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炭素税 [評論]



地球の自然は、既に、新しいフェーズに突入しているのかもしれません。
地球規模の異常気象、気象災害が、明らかに増加しています。
その原因は、地球温暖化だと言われています。
素人の私にはわかりませんが、CO2排出量の増加が温暖化の原因だということは、9割以上の科学者が認めているそうです。ただ、科学的な推論であっても、CO2排出量を減少させれば温暖化は阻止できるという確証はありません。もしかすると、CO2は数ある要因の1つに過ぎないのかもしれません。是非、科学的な検証を進めて欲しいと思います。
そのCO2排出量の増加は、人間の経済活動が生み出しているのですから、温暖化を止めようとすることは、人間の経済活動を止めなければならない、ということです。
経済活動は、私達が生きていく上で欠かせません。しかも、その原点は「欲」です。CO2排出量の削減は、人間の「欲」との闘いなのです。
今、地球温暖化の阻止が世界的な課題になりましたが、人類の取り組みは、この温暖化現象を止めることができるのでしょうか。世界中の国が一斉に経済活動を制限するなんてことが可能なのでしょうか。
私には、無理に見えます。歴史を見る限り、どんな状況下でも、「欲」が最強の存在だった人間が、「欲」を制限しようとしているのです。
今は、CO2を植物等に蓄積する手法が脚光を浴びていますが、大気中のCO2を人為的に除去する技術開発が必要なのかもしれません。いや、その除去技術しか解決できないと思います。しかし、大気には国境がありません。除去技術を開発しても、開発した企業は、国は、利益を得られません。利益を得られない開発案件に投資ができるのでしょうか。
地球温暖化対策、CO2排出量の削減、カーボンニュートラルという言葉をよく聞くようになりましたが、私は勉強不足で、何もわかっていません。疑問はいっぱいありますが、その答を知りません。今日は、問題提起や提案ではなく、素人の疑問を書いてみたいと思います。

世界潮流に押されるように、菅政権は、2050年に、カーボンニュートラルを達成すると公約しました。日本にとっての2050年は、どんな時代なのでしょう。冷静な予測があって、決められた国家目標なのでしょうか。私の目が歪んでいるのかもしれませんが、見栄を張っているようにしか聞こえませんでした。
30年後の話ですから、菅さんは死んでいると思いますが、実現可能なのでしょうか。
国民生活に影響はないのでしょうか。
疑問は解けません。
もっとも、皮肉な話ですが、100%ではないとしても、別の理由で達成可能だと思っています。
この国は、カーボンニュートラルを達成する前に、経済的に破綻し、化石燃料を大量に使う環境を失うと思います。
今の日本にとっての地球温暖化対策は、二の次、三の次の課題でしかありません。先ずは、生き残ることです。「国力衰退」に対処することが先です。餓死に直面するであろうという国にとって、地球温暖化対策は何のインパクトもありません。

それでも、公約してしまったのですから、達成に向けたプログラムは動き始めます。
「国力衰退なんて無かったことにしていて」「現実を見て見ぬふりをしていて」「世間体を優先させていて」、いい結果が出るとは思えません。
カーボンニュートラル達成の施策として、炭素税があります。
炭素税の解説を見てみましょう。
「石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料に、炭素の含有量に応じて税金をかけて、化石燃料やそれを利用した製品の製造・使用の価格を引き上げることで需要を抑制し、結果としてCO2排出量を抑えるという政策」
化石燃料を利用した製品の代表が、電気・ガス・ガソリンであり、社会インフラと呼ばれるものばかりです。
需要を抑制するほどの値上げとは、どのくらいなのでしょう。
例えば、電気料金が今の倍になったら、あなたは、電気を使うことをやめますか。
生活防衛のために、節電はするでしょうが、電気は使うと思います。
では、どのくらい、節電は可能なのでしょう。
電気料金を半分にする生活は、簡単ではありません。
それでも、頑張ったとしましょう。
しかし、節電では、CO2排出量をゼロにはできません。
流石に、電気料金が100倍になれば、電気を使うことを諦めるしかありません。例えば、月収20万円の人の電気料金が、今、5000円だとしてみましょう。100倍になるということは電気料金が50万円になるということです。20万円の収入しかないのに、50万円の電気料金は払えません。食う物も食わずに電気を使うという選択肢はないのです。電気のない生活に順応するしかないと思います。
カーボンニュートラルは国家目標です。
その国家目標を達成しようとすると、国民は電気を捨てなければなりません。
では、国の目的は何でしょう。
国民生活を守ることです。
菅政権のカーボンニュートラルという目標は、電気料金を高騰させることで、国民生活を守ることになるのでしょうか。
3000万人と言われている貧困層の皆さんは、電気料金が高くなっても、やっていけるのでしょうか。貧困層への減税や支援が必須になりますが、この先、貧困層は更に増加します。貧困層への減税や支援のために炭素税の増税を続けるのでしょうか。非課税の人達には給付金を配るのでしょうか。炭素税は、青天井で増税するのでしょうか。国民の税負担が増えれば、国は疲弊するという法則があります。それでも、地球を救うために、犠牲を受け入れるのでしょうか。そもそも、何のために増税するのでしょう。地球のためであれば、私達の生活はどうなってもいいのでしょうか。これは、総理大臣が勝手に決めることではないように思えます。カーボンニュートラル施策の全容を示し、国民の同意を得る必要がある案件だと思います。なぜなら、国民に覚悟を持ってもらわねばなりません。その覚悟を、国民の皆さんは持っているのでしょうか。いいえ、国民は何も知らされていませんので、覚悟なんてものは持っていません。

欧州では、炭素税が実験的に採用されている国があります。
日本でも、それに類する税金は、少額ですが、あります。
今のところ、炭素税が経済成長を阻害する要因にはなっていないと言われています。
では、今後も、炭素税と経済成長は両立するのでしょうか。
個人的には、かなり無理な話に聞こえます。特に、衰退国家日本で、その法則は成り立つのでしょうか。
そもそも、温暖化対策は地球規模の対策です。
CO2排出量の多い国が、本気で、対策に乗り出してくれるのでしょうか。
CO2排出量ランキングのベスト3は、中国(28%)、アメリカ(15%)、インド(9%)です。3カ国で、地球全体のCO2排出量の5割を排出しているのです。日本は5位(3%)です。
炭素税を導入しているフィンランド(0.1%)、スウェーデン(0.1%)、ポルトガル(0.1%)、フランス(0.9%)のCO2排出量は、中国のCO2排出量と比べれば、微々たるものです。国際協調という美名のもとで、中国はCO2排出量をゼロにしてくれるのでしょうか。「俺が法律だ」と言っている習近平が同意してくれるとは思えません。取引の材料にすることはあっても、世界と協調することはないのではないかと思います。
温暖化対策の壁は、やはり、人間だと思います。それは、経済を犠牲にしてでも温暖化対策をする国は存在しないと思うからです。
極論かもしれませんが、もしも、地球温暖化が進み、人類が絶滅するとしても、それは、運命だと思います。これまでも、地球上では恐竜が絶滅し、マンモスが絶滅した歴史を持っています。人類が絶滅しても不思議ではありません。
人間の理性は「欲」の前では無力です。「欲」は、人間にとっては自然現象です。私達は、個人の生活でも、日々、「欲」に負け続けているのです。「欲」の力は、人間社会では最強の存在です。それほど強力な「欲」でも、人間の「欲」と地球の自然の闘いだとすると、勝負は見えています。私には、地球の存在のほうが、はるかに、巨大に見えます。理性が地球を救うなんて話は、お伽話でしか成り立たないと思います。

さて、ここで、マクロの視点からミクロの視点に変えてみます。
仮に、私が財務省の人間だったとします。
炭素税、大賛成です。
税目には拘りません。慢性的な税収不足を少しでも回復してくれるのであれば、炭素税でも、悪魔税でも、何でもいいです。
錦の御旗になってしまったカーボンニュートラルという目標は降ろせないとすると、恒久的に税金が入って来ることを意味します。どんどん、税率を上げて欲しいものです。
この思考は、今の「自分さえよければ」「今さえよければ」という風潮の中で、否定されることはありません。

地球温暖化は、終わることなく、永遠に続いてくれることを願う人も出てきます。
炭素税が、一定の税収になれば、廃止するなんてことはできません。
そして、地球温暖化の話と炭素税の話は、分離していきます。温暖化は温暖化、炭素税はただの税で残り続けるのです。
炭素税が大きな税目になれば、「さあ、何に使おう」と精力的に考える人達が出てきます。税収不足を埋めるという発想は、すぐに消えてしまいます。「炭素税って、何の税だっけ」という人も出てくるかもしれません。
カネの臭いがすれば、魑魅魍魎が湧いてくるものです。
そう考えると、地球温暖化対策は、炭素税は、日本の崩壊を後押しする要因になる可能性が高くなります。
ま、これも、運命なのかもしれません。
「だったら、どうすれば、いいんだ」という問いの答は持っていません。
私の手には負えません。降参です。
でも、何か、違うような、感触だけはあります。
別のシナリオも見ておきましょう。
炭素税を強化して、電気料金を高騰させ、「電気料金を下げたいのであれば、原子力発電を復活させなければなりませんが、国民の皆さんは、どうしますか」と問えば、国民は、二つ返事で原子力を容認してくれると思います。
これも、「衰退国家」ならではの選択肢です。
「両方とも、犠牲は伴いますが、どちらの犠牲を選択しますか」というものです。
利益の二者択一ではなく、不利益の二者択一になるのが、「衰退国家」の特徴なのかもしれません。
でも、この二者択一に未来があるようには見えません。
また、太陽光パネルを森林や農地に設置しようという動きもあります。
余談ですが、太陽光パネルで利益を得ているのは中国資本です。私達が支払っている電気代は、今でも、中国に吸い取られているのです。
ただでさえ食糧自給率が低いのに、食糧よりも電力を優先させるのです。
世界的に食糧不足の時代が来ることは予測されています。
世界に先駆けて、経済破綻をする日本は、食糧の確保はどうするのでしょう。
人類は、木の実や木の皮で飢えをしのいだという過去がありますし、農地と水があれば、ある程度の国民は、食いつなぐことができるかもしれませんが、森がなければ、農地がなければ、それも不可能になります。
将来、悪いことは何一つ起きないとしても、カーボンニュートラルの達成は至難の業だと思いますが、大丈夫なのでしょうか。

