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三枝成彰氏の提言に反論 [評論]



今日は、作曲家の三枝成彰氏の文章に反論しますが、これは個人攻撃ではありません。
いや、三枝氏の提言は、孤立無援の私にとっては、唯一の同志と言ってもいいと思います。三枝氏は、この国の現状を危機と捉えていますし、その原因は国民にあると思っています。こんな方は、この国では珍しいです。
それでも、敢えて、三枝氏の提言から、見えていないものを見てみたいと思います。


三枝成彰氏
私は、自民党が勝った最大の原因は、国民の多くが現状に満足しているからだと思う。
日本人は自ら変わることを欲せず、内紛や外圧によってしか変われない体質だ。
昔から「変革」や「革命」を唱えるのが大好きだが、実際に行ったためしがない。
大化の改新(仏教伝来)や明治維新(ペリーの黒船)も、外国からの刺激によって体制が変わっただけだ。
時に百姓一揆や米騒動などはあっても、真の「下克上」は起きなかった。
フランス革命のように、圧政に苦しむ民衆が政府を転覆させたことがないのだ。
国民が総じておとなしく、政治に文句を言わない日本は、ある意味で「いい国」と言えるのかもしれない。
これほど為政者にとって御しやすい国民もそうそういないだろう。
だが、現実を見てほしい。「今の生活は豊かで、何の不足もない」と言い切れる人が、この国にいったい何人いるのか?
多くの人が大なり小なり貧しさを抱え、思うに任せぬ暮らしをしているのが現実だ。
しかし、それでも「このままでいい」と考えてしまうのはなぜなのか?
平均所得(約552万円)を下回る世帯は61.1%、貯蓄がない世帯は13.4%。「生活が苦しい」と答えた世帯は54.4%に上る。
日本の貧しさは世界的に見ればさほどでもないのだろう。
しかし、貧しいのは現実だ。
治安が良く物価も安く、一定の住みやすさが保証されているから「変えて悪くなるよりは現状維持でいい」と考えるのだろう。
国民が政治を変える手段は選挙での投票しかない。
が、いざその段になると、日本の有権者はみな二の足を踏む。
保守政権の長期化による政治家や官僚の思考の硬直化は良くないと誰もが分かっているはずなのに、だ。
江戸時代から「世間に対して不平不満を言う者は人間がなっていない」と儒教の影響の下に教え込まれたためだろうか。
そして今回も私たちは、変わるチャンスをまた自らの手で遠のかせた。
16世紀フランスの裁判官エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」に、「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」とある。
約500年後の日本にも同じことが起きている。
「流れる水は腐らない」という言葉は、この国ではすっかり忘れられたようだ。
濁った水を再び流れさせるには、政治に物申す国民が必要なのだ。


三枝氏は、この国が危機に直面しているという認識を持っています。
更に、その危機を克服するのは、国民の力だと思っています。
こういう方は、ほんとに、少ないと思います。まさに、慧眼です。
政治家の先生方、学者の先生方には、三枝氏の爪の垢を飲んでほしいです。
つい、「ふむ、ふむ」と頷いてしまいそうです。
それでも、敢えて、批判的な解釈をしてみたいと思います。
三枝さん、ごめんなさい。
三枝氏だけではありませんが、この国の将来を憂いている皆さんの提言や警告は、手遅れだし、具体性に欠けますし、あまりにも表面的に過ぎます。
今、必要なのは、原因の根っ子であり、行動です。
そのために必要になるのが、理念です。
しかし、残念ながら、理念が天から降って来るわけではありません。理念を生み出すための行動も必要になります。行動のメカニズムを見つけなければなりません。
そこには、巨大な壁があります。曖昧という名の文化の壁です。
私は、行動原理(メカニズム)を見つけていませんので、大きなことは言えませんが、皆さんは、行動原理が必要だということに、まだ、気付いていません。
10年前であれば、三枝氏が主張する内容でよかったと思うのですが、「国力衰退」がここまで進行すると、このような一般論では間に合わない時代になってしまいました。

