SSブログ

ドブ板選挙の時代なのか [評論]



衆議院選挙から1カ月が過ぎ、選挙モードは、もう、忘却の彼方になっていますが、この国は、今後も、同じような選挙をするのでしょうか。
私達は、何のために選挙をしているのでしょう。
こんな疑問を持つ方はいないと思います。
でも、ここまで追い詰められると、ここまで国力衰退が進むと、当たり前を当たり前のままにしておくのは、いかがなものかと思います。
「選挙」の定義は何ですか。選挙の「目的」は何ですか。立候補する人の「責務」は、投票する国民の「責務」は、何ですか。ぼんやりとした建前しかないように見えます。立候補者の供託金も、なぜか、世界一。日本の選挙は、そのやり方に驚く外国人がいるほど変。そして、ほぼほぼ、儀式になっています。私達は、この国でしか選挙権がありませんので、知らないだけで、日本の選挙は変なのかもしれません。
「いろいろなご意見はあるでしょうが、ともかく、投票所に行ってください」という方がいます。盲目的に投票所に行くことに、意味はあるのでしょうか。
「選択肢は用意していませんが、とりあえず、投票所に行ってください。これは、儀式ですから、参列することに意味があるのです」と言ったほうがわかりやすいと思います。
より多くの国民が、目的と責務を明確にして、選挙に参加する環境を作ることが必要だと思います。国民意識を、選挙制度を、変えることが、必要だと思います。
投票率でも示されているように、選挙に期待している国民が、余りにも少ないと思います。それは、選択肢がないからです。そして、折角一票を投じたのに、投票した立候補者が国民のために働いてくれていないと思っているからです。政治家と国民の間に信頼関係がないからです。それは、共通の目的がないからだと思います。
国民が、国家運営に参画できる方法は、選挙しかありません。民主主義の根幹は選挙にあると言われますが、今の選挙が、個人個人の投票行動が、国家運営に寄与していると感じている方が、どれほどいるのでしょう。
そもそも、国会議員は、国民生活を守るために雇われているとは思っていないでしょうし、国民も「こんなもんだろう」と思っています。いわゆる「なあ、なあ」の関係が、当たり前になっているのです。
「なあ、なあ」「まあ、まあ」が優先する選挙では、時代に対応できません。
ここは、立ち止まるべきだと思います。
今回の選挙は、予想が大外れした選挙だと言われています。
選挙前の予測とは真逆の、立憲の一人負けの選挙になってしまいました。
私は、9月に、自民党に、「民主主義を選びますか、共産主義を選びますか」という戦術を提案しました。もちろん、自民党は私の提案なんて知りません。でも、自民党には、そのことに気付いた人がいたのです。自民党は、その論点を前面に出しませんでしたが、随所に取り入れていたように見えます。その戦術を採用しなかった選挙区では、自民党が負けたという分析もあります。失言王の麻生さんが「立憲共産党」と言ったことも有名になりました。
一方、立憲民主党には、「理念を掲げなさい」と提案しましたが、立憲が提示したのはバラ撒きと自民党批判でした。
国民の判断は、自民も駄目、立憲も駄目、というものです。だから、維新が勢力を約4倍に伸ばしたのです。こんな明らかな結果が示されているのに、与党第一党も野党第一党も、そのことを認めません。
与党は、「自民党を勝たせていただいて、ありがとうございます」と言っています。
野党は、「小選挙区で勝ったのだから、自分達は間違っていない」と言っています。
維新は、国政に参加して10年です。実績もありません。持っている理念も他党と差別化できるほどのものではありません。国民は、他に選択肢がないから、不本意ながら、維新に票を入れたのです。維新の皆さんは勘違いしているようですが、国民は、維新に政権を担当してもらいたいとは思っていません。
皆さん、自己弁護ばかりで、国のことも、国民のことも、忘れています。
国会議員の仕事は、国家を運営することです。国家を運営するということは、国民生活を守るということです。今は、定義がありませんので、見えていませんが、国民は、国民生活を守るために、国会議員に運営業務を外注しているのです。
しかし、この30年で、国民は貧しくなりました。
それは、国家を運営している皆さんが、自分の仕事をしていないということです。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民に向かって、「国民が頑張らないからだ」「お前が、頑張れ」と言わなければならなかったのです。しかし、投票権を持っている国民に、そんなことは言えません。保身を優先させたのです。
これも、目的と責務の欠如が原因です。
「私達も責務を果たします。国民の皆さんも責務を果たしてください」と働きかける必要があったのに、目的も責務も知らなかったから、何も言えなかったのです。
どんな仕事でも、楽をしていたのでは、目的は達成できません。
国民生活を守ることが責務だと認識されていないために、国家運営を担当する人達を選ぶ選挙でも、論点がボケてしまっているのです。
つまり、与党も野党も、どの党も、理念を、目的と責務を、持っていませんので、国民の利益になる政党ではないのです。
もちろん、何もしようとしない国民が一番の癌です。国民が変わらなければ、何も変わりません。

