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甲子園城 [短編]



 西暦二千四十六年十一月一日。
世界が日本崩壊の年として認定している二千二十六年から二十年の歳月が流れていた。
崩壊当時、世界中が大混乱に陥ったが、世界は数年でその状態を乗り越えた。
日本は国家機能を失っただけではなく、あらゆるものを失い、世界から隔離されたままだった。国連やIAEAによる調査で推定人口は2000万人と発表されていたが、それは衛星写真による調査に過ぎず、人口の詳細は誰にもわからない。まだ、世界地図上に存在している国家らしき存在ではあったが、日本に関するニュースは全く見当たらない。国連から年に一回発表される放射性物質の観測値だけが、ニュースと言えばニュースだった。

岩倉舞子は監視塔の階段を昇った。任務だと割り切っていても、どこかで重さを感じている。母親は「いつか、きっと」と言っていたが、この先に、生きていてよかったと思える日が来るという確信が持てない。五年前に亡くなった母親を羨ましいと思う気持ちもあった。父親が守備隊の隊長をしていることで、無形の圧力もある。隊長の家族だという責任感だけで生きることにも疲れている。でも、そんな気持ちは間違っても表には出せなかった。舞子は、十年前まではよく笑う明るい子供だった。この城に来たのは五歳の頃だったから、それ以前の記憶はそれほど鮮明ではなく、城の生活が当たり前の生活だと思っていた。しかし、一番仲の良かった大川由紀とその母親が、父親に殺された頃から舞子の笑顔は失われた。「未来なんかない」と叫び続けていた由紀の父親は、錯乱状態になって自分の頭を銃で撃ち抜いて死んだ。その叫び声は、大勢の人の心を揺さぶった。舞子自身も無意識ではあったが、未来とか将来を考えないようにしていた自分の気持ちに無理矢理気がつかされることになった。今では、自分達がどんな状況下で生きているのかは、はっきりとわかっている。由紀の父親がどんな気持ちで無理心中したのかもわかる。それでも、生きていくしかない今の境遇は重かった。それは、舞子だけではない、城の住人に共通の重さでもあった。
監視任務は、特に冬場は辛い仕事だが、まだ極寒にはなっていないのが救いだった。階段の踊り場には正美が先に来ていた。二人とも声を出さずに手を挙げて挨拶をした。微かな月明かりしかないが、暗い階段の踊り場でも苦労せずに動くことができるのは、やはり監視任務に慣れたせいなのだろう。舞子は無言で正美の横に腰を下ろした。
直ぐに足音がして班長の山崎雪乃がやって来た。洋子は今日も遅刻するのか。洋子はまだ十二歳で、何をするのにも動作が遅く、遅れてくることもしばしばだった。それでも、洋子は監視任務にとって重要な存在だった。それは、誰よりも夜目が利く能力によるもので、十五歳になる前から監視任務を命じられている。舞子も正美も今年で二十五歳になった。雪乃は多分十歳ほど年上の筈だが、正確な年齢はわからない。
四人一組の監視役が六組あり、切れ目なく監視が続けられている。夏の暑さと冬の寒さ、そして四時間の監視には体力が必要であったので、若い女の重要な任務になっていた。
しばらく待つと、洋子が昇って来た。
「行くよ」
雪乃が洋子を抱えるようにして階段を昇り、舞子と正美は後に続いた。舞子は冷たい風に身を縮めた。監視塔は四方が解放されているので、直接の風がぶつかってくる。
雪乃が鈴村多恵から「異常なし」という申し送りを受け、鈴村班の四人が無言で階段を降りて行った。
この南監視塔は東側と西側、そして南側の監視をする。北側にある監視塔は主に北側だけの監視をすることになっていた。
二十年前までは、甲子園野球場と呼ばれ、ここで高校野球が行われ、高校球児にとっては憧れの聖地だったらしい。だが、今ではそのことに触れる者は誰もいない。遠い記憶というより、記憶として残っていないと言った方が正しいのかもしれない。野球というスポーツがどんなものだったのか、舞子の年代では知らないものの方が多い。
この二十年間、余りにも過酷だったことが人々の記憶を遠いものにしてしまったし、かつてのグラウンドも観客席も住人の施設になり、粗末ではあったがいろいろな建物も建っていて、野球場の面影は失くしていた。そこは、甲子園城と呼ばれ、住人の生命を守る砦となっていた。
舞子は所定の場所に立った。異常はないように見える。雲が出てくれば漆黒の闇になるが、まだ月明かりはある。でも、遠くで動く人影は肉眼で確認することは不可能だった。人工の光源は、城の中にも、外にもない。電気もガスも水道も供給されていないし、どこを探しても乾電池の在庫が残っているとは思えない。もし、乾電池が残っていたとしても、自然放電で残量は少なくなっているだろう。あらゆる生産が停止してから二十年が過ぎているのだ。城の住民も乾電池を捜す行動は既に諦めたし、手動で光るライトも動作しなくなっていた。
監視は、二人が一組になって、決められた場所に立って一時間交代で続けられる。
班長の雪乃が時計を確認して指示を出した。時計として機能しているソーラー時計は城の共有財産になっている。電池式の時計が次々に動作しなくなった時に、本部が全住民から時計を徴収し、共有財産とした。監視隊の班長が持っているのは、そのソーラー時計だった。しかし、ソーラー時計も故障すると修理技術がないので使えなくなる。城では、水時計が実験中だった。
この数年、城が襲われた事はなかったが、監視任務が中止になることはなかった。以前は武装した強盗団が襲ってきたこともあったらしいが、舞子の記憶には暗い部屋に閉じこもっていた記憶しかない。最近では城の外で、住民以外の人間を見たこともない。それでも、厳重な警戒態勢を維持しているのは、過去にそれだけの危険があったからだと父が言っていた。
監視任務も残り一時間になった。雪乃と洋子が監視に立っている。
「雪乃さん」
洋子が雪乃を呼んだ。その声に緊張感がある。舞子も正美も立ち上がった。
「あそこ」
目を凝らして見たが、舞子には闇しか見えない。
「何人、いるの」
「五人、ぐらい」
雪乃は舞子と正美の方を見た。舞子も正美も首を横に振る。
「念のため、北と本部に連絡」
「はい」
舞子と正美は、連絡用のロープに向かった。足元に置いてある石を持ち上げ、金具に紐をかけて石を放した。北側の監視塔と、真下にある本部の方から金具が鳴る音が聞こえた。舞子はロープを持って返事を待つ。暫くすると、ロープを動かす返事が返って来た。
「連絡、終わりました」
舞子と正美がほぼ同時に報告した。
「了解」
雪乃は七時の方向を見たまま返事をした。まだ、雪乃の目では見えていないようだ。人影があると言われて見続けていると、何か動いているような気がしてくるが確信は持てなかった。
五分も経たずに複数の足音が聞こえ、三人の男が監視塔にやってきた。
「どこだ」
「まだ、洋子にしか見えません。七時の方向に五人ぐらい見えるそうです」
男達も眼を凝らしたが、誰の口からも言葉はなかった。
「洋子。動いているのか」
雪乃の弟の兵頭康平が落ちついた声で洋子に声をかけた。康平は守備隊の副官をしている。
洋子は首を横に振った。
「そうか。いるのは、大人ばかりか」
「はい」
「女は」
「いない。と思う」
「動きがあったら、頼むぞ」
「はい」
康平は、二人の男に向き直った。
「レベル3にする。本部に全員集合。伝令は直ぐに持ち場につけさせろ」
「はい」
二人の男が階段を駆け下りていった。
「雪乃。全方位を監視しろ。一カ所とは限らん」
「はい」
洋子を除いた三人は、七時の方向ではない方へ監視の目を向けた。
何の動きもない。背後で城の中のざわめきだけが聞こえる。
「来た」
洋子が声を出した。
「南十番の建物の陰に、男、五人」
甲子園城の周囲に木造建築の建物はない。全て城内の燃料になったか、燃料倉庫に保管されているかのどちらかになっている。木造建築を破壊した目的は燃料の確保だけではなく、田畑の面積を増やす目的もあった。従って、残っている建物はコンクリートの建物で、その建物には全て識別番号がつけられていた。
「南九番に、一人だけ。西に二人、東に二人、動いています」
まだ、洋子以外の人間には見えていなかった。
「東六番に一人」
雪乃の緊張した声が聞こえた。まだ、舞子と正美の目には見えていない。
「南八番に一人」
康平の目にも見えたようだった。
「西六番に一人」
正美が報告した。
「西三番に一人」
舞子も確認して報告した。
「東五番に一人」
雪乃が最後の一人を確認した。
「全員、男か」
「男です」
山崎班の全員が返事をした。洋子の目が確かだったことが証明された。
康平は監視塔の隅にある伝声管へと向かった。
「男、五人、五か所に分散。斥候と思われる」
城内での非常時の通信手段は、鉄パイプを利用した伝声管が使用される。特に夜間は他に通信手段がない。本部に情報が届くまでには五カ所の中継点を必要としたが、その方法が一番確実だった。
「東五番の男、畑に侵入」
「西六番の男、畑に侵入」
「東五番、西六番、畑に侵入」
康平が伝声管に向けて報告する。ただの野菜泥棒なのか。でも、男達の動き方には統制が取れているようなものがある。康平は、斥候だと報告した内容を、まだ変えるつもりはなかった。
緊張した時間は二十分ほどで終わった。城の外にも、監視塔にも、いつもの静かな夜が戻っていた。
「引き続き、監視を頼む」
康平が監視塔から降りていった。

