SSブログ

自動先送り装置 [評論]



約束を破って評論を書きました。
それは、この国の中が、余りにも程度の低い話題で溢れかえっているからです。
自民党や民主党の程度の低さ、山口県民の無関心、新聞社の堕落。
2chは、箸にも棒にもかからない、劣悪な異端であって欲しいのに、納得してしまう書き込みがあるのです。これは、国の方が箸にも棒にもかからない劣悪な状況なのではないでしょうか。これで、いいのでしょうか。
この逆転現象は、末期症状とは言え、ひどすぎます。
末期症状に、前篇・中編・後篇があるとすれば、今は中編の末期症状であり、これから先も、この症状は深刻なものになって行きます。
何度、警告をしても無駄だとはわかっていますが、歴史の記述の一つとして残す意味はあるのではないかと思い、記事紹介以外の文を書きました。
この国は何故崩壊したのか。やるべきことはなかったのか。どの時点なら引き返すことができたのか。この崩壊の過程を書くことは、歴史そのものだと思います。日本人は、誰一人、気がつかなかったという汚名だけは返上できるかもしれません。
国が壊れた時、国民の多くは被害者面をすると思われますが、どうかそんな不様な民族にはならないでください。国民は、間違いなく主犯です。

今日は、憲法の話から始めます。
皆さんも、学生の頃、一度くらいは憲法の条文を読んだ経験があると思います。
それでも、仕事上での必要に迫られていない人は、読み返した体験はないのではないでしょうか。憲法を片手に日常生活をする人はいないと思います。私も、皆さんと同じです。私の場合、物語を書く都合で、刑法は読むことがあっても、憲法は読みません。
他国のことは知りませんが、日本国民にとって憲法はとても遠い場所にあるものだと感じています。
そこで。
今日も、夢のような話をしてみたいと思います。
その前に、現在の日本国憲法の成り立ちを簡単に見てみましょう。それは、この国の民主主義がどんな民主主義なのかを知るためです。
現在の日本国憲法を読んでみると、戦勝国であったアメリカ軍の二つの意図と願望が明確に書かれていると思います。
憲法が発効されたのは1947年の5月ですから、65年前です。
詳しい経緯は多くの書籍が出版されていますので、それを読んでください。
アメリカ軍の意図、その一つは。
アメリカ軍は、二度と日本が軍事力を増強する国になって欲しくなかった。極東の小さな島国の黄色い猿共が、アメリカ空軍の戦闘機をバタバタと撃墜するような戦闘機を開発するとは考えてもいなかったのです。日露戦争でも、無敵艦隊と言われたバルチック艦隊を殲滅した前科があります。ロシアでは、日本人をマカーキ(東アジア原産の小さな猿)と呼んでいました。当時は、猿にしか見えない黄色人種が武力を持つことは許せませんでした。アメリカ人の基本認識として、日本人は侮蔑語のジャップそのものでした。無言で迫って来るような不気味さもあったのでしょう。
アメリカ軍の最重要占領政策は、日本の軍事力を限りなくゼロにすることでした。
それが、戦争放棄の宣言という形になったのです。
ところが、占領してみると、日本人は従順で、あらゆる日本人がアメリカに尻尾を振ってくれたのです。資本主義と共産主義のイデオロギー対立が鮮明になり、朝鮮戦争が始まり、アメリカ軍は軍事的な要請から日本の軍備再編の必要に迫られました。それでも、独自に軍備の開発を許す決断はできませんでした。そこで、アメリカの軍需産業のロビー活動に乗る形で武器の供与という方法で軍備の再編が始まりました。アメリカ製の武器で軍備を再編すれば、日本が暴走しても武器供与を絶てば済むことだったからです。その判断は正しく、その後、日本はアメリカの軍需産業にとっては欠くことのできない顧客になりました。アメリカによるアメリカのための占領政策は大成功したのです。今では、あの憲法制定時の意図は、遠い過去になりました。アメリカ軍も、まさか、ここまであの憲法が生き残るとは思ってもいなかったことでしょう。
もう一つは。
日本という国に、民主主義という器を与えることでした。それは、資本主義と対極にある共産主義の侵攻を押さえる意味が大きかったのでしょう。国民の誰一人として知らない国民主権主義が、誰一人理解しないまま、日本の国体になったのです。国民主権を謳う条文が列挙され、天皇制と折り合いを付け、実体の伴わない文字だけが並べられました。アメリカ軍で憲法作成を担当した人達が形を重視したのは、自国の憲法ではないことと、憲法に魂を入れる仕事はその国の国民の仕事だと思っていたためではないかとも考えられます。
しかし。
日本国憲法は、触れば大爆発を引き起こす爆弾のように扱われ、それから65年過ぎた現在でも何ら変わらないまま生き延びています。残念ですが、憲法の条文に魂を入れる作業は一切行われませんでした。逆にアンタッチャブルの状態の方が権力者にとって都合のよいことも判明しました。国民が本気で国民主権を実践すれば、官僚政治にとって様々な不都合が生じることがわかっているからです。その結果、隠蔽と嘘と騙しが公然と行われる国になったのです。今や、国民主権は官僚主権にすり替えられてしまいました。政治家が官僚の下部組織になってしまった今、官僚の行動を止めることが出来る人間はこの国にはいません。政治家は選挙が怖い。でも官僚は、何も怖いものがありません。
さて。
ここまでの経緯は、従来の憲法解説から、それほど逸脱したものではないと思っていますが、ご批判を受ける部分もあるかもしれません。でも、この先の話は大きな非難を浴びる覚悟で書かねばなりません。

