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じっと、待つ [評論]



日本は、なぜ、ここまで、国力を落としてしまったのでしょう。
過去に、この国にも、国力を高めた時期がありました。
明治維新後の日本と第二次大戦敗戦後の日本です。
今の日本と、何が違うのでしょう。
2つの時代に共通しているのは、「挑戦」という空気があったことだと思います。
それは、この2つの時代には、「目的」があったからです。
明治維新後の目的は「植民地にならないように、富国強兵を実現する」というものであり、第二次大戦敗戦後の目的は「焼け野原から立ち上がり、世界に追いつき、追い越せ」という目的だったのではないかと思います。
これらの目的は、今の政党が選挙のために、助平根性で、でっち上げている「スローガン」とは別物です。
目的が明確であったために、曖昧の空気が薄まった結果だと思います。

第二次大戦では、多くの若者が死にました。
それ以上に、多くの若者が戦場から戻ってきました。
子供だった私の周りでも、戦場から戻ってきた人達が大勢いました。
第二次大戦敗戦時の20代30代40代の働き盛りの人達が、歯を食いしばりました。
未知に対する挑戦の時代が始まったのです。
食う物もなく、大きな都市は焼け野原でしたから、住居を失った人も多く、毎日を生き抜くことが最大の関心事だったと思います。栄養失調のせいで、病に罹患し、死んだ人も大勢います。それでも、なぜか、「なにくそ」と思ったのです。今の若者の目には「何を、くだらない」と思えるかもしれません。しかし、些細な事であっても、それで、あの焼け野原から復興したのは事実です。
不思議なことに、多くの人が、誰が決めたわけでもありませんが、「焼け野原から立ち上がり、世界に追いつき、追い越せ」という意識を持っていたと思います。
戦後、まだ、物心がついたばかりの私の記憶は「ひもじさ」です。飽食の時代を知らず、生まれた時から「ひもじかった」のですから、比較なんて出来ませんが、それでも、やはり、「食う物」は欲しかった記憶があります。私達の年代の者は、「早食い」だと言われます。次の食い物を口に入れるために、口は空にしておかなければ、生き残れないと思っていたのかもしれません。これが、本能です。戦後復興に尽力した人達も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」ではなく、本能が働いていたのかもしれません。
私が社会人になった頃は、まだ、挑戦の時代が続いていました。
「世界に追いつき、追い越せ」は、まだ、生きていました。
誰もが、新しいことに挑戦する意欲を持っていました。
時間を忘れ、家族を放り出して、挑戦を続けたのです。
今では、家庭を顧みない父親は非難の対象ですが、当時は、誰もが、そんな父親でした。
「何かを得ようとすれば、何かを捨てなければならない」と言われます。
良し悪しは別にして、あの時代は、多くの人が、経済発展を得ようとしたのです。
世界は、そんな日本人を、「働き蜂」とか「経済アニマル」と呼びました。
一人一人の挑戦の結果は莫大なものではありませんでしたが、多くの国民の成果が日本を経済大国と呼ばれる国にしたのです。世界は、奇跡だと言いました。
もちろん、戦後復興の再現はできないでしょう。
でも、このまま、朽ちていくのは、やはり、違うと思います。
皆さんは、ノーベル賞受賞者が増えたという印象はお持ちでしょうか。
2000年以降、日本人のノーベル賞受賞者が増えました。これも、新しいことに挑戦するという当時の風潮が生み出した結果だと思います。
彼等も、戦後を必死に生き、新しいものに挑戦した人達です。
30年後、50年後、日本人のノーベル賞受賞者は出るのでしょうか。
期待できないと思います。

「なあ、なあ」「まあ、まあ」を凌駕する「目的」があるかどうかで、国力は決まると思います。いや、そういう結果になっています。
今は、「目的」がなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が大手を振っています。国力が衰退するのは、自然の帰結だと思います。
少し長期の視点に立てば、明治維新の結果が第二次大戦だとすると、明治維新は失敗だったということになり、戦後復興も、この先にやってくる日本崩壊に繋がっているのであれば失敗だったのかもしれません。
それでも、何度も、何度も、挑戦するしかないのではないかと思います。
栄枯盛衰を繰り返しながらでも、生き延びなければならないとすると、私達に必要なのは「目的」なのではないかと思います。
「日本人は、一度、どん底まで落ちないと、這い上がれない」と言う人もいます。
そうなのでしょうか。
徳川時代があのまま継続していたら、間違いなく、日本は西欧列強の植民地になっていたと思います。
日本人は、植民地になる前に、明治維新をやってのけたのです。
どうして、出来たのでしょう。
「このままだと、ヤバイ」と思った人が、それなりにいたのです。
もちろん、それほど純粋な動機で明治維新が始まったわけではありませんが、それでも、その意識はあったと思います。
日本人にも危機を事前に回避する能力はあったのです。
特に、今回は、危機を回避する行動が、強く求められています。
それは、国が崩壊して、最貧国になってから、立ち上がるまでには、長い時間が必要だと思うからです。今度は、あの戦後復興の再現は出来ません。あれは、奇跡ですから。
19世紀や20世紀と違って、21世紀の世界時間は、その速度を上げ続けています。時間に追いつくだけでも、長時間必要です。多分、100年単位の時間が必要になると思います。もしかすると、500年必要になるかもしれません。
500年前の時代とは、尾張で、織田信長が生まれた頃です。
気の遠くなるような時間が必要なのです。

