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幸せを失うということ [評論]



「私は、そこそこの生活ができればいい」
「豪邸もブランド品もいらない。毎日、つましい生活でも、ほんの時たま、美味しいものが食べれたら、それでいい」
「仕事で、生き馬の目を抜くような仕事をしたいとは思わない。少しだけ、誰かの助けになる仕事ができれば、それでいい」
「家庭を大事にしたい」
「出世したいとは思わない」
「政治なんて、俺には関係ねぇ」
「家族で、餃子を作り、餃子の形を肴にして盛り上がれば、それでいい」
「普通の暮らしがしたい」
「小さな幸せがあれば、充分」
「他人は他人、自分は自分、私にとっての幸せが欲しい」
ほんとに、多くの方が、こんな願いを持っているのではないかと思います。
特に、若い皆さんは、こういう幸せが好きだと思います。もちろん、小さくても、自分流の幸せが一番だと思います。全く異論はありません。
ただ、問題があります。努力なしに、幸せは手に入らないのです。
戦争になれば、大災害が起きれば、国が崩壊すれば、皆さんの願いは、全て、露と消えてしまうのです。
実に不条理なことだとは思いますが、不幸は勝手にやってくるのです。
国民の皆さんは、自分の願いを守る行動をするしかないのが現実です。誰かが、与えてくれるものではありません。自分達の力で守るしかないのです。国民は、誰一人知りませんが、国民の皆さんには、一人の例外もなく、その責務があるのです。
皆さんは、「こんな小さな願い、別に、罰は当たらない」と思っているかもしれません。
そうではありません。
願いの大小の問題ではなく、不幸は、根こそぎ、幸せを奪っていくのです。
それが、不幸なのです。
たとえ、小さな願いでも、大それた願いでも、関係ありません。皆さんは、自分の幸せを守るために、子供達を守るために、行動するしかないのです。
何度も書きますが「誰かが、何とかしてくれる」なんて奇跡は起きません。
皆さんの小さな努力が、皆さんの意識が、皆さんを、皆さんの幸せを、守るのです。
多分、「国民の責務って、なに」と言う方が多いと思います。考えたこともないと思います。そもそも、国民に責務があるなんてことは、知らないと思います。中には、「言わない」「見ない」「聞かない」ことが、下々の責務だと思っている人もいるでしょう。土下座をしていれば済む、と思っている人もいるかもしれません。でも、不幸相手に土下座をしても、何の足しにもなりません。この国を支えるのが、皆さんの責務です。
仮に、チラッと頭をよぎったとしても、「ま、俺には関係ねぇし」と思ったはずです。日常的に、「俺は、日本の国民だ」なんて考えている人はいないと思いますが、だからと言って、皆さんが国民であることから逃れることはできません。それは、希望する、希望しない、に拘わらず、皆さんは国民であり、国民の責務を負っているのです。
「責務って、何か重そうだし、俺、国民でなくてもいいわ」と言う人もいるかもしれません。もちろん、皆さんは、日本の国民をやめる選択肢も持っています。海外へ移住すれば、日本国民の責務を果たす必要はありません。ただ、残念ですが、「日本には住むけど、責務は果たしたくない」と言う選択肢はないのです。こんなこと、誰も考えません。なぜなら、全ては、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で片が付くからです。
そんな皆さんでも、国には責務があるのではないかと、おぼろげに感じているはずです。
これ、変だと思います。
仮に、国の責務は、「国民の生活と生命を守ることだ」と言えば、皆さんは「ふむ、ふむ」と大きく頷くと思います。しかし、国には責務があって、その国を構成している国民には責務はないという道理は通りません。国に責務があるのであれば、国民にも責務があるのです。しかも、この国は、建前だけではあっても、国民主権の国です。主権者に責務がなくて、外注先の政府に責務があるという理屈は、道理が通りません。
しかし、現実を見れば、国の責務も、国民の責務も、「これが責務だ」なんてものは存在していません。全ては、曖昧という霧の中です。
何となく、ぼんやりと、責務らしき影はありますが、影だけです。