最初の夢物語を書きます。
それは、庶民が憲法を作ることです。
ただし、日本が崩壊しないという前提です。この前提には、かなり無理がありますが、お許しください。
憲法改正には、それなりに時間が必要になります。15年後に崩壊するのであれば、憲法が古くても新しくても関係ない話ですから、そもそも憲法改正の話をすること自体が矛盾しているのです。でも、これは現状分析をするための材料の一つだと考えてください。
政党や国会や一部の新聞社から、改憲の意見が出されています。
具体的な草案を見たわけではありませんので、石田の解釈が筋違いなものである可能性も否定できません。でも、それでも、国民のための憲法が作られるのではないという確信は揺らぎません。権力者による権力者のための憲法ができることは火を見るより明らかだと思っているからです。
ただ、念のために申し上げておきますが、改憲そのものに反対しているのではありません。9条を死守すると言って憲法改正に反対し続けている社民党や共産党のマスターベーションに付き合うつもりは全くないのです。憲法に魂を入れないという自民党の愚行を助長させた責任は、社民党や共産党にもあります。
選挙制度さえあれば、民主主義だと思い込んでいる人達が多すぎませんか。
民主主義という器はあったのですから、魂を入れることは出来たのですが、権力者は本能的に「民には知らしむべからず」を知っています。社民党(昔は社会党)の反対を理由に、民主主義を民主主義にしなかったのは自民党です。結党当時の自民党は、自国の憲法を作る使命は政治家にあると考えていたのかもしれませんが、改憲という言葉だけしか引き継がれなかったのです。ですから、今の自民党が改憲に熱心なのは、自分達にとって都合のよい憲法を作るためです。もちろん、官僚の指導のもとに作られる草案ですから、官僚の利益は守られます。
私達日本人には、民主主義は無理なのかもしれません。もし、そうであれば、最後の15年くらいはポピュリズムでもいいような気がします。ポピュリズムは衆愚政治という言葉に翻訳されるほど人気のないシステムですが、そうなのでしょうか。
私達は勘違いをしています。私達は民主主義を実践しませんでした。ポピュリズムを否定する人達は、そのことを忘れて、ポピュリズムと民主主義とを比較しています。それは、違います。比較するのであれば、現在の官僚利権主義と比較しなければなりません。どっちみち潰れてしまうのであれば、自分達の判断が間違っていたために破局を迎える方が諦めがつくのではないでしょうか。山口県民だって、信頼する「お上」に裏切られて地獄に堕ちるよりは、よほど気分が楽だと思いませんか。

