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不運 [短編]


 遠い空に微かに星が見える。田舎では星はもっと身近にあったのに、という記憶が一瞬頭をよぎったが、落合一馬が空を見たのは、都会の空に不満があるのではなく、雨の心配をしただけだった。夏場はできるだけ野宿をする必要がある。簡易宿泊所に泊まるのは十日に一度と決めていた。既に、自分がホームレスの一歩手前にいることは承知していた。住民とのトラブルを避けるために、就寝場所と決めた公園には遅い時間に密かに侵入し、静かに寝て、早い時間に出て行く。不審者という通報をされて、警察が来てしまったことが二度あった。金がないということは不審者と同じことなのだと知った。住所不定、無職という状態の人間には住みにくい国だった。
蚊避けのために作った簡易テントを用意しようとした時に足音を聞き、一馬は動きを停めた。男が一人、目の前のアパートに入って行った。鉄製の階段を登る男の足元は酔っているようだ。二階の端部屋にたどり着いた男は苦労して鍵を開けて入っていった。一馬は小さくため息をついた。周囲の音を注意深く聞きとってから、バックパックの紐を解きにかかった。
「あっ」
アパートに入って行った男の顔が気になっていた理由がわかった。病院で隣のベッドにいた黒岩という男に間違いない。退院した後、しばらく黒岩のことを捜したが、見つからなかった。入院していた五年前には、ホストをしていると言っていたが、あの様子だと、まだホストをしているように見える。一馬より三つ歳上だと言っていたので、三十六になっているはずだ。少しくたびれたホストに見えた。
一馬は荷物を背負って公園を出た。二ブロック歩くと大通りがあって、空車をつかまえることができる。遅い時間だったが、迷わず簡易旅館に向かった。タクシーに乗るのも五年ぶりだった。大串旅館は三階建ての手入れが行き届いていない建物で、白い壁はモルタルの割れ目に沿ってまだらになっている。この三年は大串旅館以外に泊まったことはないので、利用回数は少なくても常連の一人だと思われる。
帳場でテレビを見ながら居眠りをしていた大串が目を開けた。七十歳を越えていると言われているが、人の気配がすると、自動機械のように目を覚ます不思議な人だった。
「空いてますか」
「ああ、落合さん。元気だったのか」
「はい」
帳場の棚から鍵をとり、カウンターの上に置いてくれた。一馬が千五百円を渡すと、また居眠りを始めた。大串旅館の部屋代は千円だが、一馬が泊まるのは特別室なので少し高い。三階の階段スペースに無理矢理押し込んで作った部屋で狭かったが、隣の部屋のいびきに悩まされることがない。五百円も余計に出して泊まる物好きはいないのか、その部屋は空室のことが多かった。
部屋に入った一馬は、斜めになった壁板を外して紐を引いた。釣り竿用の袋に入った宝物は誰にも見つからなかったようだ。

運と不運はどんな基準で配分されているのだろう。努力すれば、いつかは運が開けるのだと言う人がいる。そのことが真っ赤な嘘だと知らなかった子供のころ、西岡先生の言葉を真に受けて、自分を殺し続けてきた。
一馬の父親はトラック運転手だったが、競馬に狂っていた。一馬の名前の由来は一着馬の着を外しただけの名前だと母親から聞いた。生活費を博打に使ってしまう夫の代わりに、母親は街のスナックに勤めていたが、若い男と蒸発してしまった。借金で身動きのとれなくなった父親は、失意のまま首を吊った。
まだ、田舎では本家と分家の区別が根底にある。本家の次男と同じ学年だった一馬は、子供の頃からその三谷正樹の子分という立場だった。その関係は高校を卒業するまで続いた。中学から剣道部に籍を置いたのも正樹が剣道部だった関係からで、防具も竹刀も本家から下げ渡されたものだった。中学の剣道部顧問をしていた西岡先生に認められ、希望しているわけではないのに個人的に練習させられた。目立ちたくなかったから、校内の試合や練習では負けることに決めていたが、対外試合では負けたことがない。西岡先生はそんな一馬の才能を認めてくれたのだが、ひいきされているようで心苦しい気持ちの方が勝っていた。高校生になっても西岡先生の個人教授は続き、県内で落合一馬の名前は有名になった。経済的な理由で大学進学などできる立場ではないことを知っていた西岡先生は一馬に警察官になることを勧めた。剣道で日本一になれと言われたが、父親が傷害事件を起こし、執行猶予付きながら有罪判決を受け、警察官への道も閉ざされた。母親の蒸発と父親の自殺があったが、本家の三谷家の援助で高校だけは卒業し、西岡先生の紹介で大手電気メーカーに就職した。
十年間、電子技術者として努力を続けて、技術者としての誇りを手にした時に会社の方針変更で一馬の勤務していた事業部は廃止となった。事業部廃止の話を一馬は病院で聞いた。交通事故で両足骨折という全治三か月の重傷を負い、ベッドに縛り付けられていた。従業員は九州の関連会社に配置転換と決まっていた。仕事の内容も電子技術とは無縁の製造ライン監視要員であり、病院に訪ねてきた係長も「都落ち」だと言った。退職金割増制度を利用して、退職金を増やすことで納得せざるをえないという係長は退職を決意していた。「俺には、他人に誇れるほどの技術もないから、仕方ない」と寂しそうな顔をした。「君のような技術を持っていたら、どこにでも仕事はある」という係長の話を真に受けたわけではないが、一馬は電子の仕事が続けたかった。退職希望の話を聞いて人事の人間が足繁く病院まで来てくれ、一馬はベッドに寝たまま退職を迎えた。