朝になって、鐘が鳴らされ、城内の警戒は一気にレベル5に引き上げられた。レベル5は戦闘態勢である。レベル5になったのは、十年以上昔だと聞いている。
眠る暇もなく、舞子は城の外壁へと向かった。山崎班の守備範囲は南側の30番から39番まで。うず高く積まれている石やブロックは城の外壁に近よって来た敵の頭上に落とすための物で、ほとんど力仕事と言ってもいい。女は家の中で待っているという時代ではなかった。特に若い女は前線に配置される。食料の用意は年配の女性が担当し、前線への物資補給は十五歳以下の子供が担当した。
監視塔は指令所になり、監視も強化され、武器を持った男が所定の場所に立った。
舞子の父親は守備隊の隊長をしている。二十年前、父は自衛官で、伊丹の第36普通科連隊に所属する一尉だった。上官である石田友三郎一佐が作った計画書に従って、甲子園球場を城にする計画に参加した。約百人の自衛官が、統制の取れなくなった自衛隊を出た。当時、自衛隊も暴動の鎮圧に出動していたが、たとえ軍人であっても女子供がいる民衆に銃を向けることに強い抵抗があった。だから、石田一佐の計画書は、多くの自衛官の賛同を得た。国の命令に従わないのだから反乱軍になるのだが、中部方面総監部は石田計画に目を瞑り黙認する姿勢を見せた。幕僚長でさえ、間違っているのは政府であり国民ではないと公言していたために、暴動の鎮圧という任務は有名無実のものになっていたのである。
まだ、ガソリンがあった時代なので、武器弾薬を始め多くの資材が甲子園球場に運ばれた。それだけではなく、石田計画は二十年後、五十年後を見据えていた。現在の甲子園城で一番多いのは農業に従事する人達で、自衛隊出身者は100名にも満たない。甲子園城を一つの国に例えるなら、農業国である。守備隊はその農業を守るために存在している。なぜなら、一番大切なものが食料だからである。強盗団や夜盗が増えることも想定されていたし、食料や燃料がなくなることも当然のことと捉えていた。電気やガソリンに頼っている機器が使えなくなるのは当然だったので、手動で使える工具類が集められ、大学や高校を回って弓矢を集めることも行われた。銃器が使えなくなる日が来ることも計画書には書かれていた。民間企業が存在しなくなれば、どんな部品も弾薬も補充できなくなるのは当たり前のことだが、そのことに気付いた人は少なかった。石田計画で手がつけられていない分野は漁業だったが、それはこれから開発しなければならない。石田計画は栄養学の見地から作られたのではないかと思われるほど、人間が必要とする栄養素に拘っていた。
その石田友三郎は十二年前の強盗団との戦闘で死亡、守備隊の責任者は舞子の父親の岩倉孝蔵が引き継いだ。孝蔵は漁業の村を作るべく、何回も調査に出かけていたが、まだ実現していない。動物性タンパク質は鶏肉だけに頼っていた。
甲子園城の住人は、危険があるために城の近くにしか出ない。その場合も、必ず守備隊が警護に就く。遠出をするのは薬草を捜しに行く医療班か、漁業調査をする守備隊だけだったが、甲子園以外の地域がどうなっているのかは彼等が見たり聞いたりする範囲に留まっていた。その中に京都に本拠を置く誠心会と呼ばれる強盗団の話だけはいつも話題になった。今回、戦闘態勢をとったのは、その誠心会のことがあったからのようだ。食料の供出を強要され、それを拒んだ村は皆殺しにされると恐れられている。未だに銃器が使われているということは、自衛隊出身者が関係している団体かもしれない。
午前中は静かに過ぎた。それは、いつもある日常の一日と変わりがないように思えた。しかし、昼過ぎになって南東方向に人影が現れ、次第に数え切れないような人数になった。その中心には馬に乗った人間が十人ほどいる。誠心会は、馬で蹂躙するという話もあった。
白旗を持った人間が一人だけ、馬で近よって来た。
兵頭康平が城を出て対応した。
「話し合いがしたい」
誠心会の男は防弾チョッキを身につけ、小銃を背中に背負っていた。男は馬を下りずに大声で宣言した。
「何を話し合うのだ」
康平は何の武器も持っていないし、汚れた作業服姿だった。
「お前が代表なのか」
「そうだ」
「もう少し、まともなのは、おらんのか」
「残念だが、私が話を聞く」
「要求は、二つある」
「・・・」
「蓄えの食料を半分だけ、譲ってもらいたい」
「・・・」
「そして、ここの責任者の身内を、預からせてもらう」
「わかった。その二つでいいんだな」
「いい子だ。それで俺達は引き上げる」
「ただし、こちらにも、一つだけ条件がある」
「何だ、言ってみろ」
「お前が、あそこにいる人間、全員を殺してこい。そうすれば、今の条件を呑む」
「なに」
「条件とは別に、助言がある。このまま引き上げろ。それがお前達のベストの選択だ」
「俺達が誰か、知らんのか」
「いや。知っている。誠心会という名の弱い者いじめが好きな弱虫だと聞いている。だが、誠心会もこの甲子園で終わりになる」
「貴様」
男が銃の皮紐に手を持っていった。
「やめとけ、お前のその貧弱な頭は何人もの銃で狙われている。白い旗で守られているなどと勘違いするなよ。お前を殺していないのは、ただの情けに過ぎん。とっとと逃げ出せ」
そんなやりとりが行われている時に、赤い旗がセンターポールに挙げられた。敵から見れば戦闘開始の旗に見えるかもしれないが、それは全員退避の旗だった。
「退避」
雪乃の一声で、舞子達は走った。何度も何度も訓練をした事なので、守備位置についていた全員が速やかに退避した。急に地球上から音が消えてしまったような静けさがやって来た。
康平は指令所になっている監視塔に戻って来た。言いたいことを言ってこいと言われて交渉役に任命されたが、もっとやり方があったのではないかと思った。
康平は隊長の岩倉孝蔵の前で頭を下げた。
「すみません。すこし、言いすぎました」
「あれで、いい」
「はあ」
「あいつらは、何をしに、来た」
「食料の調達です」
「ここでは、食料が余っているのか」
「いえ」
「あいつらに、半分の食料を渡せば、この先一年、皆は何を食べればいい。我々が餓死すればいいのか」
「いいえ」
「ここにいる人達は、必死で作物を作っている。あいつらは、暴力でその貴重な作物を出せと言っている」
「はい」
「今回、食料を渡せば、あいつらは二度と来ないのか」
「いえ」
「一度暴力に負ければ、何度でも、永遠に、負け続けることになる。どうやって、生きていけばいい」
「はあ」
「こちらが、どんな対応をしても、同じ事だ。あいつらは、力で、暴力で、我々をねじ伏せようとする。戦うしかないんだよ。ここにいる人達を守るために、私達はいる。それが、守備隊の仕事じゃないのか」
「はい」
「あいつらの態度は自信に満ちている。どうしてだ」
「・・・」
「それだけのものを持っている。銃はもちろん、重火器もあると思わなくてはならない。守るのは簡単ではないだろう。だけど、暴力に負ければ、全てを失う。最後には心までも失うことになる。守備隊全員の命を張ってでも、住人を守らなければならない。それが、出来ないなら守備隊など、いらん。私達は一粒の米も作ってはいない。住民を守れなければ、我々はただの寄生虫になる。そう、思わないか」
「思います」
「戦うしか、他に道はない。そして、最後には勝たねばならない」
「はい」

暫くすると、キュルキュルキュルという音がして、近くで爆発音がした。舞子達は耳を塞いだ。守備隊の男の人が、迫撃砲だと言った。
「大丈夫です。ここにいれば心配ありません」
何発もの爆発音がやんで、また静寂が来た。しかし、何かが匂う。普通でない音もする。守備隊の男が駈け出していった。
「外で火災が起きていますが、旗は赤のままです。動かないでください」
粗末な家だったが、家の中にはそれなりに大切なものもある。それは、誰でも同じ思いだっただろう。それでも、動く者はいなかった。住民は自分を主張すれば生きていけないことを肌で知っている。本部が住民個人のことではなく住民全体のことを考えていることは、この二十年間で証明されている。城の中には裁判もあり、禁固刑こそなかったが、有罪になれば追放だった。追放は死を意味する。それは、個人にとっては強制でもあり、統制でもあったが、全体が生き抜くためには欠かせないものであると知っていた。ここでは、誰も個人を主張しなくなった。生き延びるためには、そうするしかなかったのだ。
十分ほど過ぎて、再び迫撃砲の爆発音が聞こえてきた。

迫撃砲弾は監視塔にも着弾し、守備隊の隊員が二人負傷して医務室に運ばれた。司令部は監視塔の下の階にあったが、直撃弾が来れば司令部が崩壊する危険もあった。だが、隊長に動く気配はない。通信網や電子機器がある訳ではないので、戦闘状況を直接把握できる場所にいなければ指示など出せない。監視に二人、司令部に四人、伝令に五人の兵士が、砲弾の危険の中にいた。
「前進してきました」
監視塔の隊員が声を上げた。
「敵の武器を確認しろ」
隊長は机の上に手書きの地図を広げて、睨みつけている。
「四時の方角に、ロケット砲らしき銃器を持った人間あり」
「六時の方角。ロケット砲を二台確認」
手動の重火器は、全てロケット砲と呼ぶことになっている。それが、無反動砲であれ、スティンガーであれ、甲子園城の外壁を突き破ることになる危険度は同じだからである。日頃から、出入り口は東側と西側にあるだけであり、その他の出入り口は土盛りをして、瓦礫を積み重ねてあるので破られることはない。通常の出入り口も土嚢の積み上げが完了した。しかし、外壁に重火器で穴を空けられれば、そこから侵入を許すことになる。城内への侵入を許せば、時間の問題で制圧されるだろう。
「四時方向の砲、一番。六時方向の砲、二番と三番。それぞれ距離の報告」
「一番。距離、500」
「二番、三番。距離、500」
「200まで、待て」
隊長が伝令の二人を呼んだ。
「この戦いに住民の防衛隊は使えない。ただし、住民には自分を、自分の家族を守ってもらわなければならない。銃が扱える人には、銃を持たせるように指導員に連絡。各指導員には住民を最後まで守ることに全力を出してもらいたい」
「はい」
二人の伝令が司令部から飛び出していった。
「黒崎君」
「はい」
「敵の人数の確認と、銃器の数を確認してくれ。上の二人には距離の確認に専念させるように」
「はい」
副官の一人である黒崎大悟が階段を昇って行った。
「兵頭君」
「はい」
「守備隊から二十名選抜して、敵の背後に回ってくれ」
「はい」
「充分な武器と弾薬を使って、よし」
「はい」
隊長は司令部から走りだそうとする兵頭康平を呼び止めた。
「この戦いを、君はどう見る」
「かなり、危ないかと、思います」
「その程度か」
「いえ。敵が城内に入れば、負けます」
「その通りだ。それがわかっていればいい。それと、我々は軍隊ではない。交戦規定もない。我々が勝つためには、相手を皆殺しにしなければならない。生き残りが、次回の攻撃をしてくれば、防ぐことはできないだろう。だから、君が敵の司令部を制圧したら、全員にとどめを刺せ。相手が武器を捨て、両手を上げても、射殺しろ」
「はい」
「頼んだぞ」
「はい」
隊長は残っている三人の伝令を呼んだ。
「今、判明しているだけでも、ロケット砲を持っている敵が三人いる。距離200になったら、その三人に向けて一斉射を行う。各班は、そのターゲットをしっかりと見ておくように。ロケット砲を撃たせてはならない」
「はい」
三人の伝令も指令所を飛び出していった。
「間宮さん。何か助言はありませんか」
「最後の攻防戦は一階ですよね」
「そうなるでしょう」
「そこの指揮を、私にとらせて頂きたい」
「自分が行くつもりです」
「司令部を空にして、ですか」
「司令部を移せば、いいのです」
「駄目です。私にも黒崎にも、あなたのような判断はできない。あなたには、最後まで命令を出し続けてもらわなければならないのですよ。戦闘員が一人もいなくなった時、あなたは、自由に戦ってもいいのです。それが司令です」
指揮官が戦死した場合は、副官が指揮を執る。副官は三人いるが、その順番も決められていた。兵頭が別働隊で出ていったので、二人がその責務を負うことになる。間宮は自衛隊でも上官だったし、年齢も五歳ほど上だったが、石田友三郎が死んだ時に間宮は隊長を受けなかった。岩倉孝蔵は、自分で進んで隊長を引き受けた訳ではないが、石田計画に最初から参画していたので、何としても石田の構想を実現し、民族の生き残りを成し遂げたいと思って、隊長の仕事を受けた。
黒崎が戻って来た。
「敵の数、およそ200。自動小銃50、小銃は約50以上。拳銃は不明です。その他の者は日本刀で武装しています」
「そうか。三台以外にロケット砲は見えないか」
「はい」
黒崎の報告直後に監視塔から大声がした。
「砲、一台発見。りゅう弾砲と思われます」
「なに」
司令部の全員が立ち上がった。岩倉も司令部の小窓から覗いた。敵の司令部の前面に砲が出てくるところだった。確かに105ミリりゅう弾砲のようだ。ガソリンの備蓄がまだあったのか。それとも、京都からあの砲を引いてきたということなのか。甲子園城は軍事施設ではない。小銃程度の火力であれば建物は役に立つが、砲弾に対しては無力に等しい。砲弾が大量にあれば、甲子園城を瓦礫に変えることも可能だろう。
岩倉は伝声管に向かって大声を出した。
「総員、西側に退避。総員、西側に退避。走れ」
「監視員、降りてこい」
「はい」
「ここの全員で、退避の誘導確認に走れ。行け」
岩倉を除く全員が飛び出して行った。敵がなぜ広い南側に展開したのか不思議だった。りゅう弾砲の射界が必要だったのだ。自分の甘さに腹立ちを感じながら、岩倉は敵のりゅう弾砲を見詰めた。これで、この戦いは決定的に不利になった。
敵はりゅう弾砲で攻撃して、突入してくるだろう。背後からの攻撃に出た兵頭班があの砲を無力化しないかぎり、籠城戦とはいえ倍以上もの敵に勝てる訳もない。
次々に司令部要員が戻って来た。
「伝声管の要員も退避させたか」
「はい」
全員が戻って来た。
「これからの戦闘の説明をする」
「はい」
「りゅう弾砲の攻撃の後に、敵の突入は始まる。主戦場は一階の着弾点になると思われる。黒崎班は、砲撃が終わり次第、60人で侵入の阻止をする。間宮班は15人で2階3階の守備をしてください」
「はい」
「私は、予備隊をつれて、兵頭班の援護に行きます」
予備隊というのは、怪我をしたり高齢になったりして兵士としての機能が減少した人達の集まりであり、守備隊の人数としては数えられていない。
「司令部は」
「もはや、司令部は機能しない。一階の司令部は黒崎であり、二階の司令部は間宮さんになる。一階と二階の連携もとれないと思うので、独自の判断でお願いする」
「自分が兵頭班の援護に行きます」
「いや、私が行こう」
黒崎と間宮が同時に立候補した。
「ありがとうございます。でも、これは指揮官としての命令です。皆さんの力を信じています。すぐに行動して下さい」
「はい」
「それと、兵頭にも言いましたが、勝利したとしても捕虜はいりません。わかりますよね。捕虜に与える食料はありません。餓死させるより、殺してやったほうがいいと思います。無抵抗の人間を殺すのは抵抗があるでしょうが、全員、殺して下さい。敵の負傷者は、速やかに射殺すること。これは、命令として受けてください」
「はい」
この戦闘ではどの任務も同じような危険度がある。それは、敵も味方も同じ条件だろう。負ければ、少なくとも守備隊の人間に生存者はいない筈だ。この時代、この過酷な条件は守備隊の全員が受け入れてくれると、岩倉は考えていた。
「解散する」
岩倉は最初に司令部を出て走った。2階の西側奥に、病人と年寄りが避難している。
「大山さん」
「おう」
岩倉は大山と五人の男の名前を呼んだ。六人は直ぐに部屋を出てきた。
「敵はりゅう弾砲を構えています。兵頭が20人をつれて回り込んでいますが、我々は兵頭班の援護に行きます。体調の悪い方はいませんか」
「大丈夫だ」
大山の答えに全員が大きく頷いた。
「急ぎます」
岩倉は六人の予備隊を連れて3階の武器庫に向かった。かつての上官もいれば、下士官だった人も岩倉より年長者だった。日頃は農作業に従事しているし、密かにトレーニングをしていたことも知っている。守備隊の任務を外された事に不満があったことも知っていた。
「体力に合わせて、銃弾を持っていきます」
「わかっとる」
銃の手入れは定期的に行っているので、外見だけを見て自動小銃を手にした。背嚢にカートリッジを詰める。多少重くなっても、弾切れになるよりはいい。既にベルトも拳銃も身につけている岩倉が、最初に準備を終わった。
六人の動作は老人のものではなかった。これなら、戦力になる、と少し安心する。
全員が部屋の前に立った。
「海岸沿いを迂回して、一気に走ります。遅れても構いません。但し、必ず追いついてください。正面に展開している敵は約200、砲のある場所には約50です。我々はその50を殲滅します。質問は」
「行こう」
六人の予備隊員の顔は、若い時を彷彿とさせる気力に満ちた顔をしていた。
まだ砲声は聞こえない。近くにいた人達に手伝ってもらって、西側の通用口にある障害物と土嚢をどけてもらって外に出た。背後で閉じられた扉を見た。この戦いに勝たなければ、二度とあのドアの中には入ることが出来ない。
岩倉は前を向いて走り始めた。

