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噛み合っていない [評論]



「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」という駒村圭吾氏の書籍を評している岩瀬達哉氏の文章を取り上げます。
私は、駒村圭吾氏という方が、どれほど有名な方なのか、学者としてどれほど優秀な方なのか、全く知りません。非礼な言葉を数多く書くと思いますが、無礼の段は、平にご容赦ください。私の視点は、「国民生活は守られるのか」です。その視点では、お偉い先生の過去の経歴や知名度は、何の意味も持っていません。
申し訳ありませんが、今回も本を購入せずに、表題だけで評価してみたいと思います。
法学者の駒村氏は、「国家統治の主役は国民なんですよ」と言いたいのだと思います。
日本は、一応、建前では、民主国家ですから、この結論は正しいものです。多分、国民の皆さんに自覚を持ってもらいたいという願いがあって書かれた書籍だと思います。
ただ、建前と現実は、必ず同じものだとは限りません。いや、建前と現実は、大きく乖離することのほうが一般的です。
書評を読む限りでは、私には、駒村氏の主張は、学問のための学問にしか見えません。駒村氏の本だけではなく、この手の本が国民生活に利益を与えているとは思えません。警鐘を鳴らして、その鐘を叩いている本人が「ふむ、ふむ」と頷いているようにしか見えないのです。お偉い学者先生の本は、自分の名前に箔をつけるために書いているものであり、現実社会には何の影響力も持っていないのです。
「変わるべきは、憲法よりも、まず、権利を自覚しない国民自身だ」というのが、駒村氏の結論なのでしょう。
この150年、この手の議論は、多くの方がやってきました。
ただ、いつも欠けているのが、「どうすれば、国民が権利や責務を自覚することができるのか」という視点です。
「先ず、お前が、自覚しろよ」と言われても、「下々」はどうすればいいのか、見当もつきません。だって、それが「下々」にとって、あるべき姿勢だからです。
駒村氏は、改憲を重視していないようですが、この国にとって、改憲は不可欠な要素です。もちろん、現在、国会で議論されているような改憲は不要です。国の責務と国民の責務を明確に規定し、国の目的と、国民の目的を、明確に記した憲法が必要です。
そのためには、国民意識を変えることが不可欠です。「下々」が「下々」のままでは、どんな憲法を制定しても、この国は変われません。
過去にも、「これじゃ、駄目だ」という警鐘は数多くありました。
しかし、「こうやって、変えましょうよ」という処方箋を示した学者が皆無です。ほんと、見事なほど、ゼロです。ですから、150年、それなりの風が吹いたことはありません。
私には、学者の書籍は、学者の自慰行為にしか見えません。
もちろん、結論が間違っているのではありません。
結論は、正しいと思います。
でも、これは、結論の正誤の問題ではありません。
結論を基に、国が変わったかどうか、という結果の問題です。
しかし、150年間、この国は変わっていません。何度か目的らしきものを持った時代はありましたが、曖昧なものでしかなく、いつの間にか、消えてしまいました。この国は、明治維新から今日まで、多分、明日以降も、「民主主義風王政並立封建制度」の国です。
これは、どれほど、正しい結論を出しても、現実的な結果を出さなければ、社会を変えなければ、何の役にも立たないということです。
先月、「前近代的共同体」というものについて書きました。
駒村氏が言う「国家統治の主役は国民」であっても、国が「前近代的共同体」では、どうすることも出来ません。専門家の皆さんの主張は、150年間、同じです。
「だから、どうするんですか」という問いには、誰も答えません。
「国家統治の主役は国民」も、「前近代的共同体」も、「そうだ、そうだ」で終わりです。
もう、そろそろ、何とかしなければなりませんが、お偉い学者先生方は、カネや名誉を手にすることに専念しています。
駒村氏は、「主権者を疑う」と言っています。
主権者という言葉があるだけで、その中身はありません。
その事を棚に上げて、「主権者を疑う」と言われても、誰も反応できません。
その前に、専門家としての自分を疑って欲しいものです。
疑われた国民は、疑われたって、定義もなく、中身もなく、主権者としての責務も目的もなく、何を、どうしろ、と言うのでしょうか。
国民が、国民主権を実現する具体的な方法を提示することが、学者の仕事です。
学者が、知識を得るのは、問題を解決するために得るものです。
知識を弄ぶだけなら、知識には何の価値もありません。
確かに、知識をひけらかせば、カネも名誉も手に入るかもしれませんが、国民には、何の役にも立ちません。
また、駒村氏は、国民の民度が低く、低投票率が定着し、特定の利益集団が国家運営を独占していると言います。
その通りですが、だったら、どうするのです。
「国民が悪い」で終わりですか。
もちろん、悪いのは国民です。
でも、そこで終わらないで欲しいと思います。
国民は、どうすればいいのか、わからないのです。
お偉い先生方が、上から目線で正論を吐いても、何の価値もないと思います。
日本国民は、「下々」ですから、そんな正論には反応しません。
だから、専門家が存在しているのです。
その専門家が「悪いのは国民だ」と言ってみても、不毛でしかありません。
国民の何が悪くて、それを、どうすればいいのかと言う処方箋を示さねば、国民には伝わりません。
この書籍の表題「主権者を疑う ー 統治の主役は誰なのか」の真意は、「この糞国民が」だと思うのですが、真綿で包んで、毒にも薬にもならない「なあ、なあ」「まあ、まあ」の表題になっています。「糞国民よ、目を醒ませ」という表題にして欲しいくらいです。
大学に嫌われ、学生に嫌われ、一般読者に嫌われたのでは商売になりません。カネを稼ぐためには、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は不可欠です。それでも、この本が何冊売れているのか知りませんが、買った人は「お気の毒」です。「ふむ、ふむ」で終わるのであれば、時間の無駄だと思います。
「学者とは」という定義がありませんので、学者は何をやっても、何もしなくても、問題はないのかもしれません。
でも、敢えて、言葉の定義をしてみたいと思います。
私の勝手な定義ですが、学者とは、知識を駆使して現状を分析し、課題があれば、その原因を特定し、その上で処方箋を書くことが責務だと思います。
この150年間、この処方箋、特に、具体的に実行可能な処方箋、を提示した学者は皆無だと思っています。
言葉の定義がされていないことが、誰にとっても、居心地はいいのでしょうが、これこそが、致命傷です。
国家運営者には国家運営者の責務があります。
専門家には専門家の責務があります。
国民には国民の責務があります。
どれも、同じものではありません。
国家運営者にも、専門家にも、国民にも、それぞれの責務があるのです。
もちろん、「何のために」という目的も必要です。
それが曖昧になっているために、国全体として噛み合っていないために、国力が衰退しているのです。
誰にも責任はなく、誰もが責任を取る。
これが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の究極の目的かもしれません。
でも、この先も、「なあ、なあ」「まあ、まあ」は続きます。
それは、何も変えない、何も変わらない、ということです。
私達の未来が現在のトレンドの延長線上にあるということです。
国力衰退というトレンドと国民負担率の上昇というトレンドの延長線上に、私達の未来の生活があるということです。
それほど遠い未来ではなく、皆さんはその現実に直面することになります。それでも、皆さんは、「ふむ、ふむ」と頷き、「俺には関係ねぇ」と言い続けていると思います。
でも、行き着く先は地獄です。
ほんと、皆さん、大丈夫なんですか。