中央病院五階の外科病棟に入院していた時に隣のベッドにいたのが、交通事故で入院していた黒岩という男だった。外科病棟で患者同士が話題にする話は賠償金のことが多い。保険屋からいくら取ったか、という自慢話が盛んである。黒岩は自慢話の頂点にいた。そして、いつの間にか一馬の指南役になっていた。その黒岩が紹介してくれたのが谷岡啓司という男だったが、一馬はその谷岡という男に賠償金を騙し取られてしまった。何枚もの書類にサインした時に白紙委任状が混ざっていたらしく、保険会社の担当者は保険会社には責任がないと言い張った。まだリハビリの途中で、すでに黒岩も退院していたので、一馬にできることはなかった。
退院後に黒岩と谷岡を捜しまわったが、その行方を掴むことはできずに、賠償金を取り戻すことを断念せざるをえなかった。それよりも再就職の目処が立たないことが問題だった。たまたま失業率が増加している時期で、電子技術者の求人も枯渇し、面接の結果も良くなかった。失業保険が切れてからも求職活動をしていたが、気がつけばフリーターになっていた。失業保険が切れてからは貯金がみるみる減っていき、一年前にアパートも出ざるをえなくなった。
将来に何の展望もなく、明日に何の希望もない日々が続き、ホームレスになってでも生き延びることに意味が見いだせない。父親のように首を吊るしか残された道はないのかもしれない。今の一馬には行く場所も帰る場所もなく、誰に必要とされることもなく、その日のねぐらを捜す毎日を生きている。今度の冬を乗り越えることができるのだろうか。
虎の子の持ち金をタクシー代に使うなど馬鹿げたことだったが、黒岩から谷岡の居場所を聞き出し、金を取り戻すことだけが現状を変える唯一の方法だと思うしかない。五年前の金を返せと言われて、「はい。そうでしたね」と返してくれるわけはないが、久し振りに巡り合った目標というやつだった。一人で不運を背負って生きていくことに疲れている自分を知っている。この目標が最後の目標でも構わないという気持ちが、短時間の間に固まっている。遠慮して、その上に遠慮して生きてきた人生を終わりにしてもいい。一馬の心は、生まれて初めて解放されていた。絶望は死に至る病だと言った哲学者がいたが、絶望から逃れるためには、人はどんな目標にもしがみつく。たとえ、それが破滅に向かう道程だとしても。

釣り竿用の袋に入った宝物を取り出した。いつの時代の物かは知らないが、脇差は鈍い光を放っている。中学の時に本家の土蔵の中から無断で持ち出したものだが、刀身を見ていると落ち着く。脇差を鞘に納めて、袋の中からナイフを取り出して足に取り付けた。壁板を元に戻し、袋に入れた脇差をバックパックに納めた。二度とこの部屋に戻ってくることはないかもしれないと思うと、旅館の部屋だというのに懐かしさを覚える。部屋に鍵を掛け、鍵をポケットに入れて、靴を手にして階段を降りた。
「ん」
「すぐに、戻ります」
「ん」
一馬はタクシーで公園に戻った。一人で歩く時間は短い方がいい。不審尋問に引っ掛かれれば銃刀法違反で留置されてしまう。タクシーを降りると、帰宅する住人らしく足早に歩き、黒岩が入って行った部屋のドアを無造作に開けた。やはり、鍵は掛っていなかった。部屋の中は酒の匂いがした。一馬は鍵を掛け、ズックを脱いで部屋に入った。女の臭いはしない。一人暮らしのようだが片づいていた。狭い板の間の奥に畳の部屋があり、男の足だけが見えている。いびきが聞こえた。ベッドとタンス、そしてテレビ。黒岩はベッドにたどり着く前に電気も消さずに寝入ってしまったようだ。
一馬は黒岩の足を蹴った。いびきは止まったが、目は覚まさない。板の間に戻り、ゴミ箱に使っているバケツに水を入れて黒岩の顔をめがけてぶちまけた。
「うわあ」
何が起きたのかわからない黒岩が一人で暴れた。
一馬はもう一度台所に戻り、もう一杯水をバケツに満たした。
「目、覚めました」
「誰だ。てめえは」
起き上がっている黒岩の顔面にバケツの水が当たり、勢いで黒岩の体が倒れた。
「てめえ」
「目、覚めましたか」
黒岩は濡れた服を心配し、髪型を直した。だが、現実を認識するには至っていない。一馬は板の間から椅子を持ってきて座って待った。
「なんだ、おまえは」
「憶えてませんか、僕の顔」
「・・・」
「中央病院の五○六号室。憶えてますよね」
「・・・」
「ああ、あの頃は、髪、長かったですけどね」
「落合、君」
「思い出してくれたようですね」
「なんで」
「もう一杯、水、いりますか」
黒岩は首を横に振った。
一馬は袋から脇差を抜きだして、峰を黒岩の首に当てた。
「危ないですから、動かないでくださいよ」
黒岩の目が戻ってきていた。光る刀身と一馬の顔を見比べている。
「どうして、来たか。わかってますよね。谷岡の居場所が知りたいのと、あんたの役回りを聞いておきたい」
「俺は」
「何も知らないと言うのなら、このまま死んでもらいますよ」
「俺は何もしてない。全部、谷岡がやったことだ」
「あんたは、僕に谷岡を紹介しましたよね。あんたの取り分は、いくら」
「二十万。それだけ。俺はいらないと言ったのに、押しつけられたんだ」
「充分、共犯者ですよ」
「違う。俺は断ったんだ」
「全部でいくらだったんです」
「多分、二百か三百」
「そうですか。僕も金に困ってましてね、取り戻したいんです。谷岡はどこにいるんです」
「無理だ」
「無理」
「あいつは、クラブの店長やってるけど、そこのクラブは組関係なんだ」
「谷岡も、組員」
「違うけど、同じようなもんでしょう」
「それでも、取り戻す」
