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想像力を意識して使う時代 [評論]



今日は、皆さんが気分を害するような文章を書きますので、いつものことですが、不快な気分にはなりたくないという方は、読まないようにしてください。もっとも、このブログで、「明るい気分になった」なんて人はいないと思います。「不快な気分になるのは、いつものことだ。気にしない」と言う方は、試しに読んでみてください。

私が、初めて、ピカソの絵に出合ったのが何歳だったのか記憶にありませんが、最初の印象は「なに、これ、変なの」というものでした。
残念ながら、今でも、ピカソの絵の良さは理解できていません。
多分、理解できないまま、あの世に行くことになると思います。
私の勝手な解釈ですが、芸術作品の良さは、その作品に接する人の想像力を刺激する力だと思っています。そして、絵を見て、何かを感じるということは、見た人が何かを想像したということだと思います。それが具体的な事ではなく、「何となく」「何か」を感じたとしても、そこにあるのは想像力なのだと思います。
私は何も得られませんでしたが、ピカソの絵が多くの人の支持を得ているということは、ピカソの絵から、その何かを感じた人が大勢いたということなのでしょう。それは、素晴らしいことだと思います。
絵から、勇気を貰った人、モチベーションを貰った人、夢を貰った人、優しさを貰った人、よくわからないが何かを貰った人、いろいろな感じ方があるのでしょうが、その絵がなければ感じることが出来なかった何かを手に入れることができたということだと思います。
理屈じゃないと思います。
それは、絵を見た人の想像力が生み出したものです。
人の気持ちを変化させる想像力は、凄い存在なのだと思います。
もしも、人間に想像力が無かったとしたら、地球は、もっと色褪せた、つまらないものだったのかもしれません。
無粋な私でも、心打たれる作品に出合うことはあります。
私の場合は、東山魁夷の「道」という作品です。
数ある名作と言われる作品に刺激を受けることがなかった私ですが、「道」を見た時は「ドキッ」としました。何故、「ドキッ」としたのかは、今でもわかりません。でも、絵画には力があるという解釈を体現したのは確かです。
現世のしがらみから解き放たれ、想像の世界を遊泳できる心地良さが、芸術作品の素晴らしさだと思っています。それを意識せずに体現できるのが人間なのだと思います。人間以外の動物は、想像しません。ライオンに、私が描いた絵と、ゴッホが描いた絵を同時に見せても、多分、違いはわかりませんし、見向きもしてくれないと思います。
もちろん、芸術論を語りたいのではありません。
いや、そんな資格は、私にはありません。
ただ、想像力は、芸術だけのものではなく、私達の生活にも必要だと思うのです。
動物の中で、想像力を持っているのは人間だけです。だから、人間が地球の王として君臨しているのだと思います。
世知辛い世の中で「想像力なんかで、飯が食えるか」と言う方もいると思います。
その通りだと思います。
それでも、想像力は必要だと思います。

ただ、私達は、ついつい、想像力の存在を忘れてしまうことがあります。
なぜなら、想像力は、昨日今日手に入れた能力ではないからです。数千年、いや数億年前から持っている能力であり、あって当たり前の能力であり、特別に意識しなければならない能力ではないからです。しかも、想像力だけで飯が食えるわけでもありません。
それでも、必要な、どうしても必要な能力であることは間違いありません。
この地球上から消え去った動物が、何千種、何万種いるのは知りませんが、決して強靭な肉体を持っているわけでもない人間が生き残っているのは想像力によるものだと思います。人間は考えることが出来る動物です。考えるという能力は、過去と現在と未来を同時に理解できる能力であり、だからこそ、生き残り、繁栄できたのです。
人間だけではなく、動物でも、過去は体験で知ることができますし、現在は、目で見ることができます。しかし、未来は、想像しないと手に入りません。人間の頭脳が他の動物よりも優れているのは、この想像力があるからです。
ただ、私達は、日常で、想像力を意識することはありません。「さあ、今から、想像するぞ」と掛け声を掛けなくても、自然と想像力という能力を使っています。
過去の体験による恐怖感は、人間でなくても体験することはできるでしょう。でも、将来が不安だという不安感は、人間にしか体験できません。人間以外の動物が、不安感を持ってしまったら、それだけで、生き残ることは難しいと思います。それは、人間以外の動物は将来不安に対応する方法を見つける頭脳を持っていないからです。将来に対応できる能力を持っているのは人間だけです。
人間も、人間以外の動物も同じ生存能力を持っています。どんな動物よりも大きな脳を持っている人間が、地球上で優位に生き残ることが出来たのは、この将来対応能力によるものです。このことは、将来に対応する能力を使わなければ、人間であっても生き残れないということだと思います。衣服を作り、家を作り、道具を作り、火を作り、言葉を作り、文字を作り、集団を作るだけではなく分業というシステムを作ることができたのは、人間だけです。過去と現在と未来を一つのキャンバスの上に置いて考えることが出来たから、生き残っているのです。
もしも、私達が想像力という能力を失えば、生き残ることは非常に困難になります。いや、多分、滅びると思います。
同じように、もし、私達が、無意識であったとしても、過去と現在と未来を同時に考えることを放棄してしまえば、生き残れないということです。
想像力を使えなくなれば、人間は生き残れないのです。
2000年前の人間社会と、1000年前の社会と、現在の社会は同じではありません。
21世紀の社会は複雑になり、個人でも国家でも、想像力の差が、生き残りを大きく左右する社会になります。これまで以上に、想像力の比重は重くなります。
想像力を意識して使う必要のある時代になったということです。