詳しいことはわかりませんが、ちょっとした思い付きで想像しただけでも、炭素税は、政府にとって、目先、美味しい部分(税収増や原発再開等)があるように見えます。
しかも、大義名分は国際的なお墨付きです。
人類を守るのか、国民生活を守るのか、は難しい選択だと思いますが、個人的には、先ず、国民生活を優先してくれると嬉しいな、と思います。ここでも、「言葉の定義」不在が大きく影響すると思います。子供達の未来を守るためには地球温暖化は阻止しなければなりません。ただ、その前に、日本が生き残るという前提条件が必要です。先ず、生き残り、その上で、温暖化を阻止しなければならないのです。私には、可能性があるようには見えません。
愚痴の羅列になってしまいました。
どうすればいいのか、私にはわかりません。


2021-08-06



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この国は、既に壊れています [評論]



今日は、非正規公務員の話です。
上林陽治氏の「非正規公務員のリアル」という本の紹介をしている文章を転記したいと思います。少し文字数は多くなります。


 日本社会には、誰もが知っていながらも積極的には触れないこと(タブーとまではいえない)がいくつもある。共通項は、(1)解決が容易でないかほぼ不可能なことと、(2)それでも解決しようとすると多数派(マジョリティ)の既得権を脅かすことだ。そのため、解決に向けて努力することにほとんど利益がないばかりか、逆に自分の立場を悪くしてしまう。こうした問題の典型が「官製ワーキングプア」すなわち非正規で働く公務員の劣悪な労働環境だ。
これは多くのひとが知るべき事実だと思うので、今回は上林陽司氏の『非正規公務員のリアル 欺瞞の会計年度任用職員制度』(日本評論社)を紹介したい。上林氏は10年にわたって官製ワーキングプアの問題に取り組んできた第一人者だ。
「正規と非正規の専門性の逆転」
 この本には驚くような話が次々と出てくるが、そのなかでもっとも印象的な事例を最初に取り上げよう。
 2015年、27歳の森下佳奈さんが多量の抗うつ剤や睡眠導入剤を飲んで自殺した。佳奈さんは臨床心理士になることを目指して大学院で勉強し、卒業後、「障害のある子どもたちや何らかの困難を抱える人たちに寄り添う仕事」に就きたいと北九州市の子ども・家庭相談員の職を選んだ。だがその条件は年収200万円程度の任期1年の非正規で、それに加えて上司から壮絶なパワハラを受けることになった。
 佳奈さんが両親や知人に送ったメールには、「また無視される1週間が始まるよ」「顔見るなり『生きてましたか?』とだけ」「同年代の相談者と結婚したらいいんじゃないですか」「昨日もまた2時間、研修行かせてもらえず面談室に呼び出されて問い詰められ、泣かされたよ。辞めたい」「給料分働いていない。自覚がない。意欲がない。と繰り返されました。」などの悲痛な叫びがつづられていた。この上司が佳奈さんに「このままやっていたら、(相談者が)死にますよ」などといったため、「私にはできない。このままじゃ、ひとが死んでしまう。」と深く思い悩んでいたこともわかっている。
 佳奈さんの両親は、生前の話やメールをもとに、日常的に上司から嫌がらせを受け、難しい対応を迫られる案件を入所半年の佳奈さんに担わせるなどしたとして、公務上災害の認定と補償請求に関して北九州市に問い合わせた。それに対する回答は「非常勤職員の場合は(常勤職員と異なり)、本人ならびに遺族による認定ならびに補償請求は認められない」という門前払いだった。労災で争う以前に、労災の申請すら許されないのだ。
 2017年8月、両親は北九州市を相手に公務災害補償の請求などを求める裁判を起こし、翌18年には当時の野田聖子総務相に、「「困難を抱えた子どもたちの助けに」という夢をもって就職した佳奈さんが数カ月で元気を失い、追いつめられていった過程や、死後も労災請求すら許されなかった事情」を手紙で訴えた。野田総務相からは、「心痛はいかばかりかと胸のつぶれる思いです」「娘さんが苦しまれた、そんな状況を二度とおこさないよう変えていきます」と記された手書きの封書が届いた。
 それにもかかわらず北九州市は主張を変えず、一審の福岡地裁は、市が「条例規則を改正せずに放置してきたこと、申請を門前払いしたことなどに違法性はない」と両親らの請求を棄却、二審の福岡高裁も「条例の補償内容が、法律で定める補償と均衡を欠くことは立証されておらず、申出や通知に関する規定を置いていないことは理由にならない」などとして一審判決を支持、最高裁も両親の上告を棄却した。
 この痛ましい事件には非正規公務員が置かれた過酷な状況が象徴されているが、ここではまず、「正規と非正規の専門性の逆転」という事態を考えてみたい。
 児童相談員の業務内容は、育児不安、虐待、いじめ、不登校や夫などからの暴力(DV)への対応を求められる高度なもので、そのために佳奈さんは大学院で臨床心理学を学んだ。それに対して、自治体のなかで児童相談所は、生活保護担当と並んで職員が異動したがらない職場となっている。――ある市の児童相談所の課長が、3年で他部署に移すことを約束して児童相談所の職員を確保していた事例が紹介されている。
 その結果、児童相談所は高い専門性をもつ非正規職員と、なんの専門性もなく経験年数の浅い正規職員で構成されることになる。こうしたいびつな組織を束ねる管理職も正規職員で、本書には書かれていないものの、佳奈さんの上司も、大学院はもちろん学部レベルの臨床心理学の知識すらもっていなかったのではないか。
 常軌を逸した執拗なハラスメントは、「若い女」が自分よりも高い専門性をもっており、上司としての権威を脅かすと感じていたとすれば説明できる。そしてこの「専門性の逆転」は、非正規公務員の職場では常態化している。
専門性の逆転を引き起こす日本の公務員の不可解な人事制度
 公立図書館は異なるバックグラウンドの職員たちで構成されている。図書館司書の資格をもつ正規公務員、それを補佐する、これも図書館司書の資格をもつ非常勤職員。ここまでは誰でも思い浮かぶだろうが、これに「役所内の人事ローテーションで図書館に異動してくる一般行政職の正規公務員」が加わる。このひとたちは司書資格を有さず、異動だからと仕方なく図書館に勤務し、図書館員の仕事を非常勤の職員から教えられてカウンターで利用者への対応をし、2~3年後には他部署に異動する。
 これだけなら「そんなものか」と思うだろうが、図書館の職場をいびつなものにするのは、「異動しない一般職の正規公務員」がいるからだ。その事情を上林氏はこう書く。
 一定の数少ない専門職・資格職を除き、日本の公務員の人事制度において、正規公務員とは職務無限定のジェネラリストで、職業人生の中で何回も異動を繰り返し、さまざまな職務をこなすことを前提とされている。ところがどの組織にも、さまざまな事情で異動に耐えられない職員、最低限の職務を「当たり前」にこなせない職員が一定割合おり、しかも堅牢な身分保障の公務員人事制度では安易な取り扱いは慎まなければならず、したがってこのような職員の「避難所」を常備しておく必要がある。多くの自治体で、図書館はこれら職員の「待避所」に位置づけられ、そして「待避所」に入った職員は、そこから異動しない。
 この構造によって、図書館の管理者である(司書資格をもつ)正規公務員は強い精神的ストレスのかかる立場になるのだという。
 同様の「専門性の逆転」は、ハローワークの求職相談でも日常的に見られる。ハローワークの非正規相談員の多くは期間業務職員で、3年目には一般求職者といっしょに公募試験を受けなければならない(1年の任期で連続2回までは勤務実績に基づき継続雇用される)。
 非正規相談員は、3年ごとの公募試験に備えて、働きながら産業カウンセラー(受講料20万円超)やキャリアコンサルタント(受講料30万円超)の資格を取得する。これらはハローワークの相談員に必須というわけではないが、「履歴書の資格欄を空白にしないため、業務遂行上の能力があると考慮されるであろうことを信じて」高い受講料を払っているのだという。
 ところが同じハローワークに勤務していても、正規職員はこうした資格をほとんどもっていない。無期雇用でめったなことでは解雇されないということもあるが、下手に資格をとると、ハローワークから別の部署への異動を狭めることになりかねないからだ。
 こうして、「正規職員より非正規職員の方が有資格者は多い」という事態が生じる。公募試験会場では、「資格取得に価値を置かない無資格の正規職員が、有資格の相談員応募者を面接し、合否を判定する」という「ブラックジョーク」のようなことが起きるのだ。
 2つめの「ブラックジョーク」は、資格を取るなどして努力すればするほど雇い止めになるリスクが上がることだ。なぜなら、実力のある非正規職員は、能力のない正規職員の上司にとって大きな脅威になるから。実際、山陰地方のある自治体では、非正規公務員の組合運動を主体的に担ってきた当事者数人が、会計年度任用職員制度の移行時に実施された採用試験の結果が悪かったとして、次年度の任用を打ち切られた。
 毎年3月に、ハローワークには公務員関係の求人が大量に出される。一般求職者はこれを見て公募に応じるが、彼ら/彼女たちに求人内容を説明し、書類を渡し、「就職できるといいですね」と励ましているのは非正規の相談員で、公募試験に落ちれば自分が失職する。こうして、「昨日まで求職者の相談に乗っていた職員が、翌日には失業者になって求職相談をする」という事態が起きる。これが3つ目の「ブラックジョーク」だ。
非正規公務員はなぜ劣悪な労働環境に置かれているのか
 非正規公務員はなぜこれほどまでに劣悪な労働環境に置かれているのか。その理由を私なりに整理すると、以下のようになるだろう。
1) 国も自治体も財政に余裕がない。経済が低迷し税収が上がらない一方、超高齢社会で年金や医療・介護などの社会保障費が青天井で増えていく(「超高齢社会の重圧で経済が低迷する」という因果関係かもしれない)。
2) それにもかかわらず、住民が行政に求めるサービスが多様化・複雑化している。法律や通達で自治体の対応が求められるものは、DV、ストーカー被害、児童虐待、障がい者や保護者の相談、ひとり親家庭の就労支援、生活困窮者の相談、ホームレスの自立に向けた施策、犯罪被害者の相談から自殺、ニート、ひきこもり、過労死、債務整理(借金問題)まで多岐にわたる。
3) 住民の要望に対応するには職員を増やさなければならないが、予算のない自治体は正規職員を雇うことができず、専門資格をもつ人材を非正規で採用してやりくりしようとする。こうして「全国のすべての地方公務員の3人に1人は非正規公務員」「もっとも身近な市区町村では44.1%が非正規公務員」という事態になった。
4) 予算が決まっているなかで、増えつづける業務を非正規・臨時職員でまかなおうとすれば、必然的に低賃金になる。自治体は、非正規職員を安く使い倒すことしか考えなくなる。
5) こうした現実は関係者ならみな知っているが、首長や政治家は票にならないことはやりたがらず、労働組合は正規職員の既得権を守ることしか考えていない。住民は行政の質の低下には不平をいうが、住民税の引き上げのような負担増は反対する(そのような「改革」を主張する政治家は選挙に勝てない)。このようにして、非正規公務員は劣悪な職場環境に放置されることになる。
 2016年の総務省調査では、正規公務員の平均年収645万円に対し、非正規職員は1日8時間、月20日、年12カ月をフルで働いたとしても、特別職非常勤が年収207万円、一般職非常勤が176万円、臨時職員では162万円にしかならない。
 保育士の多くが非正規であることは知られているが、小学校以上の公立学校でも教員の不足を臨時教員や非常勤講師で補っているところは多い。
 シングルマザーの臨時教員として教育現場に復帰した教歴10年以上の女性は、すべての期間でクラス担任を受け持ち、勤務時間、勤務日数、勤務形態はすべて常勤職員と同じだが、年間所得は250万円程度にしかならない。この金額は、彼女が住む市の就学援助制度の認定基準(親子3人世帯で年間所得基準額262万8000円)を下回る。教壇に立って生徒たちを教える先生が、就学援助を受けないと生活できない。
 さらには、病欠や欠員補充などの非常勤講師として働いてきた50代の女性は、時給1210円で1日5時間、週5日の勤務で月収は手取り11万円にしかならない。夏休みなどの休暇期間は学童保育で働き、週末はスーパーの試食販売でアルバイトをしてきたが、疲労で授業に集中できなくなり、月5万円の生活保護を受給して教員を続けるようになったという。
自治体が非正規公務員の「労働者としての最低限の権利」をはく奪している
 日本でもようやく同一労働同一賃金の原則が徹底されるようになり、厚生労働省のガイドラインでも「正規か非正規かという雇用形態にかかわらない均等・均衡待遇を確保しなければならない」とされている。だとしたら、正規の教員と同じようにクラス担任をこなし、フルタイムで働く非常勤の教員の収入が半分から3分の1で、就学援助を受けなければ生活できないなどということがなぜ起きるのか。
 その理由は、自治体側がありとあらゆる手段を使って、非正規公務員が労働者としての最低限の権利をもつことすら阻止しているからだ。
 非正規公務員の理不尽な労働条件を象徴するのが「空白期間」だ。「新たな任期と、再度の任用後の新たな任期との間に一定の勤務しない期間を設けること」で、2016年の総務省調査では、臨時職員を任用している団体の約半数で空白期間が設定されていた。もっとも多いのが1週間から1カ月以内だが、1日だけというところもある。3月30日まで働いて、翌日が空白期間で、4月1日からまた同じ仕事をするのだ。
 なぜこのような制度が広まっているかというと、継続して雇用すると労働者としてのさまざまな権利を認めなくてはならないからだ。アンケートでは「継続した任用と見られないようにするため」「退職手当や社会保険料等の財政的な負担を避けるため」との率直な回答も多くあった。こんなことを民間企業がやったら大問題になるだろうが、それが「公務」になると、空白期間で労働者の基本的な権利を奪うことをなんとも思わなくなるのだ。
 空白期間は本人の責任でないにもかかわらず、期末勤勉手当の支給額が減らされる。さらに年度末の1カ月を空白期間にされた場合、社会保険料の事業主負担がなくなり、全額自己負担となる国民健康保険に加入するしかなくなる。空白期間もいつもと同じように業務に就かせる(タダ働きさせる)慣習も広まっている。
 冒頭で紹介した森下佳奈さんに労災が適用されないのも、自治体が「地方公務員災害補償法」による負担金が生じないように空白期間を使っているからだ。「1年を超えて在職していないように見せかけ、また週15分程度、常勤よりも勤務時間を短くしてパートと称するようにして、常勤的臨時非常勤職員の要件を満たすことを回避」すれば、すべてのリスクを非正規公務員に押しつけ、自治体は負担を免れることができるのだ。
 国もこうした事態を放置していたわけではない。2016年12月にまとめられた総務省研究会報告書では、空白期間を認めず、「退職手当や社会保険料等の負担を回避したり、任用されていない者を事実上業務に従事させたりすることは明らかに不適切」と当たり前の指摘をしている。
 ところがこの報告書は、いつのまにか勤務時間の長短だけに依拠したこれまでと同じ扱いに後退してしまった。上林氏はその理由を、「地方公務員における絶望的なまでに拡大した格差状況が、日本社会全体の格差解消への取り組みの足を引っ張りかねず、したがって、地方公務員における格差状況の「隠蔽」が行われ、問題解決を向けた処方箋作りが、途中で諦められてしまった結果」だとしている。
 これをわかりやすくいうと、非正規公務員のとてつもない「身分差別」が明らかになると、民間企業から「なぜ自分たちだけが同一労働同一賃金の導入で苦労しなければならないのか」といわれてしまうので、問題そのものが存在しないことにしたのだ。
 これだけでもじゅうぶん衝撃的だが、さらに愕然とするのは、非正規公務員のために国が用意した資金を自治体が使い込んでいることだ。
 2020年から会計年度任用職員制度が始まったが、それに合わせて非正規公務員への期末手当の支給が義務付けられ、約1700億円の財源が地方交付税として予算化された。ところが自治体側は、この期末手当原資を他の財源に回す予定で新年度予算を組んでしまっていた。これはふつうなら犯罪行為だが、非正規公務員は「労働者」以前に「人間」としてなんの権利も認められていないので、そのままなし崩しになったようだ。