兵頭班は二号線まで迂回して東へ進んだ。足の速い三浦と佐藤が、小銃だけを持って先行している。少なくとも甲子園城の周囲10キロ圏内に生存者はいない。人影があれば、それは敵の見張りということになるが、全く誰とも出逢っていなかった。武庫川の手前で南に折れて走る。前方に三浦と佐藤の姿があった。兵頭達は出来るだけ足音を出さないようにして、二人に追いついた。
「二本向こうの道路に見張りが二人います」
「一カ所だけか」
「多分」
「二人は、我々が攻撃を始めたら、敵の見張りを制圧。合流してくれ。残りは、散会し、各自、見張りをよけて進む。集合場所は競輪場跡」
その時、砲声が聞こえた。
「なんだ、あれは」
何人かが同時に声を出した。
「敵には、野砲があるということだ。急がなくては、城に穴が開く。行くぞ」
兵頭班は、足音を殺し、見張りを迂回して競輪場を目指した。
競輪場に集合した兵頭班は、新たな斥候を出して、ビルの陰を走った。斥候の内村が片手を挙げて止まるように伝えている。敵の姿が見えたのだろう。その時、すぐ近くで砲の轟音が聞こえた。他の隊員をその場に置いて兵頭康平は走った。
りゅう弾砲の周囲にいる10人ほどの男達は砲兵だが、砲兵以外におよそ50人の武装した男達がいる。離れた場所に、10頭以上の馬がいた。城から見た時は馬に乗っていた男達がいた筈だが、馬が砲声に驚くのか、馬上にいる敵はいなかった。
康平は内村と共に戻った。
「内村班は、右手から砲兵だけを狙え」
「はい」
「山田班と佐伯班は左側から、敵の司令部を攻撃する。敵の人数はおよそ50。最初の攻撃で、少なくとも20は倒したい。残り30なら勝負になる。合図は佐伯班の銃声」
康平は佐伯班と一緒に近くのビルの裏側から侵入した。昔は事務所に使われていたようだったが、窓ガラスは割れ、机の上は分厚い埃で覆われていた。出来るだけ埃を舞い上げないようにして窓脇に取りついた。康平は、他の班が配置につける時間を計った。
砲兵が「発射準備完了」と大声を出し、全員が両手で耳を塞ぐのが見えた。「発射」の声で轟音がビルの壁を揺らした。排出された薬莢が、道路の上を走った。康平は双眼鏡を取り出す。城には既に三カ所の穴があいていた。
康平は佐伯の横に寄った。
「次に、砲手が手を挙げたら、撃つ」
康平は砲手の動きだけに目をやった。五人の男が動き回っている。監督官らしき男が、兵の報告を確認し、右手を挙げた。
「撃て」
佐伯班の六人と康平の銃が銃弾を吐きだした。山田班と内村班も銃撃を開始した。
康平達が優勢だったのは、ほんの数秒だったのかもしれない。敵の応射は機敏に行われた。
敵は瓦礫の向こうに回り、的確な射撃をしてくる。銃の数では、まだ敵の方がはるかに優勢であり、康平達が動きを見せれば集中砲火を浴びるようになった。
「退避するぞ」
このまま動きを封じられたら、背後に回られる危険もある。
佐伯班が背を低くして出口に向かった時に、ロケット砲弾が飛び込んできた。康平も爆風で倒されたが、傷は見当たらない。康平は出口に走った。だが、部屋の出口付近で佐伯班の二名が倒れていた。頭部が大きく損傷していて、二人が死亡しているのは明らかだった。
建物を出た場所に佐伯が蹲っていた。押さえている腹部から出血が見える。
「自分は、ここに残ります。あと、お願いします」
佐伯は康平の返事も聞かずに、建物の中に消えた。
康平は佐伯班の三人を連れて、別の建物を回り込み、山田班が入ったと思われる建物の先に向かった。囮になった佐伯の勇気を無駄にできない。
銃声を聞いて、四人は地面に伏せた。康平は三人を残して建物の端に駆け寄った。五人の男が背を向けて銃撃している。相手は、別行動をしている三浦と佐藤に違いない。後ろの三人に建物を回り込むように手で指示し、康平は自動小銃を構えた。
敵の二人が身をかがめて、康平の方へ走ってくる。三浦達の背後に回り込むつもりだろう。味方の三人が位置につくまで待っている時間はない。康平は二人に向けて引き金を引いた。出来れば流れ弾が残りの三人にも届くように祈った。
康平の銃弾で二人の敵がつんのめるように地面に這った。それに気付いた三人が走りだした。敵の死体に銃弾を撃ち込んでおいて、康平が飛び出して追いかけようとした時に横からの銃撃で一人が倒れた。残った二人は銃を捨てて、両手を高く挙げた。
追いついた康平は、その二人に向けて銃を撃った。驚いた眼をした敵がその場に崩れ落ちる。康平は、無言で二人の頭に銃弾を撃ち込んだ。
康平達は建物の中に入らずに、建物の陰から銃撃を始めた。だが、戦闘は守備隊の方が劣勢だった。敵が左右に展開し、背後に回れば康平達の全滅もあり得る。
その時、突然、敵の側面から銃声がして、敵の抵抗が弱くなった。誰かが援護に来てくれたことを確信して、康平は飛び出した。敵が壁にしていた瓦礫に取りつくと、城の方へと逃げていく敵の姿が見えた。康平は走りながら銃を乱射した。内村班の三人と山田班の二人が建物を飛び出してきて、康平達の五人に合流し、敵の背後から必死で撃ちまくった。敵が立ち止まればこちらにも犠牲が出るが、敵は逃げることに必死だった。
敵の司令部は城に攻撃をかけている味方のいる場所で態勢を変えたかったのかもしれないが、自分達の上官が逃げているのを見た攻撃部隊は危険信号だと思ったようで、その場を離れ始めた。
「一人も逃がすな」
康平は大声でどなりながら走った。十人が左右に展開しながら銃撃を続ける。たった十人で百人以上の敵を包囲する不思議な戦いとなった。城の二階からの銃撃が勢いに乗ってきて、敵は総崩れ状態になった。砲弾で破壊された一階の穴からも敵が退却してくる。
そこは、殺戮の修羅場に変わった。
一人が銃を捨てて、大きく両手を上に挙げると、次々に武器を捨てた男達は「撃つな」と大声で叫び始めた。
銃声が止んだ。
城に侵入していた敵も外に出てくると、同じように武器を捨てた。
「後ろにさがれ」
康平は、身をさらして前に出て、叫んだ。降伏している敵を城の外壁に追いつめる。一階から守備隊の黒崎達が銃を構えて出てきた。
二十人ほどで、五十人を超える敵を壁に追いつめて包囲した。
「撃て」
康平は銃の引き金を引き絞った。それは、無抵抗の人間の虐殺だった。
敵はその場で、次々に死体になった。
康平は無言で、近くにある敵の死体の頭に銃弾を撃ち込む。守備隊は康平にならって、倒れている敵の止めをさし、甲子園城の南側に二百人以上の死体が並んだ。
「佐倉」
「はい」
「向こうに負傷者がいる。応急手当のできる材料を持って、走ってくれ」
「はい」
佐倉と横にいる笹本は看護兵の資格を持っている。二人が、材料を取りに城に駆け込んだ。
「内村班、山田班、佐伯班は運搬車を持って、負傷者と遺体の収容」
「はい」
康平は横に立っている黒崎に声をかけた。
「司令は」
「お前の援護に行った」
「間宮さんは」
「わからん。間宮さんは二階の指揮をしてた」
「間宮さんが来るまで、俺が指揮をとる」
「頼む」
「黒崎。被害状況を」
「わかった」
「犠牲者は、一階の南側の通路に」
「わかった」
「守備隊以外は、まだ動かないように」
胸が悪くなるほどの血の匂いの中で、康平は指示を出した。
二階の守備隊が、三人出てきた。
「間宮さんは」
「亡くなられました」
「そうか。しばらく、ここで見張りをしてくれ」
「はい」
何事もなかったような静けさの中で、康平は銃を構えたまま立ちつくした。
暫くして、佐倉と笹本が戻って来た。
「負傷者は」
「いません」
「いない」
「はい」
「司令は」
「亡くなられていました」
「そうか」
「すみません」
「黒崎に、犠牲者の名前を報告してくれ」
「はい」
「後は、中で、医療班を手伝ってくれ」
「はい」
康平は、その場に座り込みたい気分だった。
別働隊の帰りが遅い。
「牧野」
「はい」
「内村さん達の帰りが遅い。様子を見てきてくれ」
「はい」
黒崎が城から出てきて、ボードを康平に渡した。
ボードには三枚の紙が挟まれていた。死亡、重傷、軽傷の氏名が書かれている。
守備隊の死亡は五十二名、予備隊が六名死亡、重傷が十一名、軽傷が五名とあった。
「五十八」
「ああ」
守備隊は九十四人だから、無傷の人間は二十六名しかいない。
「阿久津さんと倉持さんを捜してきてくれないか」
「ん」
「この死体の処理を頼みたい」
「ん」
甲子園城には、生産隊と守備隊と援助隊があり、阿久津三郎は生産隊の責任者であり、倉持誠は援助隊の責任者だった。
内村班の様子を見に行った牧野が戻って来た。
「捕虜を一名、連れてきます」
「捕虜」
「馬の世話係だと言っています」
暫くすると、二台の荷車の前に両手を挙げた中年の男と銃を構えた内村が歩いて来るのが見えた。
捕虜の足が止まった。無数の死体が目に入ったようだ。内村の銃で体を押された捕虜が歩き出した。守備隊隊員の遺骸が荷車の上に積み上げられている。岩倉司令の遺体もあった。
「一階の南側通路に」
康平は荷車を引いている三浦に伝えた。通り過ぎる荷車に、康平は頭を下げた。ほんの少しの偶然が生死を分ける。これほどの戦いは誰もが初めての体験だったが、生き残っている人間が、例外としか思えない。この戦いで、康平の中の何かが壊れ、何かが生まれている。それが何なのか自分にもわからないが、今、ここに立っている自分は過去の自分とは違う人間だと感じていた。責任を背負った事だけではない。多くの人命を奪ったことでもない。それは、不条理の過酷さなのかもしれない。答えのない疑問の中で、生きていくしか道がない。何のためにと問えば、自分の心は広漠とした砂漠に放り出されることが目に見えている。答えがないだけではなく、答えを求めてはいけないという現実。これが、生きるということだと、人は誰も知らない。勿論、康平に見えるものも、薄暗い闇だけだった。生き残った人間も無限地獄の中にいる。ただ、食うために生き、生きるために人間の命を奪う。これが兵士の業なのか。
「馬は、農作業の役に立つと言っている。馬の世話が出来る自分を殺さないでくれと言われて、殺せなかった」
内村が、無表情に説明した。
康平は怯えた表情の男を見た。岩倉司令の命令は、皆殺しだった。守備隊の責任者になったことで、新たな命令が自分に下せるのだろうか。康平は即答出来ずに、男から視線を外した。
黒崎が阿久津と倉持を連れてきた。阿久津も倉持も60歳を超えているし、死体を見ても驚かないだけの体験はしている。
「お願いがあります」
「これか」
「はい。守備隊は犠牲が大きくて、動けません。もう、敵はいないと思いますが、警護はしなければなりません。お願いできますか」
「わかった」
「それと、守備隊にも多くの犠牲が出ています。できるだけ、家族の手で掘りたいと思いますが、手伝っていただけると有難いです」
「犠牲者は」
康平は犠牲者の名前があるボードを渡した。
「58名」
「はい」
「岩倉さんも、か」
「はい」
「私達で、掘ろう」
「ありがとうございます」
阿久津と倉持は、守備隊の損害状況の紙面を見詰めた。
「倉持さん」
「ん」
「また、墓標をお願いします」
「ん」
甲子園城で火葬が行われたのは数えるほどしかない、燃料不足を理由に全て土葬になった。
あらゆる物が製造されていないので、人が住んでいない家々から物資を調達してきた。許可なく持ちだすのだから泥棒行為になるが、それを咎める人も機関もない。その代わりに、家に放置されていた遺体の埋葬だけは丁寧に行うことにした。腐乱死体もあれば、白骨に近い遺体もあった。それらの遺体を城の住人は誠意をもって埋葬してきた。環境衛生の面からも、その方がよかったので、死体埋葬という仕事は普通の作業として受け入れたのである。甲子園城の住人の墓もあったので、年に一回集まり、清掃と供養もやっている。ただ、甲子園城に攻撃をしかけてきた強盗団の遺体は別の場所に埋められているし、その墓標には名前もない。しかし、決してぞんざいな扱いはしてこなかった。
守備隊は守備に専念し、生産隊は農作物をはじめ食料の生産に専念する。援助隊は、それ以外の仕事を全て受け持っていた。援助隊には、医療班と工作班と管理班があり、墓標の作成も援助隊の仕事だった。ただし、大掛かりな仕事の場合は全員が協力する。そのことは甲子園城の規則として最初に決められたものであった。
「倉持さん、ですよね」
馬の世話係と名乗った男が倉持に声をかけた。
「私、細井です」
「細井さん」
「池田で近所に住んでました。児童公園の横です。憶えてませんか」
「ああ、細井さん」
「よかった」
「どうして、あんたが、ここに」
「私、誠心会で馬の世話係やったんです。それしか出来ませんでしたから」
「敵」
「はい。でも、私は武器など持ってません。馬の世話だけです」
倉持も阿久津も、康平の顔を見た。
「馬は農作業の役に立つから、殺さないでくれ、と言っています。どうなんです、阿久津さん」
「んんん。昔は、牛や馬で耕していたと聞いたことがありますが、使えるのかどうかわかりませんな」
倉持は、細井という男に一歩近づいた。
「あんたは、やってたのか、農業」
「いえ。誠心会は自分で農業をする気はありませんでした。農業経験のある人がいなかったんです。私も経験はありませんでしたが、嫁が農家の出身でしたから、何とかなると思って、何度も言ったんですけど、やらせてはもらえませんでした。でも、できます。古い物置がある農家か、牛舎の残っているような古い農家なら、まだ道具はあるそうです。子供の頃に見たことがあると言ってましたから」
「でも、馬の餌はどうするんです。人間でもまともには食えていない」
「それは、私が調達します」
「どこにあるの」
「昔いた、厩舎に大きな倉庫があって、今までもそこから運んでいました」
「いつまでも、あるわけじゃないでしょう」
「勿論、私も餌を作ります」
「馬は、病気なんて、しないのか」
「いえ。します」
「ここには、獣医はいないけど」
「その時は、諦めます」
倉持が康平と阿久津の方を向いた。
「うちで、預かってみましょうか。兵頭さんの許可があれば」
「阿久津さんは、どう思いますか」
「倉持さんと兵頭さんの判断に任せます」
「あの」
「何です」
「もし、認めてもらえるなら、家族を連れてきたいんですが、あと仔馬も二頭います」
「家族」
「はい。嫁と息子二人の四人で馬の世話をしてたんです」
「ちょっと、待った。この件は自分が決めてもいいですか」
康平は阿久津と倉持の同意を求めた。今は目の前にある死体の始末が先だった。
「任せますよ」
「はい。では、墓の方の手配をお願いします」
「わかった」
阿久津と倉持は急ぎ足で城に戻っていった。
「内村さん。生産隊の警護をしなければなりません。守備隊を集めてください。できれば予備隊の人で動ける人も」
「了解。この男は」
「自分が引き受けます」
「了解」
内村も急ぎ足で城へ向かった。
「あの」
「もう少し、話を聞かせてもらいますが、今は時間がありません。あの看板の下で待っていてください」
「はあ」
「あの看板の下から、少しでも離れたら、殺します。いいですね」
「あの」
康平は男に銃を向けた。
「この場で、死にますか」
「いえ。待ちます」
守備隊の隊員が集まり始めた。誰の顔も暗かった。人数は25名。
「これからの行動を指示しますが、その前に、岩倉司令と本間さんが亡くなられたので、今は自分が指揮を取ります。守備隊の隊長を誰がやるかは別に決めます。いいですか」
康平は隊員の顔を、左から順に見た。異議を出す空気はなかった。
「これから、生産隊の人に墓を掘ってもらい、ここの死体と、守備隊隊員の埋葬を行います。人数が少ないので、四人一組の班を六班、臨時に編成します。一班と二班はそれぞれの墓地を警護、三班、四班、五班は運搬経路の警護、六班は手分けして伝令とします。司令部はこの場所に置き、自分と黒崎が、ここにいます。予備隊の人も来てくれると思うので、手薄だと感じた班は連絡してください。何か質問は」
「では、班分けをします。班長の立候補」
四人の隊員が手を挙げた。
「あとは、内村さんと三浦。班長は隊員を選んでください」
自然に、六つの班が編成された。
「銃弾の不足がある人は、すぐに補充をしてください。ここに戻ったら、警護に出るまで、敵の銃と弾薬の回収をしてもらいます。以上」
隊員の全員が城に戻っていった。これだけの戦いで銃弾に余裕のある隊員はいない。
「黒崎」
「ああ」
「隊員の家族に連絡してくれるか、墓も掘ってもらわなくてはならない」
「わかった」
「名簿は、倉持さんの所にある」
「ん」
守備隊の副官をしているが、康平も黒崎も若い。半数以上は康平より年上だった。別に世襲と決まっていた訳ではないが、守備隊の父親を持つ男子は守備隊になり、生産隊の子供は生産隊になっていた。例外がない訳ではなかったが、全体で数人が別の道に進んだだけだった。康平の父親も自衛隊出身の守備隊員で、父親は岩倉司令とは同期で最初から石田計画に参加していた。
鍬やスコップを持った生産隊の男達が城から出始めた。守備隊の隊員も戻ってきて、敵の武器と弾薬を回収し始めている。少し離れた場所に生産隊の列が出来て、阿久津隊長が康平の立っている場所にやってきた。
「準備ができた。始めましょうか」
「わかりました」
多くの荷車が集められ、死体を荷車に乗せる作業が始まった。墓掘りの生産隊とそれを警護する守備隊も出発している。予備隊の老人達も銃を持って参加していて、守備隊に代わって武器と弾薬の回収を始めた。
康平は父親からも岩倉からも石田計画の詳細を聞いていたし、守備隊が何をしなければいけないかも教えられていた。その目的は日本人を絶滅させないことだった。そのためには同じ日本人からも城の住人を守らなければならない。それは、非情に徹しなければ出来ないのだと何度も言われてきた。だから、岩倉から敵の全員を射殺するように命令されても違和感はなかったが、人間を殺すことになるのだから平然としているのは表面だけで、気持ちの中には重いものがあった。命令を受ける立場にある時は、命令といういい訳ができるが、自分が命令を出す立場が予想以上に大変なことがわかった。
康平が甲子園城に来たのは12歳の時だった、それから20年間に、何度も危機的状態を迎えたことは体験として知っている。大規模な外敵の襲来はこれで二度目だが、食料不足による危機は何度もあった。難民を受け入れるという人道的な意味では正しいと思われた事が、全住民の餓死に繋がることを体験で知った住民が排他的になるのは致し方がないと康平も思う。その餓死を救ったのはインフルエンザだった。栄養不足になった住民の半数が病死したことで、残された人間は生き延びた。今でも充分な食料がある訳ではない。人道的行為は、自分の生命を差し出さない限り実現できない。それが現実というもので、10人の難民を救うためには10人の住民が死ななければならないことを意味した。天候の関係で農作物の不作があれば、ほぼ一年間は耐乏生活を強いられる。食料事情はこの数年間で改善されたとはいえ、20年経った今でも解決されたとは言えない。
強盗団の死体が次々に荷車に乗せられて無言で運ばれていく。死体には慣れていると言っても、楽しい仕事でないことに変わりはない。
2時間で死体はなくなり、血に染まった広場だけが残った。どこからも銃声はなく新たな敵はいないと思われる。
康平は看板の下に座り込んでいる馬係だという細井に声をかけた。
「助けてくれるんですか」
「いえ。まだ決まっていません。もう少し、話を聞かせてください」
「話って」
「あなたは、家族を連れてきたいと言ってましたが、他の誠心会のメンバーにも家族はいたんでしょう」
「ええ」
「何人、くらい」
「はっきりと数えたことはないけど、200人、くらい」
「その人達は、米とか野菜とか、食料を作っていたんですか」
「いや、誰も農作業などやる人はいませんでしたよ。自衛隊出身とか、サラリーマンとか、中には暴力団の人間もいました。農業の経験なんてありませんから」
「では、食料は、全て、どこかから奪ってきたものを食べてた」
「そうです」
「ここに来た人間だけでも250人以上いますから、500人もの食料は大変なものです」
「ええ、ですから、あちこち、しょっちゅう集めに行きました」
「なぜ、ここに来たんです。今までは来たことがないのに」
「近くでは、集まらなくなって。甲子園には大きな村があるという話でしたから」
「でも、全員、死にました。残された京都にいる家族は、どうなるんです」
「ですから、家族を連れてきたいんです。あそこにいれば、死ぬだけです」
「でしょうね」
「は」
「残念ですが、あなたを京都に行かせることはできません。ここにも余分な食料はないんです。諦めてください」
「どういう」
「あなたには、死んでいただくしかないのです」
「馬は、馬はどうするんです」
「放します。私達では面倒みれませんし、殺し方も解体の仕方もわからない」
「そんな」
「あなたも誠心会という強盗団の一員なんでしょう。覚悟はして来た筈です」
「嫌だ」
「わかります。こんな世の中でなければ、と思います」
「俺が、帰らなくても、皆はここに来るかもしれん。女子供でも、あんたたちは殺すのか」
「残念ですが、そうなります」
「そんな」
「理不尽だと思いますか」
「そりゃあ、そうだろう」
「あなたたちが、やってきたことは、理不尽ではないんですか」
「・・・」
康平は銃を構えた。
「待ってくれ。家族を呼びにはいかない。俺一人で馬の面倒をみる。絶対に役に立つから、殺さないでくれ。頼む」
「自分一人でも、生き延びたい。じゃあ、家族は」
「諦める」
「それは、違うでしょう」
「頼む。何でもする、殺さないでくれ」
康平は引き金を絞った。せめて即死できるようにと狙いは頭にした。
銃声を聞いて、待機している予備隊の人間が銃を構えて康平の方を見た。
荷車が一台戻って来た。
「この死体も、お願いします」