過去を変えることは出来ません。これは、人間だけではなく、神羅万象、あらゆることに共通するものです。時々、人間は、過去を、結果を、変えようとしますが、それは、出来ない相談なのです。
未来に、どんな結果が出るのかは、神様しか知りません。
しかし、人間だけは、それを想像することが出来るのです。それこそが、人間の価値なのだと思います。もちろん、神様だって、人間が想像力で創り出したものです。
ただ、想像力でしか得られない未来も、変える意思を持たなければ、変えられません。
未来は、現在と繋がっていますので、もちろん、現在の延長線上にない場合もありますが、少なくとも、現在の延長線上にある未来だけは変えることが可能です。未来の出発点である現在を換えれば、必然的に未来が変わるのです。どんなに頑張っても、現在の延長線上にない未来は、人間の力では変えることができません。
確かに、未来を変える力は限定的でしかありませんが、それでも、小さなことかもしれませんが、変えることは可能なのです。
人間には、その能力があります。それを捨てる必要はないと思います。
では、私達は、その想像力を十分に使っているのでしょうか。
もしも、悪しき未来が見えている場合、それを変えようとしているのでしょうか。
そうではないと思います。
つまり、今の私達は、悪しき未来に向かって、想像力を捨ててしまったかのように、突き進んでいるのです。
これは、持っている能力を使わない「愚か者」の所業だと思います。
想像力よりも強い力が働いているために、あたかも、想像力を使っていないような状態を作り出しているのだと思います。
皆さんは、意識しなくても想像力を使っています。だから、「不安感」が持てるのです。想像力がなければ、「不安感」なんて生まれません。
皆さんの想像力は正しい判断をしているのです。しかし、何故か、不思議なことに、その判断を「無かったことにする」判断をしているのです。これは、想像力を使っているということにはなりません。そこに残るのは「不安感」という残骸だけです。