この文章の内容が全て正しいとは限りませんが、真逆な現実が存在しているとは思えません。だとすると、これを読んだだけでも、この国が、既に、壊れていることは明らかだと思いますが、私の偏見にすぎないのでしょうか。
これは非正規公務員の実情ですが、民間の非正規労働者は、更に、過酷な状況にあるものと思います。この国には、そんな国民が、2000万人も3000万人もいるのです。
国を繁栄させるか衰退させるかは、国民次第です。子供達の未来を守るのか壊すのかも、国民次第です。その肝心要の国民を痛めつけている国が、生き残れるのでしょうか。どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。
皆さんの目には、この国は正常だと見えているのでしょうか。
何度も書きますが、トレンドは個人の力ではどうすることもできません。もちろん、システムに過ぎない国にトレンドを変える力はありません。変えられるとすれば、国と国民の総力だけが、その可能性を持っているのかもしれません。もしも、可能性を追求するのであれば、国のシステムを変えることと、国民意識を変える必要があります。
国力衰退を放置すれば、時間差はありますが、次々と、国民が貧しくなるのですから、いつか、必ず、自分の順番が回って来るのに、平気なのでしょうか。「なあ、なあ」「まあ、まあ」で何とかなる状況なのでしょうか。
国も、多くの国民も、危機感を持っていません。ほんとに、不思議です。
お叱りを受けるかもしれませんが、私は、国民の皆さんに対して、「お前等、馬鹿なのか」と本気で思っています。ま、馬鹿な私が、皆さんを馬鹿呼ばわりしているのですから、滑稽でしかありませんが、ほんとに、不思議です。
原因は「国力衰退」です。そして、「国力衰退」の原因は国家統治システムの機能不全です。国は、国民生活を守れていませんし、子供達の未来も守れていません。それは、国の責務が、国民の責務が、定義されていないからです。
「非正規公務員のリアル」という本は、その現実をレポートしているのです。この本は、問題提起をしてくれていますが、問題提起は大事ですが、もう、問題提起をしている段階ではなく、原因究明をしなければならない時だと思います。
原因究明をすることもなく、今も、この国は「なあ、なあ」「まあ、まあ」で動いています。次は、あなたの番です。
これで、いいのでしょうか。
「まあ、まあ、そう言いなさんな。お上も苦労してるんだ。何とかしてくれるよ」
ほんとに、「お上」が何とかしてくれるのでしょうか。
どうにもならないから、国力が衰退しているのではありませんか。
これ、ヤバイと思います。

どうか、子供達の未来を守ってください。
「自分さえよければ」は「子供なんて、知るか」であり、「今さえよければ」は「先のことは、どうでもいい」ということです。これでは、子供達の未来は守れません。
しかし、「自分さえ」「今さえ」が日本の潮流になっています。特に、「お上」の意識が汚染されています。この潮流を変えることができるのは国民の皆さんの意識だけです。
国民の皆さんの協力が必要なのです。


2021-08-05



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繰り返される茶番劇 [評論]



10月に衆議院選挙が行われます。数カ月後です。
自民党は、既に、大敗すると言われています。
自民党は、勝敗ラインは単独過半数だと言っているのですから、30~50議席程度の落選は覚悟しているようですので、負けることは承知しているものと思います。ただ、対応を間違えれば、100議席減もあり得ると思います。
自民党の議員から、政権政党である自民党から、それを覆すような政策は出てきません。選挙直前の対応では遅いと思います。危機感がないのかもしれません。
一方、今度の衆議院選挙では、初めて、一部の野党共闘が実現するようです。
立憲民主党の影の選挙参謀は、旧自民党の小沢さんや中村さんだと言われています。
自民党は、「勝てば官軍」の政党です。勝つためには何をやってもいいのです。自社さ政権だって作りました。その自民党で伝統ある選挙戦術を学んだ人達が参謀なのですから、「何でもあり」は不思議ではありません。だから、枝野さんは志位さんの前で土下座してみせたのです。
かつて、民主党政権が誕生した時は、自民党の意識に危機感が欠如していたために、敗北したのだと言われています。いつものように、「何とかなるさ」と思っていたベテラン議員や中堅議員が、次々と落選して、真っ青になっていました。
今度の選挙でも、危機感が欠如しているように見えますが、大丈夫なのでしょうか。
「自民党にお灸をすえなければならない」と思っている「いい人達」が増えている今の状況は、民主党政権が誕生した時と、よく似ています。
もっとも、自民が勝とうが、立憲が勝とうが、国民には関係ありませんので、どちらでもいいのですが、選挙に勝つ方法は、どちらにもあります。
今日は、選挙必勝法について書きます。