もう一人、学者先生を紹介します。
農業経済学者の鈴木宣弘教授です。
7200万人の餓死者というフレーズを紹介した先生です。
米国ラトガース大学の研究者らが、局地的な核戦争が勃発した場合、直接的な被爆による死者は2700万人だが、「核の冬」による食料生産の減少と物流停止による2年後の餓死者は、食料自給率の低い日本に集中し、世界全体で2億5000万人の餓死者のうち、約3割の7200万人が日本の餓死者と推定したことを根拠としています。
その上で、鈴木宣弘教授は、本気で、食料安全保障に取り組まねばならないと警鐘を鳴らしています。
本気の食料安全保障政策が必要であることは言うまでもありませんが、農業分野の改革が必要であることも正しい選択ですが、それだけでは国民生活は守れません。いろいろな分野で、いろいろな方が、いろいろな提案をしています。そんな提案は不要だとは言いません。しかし、この国の課題は、そこではありません。思想とか文化の領域の問題なのです。
農業を守るためにも、餓死者を出さない国を作るためにも、求められているのは、国力衰退を止め、反転させ、国そのものを豊かにする方策が必要です。
それは、簡単なことではありません。一大変革、それも、歴史を変えるほどの変革が求められているのだと思います。
ラトガース大学の研究では核戦争が想定されていますが、仮に、核戦争が起きなくても、日本は食糧危機になります。
その原因は、国力衰退による「買い負け」現象が定着するからです。
鈴木教授も指摘していますが、今でも、この「買い負け」は起きています。日本が、小麦をトン当たり10万円で買うと申し入れても、中国がトン当たり15万円で買うと言えば、生産国は中国に売ります。
食料安全保障は、もう、農業政策で何とかなるようなものではありません。
国力次第で、食糧の輸入は途絶えるのです。
では、どうすればいいのか。
「買い負け」しないで済むように、国を繁栄させねばなりません。
では、誰が、国を豊かにするのですか。
国民しかいません。
では、どうすれば、国民が力を出してくれるのでしょう。
補助金や給付金で、国民は、その気になってくれるのでしょうか。
「貰えるものは、貰っておく」で終わると思います。
国民が自分の責務を知って、努力するしか道はありません。
濡れ手に粟とか上手い話なんてものはありません。地道に、長時間、努力するしか方法はないのだと思います。
今、この国に必要なのは、目的と責務の明確化です。これは、文化を変えなければ実現しません。歴史を変えなければ、衰退するこの国を再生させることは不可能です。
これが日本の処方箋であり、今は、唯一の処方箋だと思います。
有識者でも学者でも教授でも知識人でも、呼び名は何でもいいですが、彼等がこの処方箋の一番近くにいます。
あと、一歩、前に出ればいいだけです。
文化に着目できる先生が現れることを、期待します。


2023-08-04



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