選挙後、立憲の幹部は、「俺達は頑張った」「接戦に持ち込めた」「小選挙区では勝った」「野党の一本化は成功した」「俺達は間違っていなかった」と言っています。選挙で負けたくらいでは、自分の勘違いに気付けないようです。立憲の皆さんに欠けているのは、選挙手法ではなく、理念です。野党は理念で与党より優らなければ勝てません。理念が欠如している野党が負けることは当たり前です。理念とは、目的であり責務です。
国民は、2009年の失敗を憶えていました。自民党にお灸をすえるつもりが、民主党政権を作ってしまった、という記憶です。自制した有権者は多かったと思います。
今の日本は、順風満帆ではありません。多くの国民が、不平や不満や不安を持っています。本来であれば、与党に厳しくなるはずでした。しかし、現実は、野党が敗北したのです。野党の皆さんは、自己弁護をするだけでいいのですか。
禄でもない自民党よりも、選択肢にさえなれなかった立憲は、箸にも棒にもかからない状態だったということだと思います。どっちも駄目だけど、駄目さ加減で選べば自民党しかない、と思った国民が多かったということです。
これは、どう見ても、末期症状です。
既存政党の中で、どちらが駄目かの競争が選挙の争点になるということは、この国がドン詰まりの場所にいるということです。
こんな選挙に意味があるのでしょうか。
専門家の先生方は、「政党の自力の差が出た」選挙だったと言っています。
「政党の自力」とは、何でしょう。
専門家の解説を聞くと、それは「ドブ板選挙」のことのようです。
ここにも、古い常識が、ゾンビのように生きているのです。
地方の運動員が走り回り、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を駆使し、頭を下げ、一票一票拾い集めてくるのが「ドブ板選挙」です。立候補者は、笑顔を振りまき、握手をしまくり、頭を下げまくって、票につなげます。もちろん、日頃は、盆踊りに参加し、冠婚葬祭に参加し、顔を売ることが仕事です。
この「ドブ板選挙」の根っ子にあるのは何でしょう。
そこにあるのは「情」です。
知人の知人の知人であっても、頼まれれば、無視できないのが日本人の「情」です。
情に訴える選挙が、これまでの選挙だったと思います。昔の村社会は、この情で動いていたのではないかと思います。村社会で統治できるのは、数百人、数千人の規模です。オラが村の掟で、国は統治できません。村が、何千、何万と集まっているのが国です。国には、国の目的と責務が必要です。ところが、国政選挙が村の掟みたいな「ドブ板選挙」で行われているのだとすると、国民生活が守られなかったとしても仕方がありません。
「情」で投票するということは、国民が判断基準を持っていないことの証明です。国民が目的も責務も知らないということです。
「〇〇さんに頼まれたから、××党に票を入れた」ことで、この国は繁栄するのでしょうか。
選挙で敗れた立憲も、自民党を見習って、「ドブ板選挙」の方向を目指すようです。極論ですが、もしも、立憲が、本気で「ドブ板選挙」をやれば、泥仕合になります。「イデオロギー」や「情」に勝てるものは「カネ」しかありません。カネが飛び交う選挙になれば、それは、民主主義ではありません。
これからも、このやり方を続けるのですか。
右肩上がりに繁栄している国であれば、情に頼っても、それなりにやれるかもしれません。しかし、国力が衰退している国で、同じことをやれば、大きな間違いを犯す可能性があります。いや、既に、国は壊れ始めています。
この先、今までのような「ドブ板選挙」でこの国が蘇るとは思えません。