「あんたは、何もわかってない。あいつらは、何でもありだよ。敵いっこない」
「やってみますよ」
「本気」
「ああ」
「俺も、あいつには、痛い目にあってる。別に庇うつもりはないけど、あんた、殺されるよ」
「あんたら、仲間じゃなかったのか」
「まさか」
「何があったんです」
「女をとられた。あいつ、俺の女を売り飛ばしやがった」
「黙ってたんですか」
「どうしようも、ないだろう。ほんとに、やばいから」
「それでも、やりますよ。どこのクラブですか」
「マジかよ」
「金、取り戻したら、半分、あげますよ。案内してください」
「えっ」
「金には、困ってませんか」
「いや。でも、な」
「そうですか。どこにあるのか教えてください」
「競馬場近くのグリードという店」
「わかった。で、あんたには大人しくしていてもらいたい」
「ああ」
「どっちがいいですか。この場で死んでもらうか。縛らせてもらうつもりだけど」
「えっ」
「この部屋には、誰か来ますか。同僚とか友達とか。鍵は開けときます。一週間くらいは生きていられると思いますけど」
「・・・」
「あんたに通報されたら、もっと、やばいですよね」
「案内する。半分、もらえるんだよね」
「もちろんです。でも、危険なんでしょう。いいんですか」
「案内したら、逃げても、いいよね」
「金も貰わずに、ですか」
「いや。もらってから」
「危ないことになりますよ」
「いい」
黒岩という男も根は善人なのだろう。だが、金がなければ生きていけないことを知っている。黒岩が金のために転んだとしても、一馬は責めることはできない。そうやって生きている人間は、掃いて捨てるほどいるのだ。ほんの束の間の夢でもいい。他に何ができるというのだ。
「わかりました。行きましょう」
「待ってくれ。このままじゃ行けないよ」
「そうですね。着がえてください」
黒岩が着替えている横で、一馬は脇差を振った。横に薙ぎ、袈裟に切り降ろす。風を切る音は殺気そのものだった。鶏肉を切ったことはあるが、まだ人を切ったことはない。骨を断った時にどれほどの刃こぼれができるのかも予想できないし、どこまでやれば刀身が折れるのか、経験はなかった。刃渡りは四十センチと短いが、相手が大刀を向けてきているわけではないので、小太刀でも充分に武器になると思っていた。

クラブ「グリード」は繁華街から離れた場所にあった。広い駐車場はほぼ満車で、日付が変わっても大勢の客を集めている有名店のようだ。一馬には無縁の場所だったので、どんな人種が集まっているのか想像もつかない。
「黒岩さん。ここに来るのは、どんな人たちなんですか」
「半分は親の金で来る奴。残り半分はその金目当てで来る」
「黒岩さんも、よく来るんですか」
「いいや。ここには来ない」
「初めて、ですか」
「いや、何度かは」
「行きましょうか。大丈夫ですか」
「ああ。仕方ない」
ドアの前に立っていた体格のいい男が無表情に二人連れの客を値踏みした。黒岩一人なら問題はないが、一馬の様子はクラブに出入りするような人種には見えないようだ。
「谷岡、来てる」
「ああ。はい。お客様は」
「黒岩」
「黒岩さま」
「確認してみるか」
「いえ。どうぞ」
男が引き戸になっている重いドアを開けると、大音響の音楽が飛び出してきた。
「事務所か」
「はい。多分」
一馬は黒岩の後ろを歩いた。黒岩に案内してもらって正解だったようだ。一人で来ていたら、西も東もわからないで途方に暮れたことだろう。中央に舞台があって全裸に近い女が体を動かしている。男たちから「あと一つ」コールがかかっていた。七対三の割合で男の方が多いが、女たちも男たちの声に合わせて手拍子を打っていた。
「黒さん」
関係者以外立ち入り禁止の立札の前に立っていた男は黒岩の顔を知っていた。
「いる」
「はい。中です」
通路の少し奥に黒塗りの扉があった。黒岩が扉を押して中に入り、一馬も続いた。正面に休憩中と思われる黒服の男が一人、コーヒーを飲みながら雑誌を見ていた。男は部屋に入ってきた二人の男を見た。簡単に人を殺しそうな危険な顔をしている。扉を閉めると音は無くなった。
「黒ちゃん。珍しいな」
部屋の右手から声がかかった。谷岡だった。五年前には、調子がいいだけの男に見えた谷岡には、ふてぶてしい貫禄がついていた。
「今日は、なに」
黒岩が一馬の方を見て、一歩さがった。
「だれ」
一馬は谷岡が座っている机の前に進んだ。
「僕のこと、憶えてませんか」
「さあ、どこかで、会ったっけ」
「病院で」
「病院」
「この頭じゃ、わかりにくいかな。五年前だし」
一馬は坊主頭を撫ぜてみせた。
「ああ、おもいだした。たしか、落合とか言ったよな」
「よかった。憶えていたんだ」
「で。何の用」
「何の用はないでしょう。預けてある金を貰いに来たんですよ」
「金。なに、それ」
「思い出してくださいよ」
一馬は横にあるテーブルにバックパックを置いて、椅子を引き寄せて座った。
「わけのわからねえこと、言うな」
「黒岩さんは、話してくれましたよ」
「あいつが、何しゃべったか知らんが、思いだせねえな」
「そこを、思いだしてもらわないと、困るんですよ。金がいるんです」
「お前、馬鹿か」
「確かに、五年前は馬鹿でした」
「おい。三沢。こいつを、つまみだせ」
一馬は袋から脇差を抜きだした。
「思い出すんです」
三沢と呼ばれた男がナイフを手にしたのが目の端で見えた。男は一直線で突っ込んできた。一馬は体を開き、男の小手に脇差を落とした。「ぎゃあ」と叫んだ男の手はナイフとともに床に落ちていた。手首から血が噴き出し、絶叫しながら、無くなった手首を押えて床を転がっている。谷岡は呆然と見ていた。