先ず、自民党必勝法です。
野党共闘を過小評価すべきではありません。特に、都市部での野党共闘は、とても強敵になります。コロナで評判を落としている自民党にとっては、野党共闘に対する徹底的な対抗手段を生み出さねばなりません。
これまで、長い間、惰性で、自民党に票を入れていた「いい人達」が、自民党のコロナ対応で疑心暗鬼になっています。「いい加減にしろよ、自民党」と思っている人達が増えています。「いい人達」の判断基準がコロナ対応の良し悪しになっているとすると、大変危険です。選挙の争点をコロナにしたら負けます。
仮に、立憲民主党が今の政権党であったとしても、今の自民党と同じ対応しか出来なかったと思いますが、幸いなことに、立憲民主党は政権党ではありませんでした。これは、立憲民主党にとって大きなアドバンテージです。
ですから、自民党は、コロナやワクチンで選挙を戦ってはいけません。
自民党は、「民主主義政治と共産主義政治の、どちらを選択しますか」という戦いにしなければなりません。「皆さんは、中国のようになりたいのですか」と叫んでください。
立憲が共産党と手を結んだことで、憶測ではあっても、立憲・共産連立政権の噂が出るのですから、この点を集中攻撃する必要があります。
これは、枝野さんが、自民党に塩を送ってくれたのです。利用しない手はありません。
確かに、この国にあるのは偽物の民主主義ではありますが、共産主義とは差別可能です。
日本国民は、共産主義国になりたいとは思っていません。
共産主義国になりたいと思っている国民がゼロだとは思いませんが、その数は非常に少ないと思います。
選挙は、得票数の争いです。
国民心理の多数派に焦点を当てるのは、当然の選挙戦略だと思います。
コロナがありますから、議席数を増やすという選択肢はありませんが、これで多少は傷が小さくなりますし、公明や維新が、特に維新が票を伸ばしてくれれば、憲法改正だって可能性がない訳ではありません。
自民党の選対本部が危機感を持てるのかどうかはわかりません。
今の自民党は、アフターコロナの経済対策に重点を置いているように見えます。立憲民主党のバラマキ政策に対抗するのは、愚策だと思います。
ここは、「民主主義か、共産主義か」の一点で戦うことをお勧めします。

次に立憲民主党の必勝法です。
「他人のふんどしで相撲を取る」という姑息な手法は封印してください。
選挙協力なんて要りません。
立憲民主党単独で、政権が取れるのです。
モリ・カケ・サクラ・コロナを争点にするのも封印してください。
バラマキ政策も封印です。
立憲民主党の今の戦略は、一から十まで間違いだらけです。
それは、助平根性しかないからです。
基本に立ち返り、作戦を作り直してください。
自分の党の党名を、もう一度確認してください。皆さんの党は、立憲民主党なのですか、それとも、立憲共産党なのですか、それとも、立憲欲賛党なのですか。民主主義の原点に戻れば、答は見えてきます。
民主主義という言葉の定義をするだけではなく、一歩踏み込んで、「国とは、国民とは」という定義をしてください。「言葉の定義」をして、目的と責務を明確にして、国力衰退の現実と未来を示し、「私達は、国民生活を守る政治をします」と宣言してください。
そうすれば、いかに、自民党が国民生活を破壊してきたかを国民に知ってもらうことができます。口先の批判ではなく、定義を示して、「国民生活を守るのか、国民生活を破壊するのか」を選挙の争点にすればいいのです。
多くの野党の皆さんが、これまで言ってきた「国民生活を守る」という言葉は、何の根拠もない、ただの言葉でした。選挙用だった「国民生活」という言葉を、国民は聞き飽きていますので、耳を素通りしてしまいますが、「言葉の定義」の上に立った「国民生活」という言葉は、国民の心に届きます。それは、言葉の根拠が生まれるからです。
立憲民主党という党名を掲げているのですから、皆さんが民主主義を定義することに異を唱えることは誰にも出来ません。
もちろん、立憲民主党の議員の既得権益を失うことは覚悟の上のことです。
「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という言葉があります。自分の邪心を捨てて、勝負に勝つことだけを考えてください。いや、勝つことでさえ、捨ててください。国民生活のことだけを、子供達の未来の事だけを、考えてください。そうすれば、勝手に勝ちが転がり込んで来てくれます。
モリ・カケ・サクラも野党共闘も、皆さんの助平根性は丸見えです。
コロナで、アドバンテージは皆さんの側にあるのです。
このチャンスを生かすことが出来るのは、皆さんだけなのです。
立憲民主党にとってのコロナは、救世主なのです。

しかし、実際の選挙戦は、このような戦いにはなりません。
それは、国会運営を見ていれば、容易に想像できます。
与党にとっても、野党にとっても、重箱の隅が一番心地いいのです。
与党であろうと野党であろうと、国会議員であることには変わりません。国会議員の利権を守るためには、重箱の隅で「ああでもない、こうでもない」という議論をしていることが最善なのです。彼等にとって、「言葉の定義」なんて、最悪の選択です。
では、国民は何を期待しているのでしょう。
どんな「バラマキ」をしてくれて、自分はそのバラマキの恩恵を受けられるかどうかが焦点になります。ある地方の市長選挙で、市民交付金を配ると公約した候補に票が集まったことでも、それは証明されています。
国家運営者の皆さんも、国民の皆さんも、「自分さえよければ」「今さえよければ」としか考えていません。子供達の未来なんて、頭をよぎることもないのでしょう。
国は認めていませんが、この国は、明らかに、重篤な「国力衰退病」に罹患しています。しかし、関係者(国家運営者と国民)は、見て見ぬふりをしています。
「国力衰退」は、ずるずると、進むことになります。
誰一人、「国力衰退」を止めようとしていないのですから、仕方ありません。
次の衆議院選挙も、これまでと同じように、茶番劇が繰り返されることになります。
国民の皆さんは、平気なのですか。
子供達の未来は、日々、奪われていっているのです。
お願いです。どうか、目を醒ましてください。
子供達の未来を守る責務は、全ての大人にあります。
そうです。全員に責務があるのです。
「俺は、バラマキになんて左右されない」と言う方もいると思います。
その意識は大切ですが、もう、その程度の意識では、子供達を守れません。
大人の皆さんは、どうやって、子供達の未来を守ろうとしているのですか。
何もしないことが、大人の責務なのでしょうか。
国力が繁栄している時であれば、子供達の未来も守られていますので、その選択肢はあったと思います。
でも、今は、子供達の未来を守る実際の行動が求められているのです。
それが、大人の責務だと思います。
ところが、選挙による政権選択では、何も変わりません。それは、強欲(自民党)と助平根性(立憲民主党)の闘いなのですから、どちらが勝っても、国民の利益にはならないのです。
そのことは、皆さんも知っています。
私達は選択肢を持っていないのです。
どの政党に国家運営を委託しても、国民生活は守られないのが現実です。
だとすると。
今の政治家にこの国の運営を任せていてはいけないということになります。
選択肢がない場合は、選択肢を生み出すしかありません。
本気で国民生活を守ってくれる新しい政治集団を生み出せばいいのです。
そのためには、大人の皆さんが「言葉の定義」をして、目的と責務を明確にして、新しい政治集団の誕生を実現させることです。
「子供達の未来なんて、どうでもいい」なんて考えている方はいないと思いますが、それでも、漠然と「俺ではない、誰かが、守ってくれ」と考えていると思います。
でも、国民の皆さん、それは勘違いです。子供達を守るのは、「誰か」ではなく、皆さんの、国民一人一人の責務なのです。そうです、あなたの責務です。
デモをしろとか、テロをしろとか、武器を持てなんてことを言っているのではありません。
「言葉の定義」をして、それを発信すればいいのです。
ただ、1人や2人が発信したところで世の中は動きません。
しかし、100万人が、1000万人が発信すれば、世の中は変わります。
ただし、100万人も1000万人も、一人一人の積み上げです。
一人一人の力は小さなものかもしれませんが、国民の最大の強みは数なのです。
多くの大人の皆さんが積極的に関与しなければ、子供達の未来は守れないのです。


