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ふんわり [評論]



日本で、専守防衛が議論されていますが、また、建前論に終始するのでしょうか。
多分、その公算が高いと思います。
ある方が、「ウクライナ戦争、あれが、専守防衛の闘い方です」と言っていました。
私も、そう思います。
と言うことは、専守防衛という防衛手法は、「市民の犠牲を前提にしている手法」ということになります。たとえ、ウクライナがロシア軍を押し返したとしても、犠牲になった市民は生き返りません。
ウクライナでは、多くの市民が犠牲になっています。それだけではなく、市民の住居は破壊され、思い出の品も焼かれています。生産活動が出来ずに、収穫した穀物も売る方法がなく、ロシア軍に穀物が奪われています。ウクライナのGDPは半減すると言われています。たとえ、戦争が終わったとしても、経済的な苦境がやってくることは目に見えています。
これが、他国の侵略を許した国の現実です。
専守防衛では、仮に国は守れたとしても、国民を守ることができないだけではなく、貧しい国になるという実例です。
そんな現実を見せられている日本の皆さんは、「ヤバイかも」と言いながらも「俺には関係ねぇ」と思っています。そんな国民の反応を見て、左翼の皆さんは「専守防衛を守れ」と言っています。では、専守防衛で、どうやって国民を守るのでしょうか。そもそも、この国の目的は専守防衛なのですか。それは違います。国民生活を守ることが目的なのです。
国にも、国民にも、国民生活を守る責務があります。
左翼の皆さんには、そんな責務はないのでしょうか。左翼の皆さんは、国民ではないのでしょうか。彼等は、一体、何者なのですか。

