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国民の皆さんの意識次第 [評論]



10月に、白票に関する提案をしました。
もちろん、常識を逸脱した提案であることは承知しています。あのような選挙制度改正が行われる確率は、ゼロだとも書きました。ただ、国民意識を覚醒させる効果と政治に緊張感を持たせる効果はあると思いますので、お勧めします。もっとも、非常識で、大人の対応ができない、「いい人」でもない、変人と言われる私の提案ですから、耳を傾けてくれる人はいないと思いますが、これは、皆さんの利益になることです。
もちろん、国会議員の利益という高いハードルがありますので、実現はしません。
今は、国の利益や国民の利益よりも、国会議員の利益が優先されている時代です。
貧しい国民が増えている国で、国民の外注先でしかない国会議員の年収が数千万円というのは、誰が見ても異常だと思います。しかも、国会議員の年収を支えているのは国民の税金です。年収100万円の国民が支払った消費税が使われているのです。銀座のクラブの「飲み代」を払っているのは、皆さんです。私には、理解できません。
道理よりも無理が通ってしまう国の、国力が衰退するのは必然だと思います。
それでも。
10月の選挙期間中に、白票が話題になったという小さなニュースがありました。
白票が議論の対象になることは、正常な反応だと思います。
それは、多くの方が「俺達には、選択肢がない」と思っているからです。
なぜ、国民は「選択肢がない」と思っているのでしょう。
なぜ、国民は、自分で選択肢を作ろうとしないのでしょう。
それは、表面には出ていませんが、「お上」と「下々」という暗黙の束縛を受けているからです。「下々」は「お上」のご下命が無ければ動けないと信じているのです。
国民にとって、国家運営者が住む世界は、自分達が住む世界とは別の世界だと思っているのです。私は「お上」という言葉をよく使いますが、使っているのは、私だけではありません。「お上」という言葉は、まだ、死語ではないのです。「お上」と「下々」という世界が実在しているから、「お上」という言葉が生き残っているのです。明治以前も、明治から令和までも、この「お上」と「下々」という世界は途切れることなく続いています。私達は、なぜ、外注先の社員に過ぎない国会議員を、「先生」と呼ぶのですか。彼等は「お上」に所属する「お偉い先生方」だと思っているからです。私達は「先生」を選んでいるのですか。それとも、外注先の社員を選んでいるのですか。そんなこと、誰も言いません。私達は、「お上」と「下々」という世界を容認しているのです。そんな「下々」に選択肢なんてありません。
ただ、私達の「下々」意識は強く、選択肢がないのであれば、自分達で選択肢を作ろうという発想はありません。それが、「下々」です。「分相応」という言葉があります。その身分に相応しい対応、という意味です。「下々」に許されているのは、「従順」と「服従」です。行動なんて、もっての外なのです。
「下々」の皆さんがやっている白票の議論には意味がありません。
それは、議論そのものが「お上」と「下々」という常識に縛られた議論だからです。
論点は、「お上」と「下々」を具体化した現行制度の下で、白票に意味があるのかどうか、というものだったのです。
現行制度を前提とした議論では、何も生まれません。
白票は、有権者による、政治に対する、「お上」に対する、不信任票です。しかし、有権者の意思は無効とされるのです。主権者の意思よりも、政治家に必要な得票が優先されているのです。これが、民主主義なのでしょうか。
議論に参加した学者先生は、「なあ、なあ」「まあ、まあ」としか言いません。
皆で、傷を嘗め合って、一件落着です。
与えられた環境の中でしか議論が出来ないのであれば、議論はマスターベーションになるしかありません。
多分、常識に支配されている「下々」は、「ああでもない、こうでもない」と議論することで、納得してしまうのだと思います。ほんとに、「いい人」です。
常識で「何とかなる」のであれば、この国は衰退していなかったと思います。
もう、常識では「何ともならない」状態になっているから、国が衰退しているのです。
現行システムを否定することから始める議論も必要だと思います。