日本では、シリアの情勢なんてニュースにもなりませんが、探せば、シリア難民の約300万人が飢餓に直面しているというニュースがあります。
シリアは人口2000万人の国です。その半数以上(1200万人)が難民になっています。周辺国がシリア難民を約600万人受け入れていますが、難民キャンプの生活は楽ではありません。他国へ逃れられないシリア難民が600万人もいることになります。
国連の支援も、数々の障害があり、医薬品だけではなく、水・食糧でさえ届けることが困難な場所もあるそうです。
この現実を、いろいろな事情を考慮せずに、アサド政権やロシア政府の思惑を無視して、俯瞰的に見てみましょう。
シリアの国民が、悲惨な生活を余儀なくされているという現実が見えてきます。
どうして、こんな国になってしまったのでしょう。
いろいろな事情があるのでしょうが、国家運営の失敗が原因です。
国家運営の失敗で2000万人の国民を守れない国、それがシリアです。
多分、シリアにも、「国民生活を守る」ことが国の責務だという定義がなかったものと思います。そのような国は決して少なくないと思います。日本もそうです。そんな国が、国家運営に失敗すれば、シリアと同じ状況になる危険は、どこの国も抱えています。
日本が、シリアと同じような事情で国家運営失敗に至ることは考えにくいでしょうが、どんな過程を辿ったとしても、結果は同じことになります。日本でも、国の責務は曖昧なものしかなく、国民生活が守られない危険度は、かなり高いと思います。私達の国も、第二次世界大戦でそのことを証明してみせました。今の「国力衰退」は、戦争ではありませんが、結果的に同じことになると思います。
原因の如何に拘わらず、国家運営の失敗は、国民生活を破壊するのです。
今、シリア国民は、国家運営失敗の責任を取らされているのです。
内戦の戦闘に巻き込まれて死亡した国民もいるでしょうが、餓死も同じです。
私は、難民キャンプに行ったこともありませんし、見たこともありません。しかし、ニュースで知る限りであっても、その生活は悲惨な生活に見えます。
ほんとに、日本では起きないことなのでしょうか。
「まさか」なんてことは、起きないのでしょうか。
私には、シリア難民の姿は、明日の日本国民の姿に見えてしまいます。
そんな視点で、シリアを見る人はいないと思います。
確かに、日本が政治的な原因で、あるいは、思想的な原因で、国家が破綻する可能性は低いと思います。しかし、国家運営の失敗は、政治的なものでも、思想的なものでも、経済的なものでも起きうることです。
今、日本が直面しているのは、経済の疲弊であり、国力の衰退であり、国民の貧困化です。経済的な国家運営失敗でも、立派に、国家破綻は起きるのです。
国家運営が失敗する原因には多くの要因が挙げられますが、国家運営が失敗して国が破綻した時には、その原因とは関係なく、国民が飢えるのです。原因が何であれ、同じ結果になるのが、国家運営の失敗です。
地球では、「国家運営の失敗=国民の飢餓」という法則が存在しているということです。
かつて、国家運営に失敗し、戦争で敗れた日本では、栄養失調は日常茶飯事でした。餓死した方も、体力が衰えて病気になって死んだ方も多かったと思います。しかし、国民は耐えました。敗戦後の国民生活は悲惨でしたが、それでも、日本人はそれを乗り越えました。
では、また、国家崩壊がやって来ても、私達は耐えられるのでしょうか。
私には、あの時の再現は難しいのではないかと思います。
昭和20年代の国民の意識と、令和の国民の意識は同じではないと思うからです。
多分、令和の国民は、あの環境で生き残るのは簡単ではありません。
私が、個人的に軟弱なのかもしれませんが、私に比べると、父や母の世代の人達の、祖父母の世代の、精神は強靭だったと思います。貧しさに耐える力が強かったと思います。
また、戦後の日本人の命を支えたのは、米と芋だったと思います。当時は、まだ、農業が主要産業だった時代です。その後、食糧自給率は下がり続け、農業従事者は激減し、日本は輸入に頼る国になりました。
この精神力の変化と、物量の変化は、違う結果を生むと思います。
しかも、生産力を持たない老人が、人口の1/3もいることも、当時とは違います。
私達には、国民生活を、子供達の未来を、守る仕事をしてくれる国家運営者が必要です。
そんな国家運営者を生み出す仕事は、国民にしかできません。
どうか、子供達の未来を守ってください。
「自分さえよければ」は「子供なんて、知るか」であり、「今さえよければ」は「先のことは、どうでもいい」ということです。これでは、子供達の未来は守れません。
国民の皆さんの協力が必要なのです。


2021-08-04



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普通、夢は叶わないもの [評論]



今日は、PGF生命が、2021年4月26日(月)~4月28日(水)の3日間、今年還暦を迎える1961年生まれの男女(2,000名)を対象に「2021年の還暦人(かんれきびと)に関する調査」をした結果について書いてみたいと思います。調査項目の中から4項目だけを選んで感想を書きたいと思います。多分、PGF生命と保険契約をしている方が調査対象だったと思いますので、保険料が払えないような方は対象になっていないと思います。
このブログでは、これまでも、同じようなアンケートや調査の記事を取り上げてきました。いつも、悲観的な結果しかありませんでしたが、その内容は、じわじわと悪化しているように思えてなりません。少なくとも、状況が改善していると思う方はいないのではないでしょうか。「なあ、なあ」「まあ、まあ」で現実を無視してみても、現実は現実です。現実が消えてなくなるわけではありません。


「貯蓄額」

全回答者(2,000名)に、現段階の貯蓄金額(配偶者がいる場合は夫婦2人分)を聞いたところ、「100万円未満」(25.0%)に最も多くの回答が集まりました。そのほか、「100~300万円未満」(10.7%)、「500~1,000万円未満」(12.2%)、「1,000~1,500万円未満」(10.6%)、「2,000~2,500万円未満」(7.8%)、「3,000~5,000万円未満」(7.5%)、「5,000万円~1億円未満」(8.4%)、「1億円以上」(9.0%)などに回答が集まり、平均は3,026万円でした。
昨年の調査結果と比較すると、貯蓄額の平均は2020年3,078万円→2021年3,026万円と、52万円の減少、「100万円未満」と回答した割合は2020年20.8%→25.0%と、4.2ポイントの上昇となりました。


「貯蓄額の感想」
かつて、金融庁が「老後資金2000万円必要」と発信したことで問題になりましたが、この調査では、どうなっているのでしょう。
PGF生命の資料から算出すると、貯蓄額2000万円以下の方が66%で、2000万円以上の方が34%でした。ただ、何度も書いていますが、2000万円では足りません。
2000万円だとしても、半数以上の方が、老後資金不足だということです。
中でも、一番多かったのが、100万円以下の貯蓄しかない人で、60歳老人の4人に1人の方が該当します。働くことができて、日銭が入って来る間は、何とかなります。充分な年金が受け取れるのであれば、とりあえず、何とかなります。でも、これらの条件は盤石ではありません。特に、体力の問題は厳しいです。認知症や脳梗塞による半身不随という老人病は、身近にあります。老人の場合は、ケガも大きな障害になります。リハビリで回復すればいいのですが、老人の場合は簡単ではありません。車椅子生活になる方も大勢います。元気に働けて、収入がある生活から、医療費や介護費が必要になり、収入を失う生活になるのです。出費が増えて収入がなくなるというダブルパンチは、かなり厳しいと思います。もしも、2人世帯だとすると、相方が倒れれば、生活は一変します。老後資金が必要になるのは、その時なのです。健康で働ける環境と、そうではない環境の差は天と地の差があります。老人の3割が1人世帯だそうですから、更に深刻です。貯蓄額が100万円以下の場合は、貯蓄は焼け石に水にしかならず、一人世帯で認知症になったら、どうするのでしょう。認知症の新薬が開発されたそうですが、治療費は年間で600万円必要だと言われています。
この先も、生活破綻予備軍の老人が、年々、増加します。
今でも、恵まれた世代だと言われる70代80代の老人でも、生活が破綻して困っている老人は存在していると思いますが、その調査はされているのでしょうか。国は、「自己責任でお願いします」と言っているのですから、そんな調査はしていないのかもしれません。
いろいろな問題は抱えていますが、今の老人の生活を支えているのは年金です。私も、年金で生活しています。しかし、財源の問題は解決していなくて、老人予備軍の皆さんの先の見通しは立っていません。貯蓄額が年々減少していくトレンドは、これからも継続します。年金保険料を支払っている現役世代の人口も減少していきます。
生活破綻老人が増えれば、社会問題になります。
問題が表面化してからでは遅いと思いますが、手は打たれていません。
この先起きてくる問題の根っ子にあるのも「国力衰退」です。国民の自己責任だけで、収まるような問題ではないと思います。国と国民が総がかりで、この事態に対処するシステムを作る必要があると思います。
そんな発想は見当たりませんが、どうするつもりなのでしょう。


「不安」

全回答者(2,000名)に、還暦以降(60歳以降)の人生で不安に思うことを聞いたところ、1位「収入の減少(60歳以降の雇用形態の変更など)」(53.2%)、2位「身体能力の低下(体の病気や寝たきりなど)」(50.5%)、3位「年金制度の崩壊」(46.1%)、4位「判断能力の低下(認知症等脳の病気や車の運転など)」(43.3%)、5位「自分の介護」(37.1%)となりました。


「不安の感想」
上記の「貯蓄額」の感想のところで書いたように、皆さんの心配も、収入、体力、年金がベストスリーです。悲観論者の私が心配しているだけではないのです。
60歳になったばかりの人達の不安は、70歳になった時の不安とは少し違うと思います。新しい不安材料は次々と出てきます。どなたでも、この10年の間には、貯金を引き出す事案にぶつかります。その時、改めて、「ヤバイ」と実感すると思います。もしかすると、80歳では死ねないかもしれない。必要になるのは、カネだということを通帳残高という数字で思い知らされることになります。
私のような低所得者でも、介護保険料と健康保険料で、年間約10万円を徴収されます。低所得者にとっての10万円は、厳しい現実です。
厄介なことに、不幸は不幸を呼ぶという法則が働く可能性があります。何らかの事情で収入を失い、病気になることだってあるのです。10年以内に年金が破綻する可能性は、それほど高くはありませんが、経済危機があっても不思議ではありません。インフレになったら、年金生活者は無傷ではいられません。戦争だってあり得ます。
新老人にとっては、不安が小さくなるという可能性よりも、不安が大きくなる可能性のほうが圧倒的に高いのです。
国民の、心配と不安に対して、国は、どう答えているのでしょう。
「自己責任で何とかしてください」と言っています。
もちろん、国の主張が全面的に間違っているとは思いません。最終的には、何事も自己責任です。しかし、国力衰退に対処せずに、自己責任を求めるのは、少し違うと思います。国も、国民の責務を明確にして、国民に対して、「責務を果たしてくれ」と言うべきなのではないでしょうか。
国と国民の目的と責務が明確になっていれば、違った対応があったのではないかと思います。


「就労」

59歳時点で就労をしている・していた人(1,459名)に、還暦(60歳)以降、何歳まで働きたいかを聞いたところ、65歳以降も働きたいと思う人(65歳以降の年齢を回答した人)の割合は78.3%、70歳以降も働きたいと思う人(70歳以降の年齢を回答した人)の割合は36.5%となりました。法改正では就業確保努力義務が課される年齢として70歳を区切りとしているものの、70歳以降も引き続き仕事に励んでいきたいと考えている人は少なくないようです。