国民の中には、専守防衛を基本とする日本が敵基地攻撃能力を持つことは許されないという空気があります。「軍事力なんて必要ない。だって、日本には平和憲法があるじゃないか」と本気で信じている国民が、信じられないほど、大勢いるのです。
ですから、議論することは必要だと思いますが、中身のある議論になっているようには見えません。それは、言葉の定義がされていないからです。「何となく、専守防衛」が日本での専守防衛なのです。
敵基地攻撃能力は、専守防衛の領域を越えているという意見もあります。
敵基地攻撃能力は、先制攻撃に当たるという方もいます。
日本は過去に他国を侵略した国だから、侵略につながる敵基地攻撃能力は、持ってはいけないという方もいます。
ただ、議論の前提が、いつもの事ですが、曖昧なまま議論されています。
相手国の都合で戦争が始まった時、私達がどんな状況を迎えるのかという具体的な前提がありません。いつもの事ですが、「国民」という視点が欠けています。
左翼の皆さんは、口には出しませんが、敵の攻撃の一発目は甘んじて受けるという前提のようです。それが、専守防衛だと言います。でも、その時の国民がどんな状況にあるのかに関しては口にしません。国民も、自分の所にはミサイルは飛んで来ない、と根拠なく思い込んでいますので、左翼の主張に「ふむ、ふむ」と頷きます。
そこで、左翼の皆さんにも、比較的理解されやすい折衷案を考えてみます。
それを、限定的敵基地攻撃能力と呼んでみましょう。これも、定義の一つです。
一発やられたら、一発撃ち返す、という考え方です。
左翼の皆さんも、馬鹿ではありませんから、敵基地攻撃能力を全否定しているわけではないようです。共産党でさえ、いざとなれば自衛隊を出動させると言っていますので、そこそこの、それなりの、反撃は認めています。ただ、与党も野党も、何故か、「最小限」という言葉が好きです。これも、「なあ、なあ」「まあ、まあ」です。
では、その限定的敵基地攻撃能力を想像してみましょう。
仮に、中国が、一発目の攻撃として、東京に核ミサイルを撃ち込んだとします。
「最初からそんなことはしないだろう」と反論するかもしれませんが、ほんとに、そうなのでしょうか。私には、軍事的には正しい選択に見えます。中国には、そういう主張をする人もいます。
広島の原爆による直接の犠牲者は15万人だと言われています。
現在の原爆の威力は、広島型原爆の1000倍の威力だと言われています。
と言うことは、首都圏に住む1400万人は、全員、死にます。その周辺の地域の皆さんにも影響があるでしょうから、少なくとも2000万人の犠牲は覚悟しなければなりません。
日本に核ミサイルはありませんから、限定的敵基地攻撃能力を持っていたとして、北京に通常爆弾で反撃したとしても、北京の犠牲者は、それほど多くはありません。
こちらが紳士的に振舞えば、相手も紳士的に振舞うというのは、スポーツの世界の話であり、戦争では通用しません。日本の一発の反撃に対して、敵は、500発のミサイルを撃ち込んでくることのほうが軍事的には正しい選択です。
日本の人口の半数は死にます。
これが、限定的敵基地攻撃能力です。
敵基地攻撃能力に反対する方は、その犠牲を受け入れると言っているのです。
これほど国民を無視している発言に、国民は何も言いません。いや、「日本には平和憲法があるから、誰も攻めてこない」と信じています。
国民は、「俺は何も悪いことはしていない。だから、少なくとも、俺の所へミサイルは来ない」と思っています。ほんとに、そうなんでしょうか。ウクライナの国民は悪逆非道の国民だったから、プーチンが言うように「ネオナチ」だったから、その報いを受けているのでしょうか。違います。日本人が「いい人」ばかりであっても、平和憲法があっても、戦争は相手の都合で始まるのです。
日本政府の皆さんや野党の皆さんは、「国民」を「国民生活」を「国民の命」をどう考えているのでしょう。いつも、その視点が抜けています。
彼等は、「国民生活を守る」ことが、国の責務であることを知らないから、選挙のことしか考えていないから、「ああでもない、こうでもない」と屁理屈をこねて自己満足しているだけです。
こんなこと、ほんとに、受け入れられるのでしょうか。
しかし、国民の皆さんは、そんな政府を、そんな野党を、容認しているのです。もちろん、積極的に容認しているとは言いません。でも、皆さんは、何もしていません。それは、結果的に容認しているということになるのです。
皆さんが犠牲になるのは必然であり、自業自得です。
それとも、何か得体の知れない何かが、神風が、私達を守ってくれるのでしょうか。これも、曖昧文化の副作用です。理想と、いや、夢想と現実は同じではありません。
敵基地攻撃能力に反対する方は、数千万人の国民の命を犠牲にしても構わないと言っているのです。これが、国家運営に参画している人達の意識です。
国民は、守られていません。
国民の命なんて、政治家の皆さんの選挙の前では、何の価値もないということです。国民よりも、国民生活よりも、自分の選挙のほうが圧倒的に大事なのです。
これ、どう考えても、お花畑で昼寝をしているとしか思えません。
そろそろ、目を醒ます時だと思います。

