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私達の普遍的な価値とは [評論]



このブログでは、社会で起きている些細な出来事を検証しています。
それは、些細な出来事の集大成が国の未来を決めるからです。
贔屓目に見ても、この国の衰退は明らかです。しかし、あらゆる立場の人が、そのことを「見て見ぬふり」をしています。政府を筆頭に、政治家、学者、メディア、そして、国民も、まさに、一枚岩のようです。これが「和の精神」というやつなのでしょうか。
でも、隠しようもなく、この国の衰退は明らかです。5年前と比べれば、この衰退という空気は、少しずつ、その濃度を増しているように感じます。「なんか、ヤバくねぇ」と感じている国民は増えていると思います。
国家崩壊の原因は、国力衰退の原因は、多岐にわたります。
一部の政治の問題を解決しても、一部の経済の問題を解決しても、一部の社会の問題を解決しても、国全体の問題が解決するわけではありません。それだけではなく、解決策として打ち出した政策が、衰退の背中を押してしまうこともあります。
多くの皆さんは、国家崩壊なんて陰謀論にすぎないと思っているかもしれません。
でも、自分で勝手に壊れるのは、陰謀でも何でもありません。
今、「俺には関係ねぇ」と言っている人でも、国が壊れて食う物に困った時には、「関係ねぇ」なんて言っていられません。政府に対して「どうしてくれるんだ」と怒りをぶつけても、天から食糧が降ってくるわけではありません。食う物に困るような環境を作ってはいけないということです。結果が出てからでは、どうすることも出来ません。
どうか、自分を、家族を守る行動をしてください。
一番困るのが食糧です。可能であれば食糧の備蓄をしてください。500年分の食糧があれば、何とか、生き残ることは出来るかもしれません。今は、保存期間500年の食糧なんて存在していませんので、発明してください。それが出来ないのであれば、国家崩壊を防いでください。

今は、実感はないと思いますが、皆さんの使命は「生き延びること」だと思います。
いずれ、そのことを実感する日がやってきます。
よく「大局的な観点から」という言葉を好む政治家がいますが、政治家の言う「大局的な観点」とは、自分にとって利益になる観点という意味です。自分の利益を阻害しない範囲が「大局」に相当します。今、私達の前にある衰退という課題は、この「大局的な観点」で処理できるようなものではありません。必要なのは、特定の誰かの「大局的な観点」ではなく、より多くの人の「普遍的な観点」なのではないかと思います。
理屈では、その通りですが、これが中々の難題です。
なぜなら、人間は、「欲」を捨てることができないからです。
いや、「欲」こそが人間の本質だからです。
そういう意味では、「普遍的な観点」というものは成り立ちません。
「普遍的な観点」に近づける方法はないのでしょうか。
ありません。
ありませんが、必要です。
だって、国が崩壊して喜ぶ人はいません。
観点という言葉は、必ず人間が介在しますので、普遍的にはなりようがないのです。人間は、千差万別と言われます。百人百様の観点が存在するということです。例えば、私の独断と偏見は、私にだけ正しいことであり、普遍的という言葉とは、全く縁がありません。
ここは、「普遍的に見える観点」を作るしかないのではないかと思います。
絶対正義なんてものは存在しませんので、それを承知の上で、できるだけ多くの方のコンセンサスが必要となります。
たとえ、偽物の「普遍的な観点」を作るにしても、国民の皆さんの積極的な意志が必要なのです。そこが、一番の難題です。
ここは、無茶を承知で、国民の皆さんが積極的に参画してくれるという前提にします。
その上で、「普遍的」とは何でしょう。
今という時代は、普遍的なものを見つけるのは難しい時代だと思います。
時代を遡ってみましょう。
縄文時代ではなく、それ以前の、日本に人間が住み始めた頃を想像します。
当時の日本人は、何を願っていたのでしょう。
多分、単純ですが、「生き延びること」だったと思います。
今の私達と同じで、昔の人達も食べなければ生きていけません。
雨露をしのぎ、外敵から身を守る、安全な場所も必要だったでしょう。
火も水も必要だったと思います。
彼等は、生き延び、子供達に未来を託すことが、生活の全てだったと思いますし、最大の目的だったと思います。
そのためには、先ず、食う必要がありました。その生活は食い物を確保することに大半を使っていたと思います。草を、木の実を、草の根を、魚を、鳥を、動物を食べたと思います。中には、毒を持っているものもあったでしょうから、死んだ人もいたと思います。当時は、書物なんてありませんから、あらゆることを経験則に頼っていました。食べ物を選別するためには多くの知見があったほうが有利です。他の家族と友好関係を持つことも利益になったと思います。この経験則が大事にされたことから、後に、長老や占い師をリーダーにする社会が生まれたと思います。
ともかく、「生き延びること」、これが全てです。
これは、人間だけではありません。
生命を持つ者の、根源的な願いだったと思います。
大昔の人達の願いなんて、今や、何の価値もないのでしょうか。
もちろん、「生き延びて、何になる」と言われれば、答はありませんが、永遠を求め続けるのが生き物です。そこに、意味なんてないのだと思います。
私の勝手な解釈に過ぎませんが、人間の普遍的な価値とは、今でも、「生き延びること」であり、「子供達に未来を託すこと」なのではないかと思います。
多分、人類絶滅のその日まで、この普遍的価値は不変なのだと思います。
当時は、「俺には関係ねぇ」なんて言う人はいなかったと思います。生き延びることに全精力を注いでいたと思います。それだけではなく、他の人間も同じ目的を持っていましたので、不満はあったと思いますが、協力して、知恵を出し合って、力を合わせて、必死になって、生き延びることが最優先だったと思います。「自分さえよければ」「今さえよければ」もご法度だったでしょう。
そう考えてみると、現代の私達は、その真逆をやっています。
これは、「ヤバイ」と思います。

では、今の日本では、この普遍的価値は守られているのでしょうか。
貧困は、「生き延びる」ことを阻害する最大の要因です。
相対的貧困率では、世界で13番目に高い数値になっています。貧困者は、約2000万人と言われています。何とか「生き延びる」ことは出来ていますが、「子供達の未来」よりは、今の生活を維持することのほうが優先されています。子供の数が減っているだけではなく、子供達の抵抗力は弱まっています。未来を託された子供達は、重く感じるかもしれません。
絶対的貧困率も絶対的貧困者数も数字にはなっていませんが、絶対的貧困者は存在しています。それは、炊き出しに並ぶ人達がいることで証明されています。彼等も、「生き延びる」ために、ゴミ箱を探し、廃品を集めて、その日の食べ物を手に入れています。「子供達に未来を託すこと」なんて気持ちは1ミリもないと思います。統計数値には出ていませんが、「生き延びる」ことが出来なかった人もいると思います。
私達が知っておかねばならないことは、相対的貧困層の皆さんは、絶対的貧困層に、いつでも移行可能な予備軍だということです。
相対的な貧困の増加は、もう日本のトレンドになっています。ですから、この先、相対的貧困層の人は増え続けます。経済的な環境の変化があれば、このトレンドは、勢いを増します。それは、必然的に、絶対的貧困者を生み出すことになります。
国民にとっての経済環境の変化は、個人ではどうすることもできません。
庶民に影響する経済環境の変化とは、物価の上昇であり、企業の倒産・廃業であり、失業者の増加等々があります。コロナ支援金のおかげで、環境変化は抑えられていますが、いつまでも続くわけではありません。一足早く物価上昇が始まっていますが、企業の倒産・廃業の増加や失業者の増加は、それほど遠くない未来に始まります。
日本経済を、他国と比較して、素直な目で見ていただければ、いかに日本経済が衰えているかはわかっていただけると思います。
敗戦後には、日常だった栄養失調という言葉は、最近、あまり聞きませんが、この先は、また、メジャーな死亡原因になると思います。死亡原因の項目に「餓死」という項目は無いようですが、「餓死」も増えると思います。絶対的貧困国とは、それが当たり前の世界になるということです。