厄介なことに、大きな不幸は、毎日、毎年、やってくるわけではありません。
数十年に一度、数百年に一度の頻度でやってきます。
ですから、私達は、ついつい、忘れてしまいますが、不幸が根絶されたわけではありません。
私達は、いつやってくるかわからない不幸に対処するために、日々、努力することしかできません。
小さな幸せを守るためには、戦争をしてはいけません。国家を崩壊させてはいけません。災害は防げませんが、可能な限り被害を小さなものにしなければなりません。これ、当たり前のことだと思います。だって、皆さんの幸せが壊されるのですから。
皆さんは、そのための行動を、していますか。
「行動、と言われても」と思うはずです。
なぜなら、この国では、国民の責務が、何も決まっていないのです。
責務が決まっていないのに、「行動をしろ」と言われても、行動しようがありません。
先ず、国民の責務を明確にしなければ、何も始まりません。
家族が笑いの中で過ごせる小さな幸せは、天から降ってきているのではありません。
たまたま、そういう環境にあるだけです。
環境は、いつでも、変わります。それが、自然の摂理です。
残念なことに、小さな幸せを継続するためには、大きな努力が必要なのです。
「そんな努力をするくらいなら、別に、不幸になってもいい」という方もいると思います。ただ、現実に、不幸に直面すれば、「ごめん、やっぱ、不幸はいらない」ということになります。そこは事前に気付いてもらうしかありません。
今、ウクライナ戦争のおかげで、不幸が可視化されています。
愛する息子がロシア軍に拉致され、拷問され、後ろ手に縛られて、銃弾で頭を吹き飛ばされ、廃棄物を処分するように埋められる。母親の苦悩は計り知れません。きっと、小さな幸せの中で、皆で笑って生活していた家族だったと思います。戦争がなければ、小さな幸せは続いていたと思います。でも、不幸は、向こうから勝手にやってくるのです。
今回のウクライナ戦争のおかげで、日本の国民の皆さんにも、漠然とした、曖昧な、正体不明な恐怖や不安が生まれました。
ただ、その恐怖や不安は、形になっていません。
想像力を失ってしまった私達は、リアルな未来を予測する習性を失ってしまいました。
ですから、何をしたらいいのか、どうすればいいのか、わかっていません。
ただ、ただ、不安なだけです。
先ず、不安の元を見つけてみませんか。
そして、正面から対峙してみませんか。
それとも、これまでのように、逃げますか。
これまでのように、寝たふりをしますか。
皆さんは、どうしたいのですか。

私は、「人口、財政、戦争、災害、疫病」を五大災禍として書いています。
「衰退」を追加して、六大災禍と呼びたいと思います。申し訳ありません。災禍は増える一方です。
人口減少が止まりません。
財政は悪化しています。
ウクライナで戦争をやっています。
東南海地震・首都直下地震が来るという予測に変化はありません。
コロナパンデミックが来ましたが、致死率の高いパンデミックがやって来る危険を指摘する専門家もいます。
国力衰退は、止まることなく、衰退の度合いを深めています。
どれも、現在進行形の形で続いているのです。
こんな環境の中で、皆さんの「小さな幸せ」は守られるのでしょうか。
「守られないかもしれない」と思っているから、不安なのではありませんか。
皆さんの直感は、そのことを知っているのです。
このまま、不幸の直撃を受けるまで、何もせずに、待つのですか。
不幸に直面した時。
「俺のせいじゃない」「俺は悪くない」「俺には関係ねぇ」「誰誰が悪い」と言い訳を言っていれば、不幸は尻尾を巻いて逃げていくのでしょうか。
そんな都合のいいことが起きないことは、皆さんも知っています。
でも、皆さんは、どうすればいいのか、わからない。
「わからない」ことで、不安は不安のまま、居座っています。
先延ばしで解決しないことも知っていますが、他の道が見えていない。
これでは、不安は消えることがありません。
いや、不安のままであれば、まだ、ましです。
不幸は、容赦なくやってきます。
不安が現実になることが、絶対にないのであれば、「見て見ぬふり」は正解です。
ほんとに、大丈夫なのですか。
貧しい人が増えています。もう、2000万人です。皆さんは、大丈夫ですか。
ウクライナでは、市民がロシア軍に蹂躙されています。あれは、現実ではないのですか。
地震も火山も、不気味です。
不安を解消しなくても、いいのですか。
日中戦争と国家崩壊と地震の3つまとめて起きたら、どうします。
「そんなことにはならない」と太鼓判を押してくれる人はいますか。
答は簡単です。
私達が、「やるっきゃない」のです。
皆さんの、小さいかもしれない幸せを守るために、「やるっきゃない」と思います。

