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歴史と伝統と文化 [評論]



5月9日、ロシアの対独戦勝記念日という祝日に、軍事パレードが行われました。
世界が注目したのは、プーチン大統領の演説です。
ほぼ、去年と同じ約10分間、ロシアが正しいことをやっているという主張と、国内・国外の同志の賛同を得たいという願いが込められていたと思います。
私には違和感だらけの演説でしたが、ロシア国民は「ふむ、ふむ」と聞いていたのかもしれません。日本国民の皆さんも、大ぶろしきを広げている岸田さんの話を「ふむ、ふむ」と聞いているのですから、ロシア国民も同じかもしれません。
南シナ海で悪逆非道の振舞をする中国が、「国際法を遵守せよ」と言ったり、性的暴行で訴えられ、「恥ずべき行為があった」という有罪判決を受けたトランプが「恥ずべき評決だ」と言ったり、アメリカを筆頭に、中国、ロシア、北朝鮮、イランは、「少なくとも、お前が、言うな」ということを平気で、口にします。
今回の演説でも、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことは棚に上げて、国際秩序を壊しているのは西側であり、攻撃を受けているのはロシアであり、自分達(ウクライナも含む)は被害者であると言っています。

今、プーチンが一番欲しいと願っているものが、ロシア国民の愛国心なのだと思います。自ら進んで戦死してくれる国民を熱望しています。
それが、演説の中の「われわれは、祖国への愛、信仰と伝統的価値観、先祖代々の慣習、すべての民族と文化への敬意を決して捨てない」という部分だと思います。
「あれっ」
どこかで似たような言葉を聞いたことがあります。
「歴史と伝統、民族と文化」
日本でも、右側の皆さんが、よく口にする言葉です。
念のためですが、私は左翼ではありません。中国、ロシア、北朝鮮のような国に住みたいという願望は、全くありません。
でも、「歴史と伝統、民族と文化」至上の社会で生きたいとも思いません。
私は、民主主義の社会で生活したいと願っています。

「歴史と伝統と文化」と言われると、どことなく反論出来ないニュアンスがあって、正面切って反対し辛いものがあります。
でも、「歴史って、何ですか」「伝統って、何ですか」「文化って、何ですか」と問うてみると、とても曖昧な答えしかありません。
権力闘争をしてきたのが歴史であり、日本だけではなく、どこの国でも同じことが歴史になっています。国の歴史とは、権力闘争の歴史そのものです。
権力闘争の中では、民は、常に、被害者でした。
ですから、民にとっての歴史は、被害の歴史なのです。民は、富を奪われ、命を奪われてきたのです。
そして、その長い歴史が、伝統と呼ばれているのです。
本来であれば、歴史と伝統は、民にとって、負の遺産に過ぎません。
でも、権力者は、歴史を、伝統を、文化を、「大切にしろ」と言います。
それを、私達は「ふむ、ふむ」と頷いていていいのでしょうか。
伝統には、いろいろな側面があり、伝統工芸も伝統ですが、権力者が支配する社会も伝統なのです。土下座ですら、文化だと思います。
この2000年間、私達「民」は、常に、虐げられてきました。それが私達の「歴史と伝統」だと思います。優雅な生活を享受してきたのは、天皇であり、貴族であり、武士であり、軍人でした。敗戦後、その後を継いだのが自民党です。
私達庶民にとって「歴史と伝統」は、ほんとに価値のあるものなのでしょうか。
違うと思います。
でも、この「歴史と伝統」という言葉は、今でも大きな影響力を持っています。
この「歴史と伝統」という言葉を具体的な言葉に言い換えると、「お上」と「下々」という階級制度になります。そして、21世紀の今でも、私達の社会の根底にあるのは、「お上」と「下々」という階級制度です。
何度も書きますが、私達の国は民主国家ではありません。
民主主義風王政並立封建制度の国です。
天皇制と封建制を1つの鍋に入れ、そこへ風味として民主主義を入れた、ごった煮が、この国の国体です。その始まりは明治ですが、明治維新では、意識して、そういう国体を作ったのでしょう。当初は、そうするしかなかったのだと思いますが、それが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で今でも続いています。その根底にあるのは、今でも、「お上」と「下々」です。
2000年間、私達庶民は、ずっと「下々」でしたから、もう、「下々」体質が体に染みついています。私達は、意識する前に「下々」なのです。

