いたということだけで感激だった。
かなりの数のナイフがあったが、ナイフの種類までは記憶にない。廃品業者に頼んで処分してもらった。業者の名前は憶えていないが、地元の業者だから坪井康夫に調べてもらえばわかると思うと書かれていた。コレクター仲間かどうかはわからないが、まだ小学校に行く前、遊園地に連れて行ってもらったことがあった。その時、父の友達の家にいったことがある。父は古い友達だと言っていた。名前は九鬼という名前だったと思う。先祖は九人の鬼だと脅かされたので憶えていたらしい。ただ、その人がナイフのコレクターだったかどうかは確信がないと書かれていた。遊園地の名前も記憶にはないので、悪しからずとあった。坪井康夫の奥さんから聞いた話では坪井達也の年齢は32歳だから、25年ほど昔の話になる。
恭介は、梅原と一緒に青梅に向かった。市役所の坪井康夫が調べてくれた廃品業者は三田商店だったが、一か月前の12月に主人が亡くなり、店は閉めたと奥さんに言われた。伝票の類はなく、どこに処分したのかわからなかった。同業者に当たってみたが、始末に困る品物は埋め立てに回すから、二年前の品物を捜すのは無理だと言われた。誰か買い手がいたとしても、他の業者に漏らす奴はいない。そこの親父が死んだら、闇の中だと言っていた。スローイングナイフがあったのかどうかも不明で、どこに処分されたのかも不明だった。恭介は梅原を連れてきたのが間違いだったのではないかと思った。どんな世界でも同じなのだろうが、刑事の世界にも運の強い男と不運に付きまとわれる男がいる。恭介には梅原が強運の男には見えなかった。
次は遊園地を一つ一つ潰していかなければならない。遊園地の近くにある九鬼という名前の男の家を捜す。25年も前のことなので、雲を掴むような話だったが、時間だけは充分にあった。
遊園地のリストアップをして動きだそうとした日に、捜査本部は激震に揺れた。ネット上に犯行声明ともとれる書き込みが見つかったのだ。少し前から「必殺処刑人」という書き込みが出始めていたが、いつもの悪乗りだと思われていた。ところが、その書き込みには目黒と川崎の被害者が過去に犯した悪行が書かれていて、次に処刑する人間を公募すると書かれていた。二人の被害者は細身のナイフで心臓を一突きにして処刑したとある。この書き込みが認知されると、連続殺人事件という発表をしていなかった警察の姿勢も批判の的にされることになる。
捜査員は全員足止めされた。恭介たち捜査員の心配は上層部の迷走だった。特別捜査本部が二か所にあり、今度は本庁のネット犯罪対策室が前面に出てくるだろう。船頭が多くなって被害を受けるのは、現場の捜査員と相場は決まっている。捜査本部の部屋に重い空気が流れているのは、捜査の将来を予見している刑事たちの気持ちそのものだった。
書き込みをした人間が特定されれば、捜査員は問答無用で走らされる。目黒署からも、現地に向かっている捜査員がいた。捜査本部は必殺処刑人捜査本部に変わろうとしていた。当分は凶器捜査班も開店休業にしなければならない。目黒署でも情報収集の目的で捜査本部にパソコンが集められ、臨時のネット監視班が作られ、恭介もパソコンの前に張り付くことになった。
必殺処刑人という言葉は、既に検索キーワードの一位になっていた。処刑対象者を公募した鉄槌請負人というハンドルネームの書き込みは削除されていたが、各種の掲示板はその噂で賑わっていた。その状況を警察の側から見れば、事情聴取をしなければならない人間が秒単位で増え続けているということだった。たとえ、首都圏在住者に限定しても一日で警視庁のキャパを超えてしまうだろう。ネットに繋がっているのは、パソコンだけではない。携帯電話から書き込みをしている人間の方が多いし、学校や職場のパソコンやネットカフェからも書き込みされている。全員を追いかけるのは不可能なことなのだ。誰がふるいにかけるのだろう。本物を取り逃がす心配はないのだろうか。
