SSブログ

想定外を想定内に [評論]



世界各地で水害や旱魃の被害が増えています。日本も、です。
災害に遭遇した人は、「まさか、こんなことになるなんて」「こんなの初めて」と言います。災害とは、そういうものです。それでも、災害は起きます。そして、人々は、次も、「まさか、こんなことになるなんて」「こんなの初めて」と言います。
それは、私達の生活の時間軸と災害の時間軸が違うことから起きている勘違いです。
その時間軸を調整する仕組みがないと、この勘違いは無くなりません。
そのためには、「自然災害」という言葉を定義することが必要です。
時間軸、被害の規模、その個別の対応を明確にする必要があるのだと思います。
特に危険な要素があるのが大規模災害です。難しいことだとは思いますが、事前対応という仕組みが生まれなければ、大規模災害に対応できないと思います。
水害による被害は死者数も少なく、泥をかきだしたり、掃除をすることで復旧することが可能です。手間や出費は増えますが、生きてさえいれば、元の生活に戻ることは可能です。
しかし、大規模災害では、そうはいきません。
生活そのものが根底から崩れる可能性があるのです。
一口に「自然災害」と言っても、ピンキリです。
そのピンキリが認識されずに、全部ひっくるめて「自然災害」と呼ぶことに問題があるのではないでしょうか。
大規模災害に対しては、事前対応が不可欠なのだと思います。
では、将来の災害に対して準備万端を心がけていれば済むのでしょうか。
「そんな心配していたら、生活ができない」と言います。
その通りです。先ずは、日々の生活です。
では、災害に対して準備をしなくてもいいのでしょうか。
それも、違います。
地球そのものが変動期に入っていますので、今後も災害は頻繁に起きると思われます。
水害や旱魃だけではなく、巨大地震や火山噴火も予測されています。庶民にとっては、戦争だって災害と同じです。
ですから、事前対応は、必要だと思います。
では、将来の災害に対する事前対応とは、何でしょう。
自助努力しかないのでしょうか。
もちろん、自助努力は不可欠です。
ただ、漠然とした自助努力という言葉だけでは、災害に対応することは無理です。
いつも、言葉は踊りますが、明確な目標はありません。
災害対応でも、「曖昧」という土台の上にあります。
確かに、曖昧は心地よいものです。でも、災害で被害を受けるのは国民の皆さんです。
「自然災害は、仕方がない」のでしょうか。
一度、災害について、深堀をしてみる必要はないのでしょうか。
私達は、災害に対処するために生きているわけではありません。先ず、現実の生活が優先します。ただ、何もせずに災害に直面するよりは、充分ではないとしても、日常事として、災害を捉えていれば、少しは被害を小さくすることができるかもしれません。
そのためには、意識と行動が必要です。
行動は、意識から生まれます。
そして、人間の意識は、風潮から生まれます。世間が騒いでいれば、何となくであっても、考えるものです。そういう意味では、国民に対する広報や啓蒙活動は不可欠だと思いますが、政府は積極的ではありません。「国民生活を守る」ことが政府の最優先課題であれば、本気で、広報に力を入れる必要があります。「みだりに、不安を、増長する」なんて言い訳は何の役にも立ちません。ただの、先送りにすぎません。
「1カ月分の水と食料と医薬品は備蓄してください」と広報し続ければ、政府のお願いに従順に従う日本人であれば、100人の内、10人くらいは実行してくれるかもしれません。今は、医師会の都合で投薬は4週間分しか処方されませんが、備蓄分を考えて8週間分を処方するようにすれば、今よりも備蓄薬品は手元に残ります。些細なことですが、些細なことの積み重ねが必要なのだと思います。
では、自助努力しか方策はないのでしょうか。
そうではありません。
国が対応策を持つことです。
そのためには、国の責務を明確にすることが必要です。国の責務が「国民生活を守ること」であれば、これは、明らかに、国の仕事です。
国民は、何のために税金を支払っているのでしょう。
それは、国民生活を守る仕事をするためには、カネが必要だからです。
税金は、2000年間、存在しています。
ですから、私達にとっては、税金は「当たり前」になっています。
では、国民生活を守るという目的は「当たり前」なのでしょうか。
いいえ、目的は曖昧になっています。
個人の力では及ばないことでも、多くの国民の税金を投入することで、大規模災害の被害を小さくすることは可能なのではないでしょうか。
自然災害は防ぐことは出来ませんが、災害後の生活破綻を救うことは出来ます。
理想論に過ぎませんが、国民と国が共に努力することで災害の被害は小さくできるのです。
今は明確になっていませんが、それが、国の責務であり、国民の責務なのだと思います。
特に、巨大災害の場合は、このことが重要になります。
何度も書いていますが、東南海地震や首都直下地震や十勝沖地震などは、事前対応が明暗を分けることになります。
今のように、何もかも「ごちゃ混ぜ」の災害に対応するのは難しいと思います。
「災害」という言葉を定義し、災害の種類を明確にし、災害の等級別に定義を整理し、それぞれの災害対応に関する責務を明確にすることが必要なのだと思います。
水害による床下浸水と東日本大震災の津波被害を同一視できないことくらい、誰にもわかります。この国には、「激甚災害」というシステムがあるのですから、できないことではありません。「激甚災害指定」が補助金支給のための線引きとして使われている現状は、とても、曖昧なシステムだと思います。
国は、責務が明確になることを嫌います。国家運営に従事する人が責務の明確化を嫌うのは、責任問題が前面に出てくるからです。ですから、彼等は、出来る限り責任を取らないようにと動くことになります。国家運営者にとっては、曖昧がベストなのです。自分達の「匙加減」でどのようにでもなる統治方式がベストなのです。国としての目的などあってはならないのです。目的が明確であれば、当然、責務に焦点が当たり、曖昧が薄れていくからです。何事も「なあ、なあ」「まあ、まあ」が最適であり、それが「歴史と伝統」という名で正当化されてきたのです。
もちろん、国が、国民が豊かになるのであれば、「曖昧」でも「歴史と伝統」でも、一向に構いません。しかし、この国は、今、国力衰退に直面しているのです。
「歴史と伝統」、これって、国民のために存在するシステムなのでしょうか。国民は、「お上」のお達しに従うことが責務なのでしょうか。今のような国力衰退が進行する時代に、「お上」に「おんぶにだっこ」で何とかなるのでしょうか。
国民の皆さんが気付くしかないと思います。最終的に責任を取るのは国民の皆さんです。どうか、そのことに気付いて欲しいと思います。