一馬は血のついた刀身を谷岡に向けた。
「思い出しましたか。金を返してくれたら、帰りますから」
「ないよ」
「ない」
「今は、ない」
「じゃあ、死んでみますか」
谷岡は首を横に何度も振った。
「だから、ここには、金はない」
「そんな筈、ないでしょ」
「ほんとに、ないんだよ」
「押し問答してたら、あの人、死にますよ」
三沢と呼ばれた男の声が小さくなってきた。
「黒岩さん。この人、何かで止血してやってください」
「できないよ」
「腕を縛るんです。できるだけ、強く」
「できない」
一馬は近くにあった電気コードをコンセントから引き抜き、黒岩に投げた。
突然、谷岡が走り出した。
余計なことをしたと後悔しても遅かった。一馬は追った。谷岡は扉の前まで行っている。扉を手前に引いている時間だけ距離が縮まったが、谷岡が扉を抜けるまでには追いつけなかった。
「あいつを、止めろ」
扉の前で立ち番をしていた従業員に命じる声が聞こえた。
命令に従おうという行動と一馬の右手にある脇差に対する本能がぶつかり、男は両手を広げてその場に立ちつくした。
一馬はとっさに峰を返して男の脇腹を払い、その場で体を入れ替えて走った。倒れる男を残像で見ながら、一馬は走った。悲鳴と怒号が移動する。谷岡が前のめりになって倒れかけ、なんとか持ちこたえて入口に走る。その僅かな時間の遅れが谷岡の命取りになった。重い引き戸を開けるだけの時間はなくなっていた。扉を背にして正面を向いた谷岡の首にむけて、一馬は脇差を水平に払った。目をむいて、口を大きく開けた谷岡の首と口から大量の血が噴き出し、その場に崩れるように谷岡の体が沈んだ。一馬は頭から谷岡の血を浴びていた。
扉が動いて、外にいた見張りの男が顔を出した。目の前で血を噴き出しながら倒れているボスの姿と、返り血に染まって立っている一馬の姿を見比べて引っ込んだ男が、大きく扉を開けて入ってきた。男の手には鉄パイプがあった。
「やめとけ」
腕で顔の血を拭った一馬は男に声をかけた。だが、男は唾を吐き飛ばすと鉄パイプを青眼に構えた。
「てめえこそ、やめとけや」
男の声は自信に満ちていた。一メートルを超える長さの鉄パイプを、まるで竹刀を持つような余裕で持っている。体格のいい男がより大きく見える。一馬も青眼に構えた。剣道界では嘱望されていた男に違いない。対外試合で多くの選手と対戦したが、これほどの威圧を感じさせる男はいなかった。
「ほう。名前を聞いておこうか」
「落合一馬」
「相馬勇気。こんな奴に出会えるとは思わなかったぜ」
音楽がなくなり、場内が静かになった。
自分から動けば負けになる。相手の方が強い。もし、チャンスがあるとすれば、一回だけだと思われた。この男相手にこちらが真剣を持っていることが強みになるとは思えない。人間相手に初めて真剣を振るったが、躊躇はなかった。それだけが一馬の武器だった。待つ。
対峙したまま、時間が流れる。命を張っている戦いの緊張感は、その場にい合わせた人間にも緊張を強いていた。
後ろの方で誰かが倒れる音がした。パトカーのサイレンが向かって来ている。誰かが警察に電話をしたようだ。男が上段に構えて、前に出た。一馬の脇差の長さでは遠いが、男の鉄パイプには充分の距離になっている。だが、一馬はその場で待った。どちらに動いても脳天に一撃をくらって、勝負はつく。心だけは晴れ晴れとしていた。パトカーの赤色灯が近くに停まったのを感じた。
男が上段の構えを解き、青眼に戻して、一歩引いた。
「やめとく。お前の突きを防げそうにもない。相打ちじゃ、俺の方が損だ。でも、お前、もう逃げられなくなったな。じゃあな」
相馬と名乗った男は鉄パイプを捨て、身を翻して、ドアを出ていった。一馬は追えなかった。
警察車両が何台も到着し、人の足音が聞こえる。一馬は引き戸を締めた。ドアの鍵を捜したが見つからなかった。
谷岡を殺したことで目標は消えてしまった。相馬と名乗った強敵もいなくなった。何をすればいいのだろう。
店内にいる大勢の人間が警察の登場で騒ぎ始めている。少し考える時間が欲しい。一馬は壁際に並んでいるブレーカーのスイッチを全て切った。完全な闇になったことで、騒ぎはさらに大きくなった。
引き戸が少し引かれて、外の明かりがさしてきた。背広姿の男が二人、身をかがめて侵入してきた。手には拳銃が見える。一馬の脇差が一人目の男の小手を下段から切り上げ、返す刀でもう一人の男の小手を断ち切った。二人の男の絶叫が部屋に響いた。外からの明かりの中で、二つの拳銃を拾い上げベルトに差した。一馬の防衛本能は、ドアを何とかしろと言っている。
相馬が捨てていった鉄パイプが目に入った。一馬は引き戸を締め、鉄パイプを引き戸のレールの上に置いた。
ブレーカーのスイッチを元に戻したので、部屋の明かりが戻り、店内には安堵の声が聞こえた。警察官の一人は全く動いていないが、もう一人はうめき声を出しながら床を転げている。店員の誰かが運動のために使っていたと思われる縄跳びの縄があったので、二つに切って男たちの腕を縛って止血をした。既に、多くの血が失われている。助かるのかどうかはわかない。男は、止血をしている一馬の様子を不思議そうに見ていた。
一馬はやっと現状認識ができるようになっていた。日本刀を持った男が人質をとって立てこもっている。その凶悪犯を包囲している警察。何人殺されたのか判明していないが、少なくとも谷岡の死体を見ている相馬の話から死者がいることだけはわかっている。人質を取っていることを知っている警察が、なぜ侵入してきたのか。一馬は動いていない男の体を探って、携帯を取り出して番号リストを表示した。几帳面な男なのだろう、名前の後ろに階級もあった。阿部警部補の名前を押してダイアルした。もう一度、男の体を探って警察バッヂを取り出して男の名前を確認した。
