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埼玉県の少年の命 [評論]



1月に、埼玉県で、ある15歳の少年が死亡しました。
「またか」という事件がよく起きます。
この事件も、この国の社会崩壊が始まっていることを示す「氷山の一角」だと思います。
母子家庭だったようですが、母親の交際相手だという男が同居し、その男にも子供がいたようで、大人2人と子供8人の大家族だったそうです。長男だった少年は、子供達の面倒を見ていて、学校へは行っていません。
江戸時代であれば、こんな家族は当たり前だったと思います。
私は、何度も、この国は平安時代に戻ると書いていますが、既に、この国は、時間を逆回しにして、江戸時代に戻りつつあるということなのでしょうか。
国民を大事にしない、子供を大事にしないことが、当たり前に感じられる社会になろうとしています。
「ヤングケアラー」という言葉が、最近、散見されます。
この少年もヤングケアラーだったようです。
ワードで一発変換ができないということは、かなり、新しい言葉なのでしょう。
18歳以下の子供が、家族の世話をみるために、学校へは行かずに介護に専念している子供達のことを指す言葉だそうです。家族の中に、介護を要する老人や障碍者や子供達がいる場合、長男や長女がその介護を引き受けるというケースが多いそうです。
埼玉県の少年は、どうだったのでしょう。
彼の場合、兄弟の面倒を見るという介護を引き受けていただけではなく、母親の交際相手である男からの虐待にも耐えていたようです。
少年は、ヤングケアラーだっただけではなく、虐待の犠牲者でもあったのです。
そんな仏様のような少年が、仏になってしまったのだとすると、やりきれません。
ところが、中学生の17人に1人は、ヤングケアラーだというデータもあります。
少年の母親(38歳)も学校には行っていなかったそうですから、これは、この少年だけの問題ではありません。
この事件は、社会が病んでいるということであり、国が病んでいるということだと思います。
私達の国は、時代を逆行するような国でいいのでしょうか。
私達は、子供達の未来を食い荒らしているだけではなく、子供達の今をも食い荒らしているのです。どうして、こんな国になってしまったのでしょう。
このままの国でいいとは、とても、思えません。
この事件に対するメディアや国民の皆さんの反応は、行政批判と「可哀そう」と犯人捜しが多いと思います。もちろん、何も感じない人だっているのですから、怒ったり悲しんだりすることは必要です。
でも、それだけでいいのでしょうか。行政を批判していたら、涙を流していたら、犯人が捕まれば、それでいいのでしょうか。
違うと思います。
根っ子を変えなければ、この国は、どんどん、時代を逆行します。
これは、特定の誰かのせい、なんかではありません。誰が総理大臣になっても変わりません。実際に30年前から、もう何人も総理大臣が変わりましたが、何一つ変わっていません。と言うことは、国民の皆さん、全員の問題なのだと思います。国民の皆さんが、変わることでしか、このトレンドは変わらないのだと思います。
どうして、そういう視点が生まれないのでしょう。
ほんとに、不思議でなりません。
傍観者として「ああだ、こうだ」と言っているのが一番楽ですが、誰もが、いつかは、傍観者だと思っていた自分が当事者になる日が来るのです。
自分を守りましょうよ。家族を守りましょうよ。子供達を守りましょうよ。社会を、国を守りましょうよ。私達は、この社会で生きていくしかないのです。

警察が虐待の疑いで児童相談所へ通告した子どもの数は、10万件を超えています。警察事案になる虐待は一部のケースだと言われていますから、実際に虐待されている子供は、この何倍にもなると思います。児童虐待が褒められるようなことではないことは誰でも知っています。しかし、国民運動にはなりません。国民の総意で子供達を守ろうという意識は、この国には存在していません。それは、この国に目的がないからです。
もしも、仮に、皆さんの目的が「子供達の未来を守る」ことだったら、この事件は看過できないと思うのではないでしょうか。行政批判や「可哀そう」や犯人捜しよりも、「なぜ」という疑問が先にあったのではないでしょうか。
確かに、ひどい親はいます。「子供の未来なんて、知るか」と言う親もいると思います。それでも、世間が「子供達の未来を守る」ことを目的としていたら、親の好き勝手は、少しは緩くなるかもしれません。
国に目的があれば、この事件の少年が助かったかどうかはわかりませんが、何もないよりは、助かる可能性は高くなっていたのではないかと思います。
大人の虐待で死ぬ子供が後を絶ちません。
自殺をする子供もいます。
この風潮は、50年前にはなかったのではないでしょうか。
これは、国民の皆さんへの警告だと思うのです。
このままだと、「皆さんも、地獄へ堕ちることになりますよ」という警告です。
私達は、私達の国は、何かを間違っていると思うのですが、誰も「なぜ」と言いません。誰も原因を見つけようとしませんから、何が間違っているのかもわかりません。確かに「見て見ぬふり」をしていても罪には問われません。でも、「明日は我が身」だとは思わないのでしょうか。「俺に限って」「私に限って」と思っているのだとすると、それは勘違いです。日本の相対的貧困者は2000万人だと言われています。彼等も、かつては、「俺に限って」「私に限って」と思っていたのでしょうが、貧困層の仲間入りをしました。これが、現実です。

