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過去と現在と未来 [評論]



いつものことですが、「政治とカネ」「失言」で、政治が、自民党政権が揺れていますが、いつもと違うのは、統一教会騒動で国民の信頼感を失ったことが影響しています。
統一協会騒動は、安倍元首相銃撃事件から始まりました。被害者である安倍さんの事件で、自民党の暗部が世に出てきたのは、自民党としては「割に合わない」結果となりました。
しかし、1960年、日本社会党の浅沼党首が、演説会場で刺殺された事件以来のテロですから、半世紀ぶりの事件ですから、大きな波紋が生まれるのは仕方なかったと思います。
古来より、宗教と権力の結びつきは日常的に行われてきました。
日本の仏教も神道も、欧米のキリスト教も、中東のイスラム教も、そうです。
現在でも、政権を担う自民党と公明党も宗教と深い関係があります。日本会議と自民党、創価学会と公明党という関係は、権力と宗教の結びつきの一つです。
ただ、統一教会が宗教団体なのかと言われると、無条件に首を縦に振れない違和感があります。詐欺コングロマリットと呼んだほうが、しっくりとします。「カネ、カネ、カネ」は中国人の専売特許だと思っていましたが、韓国にも存在していたようです。
日本人は、皆さん「いい人」ばかりですから、日本人からカネを巻き上げるのは、赤子の手をひねるよりも簡単だったのかもしれません。統一教会の収入は、その7割から8割が日本人からの献金だったと言われています。「いい人」ではない私のところへは、勧誘に来てくれませんでしたが、勧誘されて信者になった皆さんは、例外なく「いい人」だったと思います。このことは、「いい人」でいれば幸せになれるという常識が間違っていることを、証明しています。先祖を供養し、子供を地獄に堕す人生が幸せな人生とは呼べません。その地獄に堕とされた信者の子供が安倍元総理を銃撃したことでも、明らかです。
今回の事件が起きるまで、自民党と統一教会は「なあ、なあ」「まあ、まあ」「持ちつ持たれつ」の関係を続けてきました。官庁は自民党に忖度し、腫れ物に触るような対応でやってきたのです。まさに、腫れ物ですから、破れたら、大量の膿が出てくるのは仕方ありません。
国民世論も、大変厳しいものになっています。
「宗教というぬいぐるみを着た韓国の詐欺集団に、自国の国民が、いいように喰い物にされていたのに、自民党は、国民生活よりも自分の選挙を優先させて、統一協会を利用していた」という点で、厳しい目を向けています。これは、「自民党は、ほんとに、国民を守ってくれるのだろうか」という疑心暗鬼を産みます。
当面、国政選挙はありませんので安心しているかもしれませんが、統一協会問題は、ボディブローのように効いてくるかもしれません。安倍銃撃事件は、一生に一度くらいしか遭遇することのない事件ですから、通常の記憶領域ではなく、別枠の領域に保管されると思いますので、その取り出しは容易にできます。これは、危険です。
右往左往する岸田さんに、この件を収拾する力があるのかどうか、自民党議員は固唾を飲んで見ていると思います。国民世論は、何よりも怖いです。自分の選挙に悪影響が及ぶことだけは避けたいと思っているのではないでしょうか。国が、国民が、どうなっても構わないが、自分の選挙にだけは影響しませんようにと祈っていると思います。

政治にとっての統一教会騒動は、「たかが」統一教会問題だと思いますが、それでも、揺れています。もちろん、統一教会問題を放置してもいいということではありません。しかし、この国が、国として、直面している最大の問題は国力衰退問題です。
そのことに、政治家も国民も気付いていません。
「統一教会を潰せ」の大合唱です。
統一教会を潰したら、国民の皆さんの生活は豊かになるのですか。
そんな問いは、誰からも出て来ません。
ほんとに、皆さんは、重箱の隅が好きなようです。
「おーい、重箱の隅に集まると危険だから、戻って来いよ」
「重箱から出てみようじゃないか」
という声は聞こえません。
報道では、「岸田政権の迷走」とか「窮地に追い詰められた岸田政権」という表現が使われますが、報道機関も、重箱の隅に移動しているようです。
「たかが」統一教会問題だと書きましたが、今日は、「されど」統一教会問題ということについて書きたいと思います。
なぜ、「されど」なのか。
それは、この国の課題と根っ子が同じだからです。
統一教会の教義は、「先祖供養をすれば、あなたは幸せになります」というものです。
日本の「お上」は、「歴史と伝統を尊重すれば、あなたは幸せになります」と言います。
歴史と伝統の象徴として、「お上」は皇室を利用します。これまで、宗教も国民統治に一役買ってきましたが、天皇も国民統治の手段として利用されてきました。天皇に代表される「お上」の利益を、「下々」は尊重し、守れと言っています。それが、歴史と伝統です。
これ、間違っています。
幸せになるのは、教祖であり、「お上」です。
学校給食でしか栄養の摂れない子供達が大勢いるのは、なぜ、ですか。
皇居の宮殿を建てたり、法外な議員報酬を出しているのに、「お上」は貧困家庭の子供達を救っていますか。「下々」は、四の五の言わずに「お上」に従うことが、日本の歴史であり伝統なのですか。違うと思います。
統一協会も日本の「お上」も、どちらも、未来や現在よりも過去を重視しています。
大事なのは、過去ではなく、現在と未来です。
過去を大切にすれば、未来は保障されるのかというと、そんな法則はこの世に存在していません。
確かに、未来は誰にもわかりません。神様にだってわかりません。だからと言って、未来を切り捨てていいのでしょうか。少しでも、未来の豊かな生活を可能にする努力が必要なのだと思います。全財産を献金した信者の未来が豊かになるとは思えません。
信者になった本人は自己責任ですから救えませんが、信者の子供達が犠牲になっているという問題が議論されています。
「信者の家族を救済しろ」という声が大きくなっています。
親が法外な献金をしたために、子供達は生活苦に喘ぎ、子供のバイト代まで持って行かれ、病気になる子供も自殺する子供も出ています。子供達は、未来そのものですが、宗教が子供達の未来を犠牲にしているのです。それも、教祖の「欲」と「カネ」のために。
つまり、過去が、現在と未来を喰い物にしているのです。「子供達の未来を守る」ことが大人の責務だと認識していれば、こんな馬鹿なことは起きません。
では、犠牲になっているのは、統一教会信者の子供達だけなのでしょうか。
いいえ。
この国では、不登校の子供が増え続け、いじめも増えています。満足に栄養が取れていない子供もいます。
もしも、この国の目的が「子供達の未来を守る」ことだとしたら、国も国民も責務を果たしていないことになります。
私達にとって大事なのは、現在であり、未来です。
決して、過去ではありません。
統一教会も、この国の国家運営も、同じ過ちを犯しているのです。
「先祖」だとか「歴史と伝統」だとか言っている両者は、同じ穴の狢なのです。
それは、この国に目的がないからです。「子供達の未来を守る」ことが目的であれば、現在の間違いは、誰の目にも見えることです。
統一教会問題は、日本社会のほんの一部分が壊れた結果にすぎません。その壊れた部分を繕っても問題は解決しません。幾千、幾万の弥縫策で現状を繕っても、何も解決しないのです。解決策があるとすれば、それは、目的と責務を明確にすることだと思います。私達は、「子供達の未来を守る」ために生きているのです。
人間が生み出した歴史と伝統と文化と宗教。
「良かれ」と思って生み出したものかもしれませんが、それらが人を傷つけている現状があることを、私達は認識しているのでしょうか。
歴史も伝統も文化も宗教も、人が生きていくことを応援し、見守ってくれるはずだったのではないか、という思いが拭えません。
きっと、「欲」という要素がなかったら、そんな方程式が成り立ったのかもしれません。
しかし、そんなふうにはならないのが、人間社会なのだと思います。
それは、人間の根源にあるものが「欲」だからだと思います。