では、なぜ、想像力で得た判断を「無かったことにする」という判断をしているのでしょう。
人間の価値を生み出している想像力でさえ、抑え込む力って何でしょう。
これは、私の勝手な判断ですが、皆さんの「下々」根性が、そうさせているのだと思います。
2000年という時間をかけて作り上げた「下々」根性は、それほど強いものなのだと思います。これが、「歴史と伝統」の力です。
「お上」には逆らえないという空気がある。
「我慢」「辛抱」「忍耐」が美徳だと言われている。
「分相応」「忖度」が当然だと思っています。
「騒ぎたくない」「目立ちたくない」「奥ゆかしいと言われたい」という消極性が良いことだという空気がある。
「黙っている人」が大人だと思われている。「騒ぐ奴は、軽い奴は、口数の多い奴は、人でなし」だと思われてしまう空気がある。
全て、空気です。
これ等のことは、もちろん、法律で決められているわけではありませんが、空気は、法律よりも強い強制力になることがあります。しかも、この空気は時空をも越える優れものです。
そして、何よりも、日本人は「いい人」が多い。
救いようのないほどの「いい人」です。
仮に、日本の歴史が2000年の歴史だとしてみます。
2000年間、皆さんは、ずっと、「下々」だったのです。
明治維新で、ほんの少しだけ、変化しました。
敗戦で、また、ほんの少しだけ、変化しました。
ただ、明治維新から150年であり、敗戦から76年です。とても、2000年の重さには敵いません。しかも、2度の変化は、あれほどの大変革だったにもかかわらず、意識の変化だけは「ほんの少し」でしかなかったのです。
皆さんの意識は、未だに、押しも押されぬ「下々」なのです。
「お上」が「歴史と伝統を大切にしましょう」と言うのは当たり前もしれません。「お上」は「下々」の存在があってこその「お上」なのですから、この仕組みは壊したくないと願っても不思議ではありません。
今回のコロナ騒動でも、このことは表面化しました。
それでも、皆さんは、「下々」意識を堅持しています。
「お見事」と言ってもいいくらいです。
皆さんは、この国が「ヤバイ」ことを知っています。将来、「ドツボに嵌る」ことを知っている人もいます。
それでも、「下々」の身分を守ろうとしているのです。身分を弁えるという意味では、世界最強の民族だと思います。
私には、理解不能ですが、皆さんが「馬鹿」に見えてしまいますが、多分、この評価は当たっていると思いますが、皆さんは、「下々」である自分を大事にしたいと願っているようにしか見えません。
多分、百万言を並べても、皆さんの意識を変えることは不可能なのだと思います。
だから、この国は壊れ始めていますし、この先も壊れ続けます。
皆さんの「下々」根性が、壊しているのですが、そのことには気付いていません。
そして、皆さんは、今まで以上に、「下々」でありたいと願っているように見えます。
きっと、そのほうが、居心地がよく、安心できるのではないかと思います。これが、「歴史と伝統」であり、2000年の重みなのだと思います。
歴史と伝統は、ほんとに、怖いと思います。
コロナ対応で、不満や不安や批判は山のようにあるでしょう。
でも、それを生み出しているのは、国民の皆さんだということに気付いているのでしょうか。多分、気付いていないと思います。もう、ほとんど、絵に描いたような「愚か者」の姿、それが国民の皆さんの姿です。実際に、「お上」に「自宅療養で死ね」と言われても、暴動を起こしませんでした。耐えることが自分の責務だと信じています。
この先、コロナ騒動なんて大した騒動ではなかったということに遭遇することになります。それも、国民の皆さんが、自ら招くことなのです。
日本人の得意技であり、日本人の美徳だと信じられている、苦しみや悲しみに耐え、誇りを持ってあの世に行くことが理想なのでしょうか。叩かれても、蹴られても、健気に耐え、また、立ち上がり、前に進んでいくドラマ「おしん」のように見えます。「おしん」は「下々」の鏡です。もちろん、ドラマでは、ハッピーエンドになりますが、現実では、そうはなりません。皆さんは「下々」でいたいと思っている自分に気付いていません。「下々」根性に染まり切っている国民の皆さんは、変人の私から見ると、集団催眠にかかっている「馬鹿集団」にしか見えません。
それでも。
それでもです。
私達のやることの大部分は間違いばかりですが、私自身のことを振り返って見ても、誇れることは何もありませんが、それでも、私達は、子供達の未来を守らなくてはならないのではないでしょうか。
皆さんは、皆さんのために変わるのではなく、子供達のために変わって欲しいと思います。
それが、大人の責務だと思います。
こんな文章しか書けないことが、言葉の定義がないことが、悔しいです。
不幸な人は一人もいない、なんて社会は作れません。
しかし、近い将来実現するであろう、ほとんどの人が耐え忍ぶしかない、不幸な人の集まり、という社会は間違っていると思います。
皆さんは、第二の北朝鮮になりたいのですか。いや、北朝鮮には、独裁者ですが、指導者がいます。日本は、それ以下の、自我と自我が衝突する修羅場になります。
そんな社会に、子供達を送り込んではいけません。
是非、子供達のために、考え直して欲しい。
「下々」を返上して、国民になって欲しい。
国民になるということは、国民の責務を背負うということです。
その通りなのですが、そろそろ、「馬鹿」を装うのはやめませんか。確かに、責務を抱えるのは厄介なことです。「俺には関係ねぇ」とか「俺のせいじゃねぇ」と言うのは楽です。でも、自分が楽をするために子供達を地獄へ送るのは間違っていると思います。
未来を生きる子供達を守るためには、想像力を使うしか方法がないのです。
意識して、想像力を使って欲しい。
心から、そう願います。


2021-09-04



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