《 自民党が勝った最大の原因は国民の多くが現状に満足しているからだと思う 》
そうではありません。
国民の皆さんは、自分で、能動的に動くという習慣を持っていませんので、どうすればいいのか、途方に暮れているのです。為す術を知らないために、あたかも、現状に満足しているように見えるのです。決して、満足しているわけではありません。
もちろん、この国を壊しているのは、何もしない国民です。その点では、三枝氏の指摘は正しいと思います。
どうして、こんなことになるのでしょう。
三枝さんの精神は開放されているのでしょうが、国民の皆さんは、今でも、自分は「下々」だと固く信じているのです。「お上」には逆らいません。

《 昔から「変革」や「革命」を唱えるのが大好きだが、実際に行ったためしがない 》
その通りだと思います。
では、なぜ、《 実際に行ったためしがない 》のでしょうか。
結果ではなく、原因を見てください。
日本は、曖昧文化という土壌の上にあるからです。文化を抜きに日本の歴史は語れません。
日本人も、変革や革命が必要だということは理解しています。
でも、理解していることと、実行することは、別物です。
実行するためには、確固たる根拠が必要になります。
しかし、曖昧文化の下では、この根拠は得られません。
なぜなら、あれも正しいし、これも正しいからです。
この国には、確固たる目的と責務が存在していません。
何でも正しいのです。いや、何でも正しくて、何でも正しくないのです。ですから、「お上」が恣意的に決めることが可能なのです。「下々」は、その「お上」の判断に疑問を感じていても、「お上」を信じるのです。それが「下々」の責務だと思っているからです。
民主主義における目的と責務、天皇制での目的と責務、封建制度での目的と責務は、同じものではありません。しかし、この国は、民主主義風王政並立封建制度で統治されているので、民主主義も天皇制も封建制度も、全部、正しいのです。しかも、天皇制と封建制のほうが、民主制よりも圧倒的に長く続いているのです。いや、日本の民主主義は、風味に過ぎませんので、民主制になったことは、一度もありません。
ですから、この国では、変革や革命を実行する確たる根拠は得られないのです。
更に、天皇制や封建制では、「お上」に逆らうことは、命を失うことを意味しました。今は、風味だけですが、民主国家という看板を掲げていますので、物理的に命を失うことはありませんが、人によっては社会的生命を失う危険があります。そのような空気が、たっぷりとあるのです。
基本、「下々」が「お上」に逆らうことなんて出来ません。
いや、国民は、そう信じているのです。
だから、行動しないのです。
古い例を見てみましょう。
飢饉で多くの村人の命が守れないと判断した時だけ、数人の命を差し出すことを承知で、百姓は一揆を起こしました。100人の命を守るか、5人の命を捨てるかの選択をしたのです。私達は、2000年間、こういう生き方をしてきたのです。そう簡単には、行動できません。
国民は、とことんまで、我慢することが習性になっているのです。今も、そうです。
しかも、今の民主主義は風味に過ぎませんので、「お上」に逆らうだけの根拠は見つかりません。ほんとは、日本人だって、市民革命をしてもいいのです。しかし、歴史と伝統には勝てません。
つまり、民主主義風王政並立封建制度では、革命は起こせないのです。
それは、目的も責務もなく、革命の根拠が得られないからです。
先ず、民主主義という風味ではなく、本物の民主国家になることが、必要です。
そのためには、曖昧文化ではなく、定義する文化が必要です。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義があって、初めて、国民のための行動が起こせるだけの根拠が手に入るのです。
ただ、難しいのは、この「言葉の定義」をするためにも行動が必要だということです。
定義が天から降ってくるわけではありません。国民が、能動的に定義をしなくてはなりません。これも、行動です。曖昧文化の下では、定義をするという行動でさえ起こせないのです。いや、そもそも、曖昧文化の辞書には「定義」という言葉は存在しませんので、考えもしません。
つまり、私達は出口のない場所にいるのです。
国民は、この国が壊れつつあることを知っています。将来、もっと、壊れるであろうことも知っています。しかし、どうすればいいのか、わかりません。壊れている国を、ただ、見ている事しか出来ないと思っています。それが、「下々」の生き方なのです。
そんな「下々」の皆さんでも行動できるメカニズムを見つけなければなりません。三枝氏のような、解放された精神を持っている方には、メカニズムを見つける努力をして欲しいと、切に願います。そして、提言して欲しいです。

《 「変えて悪くなるよりは現状維持でいい」と考えるのだろう 》
それは、違います。
変えれば良くなるという選択肢があるという前提は、通用しません。変えれば悪くなるのがわかっているから、現状維持しか選択肢がないのです。
もちろん、国民が、与えられた選択肢しかないと思っていることが、間違いです。
でも、「選択肢がないのであれば、作ってしまおう」という発想はありません。それは、自分達がこの国の「主」だと思っていないからです。
日本人は、能動的な行動をしない人達なのです。いや、能動的な行動を慎むことが大人の対応だと言われてきたのです。国民は、馬鹿ではありません。いや、とても聡明な人達です。ただ、自分達は「下々」だと信じているだけです。奥ゆかしく、「いい人」です。もう、信じ難いほどの「いい人」なのです。未だに、「従順」と「服従」が自分の責務だと信じています。2000年かけて洗脳されているのです。この歴史は伊達ではありません。
「お上」が、度々、歴史と伝統を口にするのは、国民が「下々」であることを忘れて欲しくないからです。

《 国民が政治を変える手段は選挙での投票しかない 》
その通りです。
では、投票する時に、選択肢がない場合は、どうすればいいのですか。
選ぶものがないのに、「選べ」と言われても困ります。
日本国民は、自分で選択肢を創り出すという経験をしたことがありません。「お上」の都合で用意された選択肢から選ぶしかないのです。
選挙制度さえあればいいのではありません。
まず、民主国家になり、目的と責務を明確にし、その目的と責務に合致した選挙のシステムを構築しなければ、選挙をする意味がありません。今の選挙は、ただの儀式です。

《 「悪い政治が成り立つのは、国民が進んでそれを受け入れているからだ」 》
この主張も、少し違うと思います。
この国の国民は「下々」ですから、悪い政治を、「進んで受け入れ」ているわけではありません。「下々」は、「お上」のご下命であれば、「受け入れる」ことが、当たり前だと思っているからです。これは、儒教よりも古い「しきたり」によるものです。
「受け入れている」という結果を問題にするのではなく、なぜ、悪政を受け入れているのかを解明してみてください。
曖昧な空気の中では、「ふむ、ふむ」と頷くか、「俺には関係ねぇ」と拗ねてみせるか、のどちらかしか選択肢がありません。
国民の皆さんは、他の選択肢があるなんて、考えたこともありません。
国民は、今でも、「従順」と「服従」が自分達の責務だと信じています。
歴史と伝統は、それほど強力なのです。

《 濁った水を再び流れさせるには、政治に物申す国民が必要なのだ 》
うーん。
確かに、水は濁っていますが、人間社会に清流などというものは存在しませんし、どんなに頑張っても清流になることはありません。
また、政治は、簡単には国民の声を聞きません。
政治が、国民の声を聞くのは、国民の声を聞かなければ自分達の利益を損なうと判断した時だけです。それは、一票を失う危険がある時に限られているのです。
だとすると、多くの国民が、物申すための、同じ根拠を手に入れる必要があります。
そのためには、国の目的と責務を明確にする必要があります。
先ず、民主国家にならなければなりません。言葉の定義をしなければなりません。
天皇や征夷代将軍やその名を騙る「お上」が「主」ではなく、国民が「主」であることを、国民が認識することから始める必要があります。国民が、「お上」と「下々」という縛りから解放される必要があると思います。
そのためには、国民が自ら、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義から始める必要があるのです。
もちろん、これが至難の業です。
でも、この難関を越えなければ、何も始まりません。
いつの日か、「言葉の定義」に気付いてくれる人も出てくると思います。いや、そうあって欲しいと願っています。

三枝氏の提言に反論することで見えてきたのは、曖昧文化であり、目に見えない「お上」と「下々」という統治システムであり、国民を支配する歴史と伝統です。この巨大な障壁に立ち向かえるのは、文化しかないと思います。
出発点は、「定義する」という文化を作ることです。
「曖昧文化」は強力です。曖昧文化を批判している私でも、自分では気づいていませんが、曖昧文化に支配されている部分が多々あると思っています。
でも、今の私達に必要なのは「定義する文化」だと思います。
こんな発想は、どこにもありません。
「言葉の定義」をするという行動が必要なのですが、誰も、行動しません。
これでは、何も変わりません。
三枝氏の提言に、「ああだ」「こうだ」とイチャモンをつけましたが、行動メカニズムを見つけることが出来ていない私の提言も、絵に描いた餅に過ぎないということだと思います。ほんとに、残念なことです。


2021-12-04



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