捜査員が次から次へと飛び出して行き、残っているのは臨時のパソコン監視班になっている若手刑事3人だけになった。夜になっても捜査員は誰も帰ってこない。捜査員は電話報告を入れると、次の聞き込みを命じられて別の場所へ飛んで行く。10時を過ぎて、3つの班が戻ってきた。梅原も帰ってきた。
「どうでした」
「あれは、白だな」
「梅原さん、あの鉄槌請負人で書き込んだ奴ですよね」
「多分、アリバイ成立だろう」
鉄槌請負人のハンドルネームで書き込みをしたパソコンの持ち主は宮坂健三という大学生だったが、本人はずっと学校にいたらしい。食事をして自分の部屋に帰ると、刑事に囲まれることになった。参考人として署に連れてきたが、交友関係の洗い出しをして、確実なアリバイが成立すれば、すぐにでも帰さなければならないだろうと梅原が説明してくれた。
「そもそも、部屋の窓には鍵がかかってない。外部からの侵入も可能だ」
「侵入の形跡は」
「監識が調べてるが、本人はそんな形跡はないと言ってる。いつも窓の鍵など閉めたことはないと言ってた」
「パソコンは間違いないんですか」
「ああ。若林がネットの履歴を調べたら、あったよ。あのパソコンから書き込まれたのは確かなようだな」
犯人に辿りついたわけではなかったが、捜査ができたことで梅原の口も軽かった。
「そっちは、どうだ」
「手に負えません。増えるばかりです。これでは、捜査になりませんよ」
「そうか」
「皆、言いたい放題ですし、恐ろしいほどの数です。スローイングナイフの写真も出てきましたよ。多分、自分らが事情聴取をした連中です。写真を見せてますからね」
「誰か行ってるのか」
「はい」
「こいつら、一人や二人じゃないな。監識の捜査で何も出てこなかったら、かなり、手ごわい相手だということになる。凶器の出所は無理かもしれん」
「と言うと」
「その辺にあった古いナイフを使った犯行ではないのかもしれん。殺しの手際も見事なものだし、ナイフを国外から持ち込んでいれば、どうにもならん」
「はあ」
その日は、恭介も鼾の大合唱で賑やかな道場に泊まることになった。妻と一歳になる娘がいるので、極力自宅に帰るようにしていたが、暫くはそれも難しいかもしれない。話しには聞いていたが、捜査本部に入るということは家族との別離の始まりなのか。でも、そんな警察官にはなりたくなかった。




「須藤さんも、ほんとに共犯者になってしまいましたね」
「そのようですね」
「いいんですか」
「ええ。そう、決めましたから」
「ありがとう」
「でも、こんなに大騒ぎになってしまったら、やりにくくないですか」
「少し、時間をおけば、騒ぎは治まりますよ。待つのは平気ですから」
二人は九鬼邸の食堂で、紅茶を飲んでいた。パソコンにしがみついていたので、肩がこっている。騒ぎは洋平の想像を超えていた。
洋平は狛江に引っ越しをして、近くのコンビニでバイト先を見つけ、同じような生活をしていた。空き巣には入らないが、調査は以前より綿密にするようになった。命がかかっているのだから当然のことだ。無人の部屋に入って金品を盗むのではなく、パソコンを使うだけ。極力、侵入の痕跡を残さないことが最大の注意事項だった。防犯カメラのあるネットカフェに行くつもりはなかった。職業上、防犯カメラは洋平の天敵だった。
作戦を立てるのは九鬼和子の仕事で、洋平は兵隊に徹することにしていた。ただし、殺しの実行だけは洋平の役目ではない。
「須藤さん。理由を聞きませんね」
「理由」
「ええ。私がこんなことをする理由です」
「まあ」
「須藤さんは、情報が欲しいタイプですか」
「ええ。僕の仕事は情報が命ですから」
「私のこと、わからないことばかりで、不安ですか」
「まあ。いつかは」
「ですよね」
「どうしたんですか」
「気になってしまって。仲間なのに、ね」
「いいですよ。僕も気の長い方ですから」
「そう」
「ほんとに、公募するんですか」
