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戦争という言葉の定義 [評論]



「戦争反対」を旗印にする方がいます。
私も、戦争には反対です。いや、絶対に反対です。
「戦争とは」という言葉の定義をしてみてください。
以前にも書きましたが、戦争には何種類もの戦争があるのです。その個々の戦争の定義をしなければ戦争の定義は出来ません。
正しいかどうかは別にして、私の勝手な分類ですが、戦争には3種類の戦争があります。言葉では、同じ「戦争」という言葉を使いますが、内容は全く別物です。
1.日本が他国を侵略する戦争。
2.他国が日本を侵略する戦争。
3.世界的な核戦争。
もしかすると、「戦争反対」という旗印で阻止できる戦争は、あるかもしれません。ただし、それが可能になるのは、1番目の「日本が他国を侵略する戦争」だけです。これが実現出来たら奇跡だと思いますが、可能性はゼロではありません。ただし、2番目と3番目は、いかに「戦争反対」と叫んでも防ぐことはできません。可能性はゼロです。
私達は、今日まで、「戦争」という言葉も、概念も、封じ込めて生きてきました。
現実から逃げるために、先送りをするために、私達は「戦争」という言葉をタブーにしたのです。敗戦という現実がありましたから、仕方なかったと思いますが、そのまま、今日にいたるまで、約80年も、私達は現実逃避を選び続けたのです。タブーに支配されるということは、近代国家ではなく、呪術や掟を重視する古代国家の国家運営方式を選択したということです。私達日本人が拠り所にしているのは歴史と伝統ですから、先祖還りは、決して、珍しくありません。
しかし、今回のウクライナ戦争によって、「戦争」をタブー視していれば、戦争をしなくて済むという考え方が、幻想にすぎなかったことが証明されてしまいました。
もちろん、誰でも、「戦争」という概念とお付き合いしたいとは望んでいません。
しかし、現実の「戦争」は、私達の願いとは関係ありません。好むと好まざるに拘わらず、「戦争」という概念とは付き合っていくしかないのが、現実です。
私達の国は、曖昧文化という土壌の上に、歴史と伝統という価値観を拠り所にしてきましたので、上記の3つの戦争は、区別されることなく、同じ「戦争」という概念で捉えていたのです。言葉の定義が習慣になっていれば、「戦争」が一種類ではないことくらい、誰にでもわかることです。
更に、私達の国は、敗戦という特殊事情で、「戦争」という概念の一部にフォーカスして国家運営をやってきました。1番目の「日本が他国を侵略する戦争」を阻止することが、最大の課題となり、2番目と3番目の「戦争」には、目をつぶったのです。
その結果、軍事力に対する正常な判断ができない国になりました。
少しは変わりましたが、以前は、軍事力も自衛隊も悪だったのです。
その先頭に立ったのが、旧社会党であり共産党です。
立憲民主党は、共産党ほど軍事力を憎んでいませんが、口先で「平和」を叫び、現実から逃げることを好んでいます。これも、現実逃避です。個人が「易きに流れる」気持ちは理解しますが、国家運営に関与している人達には、許されないと思います。
共産党も立憲民主党も、それらの政党を支持する国民の皆さんも、軍事力を持たなければ、軍事力を憎んでいれば、国民生活は守れると思っているのでしょうか。
2番目の「他国が日本を侵略する戦争」には、どう対処するのでしょう。
侵略されたら、「すぐに降参してしまえばいい」と言う方もいます。それも、選択肢の1つです。ただし、その場合は、国民が侵略国の奴隷になるということです。これまでのような生活は二度とやってきません。そのことを承知しているのでしょうか。
「戦争」という言葉を定義することもなく、「戦争」の「せ」の字がつくものは全てタブーにしていたために、2番目の「他国が日本を侵略する戦争」に対する国民的なコンセンサスは生まれませんでした。いや、「他国が日本を侵略する戦争」という概念は、具体的に議論されることもありませんでした。いつも、真綿で包んだような議論ばかりしていたのです。
それでも、手遅れかもしれませんが、戦争について、正面から、もちろん、言葉の定義をしてから、議論する時が来ているのだと思います。
しかし、残念ですが、言葉の定義をするという発想は生まれていません。ウクライナ戦争という実例が目の前にあるのに、政府は対応しようとしていません。欧州諸国は、現実的に対処しようとしています。特に、ドイツは大きく変わりました。いくら逃げていても、戦争は、勝手にやって来るという現実に気付いたのです。気付くのが普通です。