岸田政権の「新しい資本主義」は、未だに、その全貌が見えませんが、見えている範囲で想像してみると、1つの箱の中に、あれもこれも、見境なく、詰め込んだ福袋のような政策のようです。そこには、思想も、寄るべき理念もなく、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる的な、自称「新・政策」があるだけの「ごった煮」に見えます。何が新しいのか、全く見えてきません。この福袋的思考は、平成ではなく、昭和の臭いがします。
エコノミストの皆さんが何も言いません。このことは、評価のしようがない、と言っているようなものです。専門家でも、どう評価すればいいのか、よくわからないのだと思います。
岸田政権は、6月に全貌を明らかにする、と言っていますが、なぜ、6月なのでしょう。選挙日程に合わせた選挙対策なのではないか、と思ってしまうほど、不思議な政策です。
もしかすると、岸田さんは「アベノミクス」に対抗するために、政策の数で勝負しようとしたのでしょうか。「アベノミクス」と張り合っているようでは、日本再生は夢のまた夢です。取り返しのつかない後遺症を残してしまったアベノミクスですが、岸田さんは、更に大きな後遺症を生み出そうとしているのかもしれません。
岸田さんの念頭には、埼玉県の少年や、ヤングケアラーのことはあるのでしょうか。
岸田さんは、話を聞くのが特技だそうですが、この事件の話は聞いていないのでしょうか。話を聞くだけなら、私にだって出来ますが、彼の特技は特技なんでしょうか。
どんな問題意識を持っているのでしょう。岸田さんは、どうやって「子供達の未来」と「子供達の現在」を守ろうとしているのでしょうか。
何も考えていないのではないかと思えてなりません。
何度か、テレビで「新しい資本主義」についての政権幹部の方の話を聞きましたが、その政策の芯にあるのは「れば、たら、もし」の山でした。政権幹部の方は、政策の数の多さを自慢げに話していました。救いようがありません。
百歩譲って、無理矢理ですが、仮に総理大臣の目的が「子供達の未来を守る」ことだったと仮定してみましょう。例えば、ヤングケアラー問題が社会的な大問題になった時は、どんな政策を打ちだすのでしょう。給付金の話が出て、一件落着だと思います。与党も野党も、思考停止になっていて、ばら撒き政策しか思いつかないのです。
結果を変えることに汲々とし、根っ子を変えるという発想は、全く、ありません。
私は、何度も、この国には目的が必要だと書いています。
目的は、どこかから、突然、ポンッ、と出てくるようなものではありません。
目的は、国の責務と国民の責務を明確にして、初めて生まれるものです。
責務が曖昧なままで、「子供達の未来を守る」ことを目的にしても意味がありません。
なぜなら、目的を担保する責務がないのですから、スローガンに過ぎないのです。
この国の国家運営を請け負っている皆さんは、スローガンやそれなりの政策らしきものを提示しておけば、国民は「いい人」ばかりですから、「ふむ、ふむ」と頷いてくれることを知っています。最終責任を取る国民が「ふむ、ふむ」と言ってくれるのですから、こんなに心強いことはありません。国家運営者と国民のこの見事なほどの連携があって、この国は、ずるずると、衰退しているのです。