作業は夕方までかかった。
疲れた顔の生産隊の人達も城に引き揚げた。
守備隊の隊員は城の外で、簡単な食事をとった。
「皆さん。食べながら聞いてください」
「これからの任務を説明します。1班から3班までは、交代で入口の警護に当たります。4班から6班は墓地の警護をします。犠牲者の家族の方がいる間は、続けます。全員が引き上げたら、入口の警護に合流してください」
「葬儀は」
隊員の一人が質問した。
「これから、やるつもりです。向井さんにお願いにいきます」
向井達郎は、甲子園城の中で一人だけお経を知っている老人だが、体調が悪いと聞いているので、本人に確かめてみなくてはならなかった。
「黒崎。食べ終わったら、向井さんに聞いてきてくれないか」
「わかった」
黒崎が食べ終わって立ち上がった時に、阿久津がやってきた。
「葬儀は、どうする」
「向井さんに、聞きに行こうと思っています」
「そうか。向井さんはやると言っている」
「そうですか」
「生産隊の皆も、参列したいと言っている。あんたたちが守ってくれた訳だから、当然のことだけど、もう、危険はないんだろう」
「まだ、わかりません」
「そうか。順繰りに出ていっても駄目か」
「わかりました。墓地までの経路に警備を配置します」
「すまんな。疲れているのに」
「ただし、守備隊の指示には従ってください」
「わかった」
「向井さん、大丈夫でしょうか」
「向井さんの希望だから」
「はい。準備ができたら迎えに行きます」
「ああ」
「阿久津さん」
「・・・」
「ありがとうございます」
「なんの。礼を言うのは、わしらや」
康平は阿久津の背中に礼をした。生産隊の人達が作る食料が全ての基本になっている。生産隊を守備隊が守れなければ、守備隊も滅びるしかない。でも、生産隊は守備隊に敬意を払ってくれている。それは、有難かった。
「任務の変更です。4班から6班は城と墓地の間の道路を警備します。墓地には自分と黒崎、それと予備隊の方に手伝ってもらいます」