私には、選挙そのものが、国家統治システムそのものが、国会論議と同じように、重箱の隅に追いやられているように感じます。いや、退化しているようにしか見えません。
どなたも危機感は持っていませんが、いや、認識すら持っていませんが、私達の今の課題は、《 生き延びる 》か《 滅びる 》かです。皆さんは「そんな、大袈裟な」と思うでしょうが、近い将来、必ず、その現実に直面します。
国力に関するグラフを見てください。
どれも、見事に右肩下がりです。これが、トレンドです。
そのグラフの線を延長してみてください。右肩下がりの線が行き着く先はどこですか。
世界の最貧国です。これを、必然と言うのです。
国民生活が破綻することなく、世界の最貧国にはなれません。
真っ先に、国民生活から破綻していくのです。
私達の国では、明らかに、貧困層と呼ばれる人が増えています。
これは、戦後、初めての体験です。
皆さんの経験則は、常識は、役に立ちません。
貧困層が増えているということは、私達は、崩壊の真っ只中にいるということです。
どうか、そのことに気付いてください。
国民の皆さん。ついでに、国家運営者の皆さん。
漠然とした不安感だけでは、想像できないかもしれませんが、皆さんの直感は、この現実を知っています。実際に壊れた時に気付きますが、それでは手遅れです。
今までと同じように「なあ、なあ」「まあ、まあ」でやり過ごすのですか。
それも一つの選択肢ですが、国民生活の破綻と引き換えです。
私達は、今のトレンドに、積極的に立ち向かうしか方法はありません。
先ず、下向きのトレンドを止めることが必要です。

既存のシステムでは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」では、「ドブ板選挙」では、この状況は克服できません。
それは、もう、充分、証明されたのではありませんか。
難しいことですが、今は、新しいことに挑戦するしかないと思います。
もちろん、選挙制度も統治システムも換えなければなりません。
でも、ただ、換えればいいというものではありません。
下向きのトレンドを止めても、それは、上向きのトレンドになることを意味しません。
国力を上向きにするシステムが必要です。
何度も書いていますが、国力を決めるのは国民です。
国民が変わらなければ、何も、変わらないのです。
それは、皆さんにとっても、国にとっても、子供達にとっても必要なことです。
国民の皆さんが、皆さんの責務を果たすことでしか、この国は救えません。
禄でもない政治家に任せておけば、この国は潰れます。

今の選挙制度は、詐欺と同じです。
人を集めて、いや、カモを集めて、「さあ、1万円のコースにしますか、それとも、2万円のコースにしますか」というメニューを出します。買わないという選択肢が用意されていないのが詐欺の手口です。
今の選挙のメニューも、人を集めて、「与党にしますか、それとも、野党にしますか」というものです。「今の政治は容認できない」という選択肢があって、初めて、選挙になると思うのですが、違うのでしょうか。
議員定数も固定、白票も認めない、というやり方は詐欺だと思います。
国民が意思表示を出来るのは選挙しかありません。国民が「今の政治は容認できない」という意志を持っていても、伝える方法がないのです。
選挙が「お上」の決めたルールで縛られているのですから、国民に発言権は無いに等しいと思います。しかし、「投票所へ行きましょう」という広報は叫ばれます。これ、詐欺です。
国民の皆さんは「いい人」ばかりですから、「ふむ、ふむ」と頷いていますが、これが国民主権の国だとは思えません。
国会議員は、当選してしまえば、人格が変わり、自分の利益だけを追う人に変身します。
2週間だけ頭を下げれば、4年もやりたい放題ができるのです。一度国会議員になれば、誰も、その利権を手放そうとしません。何代も世襲している人もいます。ほんとに、国会議員は国民の代表なのですか。それ、ただの思い込みなのではありませんか。私には、彼等が国民の利益を代表しているとは、とても思えません。だって、これだけ貧しい人が増えているのです。国民の声は、届いていません。
間接民主主義という建前が機能していません。
今のやり方であれば、重要法案は、全て、国民投票にする必要があります。
だったら、今やっている選挙そのものが意味を持たないということです。
「選挙とは、国会議員とは」という言葉の定義が必要だと思います。
やはり、言葉の定義がないことによる弊害は広範囲に出ているということです。
先ずは、言葉の定義をすることから始めるしかないと思います。


2021-12-01



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog