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背に腹は代えられない [評論]



統一教会騒動で自民党が叩かれています。
どう見ても、自民党に非があるのですから仕方ありません。
しかし、国民目線で見ると、次から次へと、不祥事が出てくるのに、国民には自民党という選択肢しかありません。何と不幸な国なのでしょう。
統一教会騒動が終息したら、この国は繁栄するのですか。
統一教会の被害者を救済すれば、国民の生活は楽になるのですか。
違うと思います。
それなのに、国民の皆さんは、空気に流されて、本物の問題を見ていません。
将来不安は、大きくなる一方です。
ほんとは不安なのに、「太っ腹な人」を気取っている国民の皆さん、「物わかりの良い人」を演じている国民の皆さん、「ふむ、ふむ」「まあ、まあ」と言っている国民の皆さん、皆さんは愚かな政治家に協力して、この国を壊していることに気付いていますか。
もちろん、気付いていないから、やっているのだと思います。自分は正しいと信じているから、やっているのでしょう。では、皆さんの不安は、一体、何なのですか。「不安なんてない」と言えますか。自分自身を納得させられますか。
国力衰退が進んでいますので、近い将来、この国は壊れます。世界の最貧国になります。そんな未来を政治は先取りしているかのようです。世界最低の国になれば、モリ・カケ・サクラも統一教会も些細なことに過ぎません。汚職なんて、日常です。反社会団体との癒着も、常識です。いや、政府そのものが反社会団体になります。想像もできないかもしれませんが、国民の犠牲だけで成り立つ国になるのです。皆さんは、もう「下々」でもなくなります。「クズ」です。そんな未来が、刻々と近づいているのです。
壊れる時は、あらゆるものが壊れます。
国民の皆さん。
漠然と「ヤバイかも」と思っていますよね。
何となく、不安ですよね。
そろそろ、気付かなければ、責任を取らされるのは、皆さんです。それが、世界共通のルールです。例外はありません。

一連の反自民騒動は、いつまで、続くのでしょう。
マスコミは、新しい材料があり、視聴率が取れる間は、この騒動を続けます。
でも、そのうち、国民は飽きてきます。
視聴率が落ちてくれば、マスコミの騒動は終わります。
マスコミは正義のために報道しているのではなく、当たり前のことですが、利益のために報道をしているのです。ワイドショーでは、正論や義憤がふんだんに出て来ますが、視聴率のための演出です。商売ですから、当然です。視聴率が落ちれば、止めます。
ただ、今回の騒動は、中々鎮静化しません。売り上げ減少に苦しむテレビ業界にとっては、願ってもない騒動が起きてくれました。密かに、統一教会に感謝しているかもしれません。これまでは、テレビ局のスタジオが舞台でしたが、10月から、舞台は国会に移り、茶番劇は継続されます。本当は、国力衰退を阻止する議論をやって欲しいと思いますが、そんな舞台にはならないと思います。与党も野党も、国民生活のための仕事を、全く、しません。与党も野党も、やっていることは「自分さえよければ」です。
今回の騒動の始まりは、安倍銃撃事件という、これまでになかった事件が発端ですから、インパクトが強かったことで、75日では収まりません。
しかも、パート2として、銃撃犯の犯罪動機になった統一教会が表に出て来ました。
それだけではなく、国葬が、パート3になってしまったのです。
そのオマケとして、五輪汚職まで、彩を添えてしまいました。
まさに、火に油を注いだのですから、鎮静化には時間がかかります。
ただ、時の神は、自民党を助けました。
もし、あの銃撃事件が、昨年の衆議院選挙の時に起きていたら、今年の参議院選挙で、自民党は大敗していました。自民党には、まだ、3年の時間があります。国民の関心は、3年も続くことはありません。
そして、いつものように、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界になります。
マスコミの中には、選挙制度に問題があるという指摘もあります。
選挙制度に問題があることは、過去に、何度も指摘しましたし、何度も提案をしました。もっとも、私の提案は無茶苦茶な提案ですから、「ふむ、ふむ」と頷いてくれた人はいなかったかもしれません。それでも、選挙制度に問題があることは確かです。
では、選挙制度を変えれば、この国は変わるのでしょうか。
変わりません。
自民党が統一教会との関係を絶てば、この国は変わるのでしょうか。
変わりません。
総理大臣を替えれば、この国は変わるのでしょうか。
変わりません。
政権交代が起きたら、この国は変わるのでしょうか。
いいえ、変わりません。
そんなことは、皆さん、知っています。
しかし、国民の皆さんは、誰一人、このままでいいとは思っていません。
ただ、どうしたらいいのか、さっぱり、わかりません。
ずるずると、「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続けるしかありません。
今が、高度成長期にあるのであれば、何の問題もありません。
しかし、今は、国力衰退期なのです。
当然、皆さんの生活に影響します。
それを、放置しておいていいのですか。
今は、藁でも掴まねばならない時なのではありませんか。

