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うやむや方式というお家芸 [評論]



新型コロナウイルスによる、世界の死者数が、50万人を超えて、増え続けています。
ここまで来ると、もう、立派なパンデミックです。
パンデミックのベスト10に名乗りを上げるかどうかは、今後の被害状況によりますが、可能性がゼロではありません。
ペストやコレラや天然痘等を除き、風邪症状のウイルスによるパンデミックは、ベスト10に3つ入っています。その死者数は、推定値ですが、スペイン風邪で約4000万人、アジア風邪で約200万人、香港風邪で約100万人です。ただし、季節性のインフルエンザでも毎年数十万人が死んでいますので、累計数からはベスト10の仲間だと思います。
新型コロナウイルスによる死者数が、スペイン風邪の4000万人を越えるという想像には少し無理がありますが、アジア風邪の200万人や香港風邪の100万人は越えるかもしれません。
新型コロナウイルスとの闘いは長期戦になると言われています。
世界規模でワクチン開発競争が行われていますが、完成したワクチンが有効なのか、危険な副作用がないのか、は今後の課題として残り続けます。
ところが、新型コロナウイルスの抗体は数カ月で消滅するという論文も出ているそうです。それは、抗体を人工的に作る目的でワクチンを打っても、数カ月しか有効期限がないということです。もしも、そうであれば、新型コロナは、1年中感染する可能性があり、1年間に数回のワクチン注射が必要だということになります。もしも、仮に、年に3回のワクチン接種が必要だとすると、年間3億本ワクチンが必要になります。それを保険適用していたら健康保険制度は破綻します。自己負担だとすると、私達貧乏人はワクチンと無縁になります。
以前にも書きましたが、ウイルスが変異してワクチンが効かないという可能性もあります。ワクチンに過大な期待を持つのは危険かもしれません。
新型コロナウイルスの致死率は、地域によって大きな差が出ていますが、世界全体では、約5%です。季節性インフルエンザの致死率が0.1%と言われていますので、5%という数値は決して小さくありません。かなり、強毒だと言えます。
新型コロナウイルスは、当初から、感染力が強いと言われてきましたが、空気感染の可能性を指摘する専門家が増えてきました。空気感染であれば、1メートルとか2メートルというソーシャルディスタンスは意味を持たないということです。もちろん、マスクも役に立ちません。中国が言っていたエアロゾル感染が現実に存在していると考えるほうが自然です。エアロゾル感染をあれほど早い時期に指摘した中国は、かなりの知見を持っていると考えられます。
もしも、空気感染やエアロゾル感染が現実のものだとすると、感染を防ぐことは難しくなります。ワクチンに期待できないとすると、新しい治療薬の開発や既存薬の応用を第一に考える必要がありそうです。

では、私達は、そんな新型コロナウイルスに、どう対応しようとしているのでしょう。
感染防止と経済再生を両立させようとしています。
この両立という言葉は、言葉としては、成り立つかもしれませんが、現実には、言葉遊びにすぎません。
何度も書いていますが、人間は「欲」でできています。その「欲」をフル回転させて維持してきたのが人間社会であり経済なのです。ところが、感染防止は、その「欲」を制限しようとするものです。感染防止も「そこそこ」、経済再生も「そこそこ」になるしかありません。これは、両方を守るのではなく、両方を壊すことになります。正に、今がその状態です。
両立という言葉を使えば、何かいいことがありそうな雰囲気がありますが、中途半端という言葉に置き換えれば、両立は命取りになる可能性があるのです。
私達に残された選択肢は、感染防止か経済再生の「どちらを選ぶか」というものです。
「欲」を封じ込めて経済を殺すのか、中途半端を選択し、じわじわと首を絞めるのか、「欲」をフル回転させて犠牲者を受け入れるのかを選ばなければなりません。ベストミックスという言葉は格好良く聞こえますが、「欲」から生まれている経済に関しては、現実には、そんなものは存在しません。