もちろん、幸せを守る方法には、魔法も、一発逆転も、奇跡も、ありません。
一歩ずつ、地道な努力を、続けるしかありません。
医療の世界では、早期発見と早期治療が鉄則です。先送りして、放置したままだと、病状は確実に悪化します。癌であれば、ステージ4へと一直線です。ステージ4の先にあるのは「死」です。国家運営でも同じだと思いますが、なぜか、国家運営では「先送り」が多用されます。そのことを、恥じることもありません。
今日まで先送りを続けたのは私達です。皆さんは、先送りをしたのは政府だと思っているかもしれませんが、先送りをする政府を容認している国民の皆さんも、同罪です。
先送りをしたのですから、茨の道になるのは仕方ありません。
では、どうすればいいのでしょう。
先ず、目的と責務を明確にすることから始めることをお勧めします。
そのためには、言葉の定義が必要です。
この国の目的は何ですか。何のために国はあるのですか。
国民の目的は何ですか。皆さんの幸せを守ることじゃないのですか。
そのために、国は、国民は、何をしなければならないのでしょう。
国の責務と国民の責務を明確にしてみませんか。
そうすれば、皆さんが進む道が見えてきます。
皆さんの前にある道は、困難と苦悩の悪路です。
でも、皆さんを、皆さんの家族を、その幸せを守るためには、前に進むしかありません。
多分、それが「生きる」ということだと思います。
そうだとすると、私達は、これまで「死んでいた」ことに、いや、「眠っていた」ことになります。
そろそろ、目を醒ます時だと思います。
もちろん、これまでのように「眠ったまま」を選択することはできます。ただ、その責任は国民の皆さんが取るのです。それは、皆さんが幸せを失うということです。
古人は、これを「因果応報」と言いました。
「普通の暮らし」「小さな幸せ」なんて、いつでも吹き飛ばされるのです。
ウクライナ戦争は他人事ではありません。
どこの国でもウクライナになれますし、どこの国民もウクライナ市民になれるのです。

ウクライナ戦争を機に、色々な方が、色々な議論をしています。中には、提案をする方もいますが、皆さん、表面の見える部分だけを取り上げています。どれをとっても、絵に描いた餅です。集団マスターベーションと呼んでもいいような議論ばかりです。砂上の楼閣の上に、屋に屋を重ねるような議論して、何か意味があるのでしょうか。
なぜ、こんな現象が起きているのでしょう。
そうです。原則がないからです。
そのことに気付いている方が一人もいません。
土台が無いのですから、砂上の楼閣は簡単に崩壊します。そうなれば、「小さな幸せ」なんて、簡単に吹き飛ばされます。
土台になる、目的と責務という原則を確立することから始めなければ、何をやっても、無駄な抵抗にしかなりません。
今、この国に必要なことは、「言葉の定義」です。
歴史と伝統に囚われて、「言葉の定義」をせずに、何かができると思っている精神構造が、日本中を汚染している「なあ、なあ」「まあ、まあ」が、この国を滅ぼします。確かに、曖昧文化は、私達にとっては空気のような存在ですが、そのことに気付かなければ、21世紀の日本はありません。こんな環境は、歴史上初めてですが、気付くしかありません。


2022-05-06



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