では、白票の議論をした人達は、何か結論は得られたのでしょうか。
結論は「仕方ない」というものです。
ほんと、皆さん、絵に描いたような「いい人」です。
いや、「下々」としては優等生だと思います。
政治家のお偉い先生方に、「どうぞ、お好きにやってください。俺達下々には、権利、ありませんから」と言っているようなものです。
主権者が、匙を投げていて、国民生活は守れるのでしょうか。
どうして、選挙制度を変えようという運動にならないのでしょう。
「これ、おかしいだろう」と思っても、国民の要求を実現するシステムは、この国にはありません。主権者なのに、システム変更を要求するシステムがないのです。私達は、ほんとに、主権者なのですか。これでは、「お上」のやりたい放題です。この国は、誰のための国なのでしょう。
誰も、疑問を感じていません。「なんか、モヤモヤとしている」だけで、いつものように、「従順」と「服従」を大切にしています。ほんと、「いい人」です。
それは、私達に、そんな経験がないからだと思います。
私達は、庭の小さな池で生きている鯉と同じなのでしょうか。
私達は、与えられた環境を作り替えてはいけないのでしょうか。
どうして、新しい環境を作ろうとしないのでしょうか。
それは、寄って立つ理念がないからだと思います。
「従順」と「服従」が、自分の責務だと信じているからです。
「お上」だとか、「世間」だとか、「常識」だとか、「歴史と伝統」だとかに縛られているからだと思います。
もう、この国は、過去に縛られていれば、破滅を迎えるだけなのです。
私達が生き延びるために選挙制度を変える必要があるのであれば、私は、そう思っていますが、変えるべきだと思います。
もちろん、選挙制度を変えれば、「国力衰退」が阻止できるわけではありません。変えなければならない既存のシステムは山のようにあります。国民の皆さんがシステムを変える必要があると認めることが、「国力衰退」阻止の出発点になる可能性があるということだと思います。ただ、国民が好き勝手に変えていいというものではありません。
そんなことをすれば、自分達に都合の良い選挙制度を作った政治家と同じことをやることになります。
私達がしなければならないのは、判断基準を作ることです。
そのためには、目的と責務を明確にすることです。
国の責務が、国民生活を守ることであれば、国民は、国民生活を守れる人達を、国民の外注先として選定しなければなりません。「情」や「儀式」で外注先を選定している企業なんてありません。あったとしても、その企業は生き残れません。
国家運営を請け負う外注先として、選挙で立候補する人達の中には、国民生活を守るために立候補するのではなく、自分の利益を最大化するために立候補する人がいます。いや、ほとんどの立候補者が自分の利益のために立候補しているのです。仮に、選挙の時だけは、国民生活を前面に押し出したとしても、当選すれば、コロリと、自分の利益が最優先になります。中国の習近平でさえ、この事が民主主義の欠点だと指摘していますが、それは、民主主義ではないと思います。
私達は、人間ですから、人間は「欲」の塊ですから、そうなることが自然だとして、それをシステムで制御するのが民主主義だと思います。
ですから、選定に当たっては排除のルールを持っておくことが不可欠です。白票もその手段の一つです。極端かもしれませんが、選挙の場合は、性悪説に立ったほうがいいと思います。
今は、ほぼ10割の立候補者が、自分の利益のために立候補しています。
「国民のために・・・」と言っているのは選挙の時だけです。
仮に、目的と責務が明確になっても、9割の立候補者は、「欲」を背中に背負って立候補すると考えておいた方がいいと思います。それが、人間です。それを前提にした選挙制度が必要だということです。
仮に、我欲ではなく、国民のためにと思って立候補した人でも、不正は働きます。
もちろん、政治家だけが不正を働くわけではありません。国民の、限りなく100%に近い人達が不正を働きます。人間は、誰でも、欲のためであれば、不正を働くのです。政治家を悪者呼ばわりしている私だって、墓場まで持っていく話はいくつもあります。国民の皆さんも同じだと思います。ですから、人間は悪事を働く、という前提に立つ必要があるのです。