ある政治家予備軍の人が、「命の選別」に言及して炎上し、撤回・謝罪をしているというニュースがあります。撤回・謝罪するくらいなら、発信しなければいいのにと思ってしまいますが、不思議な人です。この方は、次の選挙で立候補するそうですが、老人票を捨てるような発言をする感覚が私には理解できません。私が「命の選別」を提唱しているのは、選挙に出るつもりが無いから言えるのです。
多くの方が、本音では「命の選別」を容認しています。しかし、綺麗事が大手を振って出てきます。「命」とか「平和」という言葉に逆らえる人はいません。しかし、現実は、それだけでは前に進めません。
「命」はあらゆるものに優先すると言われますが、私達がやっていることは、本当に「命」が最優先の行動をしているのでしょうか。
私には、言行一致しているようには見えません。
「命」は、どんな犠牲を払ってでも守るのですか。
いや、皆さんには、あらゆる人の「命」を守るために自分の生活を犠牲にする覚悟はあるのですか。そんなもの、ありませんよね。
私には、建前にしか聞こえません。
現に、経済的な苦境に立たされている人が大勢います。それだけではありません。そういう人が増え続けています。命を落とす人も出てきます。そういう人の命は大切ではないのでしょうか。「命の選別」を非難する人達は、そういう人を救えるのですか。あらゆるものを犠牲にしてでも命は守らなければならないのであれば、彼等を助けなければなりません。でも、誰も、そんなことはしません。そこでは、都合よく自己責任という言葉を使うのでしょう。「国が守ればいい。俺には関係ねぇ」と言うことも可能です。
誰も口には出しませんが、経済が大事、自分の生活が大事、老人が死ぬのは仕方がない。
老人を除く国民の大半はそう考えていますし、これも、当たり前のことです。
ある条件下では、命に軽重が出るのは仕方のないことだと思います。
あらゆることを犠牲にしてでも、もちろん、自分の生活も犠牲にするという意味ですが、どんな命でも守るのでしょうか。そんなことが出来る人はいません。
現実は綺麗事では方が付ないのが当たり前です。
当たり前のことなのに、「命」とか「平和」という綺麗事を持ち出すのは卑怯だと思います。あくまでも、「命」とか「平和」は理想であり、理想としてはあってもいいと思います。しかし、理想が常に善だとは限りません。ま、左翼の方の常套手段ですが、彼等も、この国を壊しています。この国は、発展途上国ではありません。衰退途上国なのです。このままでは、ずるずると衰退が進むだけです。左翼の皆さんも、左翼のメディアも、「自分さえよければ」という視野狭窄病に罹患していると思います。
言葉遊びが多すぎます。特に安倍政権では顕著ですが、それに対抗するように左翼の皆さんまでが言葉遊びに参加しているのです。言葉では何も解決しません。