ここからは、荒唐無稽な提案です。
憲法コンペティションを提案したいと思います。日本国民であれば誰でも参加できるコンペです。前文だけでも、条文つきでもかまいません。
日本の進むべき道は二つあります。国民主権主義か官僚独裁主義かの二つです。
今は、国民主権主義という器の中に、官僚独裁主義という中身が入っていることが問題なのですから、器と中身を同じにするだけでも大きな前進だと思います。
コンペに応募された憲法草案を国民投票にかけて、国会が承認すればいいのです。
国とは何かを知らずに国益という言葉を使う政治家と、法律知識を持たない庶民が憲法を作ることの間に大きな差があるとも思えません。また、庶民が憲法草案を作っても許される程度に国会議員のレベルは充分低いと思います。
しかし、私の個人的な予測では、官僚独裁主義が選ばれるものと思います。山口県民に代表される元祖日本人の願いは、自分が何もしないでも済むシステムです。
それでも、いろいろな憲法草案に触れるということは、この国の国民にとっては大切な事です。今度は自分達が選んだシステムですから、何かあっても覚悟はできます。アメリカ軍から支給された民主主義では、自分達の血や肉にはなりませんでした。自分の手で選択することが大切なのではありませんか。
憲法コンペがあれば、私も必死で考えてみたいと思います。
改憲論議があると、戦争放棄と9条が取り上げられますが、それは、憲法論議を矮小化しているに過ぎません。私達は、よく幹と枝の区別を忘れてしまいます。戦争も、戦争放棄も、国の目的を実現しようとする一本の「枝」に過ぎません。
そうではなくて、その国に住む人達が、住んでいてよかったと思える国にすることが「幹」にならなくてはならないのです。
それは、国とは何か、国民とは何か、民主主義とは何かを明確にしなければ何も見えてこないのです。憲法が六法全書の文字のままでは、国民の役には立たないのです。
2000年間、放置されてきた利権の問題も決めなくてはなりません。
どんな社会でも、公平・公正は実現できませんが、近づく努力が出来るシステムが必要だと思われます。少なくとも、官僚や政治家に手厚い国家は卒業する必要があります。
憲法はあるべき国の姿を示すものになると思います。
もちろん、石田の憲法草案が選ばれる可能性はゼロでしょう。
それは、責任という重い荷物を国民が背負わなければならないからです。
もちろん、これは、夢です。
国民は、自分が憲法草案を作ることなど、夢にも思っていないと思います。
でも、結構、楽しいかもしれませんよ。
俄か法学者が溢れ、憲法の書き方という本が売りだされるかもしれません。経済効果だって期待できるのではありませんか。
あなた、今、笑いましたよね。
きっと、皆さんは、馬鹿馬鹿しいと思うことでしょう。
その通りです。これは愚かな妄想に過ぎません。憲法コンペなどあり得ない話です。
でも、民主主義が何かということを知らない政治家が法案を作るのですから、憲法改正が行われたとしても、中途半端なものにしかなりませんし、国が変わることもありません。そうであれば、国民が作った憲法でもいいのではないかと思うのです。
最初に荒唐無稽な提案だと断って、憲法コンペのことを書きましたが、このブログでは、世間一般で語られていることや説明されている事とは、少し違うことが語られます。それは、このブログにはカネが絡んでいないからなのです。職業評論家の方達は、書くことで収入を得て、生活しています。書けなくなれば、生活ができません。従って体制に迎合することは当然の事なのです。時々、言論の自由を話題にするメディアがありますが、あれはポーズに過ぎません。実際に言論の自由がないことは、メディアが一番よく知っています。中国のようにあからさまな言論統制は行われていないと国民は信じているようですが、日本にも権力者はいるのですから、権力を守るための言論統制は不可欠なのです。
石田のブログを読んだ方は、「変な奴だ」「異常だ」「病気だろう」と思う方もいるでしょう。
それは、一般的な評論に慣れているからです。長い期間、その環境で生きてきましたので、それが真実なのだと思い込むことは致し方のない事です。
でも、敢えて、現状追認を止めてみませんか。現状追認は、袋小路への入り口なのです。
もちろん、石田の主張が絶対に正しい、などという気は全くありません。
しかし、石田の荒唐無稽な話を全否定できない何かを、皆さんは感じている筈です。
それが、直感なのです。
あなたの直感は、既にこの国の崩壊を認識しているのです。
最近は、「この国はヤバイ」といった論調の書籍や雑誌が増えていることも、その証拠と言えるでしょう。自分の直感に気付き、「もしかして」と思い始めた人がいるのです。
しかし、まだまだ少数意見ですし、多くの国民は醒めた目で見ています。山口県の皆さんが、このことに気付くまでには、気の遠くなるような時間が必要です。新聞の一面に「危ない」「やばい」という記事が連続して掲載されるようになれば、山口県民でも気付くかもしれませんが、その時は、もう、崩壊前夜です。
まだ漠然としていて、形にはなっていませんが、この先、少しずつでも、人々の不安感や焦燥感の理由が、次第に明らかになっていくものと思います。いつか、レベル9に行き着く人も出てくるかもしれません。
ただ、石田の警告ですら手遅れなのですから、これから先に出される警告は明らかに手遅れです。解決策がないとは言いませんが、途方もなく時間がかかります。その事に気付いた時が、何の手段もないことを知った時が、崩壊の時なのかもしれません。
一日、一日、この国は壊れていってます。この先にあるものが見えてしまった人間から見ると、このことに気付かない人達がいることが不思議でなりません。知っているのに知らんぷりをしている人達には軽蔑にのしをつけて贈ります。この国にとって、かなり大きな痛手は、ジャーナリスト達が利権集団の仲間入りをしてしまって、豚になってしまった事です。特に、新聞社の堕落は目を覆うものがあります。中国共産党の広報局になっている中国の新聞社と変わりがありません。いや、中国のジャーナリストは国家権力の強大な圧力の中から生み出されたものですが、日本の場合は、自分で勝手に魂を売ってしまったのです。これは、中国のジャーナリストより、よほど劣悪だと思います。これでは、山口県民が「お上」信じたまま地獄に堕ちてしまいます。彼等は、自分の頭では考えられないのですから、伝えてあげなくてはなりません。それが、新聞社の役割です。
人間は、何もせずに浮遊しているだけだと、感性も想像力も失うようです。
生物学的には弱者である人類がここまで生き延びることができたのは、想像力によるものだと思っています。その想像力を失った人達にでも未来があると思うのは、あまりにも「なめた話」ではないでしょうか。自然は、それほど寛容ではありません。