「はい」
相手が出た。
「平瀬さんの携帯から電話していますが、状況はわかっていますか」
「二人は」
「怪我をしてます。放置すると危険です。連れて行ってもらいますから、無茶をしないようにしてくれますか」
「わかった。人質を解放しないのか」
「その話は後です」
「わかった」
一馬は携帯を切って、部屋の中へ行った。
「あの二人を外に出します。手伝ってくれる人。四人必要です」
手を挙げた男を四人選んだ。
「二人で運んでもらいます。ドアを開けますが、勝手に逃げたりしないでください。約束してくれますか。僕の手には拳銃があります」
四人の男が同意した。
「この二人を無事に連れ出せたら、ここに戻ってくる必要はありません。開けますよ」
一馬は鉄パイプを外してドアを引いた。血の海の中をよろけるようにして、怪我人二人と人質四人が建物を出て行った。それを確認し、ドアを閉めて鉄パイプを戻した。
最初に手首を切って落とした男を思い出し、黒岩の姿を捜したが見つからなかった。
「もう一人、怪我人がいます。誰か事務室を見てきてください」
従業員らしき黒服の男が事務室に向かったが、部屋を出てきた男は両手でバツ印をして見せた。続いて、男は床に倒れている仲間を指さしている。峰打で倒した男のことを思い出した。
「連れてきてください」
「駄目です。立てません」
一馬は阿部警部補に電話をした。
「はい。阿部」
「二人は」
「病院」
「担架が三台、必要です。用意ができたら、この電話に連絡ください」
「わかった。救急隊員は必要か」
「担架です」
四人の男が出て行っているので、警察は内部の状況を把握しているはずだ。救急隊員を装った警察官を投入したいと考えたのかもしれない。
防衛本能だけで動いているが、先の展望はなにも見えていない。最終的に制圧されることは仕方がない。逃げるとしても、逃げる場所もない。この状況で何かできることはないだろうか。少しだけでも笑って死にたいものだ。
すぐに電話が鳴った。警察車両も救急車も、そして消防車さえも集結していると思われる。
「はい」
「担架の用意ができた。ドアを開けてもらいたい」
「わかりました。外から担架を押し込んでください。僕は銃を持っていますから無茶しないでください」
「わかってる」
ドアを開けると、その隙間から担架が押し込まれてきた。押し込んでいる男たちの手に恐怖が見える。たぶん、救急隊員の手だろう。一馬はドアを閉めた。
「説明します。死んだ人が二人と怪我人が一人います。もちろん、死体を担架に乗せる仕事もしてもらいます。六人の方」
その場にいた全員が手を挙げた。この状況から逃れられるチャンスを誰もが希望している。女も手を挙げていた。
一馬は端から六人の男を無造作に指名した。運と不運はいつも非情と決まっている。一早く生きている人間に近寄った男が怪我人の担当を確保し、残りの四人が死体の担当になった。自分が死体になるより、死体の処理の方がいいに決まっている。六人の男の行動は素早いものだった。何よりも自分の安全を確保することが最優先になる。
担架が三台入口に並んだところで阿部警部補に電話をし、ドアを開けた。当面の仕事は終わった。その先を考えなければならない。一馬は、血のない床に座り込んだ。気がつかなかったが、極度に疲れているようだ。そのまま、眠ってしまいそうだった。
携帯電話が鳴ったが、誰か他の人の携帯だろうと思っていた。もう、携帯を手放してから三年はたつので、あまり意識がない。ポケットから取り出すとLEDが点滅していた。
「はい」
「阿部です」
「はい」
「人質を解放しませんか」
「まだ、もう少し、待ってください」
「何か、要求があるんですか」
「今は、ありません」
「お名前は、落合さんでいいですよね」
「そうです」
「落合さん。人質を解放して、あなたも、出てきてください。もう、これ以上の犠牲は出したくない。なんなら、自分が替わりに人質になってもいいです。お願いしますよ」
「もう少し、時間をください」
一馬は電話を切った。この部屋にいる人間が人質と言えるのだろうか。音楽こそ無いが、勝手にグループを作って話をしているし、自由にトイレにも行っている。逆らわなければ危害は加えられないようだと思っているのだろう。部屋の片隅に厨房のようなものがあった。一馬は立ち上がり、小さな厨房に入り、ミネラルウォーターを持って入口に戻った。一馬が近づいていっても誰一人恐怖を感じていないらしい。日本刀と拳銃を持っているのに舐められたものだ。
水を半分ほど飲んで、阿部に電話した。
「阿部です」
「落合ですが、要求を伝えます」
「はい」
「警察で一番偉い人は誰ですか」
「署長ですか」
「いえ。もっと、上の人」
「県警本部長」
「もっと」
「だったら、警察庁長官」
「もう、その上は、いませんか」
「長官より上は、総理大臣でしょう」
「そうですか。総理大臣でもかまいません。偉いさん一人で五人の人質を解放します。この部屋には三十人ほどの人がいますから、六人集めてください」
「無茶、言わないでください」
「阿部さんは、さっき身代りになると言いましたよね。偉いさんにはできないんですか」
「それとこれとは、話が違う」
「どう違うんですか」
「どうって」
「十分後に返事してください。返事がないか、拒否の場合は、十分に一人づつ人質を射殺します。これが僕の要求です」
「十分」