まだ終わってはいませんが、これまでのウクライナ戦争を、ロシア対ウクライナという視点に、中国と日本という視点を加味して、振り返ってみましょう。
ウクライナ戦争は、上に挙げた2番目の「他国が自国を侵略する戦争」になります。ウクライナ人が「戦争反対」と叫んでも、何の役にも立ちません。
ウクライナは、2014年、突如としてクリミア半島を失いました。奪ったのはロシアです。
その後、ロシアは、ウクライナ東部で内戦状態を作りました。ロシアの支援なしに、親ロ派のウクライナ人が蜂起したとは考えられません。ですから、ロシアには、ウクライナ全土制圧の青写真があって、その計画を着々と進めていたと考える必要があります。
日本は、まだ、尖閣諸島を失っていませんが、中国の青写真の中には、台湾の併合と沖縄諸島の併合は、克明に描かれていると思います。もちろん、その先には、中国領日本自治区の青写真も含まれています。
今回のウクライナ戦争は、ロシアの計画を一歩前に進めた結果だと思います。
20万もの兵力で、1900年代のような戦争を始めたことには、世界が驚きましたが、ロシアにしてみれば予定の行動だったようです。
この戦争は、どうすれば防げたのでしょう。
ウクライナで、親ロ派政権が出来ていれば、戦争にはならなかったと思います。
では、日本で、野党連合政権ができれば、中国は日本に侵略することはないのでしょうか。それは、野党政権が、どれだけ親中派政権になるか、いつ日本を中国に売り渡すか、にかかっています。自民党政権よりは、中国に弱腰になると予測できますので、中国は侵略してこないかもしれません。これは、軍事侵略をしないという意味であって、中国共産党の支配下に入るということです。
当初の予想に反して、ウクライナは戦い続けています。ですから、戦争は簡単には終わらず、ウクライナ人の犠牲は、今後も増えます。
西側諸国は、日本も含めて、ウクライナ支援をしています。武器弾薬の供給、情報の供給、生活支援物資の供給は、今後も続きます。その支援が止まれば、ウクライナは戦争に負けます。ウクライナは、裕福な国ではありません。自力でロシアと戦える力はありません。さて、西側の支援は、いつまで続くのでしょう。アメリカでは、ウクライナ戦争は5年続くと言われるようになりました。西側諸国は、日本も含めて、5年も支援し続けることができるのでしょうか。楽観的な予測はできないと思います。
ウクライナ戦争が長期化すれば、ロシアも疲弊しますが、それ以上に、ウクライナが疲弊します。ウクライナは耐えるしかありませんが、できるだけ短期間で戦争を終わらせる必要があるのはウクライナのほうだと思います。そのためには、ロシア領内にあるロシア軍砲兵陣地とミサイル基地を破壊しなければなりません。この先、ウクライナに必要な軍事物資は、対戦車ロケットや短射程の対空砲ではなく、航空機であり、長射程のミサイルです。いわゆる敵基地攻撃能力がなければ、「やられっぱなし」になります。ただ、この場合、我慢比べになり、ロシアが、生物化学兵器や核兵器を使用する可能性も高まります。
ただ、ウクライナ戦争は、ウクライナの問題であり、ウクライナがロシアに降参したとしても、アメリカが、イギリスやドイツやフランスが、ロシアに占領されるわけではありません。西側諸国の国益という視点に立てば、ロシアに大量破壊兵器を使わせないためにも、ウクライナ支援をやめるという選択肢もあります。
中国が日本に侵略してきたとして、日本が戦ったとして、西側諸国の支援は、いつまで続くのでしょう。これも、楽観的な予測は難しいと思います。
ウクライナ戦争から得られる教訓。
ならず者国家は存在するという現実を受け入れることです。
先程挙げた2番目の「他国が日本を侵略する戦争」に、どう対処するかを考える必要があるということです。
1つの選択肢として、親中派政権を作り、軍事衝突を経ずに中国領日本自治区を実現することです。国民は奴隷にはなりますが、戦争をするよりは少ない犠牲で済みます。戦争をして、1年で100万人の犠牲を出すか、降参して、100年で100万人の犠牲を出すかの違いは大きいと思います。100年で100万人の犠牲者であれば、1年では1万人で済みます。もちろん、自由と尊厳を失うのですから、そのくらいのメリットはなくてはなりません。
ただ、覚悟はしてください。自由と尊厳を失うだけではなく、貧困も受け入れなくてはなりません。属国になった私達は、自分のためではなく、漢民族のために働くのです。中国農村部の中国人よりも下等な「虫けら」として生きていくのです。ま、慣れていると言えば、その通りですが、これまでの「虫けら」より、はるかに厳しいことになります。
もう1つの選択肢として、日本の軍事力を強化するだけではなく、近隣諸国との軍事同盟の構築と、日米軍事同盟の強化です。
ただ、この条件を機能させるためには、必須のことがあります。
日本人の9割は、戦いたくないと言っているのですから、先ず、戦える人間を増やす必要があります。もしも、ウクライナ人が、日本人のように「俺には関係ねぇ」と思っていたら、アメリカもNATOも支援しなかったと思いますので、とっくの昔にウクライナは負けていたと思います。
独立国家としての日本を存続させたいと思うのであれば、それを実現するためにやらねばならないことがあります。
それが、国の目的であり、国民の目的であり、国の責務と国民の責務の明確化です。
国を守るためには、子供達の未来を守るためには、残念なことですが、大人が戦って、国を、子供を、守らねばなりません。地球は平和の花園ではありません。もう一つ、「俺達は何もしない」けど、「誰かが、何とかしてくれる」なんて、美味しい話はありません。国民の皆さんが守るしかないのです。