「ええ」
「その中から三人目の犠牲者が出るんですか」
「いえ。ネットはダミーにします」
「そうですか」
「三人目の男は、公募の結果だと思ってもらえばいいんです」
「警察も、そう思いますかね」
「必殺処刑人を放ってはおけないでしょう」
「ええ」
「そのためにも、公募は本気でやります。先ず、公募予告を出します」
「予告ですか」
九鬼和子はパソコンを操作した。
「これが、その原稿です」
「必殺処刑人からのお知らせ
 後日、処刑対象者を公募しますが、その申請要綱をお知らせします。
 必要な記載事項は次の通り。
 氏名、年齢、住所、処刑に値すると思う具体的な理由の4項目。
 注意事項。
 その1 公募のお知らせをした後、申請の受け付けは10分で締め切ります。
     尚、申請案件の全てに対応するわけではありませんし、申請内容を精査しますので、即刻処刑するわけではありません。
 その2 処刑申請は自己責任とします。
     申請者の所へは警察が殺到することが予想されます。自分の身は自分で守っていただきます。罪に問われる可能性も排除できません。
 その3 申請内容に虚偽があった場合、申請人を捜し出し、処刑リストに書き込みますので注意してください。
 鉄槌請負人」
「厳しいですね。申請者はいるでしょうか」
「いなくても、いいんです。この公募の後に、裏ルートがあるらしい、という噂を流します。噂だけでいいんです」
「三人目は、その裏ルートの男」
「そう、思ってもらえれば。もちろん、犯行声明は出します」
「正に、ダミーですね」
九鬼和子の中には、沈着冷静な女と、燃えるような女が同居している。洋平にとっては不思議な女だった。いや、女とは言えない。女との付き合いが苦手な洋平が、九鬼和子に対しては女という意識を持たずに付き合えている。九鬼和子は女ではない。
ネットで必殺処刑人の話題が一段落した時に、洋平は再び他人の部屋に入り、予告文を書きこんだ。その予告文は前回の騒ぎを超える大騒ぎになり、スポーツ新聞や週刊誌が必殺処刑人の話題を取り上げ始めた。処刑申請の書き込みがいつになるのか、というXデー予測までネット上に現れた。荷物を増やさない主義だった洋平の部屋にもパソコンが置かれ、プロバイダーと契約もした。必殺処刑人はネット上でアルカイダのような組織に膨れ上がっていて、テロリスト軍団のような存在になっていた。
洋平は狛江に引っ越しをした時に買った愛車のアンカーで九鬼邸に向かった。風を切って走っている時、充実感があるのを知った。殺人犯に協力をし、テロリストのようなことをしているのに空き巣をやっていた頃にはなかった充足感がある。こんな気持ちは28年間で初めてだった。
「九鬼さんは、警察の動き、気になりませんか」
「気にはなりますけど、何か方法があるんですか」
「いえ」
「私たちには、警察の情報を取るほどの力はないと思ってます」
「そうですね」
「でも、充分、注意はします。敵も必死になってるでしょうから」
「ええ」
「こんな展開になるとは思ってもいませんでした。須藤さんの協力がなければできませんでした。感謝してます」
「よかったんでしょうか」
「充分、時間稼ぎはできると思います。もう、警察の相手は必殺処刑人ですから、私の個人的事情に辿りつくには時間がかかると思います」
「ええ」
「やっぱり、話、するべき、でしょうね」
「・・・」
「須藤さんには、知る権利ありますものね。逆の立場なら、私は知りたい。でも、私は自分を守ることだけしか考えていない。ひどい、でしょう」
「いえ」
「思うんです。自分を守るだけでいいのか。その結果、須藤さんとの信頼関係がなくなってもいいのか、って。駄目ですよね、仲間に引き入れたのは、私ですもの」
「そんなに、急がなくても、いいですよ。僕は仕事、しますから」
「やっぱり、話、します。その前に何か食べましょう。パンはあまり好きじゃない、ですか」