「身代わりの身代わりは駄目ですよ。ほんとに偉いさんかどうか、証明してもらいますからね」
一馬は電話を切って時計を見た。こんなことで、何かが変わることはないだろうが、能天気な顔で笑っている若者よりも、失いたくないものを一杯もっている年寄りの方が扱いやすい。今のままでは人数も多すぎて扱いにくい。総理大臣が来ることはないだろうが、総理を道連れにして死ぬのも面白い。新しい目標ができたことで、気持ちが落ち着いたような気がした。
十分後。阿部からの電話が来た。
「要求に従う」
「賢明な判断だと思います。警察官の拳銃で市民が処刑されたら、洒落になりませんからね」
「すぐにとは、いかない。時間をもらいたい」
「勿論です。説得に三十分、移動に一時間あげます。警察の総力を挙げて達成してください」
「無茶、言ってもらっては困る。一時間や二時間では何もできない」
「一時間半後から処刑を始めます。十分に一人です。何人で止められるか、やってみましょう。一時間半以内なら犠牲者はでませんが、半日も遅れたら全員死ぬことになります。僕は、もう、五人も手にかけました。ここから先は、何人でも一緒なんです。そんなこと、わかってますよね」
一馬は電話を切った。そして、天井に向けて拳銃を発射した。部屋の中が水をうったように静かになった。
「聞いてください」
「今、警察と交渉して、皆の替わりになる人を集めてくれるように要求しました。総理大臣や警察庁長官のような偉い人に来てもらうように要求しました。五対一で人質交換をします。ここにいる五人と大臣一人の交換です」
人質の間から歓声があがった。
「ただし」
一馬は両手を挙げて、人質を鎮めた。
「ただし、警察が約束を守らない場合は、一人づつ処刑することになります。一時間半後に最初の犠牲者が出ることになります」
人質の落胆が聞こえた。
「警察が約束を破れば、そのために誰かが死ぬことになります。偉いさんが皆の身代わりになるのが嫌だと言うのなら、全員が死ぬことになるかもしれません。どうせ死ぬなら派手に死んでみませんか。どなたか、テレビ局に知り合いはいませんか。リポーターとカメラをここに呼びましょう。処刑の中継をするんです」
「いいですか。テレビカメラが入っていたら、警察もいい加減なことはできないと思いますよ。しかも、この拳銃は警察官の持っていた拳銃です。この銃で人質が処刑される。その様子がテレビで中継されるとすれば。警察は総力を挙げて、たとえ、総理大臣を拉致してでも、ここに連れて来なくてはならなくなります」
「心当たりのある人は、電話をかけまくってください。自分の命が懸かってるんです。ここに一番早く到着したテレビ局が中継の権利を獲得できると、伝えてください」
一馬は阿部の番号を押した。
「はい」
「阿部さん。もう一つ、犯人からの要求があります」
「何です」
「テレビカメラをこの中に入れます。妨害しないようにお願いします」
「落合さん。図に乗っちゃいけません。犯人の要求なら、何をやってもいいんですか。この現場には誰も入れません」
「そうですか。何か都合の悪いことがあるんですか」
「当たり前でしょう。一般人を巻き込むわけにはいかないんですよ。誰が安全を保証するんです。あなたが保証できないことぐらいは、わかりますよね」
「わかりました。方法を考えます。次、電話するまでに、今の阿部さんの考えを警察の公式見解にしておいてください。今は、映像を送るぐらい何とかなるんです。もちろん、建前の話ではなく、警察が妨害したことは公表せざるをえませんから、上に話を通しておいてください」
十五分後に日東テレビが中継車を出す約束をしてくれた。
何らかの集団ができると、自然とリーダーが出現するものだが、人質の中にもそんな男が現れていた。年齢は一馬より五歳ほど下で、軟派専門の男に見えるが意外に硬派なのかもしれない。
「あんた。名前は」
「須田です」
「歳は」
「八です」
「少し、話、できるかな」
「はい」
一馬は須田を入口まで連れていった。
「僕は、これ以上、この人たちを殺すつもりはない」
「わかってます」
「ん」
「見てれば、わかりますよ」
「うまく、やってたつもりだったのに」
「そうなんですか」
「もう、二人は殺してる。あの刑事も危ないかもしれない。だから、その責任はとるつもりだ。ただ、ちょっとだけ、世間の年寄りを困らせてやりたい。自分のことしか考えていないのに、したり顔をしている連中の肝を冷やしてやりたい。協力してくれないか」
「もちろんです。皆も乗ってくれると思いますよ」
「いや。皆が乗ってくると困るんだ。あくまでも、悲惨な状態の人質でいてもらわなければならない。僕は凶悪な殺人犯で、罪のない人たちを人質にとっている卑劣な男でなくてはならない。ばれない方がいい。だから、個人的に、須田さんに頼んでる」
「はい。何をすれば」
「警察はテレビカメラを入れさせないつもりだ。たぶん、この銃が問題なんだと思う。市民が、警官の拳銃で殺される。それが放送される。隠ぺいしたくなるよな。警察の立場もわからないわけではない。でも、なんでも、年寄りの思い通りになったんじゃ、まずいよね」
「はい」
「だから、カメラが入れない時は、ここの映像をテレビに流れるようにしたい。ネットに流れるだけじゃ駄目だと思う。その知恵を皆で出してくれないか。テレビ局とも打ち合わせしてもらいたい」
「やってみます」
一一〇番をしたのは人質の誰かだし、一度も電話を禁止していないから、大勢の若者がこの事件を知っていると思われる。ネット上にはこの事件がほぼ中継に近い形で知らされて、一馬の映像もすでに存在しているのだろう。返り血を浴びて危険な男の顔になっていることを祈った。