葬儀が始まった。一カ所だけ援助隊が用意してくれた薪が燃えている。灯りはそれしかない。真新しい墓の全てに光は届かないが、灯りのためだけに薪を焚くことなど初めてだった。向井達郎の低い読経の声と薪が燃える音だけが墓地の音だった。五十人ほどの人の群れが墓地にやってきた。両手を合わせ、深々と頭を下げている。目には見えないが、鎮魂の気持ちは墓の中で眠る犠牲者に届いていると康平は信じた。なかには遺族の所に行き、声をかけてくれている人もいる。
深夜まで、人の群れは続いた。向井達郎の読経の声も途切れなかった。最後に、向井達郎は生産隊の若者に背負われて城に戻って行った。予備隊の老人達に促されて、遺族も城へ向かった。康平は岩倉隊長の墓に近づいた。そこには、舞子の座り込んでいる姿があった。
「舞」
「お兄ちゃん」
「済まない。隊長は俺達を援護するために来て、犠牲になった」
「うんん。お兄ちゃんのせいじゃないよ」
「大丈夫か」
「守備隊の娘だから、覚悟は、いつでも、できてる」
「舞」
「でも、ほんとは、いやだ。父さんに生きていて欲しい」
「すまん」
舞子は盛り上がった土をさすっていた。
一人っ子だった舞子は、康平の妹のようにして育った。正式に守備隊員になった康平は、訓練に明け暮れて時間がなくなり、舞子と話をする時間もなかったが、気持ちは繋がっていると思うことにしていた。康平の父親も、岩倉司令も康平を将来の隊長に育てようとしていたようで、誰よりも厳しい訓練をさせられた。康平もそれに応えようと、全力をぶつけた。石田計画は10年20年で出来るものではない、100年200年の結果が求められている。そのためには、世代交代が重要な課題になっていたのだ。
「舞。今日からは、俺が舞を守る。多分、忙しいと思うけど、必ずお前を守るから」
「うん」

一か月が過ぎ、岩倉舞子は兵頭舞子になったが、監視塔で監視任務についている。冬らしい季節になり、楽な仕事ではなかったが、他に生きる道がないこともわかっていた。
兵頭康平は正式に守備隊の隊長になり、激減した隊員の補充に苦労していた。
舞子は深夜の2時過ぎに任務を終えて部屋に戻った。先に戻っていた康平が火を起こし、お湯を作ってくれていた。深夜まで仕事をする守備隊は、部屋も薪も恵まれている。部屋に戻って飲む一杯のお湯は、この城の中では贅沢品でもあった。一杯のお湯は体を温めてくれるだけではなく、気持ちも温めてくれた。
「どうしたの。元気ないみたい」
「いや」
「大変みたいね」
「ん」
「愚痴をこぼせば、少しは楽になるわよ」
康平は力のない笑みを返してきた。
甲子園城には決められた様式の婚姻届はないが、管理班にある登録簿が書き換えられた時が結婚した日になる。それは、食料を含めあらゆる物資が配給制になっていて、公平を保つためにも必要な帳簿だった。登録簿が書き換えられると、各隊の長から班長に伝えられ、班長から隊員に伝わる。死亡も出産も結婚も、住人の全ての人が口頭で知ることになる。本来であれば出産や結婚は祝うべきことだが、祝い事をするほど食料に余力はない。淡々とした日常が続くだけであった。
甲子園城では晩婚が多い。長期的に見れば、結婚と出産は奨励すべきことだとわかっていたが、短期的にみると人口の増加は城の存続に影響するという心配があり、自然に抑制する気持ちになったようだ。恋愛はどんな障害も克服すると思っていたのは昔のことで、恋愛であっても食料という障害は越えられない事を証明したのだ。それは、何度も餓死という恐怖の前に立たされた人間の知恵だったのかもしれない。
康平の気苦労は、守備隊の増員が進まないところにあることはわかっている。誠心会との戦いで守備隊の半数以上が死亡し、守備隊の任務に復帰できたのは35名だった。生産隊や援助隊の若者を勧誘しても、家族の了解がとれない。自分の息子を死に追いやりたいと思う親がいないのは当然のことだった。
舞子は、康平の背中を抱きしめた。守備隊増員の手助けはできないが、せめて康平の苦労を労ってやりたかった。
その時、突然ドンと突き上げるような衝撃を受け、すぐに大きな横揺れが始まった。
「地震」
いつの間にか、舞子は康平の腕に抱かれて康平の体の下にいた。何もないように思っていた部屋の中を物が飛び交い、公平の背中に落ちているのが康平の動きでわかった。
随分長かったようだが、揺れがおさまった。
「大丈夫か」
「うん」
「お兄ちゃんは」
「俺は、大丈夫。本部に行く」
「うん」
結婚しても、お兄ちゃんという呼び方は変わらなかった。それが一番康平に相応しいようにも思えた。部屋には物が散乱していた。
康平が部屋を出ていった。叫び声やざわめきが聞こえてきた。舞子は、念のために薪に水をかけて部屋を出た。あれだけの揺れだったのだから、怪我人がいるものと思わなければならない。