「いえ」
「サンドイッチで、いいですか」
「はあ」
「待ってて、ください」
「はい」
洋平はネットで必殺処刑人の記事をチェックすることにした。九鬼和子が何をしようとしているのか、何度も聞こうと思ったが、その都度躊躇してしまう雰囲気を感じて実行できなかった。人を二人殺して、あと三人殺す予定だと言われれば、気になって当たり前だと思うが、九鬼和子にはその質問を受け付けないという強い意思があるように思えた。ただ、最近はそのことを知らなくても、一緒に仕事をすることが楽しくなっていた。
「ローストビーフのクラブサンド、です」
サンドイッチと紅茶の用意ができた。
「美味しい」
「よかった」
「こんな、サンドイッチ、初めてです。コンビニで売ってるサンドイッチしか食べたことありませんので、びっくりです」
「主人が好きで、よく作りました」
「そうでしたか」
「私、主人とは40近く歳が離れていました。親子と言うか、祖父と孫と言うか。でも、とても優しい人で、主人と暮らしたのは5年だけですけど、私は幸せでした。命の恩人でしたし、私には尊敬できる大人でした。主人が亡くなって、5年経ちます。そうそう、私の本当の名前は紺野奈津と言います。九鬼と結婚した前田和子は戸籍だけの人です。その人が生きているのか死んでしまったのか、わかりません。売り買いされるような戸籍ですから、きっと事情はあるのでしょう」
「私は13歳の時に拉致と言うか誘拐というか、ある男の家に閉じ込められていました。今の時代に信じられないことですが、足に鎖をつけられて、奴隷のように扱われました。犠牲者は私だけではなく、他にも二人か三人、いたように思います。声というか悲鳴が聞こえたことが何度もあります。その子たちが、どうなったのかは、わかりません。新しいゲストと呼ばれる男の相手をさせられることがありました。私はそのゲストの隙をついて、逃げだしました。3年目のことです。バスタオル一枚で、台風の夜の街を走りました。バスタオル一枚でしたし、誰かに見つかれば連れ戻されると信じていました。男からもそう言われてましたから。三日間、何も食べずに逃げましたが、この家の庭に逃げ込んだ時に、もう限界で、倒れてしまいました。熱も出ていて、意識も朦朧としていたんですが、医者も警察も駄目だと言い張ったそうです。九鬼は一人で看病してくれました。もう、あの家には戻りたくないという一心だったと思います。私は、舌を噛んで死ぬと九鬼を脅したそうです。その時のことは余り憶えていないんです」
「九鬼は何も聞きませんでしたが、いつでも出ていっていい、と言わんばかりだったので長居をしてしまったのかもしれません。ここからは、いつでも逃げ出せると思ってましたから。亡くなった奥さんの下着や服を着て、会話のない生活が始まりました。後で九鬼が言ってました。今にも襲い掛かって喰い殺しそうな眼をした、野獣だったと」
「九鬼に事情を話したのは、半年後くらいだったと思います。九鬼が調べてくれたんですけど、私の両親は、私が拉致された直後に、二人とも自殺をしたそうです。自殺の理由はわかりませんでした。私には、帰る家もなくなり、この家を出て行っても生活する自信はありませんでした。怖くて外出はできませんでしたが、家の中の仕事は積極的にしました。料理も九鬼に教えてもらいました。そして、私が20歳になった時に、九鬼が前田和子の戸籍を持ってきて、九鬼の妻として入籍したらどうだと言ってくれました。九鬼が私の将来を心配してくれているのは知っていました。資産家でしたから、私が一生くらしていくのには充分なものがありました。九鬼が亡くなったのは、入籍した1年後です。財産目当てで老人を騙した女だと言われました。最後まで、私と九鬼は男と女の関係になりませんでした。でも、九鬼は、おかげで、穏やかに死ねると言ってくれたし、私も、幸せでした。九鬼が亡くなって、しばらくして、九鬼のいない時間が耐えられなくなりました。九鬼は、私のことを大きな心で包み込んでいてくれたんだと気づき、奈落の底でもがきました。九鬼が最後に言った言葉、その時は意味がわかりませんでしたが、藁にもすがりたいと思っていた時に思い出したんです。憎しみも生きる糧になるという言葉を」