「就労の感想」
新老人も、働き続けなければ生活できなくなるという意識は、強いと思います。約8割の人が70歳まで働きたいと思っています。ただ、60歳の老人にとって、70歳という年齢は、ある程度想像できるのでしょうが、75歳、80歳は、よく見えません。
70歳以降も働きたいという老人が半分になってしまうのは、想像力の限界を示しているように見えます。もちろん、70歳以降も働きたいと思っている約4割の方の中には、働かないと食べていけないという事情を抱えている方が相当数いると思います。いや、大半は、そういう方なのでしょう。「働きたい」のではなく「働かざるを得ない」老人が4割いるということです。これは、500万円以下の貯蓄しか持っていない方が約4割いることと合致しています。
ただ、労働意欲があることと、実際に労働できるかどうかは、同じではありません。
75歳になっても、80歳になっても、体力、気力が充実している方もいれば、そうではない方もいます。個人差で大きく変わります。それだけではありません。もしも、相方が病気になったり、身体機能が衰えたり、認知症になった時には、介護が必要になります。貯蓄額が少ない方は、外部に介護を委託できません。自分が介護するということは、働くことが出来なくなるということです。自分が倒れても、相方が倒れても、収入を失うのです。


「夢」

全回答者(2,000名)に、今後、どのような“シニア”になりたいか、なりたい自分像を聞いたところ、1位「悠々自適シニア(のんびりと自由に過ごす)」、2位「趣味人シニア(趣味を楽しむ)」、3位「マイペースシニア(何事もマイペース)」となりました。セカンドライフをゆったりと自分らしく過ごしたり、趣味に没頭したりしたいという人が多いようです。以降、4位「若見えシニア(年齢よりも若く見える)」、5位「ポジティブシニア(何事にも前向き)」が続きました。
男女別にみると、男女とも1位は「悠々自適シニア」でした。2位以降をみると、男性では2位「趣味人シニア」、3位「マイペースシニア」、4位「若見えシニア」、5位「ポジティブシニア」、女性では2位「若見えシニア」、3位「マイペースシニア」、4位「趣味人シニア」、5位「ポジティブシニア」となりました。そのほか上位に挙がった回答をみると、男性では「エネルギッシュシニア(活発・活動的)」が8位、「博学シニア(知識が豊富)」が10位、女性では「おしゃれシニア(服装や持ち物がおしゃれ)」が8位、「気配りシニア(気配りが上手)」が9位となりました。


「夢の感想」
夢ですから、妄想は自由です。
私のように悲観的な妄想だけが妄想ではなく、楽観的な妄想も、やはり、妄想です。
ただ、皆さんは、直感では、「そんな夢は叶わないだろう」と思っていると想像します。
皆さんの直感は、正解です。
これまでに、自分にとって「都合の良い」現実が、どれほど、ありましたか。
皆さんの60年の体験は、その事を知っています。
でも、まだ、今年60歳になった方は、ましだと思います。
来年の60歳、5年後の60歳、10年後の60歳、年々、状況は悪化します。
それが、国力衰退の現実です。


さて、生命保険会社という民間企業が、どうして、こんなアンケートを実施するのでしょう。それは、生命保険という商品を売るために、現状認識と原因究明と対策立案をするためです。これは、生命保険会社だけではなく、どんな企業でも実施されていることです。企業が生き残るためには、市場調査をし、現状認識と原因究明と対策立案は欠かせません。そんなことは、誰もが承知しています。
では、国が生き残るための現状認識と原因究明と対策立案はどうなのでしょう。
企業と違って、国は、そんなこと、必要ないのでしょうか。
そうではないと思います。
個人でも、家計簿をつけて、出費を目に見えるように数値化し、出費をコントロールしている家庭は多く存在していると思います。個人や企業だけではなく、国にも、生き残るための現状認識と原因究明と対策立案は必要不可欠だと思います。いや、それが、国の責務だと思います。そのために、国は、数多くの統計値を算出しているのです。しかし、今は、数値を出すことが最終目標になっているのではないかと思うくらい、現状認識と原因究明と対策立案が無視されています。少数の個人や企業が生き残れなくても、国は生き残ることが可能ですが、国が生き残れなければ、多くの個人や企業は生き残れません。現状認識と原因究明と対策立案を本気でやらなければならないのは国です。


2021-08-03



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本物の大人の対応とは [評論]



今日は、ロイターの記事を転記します。
ロイターさん、ごめんなさい。無断転載です。
田巻一彦氏のコラムで「ドル安なのに円高にならない4つの理由 背景に、衰退する日本」という文章です。

ドル/円だけを見ているとよくわからないが、主要通貨に対してドルは足元で緩やかに下落している。かつての円は、ドル売りの受け皿となって円高になるケースが多かったが、実は円も対主要通貨では売られ、ドル/円が均衡しているのが実態だ。では、なぜ円が売られているのか。以下に4つの主要な要因を挙げる。
<年初から6%の円安>
ドル指数は3月末に93.23付近で推移していたが、足元では90付近まで低下している。低下幅は3.5%程度で、米バイデン政権が推し進める財政拡張的な経済政策で物価が上がり、財政赤字と貿易赤字が膨らむとの市場コンセンサスがドルの水準をじわじわと切り下げることにつながっているようだ。
一方、円の名目実行為替レートは、今年1月6日から6月9日までに約6.3%低下した。3月30日と比べても約3%水準を切り下げている。なぜ、円が下落しているかと言えば、主に海外勢が以前のようにドルを売って買う通貨として、円を選択しなくなったことが主因のようだ。
<ワクチン敗戦>
その理由の1番目に挙げられるのは、やはり新型コロナワクチンの接種競争で「敗北」したことだ。英国や米国が接種を加速させていた今年4月上旬、日本の接種回数は約160万回と全人口の1%強にとどまり、日本政府のコロナ対策の脆弱さを海外勢に印象付けてしまった。
足元では急速に接種回数が増加し、6月9日の段階で2038万回まで伸びてきたが、集団免疫を獲得するとされる60%の人々に2回の接種を終了させるには、なお相当の時間がかかる可能性がある。海外勢は、足元でのワクチン接種加速を円買い材料とは捉えていないようだ。
実際、京都大学の西浦博教授(感染免疫学)らのチームがまとめた試算では、高齢者のワクチン接種率が60%から90%になる4つの仮定のいずれでも、今年8月上旬に東京都で緊急事態宣言の発令が回避できない重症者用のベッド使用率になるという。新型コロナの感染拡大「5波」が来る可能性が高いという情報が今後、内外の市場で広がれば、円売りが継続する可能性もある。
<資源価格上昇と富の流出>
2番目の要因は、米国や中国での景気回復を背景にした世界的な資源価格の上昇だ。主要な商品で構成されているCRB商品指数は今年1月初めから現在まで約25%も上昇している。国内資源の乏しい日本にとって、資源価格の高騰は「富の流出」となり、海外の為替プレーヤーにとっては円売り材料と映る。
また、小麦や食用油、輸入牛肉・豚肉などの食料品価格の上昇は、消費者の「財布のひも」を堅くさせ、個人消費を圧迫する要因にもなる。これは、次に指摘する日本経済全体の足を引っ張る大きな要因にもなる。
<景気後退のサイン>
3番目が長引く緊急事態宣言の発令の「副反応」とも言える日本経済の下方屈折リスクだ。8日に発表された2021年1─3月期の国内総生産(GDP)の2次速報は、1次速報から上方修正されたもののマイナス3.9%だった。
4─6月期は緊急事態宣言による対面型ビジネスの不振が予想され、かなり多くのシンクタンクがマイナス成長を予想している。仮にマイナスが確定すれば2期連続となり、欧米流の思考アプローチを駆使する海外勢は、「景気後退」と判断するだろう。足元では海外勢による「日本経済の停滞イメージ」は、かなり浸透してきているように見える。
4つ目の要因は、迅速な景気対策を打つことができない日本の政治を取り巻く環境への「失望」がある。菅義偉首相はワクチン接種を最優先の政策課題に掲げ、失速の兆しが見える日本経済をサポートするための経済対策の作成指示を出していない。
与党関係者の一部には、大型の経済対策を求める声があるものの、東京五輪・パラリンピック後のどこかのタイミングで衆院を解散し、補正予算の編成は衆院選後の10月後半か11月というのが与党内の「相場観」になっているらしい。海外勢の中には「遅過ぎる」との声が出ており、「衆院選で円買い・株買い」という観測は広がりを見せていない。
<逃避通貨からの転落>
このように見てくると、日本の政治・経済体制が持っている活力がじわじわとむしばまれ、リスクオフ時に買う「避難通貨」の地位から、すでに滑り落ちている可能性があると言わざるを得ない。「衰退する日本」を映しているのが、足元での円安と見るべきだろう。
ただ、すぐに円が暴落することもないと指摘しておきたい。なぜなら、2020年末の対外純資産額は356兆円と30年連続で世界一の規模を誇っているからだ。この「アンカー」が存在している限り、投機筋の円売りによる大幅な切り下げの現実性は低いだろう。
だからと言って、ゆっくりと進む国力低下を放置していいということにはならない。今秋とみられる衆院選で「日本経済復活への処方せん」が論争点の1つになることを望みたい。