枝野大臣の発言として、原発ゼロにすれば100兆円必要になると伝えられています。電気代も現在の2倍になるそうです。現在でも、日本の電気料金は世界標準の2倍ですから、世界標準の4倍もの電気代に対して、国民はどんな反応をするのでしょうか。今回も、また、何もしないのでしょうか。
7/28に、利権集団が計画している電気料金の値上げによる新しい利権の構築に関して書きましたが、着実に前進していることがわかります。経産省が利権を手放さない姿勢ははっきりとしています。何よりも、この暴挙が誰にも止められないことが怖いです。官僚の思うがまま、官僚に怖いものなしです。
国が崩壊すれば、電気代など関係なくなりますので、どちらでもいいようなものですが、「なあに、気がつきゃしないよ」と薄笑いを浮かべている官僚の姿を想像すると、ちょっと抵抗を感じるのです。
また、来年度の予算が史上最高額を更新するというニュースもあります。4年連続で最高額の更新をすることになります。このツケは、全部、国民の皆さんに回ってきます。喜んでいるのは利権集団だけです。
ヘラヘラ笑っている山口県民の皆さん、ほんとに大丈夫なんですか。
この国には、政治家がいません、ジャーナリストがいません、国民すらいません。「何もしない」人達がいるだけです。官僚の暴挙を阻止する仕組みもありません。
やはり、暴力革命しか選択肢はないのでしょうか。でも、私一人で暴力革命なんて出来ませんし、困りました。