明治維新で植民地化を阻止したように、今回も、国家崩壊を回避できるのでしょうか。
その可能性は、残念ですが、それほど大きくはありません。
それは、明治維新の時代に比べて、危機感を持っている方が、少ないからです。
確かに、多くの方が、将来不安を感じていますが、余りにも漠然とした不安ですから、国家崩壊を予測できていません。
明日、突然、国家崩壊になっても不思議ではないと思いますが、そんな予測は、どこにもありません。悲観論者の私でさえ、明日だとは思っていません。
しかし、「崩壊の時期は、いつなのか」は決まっていませんが、必ず、崩壊します。
それは、崩壊に向けたトレンドが存在するからです。
何度も書いていますが、一度、トレンドが生まれてしまうと、そのトレンドを変えるのは容易なことではありません。じわじわ、ずるずる、何となく、ではありますが、トレンドは着実に進みます。トレンドは、小手先や口先では変わりません。特に、衰退のトレンドには、大きな変革が求められます。
天皇統治が衰退し、平家が衰退し、源氏が衰退し、室町幕府が衰退し、豊臣が衰退し、徳川が衰退しました。いつの時代でも、時代を変えるような政変という大きな変革があったことを見れば、別に珍しいことではありません。人間社会に変革は不可欠なのです。
封建制度というシステムであれば、時の権力を倒すことが時代を変えることに繋がりましたが、民主制度の現代では、その理屈は通用しません。
倒すべき独裁者が存在しない民主制度下では、一番難しいことですが、自分を変えるしか方法はないのではないかと思います。いや、もしかすると、独裁者は、低い国民意識なのかもしれませんし、曖昧という空気なのかもしれません。ただ、明確な独裁者が存在しないということは、それだけ、変革の難易度が高くなるということなのかもしれません。
多分、いや、間違いなく、国民意識を変えることでしか、この国は変わらないと思います。
どうすれば、国民意識は変わるのでしょう。
その前にやらねばならないことがあります。
国力衰退という現実を認め、その先にある未来を想像し、危機感を持たなければ、変革のスタート地点には立てないと思います。「なあ、なあ」「まあ、まあ」をやっていたのでは危機感は持てません。
危機感がなければ、変革はできません。
今の日本に、危機感はあるのでしょうか。
いいえ、まだ、不安感の領域を出ていません。
それは、明確な現状認識ができずに、想像力が衰えてしまったからだと思います。
それは、戦後復興の上で胡坐をかき、冬眠状態になってしまったからだと思います。
「マジでヤバイ」と思えば、想像力は復活します。
しかし、国民の皆さんは、「俺には関係ねぇ」と言っているのです。
2000万人もの相対的貧困者が誕生しているのに、その現実を見ているのに、どうして、「俺には関係ねぇ」なんて、言えるのでしょう。明日は、自分の番だとは思わないのでしょうか。不思議ですが、思わないのです。なぜか、「自分だけは、大丈夫」だと思い込んでいます。ま、よくあることですが、これが命取りになります。既に、貧困者の仲間入りをした2000万人の人達の大半の人も、「自分だけは、大丈夫」だと考えていたと思います。早いか遅いかの違いはありますが、皆さん、例外なく、貧困者になります。それが、トレンドです。個人は、トレンドという激流の中では、木の葉か小石に過ぎません。
危機感が持てないのですから、変革が始まることはありません。私達は、変革のスタート地点に立つことさえ出来ていません。
想像し難いとは思いますが、仮に、多くの国民の皆さんが危機感を持ったとしましょう。
危機感を持てば、変革が出来るのでしょうか。
そうではありません。
私達は、日本国民は、自分で変革をしたという経験を持っていません。
「自分ではない、誰か」が変革してくれるのを待つことになります。
「じっと、待つ」のです。
私達は、この2000年間、明治維新を別にすれば、そうやって、生きてきたのです。
と言うことは、この国では、危機感があれば何とかなるわけではないのです。
自分の力で変革を推し進めるという意識を持つまで、国民意識を変えるという大改革が必要なのです。
そう考えると、ほとんど、希望の光はありません。
ですから、この国は、崩壊します。
これ、自然な成り行きです。
しかし、それでも、奇跡は信じたいと思います。
明治維新のあの時代でも、国民の多くが危機感を持っていたわけではなく、ほとんどの日本人が持っていたのは不安感だったと思います。
危機感を持っていたのが1000人なのか、1万人なのか、10万人なのかわかりませんが、現代でも、志のある若者が一定数いれば、改革、いや、革命は可能かもしれません。
私達の国で求められているのは、革命なのだと思います。
民主主義風の国で革命を起こすために必要なものは、何でしょう。
大義と国民の同意ではないかと思います。
そのためにも、国民の手による、目的と責務の明確化が必要なのだと思います。


2022-07-05



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