この国は、日々、衰えています。
どうして、誰も、原因を見つけようとしないのでしょう。
結果を変えることが、対策になると信じているようにしか見えません。
その典型的な例を見てみましょう。
企業間競争は、国内競争ではなく国際競争の時代になり、日本の企業は、リスクの高い開発や研究やイノベーションに資金を投入するのではなく、人件費の削減に力を入れました。守りを優先させたのです。経団連の要望に従い、政府は非正規労働者を容認しました。これも、人件費という結果を力技で変えるものです。
国力衰退の最も大きな直接的原因は、企業が「守り」に入ったことです。ただし、その原因の原因は別にあります。それが、目的と責務の欠如です。更に、その原因となっているのが、言葉の定義をするという風習の欠如です。今、私達が見直さなければならないのは、曖昧文化だと思います。
人件費の削減に邁進しましたが、それでも、国際競争力では世界に太刀打ちできません。
低額給与者を非正規労働者に置き換えることに成功した企業は、今度は、高額給与者の駆除に乗り出しました。希望退職者募集だけでは限界があったのです。そこで、経済界は、野党の要求する「同一労働同一賃金」に目を付けました。
経済界は、人件費の削減のために非正規労働者を作ったのです。非正規労働者の待遇を正規労働者の待遇にしてしまえば、元も子もありません。目的は、正規労働者の待遇を非正規労働者の待遇に近づけることが目的でなければ、整合性はとれません。
少しずつですが、その動きは表面化してきています。
中でも最も大きな流れは、ジョブ型雇用と呼ばれるものですが、日本社会に浸透するには、まだ、時間がかかります。
ですから、個別対応として、企業は正社員の各種「手当」の削減に動いています。あらゆる手段を使って、未だに、人件費を削減することに注力しています。ジョブ型では、通勤手当や家族手当などはありませんから、移行期間と考えているのかもしれません。ジョブ型人事制度を採用している企業は25%、移行中・検討中が30%、未検討が35%、未回答が10%だそうです。
非正規労働者側が、不平等だと訴える案件では、企業側が敗訴し続けています。これも、企業側にとっては想定内の事だと思います。裁判所からお墨付きを貰うようなものです。企業にとっての選択肢は、正規社員の待遇を非正規社員並みにすることです。
企業は、正社員に対して「裁判では負けます。皆で会社存続を諦めるか、皆さんの手当てを削除するか、選んでください」と言っています。今は、「会社存続」という言葉は伝家の宝刀です。いつ、どんな、企業が潰れても不思議ではない時代になったのです。正社員は会社の要求を受け入れるしかありません。
こんな企業風土の中で、社員は、どう考えるのでしょう。社員の皆さんも、守りに入るしかありません。企業も社員も防衛です。全体が衰退するのは当たり前だと思います。
この一連の非正規問題の出発点は、どこにあったのでしょう。
日本企業が、衰退の原因を克服するのではなく、人件費が高いという結果を捻じ曲げたことが出発点です。結果を捻じ曲げ、そこから生まれた結果を、更に捻じ曲げる。これでは、終わりはありません。これが、今、日本で起きていることです。原因を究明し、それに対応するのではなく、結果を捻じ曲げることで辻褄を合わせようとしたことが、国力衰退に拍車をかけました。
今のやり方を続けていれば、この国の未来は真っ暗です。
従来の考え方を変えるしか道はないと思います。
そのためには、その根拠を見つけなければなりません。
私達の「普遍的な価値」を再認識することも必要ですし、基準となる明確な目的も責務も必要です。多くの国民が納得して、力を合わせてくれる根拠が必要です。
その上で、原因をとことん究明し、真正面から対応することが求められています。
特定の誰かの「大局的な観点」など、不要です。
誰か、一刻も早く、このことに気付いて欲しいです。


2022-06-01



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