誰も近寄らない入口の近くで腰を下ろして両足を投げ出した。体も気持ちも重い。疲れだけではないようだ。何の意味もないゲームをやっているような虚しさが心を占めている。あらゆる出口が塞がれ、死への一本道が残されているだけの現実に、心の方が先に死のうとしているのだろうか。何だったのか。自分の人生に何か意味があったのだろうか。楽しかったことや嬉しかったことを思い出そうとしても何も出てこない人生。この事件が終われば、何も変わらない世界が、平然と動いて行く。余命数時間。笑うしかないのか。せめて、自分の命だけは自分で終わらせたい。将来の希望とは言えないが、今、持てる目的は他人に自分の命を預けないということ。その時まで、自分が自分でいられる気持が持続できることを祈ろう。せめて、それだけは。
一瞬、眠ってしまったのかもしれない。目を開けると須田が目の前に立っていた。
「うまく、いきません」
「そうですか」
「テレビ局は、確認のとれない情報は流せないそうです」
「わかりました。いろいろ、ありがとう」
「待ってください。終わりってことですか」
「仕方ない、でしょう」
須田が一馬の正面に座り込んだ。
「お名前、教えてくれませんか」
「落合です」
「落合さん。年寄りに一泡吹かせてやりましょうよ」
「無駄ですよ」
「そうでしょうか」
「それに、これ以上、やれば、あなたも困ったことになるんじゃありませんか」
「法律に触れなければ、いいんでしょう」
「警察は、こちらの要求は飲みません。身代わりの人質を連れてくることもないでしょう。人質を処刑すると言ってる僕が、これ以上殺すつもりがない。つまり、この騒ぎは終わりなんです。あなたたちも、解放される。それで、いいんじゃありませんか。もともと、僕はこんな騒ぎを起こすつもりはなかったんです」
「茶番劇は、やめとけ、と言うんですか」
「そうです。何も変わることはありません」
「でも、俺の中では、変わってしまったんですよ」
「・・・」
「俺は、親の脛をかじりながら、劇団をやってます。シナリオを書いて、演出をして、役者もやります。公演の度に赤字を出す劇団ですがね。うちの家は、役人になるか銀行に勤めるかが正しい生き方で、それ以外は間違いなんです。演劇なんて、ありえない選択なんです」
「親の脛がしっかりしていて、寝る場所があり、食うにも困らない。須田さんの考えのほうが、間違っている。二十八でしょう。餓鬼の反抗期じゃあるまいし、親の言うことを素直に聞くことの方が、よほど立派だと思いますが。違いますか」
「確かに、一言もありません。この歳までフワフワと生きてきたことは否定しません。落合さんの迫力を目の前にして、俺は自分の人生全てが否定されたと感じてしまったんです。もっとも、薄々とは感じてたんです。どこか違うと思ってたんです。でも、それは親の言うことを聞くことじゃありません。ただ、今日から生き方を変える必要はあると思っているんです。ですから、このまま解放されるんではなく、何かやりたい。こんな個人的な理由ではいけませんか」
「個人的な理由がいけないとは言いません。僕も個人的な理由で、こんなことをしたんです。だれでも、そうでしょう。でも、僕みたいに取り返しのつかないことをやる、いや、やらねばならない必然性は須田さんにはないでしょう」
「駄目ですか」
「僕も、あの男が素直に金を返してくれたら、何もせずに帰ったと思います。でも、そんなことにはならないだろうとも思ってた。あの男を殺す覚悟はあったんです。それでも、こんなことになるとは想像もしていませんでした。人間の予測など、何の役にも立たないということです。事態は勝手に動いていってしまう。その時は、もう、後の祭りなんです。僕には、こうなる必然性があった。だから、受け入れざるをえない。でも、そうでないなら、やめといた方がいい。須田さんは、何がしたいんです」
「はい。漠然としたものなんですが、世の中に充満しているのに、目には見えない重圧みたいなもの。それを壊さないと息苦しいとか、思うんです。俺も大臣は来ないと思ってます。これって、目に見えない重圧の一つなんじゃないでしょうか。普通では、こんな機会はありませんし」
「重圧ですか。でも、茶番劇くらいでは風穴は開きませんよ」
「ええ。でも、何もしないよりは、よくないですか」
「さあね。あと三十分で約束の時間になります。その時に決めましょう」
「はい」
須田は須田なりに、苦労していると思っているのだろう。でも、一馬からは羨ましい悩みごとに見えた。
約束の一時間半が過ぎたが、阿部からの電話はなかった。予想通りだったが、電話ぐらいしてこいよ、と思いながら電話をした。
「落合です」
「ああ」
「阿部さん、ですよね」
「すまん。まだ、なんだ」
「そうですか。残念です」
「落合さんよ。そこにいるの、ほんとに人質なの」
「どうして、です」
「何度も、こうやって話してるけど、あんたの後ろにいる人質の緊迫感とか感じられないんだよね」
「そう思うのなら、突入すれば」
「でも、万が一ってこともあるから」
「わかりました。我慢比べ、なんですね。さっき一発使ってしまいましたから、警察の銃で処刑できるのは九人です。残りは、僕の脇差でやります。三十人をころすのは、結構大変ですけど、頑張ってみますよ。十分に一人ですからね」
「待ってくれ」
「は」
「どうして、そこまで、やるんだ」
「あなたたちが、ここを包囲したからですよ」
「悪いことは言わん。これ以上罪を重ねるな」
「は」
「もう充分だろう」
「最低でも、もう二人は殺してるんです」
「いや。三人だ」