甲子園城の真ん中に、移設した建物がある。かつて野球場だった頃の二塁ベースの外野寄りになる。本部には当直の三浦がいて、二人は建物の外で隊員が来るのを待ったが、誰も来ない。指示を待つまでもなく、自分が受け持っている区域の被害調査を始めているのだろう。
「俺も、行っていいですか」
三浦もそのことに気付いて駈け出して行った。
阿久津と倉持がやって来た。二人とも、無言で康平の横に並んだ。月明かりしかない場所だったが、表情の暗さは見えた。
被害報告の隊員がやって来始めた。康平達三人は建物の中に入って報告を聞き、管理班の人間がそれを大きな紙に書き取っていった。
ほぼ全ての被害状況が判明したのは、地震発生後30分だった。怪我人が28名、大きく破損した個所は2カ所だった。
「兵頭さんは知らんだろうが、35年前に東北地方で大地震があった」
「はい」
「あの時は、地震の被害よりも津波の被害の方が大きかった」
「ここまで、津波が来ますか」
「わからん。随分昔の記憶だが、東海、東南海、南海地震が連動すると言われていたことがある。その時のハザードマップによれば、最悪の場合、ここも被害に遭うかもしれん」
「そうですか」
「地震の規模も、発生した場所もわからんから、津波が来るとしてもいつになるかはわからない。念のために避難しておくべきかもしれん」
「わかりました。そうしましょう」
「倉持さん。物品ごとに避難場所を決めてくれんか」
康平は建物を出た。守備隊は集まっていた。
「津波が来る可能性がある。あらゆる物資をできるだけ高い場所に避難する。その避難場所は管理班が作成しているので、それを頭に入れて避難誘導をしてもらう。三浦」
「はい」
「今日の当直は監視塔で行う。津波の監視をしてくれ」
「はい」
三浦は緊張した表情で駈け出して行った。
「守備隊の指揮所は監視塔の下におきます。銃は必要ありませんが、警戒レベルは3にしますので、伝令は配置についてください」
守備隊は班ごとに、守備範囲が細かく決められている。どこからどこへ、何が動かされるのかがわかれば、行動できる訓練はしてあった。
生産隊の人間も、援助隊の人間も集まって来た。
台が持ちだされて、阿久津がその台に上がって津波対策を説明した。それを聞いた責任者が順番に本部建物の中に入って避難図を見て散って行った。
康平は守備隊の指揮所を監視塔に置くことを阿久津に伝えて、黒崎と一緒に監視塔へ向かった。
「津波って、どうなんだ」
「わからん」
かつての日本社会は、あらゆる分野で電力に依存していたために、電力の喪失は人々の生活を根底から変えてしまった。情報の分野でも同じ変化を余儀なくされ、日本人は情報の全てを失ったと言える。康平達の年代の人間にとって、子供の頃に見たテレビは過去の記憶であり、現実との開きが大きすぎて記憶自体が偽物ではないかと思うこともある。勿論、インターネットなどはその言葉すら憶えていなかった。そもそも、電力のない世界など全く想定されていなかったことが、現実をさらに悲惨なものにしてしまった。
康平は監視塔の最上階に昇った。
「どうだ」
「何も見えません」
三浦は双眼鏡に眼を当てたまま答えた。
「監視班の皆は、各自の家に戻って避難活動に参加して下さい」
「はい」
四人の女子監視班が監視塔を降りていった。
「黒崎。伝声管に張り付いていてくれ。俺は、ここで指揮する」
「わかった」
康平は暗闇の中を見た。水が押し寄せてきても見えるのかどうか心配だった。
「隊長」
「ん」
「ここは、大丈夫でしょうか」
「わからんな。俺だって津波は初めてだ」
「じいちゃんが言ってましたが、いっぱい家が流されたそうです。津波の跡は野っ原になったそうです。じいちゃんは、昔、気仙沼という所にいて、津波から必死で逃げたと言ってました」
「らしいな」
東北の大津波の話は大人達の想い出話として聞いたことがあるが、実感もなければ想像もできなかった。
監視塔が大きく揺れた。
「余震、ですね」
「ん」
監視塔は、野球場のスコアボードになっていた場所なので、鉄骨に外壁が張り付けてあるだけの簡単な作りになっているので、揺れは大きく感じるかもしれない。
「最初の揺れだと、ここは、凄かったでしょうね」
「ああ」
「監視班の女子は、よく我慢しましたね」
「ああ」
三浦は、よく喋った。多分、強い恐怖心のためだろう。康平も怖かった。得体のしれない敵を待っているのだから、怖くて当たり前だと自分に言い聞かせた。
「どうだ」
阿久津が監視塔に昇って来た。
「まだ、何も見えません」
「そうか」
「本部の方は、いいんですか」
「倉持さんにお願いして来た。じっとしておれんよ」
「はあ」
「何も情報がないというのは、辛いな」
「はい」
「あの時は、2万人もの人が亡くなった。海まで持っていかれて遺体がない仏が何千人もいてな」
「はい」
「ひどいものだった」
「この城は大丈夫でしょうか」
「そう、あって欲しい。あの時も鉄筋のビルは水に持って行かれなかったが、壊れたビルがあったのかどうかは、わからん」
「そうですか」
地震発生から一時間半が経過した。津波が発生したとして、その到達がいつになるのか誰にもわからない。城の中では人声だけではなく鶏の鳴き声や様々な音がしていて、騒然とした空気が監視塔まで届いているが、城の外は不気味に静まり返っていた。
「隊長」
三浦の緊張した声がした。
何かが動いている。そう見えるだけかもしれないが、康平にも何かが見えていた。
「黒崎。退避」
黒崎が伝令管に向かって退避と叫んでいる声が聞こえた。
「三浦。鐘を鳴らせ」
「はい」
監視塔には緊急事態を知らせる鉄板がぶら下がっている。鉄の金槌で叩くとよく響く。江戸時代に火事を知らせる半鐘があったようだが、まだ甲子園城には鉄を鋳造する技術がないので、それと同じ役目を鉄板がやっていた。
暗闇の中をゆっくりと水が這い上がってくるように見え始めた。勿論、それが水なのかどうかは判別できない。妖怪だと思えば妖怪にも見える。
海岸線には防波堤があった筈だが、開口部もあったという記憶がある。どこから侵入して来たのかは暗闇の中では判別できないが、得体のしれないものが広がっていくのは見える。監視塔の上は無言だった。
じりじりとした時間が過ぎていった。
「止まったみたいです」
三浦の声に阿久津が大きな溜息を吐いた。康平にも周囲の空気が和らいだように感じられた。これで終われば、地震の被害だけで済む。決して小さな被害ではなかったが、安堵感が阿久津の溜息になったのだろう。
それでも、監視塔の三人は双眼鏡を下げようとはしなかった。
また、じりじりとした時間が過ぎる。夜が明けたわけではないが、東の空が少し明るくなったような気がした。それは、危険が去ったという気持ちが持ち込んだ錯覚かもしれないが、暗闇の恐怖と津波の恐怖が合体して欲しくはない。
「もう、大丈夫でしょうか」
双眼鏡を下ろして、康平は阿久津の顔を見た。
「わからんな」
康平の体が震えた。その時、初めて寒さを感じた。監視塔の上に立つ服装でないことに気がついた。
「寒いですね。阿久津さん、大丈夫ですか」
「ん」
自分がどんな顔をしているのかはわからないが、阿久津の顔は寒さに固まっているように見えた。
「自分達が監視してますので、何か着る物を持ってきてはどうですか」
「いや。もう少し、続ける」
「そうですか」
三人は双眼鏡を目に当てた。
監視塔にいる人間だけではなく、城の住民全員が息を呑んでいるような静寂が支配する中で東の空が明るくなってきた。それは、錯覚ではなかった。はっきりと水面も見える。
「水が引きます」
「なに」
双眼鏡を下ろしていた阿久津が、慌てて双眼鏡を目に当てた。
何かに吸い取られるように水が引いていくのが監視する三人にも確認できた。
「来るぞ」
音というより圧力のようなものを感じた後に、不気味な塊が持ち上がって来た。そして、塊のまま康平達の方へ押し出されてくる。それは、水には見えなかった。金縛りに会ったように体が動かない。声も出ない。
塊に何かが押しつぶされたのか、金属音が響いた。
「三浦。鐘を」
康平は絶叫していた。
「津波がくるぞ。黒崎。知らせろ」
「津波が来るぞ、津波が来るぞ」
黒崎が伝声管に向かって叫び続けている。
「ぶつかるぞう」
塊は甲子園城の外壁にぶつかって、跳ね上がり、上空から水になって監視塔を呑みこんだ。
監視塔の三人は水になぎ倒されるように監視塔内部の壁に叩きつけられた。康平はとっさに阿久津の体を抱きとめ、吹き飛ばされて右肩に衝撃を受けた。息苦しさはすぐにとれた。
康平は立ち上がって、南側の開口部によろめくようにして辿りついた。右手が動かない。開口部から下を見ると、二階の窓ガラスの下まで一面の水だった。水位は急速に上がってきている。周囲は見渡す限り黒い水の世界になっていた。
窓ガラスが砕ける音がした。このまま水位が上がれば、三階に避難した住民は呑みこまれてしまう。
「黒崎。大丈夫か」
「大丈夫だ」
「できるだけ高い場所に避難させろ」
「わかった」
三浦と阿久津が横に来た。
「もう一度、鐘を」
「はい」
「阿久津さん。大丈夫ですか」
「終わったな」
「えっ」
阿久津の声はうつろに聞こえた。
「まだ、大丈夫ですよ」
「いや、もう終わりだ」
日頃の阿久津は弱音を吐くような男ではない。康平は阿久津の顔を見た。全身水浸しだが、阿久津の目からは涙が出ていた。その場に座り込んだ阿久津の背中が泣いている。
康平は、また水面に目を凝らした。二階の窓の上あたりから水位は上昇していない。これなら、助かるかもしれない。ただ、何もできることはなかった。