本気で「民主主義とは」という言葉の定義をしたら、現実は、辻褄の合わないことばかりだと思います。
その一例を憲法で見てみます。
岸田総理は、憲法改正をすると言っています。
国会の憲法審査会で議論がされています。
ところが、そこで議論している国会議員は、誰一人、「民主主義とは」という定義を持っていないのです。それは、民主主義の定義がなく、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で済むからです。もちろん、「国とは、国会議員とは」という言葉の定義も持っていません。
もちろん、国体が「民主主義風王政並立封建制度」であろうと、私達が「下々」であろうと、社会が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で成り立っていようと、私達が豊かな生活が出来るのであれば、構いません。
でも、今は、そうなっていません。
「お上」は、私達庶民が必死で稼いだカネをピンハネしています。時間の問題で、六公四民になります。
生活が苦しくて、子供の食費を削らなければならない家庭が数多く存在しています。
「子ども食堂」は増えるばかりです。
子供を持てない人が増え続けています。
苦しい生活を強いられているのは、全部、国民なのです。
「国民が主権者」という謳い文句のある民主主義ですが、「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、ただの謳い文句で、いいのでしょうか。国会議員の子供が、1日1食しか食べていないという話は聞いたことがありません。
80年ほど遅れましたが、先ずは、歴史と伝統を棚に上げて、「民主主義とは」の定義をするべきだと思います。
今、この国は、ずるずると、ぐずぐずの状態のまま、地獄へ向かって滑り落ちて行こうとしています。しかし、足元が「なあ、なあ」「まあ、まあ」で、まさに「ぐずぐず状態」のままですから、踏みとどまることが出来ません。
足は、硬い大地の上で踏ん張らなければ、力が出ません。
その大地になれるのが、言葉の定義だと思います。
では、憲法審査会は何を議論しているのでしょう。
現行憲法のどこを手直しするかを議論しています。民主主義国の憲法になっていないことに気付いていないから、手直しでいいと思っているのです。
民主主義国の憲法の第一条が、どうして天皇条項なのかについて、なぜ、議論しないのですか。
それは、日本が民主主義国ではないからです。
どうして、日本は、民主主義国ではないのですか。
それは、自民党が権力を握っているからです。
では、どうして、自民党は、民主主義に反対なのですか。
それは、天皇制こそが、日本の国体だと思っているからです。
ただ、自民党は、その事を公表していません。
そんなことをすれば、国民の反発を買うからです。選挙に不利になることはできません。
でも、ほとんどの自民党議員が日本会議のメンバーなのですから、関係の深い日本会議の目的を見ればわかります。
ここで、日本会議に関する記事を転載します。
彼等の目的は。
・美しい伝統の国柄を明日の日本へ(皇室を中心に、同じ歴史、文化、伝統を共有という一体感)
・新しい時代にふさわしい新憲法を(日本の歴史、伝統に基づいた憲法)
・国の名誉と国民の命を守る政治を(歴史認識問題と危機管理)
・日本の感性をはぐくむ教育の創造を(愛国心や道徳心、公共心を大切にする教育)
・国の安全を高め世界への平和貢献を(国を守る気概と集団的自衛権の行使)
・共存共栄の心でむすぶ世界との友好を
だそうです。
これが、自民党と日本会議の理想の国体です。美しい言葉の羅列ですが、その裏側にあるのは権力と利権です。国民生活は、二の次三の次です。
つまり、日本は、自民党が政権を持っている限り、民主主義国へはなりません。
では、自民党以外の政党なら、民主主義国へなれるのでしょうか。
いいえ、そうはなりません。
それは、どの政党も、民主主義の定義を持っていないからです。
間違ってはいますが、少なくとも、自民党は理想を持っています。他の政党には、それがありません。共産主義は論外ですから、共産党は除きました。
もしも、皆さんが、民主主義の国に住みたいのであれば、国民の生活を託せる政党は、1つもありません。
もちろん、皆さんが、天皇制の国や共産主義国に住みたいのであれば、別です。
民主主義国に住みたいと思っているのは、私の個人の願いにすぎません。
多分、皆さんは、そんなこと、考えたこともないのではないかと思います。
それは、「なあ、なあ」「まあ、まあ」が心地いいからです。
でも、このまま「なあ、なあ」「まあ、まあ」を続ければ、この国は壊れます。
壊れてもいい、飢えてもいい、のであれば、皆さんの選択を否定する権利は、私にはありません。「どうぞ、ご自由に」と言うだけです。
それでいいのですか。
子供達の未来を奪ってしまっていいのですか。
いや、既に、未来を諦めてしまった子供達が大勢います。
私達大人が、そういう社会を作ってしまったのです。
大人として、いかがなものかと思います。
国民の皆さん一人一人に責任があると思います。


2023-06-02



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