これは、政治家の問題ではなく、宗教法人の問題ではなく、銃撃犯の問題でもありません。宗教って、何ですか。個人の生活を壊す宗教でも、宗教なのですか。百歩譲って、そんな宗教でも宗教だとしてみましょう。それでも、今回の問題は、信仰の問題ではありません。政治が、宗教が、犯罪者が、好き勝手にやっていることが問題なのです。
それは、原則が欠如しているから起きていることです。「目的」と「責務」が明確になっていないことが問題なのです。
信仰は個人の自由です。個人の自由ということは、責任を取るのも個人だということです。人権派弁護士の皆さんは、被害者の救済を声高に言います。彼等は、国が救済しろと言います。それは、税金を使えという意味です。もちろん、信仰した当人の家庭が崩壊し、家族が路頭に迷ったのであれば、その家族を救済する必要はありますが、その時は、保護責任遺棄の罪で、信仰した当人を逮捕して裁く必要がありますし、献金を強要した宗教法人も裁かねばなりません。
個人にも、宗教法人にも、国にも、それぞれの「責務」があるのです。
しかし、今は、その「責務」が、どれも曖昧なままです。
必要なのは、国民の責務、法人の責務、国の責務の明確化です。
先程、選挙制度を変えても、統一教会との関係を絶っても、総理大臣を替えても、政権交代が起きても、何も変わらないと書きました。
それは、この国に「目的」と「責務」がないからです。
銃撃事件を起こした容疑者の母親には、家族を守る責務があったのです。しかし、母親は、信仰を理由にして「自分さえよければ」をしていたのです。同じように、安倍銃撃事件も、統一教会騒動も、国葬騒動も、五輪汚職騒動も、全て、「自分さえよければ」の結果です。それは、誰も、自分の責務を知らなかったからです。

薄々としか感じていないかもしれませんが、私達は、ドン詰まりの場所にいます。
先が見えません。
何をすればいいのかも、わかりません。
立ち往生の状態です。
そんな国に住む私達は、国力衰退というトレンドの上を前に進んでいるのです。
国力衰退の先に、どんな結末が待っているのか、いい加減、理解する必要があります。
「俺には関係ねぇ」なんて言える人は、一人もいないのです。
では、私が提案している「言葉の定義」をすれば、光が見えるのでしょうか。
それは、わかりません。
国民の皆さんが、どんな定義をするかで変わります。
定義次第です。
光が見えることもあるかもしれませんし、何も変わらないかもしれませんし、状況が悪くなるかもしれません。
ここで、重要なのは、光が見える可能性があるということだと思います。他に、根っ子に踏み込んだ提案がありませんので、可能性そのものがないのですから、多少でも可能性のある提案は、検討する価値があると思います。ただ、可能性ですから、そうならない場合もあることは否定しません。
皆さんは、どんな定義をするのでしょう。
どうか、自分で考えてください。
皆さんは、大きな声を出す人に影響される性癖を持っています。
特に、「お上」の声には、弱い。
でも、この国の主人公は皆さんです。皆さんは「下々」の一人ではありません。
それは、皆さんが、責任者だということです。
最後に責任を取るのは、皆さんです。
皆さんが、言葉の定義をすれば、そのことも見えてきます。
これまでの曖昧な世界が、「お上」と「下々」という世界が、「なあ、なあ」「まあ、まあ」の世界が、不思議だと感じることができます。
自分の、家族の生活を守ることが一番です。もちろん、「自分さえよければ」をやればいいと言っているのではありません。これまで、「お上」だけが「いいとこ取り」をしてきました。皆さんが、同じように「いいとこ取り」をすれば、何も変わりません。
結果的に、自分の家族を守れる社会を作るために、何が必要なのかを考えてください。
皆さんには、自分の生活を守る権利がありますが、と同時に、自分以外の人の生活を守る責務もあるのです。それが、責任者の責務です。
皆さんにとっては、初めての経験だと思います。
「下々」のままのほうが楽だと思います。
それでも、やらねばならない時が来ているのです。
それは、背に腹は代えられないからです。


2022-10-04



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