「私は、あの男たちを処刑しようと決心しました。すると、世の中が変わったんです。憎しみは、九鬼の言ったとおり、生きる糧にできたんです。九鬼は、自分が死んだ後で、私が苦しむことを知っていたんだと思います」
「九鬼が死んでから今日までの5年間、私には休む暇もありませんでした。男たちの消息を掴むことと、男を殺害できるだけの自分を作ること。必死でした」
「後で見てもらいますが、ここには地下室があります。そこで、私はナイフを投げ続けました。それしか、殺害方法を思いつかなかったんです。九鬼は、一時期荒れたことがあり、傷害罪で服役したこともあると言っていました。熱に冒されたようにナイフの収集をしたこともあり、地下室には大量のナイフがあります。九鬼の夢は殺人鬼になることだったのかもしれません。そして、私は、その後継者なのかもしれません。でも、漫画ではありませんので、ナイフを投げて簡単に人を殺すことなどできません。筋力や握力を鍛えることから始めました。つい最近です。投げたナイフが人間の心臓に達する力を自分のものにできたのは」
「ただ、問題はあります。私は、手にしたナイフで人間を刺しているわけではないんですが、投げたナイフが肉に食い込んでいく感触が手に残るんです。物理的に手とナイフは離れているのに、この手に残るんです。これは、殺人者にしか分からないのでしょうが、自分のことを鬼の化身だと感じるのです。それは、心を壊してしまわなければ、生き続けることができないような底知れない怖さです。目的を達した時、その先にあるのは暗い闇でしかないのかもしれない。この恐怖と折り合いをつけて生きる方法を九鬼は教えてくれませんでした。きっと、こんな闇があることを、九鬼は知らなかったんだと思います。私の心のどこかで、九鬼の所へ行きたいという気持ちがあるのかもしれない。今は、わかりません。少なくとも、五人の男を殺すまでは生き続けます」
洋平は言葉をはさむこともできなかった。拉致されていた3年間、奴隷のように扱われたと言っただけだが、洋平には想像できた。男の中には、幼い少女を凌辱したいという気持ちがある。でも、それは想像や作り物の映像で体験するものであり、実際に実行すれば、それはもう犯罪の領域になる。洋平は五人の男を処刑することを容認できると感じている。だが、その目的を達成したあとの闇をどうすればいいのかは、わからない。
洋平は地下室へ案内された。地下には部屋が二つあった。物置として使われている6畳ほどの部屋と、スポーツジムのような広い部屋があった。物置部屋の収納庫には、夥しい数のナイフが整然と並べられていて、不思議な美しさがあった。
「これです」
渡された細身のナイフは質感があり、危険な臭いがした。
「投げてみますか」
「えっ」
広い方の部屋の壁際に畳が立てかけてあった。ナイフを手にしたまま、立ち往生。
「こうして、投げます」
九鬼和子が、野球の投手のようにサイドスローでナイフを投げ、鈍い音がしてナイフが畳に食い込んだ。
洋平は五回投げたが、畳に刺さったのは一本だけだった。
「最初は、私も、そうでした」
「難しいものですね」
「何度も、途中で諦めようと思いました。でも他に方法はなかったんです」
二人は食堂に戻った。
「話を聞いても、まだ、須藤さんは協力してくれますか」
「もちろんです。ナイフは無理ですけど」
「ありがとう」
「あの」
「・・・」
「九鬼さんの計画にケチつけるつもりはないんですけど、そいつらのやったことは拉致と監禁、そして虐待ですよね。犯罪者の僕が言うのも変ですけど、それって犯罪ですよね。告発とかできないんですか」