政治家の力で国を繁栄させることはできませんが、政治家は頑張る国民を支える環境を創り出すことは出来ます。私のような個人には出来ませんが、国は、国民に働きかけて、国民自らが、目的を作り、責務を明確にするように誘導することも、可能です。
自分の権力欲や金銭欲は、一時的に棚上げにして、国民のために働く集団になって欲しいと思います。国が再興できれば、また、権力とカネに執着する政治家に戻ればいいのです。少なくとも、今は、強欲を封印する時だと思います。
ただ、政治家に自浄能力を求めても、何の効果もありません。
人間であれば、「欲」に負けるのは当たり前です。特に、政治家の欲は、半端ではなく、「強欲」と呼んでもいいような欲です。自浄能力の出る幕はありません。必要なのは、国民が原則を見つけることです。それが、国の責務であり、国家運営の定義と国会議員の責務なのだと思います。
国民の皆さんは、国会議員をお偉い先生だと思っているかもしれませんが、政治家は、国民の外注先の社員にすぎません。その外注先を指導する責務を負っているのは、主権者である国民の皆さんです。この国は、政治家主権国家ではありません。
政治家が、国民生活を顧みることもなく、自分の利権ばかりに走っている現状を変える責務を皆さんは負っているのです。どうか、そのことに気付いてください。
放置すれば、埼玉県の少年のような事件は、この先も起きます。
と言うことは、埼玉県の少年や、ヤングケアラーを生み出しているのは、政治家を野放しにしている国民の皆さんだということです。行政批判や「可哀そう」や犯人捜しをしている場合ではないと思います。行政批判や「可哀そう」や犯人捜しで終わらせていたら、いつか、自分の番がやってくるのです。
しかし、国民の皆さんは忙しい。個別の案件ごとに外注先を指導していたのでは、切りがありませんし、埒があきません。その通りです。
彼等の行動基準を変える原則を見つけるしかないと思います。
そのためには、先ず、皆さん自身が変わることが必要なのです。
国民の皆さんが動かなければ、何も変わりません。
この国は、国民の出番が必要なほど、重篤な病に罹患しているのです。
大人の皆さんが、埼玉県の少年や、ヤングケアラーというドツボにはまることは、年齢的にみて、ないでしょうが、違う形でドツボにはまる日がやって来ます。

なぜ、どうして、野党の政治家は、埼玉県の少年や、ヤングケアラーのことを放置しているのでしょう。埼玉県には、野党の政治家はいないのでしょうか。ヤングケアラーは、全国規模で存在していると思いますが、そこにも、野党の政治家はいないのでしょうか。野党の国会議員には、国民生活を守る責務はないのでしょうか。「子供達の未来を守る」ことは、彼等の目的ではないのでしょうか。
いつも、国会議員は、国民の代表だと言っていますが、ほんとに、国民生活を見て、国民の代表をしているのでしょうか。とても、そうは、思えません。
国が衰退し、国民が貧しくなっているのに、彼等は、ただただ、自分の選挙のことしか考えていません。7000万円もらえれば、それで、いいのでしょうか。
野党の政治家の皆さんは、本気で、国民生活を守りたいと思うのであれば、自民党と向き合うのではなく、国民と向き合わねばならないと思います。政権を取りたいのであれば、有権者である国民と向き合うしかないのに、自民党の粗探しばかりです。自民党を非難していれば、歳費が手に入るから、それでいいのでしょうか。
国民の皆さんは、どうして、こんな役立たずに、一票を入れるのですか。
野党政治家だけではなく、国家運営を委託されている人達は、誰も、国民生活を守りません。
だから、子供達が命を失っているのです。
「国家運営って、何ですか」
「国会議員って、何なんですか」
必要なのは、原則だと思います。
政治家だけではなく、いや、クズのような政治家だけではなく、国民の皆さんまで、「自分さえよければ」「今さえよければ」をやっていれば、今の日本のようになるのです。このドン詰まりを抜け出すためには、国民の皆さんが「俺には関係ねぇ」をやめるしかないと思います。皆さんは、この国の最終責任者なのです。埼玉県の少年の命も、皆さんの手中にあったのです。
皆さんは、他人事のように、行政批判や「可哀そう」や犯人捜しをしている場合ではありません。これは、皆さんの自分事なのです。明日は我が身なのです。この国の、このトレンドを変えなければ、形は違うかもしれませんが、皆さんも同じような理不尽に出会うことになります。
どうか、そのことに、気付いてください。


2022-04-05



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