「あの刑事さん、駄目でしたか」
「もう、これ以上、やめろ」
「どうしてです」
「どうして、だと。お前のために言ってるんだ。これ以上、罪を重ねるな」
「ここで、止めたら、何かいいことがあるんですか」
「なに」
「ここから先、誰も殺さなかったら、これまでの殺人を無かったことにしてくれるんですか。ありえないでしょう。三人でも三十人でも一緒ですよね。警察が突入してくれたら、もっと殺せるかもしれない。やってみませんか」
「おまえ、な」
「そうだ。阿部さん、あなたが身代わり第一号になってみますか。偉いさんという条件付けましたけど、阿部さんなら歓迎しますよ。あなたが来てくれたら、五人の人質を解放します。一人目の処刑は十分間延期になります。それまでに、偉いさんが来てくれればいいんです。もちろん、十分後の処刑一号は、阿部さん、あなたになります。どうしますか」
「時間が足りないんだよ。これでも、必死にやってる」
「ですから、十分間、阿部さんが時間を稼ぐんです。怖いですか。誰も来てくれないことが、怖いですか」
「馬鹿なこと、言うな」
一馬は電話を切った。もう、終りにしようと思っていたのに、また予想外の展開になってしまいそうだ。
電話をしている様子を須田が見つめていた。一馬は須田に来るように手で知らせた。そして横に座るように目で知らせた。
「集音マイク、監視用カメラがあるかもしれないので、小さい声で話しましょう」
「だったら、音楽流しましょう。あの男がDJをやってる男です」
暫くして、須田が戻ってきた。
「ラップをかけるように、言いました」
音楽が流れて、行き詰っていた部屋の空気が溶けて行った。体を揺する者もいる。笑顔もある。
「どうでした」
「約束は破られました」
「やっぱり」
「その気はなかったんですが、また、突っ張ってしまった」
「はい」
「シナリオを書いてください」
「わかりました」
「できれば、カメラも排除したい」
「やってみます」
須田がすぐに戻ってきた。
「これを、見てください」
「これは」
「この建物を写したものです」
外はすでに朝の明るさが近づいていた。
「こんなものまで」
「ネットでは、大騒ぎです。落合さんは英雄ですよ」
「馬鹿な。僕は犯罪者ですよ」
「でも、警察相手に戦ってる。充分、英雄です。俺も、そう思う」
「狂ってる」
「いいじゃないですか。写真は、こっち側だけですが、反対側も手配してもらいました」
黒っぽい服装にヘルメットを被った警察の特殊部隊と思われる人間が屋根に一人と壁に二人いる。
「僕には見えませんが、須田さんは」
「それらしきものが、あるように見えますが」
「近づけますかね」
「DJの部屋が一番近いと思います」
須田の案内で二人はDJ室へ向かった。
従業員から裏口の前は山積みの荷物で使えないと聞いていたので、出入り口は正面の一か所だけだった。人質をとっている犯人としては、逃げ道を遮断するために、その一か所しかない出入口を見張る必要があるのに、一馬は階段を上ってDJ室に入った。ガラス窓から見える天井は近い。確かに胃カメラの先端のような物があった。携帯の写真を確認して、警察官の居場所を想像して拳銃の引き金を引いた。致命傷にならないように狙ったつもりだが、須田が気付いてくれないことを祈った。カメラが消えた。これ以上の人殺しはしたくない。殺人のアドレナリンは消えてしまったようだ。脇差で即死は望めないから、銃弾は自分のために予備を含めて二つは残しておかなければならない。
出入り口に目を向けると、男が一人スライドレールの上に置いてある鉄パイプを取り外していた。黒岩のようだ。黒岩が逃げだせば、警察の障害は一つなくなる。カメラとマイクでおおよその内部状況を把握している警察は突入してくるだろう。直前までカメラは生きていた。だから、警察は犯人が出入口を離れてDJ室にいることを知っていると考えなければならない。
「逃げろ」
一馬は須田とDJ担当の男に大声で怒鳴った。二人を追い出すように階段を駆け降りる振りをして、一馬は部屋に戻った。
DJ室の窓からは、束になった警察官がなだれ込んで来ているのが見えた。楯と拳銃を持った機動隊だった。二階のDJ室と人質の間に楯を並べた警官が並んだ。一馬は二階の窓を開けてその様子を見た。警察の誤算は人質が簡単に避難しようとしないことだった。まるで、デモ隊を排除する時のように人質をごぼう抜きにして連れ出さなければならなかった。その狼狽は警察の行動を手荒なものにし、人質からは抗議の怒号が聞こえる。人質の多くは、これから始まる予定だった茶番劇を楽しみにしていたのだ。須田も悔しそうな顔をして、何度も一馬の方を見ていたが、強制的に連れだされていった。肩の荷が降りた気分だった。
惜しいと思える人生ではなかった。どん詰まりまで来ていた人生だった。ライフルを構えている警官もいて、数十丁の拳銃が一馬に向けられている。一馬はその射界に体を晒している。
「人質は、全員、保護した」
拡声器の声がした。
「これ以上、抵抗しても、無駄だ」
「銃を捨てて、出てきなさい」
入口の扉から顔と拡声器を出しているのは、阿部だろう。
「銃を、捨てなさい」
抵抗して、警察の銃で撃たれても死ぬ保証はない。今更、生かされたんではたまらない。

後日。
警察発表によれば、警察の行動には間違いはなかったとした。
被疑者死亡のまま、殺人の容疑で落合一馬は起訴された。
                                 了


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