「無理だと思います。私が監禁されていた家は、もうありません。九鬼も言ってましたが、私が逃げ出した後、証拠は隠滅しただろうと。坂東はヤクザですけど、他の四人は社会的地位もある人間です。私の話だけでは、どうにもできないと」
「ですけど、事情を明らかにすべきじゃないんですか。それに、あなたの両親の自殺も理由が分からないんでしょう。僕には、あなたの拉致と関係あるように思えるんですけど」
「ええ」
「五人の中に、その事情を知っている男がいる筈です。それに、一緒に監禁されていた女の子も、どうなったかわからない。そういうこと、全部、そいつらは知らん顔なんです。ただ、死んでもらうだけでは、ちょっと」
「でも、どうやって。監禁されてた時、噛みついたり、掴みかかったこともありましたが、男の力には敵いませんでした。だから、ナイフを投げることにしたんです」
「二人になったんですから、何か方法があるかもしれない。僕は腕力のある方ではありませんが、一応男ですから」
「須藤さん」
「ご両親の自殺の理由、知りたくないですか」
「いえ。知りたい」
「あなたは、優秀な作戦参謀なんです。考えましょうよ」
自分の手で人を殺さなければ、九鬼和子の闇を理解することはできないのだろうが、その闇に光を入れる手伝いができないだろうかと洋平は考えていた。
「ありがとう。でも、無理だと思います。これまでも、散々、考えました。方法はありません」
「だったら、力ずくで拉致しましょう。ぼこぼこに殴って。死んでもいいわけですから」
九鬼和子は力なく笑った。
「バットとか鉄パイプとかの武器を持っていって、不意を襲えば勝てますよ」
「傷害罪になります」
「殺人の共犯なんですから、傷害ぐらい、軽いもんです」
「あなたに、そこまでやってもらうことはできません」
「この件は、僕が作戦を立てます。もちろん、あなたの協力は必要ですが、いいですね」
「どう、しても、ですか」
「そうです。僕はあなたに協力した。だから、本当のことが知りたい」
「ありがとう。須藤さん。私は何をしたら」
「三人目の男の名前は」
「三浦信孝です」
「三浦、ですね。三浦の行動は調べてありますよね」
「ええ。半年前の行動ですけど」
「現在の行動を調べてください。その情報を見て、襲撃場所を決めましょう。人通りがなくて、防犯カメラがなくて、僕が隠れることができる場所。夜間の方がいいです」
「はい」
「車を何回も借ります。自転車ばかりなので、全然運転してなくて、これでは事故起こしてしまいます」
「はい」
「ちょっと、ぶつけたりも、するかもしれませんが」
「ええ、いいですよ。古い車ですから」
「襲撃の時は、二人でやります。僕は盗難車をつかいますが、あなたの車も使います」
「はい」
「三か月後に実行ということで、いいですか」
「はい」
「ネットの方の予定も立ててください。前後するわけにいかないでしょう」
「原稿は用意してあります」
「いつ、載せればいいですか」
「須藤さんの都合のいい時に」
「わりました」
九鬼和子が用意した原稿には二つのURLが列記されていた。
「あまり活動していないホームページで掲示板がある所です」
「このホームページの管理人は驚くでしょうね」
「事前に承認を貰う訳にもいかないし、申し訳ないと思ってるんですよ」
「ビジターのアクセスでパンクするんでしょうね」
「ええ。私は、須藤さんが書き込む前にここに先回りしておきます。須藤さんは書きこんだ後に、こっちのホームページに行ってください」
「了解です」
「時間の余裕はどのぐらいありますか」
「・・・」
「書きこんで、部屋から逃げ出すまでの時間です」
「わかりません」
「そうですか。じゃあ、こっちは諦めましょう」
「いえ、別の部屋から、行きます。二か所選んでおきます」
「そうですか。ホームページに行くだけです。クリックはしません。申請があったら、カメラに撮ってください。映像からデータを文書化しますから」