日本の報道ではボカシが入っていますが、ウクライナ各地で市民の惨殺死体が報じられています。軍用車両の無残な姿も、破壊された家屋も、死体も、そんな映像が日本人の目にも飛び込んできます。
日本の「いい人達」も「ひょっとして、これ、ヤバイんじゃない」と感じ始めています。
確かに、不安ですが、どうすればいいのか、誰にもわかりません。
国民の皆さんは、「これ、ヤバイじゃん。誰か、何とか、してくれよ」「俺は、何もしないけど」と思っているのではないでしょうか。
政府も、不安に思っている国民にかける言葉を持っていません。いや、「国民? そんなことより、俺の収入は大丈夫なのか」と心配しているのではないでしょうか。
突如、2番目の「他国が日本を侵略する戦争」にフォーカスが当たってしまったのです。
曖昧な中で、「ヤバイ」だけが突出すると、戦前の日本に戻ってしまう危険があります。
今こそ、言葉の定義が必要な時です。
基本的に、日本人は「いい人」ばかりですから、意図せずに空気に流される性質を持っています。「何となく」という空気を醸成すれば、日本人はどこへでも流れます。
1941年の日米開戦も、その一例です。
冷静に考えれば、いや、言葉の定義をしていれば、日米開戦が暴挙であることは理解できていたと思います。でも、曖昧な空気で決めてしまったのです。
「何となく」という空気や、占いや、天意や、神風に頼るのではなく、現実を直視して、言葉の定義をして、現実的な対応をする必要があると思います。
しかし、今の日本に、そのような動きはありません。
これは、大変危険なことだと思います。
「お上」も「下々」も、ただただ、不安です。不安という空気だけでは、先が見えません。では、なぜ、不安なのでしょう。それは、不安の正体を見つけていないからです。
不安の正体を知る必要があります。「何となく、不安」では対応できません。地道な作業になりますが、言葉の定義をして、現実を見て、私達が向かうべき道を見つけることです。不可能なことではありません。今は、慣れ親しんだ曖昧や歴史や伝統に縋る時ではないと思うのですが、そのことに警鐘を鳴らす人がいません。

国連人権委員会では、ウクライナでのロシアの残虐行為に対して、ロシアの資格を停止する提案が議決されましたが、24カ国が反対をしました。これは、世界には、中国を筆頭に24カ国もの「ならず者国家」になり得る国が存在するということです。もちろん、賛成した国の中にも、棄権した国の中にも「ならず者国家」は存在します。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」が成り立たないことも、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」が存在しないことも、明らかです。幻想の上に築かれているのが日本国憲法です。もちろん、憲法の前文は建前であり理想ですが、それを言い訳にしていたのでは、国民生活は守れないという現実は存在しているのです。ウクライナは、今、それを証明しているのです。
私達は、幻想の上にではなく、現実の上に立脚すべきだと思います。


2022-05-02



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