東南海地震の被害想定は、何度も変更されています。今後も変更されると思います。
地震動による被害、津波による被害は、対応が困難です。
私達にできることは、地震発生後の被害を減らすことなのではないでしょうか。
その時に必要なのが、想定外を想定内にすることだと思います。
文字数の関係で、停電の被害想定だけを書きますが、2700万軒が停電するそうです。
ただ、これは、あくまでも、想定内の被害であり、想定外の被害は含まれていません。
数年前に、台風の直撃を受けた千葉で停電が発生し、その復旧に20日間かかったことがありました。多分、復旧期間の想定は、数日だったのではないでしょうか。台風被害だけで、20日間も停電したのです。仮に、想定外の停電が1300万軒あり、復旧に6カ月間かかったとすると、約8000万人の人が、電気のない生活を強いられることになります。
ミクロの視点で見ると、被害想定には書かれていない被害が生活を逼迫させます。
被災地で、小さなスーパーを経営していたAさんがいたとします。家族は、4人。従業員はパートの主婦が2人。6人の人が、このスーパーで生活を支えていたとして、彼等の生活はどうなるのでしょう。幸い、店舗の倒壊は免れましたが、修理・補強工事は必要です。では、商売の元になる商品は配送されるのでしょうか。売るものがなければ、商売はできません。しかも、停電ですから、電気を必要とする商品は扱えません。Aさんと家族、パートの人は、収入がなくなるのです。
地震による経済的な直接被害額は約200兆円とされていますが、想定外の、連鎖被害が300兆円だと仮定すれば、1年分のGDPが失われることになります。
東南海地震は、阪神大震災や東日本大震災の10個分の被害が想定されています。
その復旧・復興には、数十年という時間が必要です。
そんな体力が、この国にあるのでしょうか。
借金をすれば、何とかなるのでしょうか。
例えば、政府が復興資金として、500兆円の国債を増発したとしましょう。
誰が、その国債を買ってくれるのでしょう。
国が国債を買い戻してくれる当てはありません。利息だって支払ってくれるかどうかわかりません。そんな危険な商品に投資をしてくれる人はいないと思います。
それは、東南海地震が起きたら、この国は破綻するということです。
借金が出来なければ、振る袖が無いのですから、国が国民生活を守ることはできません。国民の皆さんは自力で立ち上がるしかないのです。

想定内と想定外の話題を追加しておきます。
プーチンの核恫喝とバイデンの弱腰が世界を震撼させました。
では、アメリカとロシアが核戦争を始めたら、どんな被害が出るのか。
その規模により、犠牲者の数は様々だと思いますが、数千万人から数億人の被害が想定されているのではないかと想像します。これが、想定内の数値です。
しかし、想定外の数値が出て来ました。
ラトガース大学の研究チームが発表した被害は、50億人の犠牲者です。世界人口の半数が犠牲になるのです。その根拠は、煤煙です。核爆発で生じた煤煙が大気を覆い、日光を遮ることで農産物の生産が壊滅的なダメージを受け、世界的な飢饉による犠牲者が、核爆発による衝撃や熱風被害よりも多くなると予測したのです。これが、想定外の数値です。
もっとも、発表された後は、もう、想定外の数値としては扱われませんが、想定されていない状態であれば、50億人という数値は出て来ません。

想定外を想定外のまま放置するのは大変危険です。
東南海地震や首都直下地震や十勝沖地震という大規模災害については、想定外を想定内にする作業が不可欠だと思います。


2022-09-03



nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:blog