ECB(EUの中央銀行)が、国債の無制限買い入れを表明しました。
無制限とは言いましたが、無条件とは言っていません。厳しい条件を履行することが求められますので、無制限に買い入れが出来るのかどうか疑問です。ただ、来る所まで来たなという印象はあります。
金融政策に出来ることは、時間を稼ぐことだけです。問題を解決することはできません。でも、視野を狭くすると、この金融政策は魅力的なものに見えてしまうのです。目先の金で困っている人は、普通なら手を出さない金融に手を出してしまう。中小企業の社長さんが借金漬けになって夜逃げするのも、目先の金に目が眩むからなのです。ECBのこの金融政策は、欧州危機が終末に近づいていることを示していると思われます。
ある専門家は「馬鹿げている。自分の頭に銃口を向けて、撃つぞと言って、何か解決するとでも思っているのだろうか」と話したそうです。
これを、日本に置き換えてみますと、日銀が日本国債を無制限で買い入れることになります。何度も書きましたが、実体のない貨幣を国債に投入すれば、経済は成り立ちません。それは偽物の経済ですから、必ず副作用が出て、傷を深くして、どこかで破綻するだけです。経済には自立平衡機能があります。多少の変動はあっても、最終的には実体経済に近づくのです。作り出した富に応じた紙幣は価値がありますが、ただ印刷しただけの紙幣には何の価値もありません。これは、経済活動の中に偽札が混ざっていることになるのです。
債務危機を解決する方法は、経済の高度成長か、国民が貧困を受け入れるかのどちらかしかありません。しかし、何度も書きますが、先進諸国には経済高度成長はありません。残されているのは、国民がどこまで貧困を受け入れることができるか、になります。これは、EUに限らず、日本にも言える事です。
担保もなしに借金は出来ません。これは、常識です。
では、国が借金をする時の担保は、何でしょう。
国民には知らされていないだけで、国の借金の担保は徴税なのです。
と言うことは、債務金額に応じた増税は不可避です。国民の収入も資産も、借金の担保になっているのです。いつも、最終責任を取るのは国民だと書いてきましたが、国民は貧困という形で責任を取らされることになります。世界一の債務金額を持った日本には、世界一の貧困が必要なのです。
そして、貧困が限界を超えた時、そこにあるのは貧困ではなく、死なのです。



自民党総裁選に一言。
自民党には危機感が感じられません。これは、山口県民のせいでもあるので、国民も威張って言える立場ではありませんが、そこはご容赦いただきたいと思います。
立候補予定者を見てみましょう。
谷垣氏・・・何もしなかった、何も出来なかった人です。
石原氏・・・胡麻擦りと七光だけで政界を泳いでいる政治屋です。
長老のための政治は出来るかもしれませんが、国民のためにはなりません。
安部氏・・・一度逃げ出した男が、なぜ、手を上げているのか。不思議です。
まだ、お坊ちゃんのままなのでしょう。
石破氏・・・軍事オタクだけでは総理になれません。逆に危険です。
国に必要なものは経済力です。これは日本に限ったことではありません。
町村氏・・・論評に値しません。
林氏・・・・論評に値しません。
自民党に真の危機感があれば、小泉進次郎を担ぎあげるしかありません。小泉氏は未知数ですから、博打になりますが、危機に際しては博打も打たねばならないものです。
小泉氏がどうしても承知しない場合は、せめて河野太郎くらいは候補者にしなければなりませんが、その空気もないのでしょうか。
自民党には、何の反省もありません。日本をこのような危機に堕とした主犯は自民党なのです。その自覚もなく、まだ、彼等は同じ事をしようとしています。自民党は変わらなければなりません。ま、変われないのは、山口県民のせいですから、代わりに謝っておきます。でも、大人なのですから、自分の足で立ってもらいたいものです。