何度も書きますが、戦争は、絶対に、反対です。
そのためには、「他国から侵略される戦争」を防がねばなりません。
国は、国民を守らなければなりません。
私達が生き残るためには、フルスペックの軍事力が必要です。それでも、中国の軍事力には敵いません。日米同盟だけではなく、西側軍事同盟に参加することが必要であり、アジア軍事同盟の創設が必要です。中国の力は、そこまで大きくなっているのです。
私達は、国民生活が守れるだけの軍事力は持たねばなりませんが、私達がやらねばならないことは、その軍事力の行使を、どう制御するのかを考えることだと思います。アメリカやロシアや中国にならないようにするためには、どうすればいいのかを考えることが必要です。
自民党は、9条に自衛隊の文字を追加すれば済むと思っています。
そんな認識で、国民を守れるのでしょうか。
国防をゼロベースで再構築する必要があると思います。
なぜなら、国の責務は、国民生活を守ることだからです。
与党も野党も、未だに、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなると思っているのです。
すべては、原則がない事に端を発しています。
先月、フィンランドのNATO加盟の話題を書きました。
フィンランドが変わったのは、国民世論が変わったからです。
フィンランドでは、銃弾の在庫が無くなって、店頭から消えたそうです。フィンランド国民が自衛のために、銃撃の練習を始め、銃弾の消費が増えたからだそうです。
仮に、九州が中国人民軍に侵略されれば、国民の皆さんの意識は変わるのかもしれません。フィンランドにとってのウクライナ戦争は、そういう戦争なのです。
日本でも、国民世論が変わらなければ、この国を守ることは、国民生活を守ることは、できません。
しかし。
日本国民は、未だに「戦争反対、平和、平和」と叫べば戦争にはならないと信じています。
外交で戦争は回避できると信じています。
過去の世論調査では、実に多くの国民が、「日本には平和憲法があるから、日本は大丈夫なのだ」と本気で信じています。圧倒的多数の日本人が、そう信じているのです。これ、冗談ではなく、ほんとに、そう思っているのです。
試しに、憲法に「平和のために、南シナ海を元に戻す。中国は尖閣には近づかない」と明記すれば、実現するのでしょうか。
ウクライナ戦争を見た今でも、その信心は揺らぎません。確かに、ウクライナ戦争を見て、不安は感じていますが、それでも、日本だけは大丈夫だと信じているのです。もう、理屈の世界ではなく、宗教の領域に入っていると思います。
現実とこれほど遊離している国民も珍しいと思います。
これも、曖昧文化の効能であり副作用なのだと思います。
「お目出度い人々」と呼ぶしかありません。
ほんとに、「いい人」ばかりなのです。
「いい人」は犠牲にならないという法則があれば良かったのですが、残念ながら、そんな法則はありません。
先月、「戦争とは」という言葉の定義についてかきましたが、国民の皆さんが思っている「戦争」は、「ふんわり」としたものです。具体像は持っていません。
子どもの目の前で母親が、夫の目の前で妻が、親の目の前で娘が、レイプされて殺されるのが戦争です。自転車に乗って友達の家に行こうとしていた人が銃撃を受けるのです。
家族が、友人が、次々と死んで行くのが戦争です。
そんな惨劇を、私達は「ふんわり」で包んでいるだけなのです。
そんな惨劇をあからさまに口にすることは、適当ではない、はしたないことだ、と思い込んでいます。目と耳と口を閉じ、地面に這いつくばり、嵐が去るのを待つのが日本流だと信じています。まさに、私達は、今でも、日光東照宮の猿です。
実際の戦争に遭遇すれば、百人が百人共、「ふんわり」と現実との余りの落差に驚き、後悔することになります。もちろん、後悔したって、現実は変わりません。

このチグハグ感は、どうして生まれているのでしょう。
どうして、夢想と現実が違うことを認識しないのでしょう。
何度も書いていますが、曖昧が原因だと思います。
多くの方が、いや、ほとんどの方が、戦争には反対です。私も、絶対、反対です。
この国を戦場にしてはいけません。
でも、戦争は起きます。これが、現実です。
戦争になれば、何が、どう、変わるのかという現実を知っておかねばなりません。
現実に直面すれば、「ふんわり」や「曖昧」では方が付かないのです。
たとえ好ましくないことであっても、正しい認識を持ち、正面から向き合うしかありません。
そのためには、現実を知ることです。
「ならず者国家」は存在するのです。これも、現実です。
「ならず者」は、相手が弱いとわかれば、征服したくなってしまうのです。子供の「いじめ」と同じです。弱い子供が狙われるのです。
だから、「こいつは、弱い奴だ」と判断されたウクライナは侵略されているのです。あの場所にアメリカ合衆国があっても、ロシアは戦争を始めていたのでしょうか。プーチンは馬鹿ではありません。普通の隣人として振舞っていたと思います。
国民が、お花畑で昼寝をしているような国を征服するのは簡単です。
やりたい放題です。
戦争は非情です。「ふんわり」なんてありません。
そのことに、ぜひ、気付いて欲しいと思います。
現実を認識するためには、何が必要なのでしょう。
何度も、諄くて、済みません。どうしても、言葉の定義が必要です。
皆さんは、目も耳も口も脳も心も持っています。
見てください。聞いてください。言葉に出してください。考えてください。感じてください。それが、人間としての責務であり、皆さんの宝物なのです。
どうして、持っている宝物を使わないのですか。


2022-06-03



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