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時代という魔物 [文学系]



これは、読書感想文です。
誰でもそうなのかもしれませんが、ある本を読みますと、その作家の本ばかり読む癖があります。今は吉村昭氏の本です。
吉村明氏の「破獄」を読み、私はノンフィクションを書いてみたかったのだということに気がつきました。ところが、私には、「破獄」のような小説は書けません。
日本崩壊論を書いたのは、ノンフィクションが書きたくても書けない自分を納得させるための代替行動だったようです。反省すべきことかもしれません。

読まれた方も多いと思いますが、「破獄」は無期懲役刑が確定している囚人の話です。
青森刑務所、秋田刑務所、網走刑務所、そして札幌刑務所。四回も脱獄を成功させた、ある男の物語です。時代は昭和11年から昭和22年までの10年間です。主人公はその後、府中刑務所で刑期を終え、釈放されました。吉村明氏はノンフィクション作家だと思っていますが、記録文学だと捉えている方もいるようです。
語り手は、全編にわたって青森、秋田、網走、札幌、府中の刑務官です。
物語の半分は時代背景に費やされていますので、刑務所という特別な場所から見た戦前、戦中、戦後の昭和史でもあります。囚人を主人公とした物語としては成功した作品とは思いませんが、ノンフィクションの部分は秀逸だと感じました。そこに、この本の存在価値があります。
学校の社会科で勉強する現代史は、ほとんど項目だけの歴史です。この小説にはその現代史の一面が書きこまれているような気がしました。
若者の中には、日本とアメリカが戦争していたことを知らない人もいるようですが、私達は日本の現代史を社会科の授業とは別のカリキュラムで勉強すべきではないでしょうか。
軍国主義、戦争、空襲、沖縄戦、広島・長崎の原爆、敗戦、そして占領。300万人以上の人命を失った事実に対して、我々は無関心が過ぎるのではないかと危惧します。戦中から戦後にかけての食糧難の時代には、栄養失調が原因で亡くなられた方が大勢いました。誰もが空腹に苦しめられました。でも、国民の記憶からは消えようとしています。
為政者のミスリードで悲惨な目に会った庶民は、間違いなく犠牲者でした。昭和史を正しく認識することが、現在の、そして未来の日本には是非とも必要なことだと思います。
この平成という時代も、為政者のミスリードにより地獄へと突き進んでいます。
昭和史を学べば、人間とは、何と愚かな生き物なのだろうと感じずにはおられません。その愚かさから逃れるヒントは我々の中に、我々の歴史の中にあるように思います。
この「破獄」という小説には、なぜ日本が戦争に突入してしまったのか、については書かれていませんでしたが、結果として、国民が悲惨な生活を強いられたことは書かれています。言葉だけでも悲惨なのですから、実生活はさらに悲惨だったのでしょう。庶民に責任はあったのでしょうか。あるとすれば、無知だったという責任だと思います。
為政者のミスリードは戦争だけではありません。この先、日本が滅びるのは戦争によるものではありませんが、明らかに国家運営の失敗です。そこに必要とされているのは「勇気」だと思います。勇気の中でも一番難しい撤退する勇気だと思います。戦争でも、この先にある日本崩壊でも撤退する勇気があれば、民を守ることはできるのだと思います。国家にとって、その威信を守ることは不可欠ですが、それ以上に欠かせないのが、民を守る事です。そこが非常に曖昧になっているのですが、このことを抜きにしては、国家の存在理由は見出せません。第二次世界大戦では、結果的に民を守れませんでした。これは、為政者のミスリードだと思います。
ただ、当時の世界の潮流は覇権の時代でした。大きな潮流は人間の手では止めることはできません。また、単独の国がその潮流を止めることもできません。ですから、当時の日本が軍国主義に走ったことを、批判しても意味がありません。でも、どこかで引き返す勇気が必要だったとは思うのです。きっと、不様に見えるでしょう。でも、敢えてその勇気を持つことが求められていたのではないでしょうか。民を守ることが原点にあれば、可能だったように思います。これこそが、国益という言葉に相応しいと思います。
今の世界の潮流は格差社会です。世界中で格差是正の要求が出ていること。それがその証明です。現在も一歩引くことが求められています。
時代の潮流とは、恐ろしいものです。時代が変われば、なぜ、あの時、あんなことをしたのか不思議に思います。でも、我々はその時代という魔物の中に住んでいる訳ですから、それを見極めることは至難の業です。
日本人の中には、軍国主義反対を唱えていれば、過ちは繰り返されないと信じている人達がいます。それは、感性の貧しさです。人間はなんと愚かな存在なのでしょう。
国家運営の過ちが、多くの人命(日本人だけでなく他国の方も)を奪い、全国民に飢えの苦しみを与えました。これは、消すことのできない事実です。体験された方々の大半は亡くなられています。体験がなくても、人間には理性がある筈ですが、この理性というものは、余り役には立たないようです。
軍国主義であろうと、格差社会であろうと、国家運営の過ちだと認識すればいいのですが、それがなかなかできません。お上は、いつも自分達の過ちを認めようとしませんし、過ちだと指摘されることも嫌います。力づくで真実を曲げようとするために、益々過ちの中へとのめり込んでいってしまいます。その犠牲になるのは、いつでも私達国民だと相場が決まっているのも辛い事です。
これは、読書感想文です。日本崩壊論ではありません。
これ以上書くと、日本崩壊論に戻ってしまいますので、この辺でやめます。

小説の本文の最後に解説のページがあります。その解説者が「かつて文学者はアウトサイダーであり、社会にそむいた存在であった」と書いています。これが真実だとは断言しませんが、文学にはそういう側面はあると思います。久しぶりにアウトサイダーという言葉を目にしました。私も趣味で小説を書いていますが、自分はアウトサイダーという立場に立って書いているのだろうかと自問してしまいました。そして、アウトサイダーという言葉を懐かしいと感じたことに少し驚きました。大昔(高校生の頃)、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」を読んだことを思い出したのですが、いつの間にかその時の新鮮な感覚を失くしていたのかもしれない。人間界が不条理の坩堝だと、私に教えてくれたのはコリン・ウィルソンやカミュでした。人間が、絶望と希望で織られた細い糸の上を歩く危険な存在であることを教えてくれたのはニーチェでした。人間は、その宿命から逃れていませんし、これからも逃れることはできないでしょう。過去の歴史も、今、私達が作っている歴史も、そのことを証明しています。
アウトサイダーでなければ見えない景色もあります。ですから、アウトサイダーという認識を忘れかけていた自分は反省しなくてはならないと思いました。

吉村昭氏の作品は、まだ5冊しか読んでいません。
「破獄」と「漂流」と「羆嵐」と「冬の鷹」と「ポーツマスの旗」です。
私の小説のテーマは理不尽ですが、吉村氏の理不尽に比べると幼稚園児のような理不尽に思えて仕方がありません。可能な限り作り物を排除しようとする姿勢が、理不尽を際立たせるのかもしれません。
多分、同じ題材を私が書けば、作り物を山のように書いてしまいそうです。
「羆嵐」で人骨を噛み砕く場面がありますが、私に書けるかどうか。
妊婦を襲い、その胎児を食べる羆を、淡々と書く自信はありません。
文中、「腹、破らんでくれ」と羆に哀願するような叫び声がきこえた。と書かれています。
これは、私には書けません。
文中、羆撃ちの名人の話として、最初に食した人間が女の場合、羆は女ばかりを食するようになる、と書かれています。
想像だけで書かれたものではない重みがあると感じました。


2011-11-12



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