新型コロナウイルスは、5%という高い致死率でありながら、死ぬのは圧倒的に老人が多いという特性があります。これは、新型コロナウイルスからの贈り物だと思います。新型コロナウイルスは、私達に一つだけ逃げ道を用意してくれていたのです。
当初から、この新型コロナウイルスの問題点は経済だと書いてきました。
こうなることは、最初からわかっていたはずです。
政府も、やっと、経済優先に舵を切ったようですが、手遅れになっていないことを祈ります。いや、もう、手遅れだと思いますが、傷が小さくて済むことを祈るしかありません。コロナ騒動による経済損失は、まだ、実感をしていない人が大半ですが、時間が経てば経つほど私達の生活への影響が出てきて、その傷の重さに驚くことになると思います。「GoToキャンペーン」で混乱していますが、「GoToキャンペーン」で何とかなるような経済損失ではありません。政治家の先生方も、そのことがわかっていないと思います。日頃の政治家の先生方を見ていると、国家経済を一番に考えている人達には見えません。いつものように、このドタバタを「欲」の視点で見てみると、「GoToキャンペーン」のカネは政治家の先生方の地元に落ちますし、中抜きも可能になります。選挙が近いという噂もありますので、ここは、票固めのためにも、無理を押してでも、強引に進めるしかなかったのかもしれません。動機は不純かもしれませんが、たかが「GoToキャンペーン」ですが、経済に舵を切る選択肢しかなかったと思います。
問題は、相変わらず、その手法が卑怯なものだということです。国民に丸投げして、「皆さんの自己責任で、何とかしてください」と言っているようなものです。「欲」をフル回転させて、初めて、経済は回るのです。しかし、政府は、「欲」を抑えて、「欲」をフル回転させて下さいと言っているのです。「欲」のベクトルは逆向きなのです。こんな方程式は成り立ちません。
国に果たすべき責務はないのでしょうか。「国とは」の定義がありませんので、こうなることも、予定の行動だったのかもしれませんが、これは、やはり、卑怯だと思います。世間は、国に「カネを出せ」としか言いませんが、この国にカネはありません。カネが出せない時には、首を差し出すしかありません。老人票を失ってでも、経済を守る道しかなかったのです。それが、国家運営だと思います。カネも出さない、首も出さない。国家運営者は何もせずに、「皆さんで、何とかしてください」というのは卑怯者のやることです。
残業代が減って、実質賃金が減りました。ボーナスが減って、更に、国民の収入は減りました。コロナの最前線で働いている看護師の皆さんが、転職を考えているそうです。ストをしている病院もあります。サービス残業は増えるし、ボーナスは減るし、中にはボーナスの支給は無いという医療機関もあります。医師として、看護師として、働くことは「命を削ること」だと感じています。
失業者も増えました。倒産企業も増えました。しかし、国家運営の迷走による影響は、まだ、始まったばかりです。これからも、負の症状は数多く出てきます。
貯えの無かった人もいるでしょうし、少ない貯えが底をついた人も企業も限界を迎える時期が迫っています。2年や3年くらい、収入が無くても何とかなるという人や企業はそれほど多くないと思います。
何としても、今日明日のカネを手に入れなくてはならない人や企業は、かなりの数になるものと思います。経済活動を再開すれば、当然、感染者は増えます。それでも、国民は生活費が必要なのです。
国も無い袖は振れませんので、休業要請は出来ません。地方自治体で支払い能力のある自治体は協力金を出すと言っていますが、自治体の協力金程度では会社も個人の生活も守れません。つまり、感染防止は国民生活を犠牲にしてくださいということです。得意の自己責任論ですが、いつものことですが、国民にとっては嬉しいことではありません。「国とは」という定義がないために、国民生活を守る意思も力量もこの国は持ち合わせていません。政治家の先生方は、本当に、必要なのでしょうか。いや、国民の皆さんは、どうして「国とは」という定義をしないのでしょう。ほんとに、不思議の国の国民です。
民主国家であれば、国は、国民に説明をしなければなりません。もっとも、私達の国は、民主主義風王政並立封建制度の国ですから、未だに「お上」による統治が生きているのですから、説明なんて不要だと考えているのでしょう。
今は、なし崩しに、曖昧に、何となく、責任の所在を明確にせずに、ずるずると、経済優先に舵を切っています。この「うやむや」方式は、いつものことですが、あまり、褒められる手法ではないと思います。その原因は、国の責務も国民の責務も、何一つ明確になっていないからです。数値目標は提示せず、「総合的判断」という言葉が役に立つということは、何事も曖昧の内に決めていいということです。いつもよりは少ないと思いますが、それでも、国民の皆さんは「ふむ、ふむ」と頷いているように見えます。
「うやむや」のままでは、多くの国民が不安を抱えたままでは、経済活動だって及び腰になってしまいます。経済活動は、全員が「欲」をフル回転させて維持してきたのです。
東京都も、夜の街と若者を、目の敵にしているような発表をしていますが、これも、大きな勘違いです。社会活動を、経済活動を、止めないのであれば、経済優先を選択するのであれば、感染することが当たり前なのです。
現実として、私達の社会は、経済活動をしなければ生きていけません。
これも、当たり前のことです。
誰かに文句を言っても、誰かをスケープゴートにしても、何も解決しません。
一言「老人の皆さん。犠牲になってください」と言うしかないのです。
感染者数で一喜一憂する風潮は、政府の「うやむや」方式が生み出しているのです。
もちろん、感染した人には、最善の治療をしなければなりません。しかし、もう、感染そのものを悪という捉え方はやめる必要があります。
国も、自治体も、そのことを国民に説明しなければなりません。
新型コロナウイルスが世界に拡散されると判明した1月の時点で、経済を優先しなければならないことはわかっていたはずです。死ぬ確率は圧倒的に老人が多いことも分かっていました。あの時点で、老人に「ごめんなさい」と言わなくてはならなかったのです。
人の命は大切です。そのことに異論はありません。
でも、命にだって軽重はあります。
大声では言いませんが、軽重があることは、誰もが知っています。老人だって知っています。だからこそ、世界の国々は、感染が終息していないのに経済再開へと舵を切ったのです。これも、当たり前のことです。それが、現実の人間社会です。
「命が一番」「平和が一番」と誰もが言います。その言葉に逆らえる人はいません。しかし、それを承知の上でやらねばならないのが国家運営という仕事です。国は、非難されようと、泥をかぶろうと、やらねばならない場合があるのです。「国とは」という定義がありませんので明確にはなっていませんが、国には目的があるからです。国の目的は、より多くの国民生活を守り、国を永続させることです。その原動力になってくれるのが若者と子供です。老人ではありません。子供や若者を守るためには、犠牲を出すことも選択しなければならない時があるのです。個人にとっては命に軽重はありませんが、国には命の軽重があるのです。実際に、オランダ政府は70歳ルールを作りました。医療機関が対応できなくなったら、70歳以上の方は治療を断念してくださいというものです。オランダの政権与党は、70歳以上の老人票を失うことになるのです。しかし、与党よりも、自分達よりも、国のほうが大事だと考えたのです。これが、国家運営だと思います。
現に、この社会を動かしているのは若者であり、将来、この国を動かすのは子供です。昔、姥捨て山に捨てられた老人は、そのことをわかっていたから、渋々ではあっても納得して山に行ったのです。
実際に、老人の私は、社会のために何も貢献していません。いや、逆です。年金・医療・介護で多くの方の税金や保険料を使っている身です。平常時であれば、それでいいと思いますが、今は、平常時ではありません。もちろん、年金・医療・介護をなくせと言っているのではありません。経済も社会もフル回転をさせていく中で、老人が、生き残りたいのであれば、生きていく知恵を出さねばなりません。若者が税金や保険料を支払えなくなったら、老人も生活できなくなるのです。老人は、経済に貢献できませんが、せめて、経済の足を引っ張るようなことをしない分別が求められます。これこそが「大人の対応」だと思います。「ふむ、ふむ」と頷くことが「大人の対応」ではありません。個人的に感染予防をし、社会の邪魔をしないことです。老人こそ、感染防止は自己責任だと割り切るくらいの協力はすべきだと思います。大富豪の方は別にして、老人は、経済活動、社会活動があってこそ、生きることができるのです。
今回のコロナ騒動でも、言葉の定義の欠落は迷走の大きな要素になっています。私達の国は、今、変わらねばならない時を迎えているのだと思います。


2020-08-04






うやむや方式というお家芸



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