「了解」
「それと、この申請受け付け時間ですけど、最終的には須藤さんが調整してくださいね」
「了解」
さあ、いよいよ、幻の必殺処刑人の活動が始まる。ネットにはまる人間の心理が洋平にもわかるような気がした。申請者があるのか、どうか。世の中に悪人は星の数ほどいるのだから、被害者もそれ以上いることになる。本気で処刑したいと思っている人間にとっては、危険を冒す価値はあるだろう。自分がその立場にあれば、洋平も申請を出す側に立つだろうと想像した。ネット上での犯罪を取り締まる法律は、まだまだ脆弱だと言われている。処刑の申請をした人間はどんな罪状で逮捕されるのだろうか。全てが新しい実験だと言えた。
洋平は古巣の川崎で情報収集を始めた。前回の予告文は東京からの書き込みだったから、今回の書き込みは川崎からしようと考えていた。警察も広域の警戒態勢をとっていると思うが、実際に動くのは各警察署の人間になる。各地域の警察本部同士の連携は万全になる土壌がない。特に警視庁と神奈川県警の過去は、反目の歴史だと言われている。警察のセクショナリズムは洋平の利点と言えた。
洋平の人生は犯罪の歴史と言える。子供の時から盗みの常習者だった。どんな仕事でも言えることだが、仕事はセンスだと思っている。他人が失敗した窃盗を見ていると、失敗して当たり前だということが多かった。それは、センスのなさだった。洋平の場合、窃盗に関してだけは、意識しなくても、あらゆるアンテナが動作を始める。だから、失敗はなかった。今回ほど、犯罪が楽しいと感じたことはない。

須藤に話をするかどうかを思いっきり悩んだが、危険を承知で話すことにした。朝飯前のようにして他人の部屋へ忍び込む須藤の特技は、和子にとっては大きな武器になっている。須藤との関係で、メリットとデメリットを計算すると、明らかにメリットの方が大きい。そのことは、須藤との関係に亀裂が生じれば、デメリットが襲いかかってくるということでもある。つまり、須藤との信頼関係を維持することが、計画遂行のためには欠くことのできない条件になっているということだった。須藤が逃げ出したり、裏切った時には大きな危険を抱えることになるが、和子は賭けに出た。須藤がなぜ協力してくれているのかが、自分で納得できていない。自分が須藤の立場なら、迷わずに逃げる。その方が自然ではないか。だが、須藤の態度には裏があるようには見えない。そう言えば、九鬼のことも信用できなかった。優しいだけの男などいる筈がないと思いこんでいたが、九鬼は死ぬまで和子のことを信じて大切にしてくれた。九鬼が死んだ時に感じた喪失感の中には、自分の信じていたことが崩壊したという喪失感もあったのではないか。九鬼も、いつか、牙を剥くに違いないという確信を持っていた。それなのに、最後の最後まで、九鬼は優しい九鬼のままだった。
須藤は真相を究明しようと言った。そのことを一番望んでいたのは、当事者の和子だったが、それよりも五人の男全員を処刑にすることの方が重要だった。和子には真相究明の手立てが見つからなかった。女が一人で五人もの男に復讐することなど不可能なことなのだ。距離をおいてナイフを投げることが、女の和子にできるぎりぎりのことだった。もちろん、真相究明できたとしても、それが何かを変えることにはならない。そんなことは、考えるだけ考えた。真相はわからないより、わかった方がいい。その程度のことに過ぎない。許せないものは許せない。法が裁かないのなら、自分が裁く。残された道はそれしかなかったのだ。殺人という行為の裏側に潜んでいた、ねばりつくような恐怖の存在を知ってしまった今、もう和子に逃げる場所はなかった。五人の男を殺して、九鬼の胸に抱かれたい。あの優しい笑顔の前なら、この恐怖も乗り越えることができる。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0