津波の襲来から一日が過ぎた。甲子園城は崩壊を免れ、人的被害は数人の怪我だけで済み、物資の被害も大きくなかった。周囲にはまだ水が残っていたが、それは静かに存在しているだけで荒々しさはない。そうは言っても、周囲の景色は一変した。田畑の痕跡はなくなり、小さなビルは水に持って行かれ、荒涼とした空き地だけが残った。
康平の右肩の怪我も骨には異常がなく、打撲と内出血の治療を受け、痛みは残っているが我慢できる範囲にあった。康平は阿久津を捜していた。監視塔で「終わった」と言った阿久津の言葉が耳から離れない。米の収穫は終わっていたし、鶏の避難もできた。野菜に被害は出たが、野菜の備蓄もある筈である。それなのに、なぜ、阿久津は「終わった」と言ったのだろう。あの言い方には、全てが終わったような響きがあった。
阿久津は居住区の狭い部屋で寝ていた。
「阿久津さん」
「ああ、兵頭さん。あんたには助けてもらった」
「具合はどうですか」
「歳ですからね」
「そんなこと、言わないでくださいよ」
「こればっかりは、歳とってみないとわからない。説明のしようがないんですよ」
確かに阿久津の顔色は悪い。それまでは、阿久津に老人の衰えを感じたことはなかったが、横になっている阿久津は老人だった。
「阿久津さん。監視塔で、終わったと言いましたよね」
「ああ」
「あれ、どういう意味なんですか」
「文字通りの、意味だよ」
「でも、なんとか、持ちこたえましたよ」
「ん。確かに。でも、ここは、もう終わりです」
「どうして、ですか」
「あの水は、どこから」
「どこって」
「海から、ですよね。つまり、海水ですから、塩水です。海水に浸かった土地では作物はできないんですよ」
「・・・」
「百姓にとっては、土は何よりも大事な、時には家族よりも大事なものです。毎日毎日、何年も、いや、先祖から土を育ててきたのが百姓です。その土が、一瞬で死んでしまったんです。元に戻すには、何年もかかります。我々には、そんな時間ありません。来年、収穫がなければ、ここにいる大半の人が餓死することになりますよね」
阿久津は疲れたような溜息を吐いた。康平は、言葉が出ずに阿久津の顔を見詰めた。
沈黙が流れた。
「どうすれば」
「土地を捨てるしか、ないでしょう」
「捨てる」
「移住するしか、ないんです。この土地を捨てて。でも、私には、もう、その元気がありませんし、この土地を離れたくない。長生きしすぎました」
「待ってください。他の方も、このことを知っているんですか」
「百姓なら、知っています」
「阿久津さん」
「夏目君を捜してきてもらえませんか」
「俊介、ですか」
「お願いします」
夏目俊介は、康平と同じ年代の生産隊副官をしている男で、子供の頃からの友達だった。守備隊に勧誘したいぐらいの体格をしていて、寡黙だが気持ちの暖かい男だった。
捜しまわって、やっと鶏小屋にいる夏目俊介を見つけた。
「俊介」
「おう」
「阿久津さんが、呼んでる」
「ん。どうした」
「ともかく、来てくれ」
「ん」
途中で援助隊の倉持に会った。
「倉持さんも、来ていただけませんか」
「どうしました」
「阿久津さんが、寝込んでしまいました」
「そりゃあ、いかん」
阿久津の部屋に行くと、布団を畳んだ阿久津が座っていた。
「起きて、大丈夫ですか」
「大事ない。倉持さんも来てくれましたか」
「どうしました」
「なに、ただの年寄り病ですよ」
「実は、津波の件で、ここでは、もう作物は育たないと、阿久津さんに言われました」
「夏目君」
「はい」
「塩害の話は聞いたか」
「はい」
「私には、もう、力が残っていない。この土地を守っていくだけなら、年寄りでもできるが、新しい土地を育てるのは無理だ」
「どういうことです」
倉持には話が見えていなかった。
「塩害で、数年間、ここでは収穫ができないそうです。阿久津さんは、ここを捨てて、移住するしか、方法はないと言っています」
「移住」
「移住が可能かどうか、私にもわからんが、ここにいれば、食料は尽きる。だから、夏目君に来てもらった。君に皆を頼みたい」
「私ですか。こんな若造には無理ですよ」
「そうじゃない。これから必要とされるのは経験でも知識でもない。力だよ、夏目君。わしらの時代はこの津波で終わった。ここで、躊躇すれば、この城にいる人達は、残らず死ぬと思う。それを突き破ってくれるのは若さしかない」
「でも」
「新しい土地を探して、住む場所を確保し、住民を移住させ、物資を運ぶ。新しい土地と言っても何年も放置されていた土地だろう。その土を育て、収穫できるようにするには、力で押しまくらなければできない。年寄りにできる仕事じゃないんだよ。来年、収穫がなければ、誰も生き残れない」
「・・・」
「倉持さん。私は間違ってるのかな」
「いえ」
「兵頭さんは、どう思う」
「やるしか、ない、と思います」
「そう。やるしかない。それができるのは、夏目君、君だけなんだよ」
俊介は眼を閉じてしまった。突然、千数百人の生命を預けると言われても、はい、そうですかと引き受ける人はいないだろう。逆に、簡単に引き受けるようでは、その人選が間違っていることになる。直感的には時間が残されているとは思えない。しかし、俊介に覚悟が出来るまでの時間は惜しんではならないと康平は思った。阿久津に言われてみて、住民の未来を託せる男は俊介以外にいないと思えてきた。
「阿久津さん」
「ん」
「体調が悪い時に、申し訳ないと思うんですが、幹部総会を開いて、このことを、つまり収穫ができないことを、皆に知ってもらうべきだと思いますが、いけませんか」
「ん」
「倉持さんは、どう思いますか」
「やるべきかもしれませんね。我々年寄りは、できれば穏便に事を進めたいと思う。しかしねえ、今回は、阿久津さんも言いましたが、年寄りは足を引っ張りかねない。これは、時間との戦いになると思う。私は兵頭さんの意見に従いますよ」
意図した訳ではないが、各隊の隊長が揃って話し合っているので、事実上の幹部会になっている。三人が合意すれば、幹部総会を開くことになる。
「わかった」
管理班の人間が走りまわって班長クラスの人間を一階の広場に集めた。広場はまだ泥水に埋まっていたが、長靴にはき替えた人達が集まって来た。いつもは床に座って討議される幹部総会だったが、今回は立ったままの会議になった。
台に上った阿久津が静かな声で塩害について話をした。生産隊の大半は知っていたようだったが、守備隊や援助隊の人間は息を呑んだ。甲子園城の住民にとって、食料の問題は飛びぬけて大きな問題であり、それ以外の問題は付随的な問題に過ぎない。集まっている人間の中に、ひもじさを知らない人は一人としていないだろう。
「残念だが、選択肢は一つしかない」
阿久津は、真剣な目つきの班長達の顔を見た。
「この土地を捨てて、新しい土地に移り、その土地を育て、収穫まで辿りつかねばならない。百姓なら、それが簡単なことでないことをよく知っている。それでも、他に道はない」
「私は、ここで20年間、ここの土地と生きてきた。勝手知った土地だったが、それほど簡単なことではなかった。毎年、毎年、今度は駄目かと思いながら、やってきた。この先のことを考えると、私はここで、この土地とともに朽ちてもいいとさえ思う。私が一人なら、きっと、そうする。選択肢は一つしかないと言ったが、生き残るという条件の場合であり、死ぬことも受け入れれば、ここに残る選択肢もある」
「これまでも、決して楽ではなかったが、この先には、はるかに大きな苦しみがある。それを受け止めると決めるのは、住民の総意しかない。皆とよく話し合って、決めてもらいたいと思う」
阿久津が台を降りた。
城の運営は合議制で行われてきたが、この十年間のリーダーは阿久津が勤めてきたと言っても過言ではない。だから、阿久津の言葉には重みがあった。
倉持が台に上がった。
「もう一つ、伝えておかなければならないことがあります」
「先ほど、わかったことですが、墓地は全て流されていて、何も残っていません。遺骨も見つけることができなかったと報告を受けました」
「明日、もう一度、ここで幹部総会を開きます。以上です」
打ちひしがれた人達が、重い足取りで広場を後にする。康平は阿久津に寄り添って、部屋に連れていった。

翌日、住民の総意として移住が決まった。生産隊の隊長を夏目俊介が引き継ぎ、援助隊の隊長には工作班長をしていた浅井智也がなった。同年代の三人がそれぞれの隊の責任者になり、甲子園城は新しい一歩を踏み出した。しかし、三人の隊長に自信があった訳ではない。不安しかなかった。阿久津が言っていたが、三人にあるのは若さだけだった。
「どうすれば、いい」
「わからん。わからん時は、動くしかない」
「何から、やればいい」
「先ず、移住先を見つけることじゃないのかな」
「移住先か」
「俺達は、ここしか知らない。無茶でも歩いてみるしかないだろ」
「だな」
「方向を決めてみないか。北か南か西か東か」
「地図を持ってこよう」
智也が地図を取りに行った。
「俊介。よく引き受けたな」
「仕方がないだろ」
「はっきり、言っとくが、お前が頼りだからな」
「馬鹿言え。俺が100なら、康平も100で、智也も100だ。三つに割って一人33でない事だけは確かだけど」
「ああ」
智也が持ってきた地図を机の上に広げて、三人は見つめた。
「先ず、南はない」
「ん」
「北、だな」
「ん」
「どこまで、津波の水が行ったのか、わかるのかな」
「行けば、わかるだろ」
「じゃあ、とりあえず、ここ、宝塚だな」
「ん。そんな見当だろ」
「何人で行く」
「各隊から二人。六人でどうだ」
「ああ」
「時間は」
「時間って」
「何日必要か、だ」
「んんん。1週間」
「往復でか」
「いや、往復なら2週間。多分、やり直しをする時間はない」
「出発は」
「明日、だな」
「ん」
「わかった」
無鉄砲としか言いようのない計画だが、それが精一杯であった。
「ところで、せめて二人には拳銃を携行してもらいたい」
「触ったこともないのにか」
「守備隊は小銃を持っていくし、守るつもりだが、万が一の場合だ。六人全員が帰ってこなければ、残った人は途方に暮れるだろう。それだけ、次の行動が遅れるとは思わないか」
「ん」
「今日中に訓練してもらいたい」
「わかった。そうする」
二週間分の食料と水、炊飯器具、薬、雨天用の合羽、寝袋。それだけではなく、康平と三浦は小銃と予備のカートリッジを持たねばならない。決して楽な荷物ではないが、若さだけで跳ね返すしかない。早朝、六時に甲子園城を出発した。