このコラムでは、「衰退する日本」という言葉が文字になっています。外資系のロイターの記事だから可能だったのでしょうか。
私達の国では、何故か、よくわかりませんが、誰の目にも明らかな「国力衰退」に類する言葉が少ないと思います。多分、「衰退」という言葉を表に出さないことが大人の対応だと誰もが思っているのではないでしょうか。
これまでの為替市場では、ドル安の受け皿は円高と決まっていました。
しかし、その法則が失われようとしているという意見です。
田巻氏が掲げた理由は、4つありますが、この4つの理由の背景には「衰退する日本」という現実があるというものです。
円が暴落していないのは、世界一の対外純資産があるからだとしています。
それを言い換えると、対外純資産という1本の綱で日本円は支えられているということだと思います。
では、未来永劫、この対外純資産は世界一なのでしょうか。
自然減はありますし、他国の対外純資産は増加します。今以上に対外純資産を増やさなければ、1本の綱は、細くなっていく運命にあるのです。
世界一を維持する力は、もう、衰退国になった日本にはありません。
ですから、いつの日か、支えきれない日がやってきます。私達は、過去の対外純資産という遺産で生き延びているに過ぎないという現実を知るべきです。私達は、過去の遺産で30年も延命しているのです。今の状態が続くと思うのは、傲慢にすぎないと思います。
この遺産が効力を失えば、それが、日本の終焉になると思います。
今、1ドル110円だとします。
これが、1ドル200円になれば、現在海外から輸入している物は半分しか買えません。
仮に、1ドル1000円になれば、輸入量は1/10になります。
消費量が変わらないとすると、価格が2倍又は10倍になるのです。
これで、経済活動が、社会活動が、できるのでしょうか。
日本は、どんな物を輸入に頼っているのでしょう。
私達の生活に影響する物を挙げると、エネルギー原料、鉱物、食糧、日用雑貨、各種の部品等々があります。
エネルギー原料が上がれば、電気代、ガス代、ガソリン等が値上がりします。
鉱物が上がれば、鉄や銅を材料としている商品が、例えば、車等が値上がりします。
食糧が上がれば、庶民の日々の生活費が嵩みます。
日用雑貨や各種部品が上がれば、いろいろな物が値上げされます。
日本円が下落するということは、私達の生活に直接影響するのです。
賃金は上がりません。年金も増えません。
私達は、どうやって、日々の生活をするのでしょう。
仮に、電気料金が数倍になれば、私の生活は成り立ちません。もちろん、値上がりするのは電気料金だけではありません。極貧生活、いや、餓死も視野に入ってきます。
それだけではありません。輸入品の価格が上昇するということは、消費者物価がインフレになるということです。円の下落が、どこかの時点で、ハイパーインフレの引き金を引くことになる可能性だってあるのです。ハイパーインフレになれば、2倍や10倍ではなく、数万倍の物価上昇が起きるのです。
税金を自由に使える一部の特権階級の人達を除き、いつの日か、ほとんどの国民が極貧生活に耐えなければならない時が来るのです。
国力が衰退するということは、結果的に、私達が貧しくなることであり、ほとんどの国民が、生活に苦しむ時代が来ることが約束されているということです。
私達にしてみれば、これは「由々しき事」だと思いますが、そのことが「国家の大事」になっているようには見えません。
国民の皆さん、皆さんは、ほんとに、大丈夫なのですか。
「俺には関係ねぇ」のでしょうか。
確かに、私は極度の悲観論者です。そのことは否定しません。
楽観論をお持ちの皆さん、どうか、「ひどいことにはならない」という根拠を教えてください。「何とかなる」とか「神風が吹く」なんて根拠ではなく、「かくかくしかじか」で日本は大丈夫だという根拠を、是非、教えて欲しいと思います。
少なくとも、私は、そんな記事を読んだことがありません。
これで、ほんとに、大丈夫なのでしょうか。
そうではない、と思います。
日本は、今、とても、危険な場所にいると思います。
その原因になっているのが、国力衰退というトレンドです。
声高に「国力衰退」を叫ぶ人がいないのだから、見て見ぬふりをしていても大丈夫だとは言えません。「国力衰退」という現実が、曖昧の中に沈んでいて、誰もが見ているのに、見えていないような錯覚に堕ちているだけだと思います。
だから、誰も、国力衰退の原因を見つけようとはしていないのです。
原因を見つけずに、どうやって、対応するのでしょう。
為替相場の問題だけではなく、あらゆることが「曖昧」という名の空気の中で輪郭が見えていないのです。これでは、対応策は生まれません。
仮に、今の相対的な貧困層と呼ばれる人達は、25%だとしてみます。
では、30年前は、どうだったのでしょう。
データは持っていませんが、仮に5%だとしてみます。
単純計算をすれば、30年で5倍に増えているのです。
では、30年後は、どうなるのでしょう。
100%を越える計算になります。
つまり、これからは、相対的貧困が日常になり、絶対的貧困が問題になる時代を迎えるということです。
絶対的貧困の場合、餓死に直面する確率が格段に上昇します。
コロナの死者数ではなく、貧困による餓死者の人数が何人になったのか、がニュースになる時代が来るということだと思います。
「ま、俺は、大丈夫だろう」と思っている方が大半だと思います。
私も、そう思っています。そんな時代が来る前に死ねると思っています。
では、子供達は、どうなるのでしょう。
今は、この国には目的がありませんが、もしも、仮に、「子供達の未来を守る」ことが、国と国民の目的だとしたら、私達は、その目的を達成する、いや、目的に近づける努力はしているのでしょうか。
全く、出来ていないと思います。
当たり前のことですが、「自分さえよければ(子供なんて、知るか)」「今さえよければ(先のことは、どうでもいい)」では、子供達の未来は守れません。しかし、今は、この当たり前が無視され、「自分さえ」「今さえ」が、社会の基本になっているのです。
もう、ほとんど、瀕死の状態になっているのに、世の中は「なあ、なあ」「まあ、まあ」で回っているのです。お目出度い人々の群れが、「いい人」の群れが、「ふむ、ふむ」と頷いているだけです。
国民の皆さん、全然、大丈夫じゃないんですよ。
もちろん、国民の皆さんだって、この国が「ヤバイ」ことは薄々感じています。
それでも、何も言わないのが大人の対応だと思っているのです。
ごめんなさい。私は大人の対応が苦手ですから、言わせてもらいますが、「皆さんは、マジ、馬鹿なの」と思っています。
皆さんの大人の対応は間違っています、いや、歪んでいます。
その根底にあるのは、皆さんの「下々」意識だと思います。「お上」に逆らうなんてことは許されないと、未だに信じているのです。これは、正しい大人の対応ではないと思います。大人なら、「子供達の未来を守る」ことが、本物の大人の対応だと思います。「お上」を忖度することが大人の対応ではありません。
それは、皆さんが言葉の定義を知らないから、気付いていないだけなのです。
是非、「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をしてみてください。
目的を見つけてください。
責務を明確にしてください。
そうすれば、「お上」も「下々」も、皆で、責務を果たしていない現実が見えてきます。いや、「お上」とか「下々」という意識そのものが間違っているのです。
「お上」「下々」「なあ、なあ」「まあ、まあ」「ふむ、ふむ」「何とかなる」「神風が吹く」「俺には関係ねぇ」「自分さえ」「今さえ」は、封印してみませんか。
この国を一から作り直さなければ、皆さんの未来も、子供達の未来も、真っ暗です。
中国も少子高齢化社会になる、韓国もそうなる、という議論があります。でも、少子高齢化の先頭を走っているのは日本なのです。よその国も少子高齢化社会を迎えるのだから、仕方がないという論調は、事実を曖昧にする効果しかありません。
少子高齢化も、国力の衰退も、私達の問題なのです。
私達が、皆さんが、いえ、あなたが、平成・令和の大人が、解決しなければならない問題だと思います。
「日本人は、完全に壊れるまで我慢する民族なんだ」と言う人がいます。でも、今度ばかりは、日本が再び蘇るためには数百年の時間が必要かもしれません。いえ、二度と立ち上がることはないのかもしれません。子供達が、孫達が、ひ孫達が、いつまでも、地獄で生きなければならないのかもしれません。平成・令和の大人に責任はないのでしょうか。私達は、最低の大人でいいのでしょうか。それは、違うと思います。


2021-08-02



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人の心は実に厄介な代物ですが [評論]



CCMという略語があります。
Contemporary Christian Musicの略
Customer Communications Managementの略
Cloud Control Matrixの略
それ以外にも
救急救命科をCCMと呼ぶ病院もあります。タンザニア革命党名、中型バスの名称、航空会社名、スポーツ用品企業名等々が、CCMという略号で呼ばれます。
今日は、Contemporary Christian Music(現代的キリスト教音楽)についての、個人的な感想を書いてみたいと思います。
Wikipediaより、その解説を抜粋します。
「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(「現代的キリスト教音楽」の意味)はキリスト教の布教を目的とし、歌詞に重点を置いた音楽ジャンルである。
歌詞的にキリスト教であるすべてのポピュラー音楽が、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックに分類されるわけではない。CCMのミュージシャンは、布教活動のための曲のみを歌い、世俗の歌は歌わないのが普通である。
コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックは,1960年代から1970年代初期の「ジーザス運動リバイバル」や、保守・右派の「福音派」の宗教復興運動の時代に、ポピュラー・ミュージックの感覚で始まった」と書かれていました。
今は、グラミー賞にもCCM部門というジャンルがあります。
ユーチューブで映像を見ると、その他の音楽コンサートとは少し違う映像になっています。
私のような素人は、無神論者は、若干、不気味さを感じます。カルト教団の集会は、こんな感じなのかな、と思いました。
ところが、最近、Spotifyで、このCCMに嵌っています。
音楽には、名曲が数多くあり、どの曲も素晴らしいと思います。
何が違うのだろうと考えました。
解説文を読んで、「なるほど」と思いました。
CCMは、宗教復興運動のメッセージなのです。
良い音楽を届けたいという気持ちだけではなく、宗教の布教という熱量が加味されているのです。聴く人の心に働きかけたいという熱があるのです。
布教とは、誰かの心を動かす仕事です。
CCMはキリスト教の布教ですが、日本の仏教の初期にも、多くの布教者が熱弁を振るい、人の心を動かそうとしました。
誰かの心を動かそうとすると、熱が必要だということです。
キリスト教は古くから音楽を布教のツールとして利用してきたという歴史があります。古くから讃美歌があります。クリスマスソングもその1つです。ゴスペルソングやソウルミュージックもその影響を受けて音楽ジャンルの一つになりました。熱を伝えるという意味では、ベトナム戦争の時、反戦歌が多く発表され、多くの人の心に伝わりました。
何かを伝えたいと思う時に、音楽は最適なアイテムなのかもしれません。
メロディーはオーソドックス、音域も素人向け、どこか日本の演歌と通じるものがあるように感じます。音楽だけでも人の心に何かを伝えますが、そこに熱量が加わることで布教の力を得ることが出来るのだと思います。日本はキリスト教国ではありませんので、日本のCCMジャンルは非常に狭く、私が聴く音楽も洋楽ばかりです。ですから、CCMの歌詞は英語です。私には歌の歌詞としてしか聴こえませんが、神を称える言葉が並んでいます。母国語であれば、心を揺さぶられる人もいると思います。
私は、日本人であり、無神論者ですから、八百万の神(山の神とか森の神とか木の神とか)は信じることはあっても、キリスト教の信者になることはありません。それでも、CCMのあの熱量は素晴らしいと思います。