尖閣購入問題が二転三転しています。
野田政権の「うろたえ」が事態を複雑にしているだけですが、この問題でも根っ子が忘れ去られています。
尖閣問題がこじれた時、日本は中国に対して実力行使ができるのか。
それは、開戦の覚悟があるのかという問題なのです。
「そんなことには、ならないだろう」と日本人は考えています。
外交努力で事態を収拾すべきだと誰もが言いますし、それが出来るとも思っています。
とんでもないことです。
中国は、尖閣が中国の確信的利益だと宣言しています。それは、チベットやウイグルと同じ扱いになるということです。中国にとって、13億人の人民を養っていくためには、莫大な量の資源を必要としています。その資源を確保出来なかった時は、国家転覆が起きます。資源の確保のためなら何でもするでしょう。彼等も必死なのです。
それが中国の歴史です。
尖閣領域には天然ガスだけではなく、次世代のエネルギーと言われているメタンハイドレードもあります。それを中国が放棄すると考える根拠はどこにあるのでしようか。
そもそも、中国と外交交渉など出来ません。彼等の外交は常に恫喝外交です。彼等が譲歩する時は、譲歩した方が国益になる場合に限られています。
誠意を持って対すれば、相手も誠意で応じてくれると信じているのは日本人だけです。そんな精神構造は世界では通用しません。
ある日(年内だと言う人もいます)、中国漁船団が500隻で尖閣を囲み、10隻の漁船から中国人が尖閣へ上陸したとします。武器を携帯するかどうかはわかりませんが、テントも食料も飲料水も燃料も持参しています。武力を使いませんので、海上保安庁の巡視船では、500隻の漁船を阻止することは不可能です。これは、海上自衛隊が出動しても同じです。
外交交渉が始まります。双方は自国の領土だと主張します。
外交交渉は、中国にとっては時間稼ぎに過ぎません。彼等は、建築資材を送り込み、簡単な船着き場を作ります。船着き場が出来れば、大量の資材を送り込みます。中国本土と尖閣の間を大量の船舶が往来することになります。
さて、日本政府は、どうするのでしょう。
相手が武器を持っていたら、どのような対応をするのでしょう。
海上保安官や警察官が上陸出来るのでしょうか。
実力排除が可能なのでしょうか。
発砲許可を出せる総理大臣がいるのでしょうか。
いいえ。
延々と外交交渉が続きます。
中国の実効支配は時間とともに確実なものになっていきます。
つまり。
国が購入しても、東京都が購入しても、何も解決しないのです。
中国は、中国のスケジュールに従って、尖閣を実効支配するだけでいいのです。
これが、領土問題の帰結です。力の強い方が勝つのです。
日本政府は、領土問題は存在しないと逃げまくっていますが、世界は笑っています。
尖閣も、竹島も、北方領土も、領土問題そのものです。
領土問題に対する日本政府の姿勢は「何もしない」ことです。
北方領土も竹島も奪われてしまいました。尖閣が奪われるのは、時間の問題です。
これは、国の姿勢の問題であり、国内で誰が所有するのかという問題ではありません。
この問題の根っ子は、「国とは何か」を曖昧にしてきたことなのです。
誤解を受けると困りますので書きますが、「戦争をしろ」と言っているのではありません。基本理念を持ち、国力を高めることが必要だと思っているのです。世界が「日本を怒らせたら損だ」と思ってもらえるような国にならなければなりません。
もっとも、今更、手遅れです。以前にも書きましたが、尖閣だけではなく沖縄県全域を中国に売ることを考えた方が現実的だと思います。そうすれば、この国でも5年くらいは長生きできるかもしれません。

これまでも、数々の問題の評論を書きましたが、どの問題でも本質から外れた場所で多くの人達が騒いでいます。よくも、ここまで本質を外せるものだと感心します。意識的なのか、無意識なのかは別にして、厳しい議論から逃げたがっているとしか思えません。これだけ逃げていたら、国が国として機能するとは思えません。問題は何も解決しませんから、全てが先送りされてしまいます。まるで、日本国土の地下深くに、自動先送り装置があるように見えます。そう考えてみると、過去にも方向転換できるチャンスは山のようにあったのだと思います。ただただ、逃げていただけの67年間だったのかもしれません。
そして、これからも。


2012-09-08



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0