一行は、直ぐに道を塞がれることになった。上に高速道路が通る広い幹線道路は、津波に流されてきた木造家屋や車や色々な残骸で埋まっていた。津波が引いていく時に家屋や車が流されていくのは見たが、それがほんの一部に過ぎなかった事を知って驚いた。それらの残骸を通り抜けてみると、周囲の景色は一変した。コンクリートの建物の残骸はあるが、密集していた建物はなく、甲子園口まで見渡すことが出来る。広いと思っていた道路には瓦礫が残っていた。六人は足を止めて、その光景に目を奪われた。
瓦礫を迂回しながら進む道程は、前進の速度を遅くするだけではなく、精神的にも負担が大きくなった。足元を確認することが多く、誰もが下を向いて歩いていたことも気持ちを暗くする。当面の目的地である宝塚に辿りつけるかどうかもわからない。瓦礫の中を彷徨い歩いただけで城に戻ることになれば、そのことだけで城に残された住民の希望は引き裂かれるだろう。六人は背中の重い荷物以上の重さを感じながら無言で歩を進めた。
電車の線路と交差する高架橋の頂上に辿りついた一行の目に見えた物は、一面に瓦礫と化した市街地の廃墟だった。康平には、その街の昔の記憶がなかったが、調査隊に参加してくれている生産隊の加藤と援助隊の佐々木の表情は固まっていた。加藤と佐々木は40代だから、以前の街を知っていたのだ。休憩をするつもりはなかったが、全員がその場に座り込んだ。
「嘘だろ」
この光景を見てみると、甲子園城は津波被害の最前線にあったようだ。城が崩壊を免れたことは、ただの幸運だったのかもしれない。でも、それは、まだ甲子園城の住人にはチャンスが残されているということではないかと康平は考えた。
「行きましょう。何が何でも」
「ああ」
直ぐに俊介が立ちあがった。
六人は、瓦礫と泥に覆われた道なき道を進んだ。時々、方向感覚がなくなり、康平は磁石を取り出して調整しなければならなかった。六人は昼食を諦めて歩き続けた。休憩に適した場所がなかっただけではなく、焦りがあったのかもしれない。加藤と佐々木が遅れ始め、康平は少し進路をずらして大きなビルに向かった。野宿する場所を確保しなければ、一日目で挫折してしまうかもしれない。
やっと、ビルの四階に昇って瓦礫と泥から解放された。
食事を終えると、話をする間もなく康平以外の者は眠りに入った。一日中、人間には出会わなかったが、康平と三浦は3時間交代で見張りに立つことにしていた。座っていると寝入ってしまいそうだったので、康平は廊下を歩き続けた。
丸二日かかって瓦礫の海は脱出できた。そこでも景色は一変したが、よく見れば過酷な世界とも言える。遠くから見ると、草原の中に建物があるのではないかと思うほど雑草が生い茂っていて、道路の割れ目からも草は伸びていた。人の姿はなく、音もない。
六人は歩き続けた。探していたのは、崩壊前に農地として作物を作っていた場所だった。住宅の間に小さな農地らしき草むらはあったが、千人以上の食料を収穫するにはそれなりの土地が必要であり、水路もしっかりとしたものが欲しいと俊介が言っていた。農作物から食料を得る農民にとって、土地と生活は切り離せないし、簡単に移住など出来る筈もなかったので、今回の土地探しは真剣だった。
もう、宝塚まで来ていると思われるが、立ち止まるほどの土地には出会えなかった。もし、生き永らえている人がいるとすれば、田畑から食料を得ること以外には考えられない。農地かただの空き地かは判別できないが、一面に雑草が伸びている。人の手が加えられているような痕跡は見当たらなかった。
三日目には、橋を渡り、山に向かって歩いた。家屋が少なくなり、草原に近い景色を進む。
生産隊の加藤が、何かの臭いを嗅ぐような動作をした。
「田舎の臭いがする」
そう言われてみると、街中の臭いとは少し違う気がする。風で雑草が揺れる音がする。
俊介と加藤が立ち止まり、雑草の中に分け入り、土を触っては話すことが多くなった。
「農地か」
「ああ、間違いない」
持ってきた地図には、康平達が立っている道路が載っていないので、地図が古いのか、道路が新しいかわからない。農道ではなく、幹線道路のようなしっかりとした道路で、その両側に田畑がある。元々は田園だった場所に無理矢理道路を通したとしか思えない。
しばらく進むと小さな橋がかかっていた。川とは呼べないほどの小さな川だったが、水は流れていた。
生産隊の二人が川に沿って進み始めたので、三浦に援助隊の二人を警護するように言って、康平は生産隊の二人を追った。それは、農業用水路のようだ。一時間ほど歩きまわって、元の道路に出た。遠くに三浦達三人の姿が見える。生産隊の二人の手は土で汚れていた。
「この水路の元を見に行く。時間がかかるかもしれないので今度は全員で行った方がいい」
合流した俊介は、自然とリーダーになっていた。
小川の畦道を上流に向かった。しばしば道が途切れたが、迂回して上流を目指す。次第に雑木林の中を進む形になったが、なんとか小川を見失うことなく前進した。少し開けた場所で昼食を取った。
「どこまで、行けばいいのかな」
「もう少し、行ってみたい」
俊介は水源を確認したいようだ。このままだと街中には戻れそうにない。康平は、野営地のことが気になり始めていた。この三日間は天候に恵まれている。テントを持ってきていないので、文字通りの野宿になりそうだったが、それでも安全は確保したい。
小川を見失いたくないので、どうしてもじぐざぐに進むことになり距離はかせげないし、山登りをしているようなものだから疲労も溜まる。三時を過ぎる頃から六人のペースは落ちてきた。岩場に出た。
「俊介」
康平は先頭を歩く俊介に声をかけた。
「ここで、野宿にしないか。林の中で日が暮れると面倒になる」
「そうだな」
六人はその場に荷物を下ろして座り込んだ。
「あの上に登って、見てくる」
俊介は大きな岩を指差した。
「わかった。俺も行く」
康平は小銃だけを手にして、俊介の後を追った。
「おう」
「どうした」
頂上に辿りついた康平に俊介が指差した。そこには大きな池があった。
「あれなら、水源に問題はないな」
「ああ。明日はあの池まで行く」
岩の上からの景色は緑の木々と茶色になった雑草が生い茂る草原だった。
「あれは、道じゃないか」
「ああ」
康平達が歩いてきた小川の北側ではなく反対側に明らかに人間が作ったと思われる道が雑草に埋もれて続いていた。小川の南側を歩けば、何時間も早く池に辿りついていただろう。帰路は時間が節約できそうだった。
「あれは何だろう」
周囲を見回した康平の目に大きな建物が見えた。
「ん。でかいな」
「しかも、立派な塀がある。方向はあの道の先だな」
康平達が歩いてきた宝塚の市街地から伸びている道路も見える。
「ここは、いけるぞ」
「そうだな」
翌日、元の道路の橋まで戻った。
少し登り勾配になっている道路を先に進むと、高い塀が姿を見せた。
「何だろう」
「刑務所じゃないか」
年配の佐々木が答えた。
「刑務所って、何です」
しんがりを歩いている三浦が質問する。
「犯罪者を閉じ込めておく所だよ」
「犯罪者」
三浦は甲子園城で生まれた若者だから、昔の世界のことは知らない。甲子園城でも学校はあり、勉強はしているが刑務所のことまでは教えていない。康平も言葉は知っているが、実際に見たことはなかった。
建物の正面までやってきた。近畿刑務所という看板がある。大きな門は開放されていて、奥の建物が見えた。
人の気配はないが、康平は俊介だけを連れて中に入った。小銃の安全装置を外し、初弾を送り込み、いつでも発砲できる用意をした。俊介も拳銃を手にして、少し緊張している。
建物は、あらゆる戸が開け放されていて、風が吹き抜けている。どの部屋にも人骨がないということは、犯罪者も刑務官もこの建物を捨てたと考えた方がいいだろう。
全ての部屋を確認し、監視塔にも登った。どの部屋も整然としていて、荒らされたような形跡もない。建物はまだ新しく、日本崩壊の直前に建てられたのではないかと思われた。市街地からの道路も新しかった。田園地帯の真ん中に通っていた道路は、この刑務所のために作られたものではないかと思われた。
全体の敷地面積は広く、高い塀と建物の間には空き地と思われる空間が広がっている。雑草に占拠されているが、手を入れれば使い道はいくらでもありそうだ。
六人は入口にある庇の下で昼食をとった。
「畳みは腐っていたけど、それ以外はきれいなもんだ。ガラスも割れていない。明日からでも住める。土地もあり、建物もあった。あと、必要なものは何だろう」
「水」
「そうか。人間の水だ」
崩壊後の新世界では、かつて自動的に供給されていた電気と水と燃料がない。電気は作れないが、水と燃料は確保しなければ生きてはいけない。薬品や道具、塩や砂糖も無人になった住宅から集めて使ってきた。それもいつかは限界がくるかもしれないが、当面は食料を自分達の手で作り出すことだった。崩壊から20年が過ぎても、未来への展望は開けていない。今を生き抜くことでしか未来へは繋がらないのが現実だった。
食事の後、三人づつに分かれて、周辺の調査に出かけた。
集合時間を四時にしていたが、どちらの班も余裕を残して戻って来た。佐々木が湧水を見つけ、水筒に新しい水を入れて戻って来た。甲子園城では、雨水や川の水を煮沸して使っていたので、湧水を始めて飲んだ三浦は自然の水の美味しさに驚いていた。
調査隊の役目が果たせそうな場所に巡り会い、全員の顔に安堵の表情があった。
「問題は」
「えええ、まだ、何かあるんですか」
俊介の暗い顔を見て、三浦が落胆した声を出した。
「道路だ。城から物資を運ぶ道路がない。荷車が使えなければ、無理だろう」
「そうだな」
「せめて、半分の人数は、農地の整備にかからなければならない。一日でも早く収穫できるようにしないと、食料が」
「捜そう」
「・・・」
「俺達が来た道だけが、道じゃないだろう。迂回してでも、荷車が通れる道を捜すんだ」
「そうだな。泥は仕方ないとして、多少の瓦礫なら皆でどければいい」
「今までのところでは、あまり危険はなかった。帰りは二班に分かれて、違う道を帰ろう。無条件で通れる道はないとして、少しでもましな道を捜す。できれば坂道が少ない方がいい」
「そうだな」
話し合いが終わって、皆が寝袋に入った。康平は歩哨に立つべく建物を出た。
暫くすると、俊介と智也がやってきた。
「俺と智也も歩哨に立つよ」
「気にするな」
「お前と三浦は、俺達の半分しか寝ていない。それは、よくない」
「これは、俺達の仕事だ。俊介は食料を作る。智也は水路を作り、病人を治す。そして、俺達は、お前達を守る。お前達が働けなければ、俺達も生きていけない。お前が気を使うことじゃない。これは、俺の仕事なんだ」
「そうか」
「そうさ」
「この前でも、守備隊の人は大勢が亡くなった。俺達は逃げてただけだ。どこか、割り切れないんだよ」
「それは、違うな。俺達守備隊は食料の欠片も作っていない。生産隊が作ったものを食べてるだけ。それは、俺達が俺達の仕事をしているから許されることであって、何もしていない奴には喰わせないだろ。何度も言うけど、これは俺の仕事だ。命をかけるのも、いや、命がかけれるのは、この仕事をすることで生かさせてもらっているからだよ」
「わかった」
「とっとと、寝てくれ」
「ん」
俊介と智也が戻って行った。俊介と智也が、守備隊のことを気遣ってくれたことは嬉しいと思った。あいつらと一緒に、未来をつかみ取りたい。やらねばならないことは、山のようにある。岩倉司令が果たせなかった漁民との連携という宿題もある。石田計画を軌道に乗せるのは自分達の仕事なのだと思った。

調査隊が帰って来た。舞子のいる部屋にはまだ帰ってきていないが、本部に入って行く康平の姿を見た。元気そうだし、笑顔があった。きっといい知らせを持って帰ったに違いない。安堵感が体の中に落ちていくと、自然に涙が出た。
銃弾に痛めつけられた父の遺骸を見た時、舞子はこの世に一人で取り残されたと強く感じた。母を失った時よりも喪失感が大きく、自分の魂が見知らぬ場所を彷徨っているような不安を感じた。母からも、父からも守備隊の任務を聞かされていて、父の死は自分の身近にあるという覚悟を持っていたつもりだった。だが、それは頭の中だけの実体のない空想に過ぎなかったことを、父の遺骸は教えてくれた。遺体が置かれたコンクリートの床に飲みこまれてしまいそうな無力感と孤独に襲われ、動くことも出来なかった。守備隊の隊長の娘という立場だけで生きてきたように思った時、自分には何も残っていないのではないかと感じた。そんな気持ちで、父が埋められた墓地の土を触っていた時に、康平が声をかけてくれた。
全てを失ったと思った舞子が自分を取り戻したのは、守備隊の隊長の妻という立場だった。自分自身の中に何もなくなっても、立場という無形のものが生きる支えになるということに驚いたが、舞子はそれを受け入れた。本音では生きたいと思っている自分がいる。そのことにも気付かされた。だから、康平を失いたくないと強く願っている。康平の声が聴ければ、康平の笑顔が見れれば、康平に触れることができれば、まだ生きていける。
今は、息が出来ないぐらいに康平に抱きしめてもらいたかった。






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