宗教でも、国家運営でも、多くの人々の力が必要です。
大衆の力がなければ、宗教も国家運営も成り立たないという点では同じだと思います。
だとすると、宗教でも国家運営でも、大衆の心に働きかけて、大衆の力を引き出さねばなりません。極端な言い方をすれば、大衆からカネを集めなければなりません。
そのためには、働きかける側に、熱が必要なのだと思います。
菅総理大臣の発言やニュース映像が氾濫していますが、原稿を読む技術は身につけているようですが、そこから生身の人間の熱量は感じません。
菅さんに熱意が欠けているとは思いません。しかし、相手に、国民に、その熱を届けなければ、国民は不安になってしまいます。
ただでさえ、国力衰退とコロナのせいで国民は不安で一杯なのです。
どうして、「国力の衰退を止め、豊かな国にするためには、国民の皆さんの力が必要なのです」と熱意を表に出してお願いしないのでしょう。
「俺には関係ねぇ」と言っている国民に、「どうか、力を貸してください」と言わないのでしょう。
国民の心に、熱が届けば、頑張ってくれる国民もいると思います。
ただ、闇雲にお願いしても、国民の心には届きません。
必要になるのが、その根拠です。
私の母は、熱心な信者ではありませんでしたが、クリスチャンでした。ですから、聖書は手の届くところにありました。私は、あの細かい文字を見ただけで読む意欲は失いましたが、キリスト教にとっての根拠は、あの聖書です。
国家運営の場合、聖書と同じものは憲法だと思いますが、日本国憲法は国民の心に届いているでしょうか。そうは、思えません。もちろん、憲法そのものの出来が悪いことも影響しています。国民を無視し、「お上」がGHQと交渉して出来た妥協の産物でしかありません。そんな憲法が国民の心を動かすとは思えません。その結果、国と国民の関係は、伝統を守り、「お上」と「下々」という関係から抜け出せませんでした。
国と国民は、繋がっているのでしょうか。そこにも、疑問があります。国と国民が「俺の勝手だろ」と言っていて、力が出せるのでしょうか。そうは、思えません。国を運営しているのも人間ならば、国民も人間です。人間同士の絆は必要ないのでしょうか。多分、絆は、熱から生まれるのではないかと思います。共通の定義と、共通の目的と責務があり、そこに熱があれば、共感や絆が生まれるのではないかと思います。言葉の定義と目的と責務だけがあればいいのではなく、それを土台として、熱が絆を生み出すのではないかと思います。ところが、土台も熱も、この国にありません。だから、国力の衰退が止まらないのだと思います。
「国とは、国民とは、民主主義とは」という言葉の定義をして、「どうしても、国民の皆さんの力が必要なのです」と、熱意を持って、お願いすれば、国民の皆さんの心に届くかもしれません。
国民が、自分達がこの国の主役であることに気付いてくれれば、この国を立て直してくれます。その力が、日本人にはあると思います。
国が崩壊するよりは、いいのではないでしょうか。
携帯料金を値下げしても、生産性を向上させるために中小企業を潰しても、デジタル革命をやっても、この国の国力衰退は止まりません。
本気で、熱意を持って、国民の心に「力を貸してください」「子供達の未来を守ってください」と訴えるしかないと思います。
原始的な方法ですが、この方法しかないのではないかと思います。
私が提案しているのは、どれも、高等戦術ではありません。
言葉の定義にしても熱にしても、ごく当たり前の、ごく原始的な提案ばかりです。
でも、人の心を動かさなければ、国も、国民も、社会も、変われないと思います。
人の心は、実に厄介な代物ですが、無限の可能性も持っているのではないかと思います。
小手先の手練手管は止めませんか。
原始的ではありますが、人の心に働きかけてみませんか。

菅総理を批判するような文章になってしまいましたが、総理大臣が日本代表という意味で苦言を言っているのであり、菅さんだけが変われば、この国が変わるわけではありません。
なぜ、国があるのか。
何のために、国というシステムが必要なのか。
定義のない今の日本では、こんな疑問も出てきませんが、原始的で、初歩的な、問ですが、この疑問を解かねばならないと思います。
こんなこと、わかり切ったことだと思っていませんか。
皆さんは、この問の答を持っていますか。
もしも、仮に、国も、国民も、社会も、全て、そこに暮らす人達のために存在しているのであれば、言い換えれば、子供達の未来を守ることが国と国民と社会の責務であれば、私はそう思っていますが、その事を原点にして、その原点に相応しいシステムを作る必要があるのではないかと思います。
この国に暮らす人は、誰でも、幸せになって欲しいと思ってはいけないのでしょうか。
もちろん、簡単には実現しません。
それでも、それを目的にして、生きていくしかないと思います。
「子供達の未来を守る」ことが、皆さんの目的であれば、完璧に達成できることはないと思いますが、それでも、そのために頑張ってみるのも意味があるように思えます。
言葉の定義があり、目的があり、それぞれの責務が明確であれば、国が衰退することも、崩壊することもないのではないかと思います。
集団にはリーダーが必要です。しかし、リーダーだけでは何もできません。
リーダーにも、集団の一人一人にも、熱が必要だと思います。
熱が、「子供達の未来」を守ってくれるのではないかと思います。
精神論のように聞こえるかもしれません。いや、精神論かもしれません。でも、精神論は不要なのでしょうか。そうではないと思います。なぜなら、人間は自分の心に大きく依存して生きている動物だからです。
言葉の定義、国と国民の目的と責務という土台を築き、国民の協力を得るためには精神論は不可欠だと思います。
この国に欠けているものは土台です。
でも、土台を作ったとしても、それは言葉に過ぎません。
土台の上に、私達は具体的な建造物を建てなければいけません。
国民の協力がなければ、土台は、机上の空論にすぎないのです。
国民の協力を得るためには、「国民」という概念を明確にした上で、原始的な方法かもしれませんが、熱意で訴えるしかないのではないかと思います。
土台の上に、具体論を、実現可能な施策を、築いてみませんか。それを成功させてくれるのは、人間の熱なのだと思います。
随分、役に立ってくれた「なあ、なあ」「まあ、まあ」ですが、そろそろ、この曖昧に決別する時が来ているのだと思います。

話は変わりますが、辛いことや苦しいことは山ほどあるのに、どうして、人は生き続けるのでしょう。
生物には、厄介なことに、寿命が尽きるまで、生き続けるというDNAが組み込まれているのだと勝手に思っています。これは、理屈ではありません。生き続けるためには、食糧も必要ですし、一部の人達には宗教も必要だということなのだと思います。生と死を簡単に選択できるDNAがあるのであれば、宗教は不要になります。死こそ救いになる人は大勢いると思います。
生き続ける運命を背負った人間という生物にとって、富と権力が至高のものとなってから、数千年の時間が過ぎました。それは、今でも変わっていません。人類はこの構図を維持したまま、この先も続くのだと思います。これは、人類絶滅への道だと思いますが、それでも、続くと思います。地球上では、いろいろな生物が生き、絶滅するという歴史を繰り返しています。人類も、その運命からは逃れられないのだと思います。
宗教団体は儲かる商売だと言われます。キリスト教は信者数で世界一です。一番儲かっている宗教はキリスト教だということになりますが、それでも、布教しなければなりません。常に、信者を増やし、信者からの献金やお布施という浄財を集めなければ、組織を維持できません。そのための音楽が存在することが、何よりの証拠です。
人は、虚構でしかない宗教に頼ってでも、何とか、生きようとするのです。
日本の自殺者は2万人と言われていますが、人口比で見れば、0.00017%です。
実際に、辛い生活を、苦しい生活をしている人は、数百万人では済まないと思いますが、なぜか、人は生きようとします。
確かに、死ぬのは、理屈抜きで怖いです。これが、DNAだと思います。
だったら、開き直って、辛さや苦しさから逃れる方法を模索してもいいと思うですが、それが簡単ではありません。個人では、方法も見つけられません。
それでも、何かに挑戦するしかないのでないかと思います。
今のままでは、不幸を増幅するだけだと思います。
人の悩みは尽きることがありませんが、せめて、経済的な苦しさは小さくする必要があると思います。もちろん、全ての国民の収入を納得できるような収入にすることはできません。でも、極力、貧困層の数は小さくするべきだと思います。そのための方法としては、国そのものを繁栄させるしかないと思います。逆に、国が衰退するということは、経済的に苦しくなる人達を増やしているということです。
「国とは」という定義がありませんので、曖昧になっていますが、これは、明らかに、国として失格だということです。
失敗している今の方法を、どうして、そのまま続けようとするのでしょう。
どうして、国力衰退に向き合おうとしないのでしょう。
どうして、その議論をしないのでしょう。
目の前に、衰退があり、苦しい生活をしている人が増えているのに、どうして、「俺には関係ねぇ」と言えるのでしょうか。
少なくとも、今の国家運営方式では、お先真っ暗です。
国力衰退、国民の貧困化という現実と向き合い、解決策を探す必要があります。
是非とも、国家運営方式を変更することをお勧めします。
どうか、子供達の未来を守ってください。
「自分さえよければ」は「子供なんて、知るか」であり、「今さえよければ」は「先のことは、どうでもいい」ということです。これでは、未来を生きる子供達を守れません。
国民の皆さんの協力が必要なのです。
老人の私に出来ることは、こうやって、細々と警告を書き続けることだけです。私が世の中を変えるなんてことは不可能です。それでも、多くの方が警告を発信すれば、変わる可能性はあります。このブログを読んでくれる方は、少ないと思いますが、「この国、ヤバイ」と思っているから読んでくれるのだと思います。どうか、皆さんからも警告を発信してください。お願いします。ほとんどの国民が不安を感じています、警告を受け取ってくれる人は必ずいると思います。子供達の未来を守るために、力を貸して欲しいと思います。


2021-08-01



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