私達が、今のやり方を続けていれば、どうなるのでしょうか。
ベネズエラの国家運営が、日本と同じだとは言いませんが、結果は似たようなものになるのではないかと危惧します。
ベネズエラのニュースはこれまでも何回か書きました。
10月に、再び、デノミが実施されたそうです。
2008年に、1/1000に
2018年に、1/100000に
そして
2021年に、1/1000000になりました。
これを、日本に置き換えて見ます。
10兆円の資産を持っていた人の資産が、1円になる計算となります。
個人で10兆円の資産家なんて、いないと思います。
ですから、国民で、資産を持っている人はいなくなるということです。
どう見ても、誰が見ても、ベネズエラという国は壊れています。
ベネズエラの場合は、国民が「俺には関係ねぇ」と思っていた以上に、為政者の「自分さえよければ」が国を壊したと思いますが、どんな理由があったとしても、崩壊は崩壊です。最後に苦しんでいるのは、ベネズエラの国民の皆さんです。
日本の国民の皆さんは、1/1000000のデノミなんて想像もできないと思います。いや、自分の国で、そんな馬鹿なことが起きることはないと信じ切っています。しかし、現実は、そんな甘いものではありません。どこの国でも、ベネズエラになることができるのです。この先、第二第三のベネズエラが誕生しても、何の不思議もありません。もしかすると、第二のベネズエラになるのは日本かもしれません。何よりも、国と国民が一致協力して「自分さえよければ」「俺には関係ねぇ」をやっているのですから、日本は、その条件を満たしています。ベネズエラのニュースなんて、気にしている人はいませんが、ベネズエラは、明日の日本なのかもしれません。いや、私は、その可能性が高いと思います。
ベネズエラは、とても優良な油田を持っています。石油を売って、世界の富を集めて、国民を豊かにすることも可能でした。しかし、時代は、化石燃料から離脱する時代になってしまいました。もちろん、化石燃料が全く売れない時代は来ないと思いますが、それでも、この先50年の世界環境は、50年前と同じ環境ではないと思います。頼みの綱の石油が売れなくなれば、国の再建は、難しくなります。これも、不幸が不幸を呼ぶ現象の一つだと思います。仮に、政権交代が起きても、国民生活を最優先する政権が生まれたとしても、経済基盤が弱ければ、再建は、とても難しい事業になります。実際には、国民生活を最優先とする政権の誕生は、ほぼ、無理だと思いますので、ベネズエラの国家再建は難しいと思います。その原因は、ベネズエラ社会に定着してしまった「自分さえよければ」だと思います。
ベネズエラの現政権が何年続いているのか知りませんが、縄文時代の1万年から見れば、一瞬に過ぎないと思います。縄文時代と現在を単純に比較することはできないと思いますが、それでも、「自分さえよければ」は大きな障害になると思います。
縄文時代の皆さんの最優先課題は、食糧です。食糧確保が、何よりも優先された社会だったと想像できます。そこに「自分さえよければ」の入り込む余地はありませんでした。それだけではなく、縄文時代の皆さんは、子供達を、子供達の未来を守るという意識が強かったと思います。「永続」は生き物の本能ですから、子供達は、その「永続」の象徴ですから、大事にするのは当たり前の社会だったと思います。「自分さえよければ」「今さえよければ」では、社会を維持できません。それが、1万年という時間を生み出したのだと思います。
日本の国民の皆さんに、「子供達の未来を守りたい」「子供達に、今よりも良い社会を渡したい」という意識はあるのでしょうか。私には、そうは見えません。誰もが、「自分さえよければ」「今さえよければ」に浸かりきっているように見えます。その点では、ベネズエラと同じです。
ベネズエラの人口は2800万人だそうです。
数百万人が国外へ逃れましたが、ベネズエラ人は避難した国でも厳しい生活だそうです。
国内に残った人達は、食糧、医薬品の枯渇や暴力で、より苦しい生活を強いられていますので、国外逃亡は正しい判断だったのでしょう。
皆さんは、こんな国になりたいと思いますか。
「まさか」と思うかもしれませんが、他人事ではないと思います。
私達の国も、充分、壊れています。
この先、もっと、壊れます。
ベネズエラだって、北朝鮮だって、遠い存在ではないと思います。いや、直線的に向かっていると言ってもいいのではないかと思います。

先月も書きましたが、崩壊も、ここまで来ると、政治では収拾がつきません。
この窮地を救えるのは、国民の皆さんしかいないと思います。
大勢の国民の皆さんが、「不安感」「不満感」「閉塞感」を持っています。
だからと言って、暴動を起こせ、と言っているのではありません。国民の皆さんの意識次第で国が変わるのです。
国が変われば、国民が変わるのではありません。国民が変わるから、国が変わるのです。
先ずは、皆さんが、自分は「下々」だという既成概念を捨てることです。
皆さんは、国民なのです。この国の現状にも未来にも責任を持っている主権者なのです。
「下々」のままでは、何かを変えるなんてことは出来ません。
多分、皆さんは、自分が「下々」であるとか「国民」であるとかは考えたこともないと思います。今は、それを考える時だと思います。
その出発点として、言葉の定義をしてみてください。


2021-12-02



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