元々、宗教と権力、宗教とカネ、は親和性が高く、すぐに結びつきます。そんな宗教団体を優遇する必要があるのでしょうか。現行法を再考する必要もあると思います。
統一協会だけではなく、どんな宗教でも、教義という「ぬいぐるみ」を着た詐欺師集団だと言っても過言ではないと思います。50年前の創価学会も、かなり乱暴な信者集めをしていました。もう、時効でしょうが、脛に傷はついています。
砂漠に一人、放り出された人間が、心の拠り所が欲しいから、宗教が生まれたと言われています。
砂漠でなくても、人間は孤独なものです。心の拠り所が欲しいと思うのは自然です。
しかし、それは、カネで買うものではないと思いますが、やはり、カネが物を言うようです。宗教は無償の愛ではなく、カネで買うもののようです。
宗教とカネ、宗教と権力、宗教と戦争、宗教と暴動、宗教と弾圧という歴史は山のようにあります。もちろん、宗教と心の平安も存在します。
どうやら、心の平安は、高くつくもののようです。
そうであっても、未来を壊すのは、間違っているように思えます。
自分の未来を壊すのは、その人の勝手ですが、子供の未来を壊すのは間違いです。
宗教云々以前に、子供の未来を守るのは、大人の責務だと思います。
信仰であれば、何でも許されるなんてことはないと思います。
戦前の反省から生まれた「信仰の自由」ですが、一度立ち止まって、「宗教って、何」を考える時期なのかもしれません。あのオーム真理教も宗教団体でした。宗教が大きく国民生活を壊した例は2度目です。無条件で宗教を野放しにするのは危険だと思います。
やはり、「言葉の定義」という文化が必要です。
完璧な定義はないのかもしれません。でも、何度でもやり直せばいいと思います。今は、何かを修正するにしても、定義されたものがないのですから、修正する元になるものがありません。「ああでもない、こうでもない」と言っているうちに、また、曖昧の中に溶けていくだけです。定義は、常に、メンテナンスし、時代に合った定義をすればいいのだと思います。
私達は、生き延びなければなりません。時代や未来を無視し、過去に縛られていたのでは、生き延びることは難しいと思います。
過去よりも現在、現在よりも未来を大切にする国であれば、生き延びることが可能になるかもしれません。
そんな国を作るのは、国民の皆さんです。
権力者は、権力者の利益を守るために行動するのです。決して、国民の利益のために行動することはありません。国民は、自分で自分を守るしかないのです。権力を持っていない私達が自分を守るためには、私達にも武器が必要です。私達は、銃は持てませんが、「言葉の定義」は持てます。「言葉の定義」であれば、銃刀法違反にはなりません。幸いなことに、この国には、まだ、秘密警察はありませんので、「言葉の定義」を持っていたとしても、拉致され、収容所に送られる心配はありません。
この国の未来を決めるのは、国民の皆さんです。
「お上」におんぶにだっこの時代ではないと思います。いや、「お上」の好き勝手を許していたら、皆さんがドツボにはまるのです。誰も信じてはいないと思いますが、「あちゃー」という日は、必ずやってきます。それも、それほど先の話ではありません。どうか、現在を見てください。未来を想像してください。皆さんには、今、過去を大切にするような余裕はありません。また、生活が楽になれば、過去に目をやることも必要でしょう。でも、今は、その時ではありません。


2022-12-01



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