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記事紹介 09 [記事紹介]



7/19付、JBPRESSの記事の後半部分を抜粋して紹介します。
著者は田中正知氏。
「原発事故、大津いじめ事件、波風を立てない組織の大罪」
です。


大津の自殺事件の背後にあるもの
 この原稿を書いている傍らで、テレビが大津の中学生の自殺事件にまつわる報道をしています。筆者にも中学生の孫がいるので、他人事ではなく、心を痛めています。
 報道では中学校や教育委員会がやり玉に挙がっていますが、中学校を原子力発電所、教育委員会を原子力保安院などの取り締まり当局と置き換えてみると、その原因はまさに「国会事故調」の報告書にある通りです。規制する側は教育村の先輩であり、規制される側は後輩です。全く同じ構造であることが分かります。
 これに加えて、教諭という職業には特異性があります。業務内容は、文科省のマニュアルに沿って、4月の入学式から始まり3月の卒業式まで教える相手が入れ替わるだけで、毎年同じことの繰り返しとなります。
 さらに、教諭は就職した翌日から教壇に立ち、教え方には校長でも口を挟めません。身分は保障されていて、生徒のスカートの中を盗み撮りしてもクビになりません。説明会で「子供が死んでいるんだ! 黙祷くらいせんかい!」と父兄が怒声を上げたという背景には、教育村があまりにも世間離れした存在になっているという事実があります。
 今後、本稿で言う【B】のやり方、すなわち仕組みを変え、人を変える対策が打たれると思いますが、そこに加えてほしい改革の1つは、「ようこそ先輩」というテレビ番組にあるように、ラーメン屋の大将から科学研究者まで、世間の風にさらされて頑張ってきた「人生の達人」たちを、20~30%学校の職員室に入れ、価値観の多様化を図ることです。学校は職員室から変わっていくというのが筆者の考えです。

「自分の命が一番大事」と教える教育は正しいのか?

話が前後しましたが、マスコミのいじめ報道では「何があっても自分の命が第一」「命の大切さを子供たちに教えよう」という論調で終始しています。筆者はこれに強い違和感を覚えます。
北朝鮮のような国で生き延びるには正しいのかもしれませんが、民主主義国とは「お互いの人権を守る国」と同義語であると思っております。民主主義国での義務教育の場で第一に大切なのは、「お互いの人権を尊敬しながら集団生活を送る術を訓練すること」にあるのではいでしょうか。
 集団生活を維持する手段として「自治」という手段があり、ある少数の生徒が不都合なことをしていたら、クラス会でそのことを討議し、クラスとしてその生徒たちに制裁を下すことが「自治」の第一歩で、これを教育環境の下で訓練するためのクラス会であり、さらに全体としての生徒会があるわけです。
 目を国外に向けると、状況は一変します。 7月14日のパリ祭は、実はフランス革命記念日です。先進諸国は専制君主から市民の人権を守る、いわゆる市民革命をそれぞれ経験しています。
 途上国を見ると、第2次大戦後にアジア諸国は植民地支配からの独立戦争に勝利し、その後アフリカ諸国が独立戦争に勝利しています。市民革命や独立戦争は、人権回復の戦いでもあるので、これらの戦争に勝利した国では、義務教育の場で、戦死した人たちに感謝することを教えるとともに、人権は一番大事なもので、時には命を懸けても自分たちで守るべきものとして教えられます。
 国際会議や貿易取引の場で、「自分の命が一番大事」と教えられ育った日本代表と、「民族の独立と自分たちの主権は命を懸けて守るべき」と教えられて育った外国代表とでは、互角の交渉は期待できません。最近、日本の地位がズルズル後退しているように感じてなりませんが、この教育の違いから来るものではないことを祈るばかりです。
 世界中でオペラ「蝶々夫人」が好評を得て公演されているのは、プッチーニの音楽が素晴らしいだけでなく、ラストシーンの「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」という銘の入った父の遺品の刀で、1人静かに死んでいくという、蝶々夫人の誇り高い生き方が世界の観客の涙を誘うからだと思います。
 今回の中学生の自殺は、「自分の命が第一」「見て見ぬふりをする」を教える教育体制への抗議であり、命に代えて自分の名誉を守るためのものであったと筆者は感じ取り、ここに心からご冥福を祈ります(合掌)。
 この事件で、今の日本の義務教育の抱えている問題点が顕在化しました。民主主義国として義務教育の目的を「お互いの人権を尊敬しながら集団生活を送る術を訓練すること」において、【B】の道を採って、法律を変え、組織を変え、人を育て教育制度の大変換がなされることを切に願っています。


少しだけ、余談です。
遺族は「二度と、このようなことが起きないように」と主張しています。
定番の言葉ですが、他の言葉が見つからないことも事実です。
いじめによる子供の自殺は、これが初めてなのでしょうか。
いいえ。
何度も、何百回も、何千回も、いえ、何万回も繰り返されています。
どれほどの遺族が、同じ言葉を表明したことでしょう。
何かが、変わったのですか。
何も変わっていませんよね。
死んだ子供は戻ってきません。
それでも、遺族としては、せめて、自分の子供の死が再発防止に役立てば、犬死ではなかったと納得したいのです。
でも、その願いは叶えられたことはありませんでした。
それは、なぜ、なのでしょうか。
大人達が、子供の命より自分の利益を優先したからではないでしょうか。
国家運営の現状を見てください。権力者は、率先して嘘をつき、国民を騙して、国民に痛みを求めています。子供達に「いじめ」をするなとは言えない状態です。
現在の社会システムがボロボロになっていることで、子供達の心は痛めつけられています。しかし、大人達は、その壊れている社会システムにしがみついているのです。
他人や弱者のことよりも、先ず、自分のことが大事です。この「自分さえよければ」という生き方は、利益を多く得ている人達に顕著に現れています。教育委員会という組織そのものの存在意義も疑問視されていますが、その組織がなくなれば利権を失う人がいるので廃止することもできません。職業別の年収ランキングを見れば、学校の教師は上位にランクインしています。誰も、現在の心地よい立場を奪われたくないと思っています。
現状維持が、一番望ましい事なのですから、隠蔽も欺瞞も自分にとっては正当な理由だと納得してしまうのです。一般企業の場合であれば、倒産という現実から逃れることはできませんので、自浄作用は自然に起きます。公務員の場合は、その自浄作用がありません。
遺族が戦っている相手は、公務員なのです。公務員に自浄作用や正義が期待できないのが現実なのです。
「二度と・・・・・」という言葉が、いかに虚しいものなのか。それでも、自分の死んだ子供のために、そして、自分自身のために、その事を言う以外に戦う手段や主張はないのが現実なのです。
国が、社会が、人間の心が壊れているのです。
昔、日本には「恥の文化」というものがありました。
「自分さえよければ」は恥ずかしくて、許されない事なのだという文化を構築しなければいけないのかもしれません。世界環境も社会環境も昔とは全く違いますので、復古することはできません。人間は、新しく構築することでしかシステムを作ることはできないのです。でも、文化の形成には何世紀もの時間が必要になります。
このことは、現在の日本では「自分さえよければ」を追求する人達が時代に乗っている人達なのだということです。高邁な理屈を並べることには何の意味もありません。ひたすら、自分の利益を追求することが生きることになるのです。たとえ、それが人間として悲しいほどの堕落だとしても、現実に逆らっては生きていけないのです。
これって、とても悲しいことだと思いませんか。
私達は、いつから、人間を、やめてしまったのでしょう。


2012-07-19



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